riririnf
2025-02-08 12:59:31
11987文字
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月去り来る晨夕の花

ヌヴィフリ逃亡書いてみた⑤
ヌヴィレットと鍾離先生の月見酒。
フリーナは一回お休み。捏造・ネタバレ過多。

 三杯酔。歴史深い璃月においても老舗なのだという店の最上階。その唯一の客間に、ヌヴィレットはいた。 
 この国独特の幾何学模様の組子窓から、月明かりが淡く差し込む。階下の喧騒も遠く隔絶された静寂さを持つこの部屋は、今日のような月の高い夜において、まさに至高の宴席であろう。
 フォンテーヌであれば、このようなVIPルームを確保するには間違いなく事前の予約が必要だ。国が変われど、そういう仕組みはどこも大差はないだろう。
 つまりヌヴィレットをこの場へ誘った男──鍾離は、この邂逅を予期していたことになる。
「注文は俺がしておいた。他に希望があれば、追加で注文しても構わない」
 円卓の向かいに座る鍾離の言葉が、ヌヴィレットの推測を裏付ける。共に店に入ってから、彼が注文する場面など見ていない。
……水を。酒の類は好まない」
 もしこの場にフリーナがいたならば、空気を読めと咎められただろう。酒の席にそぐわぬ注文は、最高審判官の趣向を知るフォンテーヌの者でも、大抵一度は聞き返す。
「ああ、心得ている。一流の酒場は水もまた一流だ」
 鍾離の反応は、そのどれでもなかった。全てを把握している、と言わんばかりの対応が、ヌヴィレットの胸に静かにさざ波を作っていく。
 一体この男は何者なのか。そも、人の肉ではないような────、
「失礼いたします」
 盆を持つ店員の入室により、ヌヴィレットの思考は中断される。手際よく粛々とそれぞれの前に杯を置き、店員はすみやかに退出していった。
 ヌヴィレットも鍾離も何も言っていないのに、自身の前には正しく水── 翹英荘から運ばれたもの──が置かれている。これも鍾離の気回しの一つなのだろう。
 そつの無い対応。そして、それをひけらかすこともなく、彼は悠然と微笑んでいる。……その全てが、どうしようもなく癇に障る。
「──では、乾杯を。今宵の縁と佳月を称えて」
 杯を掲げる鍾離に合わせ、水を口に運びながら、ヌヴィレットは波立つ思考の源泉を理解した。
 ……私は、

