わからん
2025-04-28 19:57:00
20318文字
Public くさひぐ
 

【篤寛】誰の息子でもない

本編後IFなギスギスくさひぐシリーズ第四弾(蛇足のおまけ)
日下部と日車がベランダでぐだぐだ話しているだけのお話です
①日下部が日車を迎えに行く話( https://privatter.me/page/678cf22a6e58f
②①のおまけ( https://privatter.me/page/6795bb0def0b2
③日車が高専に戻ったあとの話(https://privatter.me/page/67cef2933bbe6)
とお話が繋がっているため、先に上記3つを読むこと推奨です
※日車の家族・出身地等について捏造しています。
※実際に起きた災害(震災)について言及している箇所があります。そうした描写が苦手な方・苦痛を覚える方は充分にご注意下さい。

「げっ」と声を上げてすぐ、よりにもよって日車に対してその反応はないだろうと日下部は後悔した。
 まるで邪魔者のような扱い方じゃないか——悔いたところで過去の発言は取り消せない。今の自分ができるのは息をひそめ、相手の反応を恐る恐る窺うことだけである。
 予想していたことだが、キッチンで固まる日下部を捉えた日車の瞳からは、何も読み取れなかった。そこに部屋の主がいるから見ている、と取れなくもないが、日下部がそう思いたいだけなのかもしれない。いつものポーカーフェイスを装って胸の内ではこちらを軽蔑しているやも……日下部の心中は穏やかではなかった。心臓が早鐘を打ち、口の中は早くも乾き始め、右手の指先が微かに震えている——
 日車の黒い瞳は廊下の蛍光灯に照らされて鈍く光り、人間の目というよりは鉱物のような、ある種無機物めいた印象を受けた。
 彼の視線は日下部の顔から右腕へ、そして右手の親指と人差し指の間に挟まれた煙草へと移る。
 頭上で回る換気扇の音が妙に騒々しく聞こえた。
 紙煙草からは紫煙が立ち上り、独特な臭いを周囲に漂わせている。
 緊張によって日下部の呼吸が大きく乱れた。
 しかし結局、恐れていたことは起こらなかった。日車は日下部から視線を逸らし、体の向きを変えてリビングへと歩いていく。左手に持っていた鞄と右腕にかけていたコートをソファーの背に放り投げ、日下部の元へ引き返してきた。
「一本くれ」
「は?」
 日下部の返事を待たずに、骨張った細長い指がシンクの上に放り出していた箱を掴み上げる。煙草を一本引き抜くと、日車は眼球を動かして周囲を見回した。ライターを探しているのだと思い至り、ワイシャツの胸ポケットから出して渡してやる。
……どうぞ」
「ああ」
 唇の中央で煙草を咥え、それを人差し指と中指で挟んで支えながら、日車はライターの火をつけた。数分前の日下部と同じように煙草の先端を炙り、火がついたのを見届けると目蓋を閉じてゆっくりと息を吸う。
 随分と慣れた手つきだと思った。
 いずれにせよ、これは良いタイミングだと換気扇の下から離れようとする。
「日下部」
 即座に呼び止められてしまった。思わず顔をしかめたものの、平素を装って振り返った先では日車が首を傾げている。
「どこへ行く」
「どこって、ベランダだけど」
「なぜ」と問う日車の唇の端から白い煙が零れた。「ベランダに用事でも?」
「男二人だと狭いだろ」
「同じ空間にいて、どうして別々の場所に行く必要がある」
 日車の指摘は正しい。一分の隙もない。反論の言葉を探しているうちに「俺も行く」と言われ、この場から逃げて面倒事を回避するという日下部の目論見は早々に打ち砕かれることとなった。

 数週間前に日下部が部屋の合鍵を渡して以来、日車が来るのは今日で四度目になる。
 ——勝手に入っていい。好きなように使え。
 窓から差し込む夕陽を跳ね返して煌めきながら、宙を舞った鍵は日車の手の中へ吸い込まれるように落ちていった。
 日下部がその行動に踏み切ったのは、用事を済ませた日車が学長室から出ていく直前だった。鍵は数日前からスーツのポケットに入れていた。おかげで考え事の最中に指先で弄る癖がついた——彼にいつ渡すかタイミングを図りかねていたせいで、だ。
 鍵を渡した理由を尋ねられても、日下部は無言を貫くしかなかっただろう。理屈で説明できるものではなかった。日車に対して覚える親しみは日に日に強くなっていく一方で、自らのそんな変化に対する戸惑いや、これは独りよがりな思いだという自己嫌悪が膨れ上がっていった——相反する感情は複雑に絡まり合い、黒色に染まった靄が胸の奥で何日も渦を巻く。結果、思考回路はオーバーヒート。自暴自棄に陥った。そして自らの欲求に従い、衝動的に行動したまでだ。
 ——ちょっと待て。欲求?
 衝動的にってどういう意味だよ。わからないことは全部、その魔法の言葉でなあなあにするつもりか?
 もう大人だろ。よく考えろ。パーソナルな空間に彼を招くという行為が、何を意味しているのか。
 ……考えた。勿論、考えたとも……それで——結局——俺は日車をどうしたいんだ?
