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くさかべ
2025-07-31 22:43:09
29499文字
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永遠まで歩いていく
いわほど3開催おめでとうございます!
天寿をまっとうして大往生したはずがなんでか幽霊になってしまった公爵がモンドからフォンテーヌまで徒歩で帰るお話です。
そのまますこやかに昇天しそうですがそうは水龍がさせないのでご安心ください。ヌヴィリオです。
いわほど期間中は共通パスワードを設定しています。
1
2
人気のない静かな夜だった。薄曇りの空を欠けぬ月が昇っていく。時折雲に隠れる月光の下、リオセスリは懐かしい石畳を歩いていた。
目の前には蕩々と水のあふれるルキナの泉
――
そしてその背後にはなじみ深いエピクレシス歌劇場がそびえ立っている。
璃月の地をほぼ縦断する心づもりでいたリオセスリに、旅人はもっと簡単な方法があるよとあっけらかんと告げた。
今のところ旅人しか扱うことのできないワープポイントなる移動装置を使うと、何日かかるか分からない長旅は瞬きの間に終わっていた。
沈玉の谷からフォンテーヌを見てみたいという要望どおり、瞑垣山の頂上に運ばれたリオセスリは、国外からフォンテーヌを見下ろすという珍しい体験に感嘆の声を上げ、ついでに山の麓まで降りてしみじみと大瀑布を見上げた。滝の下から山の麓までそこそこの距離があるはずだが、それでもどうどうと水が落ちる音が絶え間なく鼓膜や胸郭に響く。いっしんに故郷を見上げているリオセスリを旅人とパイモンはにこにこ
……
というよりはにやにやとした顔で見守っていた。
「なあに考えてるんだ~?」
ほおをつつこうとしてくるパイモンの手を避けながら、「そうだな
……
」とリオセスリは顎に手をやった。
「毎秒こんなに大量の水がただ落ちてくるだけはもったいないと思わないか?」
「
……
そう、かな?」
「水の流れを利用してエネルギーを生成するっていう科学院の論文を以前読んだんだが、あれの実用化を図ってこの滝を利用すべきだろう。誰か気付いて進めているといいんだが
……
」
「仕事人間って死んだくらいじゃ変わらないんだね
……
」
もっとこう、懐かしい思い出話みたいなものを聞かせてもらえると思っていたとぼやく旅人にリオセスリは「あいにくノスタルジーの持ち合わせがなくてね」と肩をすくめた。本当に持ち合わせていないのはかわいげかもしれないが。
沈玉の谷に寄ったのは半分は好奇心、半分は薦めてくれた鍾離への義理立てで、長居するつもりはない。日暮れが過ぎるのを待って再度ワープポイントを利用し、ルキナの泉の近くに降り立つ。
「あんたのこれは便利だがかなり危険な代物だな」
「信用できる相手にしか教えてないよ」
「あんたの賢明さは分かってるよ」
旅人たちがフォンテーヌと敵対することがなくて良かったとリオセスリは笑い、青い光を放つ装置を軽く撫でて離れる。こんなものがここに設置されているとはまったく気が付かなかった。パレ・メルモニアも把握してはいないだろう。おそらくなんらかの手段で隠蔽されているのだろうが、その仕組みについては旅人もよく知らないようだった。懸念は捨てるべきではないが、悪用されないならひとまずはそれで良い。未来については生者が考えるべきことがらだ。
ついついあれこれと巡らせてしまう思考を断ち切り、よく整備された広くなだらかな坂をくだる。目的地であるルキナの泉はずっと目の前に見えている。
「本当に会わなくていいの? シグウィンも
……
ヌヴィレットにも」
ためらいがちな声で話しかけられ、リオセスリは固い顔つきで旅人をちらりと見やった。
「旅立ちを見送られた人間がのこのこ戻ってくるとか決まりがわるすぎるだろう。それにこれはイレギュラーだ、二度目があるとか期待を持たせたくない」