 この男が、嫌いだ。

「この酒醸団子はお勧めだぞ。旅人とパイモンも美味いと言っていた」
 こちらの心情など構いもせずに、鍾離は呑気な風で白いスープのような甘味を勧めてくる。
 これの味は知っている。昼間にフリーナから教えられた。「キミの好きなスープがデザートになっているんだよ」と。
「船上での食事もまた乙なものだ。璃月に滞在しているうちに行ってみてはどうだ?よければ俺から紹介しよう」
 尚も鍾離の勧めは続く。……もう、聞いていられなかった。
「──鍾離殿。私は世間話をしに来たのではない」
 寒々しい友好の空気を遮る。気持ちのない、ままごとのようなやり取りなど、不要だ。
「君はフリーナと親しい仲なのだと聞いている。ならば、彼女のことを頼みたい」
 鍾離を見据え、鋭く本題を切り出す。
 冗長なやり取りは好まない。この男が相手なら尚更。その必要性を感じない。
「彼女は強く、そして同時に脆いところがある。支えてくれる者が必要だ。私はもうすぐ、この地を去る。……だから君に、彼女を守ってもらいたい」
 琥珀の瞳がゆっくりと細められる。それはヌヴィレットが初めて引き出した、彼からの反応だった。
……わざわざ、そんなことを言いに?」
 鍾離の唇はいまだ弧を描く。けれどもう、その瞳は笑っていない。
「野暮は自覚している」
 フリーナに知られれば、余計な真似をと叱られてしまうだろう。それでも確かめずにはいられなかった。
「昨日、彼女が一時行方不明になったことは知っているだろうか」
「ああ。ヌヴィレット殿が見つけ出してくれたのだと聞いている。大事に至らなかったのは、貴殿のおかげだ」
 彼は淀みなく答える。ここまでの応えに虚偽は無い。だが。
「──私が憂慮している点は、そこだ」
 ヌヴィレットは静かに杯を置く。自身の心情を映すが如く、水がざわりと揺らめいている。
「フリーナが一人傷つき、不安と闘っているなか、君は何をしていた?」
…………
 目は逸らされない。けれど口も開かない。それが、鍾離のこたえ。
「私は君が信用出来ない。今後も彼女のそばにいるのであれば、信ずるに足るものを見せてもらいたい」
 彼には力がある。ヌヴィレットはそう確信している。にも関わらず、彼は彼独自の判断基準の元でしか、その力を振るわないのだろう。
 そして昨日の状況は、その基準を満たさなかった。そういうことだ。
 だが、それでは困るのだ。フリーナには幸福だけを甘受してほしい。刹那であっても、苦痛を感じてほしくなどない。
 この男は、違うらしいが。
 ──それが、許せない。
……では問うが、ヌヴィレット殿は、フリーナ殿のなんだ?」
 指を添えたままだった陶器が、密やかにピシリと軋む。ヌヴィレットは悟られぬよう、そっと手を離した。
 気づいてか、気づからいでか、鍾離はその音に触れることなく言葉を続ける。
「稲妻には、こういう格言があるらしい。人の恋路を邪魔するものは、馬に蹴られる……とな」
 彼女は言った。『いつまで彼氏を気取っているつもりか』と。
 分かっている。今の自分がどれほど野暮でみっともないか、骨身に沁みて分かっている。
 それでも願わずには……、何もせずには、いられないのだ。どうか幸せにと、心からそう思えるように。
…………
 今度はヌヴィレットは沈黙する番だった。
 鍾離は依然変わらぬ様子で杯を傾ける。水に混じる酒精の濃さは、彼の顔色にはまるで反映されない。彼女ならば、一口で倒れてしまうだろうに。
 静寂に満ちる場を、月明かりが包み込む。これが月見酒とは、皮肉なものだ。
「──ここ数日、璃月に滞在してどうだ?よい国だろう?」
 静寂に滑り込むような声音で、鍾離は再び微笑んだ。先までの鋭利さが幻かのような柔らかさ。
 ……器用なものだ。
 ヌヴィレットは小さく息を吐きだした。
……よい国だと言えるだろう。神の手を離れ、人間が導く治世は好感が持てる」
「ああ。璃月は「神」の時代を終え、「人」の時代となった」
 信心深いこの地においては不敬とも取られかねない物言いを、鍾離は少しも気にすることなく肯定した。
「フォンテーヌも、そうなのだろうか?」
 それどころか更に言葉を重ねてくるのだから、眉をひそめずにはいられない。
 ……この男は、どこまで知っている?
 ヌヴィレットの脳裏に疑念がよぎる。旅人達とも通じていることを仄めかす彼は、明らかに只者ではない。
 ヌヴィレットの地位も、フリーナが璃月に渡った経緯やその正体も、当然把握していると見るべきだろう。
 けれど、更にその先──ヌヴィレットの正体にまで、彼は至っているのだろうか?
 ……くだらない。
 ヌヴィレットは小さく被りを振って、少しの迷いを即座に追い出した。
 彼がどこまで知っていようと、関係はない。ただ成すべきことを成し、望む成果を得るのみだ。