 あと数秒のあいだ日車が黙っていれば、日下部は一切の言動を撤回して彼の手から鍵を奪い返していたに違いない。
 鍵をじっと見下ろした日車はたった一言、わかったと答えて頷いた。それからスーツのポケットに鍵を入れ、学長室の扉を閉めて出ていった。
 あとには部屋の中央で呆然と佇む日下部ひとりが残された。
 何が起きたかを理解したいのか、したくないのか? 自己嫌悪の厄介な点は、ひとつの事柄に関するあらゆる思考を面倒くさがって放棄してしまうことだ。日下部がこの問題に対する思考を再開したのはその日の夜、日車が鍵を開けて日下部の部屋に踏み込んできたときだった。
 ビール缶を片手にソファーの上で唖然としている日下部を前に、廊下に立つ日車は肩を竦めてみせた。それから、惣菜の入ったコンビニの袋を突きつけてくる。
 ——鍵を貰ったので、来てみた。
 嬉しいとも迷惑だとも言われなかった。無論、鍵を渡した理由を聞かれたこともない。しかし、以来、日車は日下部の元を時折訪ねてくる。

 日下部の部屋はマンションの中層部にある。
 住宅街ということもあってか周囲は一軒家が多く、ベランダからの見晴らしはそれなりに良いほうだと思っている。
 夜空を見上げれば、東側に半分ほど欠けた月が浮かんでいた。
 半月って、上弦なのか下弦なのか未だによくわからないんだよな。日下部のぼやきに、あれは下弦の月だと日車が返した。「左側が欠けているのが上弦の月、右側が欠けているのが下弦の月。昇ってくる時間帯によっても判別できる」
「あんた、天文学もできんのかよ」
「一般教養の範囲内だろう。君も学生のときに授業で習わなかったか」
「とっくの昔に忘れた。今の仕事には必要ない知識だからな」
 月の他にも、夜空にはいくつかの恒星を見出すことができた。都会の夜空は暗い。駅のある方角は街全体がぼんやりと発光して見え、それらの人工的な明かりが星の瞬きを阻害している。
 遠目で見るぶんには都会の光も綺麗なものだと思う。それを宇宙という、数多の未知が潜む広大な空間と比較するのは、烏滸がましいことかもしれないが。少なくとも、日下部とって、都会の夜景は宇宙よりも見慣れた景色だった。
「電子には変えないのか」
 日車に話しかけられ、なんのことだと考える。煙草の話題だ。日下部と日車の手には火のついた紙煙草があり、ふたりの体を支える手すりの中間地点には水の入った瓶が置かれていた。その上に灰を落としながら、日車の視線は日下部に向けられていた。
……変えようかなーと思ってた時期はあったけど」
「変えなかった?」
「そ。やっぱ紙が一番落ち着くわ」
「吸い始めて長いのか」
「十年……十五年くらい? 両面宿儺が暴れてた頃は禁煙してたけど」
「なるほど。確かに、それだけ紙の歴が長ければ電子の違和感は大きそうだ」
 相槌を打って日車が煙草を口元へ運ぶ。日下部もつられるように煙草を咥え、煙を吸い込んだ。
 ——あんたこそ、吸い慣れてるみたいだけど。
 喫煙者だったのか。それとも、俺と同じで今も?
 日車が煙を吐き終わったらそう話しかけるつもりでいた。
 煙草を吸っているところを見られたときは、やらかしたと思った。だが、彼は日下部が禁煙のために飴を舐めているという事情を、幸いにも知らなかったらしい。
 呪術高専の敷地内で隠れて吸うのは難しい。自他共に認めるヘビースモーカーだった家入は二度と禁煙を破らないと言っていたし、補助監督からも煙草を吸う暇があったら仕事を片付けろとせっつかれそうだ。
 消去法で、家で一服するしかないのだ。けれどもし、唯一の安全地帯まで失ってしまったら——。日車の来訪に気付いたとき、日下部の顔からは文字通り血の気が引いた。しかし、これまでの態度を見る限り日車は嫌煙家ではないだろう。今のうちに彼を言いくるめて味方につけ、最後の安全地帯を守ってやる。
 日車が煙を吐ききった。再び煙草を口元へ運ぶより早く、日下部は口火を切る。
「あんたもずいぶんと吸い慣れて——
——飴を舐めているのは禁煙中だからだと聞いていたが」
 げっ、と反射的に声を上げてしまったが、今回ばかりは正当な反応だと思いたい。
「今日の昼も舐めているのを見た。まさか、隠れて吸っているのか?」
 唇の手前で煙草は止まっていた。横目でこちらを見る日車の瞳は疑惑に細められ、日下部を追及する気であることが容易に見て取れる。
 言質を取ってから自身の手札を開示し、それは矛盾だと相手を追い詰める。まるで尋問を受けている気分だ……否、日車の前職は弁護士だった。本業だ。嘘や隠し事の駆け引きにおいて、彼が負けるはずがない。
……禁煙の話、したことありましたっけ」
「両面宿儺が暴れていた頃に一度だけな」君の言葉を借りれば、と日車は答えて目を閉じた。「五条特級術師や君が日頃から糖分を過剰摂取するのは、何か術式的な理由があるのかと聞いたんだ」
「五条? ……ああー……
 日車の発言を受けて記憶を漁るうち、日下部の頭にも徐々に記憶が蘇ってきた。
 ——君は呪術師の先生だな。少し聞きたいことがあるんだが。
 彼と日下部が出会って間もない頃のことだ。虎杖との稽古の休憩中に突然話しかけられて身構えたものの、「呪術師の先生」という言葉を聞いて脱力したのを覚えている。
 その理由を説明するのは難しい。日車に関しては当時、術式が覚醒した直後に非術師を撲殺した元非術師、という経緯だけを聞いていた。要するに、心のどこかで殺人鬼のような強面の風貌を予想していたのかもしれない。実際の日車は日下部の予想通り神経質そうな顔つきをしていたが、長年のデスクワークによって痩せこけていた上に、呪術の知識も皆無で、日下部の脅威にはなり得ないと判断した(尤も、当時下したその評価は、後に一対一で行った稽古や両面宿儺との決戦で、彼の内に秘められた才能を目にして覆ることとなる)。その上で「先生」と呼ばれたことに呆れたのかもしれない。少なくとも、ほぼ同年代である日下部に対しては幼稚すぎる呼び方だ。
 ——五条のあれは反転術式を一日中回すための必要経費だ。傍から見ると異常な量だけどな。
 ——ハンテンジュツシキ。
 ——術者本人の肉体を回復させる術式だ。後で家入にでも教えてもらえ。で、俺のほうはただの癖。こんな状況だけど禁煙中だから。
 ——禁煙……
 日下部が抱いていた彼への負の印象は、確か、このときに大きく崩れ落ちていったのだったか。
 目の下に隈を作りつつも、知的好奇心に目を開きながら日下部の回答を鸚鵡返しに呟く日車の姿は、自分が描いていた殺人鬼の姿とは全く重ならなかった。
 ——なんだよ、その目は。文句でもあんのか。
 ——文句も何も無いが。なぜだ。禁煙しているだけだろう。