ばっさりと言い切り、心配げなふたりの視線を断ち切るように背を向けてルキナの泉の前に立ったリオセスリはふむ、と人気のない噴水を眺めた。
しばらくそうしたのちにおもむろに旅人を振り返る。
「
……
どうやったら地脈に還るってできるもんなんだろうな」
「わからないままここに来たのかよ!?」
「近寄れば自然に吸い込まれでもするのかと思ってたんだが違うみたいだな。さて、どうするか
……
」
「公爵のことだからなんかもっとちゃんと調べてから来るのかと思ってた」
驚いた顔をしている旅人が思わずぽろりとこぼした言葉に、リオセスリはくっくと喉を鳴らして嗤う。
「そうできるならそうするさ。だが半透明のからだ一つで遠くモンドに放り出されたんじゃできることは限られててね」
どうせ自分の身の処遇程度のことと、少々考えが雑で迂闊だったことは認めよう。もしかしたら自覚はないが焦っていたのかもしれない。とはいえ、フォンテーヌで目的が達成できそうになければ璃月に戻って往生堂の世話になる、という算段くらいは立てている。
「別に責めてないよ、むしろそういう隙があってちょっと安心した」
とりあえず水の中にでも入ってみたら? と噴水を指して提案する旅人にリオセスリは首を振った。
「それは最終手段だな」
フォンテーヌの水はすべてヌヴィレットの支配下にある。触れて即座に消滅できるならそうするが、そうでなかった場合確実に彼に察知される。現在のリオセスリの行動指針においてもっとも重要なのは彼らに存在を気付かれないということだ。
「やっぱり璃月まで戻るか」
「それはやめた方がいいと思うけどなあ
……
」
「まあ、璃月までとはいかなくてもいったんここは離れたい。長いこと留まっていい場所じゃないからな」
鍾離からもらったまじない札で気配を隠しているとはいえ、エピクレシス歌劇場も擁するルキナの泉はフォンテーヌ中の水が交わる地、ヌヴィレットの掌中のどまんなかだ。人気と彼の存在を避けて夜を選んでやってきてはいるが、何かの拍子に感知されないとも限らない。
「旅人、わるいがワープポイントをもう一度借りても
――
」
「
――
リオセスリ、」
琥珀の瞳を振り返った金環の昇る薄青の双眸が捉えたのは、驚愕に見開かれた淡い紫色だった。
ひぇ、とパイモンが高い声で細く呻く。それを合図にするかのように、弾かれるような勢いで走り出したリオセスリの目前に突然水球が現れたかと思うと、石畳に落ちて破裂した。
「
……
ッ!」
こちらを押し流してくるような奔流を前にさすがにたたらを踏み、目の前の水を凍らせて勢いを殺す。とっさに装着したナックルで氷柱を打ち砕いて活路を見出し、
……
できたのはそこまでだった。
砕かれちらちらと月光を反射して光る氷の粒の雨の中、肩に後ろから腕を回されて引っ張られる。リオセスリの体躯でもかなわない膂力に足裏が浮いた。
視界がひっくり返る。空に浮かぶ月がまず見えた。ついで目と口をまんまるに開いてリオセスリたちを見ている旅人とパイモンの顔を一瞬とらえ、青く光る美しいひれのような細かい装飾の服の裾が横切って、しまいにどぼんと盛大な水音に視界が塞がれる。
誰かに
――
ごぼごぼとまとわりつく泡で何も視認できない中でもそれが誰であるのかはリオセスリにとってはこのうえなく明白であったが
――
きつく抱きしめられて水に沈んでいく。全身とうに水に浸かったようで、抵抗する足が虚しく水を蹴った。
石造りの噴水であるルキナの泉がこんなに深いわけがない。そう思った次の瞬間水中から放り出された。
どすりとしりもちをつき、床に当たったてのひらやふとももの裏が毛足の長い絨毯の感触を捉える。どこか屋内に着地したようだ。
水を飲んだ喉が反射できゅっとしまり、ごほっ、かはっと盛大に嘔吐いて水を吐き出す。呼吸が苦しい。幽霊に空気が必要とも思えないが、魂がそういうものだと覚えているのだろう。げほごほと咳き込む背を大きなてのひらが宥めるようにさすっている。
