ログ本書き下ろし

現パロ 母に見せる景色探しをしにいくコラさんと、コラさんを探しにいくローと、ローを探しにいくスモと、全てを眺めるドフィの話
ロー視点です



 フェアバンクスから北東約百キロメートル先の小さなリゾートがある。リゾートと言ってもフェアバンクスで泊まったような場所ではない。温泉が湧き、オーロラがよく見える有名な村だ。ローはそこを拠点に国立自然公園を巡ろうと考えていた。リゾートへの送迎バスに揺られながら、おおよそ観光らしくない格好でローは窓からの景色を眺める。
 鉄道でも、バスでも、変わらない景色のように見えて実はさまざまな顔がある。鉄道の始まり、アンカレッジでは圧倒的に山脈の迫力が大きかった。アンカレッジを過ぎていくにつれてなだらかにはなるが、尖った山々の風合いは色濃い。あとは一面の白だ。雪、氷、ときどき無防備な姿を晒している動物もいた。
 バスではそういった都市部にはない風景があったものの、しばらく見ていると単調さはどうしても感じられた。この平原のどこかにコラソンがいて、すれ違ってでもいたら面倒である。あのリゾートでコラソンが羽を休め、次なる目的地へ向かおうとしていたというのを聞きつけて、その目的地というのがどうかマッキンリーのような山脈でないことを祈りながら、けれどコラソンならやりかねないと考えると、この単調な景色がまるでローの気持ちを代弁しているようだった。成果もなく、ただ無限に白が広がるだけの虚しさが横たわっている。肺へ空気を取り込んで、その虚しさを忘れることにした。
 リゾートでチェックインを済ませ、連泊の際に貸し出されるアメニティを受け取ると、部屋へと上がった。外の寒さを忘れるほどの温かさを保った部屋は、拠点にはちょうどいい。部屋にはベッドが二つある。シングルでここを訪れる客はまずいないから、全ての部屋がツインであることは確認していた。片方のベッドに荷物を放ると、旅程の確認のためにスマートフォンを取り出した。
 休暇中、あまり長期間の滞在をすることはできない。最悪、調べ上げて不明だった箇所をドフラミンゴに丸投げし、医者としてまたどこかの病院へ配属されて働きながら、様子を窺うことしかできなくなる。なるべくなら自分の力で見つけ出したいが、今回の捜査は果たしてどうだろうか。
 現地ガイドの予約を取り付け、軽食を済ませる。肩は凝っているような気がしたし、瞼がかなり重たくなっていた。

 ◇

 強烈が風が平らな台地を襲うときは、決まって乱流を運んでくる。ローが息を吸えば、想定以上の冷気が肺を貫くようだった。喉が凍る。痛みがじんと甘い鉄の味を醸し、口元を覆った。これ以降はマスク下で呼吸をしないと、自分の吐いた息のせいで死をもたらしそうだ。
 一歩一歩進むごとに積雪が増えているのではないかと錯覚するほど、重たい雪は足元を少しずつ捕らえて離すまいとしてくる。アイゼンをしっかりと踏み締め、谷を降りた。どこか遠くで生き物の声がしたが、この時期カリブーは南下してもういない。だとすればヘラジカかオオカミか。自分の行いを嘲笑っているようにも感じた。
 谷底の、洞窟になった小さな窪みに入れば。そこへ入れば雪は免れる。小さな生き物の隠れ家になっているかもしれないが、スペースを避けてもらうしかないだろう。ローはまつげについた雪を払いながら、垂らしたロープを注意深く引っ張った。支えとなっている岩は頑強でなるべく安全なものを選んだつもりだ。医師になってからコラソンを探すことになって、クライミング技術を磨いたが、ここまではしないだろうと思っていたテクニックが、まさかこんなところで活用されるとは想像していなかった。
(コラさんは、本当に予想外のことを運んでくる)
 壁を伝って慎重に谷を降り、途中突風に煽られる。まだロープは軋まない。手袋の下で汗をかく。風のビュウビュウという音が耳と体を刺す。余計に心身の疲労が増していく。底の見え始めた谷は暗く、重たい空気をはらんでいたが、平原で聞いた大型の生き物とは違う鳴き声も聞こえた。ガスがなく、火が使えればもっといいのだが。ローは歯を食いしばり、最後のロープを降り切ると、ひんやりと底冷えのする地面に触れた。そこにピッケルと指で穴を開け、土を掘り返し、中で火をつける。穏やかに燃える炎の揺らぎを見て安堵した。ここで火を使うことはできそうだ。
 小高くなった岩場を探し、雪解けの水が流れているのを見つけた。それをカップに貯めながら、ボンベを設置してバーナーに火をつける。貯めた水を温めてスープとアルファ米に注ぎ、出来上がりを待っている間に小降りのテントを張った。岩場、寒冷地に適しているがなるべくスペースを取らない狭いテントで、その分熱効率も高い。無駄のない一人旅にはありがたかった。これはコラソンの私物ではなく、ローが吟味して買った。マットレスとアルミ素材のシートを敷き、もう一つ焚き火を作る。出来上がった食事で胃を温める間、ぱちぱちと燃え始めた炎は見ていて心を落ち着かせた。そばに垂らしたままにしてあるロープに注視すると、まだ上部の風は強いのか、時折はためいている。
 汗で濡れたインナーを乾かしながら、簡易食料を取り出して糖分を取る。先ほどまで感じていた滲むような喉奥の痛みが落ちていく。ここへ来るまでに疲弊していたのだなと自覚すると、途端に眠気を感じた。残りのスープをゆっくり飲みながら、記録用に日記をつける。最後の方は眠気に負けて文字が掠れてしまいそうだが、火の始末をするために自分を奮い立たせなくてはならない。
 書き出し始めると、世界が自分一人になったように感じる。暗い世界の中、炎の揺らめきだけがローを照らす。それでも不思議と恐れはなかった。
 一人で暮らしていても、一人ではないと感じることが増えたのは、いつからだったか。同居人と、当直明けや、夜勤明けですれ違う生活を過ごしていたからか。

