文月
2025-06-30 01:16:37
13843文字
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あの日の

果欄のお仕事についてのお話2本。
大ボスと王九の昔話とかも。

※映画ベースの妄想です。
※著しく倫理に欠ける表現があります。
※女性に対する差別的用語、展開が含まれます。
※死体損壊についての表現が含まれます。
※この話にCP要素は含まれませんが生産ラインの脳みそは王大です。



あの日の空


 あの日もこんな、晴れ渡った空だった。


 その年、2月の香港はまるで春のような陽気が続いていて、日本からやってきた私はその気候にもすこしばかり浮かれ酔っていた。

 大学卒業を控えた早めの春休み。志望していた記者としての採用とは違うものの、大手出版社への就職が決まっていた私は卒業旅行に香港を選び、この雑多な土地へとやってきた。
 しかしながら一緒に同行するはずだった友人が急な事情でキャンセルとなり、花の卒業旅行はあえなく一人旅となってしまった。
 しかしそれはそれで一人なりの楽しみ方もあるだろうと、私は父から借りたNikonF3を手に、記者よろしくあちこち写真をとって回ることにしたのだ。

 初めて降り立った異国の地。日本とは違う空気の匂い。空の色。
 ざわめく雑踏はどこかノスタルジックで、私はあっという間に香港の虜になった。
 雑踏を、街中を、路地裏を、市場を、商店を、私はとにかく夢中でカメラのシャッターを切った。そこには人々の生活と鮮やかな色彩があって、その光景をファインダーから覗けば、今の忙しない日本が忘れて置いてきた哀愁のようなものを感じられた。
 そうしてそんな光景に気付き、カメラに収めていく自分は特別な審美眼を持っているのだと、私は少しばかり思い上がり写真家気分に浸っていたのだ。
 だから街の様子をカメラに収めることに夢中になっていた私は、廟街から奥へ奥へと進み、油麻地へと足を踏み入れていたことにちっとも気付いていなかった。
 繁華街の裏手から何ブロックか進むだけで辺りの様子は様変わりし、果物を扱う卸街が目前に広がる。しかし昼間の時間は市場が動いていないのか、観光客向けの商店と市場労働者向けらしい飲食店何軒かがひっそりと営業しているだけだ。

(つまらないなあ、市場の活気ある様子が撮りたかったのに……

 私はそんなことを考えながら、でももっと奥の方なら撮りたい光景があるのではないかとカメラを構え、考えなしにどんどん奥へと進んでいった。
 浅はかだった。あまりにも。
 だから急に怒鳴られ腕を捕まれたとき本当にびっくりして、私は固まってしまった。反射的にふりほどこうと身をよじる。相手はまだ若い男で、長い髪に派手な柄シャツ姿だ。
 どう見ても市場の労働者ではない。怒鳴る様子は柄が悪く、チンピラにしか思えなかった。しかもこちらが英語で謝っても言葉が通じていないらしく、相手はますます激昂していく。
 私は半泣きになりながら、必死に捕まれた腕をふりほどこうと暴れた。肩に掛けたままのショルダーバックがばさばさと揺れる。

「止めてください。離してよ!」

 いくら日本語で言っても通じる訳はない。恐怖と混乱で足がすくむ。でもそこに救いの手が差し伸べられた。
 市場へ続く通路の奥から、誰かがこちらへ向かって歩いてきている。人影は二人。そのうちの一人が何かを話す。広東語だろうか? そうすると私の腕を掴んでいた男は弁解する口調でもごもごと何かを言って、手をを放してくれた。
 気が付くと人影はもう私の目の前で、そうしてようやっと私はこの窮地を救ってくれた恩人の顔を見る。
 一人はそろそろ老齢に差し掛かろうかという白髪の男性だった。恰幅の良い身体に白シャツとつなぎをまとい、足には長靴、胸元には翡翠のネックレスが揺れている。
 柄シャツの男が彼の言葉で手を離してくれたということは、雇い主、もしくは市場の責任者なのかもしれない。彼は私の目にはどこにでもいそうなありふれた香港のおじさんに思えた。
 それに対してその後ろを歩く人物は一目見て異質だった。長い髪に腕をまくった柄シャツ。おまけに黒いサングラスをかけ、雨でもないのに片手には傘を持っている。
 身にまとう雰囲気からして堅気ではなさそうだった。その上彼は明らかに不機嫌な様子でおじさんの後ろにだらりと立っている。
 どうしよう。一体どうしたらいいんだろう。私が困り果てていると、目の前のおじさんが声を上げた。

『Is something wrong? Miss?』(何か問題でも? お嬢さん?)

