くさかべ
2025-07-31 22:43:09
29499文字
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永遠まで歩いていく

いわほど3開催おめでとうございます!
天寿をまっとうして大往生したはずがなんでか幽霊になってしまった公爵がモンドからフォンテーヌまで徒歩で帰るお話です。
そのまますこやかに昇天しそうですがそうは水龍がさせないのでご安心ください。ヌヴィリオです。
いわほど期間中は共通パスワードを設定しています。

 我ながら、幸福な人生を歩んだと思う。孤児として生まれ、少年のうちに罪を犯してメロピデ要塞に収監されるという前半生はさすがに波瀾万丈と呼ばれる部類だったという自覚はあるが、その頃には無縁だと思っていた、ベッドの上で親しい者たちに手を握られ看取られるといった穏やかな最期を過ごすことができた。ティーンの頃の自分が聞いたら冗談だろ? と目を丸くして疑わしげな目を向けるに違いない。
 まぶたを閉じたまま、驚いた顔をするこどもの想像をしてうっすらと微笑む。さて、そうして終わりを迎えたからには――終わりを迎えたからには?
 りんごん、がらんごろん、と頭蓋の内側に響くような大きな鐘の音が鼓膜を打つ。それにぎょっとして反射的にからだを起こし、リオセスリは目を大きく見開いた。
 白っぽい石畳。魚のうろこのような瓦が特徴的な赤い屋根が連なる家々。その合間にそびえ立ち、くるりくるりと回る風車。⁠瀟洒で気取ったフォンテーヌと少し似ていて決定的に異なる、どこかのどかで素朴な町並み。
 絵画や写真で見たことのある、モンドの街の風景が眼下に広がっている。
 さすがにすぐには状況が呑み込めず、後退るようにして手をつく。ひんやりとしてすべすべとなめらかな石の感触が手のひらに伝わった。石畳とも屋根の瓦とも違う感触に、自分はどこにいるのかと後ろを振り返る。
 目の前に迫るのは大きな風神像の顔。そしてその背後にかまえた荘厳で巨大な建築物――西風教会。
 それらを視界におさめたリオセスリは「は?」と思わず声を上げた。
 フォンテーヌで死んだはずが、なぜかモンドにいる。それも、手を天に掲げる風神像のてのひらの中に。
 死に際の夢でも見ているのだろうか。モンドにいる夢を見るほどこの土地と縁があったような記憶はないが。
 戸惑い、考え込むリオセスリの頭上で鐘の音はなおも空に響き渡り、残響を高い空にこだまさせる。⁠祝福にも嘲笑にも聞こえるような不思議なその音の隙間を縫うように、軽やかな風のような声が耳に届いた。
「うわあ、あの島に登る資格があるのに叩き落とされた人間とか初めて見た」
 顔に影が差す。見上げると、鮮やかな深い緑色の瞳と目が合った。
 短いマントを羽織り、古びたライアーを抱えた吟遊詩人の少年が、リオセスリの座る風神像の祈るようにそろえられた両てのひらの先端、細い指先に器用に爪先を乗せて立っている。
 無邪気だがどこか老成した雰囲気と相手を見透かすような眼差しには覚えがある。見た目と実際の年齢が一致しない存在によくあるものだ。まるで重さなどないかのような軽やかな立ち姿に風を連想し、その腰元に風元素の神の目と思しき宝玉を提げているのに気が付いて納得する。
「やあ、そこの自由な風の君。ちょっと教えてほしいんだが」
 彼は不思議そうに瞬いて首を傾げた。
「なんだい?」
「風神様の像の上に勝手に乗るってのは、モンドじゃなんらかの罪で罰せられる行為かい?」


 リオセスリは腹を抱えて大笑いする少年が落ち着くのをあぐらをかいて見守っていた。鐘の音の残響はとっくに散り、ゆったりと回る風車の羽根の数を数えるのにも飽きたところだ。
 あとは、と今度は自分のからだを見下ろす。目を覚ましたときから若干の違和感があったが、その理由は一目瞭然だった。
 ぴんと皮膚に張りのあるまだしわのない指先。労働と実戦とで鍛えられた手足。直近の自分の手はもっと細くてしわくちゃだったし、全身の筋肉も衰えていた。明らかに若返っている。
 ただ、かざした手の甲がうっすらと透けていた。幽霊はからだが透けているというのはよく聞く話だ。自分が死んだという認識は正しそうで少しばかりほっとする。錯乱してモンドの風神像によじ登った狂人という線は消して良さそうだ。
 鏡がないので顔の具合は分からないが、指で確かめた感触や――幽霊だが少なくとも自分自身には触れられるし、地面やものをすり抜けたりもしないようだ――視界に入る自分の腕の傷やまとっている衣服からすると、おそらく三十歳前後の頃の姿かたちをしていると思われた。
 老いて痩せ細った肉体とは比べるべくもない、懐かしい太い腕や大腿をしみじみと撫でて確かめる。ひとの魂がどのようなかたちをしているのかさして考えたことはなかったが、肉体を離れた今の自分が生涯でおそらく最も忙しく、過酷ではあったが充実した日々の頃の姿をとっているというのは悪い気分ではなかった。
