ログ本書き下ろし

現パロ 母に見せる景色探しをしにいくコラさんと、コラさんを探しにいくローと、ローを探しにいくスモと、全てを眺めるドフィの話
ロー視点です

 吹雪の中に立つと、轟音が耳に馴染み、そのうち右も左もわからなくなる。やがて頭の中に抽象的な、モヤのようなものがかかり、それは赤と緑と青と黄色と、鮮やかな模様を生み出してきれいだ。
 オーロラを見に来たのだ。そうだった。じゃあこの頭にかかるうつくしいモヤは違うのだろうか。吹雪ではオーロラは生まれない。当たりまえの情報をローは忘れていた。途端に足がすくみ、もう一度雪のひどい音が耳に蘇る。
 ロー、とかすかに呼ぶ声がした。






 ジュノー氷原の水で作られるというビールを舌で舐めとる。琥珀色の輝きは久しぶりに見た。そういえばどこかでこんな色を見たような気がする。
 ローは瓶を傾けてようやく味わった。あまりに口をつけるのに長い時間をかけていたものだから、瓶の口には泡が溜まり始めていて、パチリと目のまえで弾ける。今日は一日、なにも食事を取れなかった。ビールよりも本当は食事が欲しい。しかし借家の冷蔵庫にあるのは悲しいかな液体だけだった。あとでどこかで食事を取らなければならない。足取りは重い。
 思い出した。このビールの色は。あまりにも近すぎて頭から勝手に排除されてしまっていたが──スモーカーの、目の色をしている。まだベッドで眠っているであろう男をちらりと盗み見ると、体を一つも動かさず静かに横たわっていた。薬は効いているはずだ。
 小さな物音でも立ててはいけない。日常の音から非日常の音へ切り替わるのを悟られてはいけない。キッチンへ入って扉を閉める音、ビール瓶をテーブルへ置く響き、水を流して洗い物の片付け。その中に一つ、また一つと外套を取る音やシューズを履き替える音を混ぜる。紛れ込ませ、静かに、まるで食事がないからスーパーへ買い物をしに行くかのように、見せかけの嘘を散りばめてローは家の鍵を取った。
 睡眠薬は強力で、三錠でいいと教えられた。「けれどこんなものを使うなんて」と悲しそうな顔をされた。それでいいんだトニー屋、と彼の柔らかい髪を撫でた。飛び級で大学へ入り、医師として免許を持って働く年下の彼は、まだ幼さの残る顔を苦痛に歪めていた。申し訳ないことをしていると思いながら、「ありがとう」と言って病院を去ったのが昨日だ。いわば彼には共犯まがいのことを頼んでしまったが、きっとスモーカーはチョッパーを責めないだろう。あくまで責めるのは唯一ローだけとわかっているはずだ。
 こういうスモーカーの気質をわかるぐらいには、一緒に過ごしてきた。裏切るような形だが、スモーカーとは契約をしたわけでも、恋人になったわけでも、将来の約束をしたわけでもない。ローは家の扉を閉めた。もう二度と開けることはない。
 北へ。ここよりも北へ。

 道具を取りに貸し倉庫として利用していた番地へ赴く。家からおよそ一キロ離れた田舎にあった。港から、飛行場から、荷下ろしされた貨物が列車やトラックに運ばれてこの街に辿り着く。ショッピングモールが丸ごと入ってしまいそうな、広大な土地に所狭しとシャッターが連なっていた。
 まもなく街灯が消え、太陽が光を町中へ差し込ませる。今はこの土地で希少な秋で、もっと希少だった夏のやわらかな暖かさを過ぎて肌寒い頃合いだ。ローの着ている上着はまだこの地では通用する防寒着だが、北へ行くにはもっと着込まなくてはならない。
 朝だというのに浮浪者がうろついていた。いや、朝だからかもしれない。太陽が昇る今のうちに活動をしておいて、陽が陰るとすぐにドラム缶の周りに集まって火を起こすのだ。彼らの生きる術は強かで、脆く儚い。
 しかし浮浪者たちのネットワークは広い。あそこの宿屋がタダで泊めてくれるそうだ。しばらくはあそこが飯の在処としてちょうどいい。どこかの富豪が配給をしていて、ボランティアたちが風呂にも入れてくれる──多少怪しげな尾ひれがつく噂もあるが、大抵はそんなところで、噂を流した彼らの後ろには行列ができる。ローはこの街についてから、いくつもその行列を見てきた。