「フォンテーヌは「人」の国だ。五百年前から、変わることなく」
 フリーナという「神」が治めた、「人」の国フォンテーヌのすべてを、ヌヴィレットは肯定する。彼らが見せる悲喜劇を通してのみ、ヌヴィレットは己を知れる。
 だからヌヴィレットは、彼女が愛した歌劇の国をこの先も守り抜く。それは彼女が去ろうとも変わらない責務であり、使命である。
「成程。そこはフリーナ殿と同じ意見らしい」
「フリーナと?」
 ふ、と笑みを零した鍾離に、思わず聞き返していた。彼女はこの男と、そこまで深い会話を交わしていたのか。
「ああ。彼女も同じことを言っていた」
 鍾離は頷く。
「では、これも同じだろうか?フリーナ殿は『だから神がいなくなっても問題ない』と、そう言っていた」
 不意にもたらされた彼女の声に、胸がぎしりと軋む。
 ……君はまだ、そのようなことを。
 五百年に渡る使命から解放されてからというもの、神であった頃の傲慢不遜な態度は鳴りを潜め、反対に自己肯定の低さを度々窺わせるようになった。
 自由を得て、日々を輝しく歩んでいるように見える一方で、そんな儚さを滲ませるものだから、ヌヴィレットはいつまで経っても彼女から目を離せなかった。
 だからあの時、彼女の告白を受け入れた。儚い彼女に影をもたらす存在になりたくなかった。
 今となってはその時の判断さえ、“なりたくない”などという利己に基づくものだったと、理解してしまっている。
 あの日の過ちがすべての始まりで、結果ヌヴィレットは彼女に対して何を言う資格もない、下等な男に成り下がった。
 ──けれど、この件に関しては。
……それは違う」
 ヌヴィレットは強く否定する。この件に関しては、口を噤む訳にはいかなかった。
「フォンテーヌの民は「神」を愛している。彼女が去った後も、ずっと」
 彼女が水の国を去り、三年の月日が流れたが、それでも彼女の名前を聞かない日などない。フリーナという存在は、今もフォンテーヌに鮮やかに息づいている。
 彼女は愛されている。それは彼女自身にも否定できない、紛うことなき真実だ。
……ふむ」
 ヌヴィレットの宣言に、鍾離は興味ありげに口の端を上げる。
「認識の相違か。ならば、フリーナ殿にもそう伝え、意見を闘わせてみてはどうだ?多様な価値観を知るのは、尊いことだ」
 飄々と語る鍾離に、ヌヴィレットは眉を寄せる。再び会えと、そう言うのか。
 それは耐え難い提案だった。そう言える彼の余裕が、憎らしくて堪らなかった。
……彼女は、それを望まない」
 結局、そう返すことが精一杯だった。ヌヴィレットは目を伏せ、はじめて鍾離から視線を外した。
 杯に揺らぐ水面に視線を落とすヌヴィレットの耳に、微かな吐息が届く。
……フリーナ殿の望みと言えば聞こえはいいが、それは本当に、彼女にとっての幸せなのだろうか?」
 それは問いかけというよりは、設問を読み上げるような響きで、ヌヴィレットは視線を上げた。
「受け売りだけどな」
 鍾離は何かを思い出すかのように、微かに笑った。そうして垣間見えた彼の感情は、しかし刹那に消え失せる。
「ヌヴィレット殿は、どう思う?」
 琥珀の瞳と視線が絡む。権能を以てしても、なんの感情も読ませない静かな声が、今度こそ問いかけてくる。
 ……フリーナの、幸せ。
 ヌヴィレットは再び目を伏せた。煩いと切り捨てるには、この設問は真理を突きすぎている。
 そうして浮かぶ正答はただひとつで、それを応えぬことこそが、きっと罪深いのだろう。
…………君と共にあることではないのか」
 視線を持ち上げ、万が一にも声に感情が滲み出さないよう、慎重に言葉を紡ぐ。
 それにどれほどの労力が必要か、この男には分かるまい。
「──成程。“正しい”回答だ」
 だというのに、返ってきたのは失笑だった。
 悠々と答えを嗤い、酒を楽しむ彼に視界が冷える。フリーナの想い人でさえなければ、どうすることも出来るというのに。
……私は言葉遊びをしに来たのではない」
 杯に残る水が揺れている。ざわざわと波立って、杯そのものを震わせている。
 ここが璃月で良かったと、心の底からそう思う。
 異国の地にいるからこそ、今宵の数奇な縁があるというのに、そう考えずにはいられない。
 もしここがフォンテーヌであったなら。満ちる水元素がどう働くか、ヌヴィレット自身にも分からなかった。
「今後また、フリーナが危機に陥った時、君は確実に彼女を守り抜くことが出来るのか。──私はそう聞いている」 
 先にはぐらかされた問いを繰り返す。
 最初から、こうしていればよかったのだ。
 資格もなにもあるものか。「存続」こそが、生命にとっての正義。
 フリーナの「存続」の保証を得ること。それが今、ヌヴィレットが成すべきこと。
 もしこの男の答えが、納得に足るものでなかったならば、その時は──────………………

