ほしのまなつ
2024-09-25 04:29:53
17554文字
Public :一郎×3世短編
 

🥞🎩3️⃣/初恋のあくま

やわらかくて、やさしい
うつくしい魔法を知っている。

※12話後のふたり
※いちさん結婚アンソロ寄稿、完全再録 https://x.com/13marriage_antl





この世でいちばん
うつくしい魔法を
しっている。





……なあ。それ、本当に君だけで行くのか?」
ぱたぱたとエプロンをほどく手が、いっしゅん止まる。
本に没頭していたはずの一郎が、急に声をかけてきて驚いたのだろう。しかも不機嫌を隠そうともしない声だ。気づかないわけがない。目のまえで、腰の上にあったちょうちょ結びが、ひらりと揺れる。
「うん。きょうは依頼人の話をきくだけ! 調査になったら、悪魔くんもいっしょに……
「初っ端から依頼を断られたら困るから、決まるまで口を出すなってことか?」
「ちが……わない、けど、得意なことと、不得意なことがあるだろ? おれはこういうの慣れてるし」
わかっている。一郎の言動は『感じが悪い』のだ。
これまで会った依頼人とのやりとりでもそれは充分に感じられたし、今までだってこの小さな相棒がいなければ、仕事にならなかった案件がいくつあるんだろう。
「パパの差し入れのクッキー、先に食べてていいから」
ソファのうえで、本から視線を外さない一郎に気を悪くした様子もなく、丁寧な仕草できちんとエプロンが畳まれていく。ひとつひとつの所作に、育ちの良さと生来の生真面目さが滲んでいた。一郎が持っていない、この悪魔の美点のひとつだ。
一郎が無言でいても慣れているのか、
「な? 帰ったら禁止してたココアいれてやるからさ、マシュマロいりだぞ?」などと、他愛もない約束なんかしてきて。
ココアを禁止されたのは、大事な書類のうえにブチまけそうになったからだ。未遂で終わったのは、とっさの魔力ではない。この小さな悪魔がひとよりも半分だけすぐれている反射神経と、ここの経理という強い使命感のおかげだ。
『しばらくココア禁止!』と宣言され顔色をなくした一郎に、メフィストはいつもよりも丁寧にミルクティーをいれていた。この悪魔に甘やかされている、と自分でも思う。

