ロンド
14405文字
Public くにぐに
 

時不知(丁諾)

金魚ノルと童話作家デンのすこしふしぎな話。デンノル。

1,

 くぁ、とおおあくびでデンは目が覚めた。
 昨晩はどこをどう帰ったのやら、ともかくも自宅にはたどり着き、六畳間の和室に大の字で寝転がっていたらしい。カーテンを開けっ放しの窓からはさんさんと朝の光が降り注いでいた。
 とりあえず、喉が渇いた。デンはぐきぐきとこわばった身体を伸ばしつつ、ごろりと横になってから起き上がる。昭和ガラスがはめ込まれた引き戸を開け放てば、隣はちょっと狭いダイニングルームとキッチンなわけだが、どういうわけか、食卓の中央には鍋があった。イモを煮っ転がしたりするのに使う、取っ手がふたつついている、ホームセンターで二番目に安かった鍋。その赤い塗装の鍋がどんと置いてあった。
 はてさて、店を出てからの昨日の記憶が曖昧なデンは、首をかしげながら鍋を覗き込んだ。鍋にはなみなみに水が入れられて、さあこれから素麺でも茹でんべか、という風情だった。
 ぴちゃん。
 水がひとりでに跳ねた。
「んあ⁉」
 デンは水が眼に入って飛びのき、それよりも、いま見たものが信じられなくてもう一度眼をこらしてみる。
 ちゃぽん。
 眼が合った。
 ふちが茶色く染みてしまっている白い内側、たっぷりの水に、――金魚が一匹。
 透けるような青白い鱗に、白と黒と黄とほんの少しの朱が混じり、ひらりひらりと長い尾びれを揺らしている。デンは間抜けなくらいにあんぐりと口を開けた。いくら酔っていたとはいえ、金魚を手に入れた覚えはなかった。
 金魚はデンを睨みつけて、ぽこんとひとつ泡を吐いた。





2,

「たっでえまー」
「飯」
「わがってっぺよ。ほれサバ」
「サーモンは」
「売り切れだっぺよ。つか高えんだ、サーモンは」
「ケチ」
 態度の悪い居候、もとい金魚は、不満をあらわに唇をとがらせる。そんなことをしても金魚なので愛らしいばかりなのだが、それを指摘すると機嫌を悪くして一日中うんともすんとも云わず水中に沈んでいるので、デンはへらりと笑って生のサバのパッケージを開けてやる。
 デンは金魚に食べやすいように調理用ハサミで細かく千切って、いまかと待ち構えている金魚の水槽にふりかけのように撒く。金魚は吸い込むようにサバを残らず食べた。
「うめーか、ノル」
「ふつう」
 金魚はすまして答える。
 デンの手にすっぽり収まる大きさのくせに、金魚は大食らいで、自分の半分の質量はある生魚の切り身を一日に三回は寄越せと云う。しかも毎日安い魚では満足せず、ノルウェー産アトランティックサーモンを格別に好む。サーモンはノルウェー産がいっとう高い。まったく贅沢な金魚である。
 金魚にねだられて購入した水槽も、横幅百センチもあって、けっして狭くはないはずの和室のスペースを圧迫していた。その大きな青い住居で、金魚は悠々と遊泳する。花びらのような吹き出し尾を揺らして端から端までをすいーっと泳ぐさまは絵画のように美しく、デンがいつまでもじっと見ていると、視線がうっとうしいと文句を云われるのが常だった。
 金魚に食事をやってから、デンは同じ部屋の文机で仕事を再開した。スケッチブックに次の作品のデザインを練っているのだった。デンの絵は下描きから彩色までほとんどの過程をアナログで描き、最後にアイパッドに取り込んで仕上げをする。これは挿絵になり、物語もまたデンが手がける。
 黙々と鉛筆でモノクロの線を引いていると、背後でぴちゃんと金魚が跳ねる音がして、デンは顔を上げた。
 天井の三分の二は黒い天板で覆っているが、上部に取りつけたろ過フィルターのための隙間をぬって、金魚は外へと飛び出す。
 黒や黄や朱の斑点模様をまとう青白い鱗は、まばたきの間に伸び縮みして、デンと似た白い肌と金の髪へと入れ替わる。すとんと素足が畳の上に立つと、ふるふると湿った髪を振り、茫洋としたいまいち焦点が合いにくい眼がゆっくりと開かれる。魔法によって人間に変わったときには、いつも首にリボンを巻いて、白いセーラー服を着ていた。
 デンは破顔して鉛筆を置く。
