眞昼
Public 短編
 

The night's just getting started

2024感謝祭後のガラハイとバリスタ。知ることのできないことを知る。2頁目はおまけの話。

「ああ、これでやっと私の日常が戻ってくる」

 あたりにはジンジャーの仄かな刺激を含んだ温かな香気が散漫し、カップの中では微笑みを滲ませた瞳と似通った色のドリンクがゆらめいている。
 今宵初めてとなる来客の要望を満たせたことへの安堵から、バリスタは胸を撫で下ろした。

「シアトルを離れていたのはほんの数日だというのに君のドリンクが恋しかったよ」
「それはどうも。今年の感謝祭もガラさんの実家に行ってたんだったね」
「ああ。相変わらず騒々しい家でな、気が休まる暇もなかった。しかも去年は親の脚の影に隠れてこちらを窺っていたような子供が、一年立てば小生意気な口をきくガキへと見事な変貌を遂げていた」
「子供の成長はとても早いから」
「だから好かないんだ」

 は、と鋭い冷笑のような嘆息を吐くハイドだったが、バリスタはその面差しに淡い和やかさを読み取った。それはひとが良き記憶を思い出す際の表情だった。
 感謝祭が明けてから幾日も経っていないというのに、すでに懐かしむほどの時間を過ごしたのだろうか。

「だが楽しみもあった。ガラは、家族があいつの子供時代について私に話すのを嫌がるんだが、今年も期待通り色々教えてくれたよ。去年よりも遥かな収穫だ。それを平気なフリしてまるで隠しきれてないあいつの顔も、こっちでなかなか見られるものじゃない」
「感謝祭の前、ガラさんもそんなことを話してたよ」
「あいつが? 珍しいな。なんと言っていた?」
「ええと……、今年もハイドさんに色々知られてしまうかも、というようなことを」
……

 バリスタの言葉を聞き、ハイドは笑みの消えた口元の前で指を組み合わせた。
 その僅かな時間、伏せられた視線の中で思考の敏捷な光を奔らせ、そして再び目を上げた時、この店に初めて訪れた時のような虚実の全てを見抜こうとする冷徹な視線でバリスタを射抜いた。

「親愛なる店長さんにちょいと質問したい」
「なんだい?」
「君は、ガラをどんな奴だと思う?」
「え? どんな?」

 思いがけない質問に当惑するバリスタに、ハイドは更なる問いを重ねた。

「ガラはここに開店以来通っているらしいが、その時と今のあいつ、何か変わったか?」

 店を開いてもうじき十年になる。ガラは開店当初から店に通う数少ない常連客の一人だが、多くの言葉を交わすようになったのはここ数年のことだ。
 バリスタは過去と現在のガラ、外見上の変化はほとんど見受けられない二つの姿を脳裏で重ね合わせると、適切な言葉を探しつつゆっくりと返答し始めた。

……そうだな、店をオープンした当時、まだ慣れないぼくに彼はとても親切で、よく気遣ってくれた。だから口数は少なくとも穏やかでやさしい人なんだろうと思った。そういうところは変わってない。ただ、自分のことはあまり語らず、他の常連さんと関わることも少なかった。それから君がシアトルに現れ、私がガラハッドを見つけてからは……もっと落ち着いて、砕けたように思う。皆と交流して冗談を言い合ったり、自分のことも少し話すようになった。今の印象の彼が、多分プライベートの姿に近いんじゃないかな。それくらいリラックスしてほしいというぼくの願望がそう見せているだけかもしれないけど。でも、ぼくにとってはいつだって同じガラさんなんだ。例えどれほど変化しようと、唯一のね。狼の姿で現れた彼を含めて」
「そうか」

 短く頷いたハイドの感情は彼の手によって半ば隠されているために見定められないが、目の端が微かに細まっていた。恐らく、その影の下で微笑んでいるのだろう。
 しかし視線の鋭利さが解けることはなく、彼の真意には至っていないことを理解させた。