「その代わり、あとで買い出しに付き合ってよ。ホットケーキの粉、終わっちゃいそうだし悪魔くんも何かいるもの――
目で文字を追うことをやめ、身支度を整えている悪魔をじっと見上げる。
まぶしい黄色のエプロンを外した、黒づくめの正装。
シルクハットはまだ乗せていない、きれいに撫でつけられた黒髪。ぴょこんとはみ出した前髪がふよふよと揺れている。
「あくまくん?」
いまさら留守番させることが気になったのか「おれ、すぐ帰ってくるよ?」なんて、的外れなことを言ってくる。
支度途中の小柄なからだが、一郎が寝そべっていたソファに、ちょこんと収まった。こうして一郎を置いていくことは今までもあったのだろうか。想像しようとして、うまくいかない。
軋むような痛みが、こめかみにズキリと残るだけだ。
……メフィスト、」
「っ」
支度の途中だったメフィストのジャケットは肩にかけられただけだ。落っこちそうになっている上着に伸びてしまった手は、無意識だった。真夜中の色をしたジャケットは、不思議とこの悪魔によく馴染んでいた。
一郎に触れられそうになったとたん、細い肩がびくっとかすかに強張る。ぎゅっと握られた小さな手も。まるっこい瞳が、一郎をうつして固まっていた。
……チョコバーも、もうない」
「へ? ああっ! あんなにあったのに! 一気に食うなって言ってるだろー!」
触れようとしたジャケットは、自然な仕草で戻されてしまう。
ぽこぽこと叱る声は、いつも通りなのだろう。
これが普通。これがふたりの正しい距離感。なのに強張っていた肩がゆるむのを、いまの一郎は見逃してやれない。
「メフィスト、行くまえにお願いがある」
「?? おねがい?」
……また、アレがしたい」
――意味、分かるよな? って。
たった一言だ。
一郎が欲を滲ませて吐き出した声に、ほそい首が、ぶわりと色づく。赤くなった耳のふちを行儀悪く舐めてしまいたい衝動にかられて、カツンと床に落ちた帽子になんとか理性を繋ぎとめられた。うつむくうなじも可愛い色になってしまっている。
「えっと……帰ってからじゃ……だめ?」
「わかった」
こんな風に一郎からねだるのは、初めてではない。
なのに、いつもいつもこの悪魔は――メフィストは、恥ずかしくてたまらない、みたいな顔をするのだ。『誘惑の悪魔』などという大層な名を持っているくせに。
……いや、じゅうぶん誘惑しているか)
特別ですみたいな顔で、態度で……一郎を惑わしている。
「っ、あ」
くちゅり……
華奢な手首を掴むと、その内側に乱暴に口付けた。手袋は、まだつけていない。そのまま無抵抗なのをいいことに、やわい肌を舐めて、ぢゅっと吸い付いてやる。
そこまで強く吸ったワケではないから、跡にはなっていない。時間が許せば確実に、所有の赤い跡をつけていた。
「おれ、もう行くから!」
仕上げに、べろっと無遠慮に舐め上げると、一郎のゆるめた手から、ばっ! っと悪戯された手首を庇って逃げたりする。
今更だ。手首に跡をつけることは叶わなかったが、白い頬はさっきよりも真っ赤だ。林檎みたいに熟れたそれは、まさに禁断の果実というやつだ。
――いま一郎は、
手を出してはいけない子に、悪さをしている。
あわてて出かけるメフィストを目だけで見送ってやれば、姿が見えなくなる寸前、一郎に向かって小さく手を振ったりする。
白い手袋にかくれてしまった手首に、さっきまで悪戯されていたくせに。今日ここに戻ってくるまで……あの初心な悪魔は、どれだけ今のことを思いだすんだろう。そばにいない時間すら、一郎のものだ。そう思うだけで堪らない気持ちになる。
困惑する子をとじ込めて、一日中すきにしてしまいたい。
――ああ、)
(くそ……っ)
この衝動が、どこから湧きあがるのか。
恋と呼ぶには凶暴で、愛と呼ぶにはやさしくない。
メフィストは知っているのだろうか。
知っていて、一郎のモノだったのだろうか。
(いきが、くるしい)
やわらかな朝の陽射しがじわりと差し込むエントランス。
いまはまだ、がらんとしている台所。
くすんだ色のソファーや雑多な置物たち。

――千年王国研究所。
ここは、じぶんの居場所だ。

目を覚ました一郎を見て、ほっと目許をゆるめていた義父、その第一使徒。見えない学校に訪れる悪魔たち。ここの家主とその娘。連れているねこ。目覚めたばかりのときが嘘のように、今では綺麗に記憶にある。軋む身体もようやくこの生活に慣れ、日常はじわじわと戻りつつあった。
たったひとつを、のぞいて。
「メフィスト……
メフィスト3世。一郎のちいさな悪魔。
あの子の記憶だけが、いまだ抜け落ちている。