 俺は変な目をしているかと尋ね返されたので、かえって日下部のほうが困り果てた記憶がある。彼の最後の質問にどう返したかは覚えていない。しかし日車は満足したように立ち上がり、足早に去っていった。
 ——話が聞けてよかった。稽古の邪魔をして悪かった、先生。
「職業柄、聴覚の記憶が人よりも優れているんだ」
 日車の声によって意識が現在へと戻ってくる。「で、どうなんだ。実際は」
……お前の想像通りだよ」潮時だと、観念して日下部は自白した。「禁煙を破って吸ってる。高専では吸えないから、こうして帰ってきたときにこっそりな」
「きっかけは?」
 相変わらず追及に容赦がない。溜息をつき、日下部はベランダの手すりに両肘をついて暗い夜空を見上げた。
「禁酒とか禁煙とか、そういう誓いを破る奴は大体こう言うだろ。日頃のストレスですって」
 いつ、どこで破ったかは覚えていないが、理由ははっきりと自覚していた。
 耐えきれなかったのだと思う。シン・陰流の当主、そして学長代理という立場の、責任の重さに。
 現実から逃避するための時間と場所が欲しいだけだった。
 日下部がまだ若かった頃、そうした理由でのめり込んでいったのは煙草だった。体に悪いからと一度やめて、それでも頭の中の選択肢には存在し続け、数年越しにその誘惑に負けた。脳内で分泌される伝達物質によって得られる束の間の快感と、同時に胸の奥で生じる罪悪感との間で板挟みになりながら、ひとりきりの部屋で煙草を吸う生活を、日下部はもう何年も続けてしまっている。
「あんたこそ吸ってたんだろ。今もか?」
 水を向けるも日車は黙り込んだ。露骨に話題を逸らされたと感じているのだろう。日下部の話に乗るか、乗らないか。つまり、日下部が禁煙という、自分自身との約束を破っていることを非難するか、黙認するか——どちらの態度で出るか試されていることに、日車は気付いている。
 彼は沈黙の末に長い溜息をついた。普段の凛とした態度からは想像もつかないほど長く、深い。これ見よがしに息を吐いたので苛立っているようにも聞こえた。彼は短くなった煙草を咥え、すぐに唇を離す。
「吸っていたのは三十くらいまでだ」
「へえ」
「吸い始めたのは二十歳はたちになってすぐだった。友人が皆吸っていたし、父も愛煙家だった」
「意外だな。周りの影響か」
 ああ、と日車は頷いて上半身を捻り、瓶の中に灰を落とした。「回数自体は少なかった。働き始めてからは週に二、三回程度」
「ストレス?」
「かもな。仕事が終わって夜に吸うことが多かった」
 先ほどの苛立った態度とは裏腹に、日車の声は普段と変わりないように聞こえた。煙草はかなり短くなっていたが、彼は意に介せず口元へ運んでいく。
「父は警察官だった」
 日車の唇の端から白い煙が零れ、風に乗って一方向へ流されていく。
「俺が小さい頃、将来は父のような警察官になると周りに言っていたらしい。父は子どもの頃からの憧れだったし、父も俺をそういう職業に就かせたがっていた」
「教育熱心な親御さんだな」
「そういう家の出だったんだ。医者に自衛隊員、警察官、大学教授——親戚同士の集まりがあると、きまって互いの職業自慢から話が始まる」
 へえと曖昧な相槌を打つ。話の流れがわからなかった。しかし、日車の身の上話を聞くのが初めてだった上に、好奇心が勝って質問するタイミングを逃してしまう。
「厳しい人だった。高校を卒業するまで放課後は塾と予備校に潰されたし、長期休暇中は家に閉じ込められて勉強三昧だ。殴られはしなかったが、模試やテストの出来が悪いと何時間も正座で説教される。良い大学に入れ、良い仕事に就け、良い女を嫁に貰って男の孫を作れというのが口癖だった」
「うーん……
 愚痴なのだろうか? それとも何か、別の意図があって話している?
 反応に困りながら、日下部はすっかり短くなった煙草を瓶の中に落とした。胸ポケットから煙草の箱とライターを取り出し、二本目に火をつける。日車の視線を感じたので手渡すと、彼も吸い殻を瓶の中に突っ込んで二本目を吸い始めた。投げ渡された箱とライターを手のひらで受け止める。
……父のことは嫌いじゃなかった。俺に厳しいのは自分の仕事に誇りを持っていたからで、一人息子の人生が失敗しないよう心配してくれていたんだと」
 煙草を吸いながら、日車は段々と早口になっていく。
「第一志望の大学に受かったときも、司法試験に合格したときも、父は自分のことのように喜んで、母と一緒に祝ってくれた。そんな人が悪い父親であるはずがない。だから、多少思うところはあっても、父のことは家族として尊敬していたんだ。……震災が起きるまでは」
 言葉を区切り、日車は息を吸う。煙草を吸うためではなく、深呼吸をするために。日下部は日車の顔を見るべきか迷い、視線を彷徨わせて、彼の右手の先に灯る小さな光へと留める。煙草の先端部だった。
「何も無かったと言っていた。……何も残らなかった……
 囁くように放たれた言葉に、はっとして日車の顔を見る。彼は俯いていた。ベランダに右手を預け、下を向いた煙草の先端からは細長い煙が吐き出され続けている。
——愛の対義語は無関心だと身をもって知った。父に対して抱いていた尊敬が音を立てて崩れ落ちていくのを、はっきりと感じたんだ。酒と煙草に溺れていく父は醜かった。同じ家族だと思えなかった。何より、俺がそう考えたのは当然だと、今も思っている。俺はあの人の息子で、立派な人だったと知っているはずなのに」
 ふー、と彼は再び深く息を吐く。顔を上げた彼は普段通りの無表情を保っていた。
「あれは一時的な反動だったのだろう、一年もすれば父は元通りになった。……日下部、君は俺の父に似ていると思う。優しくて責任感が強い」
 そういうことかと日下部も詰めていた息を吐き出した。日車は日下部を責めている。喫煙を黙認してくれるかと思ったが、やはり真逆の立場であったらしい。
……無責任な発言で悪いが、親父さんの気持ちは俺もわかる。あのときは本当にひどかった」
 日下部の言葉に、日車の瞳が意外そうに見開かれた。
「君も現地にいたのか」
「被災直後の土地では上級呪霊が発生しやすいんだ。東京と、北海道のアイヌ呪術連の呪術師総出で向かったけど、すぐに帰った」
「それは——なぜ?」
「特級呪霊だらけで普通の術師じゃ太刀打ちできなかったから。アイヌ呪術連の強い爺さん婆さんと、うちからは五条と五条が指名した一級呪術師数人が残って、あとは……あんたは知らないと思うけど、海外で呪霊の研究をしてた九十九っつー特級呪術師も途中から駆けつけて、何ヶ月もかけて対処した。
 あんなに荒れた五条を見たのは初めてだったな。つってもこっちはこっちで、呪霊の発生件数がいつもの倍以上に跳ね上がってさ。人手不足のなか教師も生徒も全員駆り出されて、授業なんてとても……