 手足を検分し終えたリオセスリは背中のコートをたぐり寄せた。が、そこにいつもくくりつけていた神の目はない。
 ふむ、と小さく呟いて氷元素を意識する。指先にたぐりよせた元素は小さな氷として実体をもった。神の目がなくとも元素の操作には支障がないらしい。ナックルも稼働させられるようだ。ここしばらく拳を振り回した記憶はないが、いざというときはまあ、からだも若いことだし昔取った杵柄ががんばってくれるだろう。
 理屈も経緯も分からないがおおよそ現状は理解した。
 さて、と少年の方を振り返る。風神像の指先でうずくまる彼の背中の震えもだいぶおさまったようだ。ひいひい笑いをこらえて腹をよじっていたくせに片足が乗るかどうかという細い足場で体勢を崩して落ちないあたりは非常に器用というか、やはり常人ではないのだなと思わせるものがあった。
「ははは、……はあ。最初に聞くのがそれって、フォンテーヌの人は本当に法律が大好きなんだね?」
「別に好きってわけじゃあないが。他国の法律に触れちまうのは一般市民よりだいぶ面倒なことになる立場でね」
 なにせリオセスリは公爵という高い爵位を授かっているが身寄りがない。そんな人間が国外で問題を起こしたときの身元引受人になれる存在といったらより上位に座するヌヴィレットくらいだろう。まさかフォンテーヌの司法の象徴である最高審判官様の身内に犯罪者を出すわけにもいくまい。詳しいところは伏せて肩を竦めると、少年は小さく笑った。
「安心して、モンドには幽霊を罰する法律はないよ」
「やっぱり俺は死んでるのか」
 認識の齟齬がないことには安堵したが、第三者から幽霊だと断定されると今度は少しばかり寂しさが募ってくる。少年は泰然とした笑みをリオセスリに向けた。
「肉体と魂が分離してるのは確かだね。君は天空の島に登りかけた状況だったんだし、まあ、死んでるんじゃないかな」
「天空の島?」
 なぜそんなおとぎ話のような存在が出てくるのか。眉をひそめて訝しんでいると、吟遊詩人は抱えているライアーの弦をもったいぶるようなしぐさで軽くつま弾いた。
 物語のはじまり、あるいは終わりを告げるような短く印象的な、一節のメロディ。
「神の目を授けられた者は天空の島に登る資格を持っているんだ。天命尽きたあと、君たちは空に招かれる」
「ならなんで俺はここにいるのかね?」
「心当たりはあるんじゃないかな。それだけべったりと龍の気配をまとわせているんだから」
 リオセスリは顔をしかめた。心当たりはもちろんある。なにせ自分の死を看取ったのは龍王たるヌヴィレットとその眷属たちだ。そもそも死の直前だけでなくもっと長い時間を彼らとともに過ごしたし、水龍の口から天空の島の主――天理とも呼ぶ存在との確執についても直接聞かされたことがある。あちらからすれば、遺恨のある相手の気配が色濃い魂などうかつに中に入れられないということだろう。勝手に招かれ勝手に拒絶された身としてはとばっちりだなという感想しか出てこないが。
「なにしてくれてんだか、あのひとは……
 こめかみをおさえてため息をつく。吟遊詩人の少年はけらけらと笑った。
「それにしてもいったいどうして水龍にそんなに気に入られたんだい?」
「俺もそれはいまだに疑問なんだが……吟遊詩人になにか話そうもんなら翌日には盛大に脚色されたロマンスが酒場でうたわれてるんだろ? 勘弁してくれ」
「フォンテーヌの歌劇の方がよっぽど情熱的だと思うけどなあ」
 話を聞き出しそびれた吟遊詩人はつまらなさそうに唇を尖らせると、ひょいと小さな段差を乗り越えるように風神像の手のひらから飛び降りた。危なげなく着地する彼を追ってリオセスリも飛び降りる。このくらいの高さなら要塞のパイプ点検などでよく飛び降りていた。膝を曲げて氷元素も使い、衝撃を殺しながら地面に降り立つ。
「このくらい若いとからだが軽くていいな」
「ご老人みたいなことを言うね」
 目を細めて笑う少年に、リオセスリはにやりと笑い返した。
「ここで目が覚める直前までは正真正銘のご老人だったものでね。フォンテーヌの長寿記録を危うく塗り替えるところだったぜ」
「へえ、若返りの水でも飲んだのかい?」
「あー……若返っちゃいないが、それに近いもんなら何度か飲んだことはあるかもなあ……
 無茶をして大怪我を負い、何度シグウィンとヌヴィレットに叱られたことか。生死の境をさまよったときにあやしげな液体をむりやり飲ませられた記憶もいくつか脳裏に転がっている。リオセスリが成長期に過ごした環境を考えると五体満足なまま成人しただけでも奇跡的な確率だったろうに、その上人間の限界に近い寿命をまっとうしたのはもしかしなくともあれのせいか……と今更気が付いて視線を遠くにやった。よく晴れた空の高いところを鳥が飛んでいる。
「お酒とどっちがおいしかった?」
 興味津々とばかりに見上げてくる緑色に視線を戻しつつ、酒かあ、と首を捻る。
「老いぼれ爺にゃ良くないって取り上げられてたもんで酒はもうここ十年以上飲んでないな……
