ほしのまなつ
2024-03-18 06:32:09
11197文字
Public :一郎×3世短編
 

🥞🎩3️⃣/バスルームのあくま

いちろうくん、いっしょにお風呂にはいる

◆誓いのバスルーム






「嫌な仕事だったな」
「うん」

一郎の声には、疲れが滲んでいた。
うつむくじぶんの顔にも疲労が浮かんでいるだろう。

今までだって千年王国研究所にやってくる依頼の中には、後味が悪いものなどいくらでもあった。
悪魔くんは……一郎は、普段、感情を乗せるような言い方をあまりしない。
その一郎が『嫌な』と言ったのは、下を向いたままのメフィストを思ってのことなのだろう。
これはふたりにとっていやな仕事だった――と。ひとりに、させないつもりなのだ。
不器用な相棒の、不器用ななぐさめだ。
明日からの生活のためにも顔をあげなければいけない。そう思うのに。

……メフィスト、」
「?」

仕事自体は成功した。
依頼者たちは酷く喜んで、報酬以外にも過分な交通費すら握らされた。
一時間以上かかるバス停までは、ありがたくタクシーを使わせてもらい、人を殆ど乗せていないバスの一番後ろに二人並んで座っている。
車内に差し込んでくる燃えるような夕やけの赤が、一郎のしろい頬をきれいなオレンジ色に染めていた。

「悪魔くん?」
――これは提案なんだが、」

ひそめた声に、メフィストは自然と顔をあげていた。
バスの中は、一番まえの席にお年寄りの夫婦が座っていて、乗り込む際、気の良さそうな運転手が足元を気遣っていた。
高校生らしい集団はさっき停車したバス停で降りたから、車内に残っているのはメフィストたちとこの夫婦の二組だけだ。
それなのに、ぼそぼそと話しかけてくる一郎に首をかしげてしまう。

「今日はいっしょに、風呂に入ろう」
「えっ」

なにを言いだすんだ。
なにを言われたんだ。

ぱちぱちと瞬きをくりかえし、一郎の顔をまじまじと見てしまう。困ったことに大真面目だ。
これでも随分とマシになった方だが、言葉足らずな相棒は、説明を省きすぎるきらいがある。
何か補足があるのかと、うごかない唇を見つめるが、ぐっと引き結ばれたまま……どうやらメフィストの返事を待っているらしい。

研究所の浴室は、ほぼシャワールームと言っていいほど狭い。
申しわけ程度に浴槽はあるが、二人で入るのは無理だ。メフィストがいくら小柄でもさすが無謀だった。
一郎の膝にでも乗らないと――……

(あ、れ……?)

もしかして、そういうことなのだろうか。
めずらしいどころじゃない。はじめてかもしれない。

「悪魔くん、もしかして」

――えっち、したい?

続けた言葉はさすがに誰にも聞かれたくなくて、こしょこしょと両手を一郎の耳にそえて、ナイショ話になった。
今度は一郎がまるい目をさらに見開くものだから、どうやらハズレだったようだ。

……君がしたいなら」
「違うならいい!」

じゃあなんでお風呂? と思ったが、一郎がマジメに誘ってくるのでメフィストも生真面目に『じゃあ、帰ったらすぐお湯ためないとな』などと返してしまった。
驚いたことに『それは僕がやる』とまで言ってのける。
『そんなにおれとお風呂はいりたいのかよ』と、思ったまま口から出てしまったのは仕方ない。
それにだって、素直に頷かれてしまった。

「クリスマスにもらった、入浴剤があっただろう。あれを使おう」

去年、自分たち家族やみおたちでクリスマス会をやった時のものだ。
プレゼント交換会で一郎は、可愛らしい入浴剤の詰め合わせを引き当ててしまっていた。
甘いものがいいだとか余計なひと言が出るかと思いきや、中身をしげしげと確認していたのを覚えている。