もういいから、とその肩に手をかけて肘を伸ばそうとすると、逆に引き寄せられて強く抱きしめられた。
「
……
ヌヴィレットさん」
諦めて名前を口にする。リオセスリの肩口に顔を埋めたままのヌヴィレットは、ぐりぐりと額を肩になすりつけ、すがりつくように抱きついたまま口をつぐんでいる。
身じろぐと腕の力が強くなる。お気に入りのぬいぐるみを取り上げられかけたこどものような頑是ないしぐさにため息をつき、今度はこちらから腕を回して彼の背を撫でた。
ヌヴィレットが落ち着くのを待つ間、リオセスリはここはどこかと彼の肩越しに首を伸ばして視線を巡らせた。
カーテンの隙間からこぼれおちる月の光しか光源がないせいで判別がつきにくいが、見慣れた家具の影やものの配置からするとどうやら生前のリオセスリの寝室のようだった。
気に入りの茶器と数冊の本のための小さな棚にふたりがけのソファ、ティーカップを置くための小さなテーブル。天蓋付きのベッドは最期の記憶にある限り帳を開いていたはずだが、今はぴたりと閉じられている。
懐かしいものたちを見て目を眇めたリオセスリは、視線を腕の中の存在に戻すと、濡れそぼった銀色の髪に指を差し入れてゆっくりとくしけずった。
「なあ、ヌヴィレットさん。このままだと絨毯がびしょ濡れでだめになると思うんだが」
返事はなかったが、濡れて肌に張り付いていた服が乾き、髪の先からぽたぽたと垂れていたしずくが霧散する。ぐっしょりと濡れていた絨毯もさらさらとした感触に戻ったようだ。湿潤した環境を生来好む彼に言ったら機嫌を損ねることは明白なのでリオセスリがその言葉を口に乗せたことはないが、まったく便利な乾燥機である。礼の代わりにその頭を撫でると、ぎゅっと背中の服を掴まれた。
「
……
なぜ逃げた」
地を這うような低い声に視線を遠く泳がせる。ルキナの泉の前で再会したときのことだろう。なんと答えたものか思案を巡らせていると、肩口からリオセスリを睨めつけるヌヴィレットの白い眉間に深いしわが寄った。
くせになったら良い男が台無しだと指の腹でぐいぐいとしわを伸ばしてやりながら、そうだなあ、と間を持たせる。
「あんたに会いたくなかったから」
つり上がっていた眉が一瞬で垂れ下がった。淡い藤色の瞳が傷ついたことを隠しきれずに悲しげに揺らいでいる。
本当に、人間であるはずの自分なんかよりよほど素直で感情豊かで愛らしい。思わず笑ってしまう。
笑い声にむ、と不満げに目を細めるヌヴィレットのうなじを抱き寄せたリオセスリは、そのこめかみにちゅ、とリップ音を立ててくちづけのまねごとをした。
「会ったら決意が鈍るだろ」
死ぬ間際、いちばん最期に見たのは彼の顔だった。見送ってくれと先にリオセスリが言ったから、ヌヴィレットは置いていかないでくれと言えずに唇を引き結んでただその場に立ち尽くしていた。枯れた指を握りしめる手の震え。余人からは無表情にしかみえなかっただろうが、それは確かに泣き出す寸前のこどものようだった。
それを見て、しまったなあと思って、意識を失った。
彼にあんな顔をさせるくらいだったら自分のどうでも良いこだわりや意地などとっととへし折って捨てて彼に駆け寄り抱きしめるべきだったのだ。
とはいえ、ヌヴィレットがその矜持をもって送り出してくれたのだから、きちんと自分は死ぬべきだ。
そう思ってやってきたのだけれど、どうせならやっぱりフォンテーヌが良いと欲を出した結果がこのざまだ。
もう死んでるのに今更死にたくなくなるとはなあ、と自分に呆れながら手持ち無沙汰にヌヴィレットの髪を指に絡めて遊んでいると、はあ、と重く深いため息が耳元を掠めた。
肩に手をかけられる。ぴたりとくっつけあっていた鎖骨が離れるのによぎる一抹の寂しさに気を取られた隙に、熱い吐息に唇を塞がれた。
「ん、ぅ」