 彼らの中には腎臓が一つない者が何人かいる。ローは過去に、病院に運ばれてきた奇妙な連中を担当したとき、それが浮浪者の団体で、みんなこぞって「騙された」と泣きながら苦しげに腹を押さえていたのを覚えている。騙された、というのはいささか彼らが警戒心がなさすぎただけのことで、身元のわからない人間の、健康な臓器であれば狙われて当然だとローは知っていた。呆れながら彼らに説明をして、乱雑な手術痕をいくつも縫合し直した。外科医として、あれほど無意味を感じた手術はない。そのとき一緒に担当をしていたチョッパーなんかは、その連中一人一人の境遇に涙を流してやりながら、「助けてやるからな」と強い意志で丁寧な処置と完璧な処方をした。おかげで後日の診察時、担当がチョッパーではなくローだと知ると、連中にはいつもため息をつかれた。
 その団体をまとめて病院へ送り込んできたのがスモーカーだ。臓器売買の悪党どもを退治して凱旋でもしていればいいものを、突然ロー宛に一本の電話を寄越し、「今からそっちに十数人行ってもいいか」とだけ。なにを言ってやがると吐き捨てて受け入れ拒否をしようとしたら電話を切られた。もしかしたらローの眉間のシワはそのときから深く深く刻まれすぎていて、今でも取れないのかもしれない。
 倉庫街の区画を右へ曲がり、この辺りにしては珍しくじめっとした空気感を持った路地を歩くと、一般市民用の貸し倉庫がずらりと並んでいた。大きく高い緑色のフェンスが、錆を作りながら並んでいる。手入れされないことを嘆いているようにも見えた。ローは無愛想にその横を通り過ぎながら鍵を取り出し、奥から二番目の倉庫を目指す。
 ローが借りている車のガレージのような形をした倉庫は、貸し出されたときから右側面が凹んでいた。夜中に近くの不良たちが暴れて殴ったらしい。ローがいくつかの装備品を倉庫へ保管しにきたときも、数名がグループを作ってうろついていた。金を無心されそうになったが、ローの人相の悪さと「どこを折ったら一生治らないか大体わかる」と医師らしいことを述べると、それ以来手を出してくる者はいなくなった。
 凹みのせいでややドアの開きが悪いシャッターを両手でこじ開けると、外からの涼しい風が庫内に入り込んだ。手前からコンテナがいくつか積まれ、自転車と登山用の道具が置いてある。コンテナを下ろして様子を見ると、埃もなくきれいな状態だった。ザック、寝袋、防寒着と床に並べても、それぞれがいまだに現役で使える。ただ、表面の布は若干色褪せていて、古さは拭えない。ローは構わず、ザックの中へ持ってきた道具を入れた。着替え、ヘッドライト、電池、非常用の携帯食、折り畳み式の双眼鏡、筆記用具とメモ、バッテリー類。細かいものはファスナーのある袋へ投入し、仕分けする。全てを詰め終わってもザックにはまだ余裕がある。
(なにを入れてたんだか、こんだけの容量のもん買って)
 ローは苦笑し、ザックのふたを閉める。スマートフォンをポケットへ入れ、ペーパーレスの時代に珍しく紙で取った鉄道のチケットを広げる。わざわざ電話をかけ、足取りがつかないように気をつけて取ったチケットだ。無くさないように財布の中へ突っ込むと、ローは倉庫に鍵をかけた。路傍の草は整備されて刈り取られていたので歩きやすい。

 朝のアンカレッジ駅は空気が澄んでいた。軽食代わりはサンドイッチくらいしか並んでいなくて閉口する。おにぎりでも握ってくれば良かったが、そうするとスモーカーが起きてしまう可能性もあった。睡眠薬とはいえ、あの男の警戒心の強さは侮れない。
 天井の高い駅構内を見上げると、天窓に青空が広がっていた。雪雲の多いアラスカでこの晴天は秋くらいしか見られない。空腹を紛らわすように空を見続けるが、発車の時刻が近づけば近づくほど、やっぱり朝食をどこかで調達した方がいいかと焦りが湧いてくる。
