ログ本書き下ろし

現パロ 母に見せる景色探しをしにいくコラさんと、コラさんを探しにいくローと、ローを探しにいくスモと、全てを眺めるドフィの話
ロー視点です



 この先の平原には、星降る船が落ちているらしい。
 村の噂を聞いたローは首を傾げた。
「船、というのは」
「宇宙船のことだ。スペースシャトルみたいな形をしている」
 見たことはないがな、と言うツアーガイドは、勢いよくビールを煽った。
「見にいこうとすると、猛吹雪になる。だからみんな夏に見ようとするんだが……夏にはなくなってんだと」
「誰かが見た幻覚じゃないのか?」
「さァな、俺たちもその近くまで行ったことはあるが、船なんて見たこともないし、やっぱり冬には吹雪くから無駄足になったもんだ」
 ガイドたちが顎を撫でながら、暖炉のまえで足を組み替える。ローにとって単なる噂でしかないし、あてにする理由もない。なかった。
 だが、その噂をドフラミンゴに話すと、しばらく黙ったあとに通話口でこう言われる。
『あり得るな。ロシナンテは、行くかもしれねェ』
……猛吹雪の中をか? あるかもわからない船を探しに?」
『知ってるかロー』
 改まって尋ねてくるもったいぶった言い方に、ローは鼻を鳴らす。近くでは静かにスモーカーがタバコをふかしながら聞いていた。
『母上の叶えたい願いは途方もなかった、夢見がちなところがあったからな……宇宙旅行なんて項目を書けるぐらいには』
……呆れた。てめェの一家はついに宇宙進出までするつもりか?」
『宇宙旅行を実現させたい実業家なんざごまんといるだろ』
 要はそこまで目立った内容でもないということだ。ローにはこの、金持ち特有のぶっ飛んだ考えがちっとも理解できなかった。医者であってそれなりの高給取りではあるが、そんなことに使おうとは微塵も思い付かないし、コラソンの捜索によって引越しや旅行を繰り返すから多くの金は貯まらずに消えていく。ときどきドフラミンゴからの援助があるから旅費や宿代がかからないこともあるが、頼ってばかりは癪に触ると断るときもある。
「つまり俺に、その都市伝説みたいなやつを探しに行けってか」
『大冒険だな、ロー』
 他人事のように笑うドフラミンゴに、今年な何度舌打ちしたかわからない。さらには『振り込んでおく』と金の心配がいらないことも加えられ、ローは黙り込むしかなかった。
 ──夜、ベッドに入りながら星降る船について手当たり次第調べる。インターネット上の嘘か真かわからない情報や、人づてに噂を聞いたりと方法は様々だが、宿に残された目撃談や文献を見るのが最良だと踏んだ。意外にもスモーカーがそれを提案した。
「現場にいる以上、一番確実なのは現場に残った証拠を見ることだろ」
……警察みたいなことを言いやがる」
 実質、軍隊でも敵陣の視察には探偵のような慎重さで調査を進めることも多いらしい。敵の情勢を把握、推測、次の行動を見極めてそこを狙って攻撃を仕掛ける。かつて小規模だが駆り出された戦闘で、スモーカーはそれらをよく学んだと言う。
「学べなくていいなら、学ばない方がいいがな」
 そう言って、ベッドの端に置いてある本を取り、二人で文献を読んだ。その日ばかりは、寝たばこをやめろと言わず、食い入るように船について手掛かりを探した。

 ◇

 連れ立って国立公園を捜索するようになって、三日ほど経った。ドフラミンゴと連絡を取り合いながら、コラソンの行方がまだアラスカで留まっていて、新情報が浮上していないかを確認しつつ地道な捜索をする。
 スモーカーと合流した初日の通話では、ニヤニヤとした笑いを含ませながらローに世間話を振ってくるドフラミンゴに腹が立った。あえてスモーカーのことを話さないようコラソンの情報だけに注力した会話をしたのに、最後の最後で『良かったな、縁が切れなくて』とのたまって通話は切れた。むず痒く鳥肌の立つような思いだけを残してスマートフォンをだらりと下ろした腕を、スモーカーはそばで見ていたはずなのになにも察さずタバコをふかしていた。
 三日経っても消息の糸口は掴めない。コラソンを見たという人物も少ない。けれど彼はここで行方をくらませた。くらませた、というよりドジをやらかして連絡手段を失ったか、追い求めるものができて兄への定期連絡を忘れるほど夢中になっているのか。