「めちゃくちゃだった」と、日車がぽつりと呟いた。
「だな。何もかもがめちゃくちゃだった」
「星が綺麗だったことくらいだ、良かったことなんて」
「ははっ。……確かにな……
 風向きが変わり、煙が目元にかかってきたのを顔を逸らして避ける。
……あっちの復興はどうなってるんだろうな。こっちだって渋谷はともかく、死滅回游に使われた旧地区の復興もまともに進んじゃいない。治安が落ちれば呪霊の発生も相対的に増えるし、国は未だに呪力関係でてんやわんやだし、昔と同じ状態に戻る日なんて来るのかね……
——君には父のようになってほしくない。俺が尊敬する君のままでいてほしい」
「だから煙草はやめろって?」
 煙を避けながら振り返り、日車と視線がぶつかった。すぐに頷くと思っていたのに、何の反応も寄越さない。しばらく経ち、油が切れた機械のようなぎこちなさで、日車は首を左右に振った。
「ほどほどにしてくれ。やめろとは言わない」
 虚をつかれた回答に返事を忘れ、話しかけるタイミングを見失った。日車は無言で煙草を吸い続けた。追及を拒絶されているように感じた。何か糸口はないかと、先刻の会話を思い返す。
……それにしても、意外だったな。あんたが身の上話をするなんて」
 努めて穏やかな声で話しかけた。日車が横目で日下部を見、そっと目を伏せる。
「とうに死んだ男の話だ。話半分に受け止めてくれ」
「それでもあんたは生きてるでしょ」
「二度と会えない。俺の死刑が執行されたことはもう、両親に通知されているはずだ」
 ……やらかした、と日下部は目を閉じた——失言だった。
 過去は切り捨てられて灰と化す。戸籍を抹消されるとは、そういうことだった。
「謝るなよ。日下部」
 口を開きかけた日下部を日車の声が制した。「俺こそ、君がそこまで追い詰められていることに気づけなかった」
……当たり前だろ。隠してたんだから」
「愚痴を聞かせてくれ。日下部」
 前みたいに。日車はそれを最後に黙り込み、煙草を口元へ運んだ。前、と日下部は日車の言葉を口の中で反芻し、彼を病院から呪術高専へ連れ帰ったときの出来事だと思い至る。
 あのときは日下部が車を運転しながら、総監部や呪術界に対する悪口を、長時間にわたって一方的にぶちまけたと記憶している。日車は確か、相槌を打ちながら興味深そうに聞いていたのだったか。あれ以来、日車とはそこまで突っ込んだ話をしたことがなく、日下部も今まで忘れていたのだった。やはり、元弁護士である彼の記憶力には目を見張るものがある。
「愚痴をねだられたのは初めてだな」
「煙草に逃げられたくないんだ」
「なんだよ、煙草ごときに嫉妬か?」
 返事はなかった。そのまま話しかけてくる様子も無いので、何を話したものかと思案を巡らせる。……日車が来るまで、換気扇の前に立って、自分は何を考えていたのだったか。頭の中をぐるぐると回る取り止めのない考えは、そこから一旦意識が逸らされてしまうと、たちまち記憶とともに途絶えてしまう。何を考えていたのか思い出せない。だが、思い出せなくても、話題ならいくらでもあった。
……最近、虎杖が妙に反抗的でな」
 正面を見つめていた日車が、首をこちらへ向ける。目が合ったのを日下部は逸らし、先ほどまでの日車のように、前を向いて暗い住宅街を見下ろした。
「俺の意見に全部口を出してくる。アドバイスはいいから自分の好きなようにさせてくれって」
「任務か?」
「任務でも授業でも。今日一緒に行った任務なんか、俺が全部やる、先生は後ろで見ててくれ、何もしなくていいからーって言われてさ。意味わかんなかったよ。それじゃ俺がいる意味ねえだろ、何のための合同任務だ」
 反抗期のガキかよ。呟き、二本目の煙草も瓶の水に沈めた。じゅうっと火の消える音がして両手が空く。日下部はそのまま、ほとんど無意識に近い動作で三本目に火をつけている。
「本当にわからないのか」
「ん?」
「虎杖が君に反抗的な理由だ」
 横目で様子を伺えば、日車はすっかり短くなった煙草の先端を上向け、違うな、と呟いた。「反抗的ではないかもしれない。虎杖が君の介入を嫌がる理由だ」
「どっちも同じでしょ」
「違うさ。君も気付いているだろう」
「お前、俺に愚痴言わせる気あんの?」
「話による」あっけらかんと答えて日車は手すりの上で頬杖をついた。「聞くには聞くが、君の捉え方が間違っているのなら正す」
 息を吐いたのは肺に溜まった煙を吐き出すためか、それとも日車に対する溜息だったのか。
 気難しい男だ。しかし、日車の指摘は正しい。日下部が発した言葉の裏に何が潜んでいるか、彼は正しく嗅ぎ取ったまでだ。
 ふう、と長い溜息の末に短く息を吐いて、日下部は頭上の暗い空を見上げた。
「お前の言う通りだ。何だかんだ言ったけど、あいつはいい呪術師になるよ」
 暗闇の中にぽっかりと浮かぶ月が、煌々と青白い光を放っている。
……学長になったからには、上に立つ爺婆どもをぜってえ見返してやると思ってたけどさ。俺もそういう、追いかけられる立場になったのを、すっかり忘れてたな……
 ていうか、年か。日下部の言葉に、視界の隅で日車が小さく頷いたのが見えた。
 若者に追い抜かれるのが老人の役目だと言い出したのは、いったい誰だったか。
 肉体は月日とともに老い、朽ちていく。かつて日下部と同世代の者たちがそうしたように、いつか、自分よりも下の世代が呪術界を牽引していくのは自明のことだ。彼らの先へ立ち、導いているうちに追いつかれて、追い抜かれていく。無論、日下部自身はまだ現役の呪術師でいるつもりだが、この体がいつまで動くかは誰にもわからない。
 だから虎杖は焦っているのだろうか? 呪術師としての実力はとうに日下部を抜いているだろうに、他に何を求めているのか。例えば、教師としての経験だったり、呪具や術式に対する深い知識——そうした、長い年月を経なければ得られないものを、同世代の誰よりも早く手にしたいと願っているのかもしれない。
 夜蛾が存命で学長を務めていた頃。変わり映えのない日々が続くと信じていた頃、自分は虎杖のように、呪術師としての使命に対して熱心だっただろうか。無論、否だ。命の危険に脅かされない呪術高専の教師という立場の上にあぐらをかき、夜蛾や五条がいることに無意識のうちに甘えていた。
 ほんの少しのきっかけで日常が容易く崩れ去ることを、今の呪術界は知っている。
 呪術界の建て直しに奔走し、大きく貢献した虎杖ら若い世代が呪術界を牽引していく姿を、日下部も見たいと願っている。しかし、今はまだ早すぎる、さらなる時間が必要だとも思う。……自分が過保護すぎるだけなのだろうか?