 仕方なく一旦駅を出て、朝からやっているスーパーマーケットを探した。日本食は売っていないから、ドライフルーツと地ビール、サーモンの燻製を買った。売店の女性店員が適当に袋に詰めるのを見届けながら、ローはその太った手に乗っている釣り銭をもらう。彼女の手にはめられていた指輪のトルコ石がきれいだった。
 駅へ戻り、チケットを見せてホームへ入る。朝八時の出発から十二時間かけて、目的地までの長旅が始まる。ローは隣に誰が座ろうと話しかけず、仕事をするか眠っていようと決めているから、荷物の施錠だけは再度しっかり確認した。食堂車も展望車もついているが、コーヒーを嗜むくらいはするだろう。そのときはもう一度荷物を確認して、席を立つ必要がありそうだ。
 列車の音が聞こえる。巨大な黄色い体が見えた。車掌が駅員数名と談笑している声もする。ローは全てを横切り、座席を探した。
 ──最初の二時間のうちに持ってきていた仕事をやり終えた。仕事というより、学会発表のための準備だ。キーボードを弾くとデータが送信され、あとは現場からのメールを待つばかりとなる。チョッパーから連絡も来ていたが、今は肩も目も疲れで重い。
 ポケットに入れていたスマートフォンを眺めても、チョッパー以外からの連絡はない。当然だ。自分は休暇で二週間予定を空けたし、休みの間は絶対に連絡をするなと周知してある。気ままな放浪を趣味とする上司にノーを言える部下はいない。
 だから、スモーカーからも連絡はない。
(もういい加減、起きてもいい時間だとは思うんだが)
 ローは別段それを悲しいだとか、疑問に思ったりだとかはしない。ローはあえて、スモーカーの眠るベッドサイドに睡眠薬の瓶を置いてきた。自分が眠る側のベッドも整頓してきた。合鍵もテーブルへ残してきた。目が覚めて、状況証拠を一つずつ見ていけば、あの男なら気がつくだろう。
(それとも、あまりそういうデリカシーには欠けている面があったから、まだ察していないとか?)
 その可能性もある。スモーカーの女性遍歴はローも目を剥くものがあって、聞いていて笑ってしまったことがある。
 ──ローがあの家に移り住んで一ヶ月経ったころ、一人の女性が家のまえを訪ねてきた。ローはちょうど日勤明けで合鍵を使って入るところだった。その日スモーカーからもらったばかりの合鍵で、使い慣れずに二度ほど鍵穴に差し込んで苦戦した。ローはとにかく疲れていて早く部屋へ戻って眠りたかったし、その女性はひどく怒っていて、「入って好きなだけ暴れて好きなだけ喚けばいい。ただしおれの寝泊まりしてる部屋には絶対に入ってくんな」と言い残して女性を中へ入れた。彼女はズカズカとヒールのままリビングへ押しかけ、ソファや椅子を薙ぎ倒しておそらくはスモーカーへの悪口であろう叫びを大声で撒き散らしていた。隣の部屋の住人が壁越しに「うるせぇ!」と怒鳴っても、彼女は強烈に下品なワードで対抗し、隣人はしんと静まり返ってしまった。穴の空いたクッション、割れたガラス、スモーカーのお気に入りの葉巻が床に散らばり、しかしローの部屋は整然としたままでその騒音の中ローは仮眠を取った。アイマスクと耳栓を常備しておいて良かったと心から思った。
 一時間ほどして目が覚めると彼女はまだ部屋にいて、スモーカーは帰っていなかった。ひとしきり暴れて落ち着いたのか、今度はスモーカーの寝室ですすり泣いていた。「気が済んだか?」と言うと「いえ、まだよ。そもそもあんたは誰なのよ」と矛先を向けられそうになり、ローは眉間のシワを濃くして「ただの同居人だ、一ヶ月まえからいる」と言った。スモーカーのバイセクシャル疑惑も回避してやったことをむしろ褒められたい。