 癖のない流暢な英語だ。驚いて顔を上げると、おじさんは人の良さそうな笑みを浮かべた。私はここでようやっと言葉の通じる人が現れたことに安堵する。

『実は、ちょっと道に迷って奥まできてしまったら、そこの人に腕を捕まれてしまって……

おじさんは英検二級の私でも分かるように、ゆっくり穏やかな口調でこう続けた。

『ああ、それはウチのものがすまないね。何か勘違いしていたんだろう』

 おじさんがそういって私の腕を掴んでいた柄シャツの男にむかって追い払うようにシッシッと手を振る。そうすると男は苦虫を噛み潰したような表情でその場から立ち去っていった。

『ずいぶん怖い思いをさせてしまったみたいだ。申し訳ない』

 おじさんはすまなさそうに頭を下げる。そうしてシャッターが閉まり、空の果物棚が並ぶ商店前に転がっていた簡易椅子によいこらしょと腰かけた。

『いやあ、年をとると足腰が弱くなっていけない』

 おじさんがそういって小太りの身体を揺らし笑う。しかしその後ろに立つグラサンの男は、相変わらず不機嫌そうな様子だ。

『お嬢さんは観光客かい? もしかして一人旅なのかね?』
『はい。初めての一人旅で。一昨日香港にきたばかりなんです。香港は本当に素敵な所ですね』
『いやそうか。それは良かった。それでお嬢さん、あんたもしかして日本人かい?』
『ええ、でもどうして?』
『そりゃあ手にそんなカメラをもっているから。私も日本は大好きだよ。カメラ、カラオケ、車、日本の製品はどれも素晴らしいね』

 おじさんは自分は大老闆と呼ばれているこの辺りの市場の責任者だと名乗った。ラオパン小父さんとでも呼んでくれと言い、ニコニコと笑う。そうしておじさんは私に人懐っこく話しかけてきた。
 どこに泊まっているんだい、なるほどじゃあこの後どこかに向かう予定が? ああ、じゃあ夜のレストランの予約はとってあるのかい? とってないならあそこのお店は安くて美味しい、逆にあの通りのお店はぼったくりだから気をつけた方がいい、なに私も昔やられたことがあってね。諸々の話はどれも楽しく、私はすっかりお喋りに夢中になっていた。

『ああ、もうこんな時間だ。私はこのあとちょっとした用事があってね。こんな年寄りの話につきあってくれたお礼に知り合いの茶餐廳でお茶の一杯でもごちそうしたいから、先に行っててくれないかい? なに大して待たせることもないさ。用事はすぐに終わるから』
『そんな悪いですよ』
『気にすることはない。若い人と話すのは年寄りのちょっとした楽しみさ。店まではこいつに案内させるから心配はいらないよ』

 ラオパン小父さんはそう言って相変わらず無言のまま不機嫌そうに立っていたサングラスの男の方を示し、広東語で一言二言なにか伝えていた。サングラスの男は色付き硝子越しでも分かるほど不満そうな表情を浮かべている。
 私が尻込みしているのに気付いたのか、ラオパン小父さんがやれやれといった表情で口を開いた。

『いや、こいつはうちの甥っ子でな。市場の仕事を手伝わせているんだが何度言ってもこの趣味の悪い服装を改めんのだ。若い奴らにはこういうのが流行ってるのかね。私には分からんよ』

 ラオパン小父さんの眉を下げた困ったような表情がおかしくて、私は少し吹き出してしまった。それを見てお爺さんは柔らかいどこから見ても優しそうな善人の顔で笑う。

『何も心配はいらないよ。私の方から茶餐廳の主人にも連絡しておこう。とびきりのお茶とお菓子を用意しておいてくれとね』
『じゃあお言葉に甘えて。・・・・・・あっ、そうだ写真を一枚撮らせてもらってもいいですか?』
『もちろんだとも』

