葵@はなれ
2025-06-16 23:13:47
6665文字
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埋み火

連れ子同士の🌿🌹のお話。


エレベーターから降りた途端、横から強い風が吹きつけた。
向かいに立つ別のマンションとの間にビル風が通るようで、今の季節はともかく、冬場は少し堪えるかもしれない。
なぶられた髪が実休の首筋を撫で過ぎ、顔にまとわりつく。ふわふわとくすぐったい感覚も、黒からアッシュグレーを経て白へ変わる色合いも、久しぶりすぎて、まだ落ち着かない。
そわそわするのは、髪型の所為ばかりではないけれど。
無造作に髪を整えている間に、目当ての部屋の前に着いた。表札は出ていないが、部屋番号は聞いていたもので違いない。廊下に張り出した出窓に置かれた、黄色いヒヤシンスの鉢も、彼が送ってきた写真と同じだ。
小さな花が寄り集まった、可愛らしい様子に笑みを誘われ、知らず張りつめていた気持ちが、ほっとゆるんだ。

………………

深呼吸を、ひとつ。それから意を決して、指を伸ばした。

 ――ピンポン

変哲もないチャイムの音に、意味もなく肩を竦めた直後、慌ただしい足音が聞こえて、扉が勢いよく内側へ開いた。

……やぁ」

用意していた筈の言葉は、すこんと抜け落ちて。
軽く手を挙げた格好で立ち尽くす実休を、靴も履かずに扉を開けた福島がまじまじと見つめ――くしゃりと笑った。

「何でチャイムなんか鳴らしてんの。鍵、渡したでしょうが」
「うん
荷物は?」
「あ、ええと」

まとめてみると、持ち出す荷物は思ったより少なかった。家具や家電はないから、段ボールに詰めたのは衣類や本。細々とした身の回りの品もキャリーバッグひとつに収まって、あとは寝具類くらいのものだ。
それらは宅配便の単身者用引っ越しパックで送って、今日は手回り品だけ持っていくから手伝いは要らない、という事は、あらかじめ福島には伝えていた。
ボディバッグひとつ身に付けたきりの身軽な実休の姿に、怪訝そうだった福島の顔が、ふと曇る。
勘違いを悟って、実休は急いで口を開いた。

「下にあるよ。友達が車出してくれる事になって、他の荷物も全部運んでもらったんだ」
それを早く言えよ」
「ごめん
「駐車場? 待たせてるなら、早く取りに」

言い終わる前に、スニーカーを履きかけている福島の肩へ手を掛けた。え、と目を丸くするのに構わず、彼の身体ごと、押し込むように玄関に踏み込む。
背後で軋む音を立てて動く扉が閉まるか閉まらないかのうちに唇を奪った。反射的に押し返そうとした手を絡め取り、腰を引き寄せて、深く。

「ん

一瞬、戸惑うように揺れた瞳に、じわりと水の膜が張った。所在なげに浮いていた片手が、おずおずと実休の背に回り、次いで強く掻き抱く。

「は福島ふくしまッん、」
「実休……んぅん、は、ぁふ

探り合うようなキスは、次第に激しさを増し、遠慮のない水音を立てて互いの唇を食らい合う。名前を呼び合うのすらもどかしく、乱れた息遣いだけが薄暗い玄関に響いた。
閉じられない口から唾液がこぼれ、二人の服に染みを作る。じゅう、と吸い上げ、飲み下せば、痺れるほどに、甘い。
熱を帯びた吐息すらも残らず欲しくて、息を継ぐ合間に静止の声が混ざっても、ただ夢中で貪った。

――っきゅ待、……待て、って」

ぺちん、と気の抜けた音が頬で弾けた。
はたと我に返った実休を、赤味がかった色の瞳が見返す。実休の性急さを呆れるように、仕方ないなと許すように。
瞬きした拍子に睫毛の先でしずくが弾け、光って散るのを、きれいだと、思った。

本当に、いいんだな」
「うん」

新卒で入った会社を辞める事も、カフェへの再就職の件も、両親は反対しなかった。
家族の為に犠牲を払ったつもりはなかったけれど、長男が最初の就職を決めた意図には薄々気付いていたのだと思う。
家を出て弟と一緒に住みたいと伝えた時も、二人が決めた事ならと快く背中を押して、送り出してくれた。
実際の所、彼等がどこまでを承知しているのかを考えると、冷や汗を禁じ得ない。忙しくとも、子供達には分け隔てなく心を配ってくれる父であり、母だったのだ。長男と次男の間に起きた事に、何も気付いていなかった、とは――今となっては、到底、信じ難い。
秘密に出来ていると思っていたのは自分達だけで、それも含めて、あの頃は子供だったのだと、今更ながらに痛感する。
それはそれとして。
親不孝の償いは別の孝行で返すとして。

「此処で暮らすよ。君と一緒に」

ちゃんと、追いついたよ。
実休の言葉を聞いて、福島が二度、瞳を潤ませた。ぐす、と鼻を啜る彼に手を伸ばして、うなじに指を差し入れる。
今は肩に届く程度まで伸びている髪は、学生の頃のように毛先だけを赤く染めている。高い位置で結ったハーフアップも、昔、よくしていた髪型。
癖が強く、スタイリングに苦労する髪質は末っ子と同じで、けれど、触れれば存外にやわらかく、さらりと指の間を通り、その手触りが好きだった事を思い出した。
思い出して――思い出さなければならないほど遠ざかっていた事を実感して――不意に目頭が熱くなった。
どうして、諦められるなどと思っていたのだろう。
こんなにも、彼の事が愛しくてたまらないのに。

もう、離さないからな」

ぐっと胸元を掴まれて、チャコールグレーのシャツに皺が寄った。「再就職祝い」の熨斗を掛けて送られてきた、実休が好きなブランドのシャツは、サイズもぴったり合っている。
似合わないと言われた白いワイシャツに袖を通す事は、きっと、もう、ない。

「うん」
「やっぱりやめるって言っても、聞かないし」
「うん」
……次、逃げたら、ぶん殴るから」
「逃げないよ」

髪から離した手を、頬へと滑らせる。こぼれ落ちる寸前の雫を指先で拭い、こつりと額を合わせて。

「もう、逃げない。――待っていてくれて、ありがとう」

追いかけてこい、と彼が言ってくれたから。
色褪せた世界に立ち尽くす自分に道を示してくれたから。
背を向けて、諦めて置き去りにしてきたすべて拾い集めて、また此処に――彼の前に戻ってこられた。
赤らんだ目元に口付けると、福島がくすぐったげに笑う。
手を離した頃よりもずっと大人びた、成熟した男の顔。
けれど浮かべる笑みは、出会った頃と、あまり変わらない。

止まっていた時間が再び動き出す音を、二人共に聴いた。