「なんだぁ、やっぱしノルも興味あんのけ?」
「俺を描いでんだべ」
 スケッチブックを見ないうちからノルは断言した。つかつかと慣れた動作で数歩の距離を歩み寄り、座布団にあぐらをかくデンの肩に肘を置いた。それだけでなく、ぐりぐりと確実にダメージを与える骨の隙間に圧をかけてくる。
「いだだだだ!」
「勝手に画題にすんでね。金取るぞ」
「だってよう、あんまりきれいなもんで、描かねえのはもったいねえっぺ!」
「みっだぐねっつっでんべ」
 ノルはぎろりと睨んだが、金魚とおなじきれいな顔立ちでやるので、それほど迫力は生まれない。近所の喫茶店店主の標準的な強面を見慣れているデンは、肩のツボを的確に押される痛みに悲鳴を上げつつも、ノルの地味な攻撃を振り払った。
 デンがノルの腰を捕まえ、膝に乗せるように引けば、軽々と腕の中に収まった。ずっと水中にいた身体はひんやりとしていて、ほのかに水の匂いをまとっている。ノルは無言でもがいたが、体格や筋力の差もあってデンの膝を叩いて畳を蹴っただけに終わり、しだいにおとなしく抱き枕に徹することにしたようだった。まだ表情だけは不満を最大限あらわしたまま、白魚のごとき指先がスケッチブックをめくる。
 この数日の日付は、金魚ばかりが描かれていた。透明鱗と普通鱗のほっそりした体躯に独特な模様をえがく斑点、薄く透けるようなひれが衣装の裾のように広がり、それは数ページに渡って、まったくおなじ金魚を向きや動作を様々に描きだしていた。ノルは眼を細める。人間の芸術にうといノルでも、鏡やガラス越しに写る自分の姿がどんなものかはよく知っていて、デンの筆致はおそろしいくらいに正確だった。
「どうだ? 我ながらよく描けてっぺ」
 黙りこくったままノルは背中側に向かって頭突きした。急所に当たったデンの喉から「ぐえっ」と奇妙な音が絞り出される。少々感情表現が荒っぽい抱き枕にもめげず、デンはすりすりと頬を寄せた。ますますノルがいやそうな顔をする。
「あんこ、やんだ」
「ええでねえけ、減るもんでねえし。ノルは冷っこくて気持ちえがっぺな」
「あんこが熱すぎて体温上がんだ。水寄越せ」
「そごの水飲んでえがっぺよ」
 氷できんきんに冷えている炭酸水のグラスは、デンが作業をしながら口をつけていた。気泡はほとんど抜けている。ノルはためらうように一巡し、喉の渇きには逆らえずグラスを掴んだ。
 張った喉仏がこくりと上下する様子をデンは凝視する。グラスの水滴が唇から顎、喉のラインをつやめかしく落ちていく。なんとはなしにデンもつばを呑み込んだ。
……こりゃなんだべ。泡がパチパチするし、妙にすっぱいべや、腐ってんのけ」
「炭酸水きらいか? 炭酸とレモン汁入れてんだ」
「水!」
「ははっ、お気に召さなかったか。水だっぺな。ちっと待っでろ」
 よっこらせとノルを膝から降ろしてデンは引き戸を開けてキッチンに行った。ややあって、ノルの気に入りの真っ青な琉球ガラスのロックグラスにミネラルウォーターをそそぎ、和室に戻ってきた。
 ノルはスケッチブックを丹念に見返していて、なにやら指を差している。デンが肩が触れる距離に座り込むと、水にはちっとも意識を向けずにノルは告げた。
「二十二」
「んあ?」
「二十二あんだ。俺」
「あぁ、スケッチの数な。金魚も数かぞえんのけ。すげーなやー」
 ずいと左手を差し出され、デンは困惑する。ノルは真顔だ。手を繋いでくれという意味なのかと解釈して重ねれば、ぺちりと叩かれた。
「あほ。俺を描くんだ、んで、こんであんこは売って金を貰うんだべ?」
「こんだけじゃ売れねえべ。清書して、彩色して、物語も書いて、出版社に送って、出版すっかってなったら印刷して、そんでようやく印税が貰えんだべよ」
「人間は、印刷する前の原画とやらも売るでねえの」
 ノルは真面目くさった口調で云いつのる。金魚のノルがよく知っているものだとデンは驚き感心しながらも吹き出した。ますますノルのひたいにしわが寄る。デンは慌てて付け加えた。
「まあ、たしかに原画さ売ることもあっぺな」