 そこから彼女は自分の身の上話を長ったらしく始めたかと思うと、スモーカーとの出会いや楽しかったこと、スモーカーと出かけた旅行、スモーカーとのセックス事情までローに話してきた。ローはどうして自分が仮眠から起きてしまったのだろうと後悔した。吐き気が止まらず「タイム、待ってくれ。もうたくさんだ」と伝えても、「だめ、聞きなさい」と強い口調でローを押し留め、結局彼女が少し過激なプレイがしたくてラブホテルでそういう懇願をしたあとあたりから連絡がつかなくなったことまでを聞かされた。
「あいつ、過激なのは嫌いなのか」
「そうなのよ。あんなに野犬みたいな見た目のくせに」
 そのワイルドさが良かったのに。と彼女はスモーカーのベッドのタオルを引き裂きながら言った。
 ローは世界が裏返ったような気分だった。自分が知るスモーカーは勝手にいろいろ難題を押し付けてきたりこそしたが、粗野に振る舞うのは最初くらいで、料理は上手いし繊細な味付けもするし、風呂掃除が好きで、休日は勝手に一人でふらついて帰ってきたと思ったらボトルシップの組み立てパーツを買ってくるような男だった。だから逆にセックスは激しかったり、しつこかったり、けれどこういう気の強い女性好みの奔放さもあるのだろうと思い込んでいた。いやそもそも、スモーカーがどういうセックスをするのかなんて考えたこともなかったが、どうしても考えてほしいと言われて思いつくのなら、そういうセックスであろうと思っていた。
 彼女はすっかり引っ込んだ涙と鼻水を拭い、ローテーブルにポーチの中身を広げた。化粧を直すのだろう。化粧品の匂いが一気に鼻をつく。そういえば、ここに住み始めたとき一度だけ同じ匂いを嗅いだ気がした。あのときの匂いはこの女性のものだったのかと思い当たり、スモーカーが夜遅く帰ってきたこと、食事も済ませてシャワーも浴びたと言っていたのも次々と記憶が蘇る。セックス事情を知った今、生々しい現場さえ想像されそうでローは白目を剥いた。
 三十分ほどで女は身支度を終え、来たときに見せていた鬼の形相はかけらもなくなっていた。散々な部屋の様子をスマートフォンのカメラに収めて満足したらしい。最後にカーペットにヒールで盛大に穴を開け、高慢な態度を崩さないまま玄関へ向かう。ローは見送りをする義理などないから、唯一荒らされていないキッチンへ向かってコーヒーを沸かす準備を始めた。玄関が閉まり、ドアが一度だけガツンと蹴られた音が聞こえた。
 スモーカーが帰宅しても、特にローからなにか言うことはしなかった。それに、彼女を家にあげたことを咎められることもなかった。ただ翌日には借りてきたトラックで大型ゴミの収集センターへ向かい、荷台に積まれたソファや椅子、テーブルが片付けられた。ずいぶん手際良くやっていくなと思っていたら、スモーカーはその足で家具屋へ向かい、「お前も選べ」とローにダイニングテーブルの選択を丸投げした。トラックの荷台には新しい家具が揺れ、ガタゴトと音を立てているのを助手席で聞きながら「なあ」とスモーカーに問いかけた。
「椅子は二脚しか選ばないで良かったのか」
「いいだろ、なんでだ」
「後々使うかもしれないだろ、あの……昨日の女みたいなやつじゃない女ができたとき」
 ローは自分の家族を思い出した。医者だった両親、家から独り立ちして元気で過ごしている妹。家族四人のダイニングテーブルは食事の場でもあり、勉強の場でもあり、ときどき開かれる家族会議の場でもあった。二脚の椅子だけでは、どれもこれも達成できないのではないかと。ローはそういった意味で尋ねたのにスモーカーは、
「お前とおれしかいないのにたくさんいらないだろ」
 と言いながらハンドルを切り、家のまえへトラックをつけた。
「というか、やっぱりお前があいつを家へ入れたのか」
 悪びれもせず彼女の話をした迂闊だった自分を呪った。
 ──それから二人で築いた、といえば聞こえのいいものが、いくらかはあっただろう。たしかに一緒に住んでいて、居心地の悪さを感じたことはなかった。
 離れる理由もない二人だ。しかし同時に、離れない理由もない。寄りつくようになったものが、いなくなっただけ。睡眠薬、ローのいなくなった部屋、置かれた合鍵。たった三つだけで二人の間は糸が切れる。希薄な関係だったな、とローはうっすら笑い、アイマスクを手にかけた。
