シノハラ
2025-03-12 22:34:53
6073文字
Public ルムメ
 

ルムメまとめ(2本)



カーヴェが暮らす家について
2023年7月28日

 夢を見た。仕事が最悪な状況に陥っている夢である。悲しいかな、現実も夢とそれほど変わらない状況ではあるのだけれど。
 アーカーシャ端末は自分が延々と見ていたはずの悪夢も丁寧に吸い取ってくれていたのだろう。ばくばくと音を立てる心臓を押さえながら、カーヴェはその機能だけでも残しておいて欲しかったと少々恨みがましく思う。
 私室の机に突っ伏して寝落ちてしまっていたせいで、腰やら肘やらがそこそこ痛む。多分膝が痛いのは起きた瞬間の痙攣で天板辺りにでも強かにぶつけてしまったのだろう。
 最悪だと思った時には口からも出ていたが、咎める者は幸いどこにもいない。外から差し込む光の角度を思えば、おそらくこの家にいるのはカーヴェだけだろう。――光の角度を思えば?
――え? あっ⁉ うわ……!」
 慌てて机の端でカーヴェにそっぽを向いている時計をこちらに向けると、時計の針はすでに九時を回っていた。教令院の業務開始時刻は九時ちょうど。休暇を取っていない限りアルハイゼンはとおに出勤しているはずである。どうやら、彼はカーヴェを起こさずに一人で朝の支度を済ませて出ていったらしい。
 この家の賃貸料の一部をカーヴェは家事業で支払っている。であるからして、朝の食事の用意も当然カーヴェの担当である。カーヴェが朝食を用意するのを前提にアルハイゼンが目覚めているのは想像に難くなく、後から文句を言われそうだと渋面を作りながらカーヴェはようやく腰を上げた。
 正直食べる時間すら惜しい気持ちはあるが、修羅場においてこうやって作業が断絶されているタイミングは珍しい。今まとまった食事を取っておかなければ、夜までろくな物は口にできないのは自分でも分かっていた。
 進まない気を追い立てて誰もいない居間を縦断して台所に向かうと、なんとピタが置いてあった。ぱちくりと瞬きしてみるが、霞でもなんでもないらしくその場に留まり続けている。
 この家にいるのは自分とアルハイゼンしかいないのだから、これの作成者はアルハイゼンという事になる。食の好み方に癖はあるものの、彼の料理の腕前自体は特に問題ないので食べられない物ではないはずだ。どうやら、自分の朝食を準備するついでに一向に顔を見せない食事担当の分も用意してくれたらしい。
 業腹ではあるが、文句を受け入れた上で礼も言わなければならないだろう。ピタの乗せられた皿を手に取って少々悩んだものの、温め直す気力は湧かなかった。アルハイゼンが想定した味よりは幾分か落ちるだろうが、今は腹に入ってしまえば御の字だ。
 コーヒーを入れる気にもならず、カーヴェは水とピタを居間に持ち込んだ。まだ目覚めきらないのか重たく感じる体をどっかりとソファに沈め、後ろ手に手を突いて深々と息を吐く。肺から息を吐き出しきると、ようやく胃が動き出したのか空腹感を覚えてピタに手を伸ばす。
 あぐ、と大口を開けて食らいつくと、思った以上に美味しかった。自身の歯形に抉れるピタの断面をまじまじと観察すれば、冷えて味が落ちる食材が避けられているのが分かる。カーヴェが遅くに目覚める事を考慮して、アルハイゼンが食材を選んでくれたのだろう。
 もう一口齧りついて、突然自分がアルハイゼンとこの家で暮らしているのだと実感した。彼と暮らし始めてどれだけ経っているのかという話ではあるのだが、ここがカーヴェの家なのだと飲み込んだピタと共にすとんと腹に落ちてくる。
 ここはカーヴェの家でもあって、カーヴェの状況を知った上で気まぐれのようにちょっとした気遣いめいた事をしてくれる人が住んでいる。喧嘩ばかりで、楽しくない事の方がずっと多い。もちろん、家主との関係は良好とは言い難く、それが原因でうまく回らないことなんていくらでもあった。自分の落ち度をフォローしてくれた彼への感謝を述べるのも、実際まだ抵抗があるくらいだ。
 ここはカーヴェがかつて失った家庭とはこれっぽっちも似ていなかった。けれどここには二人の生活があって、不格好ではありながらも家庭を作り上げている。それは一度徹底的にそれを破壊したカーヴェにお似合いの様相のはずなのに、これ以上ない完璧な姿をしているようにも思えた。きっとこれ以上などどこにもないと、根拠のない確信ばかりがカーヴェを埋め尽くしていく。
 ――これが僕の家。そうして僕らの家でもある。
 ツンと痛む鼻に涙腺を刺激されそうになりながら、カーヴェはぺろりとピタを平らげる。空になった皿を片づけてからカーヴェはアルハイゼンの城でもある書斎に足を運んで、彼が良く座っている椅子に腰を下した。いつも彼が見ているだろう景色を見ているうちに、少しずつ心が落ち着いてくるのが分かる。
 彼ならきっと、そんな状況で仕事をしても効率が悪いからさっさと寝ろと小言を並べてきただろう。いつもならこんな状況で寝られるかと怒鳴り返すところだが、今は彼の提案を受け入れてやっても良いと思う。
 もう少しだけ寝て、そうすればうまくいくような気がする。腹が満ちたせいかとろりと訪れた眠気を歓迎しながら、カーヴェは眠気が定着するまでしばらく椅子に座っていた。