 低い山間の、誰も人が住んでいないであろう廃村が雪に覆われ、暖炉であっただろう煙突がぽつりと雪から顔を出している。崩れた家は扉が潰れていて中に入ることは難しい。ただそこにある石と少量の薪でどうにか寒さは凌げる。風が強くなる天候の日には、かまくらを作って二人でそこへ入った。
 夜の気温はマイナス二十度を平気で下回る。そのたびにオーロラが見えはしないかと淡く期待した。スモーカーがたなびかせるタバコの煙以外で、それらしいものがまだ見えたことはないが、ローはそのオーロラをきっとコラソンもまだ見ていないだろうと期待していた。見えていたのなら、母の遺影にそれを焼き付けさせ、そうしてもうアラスカからは去っていると踏んだ。
 ──スモーカーのサバイバル慣れには舌を巻いた。さすが元軍人だと感心する。持ってきた荷物の中に軍用レーションが入っているのは準備が周到すぎたが、試しに一口かじらせてもらうと食べたことのない味と食感に半日はぐらぐらと胃もたれし続けた。「こういう食い物だけで一週間凌ぐ訓練もあった」とスモーカーに言われ、自分には絶対向いていない職業だと改めて感じた。
「軍人だったのは、他に行くあてもなかったからだ。手取り早く金も欲しかった」
 かまくらの中で吹雪が止むのを待つ間、夜の闇を見つめながらスモーカーは言った。思い出話をするような仲ではなかったはずだが、この大雪と寒さ、宵闇がそうさせたのだろうか。ローは黙って聞いていた。
「辞めたのは、上官命令に背いたからだ。生意気なクソガキだった」
「お前なら、そうだろうな」
「てめェもクソ生意気なこと言いまくってただろうが」
 はてそんな姿をどこかで見せたか。ローは頭を回転させ、記憶を掘り起こす。長期間家を空けるときか、深夜に酒浸りで帰ったときか。眠れずに冷蔵庫の中身をありったけ出して、勝手に夜食を平らげたことか。生意気というレベルよりかは、生活感の違いなだけのような気もする。
 クソ生意気だと言いながら、その実、家ではいっさい叱られなかった。面倒だっただけかもしれないが、心の中ではローのその生意気さを思っていたとわかるとむず痒い。
「ちゃんとそのときに言われないと、直せねェなそういうのは」
「直す気なんざねェだろ」
 イライラしている様子はない。ただタバコの煙は空へ向かうとき、バランスが悪く吐き出されているように見えた。この寒空の下、ローによってタバコの本数は制限されている。下手にこちらに副流煙を撒き散らすのも嫌だったし、後始末不足で火事を起こすのは最も許されない。ニコチン切れもあるのだろうが、そういえば家にいたときもここへ来てからも、スモーカーが苛立っている姿を見ることは少なかった。もともと温厚な人間かと思えば、そういうわけでもない。いや、ローには見えていないだけで、実は満遍なくいつも怒っている人間なのかもしれない。
「マイナス三十か」
 温度計を確かめる。凍る寒さは家のすぐ近くに併設したかまくらと、服と、ありったけの防寒とで凌ぐことができる。凌ぐというよりむしろ、暖かいとすら感じられる。
「外、出てみるか」
 二重に体に巻いた寝袋から足を引き出して、ローは冬用登山靴の紐をしっかり閉める。スモーカーは携帯灰皿でタバコを潰しているところだった。
「オーロラか?」
……期待はできないがな」
 そう言って足首を鳴らし、手指を動かした。血液が滞りなく巡っていることを確認する。少しでも間違えれば凍えることによる壊死は免れない。手袋を二重に巻き付けるようにはめ、ゆっくり外へ出た。かまくらの中の暖かさが恋しくなるが、空の向こうを見ればそんな気持ちはすぐに失われた。
 空を覆うオーロラが、妖しい光を放っている。不気味だ、とローはすぐに背筋を震えさせた。圧倒的なうつくしさをまえに、腹の底から湧き出たのは「畏怖」だった。やがてこの光に覆われ、窒息し、自分はこの雪原の中で死ぬのではないかと錯覚する。遠くまで続くオーロラは色を変え、形を変え、誘うように空の向こうへ伸びていた。階段のようにも見える。
 鼻の頭がつんと痛い。ゴーグル越しに眺めている景色の中に、一つ、星のようなかたまりが空から一筋の落下線を描いた。
「あれは?」
