武道が今年の春進学したのは、中高一貫の男子校の中等部で、系列の大学もある有名な私立校だった。偏差値はそう高くはないが、金持ちの子女が多く通っている。所在地が渋谷と六本木の間にあるせいか、レベルの高いお洒落な生徒が多い事で有名でもある。
政府の学校無償化が無ければ庶民の武道には、一歩も踏み入れる事が出来ないところだった。
然しながら政府が無償化したのは授業料だけで、入学金、制服代、教科書代、その他諸々やオリエンテーリング費用等は別途必要だった。武道の両親は庶民だったので、私立の学校では公立には無い費用や行事が多い事を把握していなくて、この辺りの事情を良く理解していなかったのが悲劇の始まりだった。
周囲の人間の、無償なら設備も教師も質の良い私立高に行くべきという、タダなら高い学費のところに子供を通わせた方がお得だし、中高一貫校は受験が一つ減るから、子供の負担を減らせて、受験勉強から解放された学校生活を満喫出来て、素晴らしいに決まっているという謎のブームに、武道の両親も乗ってしまったのだ。
武道の両親は比較的早い段階で、これは学校選びを失敗したかもと自覚した。合格通知を貰ってからの怒涛の入学手続きの中で、公立と違ってありとあらゆるところにお金がかかる事にすぐに気が付いたのだ。
例えば、都立高校の入学料だったら六千円程度で済むのに、この学校の入学金は一口二十万円もした。しかも、「寄付金のお願い」というお手紙の下にある「寄付金は二口以上のご協力をお願いします」という一言があり、母親が卒倒したのは言うまでもない。
制服も公立とは違い、バリエーション豊かで、しかもデザイナーズで、指定のカバンも補助バックも靴下に至るまで、その辺の衣料品店で揃えるよりバカ高かった。それが冬服と夏服とツーセット必要なのだ。
武道が入学式を迎える前に、母親はパートを一つ増やし、父親は会社に内緒で副業を始めた。こうして、もともとそう裕福では無かった武道の家は、貧民目掛けて一直線という状態に陥った。毎月の支払いが綱渡りで、会社で例えるなら自転車操業状態だった。こうして、花垣家は一円の余裕も無い生活を強いられる事になった。
そういう次第で、期待に胸を膨らませて入学するどころか、両親の切羽詰まった様子に喜ぶ事も出来ず、そして、優雅な学園にもクラスメイトにも馴染めず、武道は教室の片隅で、息を殺して学園生活を過ごしていた。
周囲はパリピだらけで、貧乏くさいのは武道だけだった。ゴールデンウィークは、ほとんどのクラスメイトは海外旅行に出かけ、国内旅行だとしても、一泊十万円以上の宿しか泊らないような豪華旅行をしていた。時折聞こえてくるクラスメイトの会話に、話を振られたらどうしようと、武道はビクビクしていた。こんなに貧乏になる前でも、花垣家の旅行は質素なものだった。それも毎年では無く数年に一度の頻度で、奮発してくれたとしても、ビュッフェスタイルの安いホテルが関の山だった。それでも、たまの旅行は楽しくて武道にとって特別な思い出だった。
こんな事なら、小学校の友達と一緒の地元の中学校に通えば良かったと、まだ始まったばかりの学園生活に、武道はため息しかつけないでいた。
そして、武道にとって、一番切実な問題はランチタイムだった。この学園の生徒は、学園内に複数用意されたカフェテリアと呼ばれる場所でランチを食べる。通常の学校なら二十分程度のランチ時間が、この学園では倍の四十分に設定されているので、カフェテリアといっても、コース料理メニューもあったりする。武道は全然知らないのだけれど、有名な西麻布にあるフランス料理店と提携しているカフェテリアもあるらしい。
そんな訳で、自宅から弁当を持参する生徒など皆無で、弁当だとしても、当日注文できる料亭や有名ホテルの仕出し弁当を食べている生徒しかいないのだ。もちろん、何を食べたとしても、花垣家の一日の食費より高いと思われた。
そんな中で、母親が作った弁当を教室で出す勇気が無く、武道は、昼食時間はクラスメイトを避け、一人になれる場所を探して、校舎内を彷徨う日々を送っていた。
そして、ついに見つけた安住の地は、中等部一号館の屋上だった。何故か、誰も利用していなかったのだ。他の館の屋上は、結構生徒がいるので不思議だったのだが、もう何日も利用しているのに、一号館の屋上は常に無人なのだ。
どうして他の生徒が利用していないのかという事を、武道は全く気にせず、ウキウキとそこでお弁当を広げ、ゆったりとしたランチタイムを過ごしていて、ようやく学園内で自由気ままに過ごせる場所が出来たと喜んでいた。