長い舌が容赦なく歯列を割り、口腔内を舌先で撫でて上顎の奥をくすぐる。反射でびくりと足が震えるのを押さえつけられ、逃れようと伸ばしかけた手が指に絡め取られた。手の甲は床に縫い止められ、そのまま背も押し倒される。
常人にはない、よく伸びる舌は口の中から何かを舐め取るかのように執拗に丁寧な愛撫を繰り返し、喉奥にまで侵入した。何度されても慣れないそれにぅぐっと呻いて喉を締める。からだの下でびくびくと跳ねる獲物に、まなじりに嗜虐的な色をのせてついと細めたヌヴィレットは、もう三秒ほどそれを味わってからゆっくりと舌を引いた。
かひゅ、ぜは、と喘鳴のように喉を鳴らして震えているリオセスリを縦長の瞳孔をした瞳が見下ろす。濡れた唇をちろりと舐める艶めいた舌先を口の中に収めれば、先ほどの熱烈なくちづけを仕掛けたとは思えないほど凪いだ顔をした、常の最高審判官がそこにいた。
とは言え全体をみれば彼が男を組み敷いているという異常な状況ではあるが、ここがフォンテーヌ廷の往来であれば捕り物劇のようにしか見えるまい。
「
……
ご満足かな?」
荒い息を整えながらも顎を上げ、挑発するように唇の端を上げるリオセスリをヌヴィレットはじっとりと睨みつけた。
「本当にそう見えるというなら、今度は君を寝台の上に運ぶしかないな」
「話し合いってのはまず言葉を使うもんだとあんたなら理解してると思ってたんだが」
「時と場合によるというのを私に教えたのは君だろう」
リオセスリが上体を起こすのを繋いだままの片手で引っ張り上げて補助したヌヴィレットは次の指示を待つように動かない。仕方がないのでリオセスリはその手を引いてソファに向かった。おとなしくついてきたヌヴィレットとともに懐かしいソファに腰かける。以前は毎晩眠くなるまでこうしてこのソファで語らったものだ。主にパレ・メルモニアの政策とメロピデ要塞のマシナリーの出荷調整について、たまに睦言を交えながら。
いい加減恋人つなぎされたままの片手が気になり、離してほしいと言う意図をこめて軽く振るが、ヌヴィレットはしれっとそれを無視した。それどころか指を締め付けられる。先ほどの出会い頭即逃亡という行動のせいで信用がないらしい。
「逃げやしないって」と唇を尖らせると、回答を間違えたこどもを見る教師のような顔をするのでリオセスリはちょっとばかり辟易とした。しかし初動を誤ったのは自分なのでここはこちらが折れるのが筋だろう。
諦めておとなしくしているとヌヴィレットはその特別製の目を眇め、今のリオセスリの姿を頭の先から爪先までゆっくりと検分するように眺めた。
「神の目がないようだが、あの島に招かれたのではなかったのか」
「ああ、それか。この状態で目を覚ましたときにはもうなくしてたな」
氷元素は使えるんだが、とてのひらの上に小さな氷を作る。すぐに溶けてしまったそれをヌヴィレットは興味深そうな目で眺めていた。
「天空の島とやらには神の目持ちとして呼ばれかけてはいたようなんだが、知らない間に門前払いをくらったらしい。どうもあんたのおかげらしいな?」
「
……
」
ちらりと横目でヌヴィレットのようすを伺うと、彼は不服そうな顔で唇を引き結んでいた。納得のいかない理由で叱られているこどもにちょっと似ている。別に怒っちゃいないさ、と苦笑したリオセスリは彼の機嫌をとるように指先で真珠色の髪をすくった。
「気が付いたときにはなんでかモンドにいたんだが
……
璃月まで行ったところで旅人に会って、フォンテーヌに送り届けてもらったってわけさ。置いてきちまったがあとであんたからも謝っといてくれよ」
「それはむろん。
……
それで、これは?」
ヌヴィレットがリオセスリの胸もとをつつく。なんのことかとぱちくり瞬いていると、だんだんと不機嫌が増したらしいヌヴィレットが険しい顔つきでベストの内側に指をすべりこませた。取り出された札をみて、リオセスリは「あー
……
」と呻く。
「璃月でもらった呪符だよ。ほら、俺がこの状態だろ? お守りにもらったのさ」