 デンの本業はデンマークで発行する童話作家で、収入はまずまずだったが、それだけで食っていくのは厳しい。イラストのみの仕事を受けることもあるし、手慰みに描いた絵をネットオークションで売ることもある。
 ノルはふんぞり返って頷いた。
「つまり、モデルさなった俺にも、貰う金の権利さあんだべ」
「ははーん。小遣いが欲しいってか」
「違え!」
「わがったわがった、で、ノルはいくら欲しいんだべ」
「ひとつにつき十万円、二十二も描いてんだから、二百二十万円」
「ごじゃっぺ、どんだげぼったくりだっぺ! 一匹ずつでねぐて、せいぜい一枚につき五千円も出したら破格だべ」
「しけってんべな」
「しかも売れるかどうかわがんねえべ。習作だしよ。そっだに云うなら、きちんとノルさモデルさしで、いっとうきれいに描いだのを売って、そん売上からノルに渡すってので、どうだ?」
「全額か?」
「実際にゃ俺が描いてんだから、やれて半額だべよ」
 なかなかに金銭感覚が厳しい金魚である。じとりとまばたきもなく睨んでいたノルは、デンがこれ以上譲歩しそうにないとわかったようで、しぶしぶと首を縦に振った。もちろん、念書も忘れなかった。





3,

 はたしてモデル代と称して渡した金がどんなふうに使われるのか、デンは教えてもらえる機会をうかがっていたが、しばらくしてノルは出かけてみたいと云い出した。
 ひょいと人間の姿になったノルにしっかりと水筒と全財産の財布を肩掛けバッグに入れて持たせ、靴はデンのものを貸して、デンは云われた通りに街中の百貨店まで車を出してやった。
 日本に訪れてから早七年、二年前に地方都市の××市内に居を構えて以来、デンは基本的に気持ちよく過ごしていた。昔、港に技師を招いての異人館通りを構えたことから、いまは異国情緒の景観をもとに観光業が盛んであり、わずかながら西洋人の知り合いもいる。デンが住むのは市街地の中でも寂れた古民家の多い地区だったが、三十分ばかり車を走らせれば活気のある中心街があらわれる。
 駐車場に車を置き、デンがノルの冷たい手を引いてやると、まずノルは人出の多さ、まばゆいような明るさに驚いてひっくり返りそうになっていた。ぎゅっと握る手が離すまいと力強くなったので、デンは安心させるように握り返した。
「どこさ行きてえんだ? いや、何買うんだべ」
「服」
「金魚に服なんか必要けえ?」
 正直に声にしてしまったら最後、深海のように冷たい視線が寄越されたが、デンはめげずに口添えた。
「だってノルは金魚だばって、水草とか砂利石とか、あとはおめの好きなサーモンだとか、そういうもんを買うもんだと」
「住処の整備はあんこの仕事だべ、飯ば買うのもあんこの金だべ。俺ん金で好きなもん買って何が悪りぃ」
「けんど、服なんかどこさ着てくんだ」
「どこだってええべや、あんこは俺の云うことさ聞いてりゃえんだ」
 このままでは拗ねてテコでも動かなくなるか、走り去ってからちゃぷんとどこかの池や水槽で金魚に戻って隠れかねないので、デンはようよう了承した。金魚はエスカレーターをたいそう怖がって乗れず、エレベーターは混んでいたので、四階まで階段を登って紳士服フロアまで手を繋いだまま連れて行った。
 さてノルはどんな服を選ぶのかと思えば、おっかなびっくりであったので、デンがだいたい案内した。ノル曰く、
「こっちゃ金魚で人見知りすんだ」
 との云い訳だった。だがいくら観光客慣れしている街といえども西洋人ふたり、うろうろしていては目立つ。しかもここはサービスのよい百貨店の店舗。人の良さそうなスーツスタイルの店員が丁寧にも英語で案内を申し出たところを日本語で構わないとデンが訂正し、カジュアルファッションから見繕うことにした。
「ノルはどんなのがえがっぺ?」
……わがんね」
 ノルにとっても見渡すかぎりに服に種類があるとは思っていなかったらしい。ほとほと困り果てた顔のノルに代わって、デンはひとまず店員に全身のコーディネートを頼んだ。
 店員は今年の新作から流行りから、ごくスタンダードなものまで持ってきた。試着室にノルを押し込むと、まずいつものセーラー服の脱ぎ方もよくわからないとのたまう。結局デンも狭い試着室に入って、脱がせることになった。
