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史加
2025-07-15 07:11:16
12172文字
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【7/20サンプル】エンドロールまで見届けて
アキ悠/心の置き処について覚悟を決めるふたりの話
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どうか本番に怯えないで
六分街でビデオ屋を経営する兄妹が結構な頻度で夜更かしをするタイプの人間であると知ったのは、彼らと連絡先を交換し、時折持ちかけられる遊びの誘いにも頷いて、私的な時間の共有が増え始めた頃のことだ。
対ホロウ六課の仕事は時間を選ばない。ひとたびホロウの活性化が観測され、他の課の人間では手に負えない超級エーテリアスの存在や異常が確認されれば、事態の深刻化を防ぐため緊急で駆り出される。無事にホロウから帰還した後は、報告書の作成を筆頭に事務仕事がたんまりとやってくるので、残業で帰りの遅くなる日が続くなんてことも珍しくない。だから丁度任務中にアキラから来ていた連絡にすぐ返事をすることが出来ず、夜も更けた頃にお詫びのひとことと共にメッセージを送ったのがきっかけだったと悠真は記憶している。
もう寝ているかもしれないと思いながらも送ったメッセージにあっさりと既読がつき、返事がきたときは、通知音で起こしてしまったかと罪悪感を覚えたものだ。だからお詫びの言葉を重ねたのだが、それに対するアキラの返事はこのくらいの時間までなら大体いつも起きているという内容だった。プロキシ業が忙しくビデオ屋の事務仕事が溜まってしまっているときや、仕入れたばかりのビデオの鑑賞にのめりこんでしまったときはもっと遅い時間まで起きているし、夜更かしをしがちなのはアキラに限った話でもない。だから夜中でも気兼ねなく連絡してほしい、そのほうが時間を思い出せることもあるから、なんて優しく返されて以来、悠真はたまに残業終わりの夜更けにふたりへメッセージを送っている。
実際彼らはあまり早寝をしないようで、家に泊まりに行ったときも三人で日付が変わるまでビデオを観たり、他愛ない話をして過ごしたりした。眠いけどまだ寝たくないなんて言い出すリンをなだめたり、いつまでもベッドに横たわらずスマホを触っているアキラをたしなめたりと、悠真自ら夜更かしを咎めたことだってある。だから気まぐれに送る夜中のメッセージは、悠真から兄妹に対しておこなわれる抜き打ちテストみたいなものになりつつあった。
『プロキシ専用夜更かし防止アラームが二十三時とちょっと過ぎをお知らせしま~す。今日はもうギターに触ったりしてないよね?』
連勤五日目を終えて終電を待ちながら、悠真は今日のターゲットをリンに定めてメッセージを送る。地下鉄のプラットホームにはくたびれた様子のサラリーマンや酔っ払いがまばらにいて、電車の到来を知らせるアナウンスが流れるのを静かに待っていた。地下特有の湿った生ぬるい空気には彼らの疲労感が滲み出しているのか妙な質量を感じる。風の恋しくなる夜だ。
『もう寝ようと思ってたところ。悠真は今仕事終わり?』
ぱっと画面に浮かぶメッセージがありふれた陰鬱な空気を紛らわせる。口元が緩むのを感じながら、悠真は指を滑らせて返事を打った。
『そうだよ。今週ずっと残業続きでようやく解放されたんだよね』
『そうだったんだ、お疲れ様』
『ありがと。明日は一日休みだしあんたらの顔でも見に行こうかなって思ってるんだけど、二人ともいる?』
『私もお兄ちゃんもいるよ。お店のほうもそんなに忙しくないしいつでも来て!』
『あ、でも』
とんとんと小気味よく進んでいたやり取りが、不意にテンポを崩す。
何か気掛かりなことでも思い出したのだろうか。急かすでもなくリンからのメッセージの続きが来るのを待っていると、自宅の最寄り駅へ向かう地下鉄が間もなくホームにやって来るとアナウンスが流れ出す。
