地続きの潮騒

エガキナマキナ / 見上兄妹


02『潮騒は遠く』


……透夏。答えは出たの?」
「何の?」
 一歩分先を歩く透夏の髪が揺れるのをぼんやりと眺めながら、深雪は問いを投げかけた。
 振り返ることなく進む妹の姿。ずいぶん昔は自分が半歩前を歩いていたというのに、と回想して、それがいつのことだったか思い出せず、深雪は内心苦笑した。
 休日。街を行き交う人は多い。カフェの立ち並ぶ洒落た一本道を、前をゆく透夏はただずんずんと進んでいくので、深雪は行き先を聞く間もないままに、その後をついて歩くことしかできないでいる。
 この子の足取りはいつも迷いがないし、筆致にもそれが表れている。優柔不断な自負がある深雪には、妹のそんなところがいつだって眩しく見えていた。

 ――迷いのない筆致。色彩センス。言葉選び。
 数々の賞を取ってきたその妹から、「免許を返納した」と知らされたのはつい先週のことだ。
 仕事に明け暮れ長らく連絡を取っていなかったので、たまには様子でも聞こうかと近況を尋ねたところ、その数文字がおまけのように返ってきたのだ。あまりの驚きに休憩室でスマートフォンを落とし、同僚に心配されたのは記憶に新しい。
 何故。
 理由を聞くには、チャットアプリはあまりにも軽く、脆すぎる。指が何度かキーボードを往復してから、ようやく打ち込めたのは、本当に当たり障りのない、会う約束の申し出だった。

 それから一週間。色々なことを考えだ。本当に返納したのか、書類を確認しようともしてしまって、職権濫用にまで手を出そうとした自分を恥じたこともある。
 どうして。何故。才能に溢れていたというのに、どうして筆を捨てるような真似をした? 彼女の作品が不認可になったという話は入って来なかった、いや、不認可になるはずがない。正しいものだけ見て育ったのだから、生み出すものも正しいはずだ。
 それなら、どうして。なにが彼女の手を止めたのか。
 自問自答しても、ただの凡人の自分に、天才の思考などわかるはずもなかった。深雪は深夜、なにも映さないほどの暗い天井を眺め、自嘲した。
 いくら血を分けた兄妹といえど、いくら同じように育った二人といえど、才能という溝は深い。
 僕に芸術が遠すぎるように、僕に、透夏は遠すぎる。

 二人の間の一歩分が、その距離のすべてを物語っているような気がした。
 知らず、視線が落ちていたことに気づき、深雪は顔を上げる。やはり透夏は歩き続けていたが、それでも視線だけをこちらに寄越していた。
「お兄ちゃん。さっきの 答えって何の話?」
「ああ……。ずっと昔にね、海に写生に行ったことを覚えている?」
……。あ、思い出した あのときの絵のことなら 覚えているけど」
 つい、と透夏の視線が深雪から逸らされる。逸らされたのではなく、目的地に着いたのだと深雪が気づいたのは数拍遅れてからだった。
 辿り着いたのは狭い入り口をした小さなカフェだった。慣れたように扉を潜る透夏に続き、深雪もドアに提げられたベルを軽く鳴らしながら足を踏み入れる。木で統一された店内はどこか暖かく、通りに面した窓から射し込む明かりが綺麗だった。
 壁に掛けられているのは風景画だ。思わず目を引く、足を止めてしまうほどの美しさ。深雪は職業柄、あるいは育ち柄つい鑑賞してしまいそうになり、そうしてそれが、実の妹の作であることに気がついた。
 当の本人はすでに席についている。深雪は言葉を探す前に、慌てて同じ席についた。
「あれ、透夏の絵だろ?」
「うん。譲ってほしいって言われてね ここの紅茶は美味しいから、そのお礼に」
「そう……
「ぼくはフルーツサンドを食べるけど お兄ちゃんは?」
「いや、……僕はいいよ。その美味しい紅茶だけで」
「わかった」
 メニューを見ることすらなく、透夏は店員を呼んで注文を繰り返す。その様子をぼんやりと眺めている深雪の頭の中には、先程の風景画と、いつかの海の絵がぐるぐると浮かび上がっては混ざり、そしてやはり、疑問へと転化していった。
……透夏、免許を返納したのは本当かい」
「うん 嘘をつく理由もないだろ」
「絵は、もう描かない?」
…………
 透夏は返事をせずに黙り込んだ。免許がなければ描いてはいけない、それは法で定められている。しかし。微かに斜めに逸れる視線に、深雪は言い澱むような何かを感じて、言及することはなかった。
 代わり、ずっと燻っていた疑問だけ、言わずにはいられなかった。
「どうして?」
 透夏は何も言わない。
「どうして、透夏が、描かなくなるんだよ」
 自分の声が存外震えているので、深雪は、一度息を吸った。
 どうして。あんなに認められて、褒められて、求められる、美しく、壮大で、見るものを魅了する絵が描けるのに。透夏、君の絵は、確かに人を救うだろうに。僕の絵と違って。それなのに。

 かつて、どうして絵を描くのかと聞かれたことがある。
 幼い透夏の瞳は今と変わらず真っ直ぐで、その居心地の悪さを潮風と共に覚えている。その時僕はなんと答えたのだっけ。ろくな答えではなかったような気がする。
 今だって答えは見つからない。ただ描かなければならないという使命、強迫観念だけが、僕の手を動かしていたのだから。
 透夏なら何か答えを見つけてくれるのではないだろうか。情けないと自覚しつつも、深雪は、それを心のどこかで信じ、妬み、救いにしていたことも自負していた。

 どうして描かなくなったのか。
 どうして描くのか。
 その問いの答えは、いつまでも見つからないのだろうか。
……あの時の透夏の海の絵は、素晴らしかったよ」
 不意に声色の変わった深雪の言葉に、透夏はようやく、いつの話をしているのかを思い出した。遠い夏の日。
 兄の笑顔が曇ったように見えた日だ。
 そんなになってどうして描くのだろうと疑問に思って、けれどもその答えははぐらかされて、追究することもないまま二人は育ってしまった。
 透夏の返答を待たずに、深雪は続ける。
「答えは出たのかい。透夏。僕らは……君はどうして、絵を描くんだ」
 祈るような声だった。縋るような声だった。
 視線の先の深雪は、水の入ったコップを震える指で握りしめている。結露で指先が濡れている。微かに俯いた視線は合わない。
 透夏は息を吸った。
「わからない。ぼくは 描かなきゃなにもわからない。でも……だからこそ ぼくは 理解するために、生きるために 描いている」
 それは正しく本音だ。
 何も知らないのだということを、空っぽの絵から教えられた。それならば、もっと知れば、もっと深く潜れば、もっと毒に犯されれば、なにか新しいものが描けるのではないかと思った。

「美しい絵が描きたい。ぼくのすべてはそれだ」
 真っ直ぐな瞳は、昔と何一つ変わらない。
 そんな芸術家らしいことをなんの迷いもなく、後ろめたさもなく、本心から言ってのける妹のことが、深雪は一等大切であったし、同じくらい、――
 何か返事をと悩んでいたら、目の前に紅茶が二つ置かれた。透夏の視線は逸れて、二人の間には沈黙と、アールグレイの匂いが漂った。
 それきりだった。