……おめえ」
「早ぐせ」
「中断だ。すまん、下着先に買うべ」
 後半はカーテンを隔てた外の店員に向けたもので、おおよその状況がつかめたであろう店員もさすがはプロであり、顔色ひとつ変えず新品を差し出してお会計はお後で、と気遣いまで見せた。
 気を取り直して、肘が当たったり足を踏まれたりという苦労をしつつ一着目を着せた。カーテンを開けて鏡に全身を映す。しゃらしゃらした飾りがついているブラックTシャツに黒いチノパン。ノルはスパンコールを鱗みたいだと云った。感想はそれだけだった。
「なーんか違うっぺな」
 二着目は柄物のワイシャツとダメージジーンズ。ノルは脚が長いので裾が足りず却下。
 三着目、四着目、と変えていき、そのたびに店員はどれも似合いだと褒めたがデンはどうにもしっくりこない。ノルは五着目の試着で飽きた。
「どれでもええべ……
「いぐねえ! ノルにぴったしな服を選んでやっがらな!」
「やがます」
 十着を越えて数えるのもやめてから、デンはノルにゆったりしたブルーグレーのストライプ模様のワイシャツとスキニーパンツを合わせた。本当はもっとかっちりした格好がノルには似合っていたように思われたが、ボタンがあまり多いとノルが自分で脱ぎ着できないのでずぽっと頭からかぶれるシャツだ。それに紺色のニットのカーディガンも着せた。
 ノルも気に入ったようで、鏡を見てうんと満足そうに首肯した。そのまま着て帰ることにして、会計はノルがたどたどしい手つきで札を出すのをデンも手伝い、元着ていたセーラー服をわざわざわショッパーに入れてもらい、深々と礼をする店員に見送られた。
 いい時間だったので上階でランチをした。ノルには魚料理がいいかとデンは回転寿司を選ぶとめずらしくも素直に喜んだ。
「魚の切り身を飛ばすたあ、人間は愉快なことさ考えんだな」
 ノルは六皿目のサーモンの握りを食べていた。最近家では水槽の外に出て食卓で食べることもあって、箸使いはなかなか上手い。米の部分は一口目こそ口をつけたが以降はすべてデンに寄越されている。
 デンは甲斐甲斐しく世話をした。
「あぶねえから触るんでね、俺が取ってやっから。そんサーモンは他の席のぶんだがら。こら、触んでねえ!」
……人間ばルールばっかしでつまんねえな」
 ノルは不服そうにふくれたが、湯が出る蛇口にあっと驚いてからは黙り込んだ。
 ランチを終えると、地下階の食品売り場に寄ることにする。階段と踊り場をぐるぐる回りながらあとどのくらいだ、とデンが案内板を見上げて立ち止まったタイミングで、ノルは腕を引っ張った。
「あれなんだ」
 雑貨店のきらきら反射するパワーストーンに惹かれたらしかった。誕生月ごとに別けて、親指ほどのつるりとした石が数個ずつ陳列の箱に入っていた。ノルはビーズの石が連なるブレスレットをじいっと見つめている。
「あんこ、これなんて書いてあんの」
「十二星座だっぺな。空の星さ繋げて神様や動物をあらわして、んで、生まれた日で守りの星座が違うっつー……
「意味わがんね」
「実は俺もわがんね!」
「適当こぐな」
 ノルの興味はブレスレットから、クッションに包まれた安っぽい指輪に目を止めた。値段もワンコイン程度で、小さな石がついていた。
「それは指輪で、こーして指につけるアクセだっぺ」
 デンはノルの左手を取り、目についた紫色の石の指輪を薬指にはめてやる。されるがままのノルはぼんやりと指輪を見つめ、気に食わなかったのか反対の指で抜いた。
 そして、さきほどデンがそうしたように、ノルはデンの左手の薬指に指輪を通した。残念ながらデンの指は太くて関節で輪は止まってしまったが。
 デンは意味に気づいて顔から湯気が吹き出そうになった。ノルは意図しているのかしていないのか、涼しい顔で頷いた。
「なるほど」
……ノ、ノル! 水槽に飾んなら、あんたんが買ってやっぺよ!」
「要んね」
「そーけ!」
「俺が買う」
