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つきのせ さぶろく
2025-05-22 02:04:09
1956文字
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黛に密やかに
ホテルアンデルセンへようこそ現行未通過❌ 同卓もまだ❌かも。
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人間は、身体という名前の水槽にそれぞれの炎を焚べて生きている。この炎を、魔術師は魂と呼び、生み出される熱のことを魔力と呼んでいた。物言わぬ女性は微笑み、饒舌なカラスが延々と説明を続けている。カラスは私の炎を密やかな紫だと答えた。
薄暗い店にいるばかりの私には、世界はいつまでも曇り空に見えていた。何も言わず、何も思わず、ただそこにいるだけでいい人形の私には、歩くための足も本当は必要なかったのだろう。汚れて曇ったガラスの向こうにある街並みはいつも不明瞭で、ただぼうっと人々の行ったり来たりを眺めているだけだった。それが羨ましいと思ったことはなかったのに、その日は、空を飛ぶ鳥が無性に羨ましく思えたのだ。
窓辺に留まったカラスは言う。紫は混沌の象徴だが、春先のはじめに咲く花は紫色をしている。枯れた色のない世界に最初に落とされる色は紫であると。
「あなたが望めば、薄曇りの世界も晴れにすることができる。色のない今も美しく染め上げることができるわ」
そうだったらいいなと、夢に願いを寄せたのは幼かったからだろうか。
私の不幸は、きっと初めが何もなかったことなのだろう。私という世界にはそのほかが何もなく、ただ流れていく日々と時間に身を任せているだけだ。それは川辺を削る水流の如く、じわじわと心も体も削っていた。同じような境遇で、耐えきれなくて逃げようとした者もいた。しかし彼ら彼女らは決まって、逃げ出した翌々日には川で上がった水死体として新聞の片隅を軽くにぎわせる程度に終わる。どうにも信じたくないことだったが、そうならなかった者がいないせいで、信じること以外できなくなってしまった。私の世界には迎えなどなく、静かにこの息が途切れるまで身を潜めていること。黙って削れる心を抱えていること。それしか生きる方法がなかった。
「そうよ、エイブリィ。よくできているわ」
カラスがそうやって名前を呼んでくれている。それでやっと息ができたと思った。
「これは? これもやったのよ」
「ええ、あなたは飲み込みが早いのね」
誰かのためになることがこんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。自分を買っていく客は、私であることを喜んでいるように見えていたとしても、結局は外側だけが欲しかったという本音がほとんどで、笑いながら話をしたことなんてない
白い紙が美しいなんて思いもしなかった、猫があんなに可愛いなんて知らなかった、外の世界がこんなに美しいだなんて、私は何も知らなかった。だから、たくさん教えて欲しかったの。
春の野を駆け回りながら、細かな野草を集めていた時。芳しい緑に紛れるように咲いていた紫の花を見つけた。地面に降り立つカラスは、それをイトシャジンだと教えてくれた。言われるままに作った押し花は、風化さえしなければきっと生涯の宝物になっただろう。
「言葉は私たちの力になる。あなたの魂に眠る炎を、言葉に託すことを覚えましょう」
カラスが1文字1文字を丁寧に細やかに説明している。見様見真似で引いた線は、震えていて不恰好だったが、口にしていない言葉が目で伝わることはもはや奇跡のように思えた。文字を覚えたあたりから、宿題の難しさがぐんと強くなった。文字を覚えれば覚えるほど、窓の外以外の景色を書物から読み取れるようになった。もはや足だけでは辿り着けない世界にも行き着くことができるようになって、その時はまるで自分が鳥になったように思えた。
「すてきね、本があればどこにでも飛んでいけるのね」
空想という言葉に空がついているのは、鳥のように飛んできて欲しかったからではないだろうか。空想はいつでも味方になってくれた。どれだけ乱暴に扱われても、心だけでも空に飛ばせば、少しだけ痛みを無かったことにできると気がついたからだ。どうしようもなく痛くて涙が出そうな時も、心は幸せな空の国へ。そうすれば、痛いのは体にある傷だけになる。
「きっといつか、誰かが迎えにきてくれるの。ずっと遠い、空よりも遠くからね」
道端で拾った人形を抱きしめて、泥を被ったように重たい体を毛布に押し込む。このまま起き上がれなくなったら、誰が抱き起こしてくれるのだろう。自動的に微睡む瞼の奥に、そんな空想を映していた。私は、母の抱擁というものすら知らなかったのに。
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