 露悪的な言い方をしたが飲み過ぎはともかく飲酒自体は禁止はされていなかったし、そもそもリオセスリは酒よりコーヒーより紅茶派、ついでに寝食をともにする存在は水がいちばんという変わり種だったので食卓にのぼる機会がなかっただけの話だ。
「ええ!? そりゃひどい!」
 しかしまるで自分が禁酒を言い渡されたかのような悲鳴を上げる少年に、リオセスリは一瞬ぽかんとし、次いでははっと笑い声を上げた。
「あんたいけるクチなのか」
 そういえばモンドは酒が名産だったと思い出す。見た目は成人しているかもあやしい少年だがおそらく内実はもっと年がいっているだろうし、彼も立派にモンドの民ということなのだろう。
「お酒が飲めない生活なんて考えられないよ!」
 かわいそうに、とリオセスリに向けられる憐憫はかなり本気の色をしている。
「そうだ、ちょうどそろそろ酒場も開く。飲みに行こう。モンドの蒲公英酒の味を教えてあげるよ。あまりのおいしさに君も生き返るかもね!」
「いや俺は酒は別に……
 そうとなったら善は急げだ、と少年はリオセスリのコートの袖を掴むとぐいぐいと引っ張って歩き出す。
 そもそも今のリオセスリは半透明の幽霊なのだが、そんな存在が人目の多いところに行って大丈夫だろうか。

 結論からいうと全然問題はなかった。
 まだ日暮れと呼ぶにも早いのではないかという時間帯だったが、連れてこられた酒場は一仕事終えたのか休日なのか分からない人々でごった返しており、酒や食事の注文が飛び交っている。
 フォンテーヌから来たんだってえ? なに、蒲公英酒を飲んだことがない!? 人生損しすぎだろ俺が奢ってやるから飲め! と既に赤ら顔で飲んだくれていた男たちに取り囲まれてばしばしと背を叩かれ酒を注がれと、早々にどんちゃん騒ぎに巻き込まれた。吟遊詩人もちゃっかりご相伴に預かっている。さすが口が回らないとやっていけない商売で食いつないでいるだけある、と感心する紛れ込みっぷりだった。
 初めて飲んだ蒲公英酒は甘くて爽やかな喉ごしで口当たりが良かった。これはうまいなと思わずこぼすと、そうだろうそうだろうと周囲が頷く。なるほどこれはうっかり飲み過ぎそうだ。
 幽霊の身は果たして酔っ払うのだろうかと考えたが、ふわふわとした心地よさと気の大きくなるような感覚は確かに酒精を口にしたときのそれで、箍がゆるみそうになるのを注意深くセーブしながらグラスをあけていく。
 気の良い酒好きの男たちが酔い潰れたのはとっぷりと夜も更けた頃だった。彼らから飲み代を回収した赤毛のバーテンダーが退店を促すのに手を振って席を立つ。介抱を手伝った方が良いかと思ったが、店員たちが慣れた調子で常連たちに水を飲ませて外に運んでいた。起きるまでテラス席に放置らしい。なんともおおらかなことだと苦笑する。
「結局全部奢ってもらっちまったな……まあ払えと言われても今の俺は一モラも持ってないんだが」
 銀行にはリオセスリの名義で店一軒まるごと余裕で買える以上のモラを預けてはいたが、既に死者の身であるからして口座は凍結済みだろう。その後の手続きも進んでいるだろうし、そうなればもうそれはリオセスリのものではない。
 夜風が涼しくてきもちいいねえ、と火照った頬を風に当て、ねこのように目を細めていたウェンティが――未だに名乗られてはいなかったが、酒場の男たちがそう呼ぶのを聞いていた――いたずらっぽく微笑む。
「まあまあ、お供えものだと思っておけばいいよ。それに君、三杯も飲んでなかったじゃないか。そんなの飲んだうちに入らないって」
「目敏いな」
 あちこちの卓に紛れ込んでは一杯くすね、また酒代として歌を披露し場を盛り上げと忙しかっただろうにこちらをしっかり観察していたことに内心で舌を巻く。
 酒場から離れた二人はモンド城からも出て、東の高台に向かって歩いていた。というか、土地勘もなければ当てもないリオセスリがなんとなくウェンティについて回っているというのが正確だ。緑のマントをたなびかせる小さな背を追いながら、これからどうするべきかをずっと考えあぐねている。
 無言のまま随分と長い距離を歩き、丘を越えて崖のてっぺんまで登ったところでようやく少年が立ち止まった。
 その先には果ての見えない海が広がっている。夜空との境目も分からない、すべてが混ざって何も見えない漆黒の光景だ。
 ⁠⁠フォンテーヌがいつかの危機を回避できずにすべてが水に呑み込まれて、それを水上からみたらこんな景色になるだろうか。水の下のようすは伺えないが、もしかしたらこの海の中にもかつての都市や人々が眠っているのかもしれない。
 ふと気付くと、水平線がほのかに光っていた。空と海とが切り離される。闇のような藍色の天は海原のような深い青色に輝き、たなびく雲が浮き上がった。薄明を迎える東の空が美しい淡い紫色に染まり、リオセスリは金環の浮かぶ薄青の瞳を細める。生涯で見たいちばん美しい色によく似た夜明けだ。
 吟遊詩人が弦を鳴らす。聞いたことのあるフレーズだった。振り返ると、ライアーを抱えた少年が穏やかに笑っている。