 すっとデンの指から指輪を取り上げ、ノルは真剣に指輪を選び始めた。デンはその間だらだらと汗をかいていた。まさか、金魚に深い意味がわかるわけがないが、ノルは金魚にしては物知りだった。そしてノルはふたつの対の指輪に決定して、会計の後、真顔で袋を寄越してきた。
 ノルの納得のいく買い物ができたので、今度こそ地下階に行った。揚げ物や弁当に混じるほのかな潮の匂いにノルが鼻をひくつかせる。人混みにはぐれないようデンはしっかとノルの手を握った。
「メダカさねえか」
「メダカ買ってどうすんだっぺ」
「毎日ちびっとずつ尾を食う」
「残酷でね?」
「残酷なもんか。奴らすぐ生えてくんべ。尾はぬめぬめしで美味えし、飽きたらまるごと食うべ。かんぞうが苦くて栄養があんだ」
……とりあえず、日本の食品売り場にメダカはねがっぺよ。シラスじゃだめか?」
 生きていない魚であることには不服そうであったが、ノルにはシラス一杯とアジの乾物を買ってやった。デンが食べるのは西京漬けの銀鮭だったが、ノルは生以外はないとばかりに睨んできた。





4,

 ちょいと忘れていたことがあった。
「コンビニ行ってくっから」
「なして」
「振込」
 支払いの大半はクレジットカードの引き落としだが、たまに銀行振込しか受け付けていないような買い物はある。おとついに史料用に通販した書籍がそうで、支払期限が今日だったのを思い出した。
 ふぅんと金魚は気のない返事をして水槽を回っている。水草や岩を模したオブジェにぶつかることもなくすいすいと泳ぐ金魚を残して、デンは財布を入れた肩掛けバッグを引っかけて家を出た。
 コンビニは橋を渡った向こうで、深夜帯であるので行き交う車も灯りのついた店もなく、デンは街灯を頼りに歩いた。よく晴れて満月が出ていた。いい月だと口笛の歌を吹いてみて、以前、夜に口笛は吹くんでねと行きつけの喫茶店の店主に注意されたのを思い出してすぐにやめた。
 二十四時間営業の店舗で所要を済ませ、開閉音を背後にデンは折り返して帰路を歩く。コンビニは魔境だ。レジの近くの冷凍庫には一年中アイスクリームやアイスバーが売っていて、深夜のおやつにデンを誘った。
 あずき味のアイスバーは硬く凍っていたのでちまちまと舐めかじりながら橋まで戻ってきて、デンは手すりにもたれてアイスバーに歯を立てる。
 真黒な川の水音がたえず流れている。昼に通りがかるときには川にはコイやカメがいるのだが、いまは眼を凝らしてみても姿をとらえられそうにはなかった。
……んだありゃ」
 川は大雨による増水に備えて急斜面のコンクリートの土手に囲まれていて、たまに橋上でコイ釣りをする人はいても、川辺に降りることはできない。底抜けに晴れた日には水底があらわれるくらいには浅い川であるはずで、たとえ飛び降りるにも足りない。まれに除草業者が許可を得て仕事をしていることもあるが、それは手元の見える昼間であるはずだ。――真夜中に川の中に人がいるはずはない。
 デンはじっと暗闇に慣れはじめていた眼で影を追う。人影のようなものは手を振っているように見えた。
 まさか転落したのか。手すりはあるが大人ならば飛び越えられないほどではなく、酔っぱらいかよほど不幸な理由か、越えてしまうことも考えられないわけでもない。起き上がったはいいものの一人ではあがれず助けを求めているとしたら。
 デンは凝視する。人影はしっかとデンに向かって、手を振っている。暗闇にはコイもカメも鳥もいないのに、人影ばかりがぽっかりとはっきりと輪郭をつくっている。
 溶けたアイスバーの水滴が手首に流れ落ちているのも気づかず、デンは手すりから身を乗り出していた。
「あんこ」
 手からアイスバーの棒がすべった。そのままもうほとんど溶けてなくなっていたアイスバーごと、川の中へ落ちてゆく。
「ああ――⁉」
 ぽちゃんと音が聞こえるはずもないのに深夜のおやつは虚空に消えた。やべえゴミ捨てちまった、とデンが思わず手すりを越えようとするとぐっと片腕を掴まれてきりきり引っ張られる。
「おい、馬鹿が」
「おおうノル! 脅かすのはやめてくんちょ! 見ろ、自然にいぐねえっぺ!」
「んだな、あんこっつう粗大ゴミさ捨てるのはいぐねえべ。いやな予感さして来てみれば……変なもん呼び込みやがって」