「あいつらはこれからも成長していくんだ。追い抜かれるだけの俺らは、あいつらからガミガミ言われるのも上からのお小言にも耐えて、必要なら誰にでも頭下げまくって、できる限り良い状態で今の立場を渡せるようにする」
 人は変わっていく。かつての自分がそうだったように、若いときほど日々成長していくものなのだろう。
 日下部は首を傾け、隣で煙を吹かしている男を見た。日車、と彼を呼ぶ。
「変わらないでいてくれよ」
 横顔が傾けられ、視線が合った。
 夜闇に溶け込みそうな日車の黒い瞳を見つめる。
「お前だけは変わらないままで、呪術高専に長くいてほしい」
 日下部が口を閉じ、静寂が訪れた。
 静寂はそう長くなかった。日車が身動ぎ、煙草を瓶の中に押し込む。日下部が取り出しかけた煙草の箱には首を振り、それで、と囁いた。「——君が言っているのは愚痴か?」
 彼の問いに少しだけ考え込む。「違うかも」
「お断りだ」
「おい、嘘だろ」
「人は変わるものだろう」日車は手すりに両腕を預け、腰を屈めるようにして眼下の景色を覗き込んだ。「君も俺も、月日が経てば否が応でも変わっていく。だから君の望みの前半部分を叶えることは不可能だ」
「後半は?」
「忘れたのか。俺は元々、そういう約束で戻ってきた」
 約束。日車の発言を繰り返す。……そうか。あれはお前にとって、約束だったのか。
 暑いと呟いて日車はジャケットを脱ぎ始めた。背後の窓を開けて床の上に放り投げ、その上にネクタイを重ねると、ワイシャツの襟元を緩めて一息ついた。今度は頬杖をついて外を眺めている。リビングの明かりに照らされた首筋が、赤黒く変色しているのが見えた。
「お前、それ、どうしたんだよ」
「なんだ」
 思わず驚いた声が出るも、当の本人は首を傾げただけだった。暗がりの中でもくっきりと見えるほどなのに、気づいていないのか?
「痛くねえのか。その、首の痣みたいなやつ」
「首? ……あっ」
 沈黙。
 ぱし、と音を立てて日車の右手が首を隠した。
「なんでもない」
「明らかになんでもなくはない間だったよな、今の」
 ひとたび動揺が現れれば、日車の嘘を見破るのは容易い。無表情であってもまず、露骨に目を合わせようとしなくなる。彼の視線は空中の一点に固定され、日下部が目の前で手を左右に振ると、今度は下へ移動した。
「おーい。こっちを見ろや日車さんよ」
「断る。なんでもないんだ、本当に」
「やましいもんがないなら目を逸らすな。どこでいつ負った怪我なのか、俺の目を見てきっちり説明できるよな」
 意地でも話したがらない日車に対し、最も有効な手段が何かを日下部は知っていた。黙り込むことだ。彼の顔を見つめ、白状するまでこのままだと無言で主張する。そうして事態を膠着状態へと持ち込むのだ。日下部に対して後ろめたい気持ちを持っているのであれば、日車はすぐに降参する。
 日下部の狙い通り、日車は観念したように目蓋を閉じた。次に目を開いたとき、瞳は揺れておらず、彼は日下部を真っ直ぐに見つめた。
……今日の任務で、怪我を」
「今まで治さなかったのか」
「怪我をしたのは足だ。両足が瓦礫の下敷きに」
 日下部は思わず顔を歪めた。想像したくもない怪我だ。だが、話を聞く限りでは、足の怪我と首の痣に関係があるようには思えない。
「怪我はすぐに治したが、そのときに痣ができたのだと思う」
「思う?」
「ひどい怪我を負ったとき、たまに出てくるんだ」そこで日車はきまりの悪そうな、複雑な表情を浮かべて束の間黙り込んだ。「……こっちに来てから」
 日車は手を下ろしていたので、日下部は彼の首筋に浮かぶ痣をじっくり観察することができた。痣の範囲は首の右側だけでなく前面にも及んでいる。となれば左側にも同じようにあるのだろう。ちょうど首の前半分を一周するように——
 その意味を理解した瞬間、日下部はひゅっと息を呑んだ。
 太い紐か縄で首をきつく締め上げられたような痣。日車がその怪我を負ったのは、もう半年以上も前になる。
 刑務所の処刑場で首を吊るされたときだ。
「おおかた、俺を仮死状態にした呪具の縛り……の名残だろう。見ての通り痛みは全く感じない」黙り込んだ日下部を思ってか、日車は淡々と話を続けた。「しかし、いちいち治すのも面倒だ。ボタンを留めていればほとんど見えないから、今後はこのままで良いかもしれな——
「駄目だ」
 反射的に、日下部は日車の発言を遮っていた。
「治せ。今すぐ、ここで」
 日車は薄く唇を開き、目を丸く見開いてこちらを見ていた。日下部が強い口調で命じてきたことに驚いたのかもしれない。日下部自身も、想定以上に険しい声が出たことには気づいていたが、撤回する気はなかった。
 日車寛見は死んだ。殺人を犯した罪で絞首刑に処され——そして今、彼は過去を抹消されて、新たに与えられた名で第二の人生を生きている。
 贖罪は未だ果たされていないと彼は考えている。しかし、日下部の考えはそうではなかった。社会的な裁きが下された今、罪ばかりに囚われる必要はないだろう。無論、罪の意識を持ったまま生きることは、彼が選ぶ生き方のひとつであるはずだ。自分は日車の考えを肯定も否定もしない——だが、過去が自ら付き纏ってくるのは、違う。
 日車の首の痣は彼が犯した罪の証であると同時に、彼の命を弄んだ呪術界の腐敗を象徴するものでもある。
 彼を総監部直属の処刑人として引き入れようとした総監部は、日車を絞首刑にし、あまつさえ呪具を使って、処刑された彼が一命を取り留めるように仕向けた。
 両面宿儺との戦いで生き延びてもなお、日車は自身の罪が裁かれることを望んでいた。つまり、ようやく罪を裁かれて死ぬはずであった彼は、呪術界のせいで死ねなかったことになる。
 それが日車にとって良いことだったのか悪いことだったのか、日下部にはわからない。否、。死とは果たして救済なのか、それとも地獄より惨かろうと現世の生にしがみついて足掻き続けることが美徳なのか? 日車が置かれた境遇は日下部の想像を絶するものであり、ゆえに、たとえ拒まれようとも孤独にさせたくない、手を差し伸べてやりたいと思う。そのためには、日車の首の痣は不愉快だった。赤黒く鬱血して浮かび上がったそれは、お前の罪を忘れるな、死ぬ瞬間まで付き纏って苦しめてやると日車へ告げているようにも見えた。