 夢の中で、オーロラを見ていた。このアラスカでは冬になると各地で空がピンクに染まったり緑色のカーテンをおろしたりするが、目撃することは珍しく、観光客がそれ目当てに訪れても、見ることが叶わず泣く泣く帰ることも多い。
 ローが見上げていたオーロラは、さらに珍しい赤いオーロラだった。宇宙に一番近く、空のはるか遠くに出現するとオーロラは赤く輝く。夕焼けとも違う赤々とした空に、ローは隣にいる人物に声をかけようとしてやめる、という夢だった。
 隣にいる人間も、大して口を開かない。防寒着に身を包み、顔もよく見えない。もしかしたら見知らぬ他人かもしれない。ただローは、その人間がオーロラで感動するような性質ではないことをなんとなくわかっていた。
(一緒に映画を見たときでさえ、ソファで寝てたくらいだ)
 おれはちょっと涙腺にきたというのに。ローは鼻を鳴らし、また赤い空を見上げた。
 だが、そのうち吹雪がやってくる。東から西へ、描きかけのキャンバスを白い絵の具で塗りつぶすように、突然雪の礫が横殴りに流れ始めた。赤と群青のうつくしさは瞬く間に白と黒の世界へ変わり、隣にいた人物すら掴めなくなってしまった。
 吹雪の中に立つと、轟音が耳に馴染み、そのうち右も左もわからなくなる。やがて頭の中に抽象的な、モヤのようなものがかかり、それは赤と緑と青と黄色と、鮮やかな模様を生み出してきれいだ。
 オーロラを見に来たのだ。そうだった。じゃあこの頭にかかるうつくしいモヤは違うのだろうか。吹雪ではオーロラは生まれない。当たりまえの情報をローは忘れていた。途端に足がすくみ、もう一度雪のひどい音が耳に蘇る。
 ロー、とかすかに呼ぶ声がした。そして。
 ──「睡眠薬は毒だった」とその人物が口を開いたという結末あと、夢から目が覚めた。防寒対策も完璧で、寝起きは体が温かいはずなのに、妙な寒気ばかり背中を襲った。
 ローはテントから這い出ると、火を起こすまえにロープを確認する。風は一晩で止んでいて、まだ太陽は出ていないが穏やかな風が谷底へわずかな土の香りを運んだ。また天候はすぐに崩れるかもしれない。ローは夢を振り切るように、テントを急いでしまい込んでザックを背負い直した。
 昨日とは逆に、岩肌へ足を引っ掛けて一段一段慎重に上がる。途中何度もロープの強さを確認し、崩れないことがわかるとまたゆっくり登った。腰に巻いた命綱から伸びるフックを岩壁へ引っ掛けながら、とうとう谷を抜け出した。一日のうちわずかしか見せない太陽が出てくるところだった。秋口にはグラデーションのようにきれいだった葉は全て雪で隠れ、氷で覆われた。もう冬眠へ入る動物もいるだろう。ここでようやく無線で連絡が取れた。
『ロー、大丈夫か⁈ 連絡がつかなかったから心配したぞ』
 フォートユーコンで世話になっていたガイドの人間からだ。ほっと息をつくと、それが届いたようであちらも安堵していた。
『そっちへ向かった方がいいだろう、車を回そうか』
「いや、大丈夫だ。ゆっくり戻れる。怪我もしていない」
『でもロー、休暇は短いんだろう?』
……ああ、でも」
『早めに戻った方が良い。あんたに客が来てて、そいつも心配してる』
「客?」
 車の手配は無料でいいから、と気を遣ってもらい、ガイドは慌ただしく通話を切った。現在地はGPSで大体の位置を探りながら、時折入る無線で周りの景色を報告する。
 はるか遠くに見える崇高な山が、ぐらりとぼやける。こんなおれに客とは、誰か。ドフラミンゴか、もしかしてコラさんが? 一面の白を見る。これ以上ないほどの白さを眺める。純白の、混じり気のない自然のままの雪が足元で熱を帯びて溶けるが、すぐに氷となって透明度を増した。その先に自分の顔が映る。きらきらと光って歪んでいる。陳腐なガラス細工よりずっとうつくしい透明の中で青白くぐらついている。ドフラミンゴでも、コラソンでもないであろうという確信が、揺らめきを助長する。
 睡眠薬が毒だった、と言われた夢が頭に浮かぶ。毒ではなかった。だからこうしてローを追ってきた。いっそ毒であった方が、良かったのではないだろうか。しかしチョッパーは決して薬も、薬の配合も間違えない。彼は優れた賢い医者だ。
 凍ったまつげに少し手袋で触れた。このまま氷で目が潰れてしまえと思った。しかしローは臆病で、なにもかもができずにただ歩くことしかしなかった。
 ──遠くから、車の音が聞こえる。