「私は璃月の仙術の類いには詳しくないが、その効果くらいはわかる。気配を隠すというのがどうお守りになるのか聞きたいところだがそれよりも
……
」
ささやく声がひんやりとしている。すらりと伸びたうつくしい指が紙をぐしゃりと握りつぶした。
「
――
気に入らない気配がする。誰にもらったものだ」
「なんでそんなにそれにキレてんだあんた
……
」
てっきりまじない札の効果について問い詰められると思って逃げ口上を考えるのに頭を回転させていたリオセスリは予想外の展開にため息をついた。握りしめられたままの指を力ずくでほどいてヌヴィレットを抱き寄せる。
どうどうと幼子にするように背を叩かれたヌヴィレットの眉間にしわが寄る。しかしこの程度の不機嫌に怯むようでは彼の隣に数十年以上居座るなどできない。
「璃月に往生堂って葬儀屋があるんだがな。そこの縁者らしいひとだよ」
「葬儀屋」
「彼らは死者の扱いのプロだろ? 良い助言がもらえるかと思ってな」
当初はそのままあの世に送ってもらおうと考えていたことなどおくびにも出さず、リオセスリは小首を傾げてヌヴィレットの目を下から覗きこんだ。
「それより、突然モンドに放り出されて途方に暮れながらもフォンテーヌまでちゃぁんと戻ってきたんだ。ちょっとは褒めてくれてもいいんじゃないか?」
「
……
私のもとに戻ってくるつもりではなかったくせに
……
」
恨みがましそうな低い声にくつくつと喉奥を鳴らして笑う。なかば正解でなかば不正解。リオセスリにとってフォンテーヌとヌヴィレットは分かちがたく結びついたものだが、それを彼に言って聞かせるつもりもない。
寄せ合っていたからだをゆっくりと離すリオセスリを淡藤の瞳が追うが、何か言いたげなその視線には気が付かないふりをする。自身の感情の言語化が苦手な彼の手を引いてやるのはやぶさかではないが、今このときのように、そうしない方が良い場合もある。
ヌヴィレットは長い逡巡ののち、諦めたようにため息をつくとおもむろに口を開いた。
「他者を『所有』することはゆるされるものではないが
……
」
慎重にことばをつむぐとき、ヌヴィレットはゆっくりと瞬く。リオセスリは急かすことなくそれを待った。
「君は君自身の死後の扱いを私に一任した。その認識に相違は?」
「ないよ、最高審判官様」
審判の事実確認と変わらぬ口調の問いかけに微笑んで肯定する。そうか、とヌヴィレットは厳かに頷いた。
「であれば、今ここにいる君の行く末を決める権利は私にあるのではないだろうか」
リオセスリは微笑みを崩さない。まだまだ予想の範疇だった。
「まあ、そうかもなあ」
その返答に逸るように何かを言いかけたヌヴィレットの唇をそっと指先で押さえる。罠にかかった獲物を見るように、にやりと薄青の瞳が細められる。
「だがそれは当人が意志決定できる状態ではないから、というのが暗黙の前提ってもんだろ? 今の俺はまあこのとおり、魂だけになっちゃいるが、あんたとこうしておしゃべりもできるし物事の判断能力も喪失しちゃいない」
「
……
」
仕掛けられた論理からリオセスリはするりと抜け出た。逃げられたことを悟ったヌヴィレットはむすりとして黙り込む。彼があまりに素直に困っているので、リオセスリはつい噴き出した。
「ははっ、いじわるを言いすぎたな。
……
そう、人は己の意志をもって自分の行く道を決めるべきだ」
薄青に浮かぶ金環が月明かりを容れてたのしげに光る。
「だがその意志決定では往々にして第三者
――
本人がその判断に信頼を寄せる存在の意見が結論に反映されることがある。選択に迷っている時なんかは特にな」
同意を求めるようにちらりと寄越される視線にヌヴィレットは応えなかった。誘い込むような言葉の真意を吟味するようにただじっとその唇を見つめている。
「さて、俺は俺がどうするかを既に一度決めたんだが
……
猶予をもらって実はちょっと迷い始めてるんだ」
――
誰かに何か言われたら、考え直したりするかもな?