 スモーカーもそれに気づいたらしい。強面にさらに皺を寄せ、はるか遠くに落ちた星のかたまりの方角を注視する。落ちた瞬間、辺りがわずかに明るくなった。あの星の大きさはそこまで大きそうには思えなかったが、光った方角がここからそこまで離れていないとわかると、ローはアイゼンを踏み締め、一度かまくらへ戻る。
「行くのか」
……食料と水を多めに持っていく」
「だめならすぐ引き返すぞ」
「お前も行くのか」
「癪だが、単独で行かれて死なれるのは目覚めが悪ぃ」
 そう言ってスモーカーは、ザックの中の水筒に水を詰め直した。
 ──あの星のかたまりはなにか。歩きながらローは思考をやめない。少しでもやめると、寒さのせいで考えを放棄してでたらめなことを口走りそうになる。後続のスモーカーの命綱がしっかり緩み過ぎずついてきていることを確認しながら、ローは考えた。
(星降る船は、てっきり星へ向かうための船のようなものだと思っていたが)
 うっすら感じていた可能性に火を灯す。
(その船に星が降ってくる、って意味なのか? それとも、隕石でも当たって使い物にならない船のことなのか)
 息さえ凍る空気の中で、ローはジャケットの襟を口元に引き寄せる。隙間からの風を少しでも防ぐためだ。万全に対策した準備のおかげで体はかなり温かいが、少しの油断ですぐに冷えていく。
「ロー、あれだ」
 俯き加減で歩いていたローに、スモーカーが声をかけた。顔を上げるとオーロラの真下に朽ち果てた船が見える。
「見に行こうとすれば、吹雪になるんじゃなかったのか」
「オーロラが出るほどの天気っていうのが幸いしたのか……あるいは誘われてんのか」
 船の外観はボロボロだ。夏の間に起こった錆びが、冬の雪で脆く崩れて船の内部が丸見えになっている。腐食した外壁はすでに雪の中へ埋もれて原型がわからない。スペースシャトルを間近で見たことなどないが、こんなに脆い作りで宇宙へ飛んでいたのかと勘違いを起こしそうになるほど、醜く崩れていた。
 エンジン部分が空へ高く突き出し、横転したような形で埋もれている船は、船内に──小さく明かりが見えた。明かりはろうそくらしく、揺れて影をちらつかせている。
「誰かいる」
 ローの体に緊張が走る。スモーカーの方を振り返ると、彼にも見えているようでゴーグル越しに目が合った。あのジュノー雪原で取れた氷で作ったビール色の目が、赤く血走ったようになる。こういうとき、スモーカーは警戒している。ただし警戒の対象に露骨な態度を取ることはない。だからこの些細な変化はローにしかわからない。
 天気はまだ吹雪いていない。オーロラに押し潰されそうな吐き気を覚えながら、ローは一歩一歩明かりに近づいた。唾を飲み込み、グローブを握る。錆びの入った壁に手をかけると、明かりの奥で人影が動いた。ろうそくの炎の揺らめきと、髪の毛であろう繊細な毛流れの揺れがはっきり捉えられ、ローはそれが──コラソンであることに気がついた。

「ロー、お前、ペンギンたち以外とも出歩けたんだな」
 驚いた顔のまま迎え入れてくれたコラソンの仮住まいは、船の中の小さな一室だった。ドアは壊れ、壁は雪で崩壊部分を埋め立ててあるが、かまくらと同じくらい暖かさがある。操縦席があるのだろうかとローは期待したが「そこだけはもう折れて海にでも落ちちまったんじゃねェかな」とコラソンに言われてつまらなくなる。
「出歩けるっていう感覚じゃねェだろ、こんな僻地に来てるのは」
「そりゃそうか」
 軽快に笑うコラソンは、スモーカーにもコーヒーを渡した。
「ペンギンは違う大学行ってたからな。シャチも専門分野だし」
「じゃあこいつ……ええと、スモーカーとは?」
「腐れ縁だ」
 スモーカーが口を挟み、コラソンからコーヒーを受け取った。「あんまり美味くはねェけど」と申し訳そうにしながら差し出されたコーヒーは浅煎りで、目が覚めるような爽やかさがあった。沈痛な重みのあるオーロラへの恐れを、緩和してくれるようでもあった。
「腐れ縁?」
 コラソンが驚いた顔をローに向け、ローは顔を背けるしかない。
 腐れるほどの縁ですら、希薄だった。ペンギンやシャチたちとは幼いころからの付き合いだからずっと続く関係ではあったが、彼らほど長い付き合いをしているわけでもなく、彼らほど一緒の時間を過ごしたわけでもないスモーカーと、腐れ縁と言われて黙っていられることが、ロー自身さえ不思議だった。別に、それ以外なんと表現していいかわからないだけなのだが、他人にそこを突っ込まれるとどうも尻の座りが落ち着かない。居心地悪く感じていると、コラソンはこっそり笑っていた。
