『鳴瑯館殺人事件』冒頭 約5000字試し読み

ミステリは、気合い。これが私のアナザースカイ
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――つくば医学特区 大澄探偵事務所



 彼の趣味なのか、以前の住民の趣味だったのか、事務所の一階にはビリヤード台が置かれていた。僕はそうした洒落た大人の遊びというものには大変疎く、はっきり言ってからきしである。しかしここには彼の旧友――というよりも仕事上の〝友人〟と呼ぶ方が適切なのだろう――が頻繁に訪れて球を突いていた。今日は誰もいない。当然のことである。
 壁に掛けられた金属製のアナログ時計、その秒針がかちかちと規則正しい音を立てる。示された時刻は午後二時半。一日の中で深夜を覗いて最も眠気と格闘しなければならない時間である。
 僕は一般的な社会生活の営みから僅かに切り離され、研究者の子馬として科学者の群れに加わり、日々一般人から「ふ~ん」の一言で片づけられてしまうような世界の住人である。比較的緩さが規律に勝利する研究室に所属する僕は、この大澄探偵事務所でアルバイトをこなし乍ら日銭を稼いでいた。この事務所に出会った経緯は忘れてしまったが、高専へ入学した一年目からここに置いてもらい、掃除係と時折探偵助手の真似事のような事をさせてもらっている。

「菜々緒、来てたのか」
「あ、大澄さん。お疲れ様です。あの、その猫は」

 探偵――大澄高久は小さな仔猫をゴツゴツした両手で優しく抱えていた。

「迷い猫だ。この間頼まれただろ? あのばあさんの依頼を断ると後が面倒だからな……

 あからさまに不本意といった様子で、大澄は仔猫を僕へ手渡す。にゃあ、と高い声で鳴く仔猫は大人しく僕に抱えられていたが、彼のスーツのジャケットには白い猫の毛がたくさん付着している。恐らく猫を捕まえるのに随分と苦労させられたのだろうと容易に推測できた。

「山田さんには僕が返してきますよ。大澄さんは先にガムテープで、毛……取ったほうがいいと思います」
「間違いない。ああそうだ――猫を返すついでにどこかコンビニでも、スーパーでもいい。インスタントコーヒーを買ってきてくれ」
「分かりました。あ……そうだ、」 僕はビリヤード台に放置していた、郵便受けから取り出した封書の束を彼に渡す。「これ、確認お願いしますね」
「気を付けろよ。最近はやたら物騒だ」
「悪漢が襲ってきたとして、馬子に追いつける生き物はそういませんよ」

 僕は傘立てに突っ込んでいたビニール傘を手に取る。猫は居心地悪そうにもぞもぞと動き、不満げに二、三鳴いて僕に何かを訴えていた。ちらりと大澄の様子を横目で伺えば、彼は面倒くさそうにしながらも、折り目正しい動作でハサミを動かし書類を確認している。
 黒いアンティーク調の押戸を開けて一歩外へ出る。静かに雨が白い街並みを濡らし、四月だというのに肌寒さを覚えた。
 大澄探偵事務所はつくば医学特区のうち、住宅街から少し離れた中央行政区の傍にある。だが猫の飼い主である山田夫人の家は住宅街からは外れた場所で、厄介なことに探偵事務所のすぐ傍にあった。彼女はいくつか不動産を所有している富豪で、探偵事務所のビルも彼女の所有物であった――そして猫を沢山邸宅で飼っているのだ。そのため僕らは定期的に彼女の『猫探し』依頼を引き受けなければならなかった。
 山田夫人の邸宅は先進的な白い街からは浮いているようでいて、アイビーの蔦で覆われた一部の外壁のおかげなのか、案外丁寧な調和を見せていた。白い洋館は広く、鱗のような装飾が可愛らしい。実際彼女も悪い人ではないので建物にも人柄が現れているのだろう。僕は呼び鈴を押して家主を待つ。数秒後インターホン越しに「どちら様?」という高い声が響いて、「ああ! 鴻さん!」と僕の名字が呼ばれた。