「遅いがら心配して迎えに来ってくれたんけ? おめえいい奴だっぺなー。あ、こん前買った服だべ!」
「怒るか喜ぶかどっちなんだ」
 デンは首をかしげる。少々帰りが遅くなったくらいでどうしてノルが不機嫌なのかさっぱりだ。直前までのことを思い返し、ぽんと手を叩いた。
「あ! もしかしてノルもあずきのアイスバー食いたかったんか!」
「あほ」
「なして俺いま罵倒されてんだっぺ!」
「さしね、帰るべ」
 手を繋ぐというよりは腕を絡めるようにぐいぐいと引っ張られて、デンはつっかえるように引きずられ歩き出す。抱きついたり手を繋いだりするのはいつもデンからで、ノルが自分からスキンシップをはかることはめったになく、デンは戸惑いながらも嬉しくなって肩を寄せた。
「なんだぁ、ノルお留守番寂しがったんけ?」
 ノルは答えない。顔を覗き込んでも視線がまるで合わない。先を急ぐようにデンを連れていく。
 自宅の敷地に入り、ノルが出ていったあとで不用心に鍵が開けっ放しであった玄関ドアを開く。靴を脱ぐために腕を離そうとしたらノルがくるりとデンと相対してぐっと顔を近づけた。
「あんこ」
「ん?」
「俺のいねえどごで、あっだらもんに誘い込まれるんでね」
「なんの話だ?」
 ノルのまばたきをしない濃い色合いの瞳の色に、水底を連想する。冷たいものを食べたからでもなく、いまさらながら背に汗がしたたり落ちる。ノルは感情の読みにくい金魚らしい無表情をつらぬいている。
「あれは道連れさ求めでる」
……あれが?」
 うすらぼんやりと、人影の形を思い出そうにもすでに、どういうものだったのかを思い出せそうになかった。ノルはそれでいいと頷く。
 デンが知るかぎりでは、このあたりで水難事故があったとは聞いたことがなかった。考えを読んだようにノルは続けた。
「都合がよけりゃ移動すっこどもあんべ。時と場所ば関係ね」
「そういうもんけ?」
「ん」
 ひたり、と冷たい体温がデンの頬を撫でさする。河童がいるならこんな手だろうかとデンは考えてみて、ノルは金魚であったと思い直す。頬に添えられた手に重ね合わせると、返されると思ってもみなかったらしいノルの肩がぴくりと跳ねた。
「心配してくれたんだべな。あんがとな」
……調子ば乗るでね」
 口調こそ乱暴だったが引きはがされはしない。デンは手をすべらせてノルの顎をとらえる。金魚としても大きめであるノルだが、魔法で人間になってもそれなりに背が高く、デンがくいと上げさせるだけでちょうどよかった。
 湿ってぬめりとした感触は水中でもそうであるようにひんやりと冷たい。
 さっきまで氷菓子を食べていたデンのものもいまは同じだった。とがらせた先っぽで隙間をつつくと逃げをうつようにノルが身を引こうとしたが、そのときには腰は抱き寄せてひたりとくっついて、衣擦れの音がにぶく響いた。
 下唇をやわく噛むと隙間がひらいたので舌先を忍び込ませる。金魚の口内とは不思議なもので、人間とは違って内側もまた冷えている。熱に驚いたようにノルはくぐもった声を出したが、デンは声ごと空と水の匂いのする泡を呑み込んだ。デンが知るなによりも官能的な甘さに痺れる。
 胸を叩かれてデンは名残惜しいような接吻を終えた。透明な泡が唇を濡らして、腫れぼったく艶めいている。ノルは何も云わなかった。まばたきをしない眼が涙を浮かべて雄弁に見つめていた。





5,

「えっ、じゃあいま、ターさん金魚飼ってるんですか!」
「んかんか、ちっとわがままだけっじょ、甘えたでめんげえんだ」
 『喫茶スウェーデン』の午前の客はたいてい、カウンター席で執筆をするデンとテーブル席で井戸端会議の主婦であり、たまに近所の活版印刷屋のフィンが居合わせる。同じ北欧出身者ということで、デンとフィンは顔を合わせれば同席する程度には馴染みの常連だった。
 店主もまたスウェーデン人で、本来の発音の難しさから巷ではスーで通っていた。フィンもフィンランド人だからで、デンもそれに倣った綽名だ。つまりそれぞれが本名とまるで別の名で呼び合っているが、いまのところ知り合い内で国籍はかぶってはいない。