「いいじゃねェか、ロー。俺は嬉しいけどなァ」
「なにがだよ」
「お前には年上がいいと思ってたってことさ」
「そういうんじゃねェ」
「ドフィだってきっとそう言う」
 くそ、とローは舌打ちをした。
 コラソンは、ドフラミンゴと連絡を取りこそするがもう長い間一緒にいるわけではない。共同生活をしていても付かず離れず、ある程度の距離は保っている。けれど兄弟で、考えの似ている二人だ。少し価値観とバランスが違うだけ。ローはその兄弟の間には入ってはいけない。入りたいと思ったことなどないが、時折見せつけられる兄弟の、血のつながり以上の存在を感じると、背筋が震えるものがある。
「ここは星降る船って言われてるらしいな」
 ローが黙り込んだのをきっかけに、今度はスモーカーが口火を切った。コラソンは彼に向き直ると、「そうらしい」と相づちを打った。
「オーロラがこんなに落っこちそうな空だってのに、星まで降ったらたまんねェよな」
 コラソンはそう言って、コーヒーカップを地面に置いた。地面、と呼んだそこは禿げた塗装の船内で、ある程度の断熱もあるがこの寒さではさすがにところどころ氷の膜を張っている。
「でもある夜、流星群が降ったんだってよ」
 船の先を眺めながら、コラソンが続ける。
「この船が墜落して、ニュースになった。衛星や実験の打ち上げ失敗はよくあることだし、小さい報道にしかならなくて……だからどこを調べても、この船の歴史なんて浅いもんだ」
 船に同情するような言い方に、ローは眉を顰める。この人はいつだって、誰にだってやさしいが、まさか無機物にさえこうだとは思わなかった。
「母上が見たかったのはきっと、空の上の星々なんだろうけど……それはどうあがいても、ドフィでさえまだ無理だ。俺が叶えられるのは、大量の星が降ったっていうのを信じてここへ乗り込むしかなかった」
「ドフラミンゴなら、道楽でやりかねないぜ」
「かもなァ。そうなったらきっと乗せてくれる。でもそのときまでは、おれの力でどうにかしたくて」
 ドフィでさえ。乗せてくれる。兄への信頼がぽろぽろとこぼれ、そこに甘えておけばいいものの、兄の力をなるべく借りずに動いていたいと言うコラソンの願いは、彼の兄やローの甘やかしで叶えられている。コラソンのそばには、角の欠けた母の遺影があった。彼曰く、「もう何回か額縁を交換してんだ」と申し訳なさそうに言っていた。写真の中の母は、そんなことをちっとも気にしなさそうな顔で笑っている。ドフラミンゴにも、コラソンにも似ている。ローはファミリーという絆以上に、血のつながりを濃く感じた。
「ここにいりゃ、星が降ってくる。あれが消えないと無理だけどな」
 コラソンは、観光客とは逆に、オーロラの消滅を待っている。彼の持っているカメラは、あんなにうつくしく恐ろしいオーロラを映さない。赤や緑に染まりながら蠢く空を見ず、それが朽ち果てたあとの星を待っている。
「流星群は、来るかわかってんのか?」
「予報では明日か明後日ごろだな。ロー、その荷物じゃここで二日滞在は無理だろ」
……ああ」
「ちゃんと帰るって、ドフィに伝えてくれよ。おれ、途中でスマホのバッテリーが切れちまった」
「コラさん、不用心すぎるよ」
 はは、と肩を揺するゴーグル越しの目は、ちっとも反省をしていない。
 スモーカーが荷物からなにか取り出している。
「これ、使え」
「お、なに?」
「小型の発電機だ。バッテリーの充電ぐらいなら、昼間の短い太陽光でも凌げる」
 コラソンの手に放られたそれはずいぶん用意周到すぎた。こうなることを予測していたみたいだ。ローが驚いてスモーカーを見上げると、コーヒーを飲みながらコラソンに使い方を説明している。ローには少し面白くない。さんざん探し回って共にいた自分より、コラソンの性質をわかっているかのような行動だ。
 しかし──スモーカーにも経験があるのかもしれない。バッテリーを消耗してスマートフォンの充電を切らし、旅先で困ったり手間取ったりしたことが。アメリカまで車で渡り、カジノだけを満喫してぶらぶらと西海岸を回って連絡もせずに帰宅するような男だった。彼の乗る車のメーターが、一回の旅で走行距離を軽く何千キロも計測していたことを思い出す。