▽ ▽ ▽


――あの日。
目覚めて最初に目にしたのは、馴染みのある高い天井だった。
それから一郎を覗き込んで見開かれた、まるっこいひとみ。息をのむ気配。透明なひとみが一郎をうつして、ゆれていた。
――なん、だ?)
どくんっと鼓動が跳ねて、落ちつかない気持ちになった。
この感情がなんなのか、いまなら分かる。
「あくま、くん……?」
かすれた声。いまにも零れ落ちてしまいそうな透明な滴が、赤くなった目尻に、かろうじてとどまっている。
…………
思わずあかい目許に手を伸ばせば、素直に一郎のかさついた手のひらに頬をあずけたりする。
「どっか、痛いとこない?」
こぼれた声の先が、ほそく、ふるえていた。
不安げな目で一郎のことを見上げてくるソレに、まじまじと見入ってしまう。自分の知っている悪魔にソレはよく似ていた。
義父の第一使徒、メフィストフェレスだ。
眷属か、それに近い悪魔なのかもしれない。
ぎゅっと眉がよってしまったのを見て、あわてて首を振れば「ほんとに?」「どこも?」と、疑うように首を傾げて、慎重に顔を覗き込まれた。細い首だ。華奢といって良いだろう。
確かに身体はひどく重いが、それ以外に不調は見当たらず、自分に触ってこようとするソレにもう一度首を振る。
ずいぶんと人懐っこい悪魔だ。

――あくまくん、だ」
ぺたぺた、ぺた。
白い指先が、恐る恐るといった様子で、一郎のおでこや頬に触れてくる。さっきは子どもみたいにしがみついてきたクセに。
(ちいさい、な……
一郎にふれる指も、なにもかも。
それにしたって無防備なほど人懐っこい。確かにあの一族は白悪魔の中でも人間好きだ。まだぼんやりしてる頭で、悪いが引きはがしてしまおうと、その腕を掴んだところで触れた身体の細さに、手のひらがじわっと汗ばんだ。
「そう、だ……っ、おじさん呼んでくるね!」
ごめん。びっくりしちゃって。そっちが先だった、って。
一郎の腕から跳ねるように逃げた悪魔は『へへ』なんて笑いながら、一郎を残して白いベッドから降りようとする。
……?」
――どうしたの? あくまくん? って。
ぐっと肩を引き寄せたら、悪魔は簡単に腕の中に納まってしまった。ちいさい。やわらかい。あったかい。離したくない。
『やっぱ、どっかいたい?』なんて不安そうな声を出すから、ただただ首をふる。そんな一郎に腕の中の悪魔は『もお、どうしたんだよ』なんて目許をゆるめるだけ。ぎゅうぎゅうと腕の力を強めてしまっても『あくまくん、くるしい』ってやわい声をだす。嫌がるそぶりはない。
こぼれるあどけない声に、トクっと鼓動がひとつ跳ねた。
(なんで、だ……
なんでこんなに、一郎のすきにされてるんだろう。
なんでこんなに、かわいい顔でわらうんだろう。
――ちがう、)
いまはなんじ、だ?
今さらだ。見えない学校なのは、分かる。自分が育ち、出て行った場所だ。どうしてここにいるんだろう。いまはいつなんだろうか。言いようのない苛立ちと、わけのわからない感情のまま、目のまえの悪魔に夢中になっている。ベッドに寝かされているということは、自分に何かが起こったのだ。
――埋れ木一郎。
一万年にひとりの天才。
ソロモンの笛に選ばれた、
ソロモンの笛を吹けない、悪魔くん。
義父からもらった名前も、己の役割もしっかり覚えている。
望まれるまま千年王国研究所を立ち上げ、細々と依頼を受けながら何とか家賃を収めていた。ザーザーと粗悪なフィルムで撮った映画のように掠れているが、確かにそれらの記憶はある。ところどころは曖昧だったが、一郎はそれでも冷静だった。
「あくまくん?」
それは、不思議な感覚だった。
こんなにも離しがたい。こんなにも離したくないのに。
腕の中で一郎を心配そうに見上げてくる悪魔のことが……分からない。分からないのに、この悪魔には触れても大丈夫だという確信があった。
「やっぱ、どっか痛い?」
それともなんか欲しい?
――まだ、おじさんのことは呼びたくない?
…………
やわらかく聞こえてくるすべてに、一郎は首をふる。
そっと頬にふれる細いゆび。こんなにも離しがたいのに。
一郎は『これ』を知らない。
――……なまえ」
「なまえ?」
「きみの名前だ」
――僕は、それが知りたい。
一郎を映しこんだ瞳が、わずかにゆれる。
いっしゅんだけだ。
目の前の悪魔は、一郎の吐きだした一言ですべてを察したようで、まるでナイショ話をするように一郎に教えてくれたのだ。