『最近、お兄ちゃんの夜更かしがひどいんだよね。今日もまだ寝る気がないみたいで隣からずっと物音がしてて、このままだと気になって私も眠れないかも』
ぽこんと続きの言葉が送られてくるのと、電車が澱んだ空気を割いてホームに入って来るのはほぼ同時だった。
鉄の塊は悠真の前でゆっくりと動きを止めて、深夜労働を嘆くようにエアー音を響かせる。ホームにいた人々が開かれた扉の向こうへと吸い込まれていく中、その場に立ち尽くしたままの悠真は電光掲示板を一瞥した後、スマホへと視線を戻した。
『疲れてるところ悪いんだけど、もしよかったら今晩泊まりに来ない? 悠真がいたら夜更かしなんてしないで大人しくベッドに入ってくれると思うし。私、ビデオを片付けるついでに下で待ってるから!』
指先を動かすより先に届いたメッセージに、やっぱり僕たちは気が合うね、と口の中で言葉を転がす。
イアスと感覚共有して一緒にホロウに入るのは大体アキラだが、相棒の妹もまた相棒と言えるくらいにリンとも意気投合することも多い。ふたりに事情を知られている悠真は日頃から何かと甘やかされている自覚はあるけれど、彼らがただ一方的に優しさを与えるだけのお人好しでもないことを知っている。本当に困ったときや、打てる手を打っておく必要があると判断したときは他者の手を借りることを厭わない人間だとわかっているから、ある程度遠慮なく彼らを頼りに出来るのだ。
手を差し伸べるタイミングと、手を貸してほしいと頼まれるタイミングがぴったり一致するのは慣れなくてなんだかむずがゆい。だけど悪くない感覚だし、もし何かアキラが思い悩んで眠れぬ夜を過ごしているのなら、彼が眠気を思い出せるまで話を聞いてやりたいと思う。エーテリアスになる悪夢に苛まれて満足に眠れぬ夜を過ごしていた悠真にかつてそうしてくれたことがあるように。
ひと気のなくなったホームに電車の出発を知らせるアナウンスが大きく反響する。疲れ切った人々を飲み込んだ鉄の塊が過ぎ去っていくのはあっという間で、悠真だけがその場に取り残された。
六分街駅まで走る地下鉄は、こことは別のホームに入って来る。うっかり置いていかれないよう悠真は早足で階段を上り、目当てのホームへと歩いて行った。
コン、とノックをひとつ。今日は残業上がりでくたくたなので許してくださいね、なんてどうでもいい言い訳を胸の中で唱えて叩いた扉は、十秒と待たずに開いた。
「おかえり、悠真!」
一日の疲労を感じさせない笑顔でリンが出迎える。
おかえり、と初めて出迎えられたのは、悠真が初めて泊まりに来たときのことだ。そのときはあまりにも突然のことだったから困惑したし、その次からは悠真の反応を見て急ぎすぎるのもよくないと思ったのか、いらっしゃい、と出迎えられるようになった。けれどここに泊まりに来る回数が片手じゃ足りなくなった頃からまた自然と言われるようになって、今ではそれが当たり前になっている。当たり前と言っても家族のように受け入れられるのはまだまだ悠真には慣れないことで、心臓のはしっこがくすぐったくなるのだけれど。
「ただいま、リンちゃん」
むずがゆさを推し堪えながら紡いだ四文字は、最初の頃と比べるとほとんど不自然なところのないなめらかな音になった。そのうちもっと慣れて本当の意味で当たり前のものになるのかな、なんて思っていると、リンがどこか嬉しそうに笑う。優越感さえ滲んでいるように見えるのは悠真の気のせいだろうか。
「うんうん、おかえり! 突然呼んじゃってごめんね、今更だけど悠真の家の猫ちゃんは大丈夫? あと薬とか」
「大丈夫、うちには僕に似て優秀なボンプがいるし、徹夜での残業に備えて薬も余分に持ち歩いてるから。夜の分はオフィスを出る前に飲んできたし、明日の朝に一回帰れば問題ないよ」
「じゃあ明日はお兄ちゃんに悠真を家まで送っていってもらわないと。そのためにも今日こそ早く寝てもらうんだから」
