riririnf
2025-05-08 23:56:57
8486文字
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白雨のカノン

4/22~4/24にかけて連載したリレー小説です。
1ページ目:溶けかけ。様(@haiiro1714)執筆
2ページ目:ノア様(@1044974)執筆
3ページ目:り執筆
※お二方に掲載許可は頂いております。


 冬の始まりはいつも突然だ。
 いや、突然というのは語弊があるかもしれない。
 色彩豊かな花々が新緑に変わり、刺すような陽射しが美しい紅葉を育み、枯れ落ちた葉が旋風とダンスを踊りながら雨雲を連れてくるのだから。

 フリーナはバルコニーの窓から空へと手を伸ばす。
 ひんやりとした雨粒は黒いグローブを伝い、白亜のバルコニーを灰色に染め上げていく。
 フォンテーヌ廷に降る雨は水龍の涙だという作者不明の童謡が、ふと、頭に浮かんだ。
 “水龍、水龍、泣かないで”
 空から降り注ぐ雫が龍の涙ならば、時には痛みすら感じるほど冷え冷えとしているのも彼の心の在り方そのものなのだろうか?
 そんなことを考えながら行水をするヌヴィレットに視線を向ければ、彼は目を閉じて雨の声に耳を澄ませていた。

「気は済んだ?」
 しばらくして、ずぶ濡れのまま中へと入ってきたヌヴィレットは冬の気配を纏っていた。
 フリーナは彼にそっと近づくと予め用意していたタオルで水気を拭き取る。水を吸ってしっとりと重くなったタオルからも、彼の湿気た髪や衣服と同じ、冷たい冬の香りがした。
……君の手を煩わせる必要はない」
 ヌヴィレットはそう言うと垂らしていた腕を胸元まで持ち上げて、手の平を上へと向けた。黒い手袋の数センチ上に彼に纏わりついていた雫が集まる。小さな水球を握り込めば、それらは忽ちのうちに消え失せた。途端にふわりと立ち上がる髪や衣服からは水気と共に冬の気配も消えていた。
…………そうだね。まあ、座りなよ。いくら水気は取れたとしても冷えた体をそのままにしておいては風邪をひいてしまう」
 髪を拭くのを拒まれたフリーナは、気にした様子もなく、セッティングがされたテーブルへとヌヴィレットを誘う。
 どうやら、今日の彼は少しだけ虫の居所が悪いようだ。
「私は人の姿をしているだけでこの身の本質は龍。君たちの疾病に罹ることはないと言っていいだろう」
 憮然とした表情でヌヴィレットが言い放つ。人の扱いをすると少しだけ不機嫌な顔で言い返してくるのは、出会った頃から変わらない。
「ふふっ……そう思い込んでいるだけで、本当はキミだって風邪をひくかもしれないだろう? ……ああもう、そんな顔をしないでくれ。これでも、キミのことを心配して言っているんだ」
 フリーナが椅子を引く。
 男女の役割が逆だが、彼との信頼関係の前ではこのくらいのマナー違反は日常茶飯事だ。
……ありがとう」
「どういたしまして」
 ヌヴィレットは眉間に皺を寄せながらも引かれた椅子に大人しく着席する。
 向かい側に座ったフリーナは紅茶をティーカップに注ぐと一つを自分の前に、もう一つをヌヴィレットの前に置いた。
 特に言葉を交わすでもなく、紅茶を啜り、菓子を嗜む。向かいに座ったヌヴィレットを盗み見れば、先ほどまでは僅かに上がっていた眼尻がとろんと垂れ下がっていた。
 虫は元の居場所へ戻ったらしい。
「あったかいね」
「ああ……
 途切れる会話。
 静謐な室内では、暖炉の炎が轟々と燃えながら、時折、ぱちんぱちんと木を爆ぜさせる。その音だけがやけに大きく聞こえてフリーナは耳を傾ける。
 向かい合うヌヴィレットに視線を送れば、彼も同じように目を閉じて炎と薪のデュエットに耳をそばだてていた。
「ふふっ……雨季になったね、ヌヴィレット」
 頬杖をついて、ヌヴィレットに微笑みかける。
 降り続く冷たい雨は悲しい記憶を齎すが、乾季とは異なる楽しみを連れて来る。それが僕らの間での共通認識となって久しい。
 ヌヴィレットもゆっくりと瞳を開くと目元を和らげた。
「ああ……雨季になったな、フリーナ殿」
 フリーナはこの穏やかな時間が嫌いではなかった。辛い記憶に耐えられず、一度は逃げ出した旧居に彼の世話を焼きに来る程度には。
「次は一緒に雨を浴びるのも悪くないかもね」
 窓を叩く雨粒を眺めながらフリーナが冗談めかして呟いた。ヌヴィレットは紅茶で喉を潤すとカップをソーサーに戻して口を開いた。
「では、熱いお茶を用意しておかねばならないな」
 気まぐれな言葉を肯定するかのような返事にフリーナが目を丸くする。
「驚いた。キミは反対すると思っていたんだけど」