「返さなくていい。どうせ旧型で持て余してた」
「ありがとうな」
 二人が話し終えて空を見上げると、まだオーロラは空を泳いでいた。ローはまえほど、あの光の帯に襲われるような感覚は薄れていた。

 翌朝まで船に滞在し、コラソンに別れを告げる。無理やり引き戻そうと最初は思っていたが、哀愁に満ちた横顔を見ると思いとどまってしまった。ローは「絶対連絡をしろよ」と念を押し、コラソンも承諾した。さっそくスモーカーにもらった発電機を稼働させていたし、流星群を見たあとには、ドフラミンゴにも連絡が入るだろう。
 来た道を戻ろうと外に出たが、足跡はとっくに昨晩の雪で埋まっていた。コラソンが目を丸くして「ずいぶん降ったなァ」と感心しきっている。雪が降るより、凍ることの多い平原地帯で、帰り道が不明瞭になるほど降るのは珍しい。強い風が吹いているから、表面上の雪は舞い上がって地吹雪のようになっていた。
 コラソンがずっと手を振っている。その姿が雪と風で見えなくなるまで、彼はあの船の横に立ってずっとこちらを見ていた。そんなに名残惜しく手を振るのなら、今すぐ連れて帰ってドフラミンゴに説教されやがれ、と心の半分では思ったが、あまりにさっぱりした顔で「またな!」と言っているから、もうあの男は自分たちの心配などいらず、方々で元気に暮らすのだろう、と諦めさえ覚えた。
 かまくらへ戻り、荷物をまとめる。もともと長居をするために作られた設計ではない。壊すのは簡単だった。特にスモーカーがいれば、あっという間に片がついた。崩れていく雪のかたまりの中で、二人で過ごした空間が溶けていく。一時的とはいえ、そこは帰る家だった。名残惜しいという気持ちはないが、家がなくなる、という感覚に少し引っかかったのはこのときからだ。
 命綱を張り直し、ふたたび道を戻る間、ローは喋らず脳内だけを動かしていた。リゾートへ戻り、ドフラミンゴへ報告をして、そのあと切符を取り直して帰るスモーカーを見送る算段でいる。
 かまくらを壊したときを思い出した。家はもうない。壊してしまった。自分が、自分の手で。それは睡眠薬を盛ったのと同じで、薬を持っていたかスコップを持っていたかの違いだけだ。
「お前はどうする」
 スモーカーに呼ばれる。手に握られた切符は一枚だけだ。駅名と所要時間、そして鉄道のサインだけが印刷された切符はスモーカーの大きな手にひらひらと頼りなく揺れている。それを見ながら、ローは「しばらく、ここにいる」と切り出した。

 夜、リゾートからもはっきりわかるほど、空が黒く広く視野を広げ、流星群が降った。スモーカーは今ごろ、もうアンカレッジ駅へ着いているころだろう。コラソンもこの星を隅々まで見ているのだろうか。ガイドの人間が「ここまで星が降ることは滅多にない」と感嘆していた。ローはその世紀に数度とお目にかかれないような光景を、飽くまで眺めていた。寒さの中で屋根に登って写真を撮る者もいたが、カメラに収めているうちに刻々と星は形を変え、落ちる速度を早めたり遅めたり、さまざまな姿を魅せる。次第に誰もが、目に焼き付けるだけになった。
 目に映る星の一つ一つが、何年もまえに宇宙で散った輝きなのだという。今見えているのは過去の光だと図鑑で見たことがある。ローはそれを知ったとき、自分の目で確認できる全てが、正しく「今」をローと過ごしているわけではないと理解した。それから過去にこだわるのを捨て始めたのではなかっただろうか。ペンギンたちや、ドフラミンゴ、コラソンこそたしかにローにとっては過去になるが、それらを捨て切れずにずっと大事にしているのは、今を生きるローに常に干渉して、困らせたり、笑わせたり、とにかく刺激をくれる(コラソンの刺激はいささか面倒なものも多いが)。
 だからそれ以外は──特に必要性を感じていなかった。人も、家も、感情も、置き去りにしてきたさまざまなものについても。
 だから、あの白髪の、タバコばかり吸う男の背中を思い出すのはなぜなのかと、星のきらめきを捉えながら思っていた。
「ロー」
 うしろで、気配と声がする。
……チケット取ったのになにやってんだ」