ふんと鼻を鳴らさんばかりの勢いで言うリンだが、内心ではアキラのことを案じているのだろう。この兄妹が素直にお互いを思い合っているときもあれば、余計な心配はさせまいと敢えて気丈に振る舞っているときもあることを悠真は知っている。本当に仲の良い兄妹で、世間一般的な「家族」というものを知らない悠真にとっては尊く、まばゆいものだ。だからこそそんなふたりが築いているものの片隅に招かれつつある人間として、憂いを拭う手助けが出来るのならしてあげたいと思う。
「それじゃ早速、アキラくんを寝かしつけに行こうかな。リンちゃんも夜更かししないで早く寝なよ?」
「うん。あとちょっとで片付けが終わるし、今日は絶対夜更かししないから安心して。悠真も早く休んでね。おやすみ〜」
軽やかに笑うリンにおやすみ、と返して階段を上り、悠真はアキラの部屋へ向かう。扉は閉ざされているが、キーボードを叩く音がかすかに聞こえた。寝支度もせずに作業をしているのだろう。
プロキシ業に関わるものなら邪魔をするのはまずいかと、悠真は一瞬躊躇いそうになる。けれどこんな夜更けまで仕事をするのは褒められる行為じゃない。それに新エリー都の安全を最優先とする対ホロウ六課とは違い、いくら伝説のプロキシであってもそこまでの緊急性を要する依頼はないはずだ。六課の仕事の一端で彼らの協力を仰ぐときですら真夜中に突然呼びつけたりはしないのだし。
自宅の最寄り駅へ向かう終電を見送った時点で、引き返すという選択肢はもう断たれている。気を取り直して、悠真は目の前の扉を一度だけノックした。足を踏み入れる許可を得るためではなく、自分がやって来たことを知らせるために。
「プロキシ専用夜更かし防止アラームが零時ちょっと前をお知らせしま〜す」
自ら扉を開け放つと同時に、おどけた声でそう告げて足を踏み入れた。
「うわっ、え、悠真
……
⁉」
ガタッと音を立てて椅子から立ち上がったアキラが、闖入者を認めるなり碧色のひとみを丸く見開く。驚愕に染まる表情をしかと見つめた後、悠真は眉を顰めそうになるも手慣れたやり方でそれを耐えた。
金糸雀色のひとみが真っ先に捉えたのは、アキラの目の下に作られた隈だ。プロキシ業が忙しいときにもそれが出来ているのを見ることはあるけれど、今日悠真が見たものは今まで見てきたものよりも色が濃い。これはリンが悠真を頼りにするのも頷ける。三百六十五日兄の顔を見ている彼女だからこそ、その表情の変化や寝不足の程度だって誰よりも分かるだろうし、手を打たなければならないと判断したのだろう。
はてさて、どうやって寝かしつけようか。夜更かし防止アラームなんて名乗ったわけだし、直球でもいいか。
幸いにも残業続きの割に悠真の体調は安定していて、夜中に悪夢でも見ない限り発作を起こす気配は今のところない。なので飄々とした笑みを浮かべたまま、茫然としているアキラへと歩み寄り、びしっと目元を指して口を開く。
「おーっとアキラくん、これは見過ごせないな。さては最近ずっと夜更かししてたでしょ。こんなに目立つ隈作っちゃって」
「ええと
……
」
「しかもパソコン立ち上げたままで全然寝る準備してないし。もう日付が変わる時間だっていうのに」
言いながら、悠真はアキラの表情を観察する。図星を突かれた碧のひとみが焦ったように揺れたあと、少しずつ諦念の色を滲ませていくのを確かめる。連日の夜更かしを指摘されたことに対する単純な居た堪れなさではない、もっと別の何かが露呈することをおそれるような。それを避けられないことに気付いたような、そんな表情だった。
そもそも何故夜遅くまで起きているのか。リンの様子を見るに裏稼業が立て込んでいる訳ではないし、ビデオ屋でなにか大きなイベントをやるという話も聞いていない。ならばほかに眠れない理由、あるいは眠りたくない理由があるはずだ。たとえば、繰り返し同じ悪夢を見るとか。
――
悪夢を見たときは遠慮なく言ってほしいし、話し相手が欲しくなったら深夜にメッセージを送ってきたって構わない。
……
いつだったか、僕にそう言ってくれたのはあんたなのになぁ。
