史加
2025-07-15 07:11:16
12172文字
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【7/20サンプル】エンドロールまで見届けて

アキ悠/心の置き処について覚悟を決めるふたりの話


いつかの予行練習




 エーテル侵食の進んだ瓦礫の山で作られた鈍色の世界。
 温度のない篠突く雨。
 雨垂れに煙る世界の中、金糸雀色のひとみが細められて。濡羽色の睫毛が静かに影を落として。下がる眉が、痛ましい笑みを作って。
 枯れて色を失った唇が、最後の言の葉を散らす。
――――――――

 

――悠真!」
 夜更けの空気を割いた声は、悲鳴に近かった。
 かっと開いた目に見慣れた天井が映る。そこに無機質で空虚な灰色はひとかけらも見当たらない。ただ、まるで雨に打たれたかのようにアキラの額も首筋も汗で濡れていて、前髪の張りつく感触が不快だった。
 緩慢に身を起こして、深く息を吐き出す。早鐘を打つ心臓をなだめるには呼吸を整えるのが肝要だ。ゆっくり息を吸って、吐いてを繰り返しながら、ブランケットを掴んでかろうじて残っている理性の手綱を握り締める。まかり間違っても己の心の安定のために、時間を考えずに相手に縋るような真似はしたくない。
 全身に残るざわつきが薄れていくのを待ちながら、いつかバレたら怒られるだろうなとアキラは思う。
 ――悪夢を見たときは遠慮なく言ってほしいし、話し相手が欲しくなったら深夜にメッセージを送ってきたって構わない。
 そう悠真に優しく伝えたことのある口で、今はつとめて深い呼吸を繰り返し、焦燥と恐怖を飲み込もうとしている。今日が悠真を部屋に泊めていない日だったのは不幸中の幸いだったと言えばいいのだろうか。ただアキラがあの朽ちゆく夢を見るのは何も初めてのことではないので、時間の問題である気もした。
 霧島の一件で悠真がその身に抱えるものを、彼から伸びる影の色の濃さを知ってから、アキラは何度も夢を見るようになった。それは、彼がアキラの目の前でエーテリアスと化す夢だ。
 最初はただ目の前でエーテリアス化する彼を見ているだけだった。けれど夢の内容は少しずつ変化していき、あるときからアキラは異形へと変わりゆく彼に手を伸ばすようになった。残念ながらその手が届いた試しはなく、何度虚しく空を切ったかはわからない。どれほど藻掻いても、一度たりとも悠真の手を掴めたことはなかった。それどころか、今日は払いのけられてしまった。
……
 じっとりと汗ばんだ右手を持ち上げて、アキラは情けなく震える手のひらを見つめる。
 悲しげに笑った悠真の姿が脳裡に浮かぶ。色を失った唇が紡いだ言葉と、夢の中であるにもかかわらず伸ばした手に確かに伝わった衝撃が蘇って、胸の奥のやわいところをぎしりと軋ませる。
……約束、したじゃないか」
 こぼれ落ちた声に滲むのは、自責の念だった。
 アキラは悠真と大切な約束をしている。約束とは交わした以上守らなければならないものだ。だから悪夢を見るのなら、それは化物となる彼へただ手を差し伸べるだけの生ぬるい映像ではなく、もっと残酷な一幕でなければならない。この程度の悪夢で飛び起きてしまうということは、覚悟が決まっていないことを意味する。そんな自分ではいつか悠真を苦しめるだけだ。
 心臓が平素の落ち着きを取り戻したことを確認して、アキラは右手を握り締めた。
 次にまた夢を見るときには、この手を払われてしまってはいけない。ただ差し伸べて、手を握ろうとするだけでもいけない。握らなければならないのは刃で、その切っ先が彼の心臓に届く夢を見なければいけない。
……はは」
 だけどそんな悲劇、誰が簡単に受け入れられるというのだろう。
 ほんの少し想像しただけで目頭が熱を帯びて、鼻の奥がつんとする。引き攣った、弱々しい笑いがこぼれて、胸の奥がずきずきと痛む。
 ――ゴーヤジュースだとか、ブラックのコーヒーだとか。苦味を好む理由ひとつですら、悠真が背負っているものは重たい。
 彼が繰り返し反芻し、摩耗させることで受け入れた痛みは、はたしてどれほどあるのだろう。その行為はどれほど身を削るもので、苦しかったことだろう。同じことをしようとしてアキラはこんなにもままならなくなっているのに、どうしたらあんな人前で平然としていられるくらい強くなれるのだろう。
 何度ひとりで涙を呑んだのか。悲鳴を押し殺したのか。拙くなる呼吸を必死に取り戻そうと足掻く夜を過ごしたのか。感じる痛みが擦り切れるより先に、自分の身と心が擦り切れてしまいそうになる不安だってあったに違いない。そんな日々を、いったいひとりでどうやって乗り越えたというのか。
 考えたってアキラには分からない。アキラが出会った浅羽悠真という男は、すでに艱難辛苦を飲み込むのに慣れた後の姿かたちをしていた。だから出会う前の彼について考えたところで何ひとつ分かるはずもなかった。
……情けなくてごめんよ。だけど君が僕に預けてくれた信頼には応えてみせるつもりだ」
 夜の帳に決意を忍ばせるように呟いて、目を閉じる。
 正直に認めるしかない。今はまだ全然覚悟が決まっていないでいる。けれどアキラの中に、悠真に対する並々ならぬ情があるのも確かなことだ。そうでなければあの約束を交わすことなんて選べやしない。
 だから悪夢を見る夜を、アキラはひそやかに繰り返していく。
 
……アキラくん。あんたにできっこないことを、頼んじゃって、ごめんね。バイバイ』
 
 あの強くて優しい彼にそんな悲しいことを、いつかの現実でも言わせてしまわぬように。