 どうやって日車に伝えるべきか。生憎、日車ほど口が回らない日下部にとって、複雑な感情を誤解なく伝えることは難しい。なのに、考え込んでいる間にも時は進んでいく。
 首の痣を見つめたまま押し黙る日下部から何を読み取ったのか。日車は不意に右手を突き出してきて、言った。
「吸いたい」
 手元の煙草はまだ充分に長かったが、躊躇なく瓶に突っ込んだ。箱とライターを渡すと、日車は唇の端に煙草を咥えて火をつける。
「背中を——
「ん?」
「肩を掴んでいてくれないか」ベランダに上半身を預け、下界を見下ろしながら日車が言った。「治っているか見ていてほしい」
……おう」
 二人の間に置かれた瓶を足元に置き、距離を詰めてから日車の右肩に手を置いた。肩越しに、日車が深呼吸を繰り返しているのを感じ取る。数度、肩が上下に大きく動くと、彼の首に浮かんでいた痣が薄れ始めた。
 日下部が感心しながら見ている間にも反転術式による治癒は進む。手すりの上に腕を置いた日車が煙草を口に運び、長い時間をかけて吸うと、ひと息に煙を吐き出す。彼が息を吐ききる頃には、痣は跡形もなく消えていた。
「治ったな……っと、悪い」
 労わるつもりで肩をさすった瞬間、日車がびくりと体を震わせたので慌てて手を離す。いいや、と小さな声で答えた日車は、日下部が触れていた右肩に触れると、力なく腕を下ろした。
「変なことを頼んで、迷惑をかけた」
「いや……俺も、強く言いすぎたから」
 日下部の言葉を最後に沈黙が流れる。日車は無言で煙草を吹かしており、手持ち無沙汰の日下部もそうしようと、もはや何本目か数えていない煙草を箱から取り出そうとする。日下部、と日車が不意に声を上げた。
「気が変わった」
 話の流れが掴めずに聞き流した。箱を持ったままでいる日下部のほうへと日車が振り向き、手元の煙草を左手に持ち替える。かと思えば、空いた右手で日下部の手元を指差した。
有罪ギルティ
……へっ?」
 真っ先に思い出したのは彼の領域に存在する式神だ。厳かに低められた日車の声は、彼の領域の中で聞いた式神のそれと、非常に似通っている。
 日車は右手を開き、手のひらを上にして日下部へ差し出した。
没収コンフィスケイション。煙草を寄越せ」と日車が低い声で告げてきた。「ライターもだ。没収する」
「何でだよ。普通に嫌だけど」
「そうか。——渡してくれないのならここから飛び降りる」
「はあ!?」
 告げるや否や、日車は煙草を口の端に咥え直すと、手すりに両手をついて体を持ち上げた。両足がベランダから浮き、膝頭が欄干にぶつかって騒々しい音を立てる。日車はそのまま、右足を手すりの上に置いた——日下部は日車の服を掴み、渾身の力で後方へ引き戻した。反動で後ろの窓へ打ちつけられそうになった日車の体を、両腕で慌てて支える。半分に細められた両眼が日下部を見上げた。
「ちょっ……と、何考えてんだ馬鹿!」
「君に禁煙させる方法だ」淡々と答え、日車は先ほどと同じように右手を突き出してくる。「渡してくれるな」
 まるで意味がわからない——下に落ちていた箱とライターを拾い上げ、手のひらの上に置いてやると、日車は腕を引っ込めて箱を開けた。一本取り出すと、既に咥えていた煙草の横にそれを突っ込んだ。
 日下部が呆然と見つめる前で、日車はライターをつける。フィルターの焦げる臭いが濃く漂い、同時に日車が煙草を取り出して咽せた。
 呆れるべきか心配するべきか迷った。
 日車はしばらくの間咽せていた。しばらく経ってから目尻を拭って顔を上げると、改めて口元へ運ぼうとする。
「あんた、いったい何がしたいんですか」
 喉の違和感が直らないのか、日車は咳払いをして日下部の問いに唇を開いた。
「君に禁煙を強制する」
「は?」
「隠れて吸ったとしても俺は気づくぞ。証拠品をどこに隠そうが必ず見つけ出す。現場を押さえたら俺がこうして、君の目の前で中身を全部吸い切ってやる」
「何だそれ」
「煙草を吸えば寿命が短くなる、という話は君も聞いたことがあるだろう。一説によれば、失われる寿命は一本ごとに五分半。一箱二十本を吸いきれば百十分。つまり、君が禁煙を破るごとに、俺はおよそ二時間分の寿命を削ることになる」
 君からすれば煙草を買った金の無駄遣いになるし、君の行いのせいで俺の寿命が縮むわけだ——
 日車が再び咳き込んだ。それでもなお二本の煙草を口元へ運ぼうとするので、見かねて彼の手元から取り上げる。奪い取られるよりも早く足元に落として火をもみ消した。日下部、と日車が非難の声を上げてきたのを睨みつける。
「ばかだな。あんた」
「ばかじゃない」
「いいや、ばかだよ。こんな強硬手段に出なくても、俺に一言物申すだけで済む話なのに」
「あいにくだが俺の経験上、君の口約束はとても信頼できたものではない」
「試してみろよ。今回は破らねえかもだろ」
「破らない?」
 眉間に細かい皺を寄せて日車は黙り込んだ。疑念に吊り上がった両目は日下部の顔を逸らすことなく見つめ、嘘を見抜こうとしているかのようだった。次に口を開いたとき、日車の顔はいよいよ不満げにしかめられている。
「日下部、君の体が心配だ。禁煙しろ」
「言い方がきついな」
「君のことを心配しているからだと素直に受け取ったらどうだ」
 怒気を帯びた鋭い声色に気圧され、顎を引いて頷く。
「わかった」
「これ以上寿命を無駄にするな」
 おう、と短く答えたあとに違和感を覚えた。今、こいつは何て言った——
……縛りの話、誰から聞いた」
「冥冥だ。一週間くらい前に偶然会った」煙草の箱とライターをワイシャツの胸ポケットに押し込みながら、日車は淡々と答えた。「呪術界はつくづく嫌な場所だ。弱者のためにあるはずのシン・陰流すら人の命をモノ扱いか。君が何かに逃げ込みたくなる気持ちもわかる」