受け入れられていると思ったはずの場所にはまだノックひとつでは開けてもらえない扉があることに気付いて、少しだけ胸の奥が痛くなる。けれどそれをおくびにも出さず、悠真はアキラの手を掴んでベッドへと引っ張っていった。
「悠真。その、どうして君がここに?」
「最近あんたがずっと夜更かししてるってリンちゃんに聞いたから、残業終わりの身体に鞭を打って様子を見に来たんです~。そしたら案の定ひどい顔してるあんたがいたってわけ。クッタクタに疲れてる僕が泊まっていくっていうのに、まさか今日も夜更かしして僕の安眠を妨害したりなんてしないよね?」
「それは、もちろん。そうだ、その格好のままじゃ寝づらいだろう? 僕の着替えで良ければ貸すよ。シャワーもまだなら勝手に使ってくれて構わないし」
「シャワーならオフィスを出る前に済ませてきたから大丈夫。着替えだけ借りるね」
言葉を交わしながら悠真はアキラをベッドに座らせ、ついでに彼のポケットに入っているスマホも抜き取ってやった。絶対にもう今日はインターノットを眺めさせないし悠真よりも先に寝てもらうのだと意気込んで、つけっぱなしになっていたパソコンもシャットダウンすると、アキラが申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「悠真。怒らせてしまったかい」
怒っているのか、と言われても、悠真はこれが怒りであるのか判断がつかない。なぜアキラが眠れぬ夜を過ごしているのか、その理由を打ち明けてもらえないことを寂しく思うけれど、自ら踏み込む勇気もない人間が怒るのはお門違いだとわかっているからだ。
「
……
怒ってはいないよ。とにかく、今日は早く寝てもらうからね。ほら、さっさと横になって。それとも何? 僕の生着替えを見ていたいとか?」
「それはそれで魅力的だな」
「ええ
……
そこで開き直るとかアキラくんったら変態。まあいいけどね、あんたに見られたところで減るもんでもないし」
重くなりつつあった空気を払拭するように軽口を叩いて、悠真は勝手知ったるアキラの部屋の中を歩き、クローゼットからスウェットを一組引っ張り出す。何度か借りたことのある黒一色のそれは半ば悠真用となっているようで、いつの頃からか決まった位置に仕舞われるようになった。拝借することにもう躊躇いもない。
アキラとリンという、温かくて美しい家族の輪。その片隅に加えられることに、最初は戸惑いばかりを覚えていた。着替えを借りるのも、彼らの生活スペースにお邪魔するのも慣れなかったし、あまりの居心地の良さについ気が緩んでしまう自分の存在に気付くたびにこのままでいいのだろうかと自問したのも記憶に新しい。
もし居場所を作ったとして、いつかそのときを迎えたら。「浅羽悠真」という人間が占めていた場所にぽっかりと空く穴は「傷」という名前になって残ってしまうのではないか。それは、この尊くまぶしいものに翳りを生みかねない、おそろしいものにならないか。そんなものをこのふたりに残してしまっていいのか。
恐れがなかったといえば嘘になる。今だって、恐怖は悠真の心臓の裏側にひっそりと張り付いていて、時折逃げを打たせようとする。だけど同時に、悠真はこうも思っている。
自分の過去を、今までひとり抱えてきた真実を打ち明けて、これほどの関わりをすでに持ってしまっている相手に何も残してやらないのも、それはそれで寂しいことなんじゃないか、と。
悠真の師匠は黄色のハチマキと武術、そして未完成ながらも悠真のためだけの特効薬を残していってくれた。それは悠真が今の居場所
――
対ホロウ六課にたどり着くまでの支えとなり、そこで生き続けていくために必要な力となった。彼と過ごした日々の記憶も、憎むべきだった彼に対して捨て切ることの出来なかった親愛も、すべて今の「浅羽悠真」をかたちづくる糧となった。師匠が何も残してくれていなければ、今の悠真は存在しなかっただろう。
そう考えると、かたちあるものでも、そうでないものでも、情念を抱く者に対して何かを残してあげる、というのは意味のあることであり、大切なことのように思えるのだ。