「マシュマロちゃんを連れて来てくれたのね!」 山田夫人が玄関から飛び出し、傘もささずにこちらへ向かってくる。僕は走ってきた彼女へ傘をさしかけて、
「もう外に出さないでくださいね。まだ仔猫ですし……
「ええ、ええ。勿論よ。大澄さんに『次月の家賃を割り引いてあげる』と伝えて頂戴」
「あはは……いつもすみません。伝えます」

 大澄は探偵として様々な依頼を受けているが、物語の中のような名探偵には程遠いと本人はよく言っていた。僕はそう思わないのだが、依頼の内容を見ると確かにシャーロック・ホームズのような探偵とは少し違う存在だと言える。例えば浮気調査、そして猫探し、犬探し。大抵の場合は何かを探していることが多く、難事件解決に手を貸す――そんなことはごく稀な話である。
 しかし大澄高久という探偵は、十年程前まで警視庁捜査一課で殺人事件を追っていたらしい。以前事務所へ来た刑事から聞いた話だ。何故彼が警察を辞職したのかは聞いていない。あまり話そうともしないので、無理に聞き出そうとも思わない。

「ああそうだわ、鴻さん。貴方に渡そうと思っていたものがあるのよ」
「僕に、ですか?」
「ええ! 貴方、ミステリーがお好きなんでしょう?」

 山田夫人はからころと笑った。否定はしない。僕は英国のミステリー作家、エマ・J・ワトソンの大ファンだ。彼女の作品は面白いものとそうではないものとで落差が激しいと有名だったが、僕は彼女の描き出すミステリーの虜だ。どれを読んでも面白い。
 しかし確かに――間違いなくエマ・J・ワトソンはホームズパスティーシュ(二次創作)の名手であろう。彼女が書いた『バスカヴィル館の魔犬』はあのコナン・ドイル財団から正式にホームズ物語の一部である、と認められたのだから!

「鴻さん? 宜しい?」
「はっ、あっ。す、すみません! ええと。な、なんでしょう」
「ええ、ええ。それでね。実はこちらをね、頂いたのよ。鳴瑯館ってご存じ?」
「鳴瑯館……?」 聞き覚えがあるような、無いような名前である。館系ミステリーに登場しそうな洋館の名前だ。「すみません、よく知らないです」
「謝らないで、いいのよ。ねえ、エマ・J・ワトソンって作家ご存じかしら」
「彼女の作品は全部読みました。邦訳版ですけど」

 僕は食い気味に彼女へ詰め寄りつつ言った。その様子に山田夫人は嬉しそうに微笑む。

「良かったわ~、ほら『バスカヴィル館の魔犬』が映画になったでしょう? その時のロケ地が鳴瑯館なのよ。淡路島の近くにある小島にあってね、今度ロケ地ツアーがあって……その懸賞に当たったの。でもね、日取りが悪くって。株主総会と被っていて、どうしても行けないのよ」
「えっ…………それは、つまり、その……

 くれるんですか。その旅行券。
 僕は必死に喉元までせり上がってきている言葉を飲み込みながら続きを待つ。

「だから、貴方に差し上げるわ。夫の分と、私の分で二人分あるから、ご学友とでもどうぞ」
「あ……ありがとうございます!」
「うふふ、喜んで頂けて良かったわ。はいどうぞ」
 三つ折りの書類を入れるのに丁度よい大きさの封筒には『株式会社関東ツアーリズム』と書かれたロゴマークが載っていた。中を確認すると確かにチラシがある。

 チラシには『バスカヴィル館の魔犬 ロケ地ツアー』の文字が踊り、確かに宿泊先の場所は『××島 鳴瑯館』の文字。僕は踊りだしたくなる自分を押さえつけてもう一度礼を言う。山田夫人は「いいのよ~、またね」と終始機嫌良い笑顔を浮かべたまま探偵事務所へ戻る僕を見送った。