「今度はぼくが尋ねても?」
「ああ、だが気をつけろ。私が今答えたい質問にしか答えないし、チャンスは一度きりだ」

 厳しい条件が突きつけられるもバリスタは動じなかった。もとより、今この時彼に問いたいことはひとつしかない。

「ガラさんの実家で、そう思うようなことが?」

 数度の瞬きの後、組まれた手がテーブルの上に置き直される。露わになったハイドの薄い唇は、想像通り緩やかな弧を描いていた。

……きみは時に容赦がない」
「質問を間違えただろうか」
「いいや、これ以上なく正しい問いだ。では、私もそれにふさわしい答えを与えるとしよう」

 そう言って、ジャケットの内側に手を入れたハイドは手帳を取り出した。表紙を開き、スリーブに挟まれていた一枚の紙片がバリスタに手渡される。
 掌に収まるほどのそれは、古いモノクロの家族写真だった。
 十人を超える老若男女──恐らくは祖父母から孫までのひと家族──が、二階建ての一軒家を背景に、その正面玄関前に寄り集まっている。
 外壁の塗装はところどころ剥がれ、窓はガラスが割れているのか、板が打ち付けられている箇所もある。家の裏手に植っている屋根を越すほど巨きなポプラの樹の枝についた葉は残り少なく、その落ち葉が彼らの庭にまばらな模様を生んでいることや、玄関ドアに掛けられた木の実や南瓜で飾り付けられたリースから、撮影された時期がちょうど感謝祭の頃だとわかる。
 また、この写真は伝統的な家族写真としてのポートレートではなく、私的な記録として撮られたもののようだ。
 写真の中心に立つのは、一人の青年だった。
 彼によく似た父親に肩を抱かれ、もう一方の肩に母親が寄り添っている。彼らの両隣に祖父母が立ち、それからその周りを多くの子供たちが取り囲んでいる。子供たちの中には、そっくりの顔立ちをした双子や、歳の離れた兄姉に抱き上げられている幼い子も見て取れる。
 そうして家族のまん中で、彼はまだ真新しい軍服に身を包んでいた。
 やや緊張した面持ちながらもはにかんだ微笑みを浮かべる頬や、既に家族の元を離れ、どこか遠くをまなざしているような目元に、バリスタがよく知るような傷跡は見当たらない。

「これは、ガラさんのとても古い家族写真だね」
「そうだ。そしてそこに写っているのは、私たちの知らないガラだ」

 ハイドの視線はバリスタから逸れ、隣へと流れた。今は空席のそこにもう一人の影を求めるかのように。

「それは夕食後のことだった。ガラの兄弟姉妹たちが、雇用関係にあったころの私たちの話を聞きたがった。無理もない。私の元にいた頃、あいつは家族を避けていた。どのような生活をしていたかというだけでなく、あいつに何が起こっていたか彼らは知らされていなかった。後年、彼らが聞いたのは結果だけだ。だから私は、あいつがいかに仕事熱心で雇用主想いの用心棒だったか話してやった。楽しい思い出話をな。すると一人は言った。『ガラがほんとにそんなことを? あんまり想像できないな』。更にその後、ガラと私のやりとりを見ていた一人が言った。『ガラのそんな顔、見たことないかも』。私には彼らの意味するものがわからなかった。そしてあいつが席を外している最中、例の質問をされた。『あなたから見ても、ガラは変わった?』と」

 バリスタは写真に目を落とした。
 彼は変わったのだろうか。
 たしかにこの〈彼〉には若さの溌剌がある。現在の彼が巧く隠すようになった、漠然とした期待や不安も見て取れる。
 しかし家族にとってはそれ以上に、決定的に異なっているのだろう。
 彼のことを長く知る人に尋ねたくなるほど。
 この後の彼に刻まれる傷痕のような、不可逆の変質が。

