葵@はなれ
2025-06-16 23:13:47
6665文字
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埋み火

連れ子同士の🌿🌹のお話。

「兄ちゃん。ネクタイ貸して」

ノックの音に、声を返して。
顔を覗かせたのが上の弟だった事と、頼み事の内容とに、実休は二度、目を瞬かせた。

「ネクタイ? ええと何用の?」
「普通の。明日要るのに、どっか行った」
いいけど」

一本しかないのか、という言葉は飲み込んだ。
就活中は苦々しい顔をしつつも、きちんと締めていたのに、内定が出た途端、これだ。今後、使う機会も増えるのだから何本か持っておいた方がいいと、父にも言われただろうに。
クローゼットを開け、手持ちのネクタイを見繕う実休を、弟は部屋の入口で、戸枠に寄りかかるようにして待っている。部屋に足を踏み入れようとはしない。
実休の留守中に入り込んで、勝手に本を読んでいる事も、ベッドに寝そべってゲームをしている事も、もう、ない。

「どれにする?」
「じゃ、これ」

最初に目に付いた物、という感じで選ばれた濃紺の織地はシンプルで、どんな場面でも悪目立ちはしない。深味のある色合いは、弟の甘く華やかな顔立ちを引き立たせるだろう。
もっとも、締める本人は憂鬱げにネクタイを見下ろして、似合うかどうかを気にするどころではなさそうだが。
はーと露骨なため息を吐いた後、ふと顔を上げた弟が、真正面から実休を見た。睨むと言う程には険のない、けれど穏やかとも言い難い視線に、思わず、たじろぐ。

やっぱり、白シャツ似合わないよ」
「えっ

唐突な駄目出しに面食らいながら、実休は自身の服装を見下ろした。帰宅後、上着とスラックスはハンガーに掛けたが、ワイシャツは洗濯に出すからと着たままだった。
昨夜、アイロンを当てたばかりの真っ白なシャツも、一日の労働と家事の後で、少しくたびれている。
色白と言うよりは青白い自分の肌に、白が似合わない事は知っている。左の頬から鼻梁にかけて広がる赤痣が、肌色をくすませて見せる所為もあるだろうか。
出来れば黒かグレーのカラーシャツでも合わせたい所だが、勤めている職場には『内勤者は白のワイシャツのみ可』という暗黙のルールが存在している。
理由も根拠も不明な謎の決まりだが、シャツの色で仕事をする訳ではないし、同僚や上司は、実休が似合わない服装で勤務していても何か言いはしないから、特に不満はない。

「髪も、前の方がよかったのに。何で切ったんだ?」
さすがに、会社勤めであの髪は出来ないよ。君だって」
「大人になったよな」

ぽつりとこぼれた言葉に、揶揄の響きはなかった。
ひたと当てられた視線は相変わらず凪いで、発した言葉の真意も、込められた感情も窺わせない。
喜びも怒りも哀しみも、衒いなく表していた、くるくると変わる表情が向けられなくなって、ずいぶんと久しい。
それを淋しく思う権利は、実休には、ない。
何と返したものかも分からないまま、途方に暮れた気分で、実休は弟の髪を眺めた。就職活動の為に切って染め直して、如何にも真面目な学生然とした様子に整えられている、髪。
美容室から帰った彼を見た時、自分はどうしたのだったか。下の弟と一緒になって、格好いいよ、などと、心にもない事を言った気もする。
瞬間的に抱いた違和感と寂寥を、未だに飲み下せもせず、抱え込んでいるくせに。

「一人で、さっさと大人になって、俺を置いていったんだ」

今度こそ、実休は息を飲んだ。どくん、と鼓動が響く。
こんな流れで持ち出されるとは思わなかった。
この五年間、互いに話題にする事すらしてこなかった。
蓋をして、遠ざけて、忘れようとしていた記憶。
それが、つい昨日の事のように、溢れ出す。

――シーツの上で乱れる髪は、今と同じに黒く、今よりも少し長かった。混ざり合う汗と、匂い立つ肌の香り。
煽られる情欲のままに昂りを打ちつけるたび、熱い吐息に泣くような喘ぎが混ざる。
「じっきゅう」と縋るように呼ぶ、蕩けた掠れ声ごと貪り、飲み下せば、脳の奥から甘く痺れが広がった。
もっと欲しい。全部。余す事なく、すべて。自分のものに。
十九年間の人生で初めて覚える衝動と渇望は止め処なく、貪欲に実休を支配し、突き動かした。
飽和する快楽を眦からこぼしながらも、兄の劣情を、弟は少年の青さを残す身体のすべてで受け止めた。

親同士の再婚で家族になった時、弟は四歳。父によく似て、朗らかで情深く、やんちゃで、優しい子供だった。
兄とこそ呼んでくれなかったけれど、三つ年上の実休とはすぐに打ち解け、懐いて、産まれた時から一緒に居るように仲良くなった。
可愛くて、大切で、愛しくて。
三年後に産まれた末っ子の事だって、兄馬鹿の自覚がある程度には可愛がっているけれど、初めての『弟』は、特別で。