 にっこりと笑うラオパン小父さん。その後ろに立つサングラスの男は面倒くさそうに横を向いてしまう。なんだかそれも可笑しくて、私は「はい、チーズ!」と日本語で笑いながら声をかけ、シャッターを切った。ラオパン小父さんも声を上げ笑っていた。

 だから私はすっかり安心してしまったのだ。その笑顔に。



※ ※ ※



 その年の2月は例年にない快晴が続いていて、「その日」も抜けるような青空が広がっていた。


 その日、王九は退屈を持て余していた。
 大老闆に同行して暴力の予感がする「お話し合いの場」とやらに出向いたというのに、意外にも穏やかに交渉が進んだためだ。
 この後イレギュラーな予定は入っておらず、大老闆と共に果欄の事務所へ戻り、その後はいわゆる通常業務に戻る予定だった。
 しかし今日の会合場所が油麻地の端にある店であったため、会合終わりの大老闆は珍しく車に乗らず歩いて戻ると言い出した。滅多に来ることがない地区であるからには己のシマの端から端まで見ておきたいということなのだろう。
 大老闆が果欄のこの区域にまで来ることは滅多にない。それだけに目の届かないところで何か粗相をやらかしているものがいないか自分は常に眼を光らせているぞ、ということを対外的にアピールしておきたいのだろう。
 長年右腕として働いていればその辺りの考えはまあ普通に読める。読めるが、それはそれとして面倒くせぇな、というのが王九の素直な感想だ。

「あー大兄貴、本当に歩いて戻るんですか? 三十分は掛かりますよ」
「なんだ、文句でもあるのか」
「いや、そうじゃないですけど、ちょっと不用心では?」
「何のためにお前がいるんだ」

 面倒くさいです、をうまく隠して進言してみたつもりであったが、ばれているのか大老闆はふんと一つ鼻を鳴らすと振り返ることもなく車を降り、道を渡っていく。そうなるといくら面倒であっても放っておく訳にもいかず、チッと聞こえない程度に毒づくと王九は何人かの舎弟を連れしぶしぶとその背を追った。
 そうして始まった行脚はそれでも最初はなんとか順調であった。地域の商店主人に平身低頭話しかけられたり、ヤクと売春の拠点にしている茶餐廳の売人が冷や汗を流しながら挨拶してきたり、大老闆の当初の予定通り急な果欄散歩は威圧としてきちんと機能しているように思えた。「それ」が起こるまでは。

 それは茶餐廳の主人兼売人と大老闆が店先で話をしていた時だ。
 この店は一階は飲食店、二階はいわゆる売春宿で果欄に着く船乗りたちが主に利用することが多い店だった。船乗りたちは外国人が多く、言葉が通じない中、廟街まで出かけるのを嫌うものも多い。港に近いこの場所の娼窟は一定の需要があった。
 大老闆と店主が話す傍ら、一階に置かれたちゃちなプラスチックの椅子とビールケースに板を乗せただけの簡易テーブルで早めの夕食を食べている金髪の女が目に付く。肌を見せた服装に派手な化粧。頬がこけ健康的な様子ではない。まあ間違いなく二階の売春婦だろう。しかし何もそれは珍しい風景ではない。裏通りへ回ればいくらでも見ることができるごくごくありふれた情景だ。だから王九も視界の隅に留めながら、最初何の注意も払ってはいなかった。
 大老闆と冷や汗をかいた店主が店先で話初めてからしばらくして、プラスチック椅子に座っていた金髪
の女が急に立ち上がった。その手にはさっきまで使っていた箸が握られている。
 女は何か叫んでいた。しかしそれは狂乱しているからなのかそれとも外国語だからなのか、何を言っているのかさっぱり分からない。王九が分かったのは女ははっきりと大老闆を睨み叫び声を上げた、ということだけだ。