 列車の揺れは、あっという間に眠りの世界へ落としてくれる。

 仮眠を取った胃にサーモンの燻製は少し重かったかもしれない。食堂車へ行ってコーヒーを頼む方が良かったか。ローはある程度満たされた腹をさすったあと、渋々腰を上げて食堂車へ向かった。隣席の存在を警戒していたが、このシーズンに珍しく乗客が少なく、ローの隣には誰も座ることがないまま夜まで過ごせそうだ。
 古い線路の上を走る列車は、重い体を揺すってアラスカの季節を人々に魅せる。窓際で親子が感嘆しながらはるか遠くにそびえる連峰を見ていた。雪ですっかり白く覆われた山頂から、まだ野の残るやわらかな山肌まで、雄大で、静かで、なにも過激なように見えないのに、ひとたびあの山のそばへ近づくと猛吹雪とマイナスの冷気が刺すように襲ってくる。ローはその寒さを経験で知っている。昔一緒に行った人は全然平気そうにしていて、なんなら明るい笑顔で山頂を見上げていた──コラソンは、そういう、どうも人間離れしたところがあった。
 食堂車にたどり着くと数名の人が飲み終わったカップを片付けるところだった。カウンターへ向かい、コーヒーを一杯注文すると、すぐに乗務員が手際良くコーヒーを淹れてくれた。砂糖やミルクの入ったカゴを指先でもてあそんでいると、いい香りが漂ってくる。「パンもご一緒にいかがですか?」と言われたこと以外は、ローの旅はおおよそ順調だった。山を眺めながら食堂車の揺れを楽しんでいると、そのうち線路の脇を動物を連れた人々が手を振っていた。北へ向かう列車旅は長くなる。それを知っている人たちが少しでも歓迎しようという表れだろうか。秋が過ぎれば観光客はぱったり減り、来たとしても大抵はオーロラを見るかウィンタースポーツを目一杯楽しめば週末の一便しかない列車で帰る。ローのように、冬に北へ何日も籠るような物好きはほぼいない。
 コラソンを探そうと決意したのは、なにもこれが初めてではない。一度目は中国で、二度目はブラジルでだ。コラソンの伴侶になる人間は非常に大変だと思う。中国でコラソンが行方不明になったとき、ローは現地で医師をやりながら情報を集め、頃合いを見て目撃情報をたどって山岳地帯へ向かった。案の定、コラソンは現地の人たちと仲良く暮らしていて、ローへの土産を買ったはいいがスリにあって無一文になり、仕方なくそこで働きながら帰る金を貯めていたらしい。兄であるドフラミンゴは呆れ果てたが、決してコラソンを叱ることはなかった。スペインの居宅に半ば軟禁するくらいに考えていた兄だったが、コラソンがブラジルでも行方不明になったときは、さすがにドフラミンゴ自ら探しに行った。ローのように現地で機会を伺うのではなく、金にものを言わせてヘリをチャーターし、弟が街頭でピエロの格好をしながらカーニバルを盛り上げているのを見つけた。祭りの雰囲気に飲まれながら、ローはリオのぬるい酒を飲みくだし、隣でため息をついているドフラミンゴに同情した。
 ドフラミンゴのサングラス越しに、コラソンはどう映っているのだろう。ローはいつもそれを考えていた。弟、家族、兄弟、血の繋がった人間。それ以上に、ドフラミンゴはコラソンに手を尽くしているように思える。もちろん、ローにもそれは同じだった。他のファミリーにもだ。ローは父と母、妹のいる家庭に育ちながら医者になるために大学へ通わせてもらい、その大学の准教授として働いていたドフラミンゴと出会うまで、家族以外にそこまで親密に心を通わせられるような人間はいなかったものだから、血の繋がりのない結束なんて無意味とさえ思っていた。ファミリーと名乗ってマフィアのような集団であるのに、ドフラミンゴの周囲はどこか高貴で、大学を辞めて会社を立ち上げ、今やスペインの一財閥として立派に君臨しているあのファミリーたちは、経営の手を大きく広げて飛び立とうとしている。