 ロー宛ての客の姿は見えなかった。村の一室を借りて暖を取りながら、部屋に近寄る足音に耳を傾ける。大抵はガイドの人間だったり、宿の使用人だったりするから警戒を解いた。軽やかな足取りもときどき聞こえて、子どももどこかから来ているのだとわかる。
 客。おれのことを殊勝にも心配などしてくれる客。周囲の人間に特徴を聞こうともしたが、自分を訪ねてくるぐらい奇特な人間など大体決まっている。ただ、心配を滲ませていたというのが気になった。ガイドの勘違いでそう捉えられたのか、だとすればあの仏頂面が、へぇ。ローはだんだんおかしくなって、肩を揺らした。
 思いがけず向こうから会いに来てくれるのであれば、一言説教をされるのは覚悟しなければならないだろう。温めたばかりのコーヒーを近くに寄せる。ジンジャーとバーチシロップが入っていて甘く痺れる。胃の底がほっとする心地に見舞われた。
 階段を上がってくる音がする。重たく、ブーツを履いている人間の音だ。背が高く、体重のある歩き方が振動で伝わる。扉が開き、真っ白い髪が見えた。外で散々目に焼きつけてきた雪のような純白さとは少し違う、くすんだ銀にも見える色だ。
「毒じゃなかったか、睡眠薬は」
「なんの話だ」
「いや……今日、見た夢の話だ。夢で」
 ローは彼をまえに、息を吐いて笑った。
「お前が恨めしそうに言うんだ。あの睡眠薬、毒だったぞって」
「毒みてェなもんだ」
 そう言うわりに、大した怒りを露わにしない男──スモーカーは、背負っていた荷物を下ろした。
「さて、毒を盛ったおれに説教か」
 ローは覚悟を決めて向かい合った。しかしスモーカーが口元のタバコを燻らせたまま荷物を解き始め、しばらくは無言の時が流れる。部屋に備え付けられている時計の針が進んで、窓から見える陽の光はなだらかな丘陵をひと舐めするころ、スモーカーはタバコの二本目に火をつけて、ようやく腰を落ち着かせた。
「ここで寝泊まりするのか?」
「そうだ」
……まさか、この部屋に?」
「金は払った。相部屋にするかどうかは宿の混雑具合と……あとは大抵、金払いのいい方の味方だろう」
 煙が天に昇る。黄ばんだ天井に新たな染みが残るだろうが、今さらかもしれない。ローは舌打ちした。
「じゃあタバコは外で吸え」
「まえならその言い分は聞けたが、今はノーだな」
 そう言われ、ぐっと言葉に詰まる。やはり怒っているのか。得体の知れない感情を横たわらせ、スモーカーは核心に触れないで対面してくる。それがたまらなく腹立たしい。元はといえば自分が蒔いた種で、自分が悪いのは百も承知だ。ただスモーカーには──どうにも、なにをしても許されるかと甘えが生じる。
 その甘えを、今日ばかりは許されない。ローは唇を噛んだ。
……お前は、変わってる」
「あ?」
「許してくれって言えとか、謝れとか言わねェし」
 でも、とローは続ける。
「追いかけてきといておれに拒絶されるとは思わなかったのかよ。っていうか、そもそも連絡してから来いよ」
「連絡したら、拒絶しただろ」
 なんのための睡眠薬の入手か。なんのための合鍵の返却か。なんのための気配りか。ひどい男と思わせる策略が台無しである。さっさと縁を切ってせいせいしたと思われれば御の字だったのに、あろうことか鉄道に乗ってここまでやってきた。普段は金なんてろくに使わずつまらないことにしか払わないくせに、こういうときに大枚を叩く。
「通話も、メールも、考える時間を生む。てめェは無駄に頭がいいから、考えた先の発言しかできねェ。だから直接会う方がいい」
 スモーカーはそこまでを言うと、吸い終えたタバコを揉み消した。
「おれを切って旅に出るってことは、町も、国も切ったってことだろ。おそらく今文句を言わなきゃ、てめェはまたどっかの国に行ってアラスカには戻らない」
 ローは黙ったまま、冷めていくコーヒーの表面を見つめる。
「お前が転々としてきた経歴くらい、調べりゃ大体わかる」
 とどめを刺され、いっさい揺らがない黒い液体を眺めながら、ローはそれを飲む気にもなれずついにスモーカーを見上げた。
「コラさんのこと、知ってたのか」
……よく迷子になる弟、だろ」
 弟? ローはその絆を匂わせる言葉に嫌な予感が走る。
「お前がうちに来てしばらく経ったころ、非通知で連絡があった。スペインの……
「いい、いい。わかった」
 あのやろう、とローは毒づいた。今ごろ当の本人は何食わぬ顔で二人の再会を知り、いい気味だとでも思っているのかもしれない。
(過保護なんだよ)
 ドフラミンゴめ。そうぼやいていると、スモーカーが扉の方へ歩いていった。
「飯は」
……まだだ」
 とにかく、腹を満たしてからあいつに抗議しよう。ローは今になって鳴り始めた腹を押さえながら、立ち上がった。