「あくまくん、準備できた?」
「ああ、二人で入るならこんなもんだろう」

研究所に着くなり、一郎は本当にせっせと風呂の支度にとりかかっていた。
せまいので言い出しっぺの一郎からシャワーをあびて、順番に浴槽に入ろう……と、提案してきたのも一郎だ。
降りる手前のバスの中でそう説明されている頃には、メフィストは眠気の方がつよくなってしまって「うん」「いいよ」「うん」と返事をするだけのイキモノになっていた。
一郎はバスから降りてもウトウトしているメフィストに、起きろだとかしっかりしろと言うこともなく、
かえりみちの最後まで、メフィストの手をただただ引いていた。

(いやな、しごとだった)

しかたがなかった。
アレは、あくまくんに手を下されてよかったのだ。
あのままで、いいはずがない。
いちばん苦しまない方法だった。

(いやな、しごと、だった――

一郎がお風呂の準備をしている間、起きていられるかの方が不安だったのに。
今回の依頼がどうしても頭のかたすみにへばりつく。

依頼の内容は単純なものだった。
その地域をまもっていたはずの土地神が暴走している。
子どもが被害に遭った。人間の世界から穏便に返して欲しい――消滅しても構わない。
子どもが絡んでいるせいか、依頼人である村長の語尾は荒いものだった。

『かみさまは、あっち!』

メフィストたちを案内をしたのは、ランドセルを背負った子どもだった。
土地神はとくに子どもを好み、裏山の頂上にある祠へ通わせるのは主に十歳以下の子どもらしい。
子どもをすでに巻き込んでいるのに? と思わず聞いてしまったが、だからあなた方を呼んだんでしょう? と言われてしまえばそれまでだ。

かみさまには、弥生の月にその地域でつくった手鞠を奉納し、山頂の祠まで子どもを寄こすことになっている。
現在の三月だ――弥生は『草木が生い茂る』月だと言われている。
その一か月のあいだ、四のつく日、子どもが大事にしているものといっしょに祠に参拝する手はずになっていた。

綺麗におれた折り紙のはな。
うれしかったプレゼントの包み。
友だちと交換したハンカチ。
一等賞のおもちゃのメダル。
はじめて買ってもらったおはじき。

なんでもいい。条件はその子どもにとって『大切』であれば。
その代わりに、かみさまはその年の農作物に加護を与えてくれるのだと。
かみさまが祠にいるようになって百年とすこし、水害や虫害に悩まされることはなかった。

『でもねぇ、農作物で生計を立てていたのはほんの五十年あまりでしょうか』

戦後、世の中の工業化がすすむ中、この地域も例外ではなかった。
残りの五十年は惰性だったとうんざりした顔で、代々村長をやっているという男は愚痴まじりの昔話を続ける。

『今年、鞠を届けた子どもの帰りがね、随分と遅かったんですよ。暗くなるぎりぎりに帰ってきた時は両親は真っ青になってました。
無事に帰ってきたと思われた子どもが、その晩高熱を出して――……それから目を覚まさんのです』

今日でとうとう五日目だ。
曽祖父の代から、祠のかみさまのことで何かあったら連絡をしろと言われていた拝み屋は、
子どもをみるなりポツンと『よう寝とるだけですわ』と言ったきり、そのままにしていろという。

『そういうわけには、いかんでしょう? ただでさえ最近の親らは村のしきたりが不満で……私が警察にツテがあったからいいものを――……

そうして。
この手の事件ならばここへ――、と警察関係者から研究所に依頼としてまわされたのが今回のあらましだ。

それは、青々とした竹林がみごとな山間にあった。
石畳の階段をのぼって、のぼって……見えたものは、えぐられた洞窟と。今にも崩れてしまいそうなちいさな祠だった。
案内をした子どもは、親にすぐに帰ってくるように言われているらしく、
ともだちとお揃いで買ったという、ねこの手のかたちをした消しゴムを『かみさまに、あげてね』とメフィストに預け、石の階段を下っていった。
ほんとうにこんなモノで、かみさまが現われるのだろうか。
不安になりつつも、消しゴムを祠の入り口に置き、じっと様子をうがかう。

てん、てん、
てん――

まっくろな祠のおくから、鞠の転がる音がする。
くろいかたまりが、ゆっくりゆっくりと今年奉納された新品の鞠を転がしながら、新たにじぶんに与えられた供物に近づいていく。
そうして、しばらく小さな消しゴムをしげしげと眺めていた。