「メフィストフェレス3世。悪魔くんの相棒だよ」
――従兄弟で、相棒。
真吾伯父さんの第一使徒メフィスト2世の息子。悪魔くんと、千年王国研究所でいっしょに仕事してるんだよ、って。
「人間界でちょっと大変なことがあってさ、悪魔くんはこの半年ずっと寝てたんだ。こまった事があったら、おれでも伯父さんでも……
「メフィスト、3世?」
……えっと……悪魔くんは、おれのこと『メフィスト』って」
「2世がいるのにか?」
目の前のひとみが、おおきく見開かれる。
口にしてしまったことを、一郎は後悔した。『メフィスト』と呼ばれる上級悪魔がどれだけ重要な位置にいるのか。
小さな頃から義父を見てきた一郎は、知っている。この子の悪魔くんにとって、メフィストとは『メフィスト3世』を指すのだ。それがどれだけ大事で……いま、どれだけ、この子を傷つけたのか。
「メフィスト」
「っ」
名を呼んでしまえば、それはすとん……と、胸に収まった。
ちいさなメフィストは、いとけない頬と耳を真っ赤にして、何かをこらえるように目を開けたままでいる。
とくっと心臓が、鼓動をはねあげた。
(そうか――
ぼくは、
ぼくのメフィストを手に入れたのか。
返事のかわりに、ぼくのメフィストはまっすぐに一郎を見上げてくる。やわい頬に手を伸ばしても拒まれることはなかった。
さっきまでの気まずさを紛らわすように『悪魔くん甘えっこになっちゃった?』なんてくちびるの端をあげて。うれしそうにくしゃっと笑う様子に、胸が苦しかった。
どうしてこの子のことが、分からないんだろう。
失っている記憶がもどかしい。
わずかなやり取りでも十分に、この子が『悪魔くん』を甘やかしていたことが分かる。この悪魔を『メフィスト』と呼んで、こんな風に甘やかされていた埋れ木一郎が、ずるい。
――ずるい?)
(ああ、そうか……
一郎は、冷静だったんじゃない。
失っている記憶に不安がないと言ったら嘘になる。これからどうなるのかだって、少しも分からない。だけど――
「悪魔くん、落ちついてきた? おれ、いいかげん伯父さん呼んでくるね?」
だいじょうぶだよ。おじさんも、パパもママもいる。
見えない学校にやって来た悪魔たちも。
さなえさんもみおちゃんも。
みんなまってた。みんないるよ、って。
……きみも?」
「???」
離れてしまいそうな手を、思わず掴んでしまっていた。
従兄弟で、相棒。ぼくが『メフィスト』と呼ぶ、ぼくの悪魔。
「きみもか? メフィスト」
もう一度なまえを呼んだだけ、なのに。
ぱちりと瞬く睫毛が、うっすら差し込む光の先で、キラキラしてる。それがあんまりにも綺麗で。やわらかな光りの中で、ふるっと震えた瞼に見惚れながら、あつくなってる目許を親指でなぞった。透明な瞳がみるみるとゆらいで……泣きだしてしまうかと思った。
「っおれも、」
おれもずっとまってた。
おれ、ずっとまってたんだよ。
ちいさな悪魔がひくっと喉をふるわせて、必死に腕をのばしてくる。誰かを泣かせるなんて、はじめてだ。鼓動がうるさい。
一郎の指先もふるえている。余裕なんて、とっくにない。
(ああ、)
ぼくのために透明な涙をこぼす子が、この腕の中にいる。
ぼくだけの、だいじなあくまだ。
だから、こんなに胸がくるしいんだ、って。子どもみたいなことを考えている。そうでなければ説明がつかない。
「あくまくん、おかえり……っ」
すごくきれいなものが、この腕の中にある。
抜け落ちた記憶があっても、なんでも。