「行く先は決めたかい?」
 見守るようなその視線にむずがゆいものを覚え、リオセスリはごまかすように肩をすくめた。
「それが残念なことにまだ思いつかなくてね。死者のあるべき場所に向かった方がいいんだろうが、それがどっちにあるのかもわからない」
「すべき、あるべき、って君は随分と規範を気にするね。息苦しくない?」
「気ままなあんたに教えておくと、フォンテーヌじゃ食堂でケチャップだけ食べるのも違法なんだ。そりゃいろいろ気にするようになるってもんだろ?」
 ええ、なんで? と驚いた声を上げるウェンティにリオセスリはなんでだろうな、と腕組みをしておどけたしぐさで頷いた。正直生粋の市民ですらなぜ? と首を捻るような法律がフォンテーヌには張り巡らされている。だがそれもまたフォンテーヌが積み重ねた歴史の一片であり、ひとびとの生きた証だ。リオセスリもたまに困りはするが嫌いでもなかった。意図の失われた古い法律もすらすらと暗誦する落ち着いた声が心地よかったおかげかもしれない。
「フォンテーヌは怖いところだねえ……
 しみじみと呟いたウェンティが、でも、と視線を上げてリオセスリを見据える。
「今の君はモンドで目覚めた。この自由な風の国でね」
 彼の言葉に呼応するように強く風が吹く。ざあ、と大きな草擦れが耳を打った。モンドの丘を吹き抜けるそれはからりとしていてどこか伸びやかだ。それに比べると、フォンテーヌの風は随分と湿り気を帯びたものだったことに気が付く。
「今の君を縛るものはなにもない。神の目は伏せられ、龍のまなざしもここには届かない」
 海から昇った陽の光が丘に差し込む。夜明けの輝きに翠緑の瞳を眇め、吟遊詩人は託宣を授ける巫のように厳かにささやいた。
「何の制約も受けない君がどうしたいか、心に吹く風に一度ゆっくり耳を傾けてみるのもいいんじゃないかな」



 ふしぎな吟遊詩人の少年とアカツキワイナリーの前で別れたリオセスリは、モンドから璃月に向かう道を進んでいた。
 なだらかな丘を下り、湖から流れ出る水を追って崖下を進む。大瀑布により区切られて国境が明白なフォンテーヌと異なり、陸地で繋がっている二国の境界は曖昧だ。見かける小屋のつくりや通りがかる人々の顔付き、服装も港町のように入り乱れている。ただそろそろ璃月風の衣服を多く見かけるようになったので、おそらくはもう璃月の管轄に入っているのだろう。
 幽霊となった身のせいか空腹も感じなければさして眠くもならず、疲労もない。リオセスリはゆっくりと移り変わる風景を楽しみながらも黙々と、昼夜を通して璃月港に向かって歩いていた。
 モンドの酒場では普通に認識されていたのでてっきり誰の目にも自分は見えるものだと思っていたが、すれ違う人々の大半は彼に気が付かないようだった。酒場の男たちは分からないが道行く中で視線が合った数名がみな神の目を身につけていたことを考えると、魂だけの存在を視認するにはある程度の元素力か何らかの才覚が必要なのかもしれない。ひとまずの行き先として定めた専門家に聞けるタイミングがあれば尋ねてみようかと考える。
 岩の龍が居を構えていると言われても納得できる大きな岩場の下を過ぎると、見渡す限りの広い湿原が広がっていた。ほう、と感嘆のため息をつく。
「璃月ってのは本当に広い国だな……
 リオセスリの持つ知識が正しければ、この浅瀬を超えた先にも平原が続いているはずだ。起伏に富み、平野の少ないフォンテーヌの風景を見慣れていると、見渡す限り続く野原というのはなんとも壮大で異国にいる実感をわきあがらせる光景だった。
 どこにでもいるヒルチャールとの遭遇を避けつつ、途中見かけた好奇心のくすぐられる遺跡群にちょっと寄り道をしつつ。そうして数日かけて辿り着いた璃月港も圧巻の大都市だった。
 崖を切り出したような土地に入り組んだ建物が密集している。海に迫り出す広大な港には露天商の天幕が連なり、大きな帆船がいくつも停泊していた。その周囲には荷下ろしに従事する人々が忙しなく立ち回っている。遠目からでも分かる活気に溢れた都市には見るものをうずうずさせるような力があった。
……しかし無事に辿り着いたのはいいとして、ここからどうしたものかな」
 ウェンティに諭されつつも、リオセスリの思考が弾きだした目的地は璃月の往生堂だった。
 以前旅人から聞いたことがある。璃月には往生堂という長く続く葬儀屋があり、生と死の境界を守り、死者をあるべき場所に送ってくれるのだと。まさに今、リオセスリが求めるものだ。
 その話をすると少年は酸っぱいレモンでも口にしたかのような顔になったが、「まあそれはそれで面白いことになりそうだからいっか」とよく分からない納得をしてリオセスリをアカツキワイナリーの近くまで送ってくれた。
 その往生堂は璃月港に拠点を構えているということだったが、逆に言えばそれしか知らない。