きれいで純粋だった筈の、愛は。
何処で、何を間違ってしまったのだろう。

もうやめよう、と一方的に言い渡したのは、実休だった。
ぽかんと見返した弟が、その頃伸ばしていた髪を花飾りの付いたゴムで結んでいて、そんな女児めいた髪型も相俟って、ひどくあどけなく見えた事を覚えている。
何を言われたかを理解した途端、その顔が見る見る失望と怒りと悲しみに歪み、けれど弟が口を開く前に背を向けた。
感情の奔流を受け止める事すらせずに、これは彼の為だと言い聞かせて、痛む胸に気付かないふりをした。

おためごかしだったと、今なら認められる。
自分は逃げただけだ。
誰からも愛される弟を、歪んだ愛情で穢した罪の意識から。何も知らない家族を裏切り続ける事への恐怖から。

関係を終わらせて程なく、弟の実休への態度は変わった。
両親や末っ子の前では他愛ない話もするし、笑顔も見せる。家族としての接触を拒まれる事もなく、勉強や進路の相談を持ち掛けられる事もあった。
けれど、幾度も肌を重ねた、この部屋には決して入らない。
急に「兄ちゃん」と呼び始めたのも、あれからすぐだった。
それが彼の答えなのだと、言葉にせずとも理解した。

(置いていかれたのは僕の方だと思っていた)

握り返してくれた手を放したのは、正しいと信じていた。お互いの為に、そうするべきだと。
事実、弟の人生は、兄との過ちを断ち切った事で、正しい、在るべき道へと戻った筈だ。
よき友人達に恵まれ、花の学生生活を優秀な成績で終え、希望していた就職先への内定も難なく勝ち取った。
順風満帆の、陰りのない人生。実休が望み、願った通りの。
多くの人と出会って――今度こそ正しい愛を、見つけて。
祝福と、喜びに溢れた日々の中で、一年にも満たなかった時間は忘れられ、灰となって、痕も残さず消えていくのだ。
実休一人が、あの日に立ち止まったまま。

「ふ、く

からからに乾いた喉に絡まった声を、何とか絞り出した時、階下から場違いに軽快な電子音と、末っ子の声が聞こえた。電話をしてきたのは両親のどちらかだろう。長期出張の間も、日に一度の電話は欠かさない人達だから。
ちら、と階段の方を見た弟は、実休へ視線を戻した時には、いつもの素っ気ない様子に戻っていた。

「ネクタイ、ありがと」

何事もなかったかのように、向かいの自室へ戻っていく弟の背中から、実休はそっと足元に視線を落とした。
廊下を隔てた、たった一歩。手を伸ばせば届く距離。
それが今は、果てしなく、遠く感じられた。

――兄ちゃん」

は、と顔を上げる。
自室の入口で、背を向けて立つ弟の顔は見えない。

「俺、就職したら家出るから」
「え
「親父達にも話した。光忠も、来年は高校生だし。そろそろ、兄貴に保護者ぶられるのも、鬱陶しい年頃だろ」
「あ、あぁ……そう、かな
「だから、」

軽く仰け反るように、弟が肩越しに実休を見た。
父によく似た、赤味がかった色の瞳が、切れ上がった眦に少しぎこちない笑みを滲ませて、実休を映していた。

「俺の髪が元の長さに戻るまでには追いかけてこいよ」


* * *


二階に上がってきた末っ子に声を掛けられるまで、其処にどれくらい立ち尽くしていただろう。
どうしたの、と心配してくれる彼に適当な言い訳をして、閉じた扉から視線を剥がすように、実休は自室に戻った。
ベッドに身を投げ、天井を見上げると、電灯の光が滲んだ。

転職、しようかな)

仕事で留守がちな両親に代わって末っ子の面倒を見る為に、家から近く、残業がないという条件だけで選んだ職場だった。これといった不満はない代わり、張り合いもない。
流れてくる業務を淡々と繰り返すだけの、単調で穏やかで、少し窮屈な職場で、代わり映えのない日を続けていくのだと、漠然と思っていた。けれど。
額に掛かる前髪を、つまんで眺める。少し伸びて、そろそろ切らなければいけないと思っていた所だ。
学生時代は肩を過ぎるほどに伸ばして、アッシュグレーのグラデーションに染めていた髪は、就活を始めた頃に切った。ちょうど、今の彼と同じく。
ふわふわした手触りが好きだと笑って、戯れに指を絡めて、口付けられた髪。
未練と執着ごと切り落とした自分を見て、あの時、既に『弟』に戻っていた彼が、何と言ったかは覚えていない。
翌春に大学へ進学した彼が、まるで入れ代わりのように、色こそ違っても似たカラーリングを入れてきた時も、結局、理由は訊けず仕舞いだったけれど。

(髪――また伸ばしてみようか)

今の職場では無理だが、就職までアルバイトを続けていたカフェは、店員の髪型には寛容だった。
結局、お茶どころか飲食業ですらない業種に就いたくせに、紅茶やハーブについての本や、資格の勉強に使った参考書を捨てられなかった自分の未練がましさに、苦笑がこぼれる。
ついでに目尻を流れた涙を、ぐいと拭った。

髪を、伸ばそう。
彼と同じ長さまで伸ばして、昔のように色を入れた髪で、彼を追いかけて、追いついたら。
その時は。


もう一度、あの日から、やり直せるだろうか。