―――××××――×××!!!!!!!」

 王九はいち早く動き、女と大老闆との射線の間に身体を滑り込ませる。

「はぁ? なんだお前」

 そう王九が声を上げるの同時に、女は手に握ったままだった箸を振り上げ、真っ直ぐに走り出した。女の目は間に入った王九を見ていない。その視線は真っ直ぐにその後ろに立つ大老闆を射抜いている。
 瞬時の判断で王九は硬気功を使い、防御を固めつつ肩口で女の身体を跳ね飛ばした。体制を崩し女が握っていた箸がバラバラと地面へと散らばる。それと同時に王九は女の喉をがっちりと片手で掴み、締め上げながら持ち上げた。
 ほんの数センチ、地面から女の足が浮きじたばたと宙をかく。そのまま柔らかい女の喉に王九の指先は埋まってゆき、パキンと軽い音が響くと、もがいていた女の足はだらりと力を失った。王九が手を離せば、ただの肉塊となった女の身体が砂埃を立てながら地面へと転がっていく。
 王九が靴先で地面にうつ伏せに倒れた身体をひっくり返すと、女の腕にはいくつも注射針の跡があった。ヤク中だっただろう。しかし王九はそれに何の感慨もなく視線を外すと、振り返って声を上げる。

「大兄貴、せめて避けるフリぐらいはしてくださいよ」
「なんでだ。お前がしっかり仕事をすりゃあいいだけだろう」
「いや、そうですけども。・・・・・・ところでこの女、大兄貴のイロっすか? 恨み骨髄って感じでしたが」
「そんなわけあるか。背景も吐かせる前に始末しやがって。少しは頭を使え」
「これはリスク回避ってやつですよ。女の身元なんかすぐに洗えるでしょう。大兄貴に何かあったら大変ですから」

 笑みを浮かべ忠実な犬っぷりをアピールすると分かっているとばかりに大老闆は鼻で笑った。その表情が「お前が暴れたかっただけだろうが」と雄弁に語っている。

「すぐに洗えるってんならこの女の件はお前が仕切れ。今日はこのまま事務所へ戻る。車を回させろ」
「分かりました。任せてください」

 鬱屈した衝動のまま振るった暴力のツケはデカかったなと、王九はしらじらしい笑みを浮かべた。



「九哥、この前言われてた例の女の件なんですが・・・・・・」

 あの襲撃とも呼べない事件から数日後、王九は夜の事務所で蛙仔から呼び止められた。そうして「そういえば面倒くさくなって例の女の件こいつに丸投げしたんだったな」と思い出す。

「茶餐廳の主人から話きいてこの荷物預かってきたんですが、例の女はやはり店の娼婦だったみたいですね。二年前に売られてきた日本人だそうで。それでこれがその女の荷物だそうです。見た感じ不審なものはありませんでした」

 目の前の蛙仔は抱えていた段ボールを示す。彼の体格もあってか随分と小さく感じるこのたった一つの段ボールがあの女のすべての荷物だという。

「荷物の中に日本製のカメラが入ってました。何でも唯一女が売っぱらってヤクの金にせず、大事に持っていたものらしくて。中にフィルムも残ってたのでそれ現像したやつも入れてあります」
「ああ、分かった」

 そういって王九は蛙仔から段ボールを受け取る。渡し終えると、持ち回りの仕事へ向かうのか蛙仔は足早に事務所を出ていった。大老闆から何か言いつけられているのか、他の舎弟たちも連れだって出て行ったため王九はやけに静かになった事務所に一人取り残される。
 渡された段ボールは大した重量もなく、片手で抱え込めるほどのものだ。
 へぇ、なるほどと思いながら、王九は麻雀牌を乱雑に端へ寄せ、テーブルの上でその段ボールを開く。いくつかの衣服、そして何枚かの絵葉書。宛名は日本語なのか王九には読めない。消印も押されていないことから、結局出すことはなかったのだろう。あとはいくつかの生活用品と蛙仔が言っていたカメラ、そしてそれを現像したらしい写真の束があった。
 写真を手に取り一枚一枚めくっていく。何の変哲もない風景写真が続いている。市場や大通り、いかにも観光客が撮りそうなそんな写真ばかりだ。
 続けてめくっていくと、見覚えのある風景がいくつも出てきた。果欄周辺の市場や裏路地を歩く猫、そうして、ああと王九はここにきてようやっと思い出した。あの女。何も分かってなさそうな運の悪い日本人の女。ああ、あの女だったか。なるほど。