――リ、リリ
――

たぶん、わらいごえだ。
鈴を転がすような音をくりかえしながら、黒い塊が子どもが持ってきた消しゴムにそおっと、そおっと触れている。

――リ、リリリ、リ

てんてんと無邪気に鞠を転がしながら、子どもから分けてもらった宝物を、ぎゅうっとそのからだに仕舞いこむ。
ふわりふわりと嬉しそうに。
それが動くたび、まわりの空気がわずかによどむのは、身体からこぼれる瘴気のせいだろう。
気配はあいまいで、輪郭がはっきりしない。力がゆらいでいる証拠だ。
さびしい祠周辺がそれを語っていた。信仰は力だ。
どれだけこのかみさまを信じているものが、ここにいるんだろう。

――リリリリリ……

いろのない透明なひとみだ。いまは、なにも映していない。
ふたりとも魔力が付与された布をかぶってはいたが、なぜか目が合った気がした。
そんなはずはない。伯父から授けられた認識疎外の布が、見破られることは今まで一度もなかった。

そう思ったのは、いっしゅんだ。

(リ、リリ――

かぜにゆれる竹林の音。
か細いなきごえ。

もえるような夕焼けが、
まろいほおを照らしてきらきらしてる。

(なん、だ――……

メフィストの、本来ツノがある場所がほのかに熱をもつ。
ぎゅっと思わず目をつぶると、まるでなぐさめるように、ふわりと空気がうごいた気がした。

その直後だ。

映像が、記憶が、
あたまのなかに流れ込んでくる。





着物姿のこどもだ。
道に迷って、帰りたいとないている。
ぼろぼろ、ぼろぼろ大粒の涙がひっきりなしに零れて、このまま、ひからびてしまいそうで心配だった。

かえりたい
かえりたい

ひくっとふるえる喉がかわいそうで、
ぼろぼろ零れるなみだを、止めてやりたかった。

願いを叶えるには対価が必要だった。

こまってこまって……子どもが手に持っていた、鞠にきづく。
それを指差すと、子どもはとまどいながらも、それを手渡してくれた。
すこし汚れていたが、手になじむほと大事なものだと分かってうれしかった。

うれしい。
きれいな鞠をもらった。
うれしい、うれしい、

これで、ねがいごとをかなえてあげらえる。
光る道筋を指さすと、子どもの濡れたひとみがキラキラと反射した。
――かえりみち? って。
はずむこえは、もう泣いてない。

からだの真ん中が、じんわりと温かい。
うれしい。
うれしい、うれしい、

(リ、リリリリ――

――それなのに。
翌朝、子どもはまた祠にやってきた。
昨日よりも、もっと泣いている。
どうしていいか分からず、きのう子どもからもらった鞠を見せるが涙がもっとあふれてしまう。

子どもは、かえってきてはいけなかったのだと。
雨がふらない。食べるものがない。
だから、かえってきちゃだめなのだと――

どうしよう、どうしよう。
泣いている。かわいそう。
今度こそ、ほんとうに干からびてしまうかもしれない。
かなしい。いやだ。

子どもをみれば、つやつやの赤いものが髪にくっついていた。
ここに送られるまえ、おにいちゃんがくれた、って。
指さすことに戸惑ったが、それよりも先に「ほしいの?」って。

いいよ。たすけてくれたもん。
ともだちだからいいよ、って。

涙のたまった目が、わずかに細められる。
まだ泣き顔だけど、わらってくれた。

じわぁ……っと。
やっぱりからだの中が、あったかくなる。

ともだち。
ともだち!

たからものをくれたから?
たすけて、あげたから?