聖人を惑わす蛇の甘言のような、蠱惑的なささやきが龍の耳をくすぐった。
ヌヴィレットは迷うことなくリオセスリの指先を握り直して距離を詰める。
穏やかな春の明け方の紫が、金環の浮かぶ薄氷の湖面に映る。
「人として生きた君の死後をもらいうけたい。私が海の泡に還るまで、ともに在ってはくれないだろうか。リオセスリ殿」
「よろこんで、どうぞ。ヌヴィレットさん」
もったいぶって差し出した手をきつく握られて抱き寄せられる。上体を押し倒してくるヌヴィレットと肩をぶつけながらソファの座面にもつれあうように倒れ込んだ。
制止する間もなく唇が塞がれ、長い舌が荒々しく口の中をまさぐっていく。深く唇を合わせ直すたび、常の快感だけではない、目の奥でフォンタでもぱちぱちと弾けているかような喜悦の感覚が思考にまざった。
「
……
っ、ヌヴィレットさ、」
流れ込んでくる感情に溺れそうになり、息継ぎの合間に指をすべりこませてむりやり唇を離す。共鳴を咎められたヌヴィレットは不満げに目を細め、あまく唇を尖らせた。
「置いていかれることがないというのがどれほどのよろこびか、君もきちんと理解すべきだ」
「いやわかったからひとまず、わぷ」
問答無用とばかりにヌヴィレットがのしかかってくる。リオセスリは説得を諦め、落ちてくる唇といたずらな指先に応えることに意識を集中させた。
ひとしきりの抱擁と交歓ののち、少々ぐったりとしてソファの肘掛けにもたれたリオセスリは、疲労と憂いのまざったため息をついた。
「
……
とは言ったものの、俺はこのとおり今やもう魂だけの存在だからな。できる限りあんたに添うつもりではいるが
……
」
魂だけの存在でどれだけ在れるか、という懸念を聞いたヌヴィレットは、なぜか気まずげに睫毛を伏せて視線をそらす。膝の上で組んだ指にも力がこもっていた。
隠すにしろ隠さないにしろ堂々とした態度をとることが多い彼にしてめずらしい、あからさまにやましいことがありますというしぐさにリオセスリは首を傾げた。
特に責める意図を含んだものではなかったが、隣からの視線と沈黙に耐えかねたのか、ヌヴィレットがぼそりと呟く。
「
……
器ならある」
「あんたの持ってる古龍の大権とやらを使うのかい? そりゃ確かに新しい肉体のひとつやふたつ用意できそうだが」
沈黙。まったくの的外れというわけでもなさそうだが、どうやら正解ではないらしい。
「なんだ、隠しごとか? 暴いてほしいならそうしてやるが
――
そこのベッドにまだ俺のからだがあるとか?」
天蓋から吊された帳がかたく閉ざされた寝台を後ろ手に指差す。ヌヴィレットは目を丸くしてリオセスリを振り返った。
「驚いた。なぜわかった?」
「
……
当たって俺もびっくりしてるよ」
ちょっとした冗談のつもりだったがまさか本当に死体を保存しているとは。リオセスリは頬を引きつらせた。
帳を閉ざしているのは中に見られなくないものを置いているから。リオセスリが息を引き取ったまさにその場所であるからして、ちらりとよぎった可能性だったが、正直当たってほしくはなかった。龍の常識でどうかは知らないが、人間としては猟奇的な部類に入る行いだ。ヌヴィレットは人の世で公職に就いているのだし、露見したらかなりのスキャンダルになるのではと心配になる。
リオセスリがどうやって新聞社を黙らせようか思案している間に、ヌヴィレットはソファから立ち上がってベッドに向かっていた。帳の前で何かを払うように指を動かしている。ちかりと一瞬光ってほろほろと崩れたのはヌヴィレットが水元素を操るときによく刻む、三つの円が絡む紋章だ。手ずからの厳重な封印には余人には絶対に触れさせないという強い意志を感じたが、まあ中にあるのは死体だもんなと納得する。
「そういや、死体を埋葬せずに隠すのってなんらかの罪に問われるんじゃなかったか?」
「死体遺棄罪に該当する」
「さすがにフォンテーヌの最高審判官様が逮捕される原因にはなりたくないんだが」
「意識不明の重病人を看護していただけだ。君が目を覚ませば問題ない」
そうかあ
……