 ……そういう、これからが正念場であろう会社にとって、コラソン探しは大変なだけではないだろうか。ローはいつもそう感じるのに、ドフラミンゴは決してコラソンにそう言わない──それはもはや、愛情ではなく甘やかしではないのかと指摘したこともあったが、ドフラミンゴはこう言った。
「コラソンは、あれでいいのさ」
 自由、気まま、清らかで無垢。ドフラミンゴが生まれるとき、母親の胎内に置き忘れてきてしまったのだと言う。それらをコラソンが持って生まれて、だから自分と違っても、なにも言わないのだと。
 ローはなに言ってんだか、と頬杖をついていたが、言葉までは飲み込んだ。ドフラミンゴが難関医科大学の准教授にまでなって研究したかったのは、数年まえに亡くなった母親の病気を治すためだっただろうに。たしかにドフラミンゴのこれまでは自由、気ままではないかもしれないが、紛れもなくコラソンの兄である。母親は病気の進行が著しく、延命はできたもののやはり助かることは難しかったが、それでもドフラミンゴにとっては、母の胎内からちゃんと受け継いだ清らかさと無垢の部分を一心に振るい、自由と気ままを放棄して打ち込んだ思いが実った瞬間でもある。その後研究成果が多大に評価されて医学系の独立企業で一旗上げられたのは、報われたものもあったのではないかと思う。
 ローは研究の大きな一端を担っていたからファミリーの幹部にとも誘われたが、そのころ第一次コラソン探しが始まったため、その話はいまだにうやむやのまま終わっている。
 コラソンの夢は警察官であった。子どもらしい夢をしかしそのまましっかり握りしめ、母の介護を続けながらも警察学校を卒業した。大柄で力もあり、主にレスキューを担当していた彼だが、母の死をきっかけに考えを改めて休職した。山岳救助でしか行ったことのない山に、今度は自分で登ってみたいと言い出し、ほとぼりが冷めればまた警察官に戻るつもりでいるらしい。病弱で外にもあまり出たことのなかった母の遺影をザックに詰めて、頂上へ到達するといつも遺影を先に下ろして景色を眺めていたらしい。山仲間から聞いた話だ。ただその遺影は一部が欠けていたり、ガラスが割れていたとも聞いた。その場で落としてしまったことも。きっとコラソンの母は空の上で、笑って許しているのだろう。だからいつまでもコラソンのドジは治らない。
「山仲間に誘われて、アラスカの倉庫街に荷物を残してんだ」
 とコラソンが屈託のない笑顔で話していた数年まえ、ローとドフラミンゴは顔を見合わせたものだ。ローはそれまで働いていた病院からアラスカの病院へ転院ができないがありとあらゆる可能性を考え、ドフラミンゴは会社の会議が終われば毎度コラソンに連絡を入れた。結局ローも、コラソンへの甘やかしに乗っかっている。いるが、もうどうしようもない。コラソンという人間は人を惹きつける。不思議と全てを許せるし、探し出して見つかって、懲りずに次を目指すコラソンの眩しさを、いつまでも見ていたいと思うのだ。
 そしてとうとう、ドフラミンゴからの数百回目の連絡にコラソンが不通になり、それから数日かけても繋がらないとわかった途端、悩んだ末に「今回は俺が探そう」とローが挙手した。ドフラミンゴはしばらく黙り、ややあってこう言った。
「帰れなくなるかもしれないのに、いいのか?」
 帰る──それは、ローの父や母の元に、ではない。ローはとっくの昔に独り立ちをしていて、実家に帰るのは年に一度と決めている。ドフラミンゴの居宅に住んでいたことはないし、ローには家らしい家と呼べる場所は。そこまで思ってドフラミンゴがなにを言っているのかを察した。ローが今住んでいるところはローが世帯主ではなく、別の人間の家に転がり込んでいて、だからといってその家主がローの帰りを毎日待っているわけでもなく、束縛もなく自由に過ごせているから、結局毎日なんとなく帰っていた。ローの奔放さを嫌うでもなく、家に置かせている人物の顔が浮かび、ああ、あいつのことを心配してんなら、とドフラミンゴに返事をしたところで。