 そしてモンドではそもそも気付かれていなかったしここまでの道中で街らしい街には寄らなかったので特に騒がれることもなかったが、リオセスリは現状半透明の明らかに幽霊といったなりをしている。特に璃月ではしばしば死者の霊と遭遇したと旅人は語っていたが、さすがにフォンテーヌ廷を歩くメリュジーヌほど市井に馴染んだ存在でもないだろう。確実に幽霊が見えるだろう神の目持ちを驚かせて璃月港の人々をいたずらに怖がらせるような事態も避けたい。
 とするとまずはやはり幽霊らしく人の目の少ない夜にこっそり街を歩いてそれらしき建物を探してみるか……と思案していると、港の方から誰かが歩いてくるのが目に入った。
 端正な佇まいの若い男性だ。璃月よりもフォンテーヌやモンドで好まれそうなシャツやベストを身につけているが、裾の長い外套の意匠や装飾は璃月の伝統的な衣装を思わせる。様々な国から人々が商いにやってくる璃月港を服で表現するならこのようなものになるだろうか。切れ長の目も涼しげで、特に黒に近い茶色の髪を長く伸ばした毛先が黄金色に透けて輝いているのがどうにも目を惹いた。
 リオセスリの視線に気が付いたのか、伏しがちだった目が上げられる。鬱金色の瞳がまっすぐにこちらを射貫き、何かを探るように眇められた。
……やあ、こんにちは」
 片手を上げ、リオセスリはことさらにこやかに微笑んだ。会話が出来そうな相手が向こうからやってきたのだ、ここはどうにか友好的な関係を築き上げてあわよくば往生堂まで案内してほしい。
 挨拶を受けた男性は一度瞬くと、ふむ、と顎に手をやって考え込むしぐさをした。
「フォンテーヌ人の幽霊とはまた珍しいことだ」
「話が早そうで助かるよ。往生堂ってところが俺みたいなのをどうにかしてくれるって前に聞いたんだが、どこにあるか知らなくてね。よければ場所を教えてもらえないかい?」



 どうやら今日の自分は随分とツイているようだ。リオセスリは供されたお茶に口を付けながら小さく微笑んだ。昔よく飲んだ覚えのある香りと味だ。翹英荘のものかと問うと、そのとおりだと急須を手にした先ほどの男性――鍾離が頷く。
 なんと彼は往生堂に縁のある者だったらしい。それならばと郊外に向かう用事を切り上げた彼はリオセスリをあっさりと往生堂まで案内してくれた。
 話をするにはお茶が不可欠だろうという鍾離の意見には全面的に賛成だ。璃月の茶を本場で味わえるとは死んでみるというのも悪くないなとうそぶくと、向かいに座った鍾離が呆れたような顔をする。
「それで、リオセスリと言ったか。あいにく堂主は別の仕事で不在にしているが、俺で良ければ一度話を聞こう」
 客卿だという彼の往生堂での立場は推し量りにくいものがあるが、客室を当然のごとく使い他の従業員も咎めることなく、むしろ率先して茶器類を運んできたようすからするに、おそらくそれなりの地位にあるのだろう。リオセスリはこれまでの経緯を簡潔に説明した。フォンテーヌで死んだはずがモンドで幽霊として目覚め、吟遊詩人の少年に声をかけられたことを伝えると、鍾離の眉がひそめられる。
「何かひっかかることでもあるかい?」
「いや、古い知人を少し思い出しただけだ。……しかしなるほど、神の目を持ちながら拒まれたか……
 鍾離はふいと窓の外に視線をやった。窓枠に切り取られた青い空には遠く霞む天空の島の影が見える。
「俺としてはそこはどうでもいいんだが。ま、神の目を使った代償を支払えと言うんなら、借りた力の分はきちんと返すつもりではいるがな」
 とはいえ向こうから呼び寄せたらしいくせに門前払いとはなかなかひどい扱いだ。おかげでリオセスリは見知らぬ土地に何も持たずにひとりで放り出されるはめになってしまった。
「それで、往生堂にあの世に送ってもらいたいということか」
「そういうこと。あるべきものはあるべき場所に、だろ? それにこのままずるずる居座ってうっかり未練ができるのも嫌でね」
 鍾離は茶碗を置くと足を組み直し、ふむ……と思案げに睫毛を伏せる。
「そんなに迷うことかい? あんたらからしてみたら、俺みたいなのがこのあたりをうろついてるのは困るだろう」
「それは確かにそうなんだが……お前はフォンテーヌ人だろう?」
「少なくともその血が流れていることは確かだな」
 その割合がどのくらいかは知らないが、と内心でごちながらリオセスリは頷く。
「往生堂が守る生死の境界はあくまで璃月のものだ。もちろん、国外の者を受け入れないというわけではない。ただ、お前の場合は水の国に戻る方が良策だと俺は考える」
「そうかい? 俺としちゃむしろフォンテーヌ以外の方がいいんだが」
 帰郷を渋るリオセスリに鍾離がふしぎそうに首を傾げる。
「何か戻れない理由でも?」
「いや? あいにく生前ほとんどフォンテーヌの外に出る機会がなかったもんでね。せっかくなら違う土地に骨――はもうないがまあ、いわゆる骨を埋めるのも良いかと思って」
 モンドからここまでの間もだいぶ楽しませてもらったと告げると、鍾離も璃月の風景は素晴らしいものだろうと微笑んだ。