けっして相手に苦しんで欲しい訳ではないし、自分の葬式の時には笑っていてほしいと思うくらい、相手の幸せを願っている。けれどそのためにいつかの別れと、そこに生じる傷の痛みを自分勝手に推し量って遠ざけるのが正しいことなのか。それは違うだろう。それが正しいことなら、悠真はとっくに間違いを犯している。
だって、もうアキラと約束を交わした後だから。
「ほらアキラくん、寝るよ」
手早く着替え終えた悠真は部屋の照明を消し、まだベッドに寝転がっていないアキラを奥へと追いやって空いたスペースに潜り込む。いつもなら背を向けて眠るがそうはせず、両腕を伸ばしてアキラの頭を捉え、自分の胸元に押し付けるように抱き締めた。銀灰色の髪からほのかに漂うシャンプーのかおりが鼻腔を掠める。勇気を振り絞った心臓がばかみたいに早鐘を打っているのはきっと聞こえてしまっているだろう。情けないと思うけれど、アキラにはもう散々悠真の格好悪いところを見られているから、今更それがひとつやふたつ増えるのはかまわない。減るものじゃなければ、それでいい。
「明日は一回帰ってうちの子の様子を見に行きたいから、運転よろしく。それが終わったら一日暇だから、あんたの好きにしていいよ。どう?」
普段通りの声で囁くと、強張っていたアキラの身体からふっと力が抜けた。悠真の背に腕が回り、ゆっくりと抱き締め返される。どこか縋り付くような力の込め方だ。なんとなく悠真はアキラが眠れなかった理由が自分にあるのだろうと察した。
詳しいことはやはりわからない。アキラが自ら告白してくれたのなら何だって受け入れるけれど、こちらから尋ねる勇気までは振り絞れない。
ただ、覚悟はもう出来ている。
「
……
じゃあ、明日の君をどこへ連れ回すか、考えておくよ」
「うん。グラビディ・シアターで映画を観てもいいし、ルミナモールで買い物をしてもいい。ポート・エルピスに立ち寄るなら、風に吹かれるのもいいね。あんたと一緒ならきっと良い一日になる。僕はそう信じてるし
……
アキラくんも、信じてて」
番えた矢を引き絞るように、指先にほんの少し力を込めて伝えた言葉は、真っ直ぐアキラに届いただろうか。
届いているといい。届かなかったのなら、届くまで何度でも紡ぐ。その日が来るまで、何度だって。
「おやすみ」
いつもならアキラが先に紡いでくれる言葉さえも、この日悠真は奪い取った。同じ言葉は返ってこない。初めて泊まりに来た日、アキラに「おやすみ」と言われたときの自分もすぐにはそう返せなかったな、なんて思い出しながら目を閉じる。
たまにはアキラが遅れを取るばかりの日があってもいい。いつも彼は悠真を気にかけて、家族のように大切に思ってくれているけれど、それなら悠真がアキラを気にかけるときもなければ対等とは言えないだろう。
少なくともアキラとリンを見て、家族とは対等なものなのだと悠真は理解した。だから朝を迎えたら「おはよう」も奪い取ってやるし、悠真に先を越されるくらい寝過ごしてしまえばいいと思う。半分寝ぼけまなこのアキラが時計を見てぎょっとする顔が見たい。もうすぐ昼じゃないか、って慌てながら支度をするアキラを、リンとふたりでけらけら笑いながら眺めてやりたい。
一か月後、半年後、一年後にも同じような日常を迎えられるかは分からないし、一年後も変わらずにこの日常があるよ、なんて口が裂けても言ってやれないけれど、そんな明日がやってくるのを信じていることくらいは、何度だって伝えてあげられる。
――
ねえ、アキラくん。
あんたを傷付けちゃう覚悟は出来てる。交わした約束が守られなくたっていい。もしかするとそのとき僕はあんたのために謝ってしまうかもしれないけど、気にしないで。
代わりに、いつか未来で笑ってよ。
リンちゃんとふたりきりの家族の輪のはしっこについた傷を撫でて、そういえば「浅羽悠真」ってやつがいたなって。
少なくとも僕らは、出会わなければよかったなんてお互いに思っていない。いつかそのときを迎えたとしても、そんな後悔なんてしない。痛みも愛しさも一緒に抱えて、前へ進んでいける。そうでしょ?