? と懐疑的な声を上げているリオセスリを無視し、ヌヴィレットは帳の端に指を差し入れると静かに開いた。
そうして自分の肉体と対面したリオセスリは、予想外の状態に軽く息を呑む。
「
……
ヌヴィレットさん?」
次いで呆れて目を細めた。軽く叱るように名前を呼ぶが、ヌヴィレットは視線を斜めに落として無言だ。
寝台に眠っているのは枯れ木のように老いた自分ではなかった。ちょうど今の魂の姿と同じ、三十代頃といったまだ若々しさを多分に残した青年の肉体だ。
リオセスリの視線から逃げるようにうつむいている白いかんばせに指を伸ばし、涼やかな目元に被さる前髪をやさしくのけてこちらを向かせる。淡い藤色と視線を合わせると、ヌヴィレットはぼそりと呟いた。
「
……
死後は私の好きにして良いと、君が言った」
「まあ確かに好きにしろとは言ったが、そりゃ葬式とかのことで
……
」
「君が言った」
「はいはい」
かたくなな返答にリオセスリはため息をついた。それだけ彼を傷つけたということだろう、リオセスリ側もうしろめたい気持ちはある。甘んじて受け入れよう、としっとりとした白い顎先を軽くくすぐって指を離した。
「それにしてもなんだ、この年頃の俺がいちばんお好みで?」
「どの年齢のリオセスリ殿も等しく好ましいが」
「
……
そりゃどうも」
からかってみたつもりが思ったよりも真摯な言葉を返されて思わず舌を噛みそうになる。ヌヴィレットの長い指がベッドの上で眠るリオセスリの額にそっと触れた。
「君との思い出をたどりながら少しずつ若返らせていた」
「人の死体を思い出のアルバム代わりにするなよ
……
」
思わず呆れるリオセスリをヌヴィレットは恨めしそうにじろりとにらんだ。
「アルバムが作れるほどの写真も残さなかったくせに何を言う。国葬の遺影を用意するのにも苦労した」
「やったのか、国葬
……
」
公爵という爵位柄ある程度公的な催しが執り行われることは覚悟していたが、一番規模が大きいものになるとは。できればメリュジーヌとヌヴィレットだけで簡素にすませてほしかったが、儚い希望はあえなく散っていたらしい。その忙しさでヌヴィレットの気が紛れて良かったということにしておこう。
「フリーナのときは候補の写真が多すぎてもっとも彼女にふさわしいものを選ぶのに難儀したが。君たちは極端すぎる」
「フォンテーヌで最高の大女優兼名監督と元罪人だぜ? 比べてくれるなよ」
ヌヴィレットの文句が勢いを増していく。リオセスリは落ち着けとばかりにその肩を軽く叩いたが彼は止まらなかった。
「五百年を耐え忍びフォンテーヌを予言から守ったことも、十余年で成し遂げたメロピデ要塞の改革も、どちらも国をもって顕彰すべき貢献だ」
「あんたにそう断言されるのは光栄だが、俺の方は別に他人のためにしたことじゃないし、国の存亡に比べれば些細なもんだ。並べられたらフリーナさんに申し訳が立たない」
ヌヴィレットは納得がいかなさそうに顔をしかめているが、リオセスリはこの話はこれでおしまい、とばかりにぱんぱんと手を叩いて黙らせ、話の流れを戻した。
「それで、俺はどうしたらいいんだ?」
「生来の肉体と魂との結びつきは強い。普通なら何もしなくとも魂は肉体に惹かれるものだが、今回は私が君を君に戻そう。私と寿命を合わせるのに必要な処置もある」
心なしかヌヴィレットの声が明るい。ぺたりと寝ていた青い触角の先もいつの間にかくるりと跳ねている上にほんのりと光っている。周囲の水元素関連反応を受けて光ると聞いたことはあるが、機嫌が良いときにもそうなるのだろうか。
肉体を作り変える件については生前にも何度か聞いてはいたが、ヌヴィレットはこれから行う処置についてをあらためてリオセスリに説明した。寿命や身体的な強度の変化、水元素を通じた共鳴能力の獲得など。もとは自分のからだとは言えだいぶ勝手が変わりそうだ。
「大改造だな」
「君を損なうようなことはしない」
きっぱりと言い切るヌヴィレットにリオセスリも微笑みを返す。
「そこは信頼してるよ。どっちかというと俺の方が耐えられるかが懸念だな」