 レストランに入ると食欲をそそる香りがする。土産も売っている小さなスペースもある。広々とした室内に長テーブルが数列、少人数用のテーブル、円卓もあるが男二人の食卓に特にこだわりもない。空いているスペースへ座るとメニューを開いた。シーフードが人気だというのはアラスカに住んでからどこのレストランでも耳にする。ただこの平地の海沿いではない場所で、どう調理されるのかは楽しみだった。トナカイ肉のホットドッグ、キビヤック、様々な料理名も並んでいるが、酒を飲むならシーフードがいい。そういう気分だった。飲まずにはやっていられない気分だった。
 サーブされたビールを半分ほど勢いよく喉に流すと、届けられた料理をしばらくは無言でかき込んだ。腹が減っていた。ハリバットのムニエルをナイフで割り、熱いうちに頬張る。スモーカーも同じように食べている。向かい合って競うように食べたが、そのうちパンが届けられ、ムニエルにつけられたソースをつけて食べるスモーカーを人外の生き物のように眺めた。
「苦手なら見なきゃいいだろうが」
 スモーカーは、ローがパンが嫌いだというのを知っている。ローがパンが嫌いで、それはアラスカではかなり珍しく、そして生活に大変苦労するというのも。わざわざ米を調達して自炊していた暮らしは、少しだけスモーカーにも無理を強いた。強いたが、文句は言われなかった。
 数日まえまでの暮らしを思い出し、意識がぐらりと傾きかけたのを、ローは首を振って取り去る。ただ一度傾倒すると、もうだめで、雪深い景色のはるか向こうにあるスモーカーとの家の風景が滲むように目に浮かぶ。
 向かい合って食事をすることなど、まえも数えるほどしかなかったのではないだろうか。感傷に浸るほど心を通わせたわけでもない。タバコの煙を嫌がって、食後の一服は換気扇の下か窓を向いて吸えと言い。スモーカーの家なのに家主は居候の言葉に静かに従った。喫煙者はアメリカではかなり肩身が狭い。せめて家では好きなように吸わせてやる、という慰めはローには甚だなかった。医者だからである。
 はっきりと意見は言うし、面倒を押し付けることもあった。居候のくせにと殴って追い出すことだってスモーカーはできたはずだ。しかししなかった。スモーカー自身もわりと好き勝手をやってきて、ローにも難題を押し付けたり面倒ごとを頼んだりしていたからだ。お互い様の関係性で、言葉を交わすこともほとんどなく、ただ家を折半していただけの付き合いを離れてみてじわじわと思い出すのは、おそらく──ローにとって、居心地が良かったのだろう。
(睡眠薬は毒ではなかった)
 ローはもう一度考える。毒ではなくて、良かったと思う。たとえ毒であっても、現代医学で抽出できないものではないだろう。ローは食事の最後を平らげ、皿の隅々までふんだんにかかっていたソースをじっと眺めた。白ワインの風味と色味を残したソースは清らかな透明で、向かい側に座っているスモーカーの横顔が反射する。コーヒーをすすって大人びた顔をしながら余裕そうにさえ見えた。こんなふうに横顔を見て安心する日が来るとわかってしまったのなら、やはり睡眠薬は、毒の方が良かったかもしれない。