「私は彼らより遥かにガラの過去を知らないし、君も知っての通り長く離れていた期間さえある。私に一体何がわかる? その問いに値するほど私はあいつを知っているのか? 私が知るのはあいつの時間のごく一部、彼らの言う変わった後のガラだけなんだ。しかしどの道、私の答えは一つしかなかった。私はこう言った。『君らのよく知るガラと私の知っているガラは異なっているかもしれないが、当時の彼も今の彼も、私にとっては同一で唯一のガラだ。彼という存在は、私の中で何も変わりはしない』と」
「ご家族はなんと?」
「皆それぞれ思うことは違ったようだった。それでもあの時、私と彼らは共通の何かを了解した。あれは奇妙な感覚だった。吸血鬼は共同体を必要としない。それ故に群れを解さない。なのに……

 頬杖をついたハイドはそこで話を区切ると、その感覚を思い出すかのように視線をゆったりと漂わせた。
 不意に、店内が無音の空間になった気がした。
 店内には耳に馴染むBGMと、外から染み入ってくる雨音や車の走行音が溶け合って響いていたが、バリスタにはかえって心音さえ聞こえるような静寂に感じられた。
 やがて弛んだ時間は速度を取り戻し、バリスタは持ったままになっていた写真をハイドに返した。
 血の泉のような目が、白と黒の陰影でそこに定着された〈彼〉を見つめる。〈彼〉もまたレンズや写真家の目を超え、時間を超え、交わることはない視線で見返している。

「これは、帰り際こっそりとガラの上の姉から渡されたんだ。ヤクの取引より慎重にな。この写真はあいつが入隊して最初の感謝祭に撮ったもので、出征までの写真はもうこの一枚しか残っていないとも聞いた。他のものは、除隊後家に戻ってきたガラがいつの間にかまとめてどこかにやってしまったそうだ。仕舞い込んでるのか捨てたのか……見たこともない私にはわからん。そんな貴重な写真を持っていてほしいという彼女に、当然私は返そうとした。すると彼女は言った。『いずれこのガラを覚えている人はいなくなってしまう。だから誰かに知ってほしい』のだと。……彼女の言いたいことが嫌になるほど理解できてしまった私に、もはや受け取らないという選択肢はなかったよ」

 言いながら、ハイドの親指の腹が〈彼〉の上を撫で滑った。決して触れられないものに触れようとするかのような、やわらかなその仕草に思わず疑問が口を衝いていた。

……そんな大事な写真を、ぼくが見てよかったのかい?」

 今夜ハイドからこの話をされたということが答えであるとわかっていた。
 これが彼にとって重大な意味を持つことも。
 だからこそ確かめておきたかった。寸分も過たないために。
 問いかけが意外だったのか、ハイドは首を僅かに横に傾がせた。

「私が君を適任者として選んだ。これ以上の理由が必要か? 君ほどの適任者はいない、と言い換えても構わない」
「それは、光栄だけど……

 そう言い切れるほど、何らかの確信を得ているらしい。
 それをどう捉えるべきかと声を躊躇わせたバリスタに、「らしくないぞ」とハイドは肩を細かに震わせた。

「記憶の保有は一人だけでは心許ないと思わないか? 知らぬ間に元の形から変容してしまう。より美しく、あるいはより色褪せる。瞬間をそのまま切り取っているはずの写真でさえ撮影者の意図が含まれ、それを見る者、見る時によっても意味合いは変化する。またどれほど努めてもこの写真は時の経過と共に退色し、いつかは失われてしまうだろう。データとして保存することや、修復復元が可能だとしても、それはもうオリジナルとは言えない。私は永遠の時間を有しているが、それだけだ。過去を正しく観測することはできない。ましてや過去を甦らせ、そこで再び生きることなど……

 なだらかな眉と瞼の間に、青い翳が降りた。
 その薄霧のような憂いの色はバリスタにいつかの夜を思い出させ、やはり同じく関係のある、ハイドの指に挟まれた紙片の中の存在を強く意識させた。