「金魚さんのお名前なんというんですか?」
「金魚は名前さつけね。死ぬときに道連れすっがら不吉だばって」
 店主のスーが口を挟む。スーは日本に住み込んで最も長かった。気になったことはとことん調べる性質であるのでやたらと日本の事柄に精通している。
「あ? ペットショップの店員はそっだこと云わねがったっぺ」
「あたりめえのこどばって」
「まあまあ! 店員さんもご存じなかったかもしれませんし、日本ってそういう不思議なお話よくありますよね」
 フィンが間に入って取りなして、デンとスーはそろって気まずくも食べかけの卵サンドをかじったり冷蔵庫を身に行ったりした。故国の歴史はともかく、二人の間柄には微妙に気が合わないことはよくあって、もはやそれもじゃれつきの一種だった。
 話をそらすには気になったようで、フィンが訊ねたのでデンはスケッチブックを見せてやった。ずいぶんと増えて、水彩でやわらかに色づけしたり、クレヨンでリアル調に描き上げたり、ページをすすめるごとにフィンは感嘆の声を上げた。
「ターさんやっぱり、絵が上手ですよねえ。どれもすてきで、ほれぼれしちゃう」
「なんの、こんだけ描いても本物のほうがまっときれいだっぺ。俺の絵ばとても描きあらわせねえんだ」
「ふふっ、ターさんがそこまで云うと、まるで金魚に恋してるみたい」
「そ、そだこたぁねがっぺよ⁉」
「やがまし」
 スーが戻ってきた。眼鏡越しでも鋭すぎる眼光にフィンが大仰にびくりとする。フィンはいつまで経ってもスーの顔に慣れなかった。
「フィンはさすけね。そん男だ」
「おおう、俺は客だっぺよ! ちっと騒いだくれえで愛想悪りぃなや!」
「モーニングで三時間も居で威張るんでね」
 スーはほぼ開店直後から昼時まで居座っているデンには険のある視線を送り、少し早い昼食に来たフィンにはやや目元をやわらげてカウンターに手を出す。早くも昼食のオープンサンドを食べ終えているフィンは、食後のコーヒーにともされた皿に眼を輝かせた。生クリームがたっぷり乗せられたガトーショコラだ。
「わあ! 美味しそう……! えっと、注文してないんですけど!」
「ん、サービス」
「俺は⁉」
「八八〇円」
「ケーキセットでねえけそれは!」
「あの、ターさんも一口食べられますか?」
「フィンが優しいっぺ……
 お隣のよしみとはいえ、店主に勝手にメニューに載っていない試作品の味見係に任命されているフィンは遠慮がちに申し出る。デンは優しさにむせび泣きそうになりながらありがたく三口ほどいただいた。ケーキは美味しかった。
 デザートとコーヒーがなくなるころにはフィンに金魚を見せてやるという話になり、一緒に会計をしてデンの家に向かった。フィンが遊びに来るのは初めてでもないし、フィンの活版印刷屋はあいかわらず閑古鳥が鳴いていた。
「たでーま」
「おじゃまします」
 和室からちゃぽんと音がした。
 デンが和室を覗くと、出がけと変わらずろ過フィルターの稼働音がぶううんと鳴り響いていたが、文机の前の座布団がほんのり湿っていて、窓のレースカーテンが揺らいでいた。どうやら暇をして人の姿で過ごしていたらしいとデンは気づいたが、部屋にはノルの姿はない。
「ターさん?」
「あ、こっちだっぺ。水槽」
「わあ……立派ですねえ。あれ、金魚さんは」
 いつも端から端まで優雅に遊泳している金魚がいなくなっている。デンは水槽にへばりつくように両眼を動かした。青い光に満ちている水槽は、水草と岩のオブジェと敷き詰めた小石がアシンメトリーに美しく並べられて、デンがもらったものと揃いの指輪がひとつ、宝物のように沈んでいた。
 横で覗き込んでいたフィンが窓を見て声を震わせる。
「も、もしかして……猫ちゃんが侵入しちゃって、とか……
 最悪の想像がよぎった。
 デンは立ち上がり、家の中をばたばたと駆け回った。居間、キッチン、水回り、二階のデンの寝室。どこにもノルが、金魚がいない。
「ノル!」
 わたわたとフィンも捜索に加わろうとしたがフィンには見つけられまいとデンは確信していた。ノルが姿を隠そうと思えば、魔法でどこへでも行けてしまうだろう。そして見知らぬ誰かに飼われて可愛がられることもできてしまう。あんなにきれいな金魚なのだから、誰だってほしがるにちがいない。