時間は誰に対しても平等に流れていく。止まない雨がないように明けない夜はないし、今日は必ず終わって明日がやって来る。
ここのところ、真夜中に隣の部屋から魘される声が聞こえることがあった。兄のそんな声を聞くのは初めてではなかったけれど、「特定の誰か」の名を呼ぶ声を聞くのは初めてだった。
兄は誰に対しても柔和な態度で接するし、必要だと判断すれば優しく手を差し伸べる。ただ、リンも分け隔てなく人と接し、手を差し伸べる性格だけど、兄は懐のどこまで入り込むことをゆるすのかを慎重に判断するきらいがある。要するに、誰に対しても一定以上に優しいけれど、特別はなるべく作らない。そんな雰囲気があるひとなのだ。
そんな兄が「先生」以外の特定の誰かの関わる悪夢を見て魘されるなんてことは初めてで、けれどそういう日が来るのも当然か、と理解した。その誰かはリンにとってもずいぶんと近しい場所にいて、夏に太陽を仰ぐあの花のようなまぶしさをすでに刻み付けているからだ。
兄に「特別」が出来たことを、妹として喜ばしく思う。いつか訪れるその日の痛みはリンも一緒に分かち合うつもりでいる。そういう覚悟で少なくともリンは兄を相棒と呼ぶあの青年を家族として受け入れることを選んだ。ただ兄と彼の間にあるリンの知らない何かが兄の覚悟を揺らがせているのなら、それをどうにか出来るのは彼だけだろう。
だって、彼は全部
――
兄もリンも考えが追いつかないところまで覚悟を決めていて、そのうえで家族の輪に加わることを選んでくれたのだから。
「ねえイアス、聞いてよ」
いつもより少しだけ早起きをした朝、三人分の朝食を作りながらリンはお手伝いをしてくれているイアスに話しかける。
「昨日悠真がね、ただいまって言ってくれたの。一回も迷ったり、つっかえたりしないでそう言ってくれたのは初めてで、私すっごく嬉しくなっちゃった。お兄ちゃんよりも先に聞いちゃったの、自慢していいよね?」
「ンナ!」
じゅうじゅうとベーコンの焼ける音とにおいに包まれたキッチンに、イアスの嬉しそうな声が響いた。
「案外そのうち何の連絡もなしにただいま~ってうちに帰ってきてくれるようにならないかなぁ。悠真の家の猫ちゃんとハルマサボンプも連れてきて、うちで一緒に暮らせたらいいよね。そしたらイアスにもお友達が出来るし」
「ンナンナ」
「ね、きっとそうなったらすごく楽しいよ。そのためにもお兄ちゃんには腹を括って頑張ってもらわないと!」
「ンナナ!」
力こぶを作るポーズを見せるイアスにふふっとリンは笑って、こんがり焼けたベーコンを白い皿の上に移し、余分な脂を取り除いて今度は卵を割り落とす。
家族だからと言ってもすべてを分かり合えるわけではない。ただ、一から十まで理解していなくても支え合うことは出来る。
たとえば、悠真がリンからのメッセージに応じて駆けつけてくれたり、リンとアキラが差し伸べた手を躊躇いながらも握って家族として扱われることを受け入れてくれたりしたように。ふたりが喧嘩をしたらリンは第三者の立場で話を聞いて、平等な判断の下どちらかの味方になってあげるし、いつか悠真がいなくなったらぽっかりと空いてしまった穴のかたちをアキラと一緒になぞってやれる。
近いうちにやってくる「いつか」を恐れる気持ちがリンの中にまったくないわけではないけれど。
「大事なのは「今」だって、他でもないうちの悠真が言ってるんだもん。だったら家族として一緒に大事にしないとね」
リンの覚悟はもう決まっている。
だからあとは彼を「特別」としたアキラの覚悟が決まることを祈り、出来る限り支えるだけだ。
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