――ああ、そうか)

だからぼくは、埋れ木一郎は、
ひとつも不安じゃなかったんだ。



▽ ▽ ▽



「ハァ~~あの時は、どうなることかと思ったでやんすよ」
一郎の心臓が、奪われた。
それは一瞬だったという。魔界で起こった最大の危機を脱し、物質界に戻った直後だった。メフィストのことだけじゃない。一郎には、その前後の記憶が欠落している。
「もうねぇ~魔界でやりあった時も、そりゃ大変で、大変で」
きっかけは見えない学校の襲撃からはじまった。一郎たちは奇襲をかけられ、真吾を人質に取られた最悪の状態で……一郎は、暴走したメフィストを殺めた――らしい。
そのときの記憶がごっそりと抜け落ちている。
だが、悪夢のような出来事があったのだ、実際に。

……これ、あっしがしゃべったって本当に誰にも」
「言わない。約束は守る。おまえの欲しがっていた呪具……、『遠視の鏡』と引き換えだと言っただろ」
「そう、それでやんす! 亜黒王が、お上さんとケンカして、どさくさで無くなった、あの鏡!」
――あこくおう……亜黒王か。八世紀、東北地帯を治めていた鬼だな。いや、後から鬼になったのか? 仲間の裏切りで、最後は朝廷に首を切られ……どうした? こうもり猫」
「いやぁ相変わらず、そういうことはしっかり覚えてんだなぁ」
両手で大福を頬張りながら、しみじみと一郎に視線を向ける。
メフィストは不在だったが、抜け目のないこの悪魔はもらいものの塩大福を自分で見つけて、何もしない一郎の代りに自分で自分をもてなしていた。
――メフィストのことは覚えてないのに? か」
「へ? イヤミじゃないですって! 一緒にいたら嫌でも思いだしますよ、3世坊ちゃんのこと」
確証のない言葉だが嫌な感じはしない。簡単にモノに釣られてくれるこの悪魔が、実は情にもろいことは義父の話で知っている。何よりも、あの人懐っこい百目と同じくらい一郎を気にかけ、様子を見に来ているのが証拠だ。


――ここで、僕は心臓を奪われたのか……
あの子の、目のまえで。

先に種を明かせば、一郎の……当代『悪魔くん』の身体には、特異な術式が施されている。悪魔くんの血肉を欲しがる悪魔など、魔界だろうと物質界だろうと掃いて捨てるほどいる。
先代と違い、十二使徒もいない。ソロモンの笛も吹けない。
不完全な悪魔くんを物質界に送りだすとき、そのまじないは保険としてかけられていた。
『巻き戻し』と呼ばれる、禁忌魔法。
肉体をのぞむ時間の状態まで巻き戻す、禁じ手だ。その禁忌が許されたのは、あまりにも貴重な対価があったからだ。
――先代のメシアである、埋れ木真吾の『時間』
真吾は周囲に向けて、魔界に在住しているため歳をほぼ取らないなどと公言しているが、少なからず物質界に干渉している以上、こんなにも時の進行が遅れることは、本来ない。
――むしろ、止まっているといっても言い過ぎでない肉体。
じわり、じわりとストックされていた、元メシアの『時間』
それがこの禁忌と呼ばれる時間魔法の対価だ。
この地上で、はじめて使われた禁忌魔法。
最終手段で、さいごの希望だった。
術式自体は正しく発動したが、一郎の肉体は巻き戻しのあと半年もの間、まったく目覚めなかったという。
心臓を奪われていない状態まで巻き戻された肉体には、なんの問題もなかった。時間の歪みに疲弊した身体は、ただただ静かに眠るだけ。いつ覚醒するかは、このとき誰にも分からなかった。