「私も君を信頼している」
はは、と快活な笑い声を上げたリオセスリは「ご期待に添えるといいんだが」とうそぶきつつためらいなくヌヴィレットに手を預けた。
覚悟を決めて目を閉じると、手を握るぬくもりだけが残った。
水底から立ち上がった泡が水面で弾けるように目覚めは突然で鮮やかだった。
薄暗い視界の大半を占める見慣れた天蓋とずっしりとした手足の重さに無事に『帰って』きたことを悟る。深くまどろんで長い夢を見ていた気もするし、夢を見る暇もないほんのひとときをたゆたっていたような気もする。
軽く身じろぎをすると、意識を取り戻したことに気が付いたのか、リオセスリの胸の上に頭を預けて目をつむっていたヌヴィレットが視線を上げた。
リラの花弁の色をした瞳がこちらを捉えてやわらかく、ほころぶようにたわめられる。それに機嫌よく猫が目を細めるしぐさを連想しつつ、リオセスリは彼がゆっくりとからだを起こすのをぼんやりと眺める。
「おはよう、リオセスリ殿。気分は?」
「おはよ。いつもどおり、というか肉体が若返った分むしろ良好だ。関節の痛みがないってだけでこんなに気分が晴れやかだとは思ってもみなかったな」
おどけてみせるとヌヴィレットがくすくすと笑みをこぼす。立ち上がった彼が枕元に座り直したので、リオセスリも上体を起こして視線の高さを合わせた。
「変な姿勢でうたたねすると腰が痛むぞ? あんたは腰痛のしんどさをまだ知らないだろうが、疲れたならちゃんとベッドで休んだ方が良い」
「眠ってはいない。君の鼓動を確かめていた」
リオセスリは押し黙った。沈黙をごまかすようにヌヴィレットの肩口からこぼれているほつれた銀糸を指で梳く。猫なら喉でも鳴らしていそうな穏やかな表情で彼はそれを受け入れていた。
「あのときルキナの泉に向かって本当に良かった」
「ああ、あんたなんであんな時間にあそこにいたんだ? 審判もとっくに終わった時間だろ?」
黄昏時に散歩をしていることもままあるが、基本的に多忙なヌヴィレットは歌劇場に無駄に長居はしない。リオセスリは夜なら彼がいないだろうと賭けたわけだが、結果見事に読みを外してしまった。
「
……
君が天理のもとに向かったのか、フォンテーヌにいるか確かめようと思ったのだ。ルキナの泉が一番効率が良い」
フォンテーヌ中の水を精査して、リオセスリの気配がないようなら天空の島に取り返しにいくつもりだったとヌヴィレットは淡々と語り、リオセスリは世界の危機が回避されたことを知った。落ち着いたらフォンテーヌに行くように薦めてくれた客卿に礼をしに行くべきかもしれない。
「
……
まあ、なんだ。あんたと生きるための手続きはこれでおしまいかい?」
ああ、とヌヴィレットは頷き賭けたがその姿勢のままぴたりと動きを止め、考え込むように顎に手をやった。
「いや、君の死亡届の取り下げがある。それから遺言状の執行停止と
……
」
深刻そうな顔をするから何があるのかと思えば。拍子抜けしたリオセスリはそっちの手続きかよと肩の力を抜いて笑った。
「国葬までしておきながら今更やっぱり生きてましたはないだろ」
しかし、と言い募るヌヴィレットの顎を掴むと軽くくちづけて言葉を遮る。触れた拍子に軽度の焦りと戸惑い、それからゆったりとした大河のような深くて穏やかな感情が意識に流れこんでくる。これが水元素による共鳴というやつだろうか。現象の察しはついたものの止め方が分からずにいると、ぱちんと糸を鋏で切ったようにそれが途切れた。ヌヴィレット側が止めてくれたらしい。
「まずはそのからだに慣れるのが先だな。君の氷元素はそのままだが、水元素にも影響されやすくなっているはずだ」
「お手柔らかに頼むよ、先生」
「ではまずは水のテイスティングから」
さすがに最初に教えるのはそれじゃないだろと突っ込むと、くすくすとささやくような笑い声がかえってくる。
辿り着いた永遠は美しい朝のかたちをしていた。
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