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ねぶくろ
2025-06-08 10:13:06
11524文字
Public
Skeb
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その瑞光に手を伸ばせ
Skebにて納品した作品です。
1
2
可愛い以外に取り柄がないから、事務所を辞める決心がつかないままでいる。
1
九月。大学三年生の夏休みを終え、二学期が始まったばかりの教室内で、朝野由貴は席に座って友人を待っていた。一ヶ月の間にすっかり記憶の薄れた学習内容を思い出すため、テキストをめくりながら頬杖をつく。通年科目なので、教室にやって来る学生たちの顔ぶれは変わらない。
ひと月ぶりの再会にはしゃぐ声が室内に響く。あたりはすぐに賑やかな雑談の声で満たされ、その喧噪に身を浸してページをめくった。たくさんの声をBGM代わりに文章に目を通す。川の流れのように取り留めのない談笑に耳を貸していると、魚の骨が刺さるようにして会話の断片が引っ掛かった。
インターン先の先輩がカッコよかった。いいなぁ、私のところはおじさんだった。
お前、もう内定とったのかよ、早すぎだろ。そっちも次で最終面接だろ、大差ないって。
今週中に提出するESが書けてなくてまじで焦ってる。分かる、あとで就職支援課に行こうよ。
鼓膜を揺らす会話の中身に、ページをめくる手を止めて、顔を上げる。由貴は思わず教室内を見回した。知っている顔ぶれが、知っている声で、知らないことを話している。その事実に、居心地の悪さが背筋を這いあがった。
逃げ場を求めてテキストに視線を戻し、息を潜めて本の一点に意識を注ぐ。どうにかして時間をやり過ごしていると、友人が教室に入ってきた。反射的に、助かった、と表情が緩む。
彼女の瞳がすぐにこちらを見つけて、「由貴! 久しぶり!」と満開の笑みで手を振る。友人は隣の席に座って、「夏休み何してた?」と口を開いた。
「ずっとレッスンしてた」
実際には旅行をしたり、高校時代の友達と遊んだりしている時間の方が長かったのだが、ほんの少し見栄を張った。由貴が練習生として『ユキドリーム』に所属していることは、友人たちも知っていることだ。彼女はむらなく口紅を塗った艶やかな唇を尖らせて、「いいなぁ」と呟いた。
「由貴は進路決まってるもんね、就活しなくていいなんて羨ましいなぁ」
ドキリと心臓が跳ねて、「そうかな」と曖昧な言葉を返す。彼女はテキストを取り出しながら、ネイルの施された指の先に視線を落とした。
「就活中はネイルも出来ないし、はやく内定とらなきゃ」
「
……
頑張ってね」
硬い声を押し出したところで担当の教員がやって来る。会話が途切れたことに安堵して、由貴は教室の前方へ視線を向けた。授業開始にかこつけて、それ以上の会話を拒絶する。教授の早口な説明を機械的にノートに書き移しながら、頭の中では先ほどから気にかかっている疑問を転がしていた。
まだ三年生なのに、もう就活?
同級生の温度感についていけない事実が、肺を押し潰して気分が悪くなる。由貴は、思考を塗りつぶすように筆記を続けた。
三限までで授業を終えて、帰路につく。
ひとり暮らしのアパートに帰り着いて、由貴はノートパソコンを開いた。検索バーに打ち込んだのは、『就活』の一言だ。エンターキーを叩くと同時に、大量の検索結果が画面上に並ぶ。
一番上に表示されたのは、現二年生の就職を応援するサイトだった。
その事実に目を瞬いて、検索ワードを変更する。
『就活 三年生』 『就活 いつから』 『就活 始める時期』
検索しても検索しても、今の由貴の状況を肯定してくれるような情報は出てこない。大学三年生の秋に、就職に向けて何一つ行動していないことはマズいらしいと理解して、血の気が引いた。
俯きがちに画面から視線を逸らして、考える。思い浮かんだのは、友人の言葉だった。
「由貴は進路決まってるもんね、就活しなくていいなんて羨ましいなぁ」
それは、由貴がアイドルになるという前提の羨望だ。一向にデビューの兆しがない自分の状況を思い返して唇を噛む。
アイドル業界は、兎にも角にも若さを重視する。オーディションの合格年齢は、平均して十四歳。デビューまでの練習期間は平均で三、四年。
――