「だから私には、私以外にこの写真を覚えていてくれる者が必要なんだ。それが信頼に足る人物ならばなお良い。……なんせ君は、ここに来る全ての客の好みや状況を把握し、記憶しているんだからな」
……なるほど。たしかに理由は十分だ」
「ご理解いただけて何より。ただし、」

 言いかけたハイドの言葉に、「大丈夫だ」とバリスタは声を被せた。
 相手の言葉を阻むようなことは滅多にしない。だが今は、彼にこの先を言わせることの方があってはならないことに思えた。

「大丈夫だよハイドさん。きみの気持ちはよくわかったつもりだ。もちろん内緒にしておこう。君にさえ、このことは話題にしないよ」

 その時まで、という後に続く言葉は声にしなかった。
 それでも意図は伝わったようで、語るべきことを語り終えた合図としてハイドは写真を再び手帳に挟むとジャケットの内側に収めた。
 それはもう外側から見ることはできない。

「ふ、私としたことが。年寄りの杞憂だったらしいな」
「いや、こちらこそ遮って申し訳ない……
「謝ることはない。君はそうでなくては」

 今日は喋りすぎた、と微笑ったハイドが飲み物を求めて指をカップのハンドルにかけた時、戸口のドアベルが鳴り、重く冷たい雨の空気を引き連れて大きな人影が店内に入ってきた。
 瞬間、バリスタはハイドからの、共犯者に向ける目配せを察知した。

「おっと、主役のご登場だ」
「いらっしゃいガラさん」
「よおバリスタ。なんだ主役って。二人で俺の噂話でもしてたのか?」

 いつものようにガラはハイドの隣席に座った。
 肩や腕は触れ合いそうなほど近く、キッチン側のバリスタにはどうにも窮屈そうに映る。実際、時にはぶつかり掠めもするが、彼らがそれを気にする素振りを見せたことは一度もなかった。

「ガラ叔父さんの実家での働きぶりについてさ」
「それを言うならお前の方だろ。今年もハイドさんの面倒見のよさには驚かされたぞ。子供たちに散々まとわりつかれ、閉口しているお前の顔は見ものだった」
「どっちを向いても子犬だらけでたまったもんじゃなかった。来年までに、ガキどもに加減を覚えさせろとお前の家族に言っておけ」
「はいはいわかったよ」
「二人とも楽しい休日になったみたいだね」
「ああ」
「休暇としてはひどいが、パーティとしてはまずまずだった」
「お前も楽しんだみたいで何よりだ」
「一体何を聞いたらそうなるんだ?」

 頑として認めようとはしないハイドの様子にガラは肩を竦め、バリスタに無言の同意を求めた。
 それを微笑みで受けると、ガラの表情が朗らかに緩む。眼裏で今現在の微笑みと過去の微笑みが重なり、その相違と同一を明らかにした。

「バリスタ、いつものを頼む。カフェイン抜きの方で」
「私ももう一杯もらおう。はちみつ入りのミルクティーを」
「了解」

 それぞれのドリンクを作りながら、バリスタは二人に共通する感謝祭の思い出話に耳を傾け、時折相槌を打った。
 そして密かな予感を覚える。
 幾千もの夜を越えた先で、いつかこの一夜を呼び起こす時がくるのだろう。

「それにしても、ここに来ると日常って感じで落ち着くよ。ホリデーシーズンの忙しなさを忘れられる」
「奇遇だな。私も先ほど同じようなことを言ったんだ」
「嬉しいよ。お客さんたちにとって、ここはそういう場所でありたいと思ってるから」
「それじゃあ成功だな。これからもずっと俺たちの日常の中にあってほしいもんだ」
……願くは、な」
「善処するよ」

 これらの会話を、記憶を、あの写真を、ある種の郷愁を以て思い出すのだろう。
 ──恐らくハイドと共に。
 バリスタは完成したドリンクで満たされた二つのカップを、隣り合う二人の前へと置いた。
 連続した過去が導く現在の彼、彼らへと。

「お待ちどおさま」

 ともあれ、夜はまだ昏れ始めたばかりだ。