 おぼろげな記憶を辿る。あれは特別な日でもなんでもなかった。ただただ運悪く、世間知らずな観光客が黒社会の爺に売り飛ばされた日だ。それも落ちている小銭を拾うぐらいの気安さで。
 端で見ていて気味が悪いぐらいにあの時の大兄貴は善い人ぶっていて、しかもそれが恐ろしいほど板についていたから王九は笑いをこらえるのに必死だった。
 あの人は自分が他人からどう見られているか、どう思われているかをイヤというほど熟知している。恐れる娼窟の主人には黒社会のボスの顔を、もの知らずな観光客には人の良い市場の責任者の顔を、それぞれ適切なタイミングでものの見事に使い分ける。あの女はそれに見事にだまされ、ペラペラと個人情報を漏らし、結果叩き売られることになった。
 泊まっていた宿が安いホステルなのも良くなかった。後で女の荷物を回収してパスポートを取り上げてしまうのもたやすいし、一人旅なら行方不明者として警察に届けが出るのも遅い。
 ただただ運が悪かったのだ。あの日、あの場所で大老闆に出会ってしまった。そうして個人情報を漏らしてしまった。少しの不安を感じながらも茶餐廳へ出向いてしまった。そのどれもかちょっとした判断ミスを積み重ねてしまった結果だ。
 もしどこかの段階で不審を募らせた女が逃げだし、ほんの数ブロック隣の廟街にまで辿りつけていれば、大兄貴はあちらと揉め事を起こしてまで女を連れてくることをよしとはせず、そして架勢堂のボスは女にはめっぽう甘く、女が逃げ込めば匿うぐらいのことはしただろう。
 もしくは売り払われるとはや気づいていれば、そこで支払われる金額よりも高額を自分の家族が払うからと交渉することもできただろう。
 だからこれはただただ女の運が悪かった、判断が甘かった、頭が悪かった。それだけの話なのだ。

 王九は女を茶餐廳へ連れて行った時のことを思い出す。なにやら英語で話しかけてきていたが面倒で言葉が分からないフリをしてやった。ああそうだたしかどこへ行くのか? ということをしきりに尋ねていたように思う。しかし答える代わりグラサンを外してにっこり笑ってやれば、大兄貴ほどではなくとも女を黙らせるには十分だったらしく、黙って後を着いてきて笑い出したくなったものだ。
 その後はそのまま茶餐廳の主人に引き渡して自分の仕事は終わりだったが、女がその後どうなるのかは想像に容易い。
 来るはずもない大兄貴を待っている間に茶餐廳の主人に中国茶を振る舞われ、不慮の事故で茶器を割ることになる。そうしてその茶器は大変高価な価値あるもので、怒った主人に女は激しく詰め寄られ恐怖で思考停止している間に「弁償出来ないなら、店を手伝ってくれ」と持ちかけられるのだ。それが売春であるとも知らずに。
 あとは荷物を取り上げられ、二階の小部屋へ押し込められて訳も分からないまま借金返済のために客を取らされる。そしていつしか客に勧められるままヤクの味を覚えていったのだろう。クスリにまで手を出してしまえばあとは一気に落ちるだけだ。借金を返しきることもできず、ただその場の薬代を稼ぐために身体を売り続け搾取されるしかない。ああそれでも。それでもそんな愚かな女にも一つだけ感心できるところがあった。
 誰の所為でこんなことになったのか、誰が一番悪いのか、誰を一等恨むべきなのか。愚かな女だったがそこだけは一瞬もはき違えなかったのだ。
 自分をこきつかい働かせる娼窟の主人でもなく、ヤクを教えた客でもなく、ただあの日、人の良い笑顔で自分を騙した黒社会のボスを殺したいほど恨んでいたのだ。その一途さは驚嘆に値するだろう。

 写真の束を一枚また一枚とめくっていた王九の手がぴたりと止まった。それは果欄の市場で売り飛ばされる前に女が撮った写真だった。
 抜けるような青空の下、市場のシャッター前でどう見ても善人にしか見えない顔で大老闆が笑っている。その後ろには横を向いた己が写っていた。
 ひゃははっ。思わず声が漏れる。

「あー、気持ちわりぃ」

 そういって王九は手の中の一枚を破り、他の写真と共にゴミ箱へと捨てた。