 そこまで辿って、ローはハッと目を開けた。
 鉄道の揺れに合わせ、本格的に眠っていたらしい。食堂車の椅子の居心地の良さにかまけ、長居をしてしまった。他の客はすっかり様変わりしていて、太陽が沈み出すから皆厚着をしていた。ローだけが肩を震わせ、食堂車をあとにした。

 駅に着くまでの十数時間、ローが声帯を開いたのはごくわずかだ。食堂車の人間と話すときと、すれ違いざまに挨拶を交わしてくる人間と軽く話すときのみだった。おかげで冬の乾燥した車内ですっかり喉がくっついたようになり、意外と飲み物が欲しくなるタイミングが多かった。
 そんな掠れた声で、軽く感嘆しながら到着駅の周辺を見回す。飲食店はないが、土産店や地元の人々が顔を覗かせる古参の店舗が並んでいて、ここもやはり天井が広々と高かった。ただもう時間は夜で、人々の足取りは家や宿に向かっているのか非常に速い。ローも遅れてはならないとつま先を動かした。
 ローのスマートフォンが鳴る。
『そろそろフェアバンクスには着いたのか』
 ドフラミンゴからのメッセージに、着いたと返答をする。既読にはなったがそれ以上の詮索はなかった。
(家はどうした、とか、別れの挨拶はちゃんとしたのか、とかそういうのだろ、気にしてんのは)
 そうしないと面倒だからだ。彼は形ばかりのそういった口上が、しかし嫌というほど後々響いてくるのを知っている。経営をしていて、紙の上での約束は絶対だが、口で交わした信頼を得るための言葉というのは、何倍も相手の心に響くのだ。だから逆に、相手との契約を破棄するとき、あるいは関係を終わらせるときも、きっちり線を引かなくてはならないとローも伝えられていた。
 伝えられていたが、できなかった。枕の横に手を添え、眠っている男に心の中で許しだけは得たが、そんなものがテレパシーでもないのに伝わるわけもなく。ただ不思議と、あの男とは──スモーカーとは、無駄な連絡を取り合わなくても通じたりするところがあった。待ち合わせ場所を指定しなくても二人で自然とその場に立っていたり、時間に間に合わなさそうだと思っていたら、向こうもゆっくりした時間に到着したりした。
 ──ローがスモーカーの家に住んでいると言ったとき、ドフラミンゴは仰天してサングラス越しに穴が開くほどローを見てきた。もはや凝視だった。鬱陶しくなって視線を逸らすと、ドフラミンゴは整った顔つきを歪ませて笑った。
「お前もどこか、違う視点を知りたかったんだろ」
 ……その言葉の真意はそのとき露ほどわからなかったが、スモーカーと過ごしてなるほどと腑に落ちた。
 コラソンやドフラミンゴと全く違う生活だった。でたらめな就業時間、タバコの量、酒は大勢でわいわいしながらなんて飲まず、静かに映画を見ながら傾けていた。かと思えば休暇にアメリカまでのんびり渡ってカジノをぶらついて帰ってくる。稼げるのかと疑ったが、どうやらそれなりに腕前はいいらしい。と思えば、別れた女とはあんまりうまく関係を切れずに家具をだめにされたりしている。
 ずっとローは、面白いと思いながらスモーカーと暮らしていた。ファミリーとつるんでいたころ、知り得なかった感覚だ。
 ──帰れなくなるかもしれないのに、いいのか。
 ドフラミンゴの過保護が、生き霊のようにローの心に湧き出してくる。
『ドフィ、大丈夫だ。あいつがお前に迷惑をかけることはない』
 それだけをメッセージに残し、ローはスマートフォンをしまった。

 宿に着くとベッドに座った。列車の中で散々座っていたが、ベッドの柔らかさと座席の固さはまるで違う。落ち着きを取り戻し、ローはため息をついた。住んでいた南方の地域よりやはり寒いから、暖房を強めに設定する。ザックを下ろすと中身を点検した。明日からか、明後日からか、情報を集め次第すぐに出発するつもりであったから、万全の対策は整えているはずだ。