 想像するとデンは張り裂けそうな胸の痛みを感じた。動揺が目に見えていたのかフィンが肩を揺らす。
「落ち着いてください、ターさん! 僕がいまから警察行って迷子金魚いないか聞いてきます、きっと見つかりますから、だから」
 デンはフィンを見てはいなかった。水槽の岩陰に透明な鱗がきらめいたのを見た。
 駆け寄ってひざまずくと、短い騒動にやれやれと云いたげに金魚が頭だけを岩の隠れ穴から姿をあらわした。寝たところを起こされたばかりのように、動きがにぶくじっとしている。ぎょろりとした眼がデンをうっとうしいと訴えていた。
「えがった……!」
 水槽に抱きつかんばかりにデンはおいおいと泣いた。見捨てられたわけではなかったのだ。フィンはよかったですねえとなぐさめてくれた。
 デンが落ち着いたころにフィンは帰っていった。金魚はフィンにも人見知りをしてから日中ほとんど姿を見せず、また隠れ穴に身体を引っ込めていたが、もうそこにいることはわかっていた。日が傾き、夜になっても身を隠しているので、そろそろデンも心配になってきて声をかける。
「ノル? 具合悪いんけ?」
 金魚は沈黙していたが、繰り返しデンが話しかけると、しぶしぶとあらわれた。ちゃぽん、と身をひるがえす。
 またたく間に人間に変わったノルは、見るからに険悪なオーラで、ハグを求めるデンの腕を払いのけた。拍子に畳にしりもちをついたデンの腹の上にまたがり、胸を押して床に引き倒す。逆光の見えづらさにデンは眼を細める。
 しばし、見つめ合っていた。心臓をわしづかみにするように胸の真ん中を抑えつけたまま膠着していたのち、ノルは焦れたようにぽつりと漏らす。
……俺は、金魚だばって、あんこが捨てるっつうなら、そん前に食わせでやる」
「ノルんごど食うわけねがっぺよ! なしてそっだこどさなっでんだ⁉」
「連れ合いさいたべ」
「ありゃ友人だっぺ。ノルを見てえっつうから、連れてきてやっただけで」
「俺は人見知りだから、やんだ」
「フィンはいい奴だっぺよ、犬っころも飼っててよ」
「犬もやんだ」
 しだいに縋りつくように胸倉をつかまれていたが、ノルの手は小刻みに震え、美しいかんばせは美しいままに歪んでいた。
「絵に描くのも物語に書くのもええ。俺以外見んでね」
「無茶云うんでねがっぺよ。おめは金魚、こちとら人間だっぺ。絵描くのも物書くのも仕事で、人間同士でやってかなきゃなんねえの、でねえとおめに小遣いもやれねえ」
「やんだ」
 取り付く島もなかった。ノルは身をかがめていまにもキスをしそうな位置でささやく。金魚のぬめぬめしたあぶくが唇をかすめた。
「金魚にキスさしたんだ、責任とんねえなら呪ってやる。あんこの口さ入って、喉さすべって、腹ん中に居座って泳いでやる。死ぬときば魂さ貰うべ。天国にも地獄にも行かせねえ。今度は俺が食らってやんだ。おっかねえが、この」
「ノルの魔法ならおっかなぐなんかねえよ。でも俺ん中さいるよりはこうしてキスさしてくれんのがいがっぺ」
 デンは本心から云った。
 ノルはデンの頭の裏側まで解剖するように睨めつけていたが、ひとつまばたきをして一粒の涙をこぼした。デンは金魚の涙を呑み込む。
「なら、キスさしでみろ」
 望み通りにデンは両手を上げてノルの身体をめいっぱいに抱きしめた。ノルが覆いかぶさってきて、デンはじっとり湿った唇を堪能する。
 人間のように身体中を愛撫してやり、透けるようなひれを水をさわるようにそっと撫でてやるとノルは身悶えした。どこもかしこも冷たく、透明な鱗と白い鱗が灯りを受けて虹色にかがやいて、よく磨かれた大理石のようにつやつやとして美しかった。デンはふと、ノルが金魚であり、泡になってしまわないかと恐れた。
「俺にはノルだけだっぺよ、金魚はノルだけだべ。そんじええでねえか……
……ん」
 ノルは息継ぎの合間にも吸いついてくる。金魚は溺れたように涙をこぼしつづけていて、デンはノルから与えられたものを残らず飲み干した。