 だが、煙草は駄目だと低い声で呟く。「君もたちが悪いな。寿命のことを知りながら吸っていたのか」
「だったら何だ」
「君のこれは現実からの逃避ではなく、自傷に近いという話だ」
 日車の横顔からはいつの間にか険が抜けつつあった。
「君が傷つくのをこれ以上見たくない。傷を負う場所が身体でも心でも、傷つけるのが誰であろうとも。無論、君自身であってもだ」
 彼の話を茶化そうかとも思った。お前が思っているほど自分は立派な人間じゃないし、仕事を適度にさぼって禁煙すら破ってしまった半端者だ。しかし、いざ口を開こうとすると躊躇いが生じてしまう。
 遠くを見つめる日車の瞳は真剣で、ある確信に満ちている。自分にはないであろう信念の強さに、ほんの少し、尻込みした。
——君のことは、俺が死んでも守りたい」
 だから彼は、口にした誓いを、決して破らないのだろうと思う。
 ……沈黙ののち、日下部は深く、長い溜息をつきながら天を仰いだ。
 日車に対する感情は複雑だ。公私ともに信頼を置ける人物だし、友人としての親愛や、呪術師としての尊敬の念も抱いている。一方で、その高潔な態度に対する羨望や、彼と比較したときに覚える劣等感、さらにはそれに対する自己嫌悪すらも同時に覚えてしまう。
 今がまさにそうだった。だが、彼の感情はこの場において、日下部だけに向けられているのだ。
 そうかと受け入れるべきか? 適当に茶化して躱すべきか? いい加減にしろと諌めるべきか? 浮かんだ選択肢は全て本音であるはずだが、どれも正解だと思えない。否、どの言葉も、彼に対して、誠実なものだと思えない。
 言葉は不便だ。少なくとも日下部にとってはそうだった。彼の発言にどう答えるべきか、全く思い浮かばない。
 それでも逃げ出したいとは思えなかった。たとえ困難なことであろうと、向き合いたかった。
……遺書にも似たようなことを書いてたな」
 日下部を見る瞳が一度瞬き、そうだなと相槌が返ってきた。
「読んだのか」
「この前、部屋の掃除をしたときに目に入ってさ。最後まで読んじまった」
「構わない。読むタイミングは君に任せると言った」
「何度か読み返した。あんたに会えなかった日とか、総監部からチクチク言われてむしゃくしゃしたときとか、煙草を吸いたくなったときとか」
 複数回の瞬き——日車の視線が日下部の顔から横へずれた。気まずく思っているのか、それとも。
「お前との約束は破りたくない」
 目を逸らした日車の顔を見つめながら、日下部は少しずつ言葉を探していく。
「あんたに対しては俺も誠実でいたいんだ。……なあ、日車」
 彼の視線が日下部の目元へ戻ってきた。日車、ともう一度呼んでようやく、揺れていた瞳が定まった。
「支えてくれ。俺が無茶をして死なないよう、見守っていてくれないか。俺の近くで——
 あ、と思った。……日車の顔が、あのときみたいに、歪んだ。
 彼が揺らぎを見せたのはほんの数秒だけだった。束の間浮上した激情は、瞬く間に皮膚の奥底へと沈められてしまう。あとには沈黙だけが残った。月が昇る夜にふさわしい、静謐な時の流れだけが。
「勿論だ」日車が頷いたまま、頭を上げずに言う。「君の、君たちの力になる。必ず……
 ——そんなに苦しい顔をさせるつもりじゃなかったんだけどな……
 言葉は喉の奥へ押し殺す。深呼吸を挟み、そうか、と一言だけ返した。
 日車は俯いた姿勢から戻らない。緩やかに、しかし断固として会話を拒絶する彼の態度に対して、何ができたというのだろう。
 彼は、日下部が抱えている、どうしようもできない弱さを知っている。
 日下部もまた、日車が持つ不完全さ、脆さに気づいている。
 予想だにしなかった奇妙な巡り合わせだが、自分を取り繕う必要がない関係性は貴重だ。互いの傷を見せ合い、触れ、理解し合いながら過ごす時間は心地良い。しかし、まだ互いの全てを見せてはいないはずだ。
 自分と日車は決して、傷を舐め合うためだけに会っているのではない。
 言いたくないのならいい。言いたいときに打ち明けてくれれば、それでいい。
 一緒にいて、同じ空間で話せているだけで、今は。
 日車が仄暗い思考の水底から意識を浮上させ、この世界で生きるための感覚を取り戻すまで、日下部は静かに待ち続けている。
——あんた、飯は?」
 日下部の問いに日車は顔を上げた。
 深い、黒曜石を思わせる瞳が日下部を見る。日下部も深淵を覗き込むように見つめ返した。
 そして、暗闇へ光が戻ってくる。日車はぴくりと目蓋を震わせると、ぎこちない動作で首を横に振った。
「俺もまだだ。近くの店にでも行くか? それともスーパー?」
「君が楽なほうでいい」
「じゃあ店かな。肉と魚だったら——
「肉」
「了解。ほら、とっとと向かうぞ」
 足元の瓶を拾い上げてリビングへ戻る。ばたばたと騒がしい足音が背後から聞こえた。どたん、と一際大きな音を立てたのを最後に静寂が戻り、吸い殻と水の処理を終えてキッチンから戻ると、日車がベランダとリビングの間でうつ伏せに倒れている。
「おい、日車!?」
……くだ……
 潰れた蛙のような声が聞こえたが、何を言っているかは判別できなかった。日車の隣にしゃがみ込んで手首を取る。脈が速い。
「日車、聞こえるか? どうした?」
「糖分不足だ」
 今度ははっきりと聞こえた。思考が止まり、理解すると同時に日車の手を投げ出して悪態をつく。
「さっきの痣かよ。ったく、心配させやがって……
 まさか、先ほどのぼんやりした態度も、低血糖で頭がぼうっとしていただけなのか——思い当たった途端、一気に脱力感が襲ってくる。これ見よがしに溜息をつき、日下部は後方に手をついて天井を仰ぎ見た。天井の中央で煌々と光る照明の白さが目にしみる。
……まあ、いいか……
 ひとりで勝手に思い詰めて暴走されるよりは、遥かにいいだろう。
「特殊な傷痕のせいか、治すのにけっこうな量の糖分を消費するんだ」日車は呂律の回っていない口調で言い、日下部に放り出された手をぱたぱたと跳ねさせた。「日下部。俺のジャケットを取ってきてくれ」
「なんで」