 ────瞬間、鈍い衝撃音が響いた。
 鍾離が杯を円卓に叩き置いた音。
 決して荒々しくはない。けれどもそれは陶器が割れる寸前の強さを孕んで、空気を震わせる。
 もうその顔に笑みは無い。堅固な意思を宿した琥珀の瞳が、ヌヴィレットを見据えている。

「──確実なものなどない」
 
 静かな声が、月明かりと元素のざわめきに満ちる空間に響く。
 それはやっと零された、彼の本心。
……そして、不変のものもない」
 鍾離の目が僅かに伏せられる。
「時の流れに洗われて、岩すら摩耗していくように。酒の味が、変わっていくように」
 その指が、杯の輪郭をするりとなぞっていく。
「勿論、変わらないものもある」
 そうして窓の外へと視線が動く。
「例えば、月。去りては来たり、夜に在る」
 更に彼の視線は滑る。行先は、窓際に飾られた一輪挿し。
「そして晨夕の花を朧ろに照らす」
 陶磁の花瓶に挿された、白い花弁の縁を青が彩る高貴な佇まいの花。
 その名をヌヴィレットは知っている。日中フリーナに教えられた。
 この花は──琉璃百合。
 魔神戦争により、ほとんど絶滅したのだという花。人口栽培のものは残っているのだそうで、ヌヴィレットもフリーナとの街歩きの際に何度か目にした。
 しかしこの花は、街で見かけたそれとは、どこか違う気がした。……香りが、濃いのだろうか。
……今日は特別に入れてもらった」
 その声は柔らかく、しかしどこか物寂しげな色を伴った。
「月前に酒を温め、花を眺む。風流だろう?」
……私に雅を解する心はない」
 少なくともこの男と、ものの風趣を語る気はない。
「そうか?ヌヴィレット殿は目が肥えていそうだが」
 すげなく答えたというのに、鍾離は尚も穏然と会話を繋ぐ。
「この花は、琉璃百合という。知っているか?」
……ああ」
「では、これは?野生の琉璃百合は香り濃く、心のこもった歌声の中で格別に美しく咲き誇る」
 ……やはり、この花は。
 鍾離の解説に得心がいく。花の出生も、誰が歌に心をこめたのかも、理解した。
……酒肴の為に、野に咲く花を摘み取るのは、観る者の傲慢ではないだろうか」
 それは少しの意趣返し、そして殆ど本心だ。
 花は気のまま、在るがまま。何に縛られることもなく自由でいてこそ、美しいのではないだろうか。
 ふむ、と鍾離は顎に手を当てる。
「それは意見が分かれるところだろうが、そうして手をこまねいている間に、他の誰かに摘み取られることもあるだろうな」
 円卓の下、ぴくりと手が跳ねる。
 やはり癇に障る男だと、そう思わずにはいられない。
「ヌヴィレット殿には、この花が不憫に見えるのか?」
 そう問われ、改めて花を眺める。
 過度な装飾もなく、ただ一輪で咲き誇り、月光に照らされるその姿は、どこか誇り高い風格すら感じさせる。
「花瓶は俺が選ばせてもらった。琉璃百合本来の繊細な美が引き立つように」
 鍾離は語る。ただの雑談だと、なんの意味もないと、そう流すことが出来ない程度には、彼の言葉には力があり、それがまた不愉快だった。
「結局のところ、野にあろうと、活けられようと、あまり関係がないのかもな。花とは存外に逞しい」
 いまだ杯の水は微かに揺れている。鍾離とて気付いているだろうに、それでも彼は揺るがない。
 だから、無視出来ない。
……先程は、晨夕の花だと」
 朝に咲き夕べに散るように儚いものだと、そう言っただろうに。
「儚くも強い。それはそう矛盾することか?」
 事も無げに鍾離は応える。その答えを、ヌヴィレットとて知っている。
 ──けれど。
 ひらと、ひとひらの花弁が散った。なおやかな軌跡を描き、落ちていく。
……こうしている間にも、花は散る」
 気づけば、そう零していた。音もなく窓辺に落ちた青。それから目が離せない。
……そうだな」
 返ってくるのは、静かな肯定。
 この男は本当に、どこまでも己を不快にさせる。今この時こそ、先までの態度で否定してほしいのに、どこまでも真逆のことをする。
……ならばせめて、少しでも長く美しくあれるよう、土壌を整え、水で潤し、最善の環境に置くべきではないだろうか」
 視線を鍾離に戻して、問う。
 なにもしなくても散るのならば、せめて。力を尽くして、守るべきではないのか。
……それは花の幸せか?」
 対する答えは依然として、どうしようもなく噛み合わない。ヌヴィレットが求めるものではない。
 どこまでも、琥珀の瞳は揺らがない。
…………ここまで無駄な時間を過ごすことになるとは、思わなかった」
 ヌヴィレットは深く息を吐き出した。
 なにを言っても、この岩の如くに頑固な男はなにも変わらない。 
 ただ己が磨り減るだけの時間になろうとは、想像だにしていなかった。
 邂逅前の予想の甘さを悔やみ始めたヌヴィレットに、鍾離は悠々と首を傾げる。
「そうか?俺は有意義な時間だと感じているが」
 今度こそ、ヌヴィレットは意識して彼を睨みつけた。
 不快。もうその感情しか浮かばない。
「ある種、結論は出たんだ。ここでいくら議論しようとも、花の幸せなど分かりはしないとな。所詮外野の主観に過ぎない」
 鍾離の言うことは、真理なのだろう。
 野に咲くこと、飾り立てられること、刹那に美しく咲き散りゆくこと。
 どの道も等しく尊く、またなにが正しいかなど、誰にも分かりはしない。
 それこそ、花自身さえ。
 ……だが、それでも。
……私は、諦めたくはない」
 それでも、願いを絞り出す。もう会えなくとも、他の誰かのものになろうとも、彼女のなかに己がいなくとも、それだけは。
 彼女の幸せを諦めることだけは、出来ない。
 ……忌々しい。
 だからこそ、彼女に纏わる琥珀の影が如何に目障りであろうとも、それが彼女の幸せならばと、そう思おうとしたというのに。
 この男は、そんなことさえ実現させてくれない。
 本当にどうしてくれようか。このままでは、とても帰れない。