十代後半までにデビュー出来なかったアイドルは、それだけで最大の価値を失う。
二十歳を過ぎるとアイドルのオーディションを受けることすらできなくなり、今年で二十一歳を迎える由貴には後がない。それは、就職を選ぶとしても同じことなのだと、今更のように理解した。
就職をするならば、今すぐにでも動き出した方がいい。
アイドルとして生きていくのなら、一刻も早くデビューしなければいけない。
どちらに転ぶとしても、時間がない。
自分が置かれた状況を理解して、由貴はため息をついた。顔を上げれば、ノートパソコンの画面に表示されたアドバイスが目に留まる。
『まずは自己分析を行って、自分のやりたいことや長所・短所を見つけましょう』
簡素な言葉を見つめて、目元を拭う。今の由貴に、だらだらと悩んでいる時間はない。アイドルを目指すにしても、就職活動を始めるにしても、自己分析は必要だ。
由貴は気合を入れるように息を吐き出して、新品のノートを引っ張り出した。
* * *
物は試し、と大学の就職支援課が実施する模擬面接に申し込んでみた。
入学式以来袖を通していなかったスーツは少し窮屈で、パンプスは歩くたびに踵が擦れる。長く伸ばしたストレートヘアを高い位置でポニーテールにして、メイクはいつもよりも控えめに。インターネットで入手した知識をもとに身だしなみを整えて、由貴は就職支援課へと向かった。
模擬面接を担当する職員に連れられて、空き教室で入室から練習をする。廊下で息を整えて、ノックを三回。「どうぞ」と声がかかってから、「失礼します」と挨拶をしてドアを開けた。
由貴は大学受験を推薦で乗り切ったクチだ。面接は得意だという自負がある。座るところまでは順調にこなせて、この分なら大丈夫だろうと強張った肩の力を抜く。
担当の男性職員は不愛想で、声が小さかった。彼が手元の用紙を見ながら、「それでは始めます」と低い声で呟く。由貴は会釈して、質問を待ち受けた。
「まず初めに、自己紹介をお願いします」
その言葉に目を瞬き、
――
動揺を押し殺しながら笑みを繕う。
「朝野由貴です。大学三年生です」
「
……
朝野さんですね。それでは、大学生活の中で力を入れたことを教えてください」
今度こそ答えに窮して笑みを浮かべたまま硬直する。由貴はレッスンが忙しく、アルバイトやサークル活動とは無縁の大学生活を送ってきた。まだ三年なので、卒業論文のテーマも決まっていない。胸を張って語れるような経験が何もないという事実に愕然としながら、笑みだけは崩さないようにと意識して口を開く。
――
結論から言って、模擬面接はボロボロだった。
学生時代に力を入れたことも、自己PRも、長所と短所も、何一つまともに答えられず、面接官にため息をつかれる始末だ。彼は、退室まで練習し、教室内に戻ってきた由貴に着席するよう促しながら口を開いた。
「お疲れさまでした。朝野さんは三年生でしたね」
「はい」
今にも消えたい気持ちで、肩を縮めながら席に着く。彼は模擬面接中に手元の紙に書き留めていた所感を見ながら、「初めての模擬面接でわからないことも多かったかと思いますが」と苦笑した。
「答えに困っている印象を受けたので、まずは自己分析をしっかり行ってください。そろそろ本腰を入れて就職活動に取り掛からないと、朝野さんは資格もないので、就職が厳しくなりますよ」
「
……
はい」
俯きがちに頷いて、ぎゅっと膝の上のこぶしを握る。続く講評の内容はほとんど頭に入らないまま、由貴は惨めさに奥歯を噛みしめた。
就職が厳しくなりますよ、と告げられた言葉が重石のように圧し掛かって気持ちが挫ける。顔を上げられないまま講評が終わり、由貴は就職支援課を後にした。
校舎を出ると、これから授業に向かう学生たちの群れとすれ違った。私服の学生たちはみな生き生きとしていて、窮屈で可愛げのないスーツを纏った自分のことが恥ずかしくなる。
慣れないパンプスで懸命に走り、由貴は逃げるように帰宅した。急いで鍵を取り出し、誰にも見つからないように、と慌ただしくドアを閉める。帰り着いた六畳一間にカバンを放り出し、沓脱にパンプスを脱ぎ捨ててベッドにダイブした。
もう何も考えたくない。すべて忘れてしまいたい。
そんな気持ちで目を瞑り、由貴は浅い眠りに漕ぎ出した。
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