中等部一号館の屋上でランチを食べ始めて一週間が経った頃、武道のいる屋上に続く階段を上って来る複数人の気配を感じて、武道は驚いて固まってしまった。
屋上への出入り口は一つしかなく、屋上には身を隠す場所もまるで無い。ひとまず弁当を隠して、誰かが屋上に出て来た時に、入れ替わりで階段に向かうしかないと、慌ただしく弁当箱を掴んで武道は立ち上がった。
扉の前に立ちタイミング良く出て行こうと思った武道は、全く前を見ていない先頭の男子学生と、思いっきりぶつかってしまった。しかも、弁当箱の蓋をちゃんと閉めずに持っていたせいで、すっ転んだ拍子に盛大に弁当の中身がぶちまけられてしまい、先頭の男子学生の制服に煮物の茶色い染みが散ってしまうという最悪の展開になった。
すみませんと謝ろうと思って、立ち上がって見ると、目の前にいたのは、中等部三年に在籍する、有名な灰谷兄弟の弟の方の灰谷竜胆だったから、武道は目を見開いて驚いた。遠くの方でちらりと見た事があったが、こんなに近くで見るのは初めてだった。クラスの女子が黄色い声を送っていただけあって、間近で見る灰谷竜胆は恐ろしく格好良かった。薄い金髪に水色のメッシュを入れ、すらりとした体躯は細身のモデルの様だった。
「げっ! 何すんだよ、オマエ!」
武道が真っ青になる前に、竜胆の取り巻き達の方が青くなっている。竜胆に対して粗相を働いた武道の行く末を想像して。
「スミマセン! スミマセン!」
必死に謝りながら、なんてこったと武道は思った。よりによって、中等部で一番有名な灰谷竜胆に、弁当の中身をぶちまけるなんてと。
「うわっ! きたね。茶色い染みとか出来てるし! どうしてくれるんだよ?」
竜胆に睨まれて、武道は涙目になっていた。今にも溢れ出しそうで、武道の視界は雨粒が滝のように流れる車のフロントみたいになっていて、竜胆の姿は水の中にあるように見えていた。
「スミマセン! 弁償しますから!」
武道はぺこぺこと頭を下げて謝った。咄嗟に弁償すると言ってしまったが、当たり前だけれど高額な制服代など、武道は持ち合わせていなかった。ともかく、何かバイトでもして稼ぐしかないと武道は思った。この世の中で、中学一年生を雇ってくれるところがあればだけれど。武道は絶望感でいっぱいだった。
「弁償してくれんだ。でも、このまま煮物臭いのは耐えられねぇから、オマエの体操服持ってこいよ」
「はいっ!」
竜胆の横をすり抜け、急いで自分の教室に取りに行こうと思ったのだけれど「ちょっと待った」と、竜胆に襟首をつかまれて「ぐえっ」と武道の首が締まる。
「生徒手帳置いていけ」
「え?」
「このままトンズラされたら笑いもんだろ? ほら、オマエの生徒手帳出せよ」
竜胆に凄まれて、武道は制服の胸のポケットから生徒手帳を差し出した。
「一年生かよ」
竜胆は手帳の色を見て、武道の学年を知ったようだった。
「あのさ、この屋上はオレ専用だから。勝手に使ってんじゃねぇーぞ」
竜胆の言葉に、ようやくこの屋上を誰も使っていない理由を武道は知った。
分かりましたと言って、また頭を下げて、武道はダッシュで教室まで戻り、廊下沿いに設置された自分のロッカーから体操服の入った巾着袋を持って、再び屋上に戻った。
「早かったじゃん」
はぁはぁと息を切らしながら戻って来た武道から体操服を受け取ると、武道に脱いだ服をポイポイと投げ渡し、竜胆は武道の体操服を身に着けた。
「ちっちぇえ…」
竜胆はズボンの丈を見て呟く。確かに脹脛が丸見えで、竜胆が着ると長ズボンでも、竜胆にしたら七分丈のようになってしまった。
上着の裾もぎりぎりで、前にかがめば背中が丸見えになる状態だ。普通に立っている今でも、鍛えられた腹筋が、上着の裾の下からちらっと見えたりする。竜胆は武道より十センチは背が高いし、筋肉質なので、体操服はぱつぱつになっている。それなのに、竜胆が身に着けていると、そういうファッションなのかと思えるからイケメン恐ろしいと武道は思った。。
「スミマセン…」
申し訳なさ過ぎて、武道が再度謝った。
「じゃあ、授業終わるまでに購買で制服買ってクラスまで持って来いよ。サイズはその制服見れば分かんだろ?」
「え?」
「ナニ? カード持ってねぇの? 電子マネーも使えたと思うけど」
「カードなんて持っていません…電子マネーは…残額が…」
「なんだよ。弁償するって言ったのはそっちだろ?」
「弁償は絶対します! ただ、お金が今は無くて…少し待ってくれませんか?」
「少しってどれくらいの事を言うんだよ?」
「えっと…二ケ月位?」