「──ならば、ヌヴィレット殿が幸せにすればいいのでは?」
 
 鼓膜を震わすその音を、すぐには理解出来なかった。
…………何を言っている?」
 ヌヴィレットは信じられない提案をした男を凝視した。
 厭わしい笑みはない。ただ真摯な琥珀の瞳。
 彼は本気で、そう言っている。
 それが──────許せない。
「そんなにも容易く……手放せるのか」
 緩やかに、ヌヴィレットは立ち上がる。
「そのような軽い気持ちで、花を手折ったと?」
 幸せがなにかと、その答えも出せないくせに。
 いとも容易く諦めて、簡単に他に明け渡すなど。
 水が激しく揺らぎ、ついに杯を横倒しにした。円卓の上に水が広がっていく。
 ぽたりと床へと雫が落ちるその音が、判決の合図だった。

「それは────罪だ」

 裁決を下したならば、見合う罪科を与えなければならない。
 道理至極に従って、ヌヴィレットが手をかざした、その時。

「ならば、花の幸せを他人任せにしようとした者も、同罪だろう」

 手が止まる。それは罪人の告発。
 室内に満ちる水元素の奔流を感じているだろうに、鍾離は胸の前に手を組んで、揺らぐことなく、ただそこにいる。
 それゆえに、放つ言葉のみが重みを持って、ヌヴィレットにのしかかる。
 罪人は、果たしてどちらか。
……………………
 言葉が出ない。
 どこから間違えていたのだろう──否、間違え続けていたのだろう。
 彼女の真心を疑った。
 謝罪さえ言われるがまま、何もかもを彼女に委ねた。
 痕跡も残さず去った彼女を、ただ見送った。
 手を伸ばすこともせず、ただ逃げた。
 彼女から、彼女に向き合うことから、逃げ続けた。
 ……それこそが、私の罪。
 ゆっくりと手を下げた。水元素は落ち着きを取り戻し、零れた水は霧散する。
 そうして裁可の痕跡は消え失せた。ただ一つ、倒れたままの杯を除いて。
 ほぼすべてが元通りになった空間で、鍾離は再び自らの杯に手を伸ばし、清閑に酒を飲む。
 どこまでも、どこまでも不愉快な男。
 本当に────このままでは、終われない。
…………私が幸せにすればいいと、そう言ったな」
 低く問う。鍾離は答えず、僅かに首を傾けるのみ。
「ならば私はまず、器を入れ替える」
 琥珀の色を消し去って、大海の青にすげ替える。
「水については、心得がある。私が手ずから選び、与えよう」
 岩の気配を、水で覆って塗り替えよう。
「そうしてしまえば摘み取ったのが誰かなど、もう関係がないことだ」
 なにを難しく考えることがある。選び抜いた花器と水をもってして、花がただ美しくそこにある。ならばそれでいいではないか。
「それは観る者の傲慢ではないか?」
 鍾離が笑う。琥珀の瞳は興味深げな色を宿している。
「花の幸せなど、誰にも分かるものか」
 ヌヴィレットは失笑を返した。あまりにも滑稽だった。
 放っておいても、花はただ散りゆくのみ。
 しかもこの花は儚いくせに、何故だか強く逞しいから、自ら茨の道をゆく。
 いまだ花期の盛りだというのに、勿忘草を気取ろうとする。
 花だけが、自らの価値を知らない。
 そんな美しくも危うい花を、どうして放っておけようか。