「途中下車してな。……あいつが見えたから」
「あいつ?」
 スモーカーはタバコをふかしながら、ローのまえに木製の板を差し出す。板をひっくり返せば、それは写真立てだった。コラソンによく似た女性が微笑んでいる。
「もうこれで終わりにするんだとよ。星も見れたし、満足したらしい」
……コラさんは?」
「おれの切符を渡した」
 ローは眉間に思い切りシワを寄せる。スモーカーの格好をよく見れば、足元が雪と氷で固まっていて、「途中からはさすがに道がわからねェから、観光バス捕まえて乗った」と豪語している。観光バスの運転手もさぞかし驚いて畏怖しただろう。雪原をたった一人の男が雪まみれで歩いているのだ。しかも夜に差し掛かる道で、最終便であることは間違いない。あとは帰ってワインでも嗜み、眠るだけだった運転手の今日の夢は、雪男に襲われる悪夢になるかもしれない。
 つまり──コラソンはアンカレッジに戻った。ドフラミンゴからまだ連絡はないが、そのうち報告があるだろう。スペインまで戻る航空券の手配も、金も、おそらく今のコラソンはない。ファミリー内で手厚く保護されるであろうコラソンのことを考えた。母の念願を全て叶え終えた男は、次になにをやらかしてくれるのか。ローは胃が少し痛んだ。
「お前も、なんてことやってくれてんだよ」
 毒づくが、スモーカーの表情は変わらない。一緒に住んでいたころから無表情に近いし、笑ったところは見たことがない。置物のように無口かと問われたら、ローだってそこまで口を開いてべらべらと物をしゃべるタイプではないからお互い様だ。家の中は静かで、本を読んだりレポートを仕上げたりするのに本当に最適だった。飯に文句を言われることもない。スモーカーの過去の女が壊していった家具から新しい家具に変えて、その木のなめらかさはまだ手に馴染んで覚えている。
「あの家は」
 どうしてる。とローは聞こうとして、言葉が出てこなかった。自分から出ていったくせにそれを聞く豪胆さは、ローにはない。しかしスモーカーにはあった。
「まだある。チケットは二枚取ってあって、出発は明後日だ」
……明後日?」
「おれァ、星もオーロラもそこまでちゃんと見てなかったからな」
 てめェはじゅうぶん満喫したみてェだがと嫌味を言われ、ローは目を見開いた。
「観光したかったのか」
「てめェを探しにくるためだけにこんなとこ足を運ぶと思ってやがったのか」
「いや……うん、まあ、少しは思った」
 やけに素直に頷いて、ローは自分で自分を不思議がる。自惚れてはいたのかもしれないが、だとしても少々感傷的すぎる。
 写真立てをもう一度見た。コラソンに似た女性がやさしく笑いかけてくる。病床でしか写真を撮ることができなかったのか、ベッドと花に囲まれて、しかし彼女は幸せそうだった。幸せだったのか、それとも、そういうふうに笑ってやることでコラソンやドフラミンゴを安心させることしかできなかったのか。
 彼女が果たせなかったことを叶えるために動いたコラソン、ローを探すためだけではなく、自分の目的のためにも動いたスモーカー。どちらも相手を責めることはしなかった。なんでこんな面倒くさいことを、と言うこともない。
「オーロラと星はいっぺんに出ない」
「わかってる」
……滞在日数は二日間だけでいいのか?」
「それ以上いる気か?」
「延ばせはする。あと、お前のタバコもある」
 スモーカーが不審がる横で、ローはずっとザックに入れっぱなしだったラッキーストライクを取り出した。ニコチン切れで不機嫌になってもらっては敵わない。ライターと一緒にスモーカーに渡すと、「コラさんがまえに吸ってたやつだから、しけってるかもな」とつけ足した。それでも、少しは延びた旅の日程を楽しむうちの一つにはなれるだろう。
 ローはスマートフォンを取り出した。病院での休暇をもう少し、長く申請するためだ。それが終われば去ろうと思っていたはずの街並みを思い出す。病院だって辞めるつもりでいて、デスク周りもバレないようにコソコソと片付けてきたのに。
 スモーカーは相変わらずなにも言わない。なにも言わないのなら、誰もいないのと同じようなものだというのに、ローは睡眠薬が毒ではなくて良かったともう一度思う。『もしもし』と通話口に出た人事担当の女性に話し始めたローの口元は、慣れない笑みで歪んでいた。