 内側のサイドポケットにタバコが入っている。中身はあらかた出し入れして、以前コラソンが使っていた道具は使い古されているから不要だと倉庫へ置いてきたはずなのに。ライターをソフトケースにしまい込んで形が整えられているから、コラソンの吸っていた銘柄がよく見える。ラッキーストライクと書かれた白地のケースは、彼の手の中にあったときは妙に小さく、しかしかっこよく見えた。自分が持ってみてもタバコを吸わない人間の手ではもの悲しく思える。
 ドアをノックする音が聞こえた。どうぞと言うとホテルマンが恭しく入ってくる。今日だけはドフラミンゴの奢りでいい宿を取れた。身なりの整った清潔な人間と出会えるのも、しばらくないだろう。香水でも嗜んでいるのか、花の香りがするホテルマンがウェルカムサービスとしてワゴンに乗った紅茶と焼き菓子をサーブする。
「あんた、タバコなんて吸うか」
「いいえ、ここでは……なにかお困りでしたか」
 喫煙所を探していると捉えられ、「違うんだ」と訂正する。
「友人のを間違って持ってきちまって」
 俺は吸わないから、と付け加えると、ホテルマンは察して身なりを正した。
「お客様を疑うわけではないのですが、精査できないものは受け取ることができないようになっております。未開封でしたら大丈夫でしたが……
 申し訳なさそうな表情で彼が言うから、ローも笑って手を振った。所在のなくなったタバコはザックに入れておくしかなさそうだ。
 ──夜はホテルのそばの観光街へ降りる。真っ暗闇の中にオレンジ色の街灯が浮かび上がる。そのおかげで雪に反射した空の色は赤やピンクに見える。冬景色ならではの空模様だ。ローの生まれ故郷も雪の降る国だが、ここまで空気は澄んでいないし、棘のように刺す空気でもない。あれを寒い寒いと思っていたが、アラスカよりははるかにマシだったなと痛感する。
 アジアンフードマーケットがある場所へようやく辿り着き、米食にありついた。この際炒飯でも、フォーでも、米がメインであればなんでも良かった。パン以外に出会える幸せをひととき噛み締めながら通りを歩く人を眺める。
 ここに山はない。あるのは雄大な川と国立自然公園ばかりだ。ローのようにザックを持つ人間はほとんどいない。ローが十二時間まえにいたアンカレッジの方が山間の町であるから、そちらへ登山へ行く人間の方が圧倒的に多いのだ。六千メートル越えの冬山を登るためにする準備は並大抵ではないだろう。コラソンもそうだったかもしれない。ただ、コラソンの消息が絶たれたのはアンカレッジではない。なぜか、山の少ないこのフェアバンクスだった。国立自然公園ばかりとはいえ、サバンナのようなだだっ広い草原がなだらかにあるわけではない。川があり、谷もあり、ヘラジカの群れがいて、とにかく雪山をただ登っていくよりはるかに緩急目まぐるしい上にやはり寒い。
 だからどこであれ雪山装備ほどの重量感のあるザックが必要不可欠になる。特に、いつ見つかるかわからない行方不明者を探すような旅ならば。
 おおかた、コラソンの願望は「母にオーロラを見せたい」といったあたりだろう。ドフラミンゴも言っていた。死ぬまえに彼女はいろんなものが見てみたかった、と残しているし、それを真に受けた純粋無垢な息子たちは、呪いのようなそれを叶えるために尽力した。ドフラミンゴのように間違わない方向で進んでくれれば良かったのだが、コラソンの場合も決して間違いとは言えないあたり、ドフラミンゴもローも大概コラソンに甘くできている。
 どこかでコラソンが、タバコの煙をくゆらせていないだろうか。大柄な男が、一人茫然と佇んでいないだろうか。そう思えば思うほど、その背中に重なるもう一つの影が脳裏に浮かぶ。コラソンは輝くような金髪をしているが、もう一つの影は真っ白い髪だ。どちらも背丈は変わらないが、影の方が体格が良く、コラソンの方が背は大きい。
(バカな夢を見てるな)
 ローは残りの飯をかきこみ、軽く首を振った。どちらの幻覚も、都合のいい自分が見せている。会計を済ませ、温かい風呂とベッドのためにホテルへ戻った。