「ほんと~に、3世坊ちゃんの方も、大変だったんでやんすよ」
どんなに敬愛する伯父から「もう大丈夫だよ」と言われても。
どんなに信頼してる父から「いい加減、お前も寝なさい」と言われても。息づく呼吸を、確かな鼓動を、見失わないように。
メフィストは魔界と人間界をなんども、なんども往復しては、目覚めることのない一郎のもとに通い続けたという。
不在が続いた千年王国研究所は、一郎が直前まで持ち込んでいた古書や文献であふれていたが、それらが埃まみれになっていることはなかった。飴色の床も、城と呼ぶ台所も、本まみれの机も。まえと変わらぬまま。いつ一郎が戻ってもいいように手入れされていたのだ、ずっと。

……わかった。教えてくれて、ありがとう」
「へ? え、いや、あの鏡と交換だし、あっしは別に」
それでも、真実を告げないこともできたはずだ。この悪魔は一郎が知っていた方がいいと思ったのだろう。
――メフィストのためにも、一郎のためにも。
思いだすまでそっとした方がいいという保護者たちの気持ちも分かる。

ぜんぶ正解じゃない。
だけど、ぜんぶ間違いでもない。
少なくとも一郎は、知っていたかった。

あのちいさな悪魔が惜しげもなくこぼした、
なみだの理由を。



▽ ▽ ▽



一郎がメフィストにはじめて手を出したきっかけは、些細なものだった。――子どもじみた、嫉妬からだ。
見えない学校で覚醒したあと、メフィスト本人はもちろん、彼の父親や、真吾のサポートもあり一郎は以前と変わらぬ生活に戻りつつあった。……あの日までは。
思えば、戻ってから一か月もたっていない頃だ。

「おまえ、僕には寝ろ寝ろ言うくせに、その顔はなんだ」
「えっ」
メフィストがこもっていたのは、今や作業部屋になっているロフトだった。うっすらと青白いクマが透ける目許に、盛大に眉をしかめて、毛布を投げ込んでやったのだ。
書類作業や、報告書類。
事務もこなしているメフィストは「ため込んじゃったから、今夜泊まらせてもらうけど、悪魔くんは先に寝てて」などと、この後に及んで一郎の心配をしていた。
「?? おにぎ、り? あくまくん、作ったの?」
「そうだ。ぼくが作った。食べろ」
「ふは……っ、あくまくんに、食べろって言われてる、おれ」
「食べろ、メフィスト」
まるい皿のうえに、いびつな形の三角がぎゅうぎゅうと並んでる。その中のひとつをゆるんだ口元に、ずいっと押し付けてやる。メフィストはいっしゅん戸惑っていたが、素直に口をあけてくれた。
『台所はメフィストの城』
これは以前のふたりの決まりごとだったらしい。
いまはメフィストにも思うところがあるらしく、いっしょの時に少しずつ解禁している。