 リオセスリは茶に口をつけながら目を伏せる。鍾離に語ったことは嘘ではないがすべてでもない。磨き上げた己の直感が告げている。フォンテーヌには戻るべきではない。
 うぬぼれではなくリオセスリはヌヴィレットの『特別』だった。そんな自分が死んだのだ、やさしい彼が悲しまないわけもない。だが永遠に近い寿命をもつ彼にとって、定命の存在との離別はつきものだ。途中見かけた新聞の日付を考えるに、自分が死んでからもう一月以上が経過している。悲嘆が落ち着いたところに姿を現して彼を動揺させるのは己の矜持がゆるさなかった。
……フォンテーヌに何か確執でも残しているのか?」
 じっとこちらを観察する鍾離の指摘は鋭かった。どうやってごまかそうかと思考を巡らせるが、永い時を経て磨かれた黄金のような双眸はすべてを見通しているかのようだ。へたなごまかしは意味がないと判断すると、リオセスリは両手を軽く挙げて首を振り、降参の意を示した。
「確執というほど深刻なもんじゃないし、故郷の水が恋しくないわけでもない。ただちょっとばかり顔を合わせるのは避けたいひとがいてね、戻ってうっかり鉢合わせするくらいならここで潔く朽ちたいのさ」
 限りなく曖昧に、限りなく本音を告げると、鍾離は唇に手をやってしばらく考え込んだ。
「どうしてもというなら堂主に話を通すが、やはりまず一度故郷に戻って判断することを薦める。璃月の境界を越えてからやっぱりここは嫌だと言われても困るからな。フォンテーヌの大瀑布を沈玉の谷から見たことは?」
「ないな」
「あれはなかなかに圧巻だ、一度見ておくと良い」
 それに、と鍾離は懐から一枚の札を取り出した。朱色の筆でびっしりと文様が書き込まれている。おそらく一部は文字なのだろうがリオセスリには判然としない。鍾離はどこかおどろおどろしい印象を受けるそれを卓に置くと、すっとリオセスリの前に差し出した。
「会いたくない者がいるというならこの隠形の札を渡そう。それを持っていればお前の気配は気取られない」
「それはたとえば、仙人様の目からも隠し通してくれるのかい?」
 ああ、と鍾離は重々しく頷いた。こちらを見る鬱金の瞳が少しばかりいたずらっぽく閃く。
「なにせこの術は過去、龍の目からも気配を隠した実績がある。早々見破られはしないだろう」
 そりゃすごい、と感心しつつリオセスリはそれを受け取った。仕事柄、呪術のたぐいには懐疑的な目線を向けがちではあるが、実際に効能を発揮するものがあるということも知ってはいる。鍾離が渡したこれはおそらく本物だろうという感触があった。
 ……彼に見つからないのなら、こっそり帰ってもいいだろうか。
 効果を発揮するには身につけておく必要があるという説明に、札をベストの内ポケットに滑り込ませる。
 そう、見つかる前に冥府にたどりついてしまえばいいだけだ。生命を司る彼の手も、死の境界の向こう側までは及ぶまい。
「その術だが、隠すのはあくまで気配だけだ、気をつけてくれ」
「姿が見えるやつには見えはするってことか、了解。恩に着る」
「礼には及ばない。あるべきものがあるべき場所に帰るならそれに越したことはないからな」
 他に何か必要なものがあるかと問われ、リオセスリはちょっと迷って地図が見たいと相談した。璃月港の北西に沈玉の谷があり、そのさらに先がフォンテーヌだということくらいは頭に入っているが、璃月の街道までは詳しくない。
 鍾離はその場で簡易な地図を書き出して道順の説明を始めたが、その途中で突然ふっと黙り込む。首を傾げるリオセスリに、彼は良い案があると微笑んだ。

「こっ、こっ、こっ、こっ……!」
 リオセスリに向けられた小さな人差し指がぷるぷると震えている。懐かしい顔ぶれとの思わぬ再会と目をまん丸に見開いている彼らの驚きっぷりに、リオセスリはははっと楽しげな笑い声を上げた。
「しばらく会わないうちに鶏にでもなっちまったのかい、パイモン?」
「公爵~~!! オイラは鶏じゃないぞ!!」
 パイモンはぶんぶんと手を振り回して遺憾の意を表明した。それを避けるために一歩横にそれた旅人が鶏は飛べないしね、と肩をすくめている。ふたりともヌヴィレット同様、初めて出会ったときから変わらない姿だ。懐かしさに目を眇めていると、琥珀色の瞳がこちらに向いた。
「それにしても驚いた。亡くなったんじゃないの? なんで璃月に?」
 旅人のもっともな疑問にリオセスリは曖昧な微笑みを返した。どちらかというとそれは自分が誰かに問いたいところだ。
 鍾離の思いついた案は冒険者協会にフォンテーヌまでの付き添いを依頼しようというものだった。ここからフォンテーヌまでの距離はアカツキワイナリーから璃月港よりも長く、見通しがよく比較的迷いにくい平原のルートとは違って高低差もあり木々の生い茂る谷や山を越えることになる。地図を頭に入れたとて、土地勘のない者が一人で踏破するのはなかなかに厳しい。通常であれば地元の人間や商隊との同行を薦めるらしいのだが、あいにく今のリオセスリには特殊な事情がある。