……とはいえ、私は貴殿ほど傲慢ではない」
「──ほう?」 
 依然、鍾離の余裕は崩れない。
「大切なのは、対話だ。一方的に与え、試すことではない」
 杯を持つ鍾離の指が、ぴくりと動いた。琥珀の瞳が僅かに見開かれる。
 矛盾していると思うだろうか。幸せなど分からぬと述べたその口で、花との対話を語るなど。
 しかしヌヴィレットにとっては、なんの違和感もない真理。
……『我々の間には遥かな隔たりが存在するが、言葉という形で互いの心を理解することが出来る』」
 それはフォンテーヌ廷に招かれた当時より、彼女にしつこく説かれ続けたこと。
「『だが、交流には対価が伴う。心がぶつかり合えば、癒す事のできない傷が残ってしまう』」
 まさにその通り、ヌヴィレットはフリーナに傷を残した。
 更に傷つけてしまうことを恐れて彼女から逃げ出した。
 いざ傷の癒えるを見せつけられて、己が罪深さを自覚した。
「それでも、私は彼女と言葉を交わそう。……それが新たな傷をつくろうとも」
 悲劇も喜劇も受け入れて、それでも人の世は面白いと、そう言って彼女は笑うから。
「それこそが、人の営みだ」
 口の端を持ち上げ、宣言する。
 もう、逃げない。
 例え己が傷つくことになろうとも、彼女を傷つけることになろうとも、それでも花に手を伸ばすと、そう決めたのだから。
……ハハッ」
 鍾離は、笑った。可笑しそうに、楽しそうに、ただ、笑った。
 そして静かに杯を置く。
「──同感だ」
 見上げてくる瞳は、どこまでも穏やかだった。
 どうやら初めて意見が一致したらしい。大変に不快なことではあるが。
……時間を取らせた。無駄と言ったことは、撤回しよう」
 モラを取り出し、円卓に置く。おそらくは、少し余ると思われる。
「ここは俺の奢りだぞ」
「貴殿に借りを作る気はない」
 鍾離は苦笑する。しかし、ここは譲れない。
「それに、奢り、という表現は相応しくないと思われる。……私は、貴殿の血肉を返還しただけだ」
 ──刹那、揺らぐ虚空に目を向ける。“彼”の気配が揺らぐのは、これで三度目か。
「そう憂せずとも、なにもしない。……今はまだ、その時ではない」
 ヌヴィレットの言葉を追うように、鍾離も“彼”に向かって頷いた。それにやっと納得したらしく、気配は再び落ち着きを取り戻す。
 今思えば、鍾離が杯を叩き置いたのは、“彼”への制止の意味もあったのだろう。
 言葉を交わさずとも、通じ合う仲。いつか彼女とも、そのようになれればいいのだが。
 いつかの未来を期待しながら、ヌヴィレットは再度鍾離を見遣る。
 ……この程度では、崩れないか。
 正体を指摘してやっても、肝心の彼はまるで動じていない。
 “彼”は、昨日フリーナを救出した場にもいた。それは間違いなく鍾離が指示をしたからで、その意味と意図が分からないほど、愚鈍にはなれなかった。
 ……やはり、

 この男は、嫌いだ。

 ヌヴィレットは小さく息をつき、倒れたままの杯をそっと起こす。
 随分と高い水になったものである。
「──では、失礼する」
 月明かりと一輪の花、そして貴金を統べる神を残し、ヌヴィレットは静かに背を向けた。