……っこれ、ウィンナー、入ってる?」
「2世に聞いた。小さな頃、君にねだられたことがあるヤツだから、間違いないって」
「うん。すき、すきなやつ」
んくっと飲み込むと、もっとって言うみたいに、くちびるが開く。口のはしについてしまった米粒をおしこんでも、小さな舌は嫌がらない。メフィストにしては行儀の悪い食べ方だ。
……うまいのか?」
「ん、」
一郎がホットケーキを夢中で食べているとき。
それから、おかわりをねだるとき。
『しょうがないなぁ』と言いながらメフィストは、ちょっとだけ得意げな顔をする。何がそんなにうれしいのか、その時はちっとも分からなかった。なるほど、これは楽しい。
「悪魔くんのラーメンも、おれ好きだよ」
「ラーメン?」
ぼくが?
言ってしまってから気づいた。それは自分にない記憶だ。
――自分じゃない一郎だ。
じっとメフィストを見れば『悪魔くん。おれと約束した通り、みんなに作ってあげたんだよ』と本当にうれしそうにふにゃりと目許がゆるむ。やさしい記憶なんだろう。
(ああ、まただ……
メフィストは、覚えていない一郎に落胆したり、まして責めたりしない。時々こんな風に想い出をこぼしても、それがメフィストにとって大切な記憶だったことが感じられた。
いまだって、そうだ。一郎とどんな思い出があったんだろう。
まろい頬を、そんな可愛い色にして。
――ずるい)
ずるい。
あのベッドのうえで沸き上がった感情が、一郎を苛む。
どんな可愛い顔をしていたんだろう。
どんな風にぼくを怒って、どんな風に笑ってくれたんだろう。
……どんな風に、この子を手に入れたんだろう。
(ちっちゃい、なぁ……
ぺろりと、おにぎりいっこ平らげてしまったメフィストは、机にあったウェットティッシュで器用に指をぬぐっていた。
残りのおにぎりも『あくまくん、ありがと』と、書類まみれの机のはじっこに丁寧に置かれる。まだ仕事を終わらせる気はないらしい。ひとのことは言えたものじゃないが、メフィストだってけっこう頑固だ。
「もしかして、ねむれないの?」
ちがう。きみが心配なんだ。それをうまく声に出来ない。
目のしたの薄い皮膚に滲むクマ。忙しいのも本当だけれど、一郎が原因でもあるのだろう。そこを撫でてみたい。手を握りたい。ちいさな身体を抱きしめたい。感情が抑えられない。
――……
「あくまくん?」
無防備に傾けられた、白い首。
おおきく見開いた瞳が一郎を映しこんで固まってる。抵抗はない。持ちこまれた毛布のうえに、押し倒されているのに、だ。
「メフィスト……っ」
――なぜ、嫌がらない?
なぜそんな、可愛い顔をしてるんだ?
見上げてくる身体を抱き込もうとして、妙に緊張した。
あんなに触りたいと思っていたくせに。
その肌に触れて、ぎゅっと目をつむって緊張してる子を見てるだけで、胸がいっぱいになる。
「いっ、いやじゃ、ない、……から」
まるい瞳を縁取るまつげが、小さくふるえてる。
かわいい。かわいい。
ぼくの悪魔が、眩暈がするほど、かわいい。
「いやじゃ、ない?」
……うん」
あくまくん、あのね。
びっくりしちゃうかもだけど、おれね……って。
メフィストが可愛い声で、かおで、必死に何かを伝えようとする。一郎はメフィストの口から、それを聞きたくなかった。
――きみ、僕のものだったんだな」
「え……?」
見えない学校で初めて会った時から、おかしいと思っていた。
でなきゃあんな顔しないよな、って。
そんなところまで小さな耳のふちに吹きこむ。

「メフィスト、」
――僕のものって、確かめていいか?



▽ ▽ ▽



「さわる、ぞ」
「っ」
ロフトに持ちこんだ毛布にメフィストを隠すようにくるんで、その中に腕をつっこんだ。作業に没頭するまえシャワーをあびたらしいメフィストは、家で着ているグレーのスウェットに着がえている。
このまま寝落ちしてもいい、いつもよりあどけない格好だ。おかげで無遠慮な一郎の手の侵入を、簡単にゆるしてしまっている。スウェットの中に這入り込んだ手で、うすい腹のうえをなでまわし、やわい肌を性急にまさぐる。
つんっと勃ってしまっているぴんくの乳首をつまんだら、ひくっと腰が跳ねた。むきだしのつま先がぎゅうっと丸まってしまう。かわいい。ここが気持ちいいのだ。
そのままコリコリ弄りまわすと首をふって「あくまくん」とちいさく名前がよばれた。悪さをしている一郎をひっしに呼ぶ、かすれた声。ぴくぴくふるえてる、ちいさなからだ。
ちいさな一郎のメフィスト。
……かわいい、な……っ」
ほっぺがまっかだ。かわいい。
ここ。すきなんだな? かわいい。
メフィスト、きみがかわいい。
「ん、ぅ」
考えていること全部、口からぼろぼろ出てしまう。
余裕なんてものとっくにない。可哀想なくらいメフィストの身体は緊張していた。覚醒後、見えない学校から戻った一郎が、この子に手を出すことはなかった。怯えるのはあたり前だ。
目の前にいるのは、この子の肌を知らない男だ。
それでも行為をやめようとは思わなかった。
一郎だって――いまの一郎だって、この子が欲しい。ずるい。
いったいどんなやり方で、どんな言葉で、このかわいい悪魔を可愛がっていたのだろう。