 それにも対応ができて、ちょうど信頼のおける者が璃月に滞在しているということで引き合わされたのが旅人とパイモンだ。
「もしかしたらと思っていたがやはり旧知の仲だったか」
 リオセスリたちの親しげなようすに鍾離が頬をゆるめる。パイモンは不服そうに今度はびしりと伸びた指でリオセスリを指した。
「オイラたち、昔こいつのところでとんでもないもの食わされたんだぞ!」
 数十年も昔の話を掘り返してくるパイモンに、リオセスリは大仰に目を丸くしてため息をついた。
「おいおい人聞きが悪いな。俺はちゃんとうまい飯を奢ってやっただろう。そんなことを言ってるとウォルジーくんが草葉の陰で泣いちまうぜ」
「パイモン、その話してると本題が進まないから月餅でも食べてて」
 旅人は手慣れた調子で鍾離が茶請けに出した菓子の皿をすっとパイモンの方に寄せる。食べていいのか!? と目を輝かせるパイモンを見て、リオセスリは自分の分の皿もそっと彼女の方に寄せた。目の輝きが二倍になる。この素直さは美徳だな、と月餅を口いっぱいに頬張るパイモンを眺めていると、旅人がリオセスリに顔を向けた。
「こうしてまた会えたのは嬉しいけど、どうして幽霊になっちゃったの? 何か未練でもある?」
「おそらく彼の場合は本人に問題があるわけではない」
…………ああ……
 旅人は呆れと納得の入り交じる顔で頷いた。出会ったばかりの鍾離とは違い、旅人はリオセスリの生前の事情も把握している。察するところがあったのだろう、なまぬるい視線を向けられるいたたまれなさから気をそらせるように、リオセスリはこれまでの経緯を旅人に語った。
「わかった。公爵をフォンテーヌまで送り届ければいいんだね」
 依頼を理解した旅人はあっさりと頷いた。旅人であれば断らないだろうとは思っていたものの、無事に了承を得られたリオセスリはほっとして肩の力を抜いた。
「報酬は悪いがあとで看護師長にでも相談してくれ。俺名義の口座のうちのひとつは彼女に権利を委譲するよう指示してある。医務室の改装に景気よく全額使ってなけりゃ、あんたらに払う分くらいは残ってるはずさ」
「会わないつもりなの?」
 問いかける声は少し固く、非難の色が滲んでいた。安堵で浮かべた微笑みを皮肉げなものに変え、リオセスリは幾分おおげさなしぐさで両腕を広げる。
「お別れはもうすませてる。それにフォンテーヌに戻り次第、俺はすぐ地脈に還るつもりだからな。そんな時間はないだろうさ」
「あとでなんで会わせてくれなかったのかって怒られるの嫌なんだけど」
……支払いの依頼の件と合わせてあんたらに非はないって言付けを用意しておくよ」
 本当ならこれ以上何も残したくはなかったが仕方がない。苦い笑い混じりの提案を旧知の友はため息ひとつで呑み込んでくれた。



 しとしとと雨が降り続く。停滞するぶあつい雨雲に遮られ、まっすぐな日差しもやわらかな月光もフォンテーヌには久しく降り注いでいなかった。
 そんな天気の中を傘も差さずに歩く人影が大小ふたつ。そのうちの小柄な方、シグウィンの抱えるロマリタイムフラワーの花束は水気を吸ってまるくふくらみ、幻想的な色合いの花弁を大きく広げている。
 隣に付き添う――あるいは彼女が彼に付き添っているのだと言えるかもしれないが――ヌヴィレットも同様にしとどに濡れながら、真新しい墓石の前に立った。
 リオセスリ、と刻まれたばかりの名前を目で追う。しくりと心臓の裏側が小さく痛んだ。
 寂しげに微笑むシグウィンは、先客のルミドゥースベルの花束の横にロマリタイムフラワーをそっと置くと、両手を胸元で握り込んで目をつむった。墓石の下は空っぽだが、故人を悼むためにはこういった場が必要なのだと最近自分の身をもって理解したヌヴィレットも静かに目を伏せる。
 時間をかけて別れの準備をしたはずだった。数十年以上の付き合いの間に大抵のことはお互いを尊重しつつ折り合いをつけてきたものだったが、リオセスリが人の輪を外れて龍の命に添うことについてだけは彼の意志とヌヴィレットの望みはついぞ双方の納得するところには至らず、最終的には時間切れでヌヴィレットが折れることになった。
 覚悟はしたし受け入れると決めたことだが、しわだらけだが力強い手から意志が喪われた瞬間の、ぞっとからだが冷える感覚は未だに心から消えない。消えゆくいのちを留めたい衝動を理性で押さえつけたのは、ひとえに彼に失望されなくない己の小さなプライドだった。
 だが彼の意志を無視したことを許せないとなじられたとしても、袂を分かたれたとしても、永久に喪うくらいであれば感情に従えば良かったのではないかという後悔がことあるごとに身を苛む。ひとりぶんの呼吸しか聞こえない寝室で夜目を閉じるたび、あるいは朝の目覚めにつられて彼の名前を呼ぶたびに。
 喪失感は時の砂に埋もれるものだとヌヴィレットは理解しているし実際にそうしてきたが、この奈落が埋め立てられる日は来ないような気がしたし、これをいずれ過去としてたまに痛むだけの傷跡にすることを耐えがたくも思っている。