ともだち、ってわらってくれた。うれしい。うれしい。
こんなにいっぱいうれしいこと、ない。

子どもが『あ』と小さな声をこぼして、うえを見ている。
ぽつ、ぽつ、ぽつ――子どもの目からじゃなくて、空から水滴がおちてきた。

『あめだ!』

子どもが……ともだちが、わらう。
これでおうちにかえっても、おこられないのだろうか。
もう泣かないですむのだろうか。

リ、リリリ――……





――ああ、)
(これが……はじまりだったのか)





流れ込んできたのは、洞窟にすんでいたソレの記憶だった。
メフィストのなかの半分の血がそうさせるのか、この神域の影響なのか分からない。

記憶の断片のなかでさいごに見たのは、最近、被害にあった子どもの姿だった。
……一郎とメフィストが、ここにくる起因となった子だ。

初めて見たらしい、うつくしい手作りの鞠に目を輝かせていた。ちいさな女の子だった。
ちょっとだけでいいから、鞠であそびたいと泣きべそをかいて……祠のソレは子どもが迷子にならないように、ただただ近くで見守っていた。
――じぶんの身体からこぼれる瘴気が、女の子に影響を与えるなんて思いもせずに――

(これが、真相だ……

すぐに一郎に目くばせをし、ふたりは祠からいったん離れることにしたのだ。
これで片付くと思っていた。祠の主に害意はない。
共存が望ましいと、ふたりの意見はめずらしく最初から一致していた。

『へぇ、アレの姿が見えたんですか? 頼もしいかぎりだ』

ところが、だ。
村長の口から出たのは、より強固な『祓ってくれ』の言葉だった。

(ふざけるな、)

ずっとずっと。アイツは……
小さなともだちのために、この地をまもってきたじゃないか。

――父親と探したきれいな石。
――小さくなってしまった手編みの帽子。
――ひとりで眠れるようになったタオル。

ささやかな宝物にこころを動かし、
なんど、雨を降らせたか。
なんど、害虫から作物をまもったか。
なんど、山で迷った子どもを助けたか。

小さないのちをつなぐことに、あんなに必死になっていた。
この地の誰よりも、どんなモノより――

『コレがいれば救われる。そう信じるのと同じくらい、それがいつ刃になるのか怯えるやつがいる。不変の祈りはない。だから僕らは――、』

一郎の言う通りだ。
だからおれたちは足掻かなくちゃいけない。

一郎と真っ先にしたのは、村長の一族が管理していた郷土資料館を漁ることだった。そこにはやはり、一番最初の子どもの記載があった。
だが、祠から帰ってからの追記がない。
不安になりつつも、名字をたどって聞き取りを一郎と進めて行った。
あの一郎が、ホットケーキもココアも口にせず。ふたりとも時間が惜しかった。

結局、消息はつかめないまま……いちど現物を見ておこうと鞠を手作りしている一家を訪ねた際、
『ああ、それウチのひいひいお祖母ちゃんやわ』
などと零され、拍子抜けしてしまったのだが。

『七日間ずうっと眠ったまんま、こりゃもうおえんわ……ってなっとったら、けろっと起きたらしいわ』

そこから、

『祠からはすぐに帰る』
『同じ子を使わない』
『かみさまと目を合わせない』

などの約束ごとが作られ、ずっと継続していたのだという。
かみさまと交流した子どもが無事なのは、カラカラとわらう目の前の鞠職人が証明している。

あの女の子も、いずれ目を覚ます。
この百年やってきたことを守れば、なんの危険もない。

そう村長に報告にし、このまま変わりなく共存にむけて、説得するつもりだった。
ちょうど会議前だったらしく、村の重要な役どころもそろっていた。
それが良かったのか、悪かったのか――

『だから知ってますよ、そんなこと』

なんども言うように、
もうここは農作物だけで暮らしてた古村じゃない。

『あれ、まだ続けてたんですか? 令和ですよ、いま』
『だいたい一週間も子どもが昏睡状態になるなんて、やってることは悪魔じゃないか』
『未成年を使って余計なことをさせて――苦情を処理するこっちの身にもなってくれ』
『そもそもね、頼んでないんだよ、こっちは』

なにを言ってるんだろう。
なにを考えているんだ。

自分勝手なことを口にする大人たちに吐き気がした。

あげくに、こちらの要望が通らないのなら拝み屋だろうが、祓魔師だろうが、他に依頼するだけだと吐き捨てられる。
『紹介があって依頼はしたんだ。警察のメンツは潰れないだろ』

なにを言ってんだって、怒鳴ってやりたかった。
祠は傷だらけだった。
アイツはおままごとみたいな供物をよろこんでいたが、対価としては不十分だ。
今のからだは、メフィストに流れてきた記憶よりもずっと小さくなっている。
傷だらけになって、身を削ってアイツはずっと。ずうっと――