……っん……
うつむく首をなでて、やわらかな唇にふれたら、すごく可愛い声がこぼれた。夢中だった。食むようになんども、なんどもくちびるを舐めたり、うすく開いた咥内に、舌をねじ込んで口のなかを舐めまわしたり。
『あくまくん、あくまくん』っていつもより舌ったらずな声がこぼれてくる。かわいい。かわいい、かわいい……
それだけで頭がいっぱいになった。
「ぁ、ぅあくま、く……っ」
「っ」
はくはくと、濡れたくちびるで息をする悪魔の子が、じっと一郎を見ている。こくっと小さく鳴ったのどが、これでもかと可愛い。欲しい。――この悪魔が、欲しい。
あたまの中が子どもじみた独占欲であふれる。
抜け落ちている記憶が、触れば触るほどに惜しくなった。
くるしかった。ぜんぶかわいい。ぜんぶほしい。
手を出しちゃいけない子に手を出してる。愛おしそうに名を呼ばれる理由も、その記憶も持ってない一郎が。
(でも、ほしい)
(ぼくだって、この子が――
こんなにまっすぐな瞳で、声で。
かわいい顔もからだもすべて差し出されて。
抗えるはずがない。
やわらかい。あつい。かわいい。まともに思考できない。
「メフィスト……っ」
「ぅっ」
毛布のなか。ゆるんだ膝を手のひらでつかむ。簡単につかめてしまう小ささに、ぐっと喉が鳴った。メフィストはわずかに身をよじっただけ。いちばん恥ずかしくて、かわいい場所を、一郎に暴かれようとしているのに。ぎゅっとつむってしまった目尻に口づけ、衝動のまま内腿に手がのびる。
その奥を開こうとした――瞬間だ。

――…………

メフィストの放置されたスマホが、机上でけたたましい着信を告げている。やたらと甲高い警戒音だ。一郎も知っている。
この着信音は、あの子の父親のものだ。このまま無視をしても、強行突破されることは目に見えていた。

……きみのパパからだな」
「う、ん……おれ、きょう泊まるってちゃんと言ったんだけど」
「心配なんだろ、きみがかわいいから。くそ……っ」
さっきから本音が駄々漏れてしまっている。
かすかに戻ってきた理性をかき集め、『君は寝てろ』と毛布の中にメフィストをとじ込めたのは、褒めてもらってもいいぐらいだ。抑えきれなかった舌打ちぐらいは、許されるだろう。

……用件はなんだ、メフィスト2世。息子は今夜帰らないと言っている」
『いや、一郎くんその言い方……まあいいや。仲良くやってるかな? と思って、ね?』
――お望みどおり、仲良くやっている」
『うん。そうみたいだねぇ』
――見透かされている。
愛息のスマホなのに、出たのは一郎だ。なのに、この大人は少しも驚いた様子がなかった。メフィストは、心配そうに一郎を見ていたが、眠気には勝てないようでいつもより大人しい。
堪えきれなかった手が熱をもった頬にのびる。
メフィストは嫌がらない。
とろとろと落ちそうな瞼が、やっぱり可愛かった。

『おーい、一郎くーん、きいてるー?』
……聞いている。きみの息子がかわいい」

きみがかわいい。
どうしたら、
きみを手に入れられるんだろう。