 黙祷を終えたシグウィンは顔を上げるとことさら明るい笑顔を浮かべ、悄然と立ち尽くしているヌヴィレットに「帰りましょう」と声をかけると冷えた手を引いて雨に濡れる石に背を向けた。
「ねえ、ヌヴィレットさん」
 お互いに無言でゆるくうねる坂をくだっていると、シグウィンがふと何かを思いついたような声で話しかけてきた。
「セレスティアってどっちの方向にあるのかしら」
 ヌヴィレットは怪訝な顔で眉をひそめる。天理に関する言葉を我が眷属と定めたメリュジーヌが気にかけて口にするというのはあまり愉快なものではない。しかしとげとげしい態度を見せるのも大人げないし彼女を怯えさせることになるかと、ヌヴィレットは波立つ自身の感情を押さえ込んで平坦な声で答えた。
「おそらくあれはモンドの方――このあたりからでは東の方角になると思うが……
 よく晴れた日はフォンテーヌからでもうっすらと見える島影を思い出しながら、東と思われる方向に視線を向ける。空にはまるで高海の地にふたをするかのような灰色の雲が広がるばかりだ。
「それが何か気にかかるのかね?」
「ううん。公爵はもしかしたら今頃そこにいるのかしらって、ちょっと思っただけなのよ」
 シグウィンが小首を傾げると、頭部の愛らしい触角がその動きを追うようにふわんと揺れる。彼女はふふ、と小さな笑みをこぼしてヌヴィレットが見つめる方角に視線をやった。
「あれからずっと雨でしょう? お空からウチたちを見ようとして、全然見えないじゃないかって笑ってそうだなって」
 水龍、水龍、泣かないで。
 フォンテーヌに伝わる寓話についてヌヴィレットの思うところをリオセスリも知っているはずだが、たまにいじわるな彼はだからこそ、からかうようにそんなことをうたっているかもしれない。
 やさしい慰めの想像にうまく相槌を返せずヌヴィレットは黙り込んだ。
 口を閉ざすヌヴィレットを連れて岸辺にたどりついたシグウィンは、見送りはここまでで良いと告げると慣れた足取りで大湖に飛び込んだ。ゆらゆらと揺れる水面の向こうに消えていく小さな後ろ姿をヌヴィレットは微動だにせず見送る。
 彼女が訪ねやすいよう、対外的なリオセスリの墓をメロピデ要塞からほど近いリフィー地区に定めたのは良い選択だった、と思っている。シグウィンだけでなく彼を慕っていたメリュジーヌたちも頻繁に通っているらしく花は絶えず、マシナリーの部品や他のものが供えられている日もある。だが、彼女とともに毎日墓参を続けているヌヴィレットはまだ一度も何も供えられてはいなかった。
 愛娘が無事に要塞のパイプに降り立った気配を水を通じて感知したヌヴィレットは、凍り付いたように重い足をようやく動かし、岸辺に沿って歩き出した。
 小粒だった雨は霧雨に変わっている。空が晴れるかはさておき、まもなくいったん止むことだろう。
 シグウィンのことばを思い出す。
 あまたの人間を見送ってきたヌヴィレットは、ひとつ自分に課していることがあった。死したフォンテーヌの人々の魂のゆくえを追わないこと。
 かつてもともと純水精霊だった彼らの意識はルキナの泉に融け、時を経てまたフォンテーヌの新しい生命として循環していた。水を統べる権能を有するヌヴィレットは、やろうと思えばルキナの泉から特定の意識や記憶を抽出することもできる。さすがに時間が経過し完全に混じりきってしまった場合は難しいが、死して間もない魂であれば問題なくすくい上げることができるだろう。赦しを得て十全な人の身を得た彼らはもう水に融けることはないが、その魂はやはりフォンテーヌを巡る水――地脈に還っていく。
 だからヌヴィレットはここしばらく、意図的にそれらに触れることを避けていた。彼の意識の片鱗にでも触れようものなら、尊重してきた摂理や遺志を無視してその手を掴んで引き戻してしまいそうだったので。
 だがその努力はそもそも無駄だったかもしれないと気付かされ、ヌヴィレットは深いため息を吐いた。気が付かないなどどうにかしている。いや、どうにかしている自覚はあったがここまで腑抜けているとは思わず、こめかみを押さえてついうなだれた。
 神の一瞥を受けた者の魂は死後、天空の島に招き入れられる。であれば氷の神の目を授かっていたリオセスリの魂はヌヴィレットの統べるフォンテーヌの地で安らいだわけではなく、天空に召し上げられたということだ。
 神の目の所有者のすべてがそうであるとは限らないようだが、深海の底からもなお水面に届くほどの煌めきを天空のまなざしが見逃すはずもない。
 ひととして生きて死にたいという彼の在り方を尊重し、ヌヴィレットは唯一の片翼を永遠に喪う痛みを呑み込んで彼を見送った。
 だが、その魂がフォンテーヌを巡るのではなく、何より蔑む相手の手のうちに置かれるというなら話は別だ。
 ヌヴィレットは立ち止まり、頭上を仰いだ。まとわりつくような霧雨は既に止み、散り始めた灰色の雲の隙間から陽の光が差し込む。
 淡藤の瞳は東の空遠くを睨みつけた。