「こうしたときの非常食を入れていたはずだ」
 日車の指示通りジャケットを持ってきてやると、ポケットの中を探ってほしいと頼まれる。右のポケットに手を突っ込み、指先が硬いものの感触を捉えたので取り出した。非常食にしてはずいぶんと小さな代物だ。否、日下部にとっては毎日のように見慣れたもので——
……飴?」
 日車の頭がもぞりと動き、青白い顔の半分を覗かせた。
「あったか」
「見つけたけど……この味は苦手じゃなかったっけ、お前」
 持ち手である棒を回転させ、プリン味と書かれているのを見つける。包装紙に印刷されているのもプリンのイラストだった。日車が手を伸ばしてくる。
「それでいい。くれ」
「いやいや、あんたは甘いの駄目だろ。これは俺が食う。俺も買ってるやつだし、あんたが食えそうなのを持ってくるから」
「だめだ」
 日下部が立ち上がりかけた途端、予想外に強い口調で日車が引きとめてきた。ただならぬ気配に思わず動きを止める。それに気づいた日車がばつの悪そうな表情を浮かべた。
「それは、お守りみたいなもので、いつも持ち歩いていたから」
「たかが飴だろ」
「俺にとっては大事なものだ。俺が食べる」
 日車の懇願には、飴を絶対に奪われまいという焦りが滲んでいる。首を傾げながら包装を剥がし、口元まで運んでやると、雛鳥のように口を開けたので中まで押し込んだ。
 日車はしばらくの間、無言で飴を転がしていた。やがて眉間に皺を寄せ、口の端を歪めながら低い呻き声を漏らす。
「甘ったるい……
「ほら。だから言っただろ、新しいの持ってくるか?」
「必要ない」
 くぐもった声で答えたのを最後に、彼は飴を舐める作業に戻った。口の中で忙しなく転がしているのか、彼の頬は盛んに動いている。日下部はあぐらをかき、膝の上に頬杖をついてその様子を眺めていた。
 数分後、彼の口の中から飴を噛み砕く音が聞こえてきた。日車は両手を床の上につき、上体を起こすと溜息をつく。手に持った棒からは、欠片ひとつ残らずに飴が消えていた。
「すまない。君の時間を無駄にした」
「いいって。何なら新しいのを持ってくか。俺ひとりだと多すぎて消費に時間がかかるし」
「君が困らないのなら」
 捨ててもいいかと棒を指して日車が聞いてきたので頷き、キッチンに連れていった。
 キッチンの戸棚に仕舞っていた棒つきキャンディのアソートセットは、中身が半分ほど減っていた。さらに付け加えるなら減り方が偏っている。
「ストロベリークリームとプリン味だらけだな」
「うるせー、甘いのは俺も苦手なんだよ。まあ食えなくはないし、気にせず好きなの持ってけ……おい、無理すんなって」
 日下部が答えた途端、大量に余っているプリン味を日車が持っていこうとするので仰天する。思わず手首を掴んだが、日車はどうしたと首を傾げただけだった。
「好きなのを持っていけと言ったのは君だろう」
「さっきはすげえ顔しながら食ってたけど」
「味の好みと嗜好は別だ」
「好みと嗜好って意味変わらねえだろそれ。別に、無理してないなら持ってっていいけど……
 許可を貰うや否や日車が片手を袋の中に突っ込んだ。日下部が呆れながら見つめる中、数本まとめてジャケットのポケットに押し込み、満足げにこちらを見上げてくる。
「当分の間はこれで間に合いそうだ。礼を言う」
——縛りか?」
 日車の目がきょとんと見開かれ、やがて口の両端と肩が細かく震えだした。笑うのを堪えているらしい。日下部が思わず舌打ちをすると、日車は口元を押さえてすまない、と震えた声で言った。「飴で反転術式の縛りを? まさか」
「もういい。忘れろ、忘れてくれ」
「どんな縛りを設けるんだ。教えてくれ、先生」
「だから忘れろってば。くそっ、変なことを言った——
「これは、大切な人にもらったんだ」
 手を下ろした日車は依然として笑っていたが、声はもう震えていなかった。
「目にするたびに当時のことを思い出す。教訓みたいなものだ。だから、味は苦手でも気に入っている」
「大切な人?」
「ああ。本人は忘れてしまったようだがな」
 それって、誰だ——
 日車の知り合いは少ない。呪術高専の内部とその周辺のみと限られるゆえに、日下部の知人でもあるはずだ。それとも自分が知らない人物か? なぜ黙っていた? しかし、制限が課せられているものの日車にだって交友の自由があるわけで、その全てを自分が把握したいと願うのは、ただの……
 日下部が問い詰めるより早く、日車の手のひらが強い力で胸元を叩いてきた。よりにもよって両面宿儺の攻撃を食らい、その後日下部の命を狙った呪詛師によって上書きされた、古傷の真上だ。日下部が声もなく痛みに悶えている間に、日車はキッチンを通り抜け、角を曲がって玄関のほうへ姿を消してしまう。
「早く行こう。日下部」廊下の奥から淡々とした声が呼びかけてくる。「いい加減に腹がへった。来ないのなら置いていくぞ」
「あんたのせいでしょうが……!」
 悪態をつきながら足を踏み出す。結局、日車の「大切な人」について聞く機会は逃してしまったな、と残念に思ったが、仕方のないことだと瞬く間に頭の中から抜け落ちていった。
 コートを羽織り、既に革靴を履き終えた日車が、玄関口で日下部を待っている。どこへ行く、と心なしか弾んだ声で訪ねてきた。それを見てあっさりと怒りが引っ込んでしまうのだから、自分も大概だ。
……ずいぶんと機嫌が良さそうだな」
「そうか?」首を傾げ、そうかもしれないと彼は肯定する。「夕飯が楽しみだ。今日はたくさん食べたい気分だから」
「食いすぎて腹を壊すなよ」
「君こそ、この前みたいに飲みすぎて深酔いしないでくれ」
「あれは悪かったって……つか、あのときはお前もべろべろに酔ってただろ。お互いさまってやつだ」
 日車がふっと息を吐いて笑った。「反論できないな。違いない。では、今日は互いに気をつけよう」
 部屋の電気が消えた。
 男二人が並んで立つには玄関は狭い。会話の余韻で口元に笑みを浮かべたまま、日車が扉を押し開ける。彼の右手に握られた合鍵が涼やかな音を立てて揺れ、暗闇の中で鈍い光を放った。