「メフィスト、」

怒りにふるえるメフィストの名を、一郎が『悪魔くん』の声で呼ぶ。

もう、分かっていた。
もう、ておくれなのだ。

「ここはもう、アイツがいるべき場所じゃない」

わかってる。
だけどさ、だけど――

……あくまくん」

こんなかなしい結末、
あいつにふさわしくない。





その日の朝は、嫌になるほど晴天だった。
澄みわたる空のしたで、祠のまえに急いでつくってもらった、紙風船をころころと投げ込んでいく。
手鞠をつくっている職人一家と、その周辺のこどもたちみんなで出来る限りの数をつくった。

あか、あお、きいろ。
みどり、むらさき、しろ――

色とりどりの紙風船が、みるみると祠を敷き詰めていく。
まるで花畑だ。

リ、リリ
リリリリリリ……

弾けるような鳴き声が、空気をふるわせる。
瘴気にたえられる力と、じぶんの小さな手で紙風船をころがしていく。
この時ほど、メフィストはじぶんが『半分』で良かったと思った。

リリリ、と反響するこえは、さいごまで弾んだまま。
一郎が一晩かけて張り巡らせた魔方陣が、きらきらと祠の中をてらしていく。
まっくろなからだを、やわらかく光がつつみこみながら。

リリリリ
リリ……

しあわせな鳴き声は、さいごまで止まなかった。
いろとりどりの紙の花畑だけを、祠に残して――





「メフィスト……?」

いつまでシャワーを浴びてるんだと、腕をとられる。
はっとして一郎をみるが、湯船でくつろいだまま一郎はなにも言わなかった。
目を覚まそうと下げていたシャワーの温度が、おもったよりずっと冷たい。

水じゃないか、とか。
寝ぼけてるのか、とか。

一郎はなにも言ってこない。掴んだ手をだけは、離さないままだ。

「ほら、約束しただろ」
……うん」

うでを引かれるまま、一郎の脚のあいだにおさまってしまう。
湯船からのぞくメフィストの膝をみて、『ここ、ちょっとアザになってるな』と小さな声がこぼれてきた。
どこかでぶつけたようだ。
気づかなかった。ひっしだったのだ。ひっしで――

「走りまわってたもんな、きみ。僕も、三日間もホットケーキ抜きだった」
「あした、つくってやるよ」

いつものやりとりだ。
いつもの一郎のこえを聞きながら、じわじわまぶたが重たくなっていく。
まだ起きていたかった。まだ寝たくない。
まだ、きょうを終わらせたくない――

……
「すまない、おこしたか?」

一郎が身じろいだとたん、湯船がゆれる。
ぱちっと瞼を持ち上げたメフィストに、寝てていい。あとは僕がやるから、って。

こえはいつもといっしょなのに。
だからメフィストも、いつものように返したいのに。

「あくまくん、」
「なんだ」
「やっぱ、えっちしよ」
……だめだ」

なんで、って。
言おうとして、のどの奥で声がつまった。

「メフィスト」
「っ」

これ以上ないくらい密着したお風呂のなかで、
ぐって身体をいっしゅん離されて……向かい合わせにされてしまう。
おさまりが悪くて、けっきょくあくまくんの膝のうえだ。

いやだ。
この体勢は、やだ。

……みるなって……っ」

ぽたぽた、ぽたぽた。

せっかくがまんしていた雫が、つぎつぎとおっこちていく。
やだ、って。
顔をみられたくなくて、なんどもくびをふるのに。
骨ばった指がメフィストのほおにふれて、じっと泣き顔をのぞきこんでくる。
あくまくんはじぶんの悪魔を、ひとりで泣かせてくれない。

「きみを泣かせたこと、僕は忘れたくない」

ぜんぶおぼえてる。
きみが泣いたことも、きみを泣かせた選択も。

ぬれた目元に口づけながら、
『しょっぱいな……』なんて、あくまくんがようやく文句をこぼしてくる。
メフィストはすこしだけわらって、しょっぱい味のするまぶたをとじたのだった。





(いちろうくんの、いっしょう忘れない日)