……確かに、以前の私ならば反対していたことだろう。だが、君と雨を浴びるのも悪くないと、今の私は思っている」
「ふふっ……
「何が可笑しい?」
 笑い声を上げたフリーナにヌヴィレットが首を傾ける。
 投げかけられた問いにフリーナは首を左右に振った。色違いの双眸がどこか愉快そうに細められる。
「ごめん、ごめん。ただ、雨具が必要だろうなって思ったんだ。あの頃と違って今の僕は雨に濡れると風邪をひいてしまうからね」
 ヌヴィレットはフリーナの言葉に目を瞬かせると、閉口した。
 ぱちん、と薪が爆ぜる。
……是非ともそうしてくれ。君に風邪をひかれてしまっては冷静さを欠いてしまうかもしれないのでね」
「キミが冷静さを欠く姿も見てみたいな。試してみようか?」
「やめてくれ。萎れた花のような君の姿ををまた私に見せるというのか?」
 不意にフリーナの視界が昏くなる。
 目の前のヌヴィレットの姿がかき消え、火の気のない薄暗いスイートルームの景色が蘇る。埃が積もっていく豪華なシャンデリア────どこまでも続く砂嵐の砂漠。
 フリーナは目を閉じて数を数える。
 一、二、三。
 ゆっくりと目蓋を上げれば、ヌヴィレットはそこにいて、暖炉の炎は煌々と辺りを照らし、埃一つないシャンデリアは炎を受けてきらきらと輝いていた。窓の外は相変わらずの雨降りで、フォンテーヌ廷を青く染め上げていた。
「フリーナ?」
 言葉を紡ぐことも、呼吸をすることも忘れたかのように振る舞うフリーナにヌヴィレットは訝しげに声をかける。
 ぱちぱちとフリーナが息継ぎの代わりにまばたきをした。
「あ、ああ……すまない。少し、ぼうっとしていたみたいだ。薪を焚べすぎたかな?」
 燃え盛る炎を一瞥して、冷たい汗を拭う。これだけの演技で誤魔化せるとも思えないが、今はこうするより他はない。尋ねられたところで、フリーナですらこの複雑に絡まり合う心情を言葉にすることなど出来ないのだから。
 じっ、とこちらを窺うように睨んでくる(恐らく、ヌヴィレットにはそんな気は毛頭ないのだろうけど)瞳から逃れるように、そして演技に説得力を持たせるために、無作法だとは理解しながらも温くなった紅茶を胃に押し込めて「暑いね」と言葉を洩らす。
(やっぱり、この部屋に来るのはまだ早かったのかもしれない……)
 暑さとは違う汗を全身にかきながら、フリーナはボタンを緩めると襟元の布を摘んでパタパタと冷気を取り入れるふりをした。
「淑女にあるまじき行いだ、フリーナ殿」
 ヌヴィレットの全てを見透かしているかのような視線が呆れを含んだものに変わる。
 どうやら、一連の努力は功を奏したようだ。
「堅いこと言うなよ。僕とキミの仲じゃないか」
「はあ…………今だけだ。他の者の前ではそのようなあられもない姿を見せないようにしたまえ」
「あられもないって……まったく、大げさなんだから。たった一つ、二つボタンを緩めただけだろう?」
「──本当にそう思っているのか?」
 ヌヴィレットが顔を顰める。
 ヌヴィレットにしてはやけにしつこい追求にフリーナは唇を尖らせた。
 あの頃とは違い、彼は自分に対して過保護になった気がする。否、実はずっと過保護だったのかもしれない。ただ、気がつけるほどの余裕がなかっただけで。
「な、なんだよ……
 考えごとをしているうちに、ヌヴィレットがフリーナの目の前に立っていた。
 いつの間に、と思う余裕もなく、佇んでいた彼はフリーナの首元に顔を寄せた。
「あっ、こらっ……! 擽ったいだろ……っ! ひゃあ……!」
 冷たい唇がフリーナの鎖骨をなぞる。ちゅう、という長めなリップ音のあとにざらついた舌が肌を撫ぜた。
「っあ、ぬゔぃ……
「──これに懲りたら親しい仲であっても、異性の前では肌を晒らさないようにしたまえ」
 ヌヴィレットが速やかに距離を取る。首元に手をやれば、少しだけ緩められていたボタンは一番上まできっちりと留められていた。
…………送って行こう。嵐が来る前には帰り着いたほうが良いだろう。先に下で待っている」
 そう言って、ヌヴィレットは足早に退室していった。
 フリーナが我に返ったのは、遠くで昇降機が降りていく音を聞いたときだった。 
「もう……何なんだ……
 机に突っ伏したフリーナは、まだ熱くひりつく一点を布越しに撫でる。
 これから、どんな顔をして会えば良いか分からずに、ぴかぴかに磨かれたティーポットを鏡に見立てて、表情を作る。どんな顔を作ろうと火照った頬と勝手に弧を描く唇では役に入り込むことなど到底不可能なことだった。
 自分のものとは思えないほど大きく轟く心音に耳を澄ませながらフリーナは瞳を閉じる。

 ────こんな気持ち、数百年間生きてきて初めてだ。