「ハァ? マジで言ってんの? 今週中に買って持って来い。二ケ月も待てるかよ! 一年生だからと思って穏便に済ましてやってんのに、ふざけんなよ!」
「スミマセン!」
武道は竜胆の剣幕に、怖くて震えていた。噂では、竜胆は短気で手が早いし、ケンカも滅法強くて、どこかの高校生を半殺しにしたとかしないとか。他にも、兄と一緒にクラブに入り浸っているとか、女性とは大抵遊びで、付き合ってもすぐに捨てるとか、無免許でバイクを乗り回しているとか、噂話は色々あった。灰谷兄弟の素行が悪いのは、間違いなさそうだった。
そして、灰谷兄弟がどれだけ不祥事を起こしたとしても、揉み消せる権力を持つ親がいて、且つ世界屈指のお金持ちで、この学園に寄付した金額は億を超えると言われていたから、この学園内に灰谷兄弟に逆らえる人間は存在せず、理事長ですら腰を低くして灰谷兄弟に接すると言われていた。そんな噂話は、友達がいなくても、武道の耳にしっかり届くくらい灰谷兄弟は色んな意味で有名だったのだ。
「持って来なかったら、どうなるか分かってんだろうな? それまで、この生徒手帳はオレが預かっておくからな。あと、持ってくるまでは、オマエはオレの下僕だから。呼んだら直ぐ来いよ。ほら、オマエの携帯も寄こせ」
竜胆は武道の携帯を奪うと、勝手に電話番号を交換してしまった。それから、もう用は無いと言わんばかりに、手でしっしっと追い払った。
はぁ…と、すこぶる大きなため息をついて、武道は階段をとぼとぼ降りた。腕には汚れた竜胆の制服が掛けられていて、どうやって今週中に弁償すれば良いのか思いつかず、詰んだと思っていた。
今年の春、制服を購入した時、注文書の控えを見て母親は深刻そうな顔をして「高い…」と呟いていた。あれから数ケ月しか経ってないのに、付属品は除くとはいえ、もう一度ワンセット買って下さいとは、口が裂けても武道は言えそうも無かった。
今日は水曜日で、今週中という事は、学校がある金曜日までと考えると、今日を入れてもニ日しか無かった。たった二日間で、数万円も儲けられる仕事なんて、あるわけが無く、武道は本当に途方に暮れてしまった。
取り敢えず、携帯で「高額バイト」とネット検索すると、水商売関係しか検索に引っかからなかった。そして、武道は中学一年生であり、その年齢で雇ってくれるところなどあるわけが無く、はぁとため息をついた。
武道はしばらく悩んで、そう言えばと、以前パパ活ならぬママ活があると聞いた事を思い出した。男子中学生や男子高校生のママになりたい女性が、会ってお話をしたり、お茶を飲んだりするだけで、こずかいをくれるという素敵な制度らしい。武道は、今度は「ママ活」と入力してネット検索をしてみたところ、恐ろしく怪しげなものばかり検索に出てきてしまった。
ママ活募集の文面を読んで、思っていた内容と全然違うと武道は思った。募集されているものは、全てセックスをする前提のものしかなく、さすがに、童貞の中学生には無理かもと思うしかない。お茶をして話し相手をするだけで、こずかいが貰えるなんて楽な事、ある訳ないかとがっくりした。
そして、がっかりしすぎて、武道は又しても誰かにぶつかってしまった。考え事をして階段を降りた先の踊り場で、盛大に尻もちをついたのは武道だけで、ぶつかった相手はよろめく事も無く立っている。
「あ、スミマセン!」
今度は弁当をぶちまけていないので、ちゃんと謝れば済むだろうと武道は安易に思った。ところが、ぶつかった相手は、そう思わなかったようで「オレにぶつかって、スミマセンだけで済むと思ってんだ。カワイ」と、武道を見下ろしながら、そのくせ、にっこり笑いかけて来たのだった。
長い髪を黒と金で交互に染め分け、二本の三つ編みにするという印象的で凝った髪型だったから、見かけから普通では無かった。顔は小さく整っていてどう見ても美形で、背が武道より二十センチは高くて、足が異常に長いモデル体型だ。この学園はお洒落な学生が多い事が有名ではあるが、目の前にいる長身美形は、その中でもかなり上位に位置していると武道は思った。
中等部では、見た事がない顔なので、体格から言っても高等部の生徒なのは間違いなさそうだった。
それにしても、目尻を下げて柔和に笑っているのに、先ほど、竜胆に凄まれた時よりも、数倍怖いと思ってしまうのは、なんでなんだろうと武道は思った。それから、この後オレはどうなっちゃうの? と、また涙目になっていた。
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