桜霞
2024-10-11 02:20:20
71355文字
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魔法歳時記 3

オリジナル主人公:
淋(リン)
あだ名はベル。家名は無い。15歳。日本人だが、堀の深い顔立ちに灰がかった青い目の少女。
小さい頃から山の獣や人外に囲まれて育った。
人の心がちょっとよく分からない。





 年が明けた。
 ベルは今年は鍋でお煮しめをした。根菜類をありったけ放り込んだ鍋は得体の知れないものにカウントされなかったらしく、ハリー達も相伴に預かった。勿論スネイプにバレてベルは課題を増やされた。いつもの事というか、罰則で課題を増やされることを織り込み済みでやっているので、ベルは特に堪えた素振りもなかったし、実際思っていたより軽い罰だった。
 生徒達も徐々に戻ってきた。ベルはセドリックを迎えに行こうとしたが、それよりもセドリックの方がベルを見つける方が早かった。
「あ、おかえり、セドんむ、」
「ただいま!」
 名前を全部言い終わるより先、出会い頭にハグされて、こめかみに口付けられる。ひゅう、と誰かが口笛を吹いた。
「元気だった? 会いたかった」
「う、うん……
 かかか、と頬が熱くなる。にっこり笑うセドリックに、どうしようもなく茹だってしまう。
「セドリック、私にもベルとハグさせてよね!」
「あ、ごめん」
「ジニー!」
 飛び込んできた妹分をしっかり受け止めて、ベルはその場でくるりと回って見せた。きゃあ、とジニーが歓声を上げる。
「電車の中で話を聞いたわ。もう、どうして教えてくれなかったの!?」
「ご、ごめん、」
「いいわよ。でも、ベルからも同じ話聞けないと嫌よ!」
「今度な、今度……
「今じゃないと嫌!」
 わぁ、とベルが戸惑いながらジニーに引き摺られていく。セドリックはニヤニヤ笑う双子に挟まれながら、その後に続いた。周りは興味津々だったが、迂闊に踏み込むことができないような、見えない一線がそこにあった。皆ベルのことをよく知らないので、どう近付いたものか分からないのだ。
 ジニーの質問攻めを何とか交わして、大したオシャレ道具も持っていないことを説教され、今後はちゃんとジニーと恋バナすることを約束させられて、ベルはやっと解放された。
「とんでもねえ子だあの子は……
「君の力になりたかったんだよ」
 地下に向かう階段で、ぜえはあしているベルに、セドリックが忍び笑いを零しながら寄り添う。
「ね、ベル。こっち」
 手を引かれて、二人は廊下と階段の死角になるような壁の隅に引っ込んだ。セドリックの体に隠されて、向こうの方の生徒達の流れが一切見えなくなる。
「カードに書いたこと、考えてくれた?」
「、あ…………
 うん、とベルが顎を引いて頷く。繋がれた手をきゅ、と握られて、セドリックはほんの少し、ベルとの距離を詰めた。
「りん」
 ひく、と彼女の肩が跳ねる。
 そろそろとセドリックを見上げる彼女の目元は、ほんのり朱に染まっていた。
「いい?」
 カードには、淋のことを名前で呼びたいと書かれていた。淋は自分の名前が好きではなかったから少し迷ったが、セドリックに呼ばれると、なんだかなんでもいいような気になってくる。現金でちょろすぎて、そんな自分もちょっと嫌だが、……セドリックが嬉しそうにするなら、まあいいかなあ、なんて思ったりもして……
「いいよ。名前で呼んでも……
 セドリックが嬉しそうに笑みを深める。ベルもつられて頬を緩めた。
「淋も、僕のこと、好きに呼んでいいよ」
「うーん……
「さっきみたいに、セドでもいいし。日本風の名前でもいいよ」
「セドがいい」
「分かった」
 名付けなどできるかと、淋は慌ててあだ名の方を選んだ。セドリックは上機嫌で、何度もこめかみに口付けをくれる。ベルはセドリックのローブを掴むだけで精一杯だった。くすぐったくて逃げようとしても、背後が壁なのでセドリックに埋まるしかない。
「寮まで送るよ」
 耳元で囁かれる。ぶわりと熱が集まった。淋が何か答える前に手を引かれ、ふたりは人気の少ない廊下に戻った。
 長いような、短いような、寮までの道を進む。繋がれた手が暖かくて、少しだけ力を入れると、同じだけの力で返されるのが、胸の内側、深いところを暖かくしてくれる。

 手を繋いでくれるだけで、こんなにも嬉しい。

 スリザリンの寮の前でおやすみと言い合って、今度は淋がセドリックを見送った。姿と足音、気配までもが遠くに行ったのを確かめて、蛇のアーチをくぐる。
 何人かの視線が入口へ向けられたが、淋の姿や気配を捉えることはできなかった。淋はするりと階段を上がり、いつものように、自分のベッドへ潜り込んだ。
 こめかみは、まだ擽ったかった。



 授業が始まり、ベルは毛皮の半纏を手放せなくなっていた。朝一番、日の出前に家畜の世話をして、城をぐるりと一周する。ついでに禁じられた森に異常が無いか、空からざっと確認して、ハグリッドの小屋で朝食を食べる。一度着替えに戻り、そのまま教室へ。授業を受け、ランチを食べ、また授業。放課後はハグリッドの手伝いをしたり、課題に追われたり、魔法生物が人間を傷付けた時の判例を調べたりした。
 ひとつ変わったところがあるとすれば、セドリックとあまり尖塔で過ごさなくなった。セドリックは日の沈む頃に城内を見廻るから、ベルもそれに合わせて城の周りをぐるりと箒で走った。見回りが終わる頃に玄関で集合して、すっかり人気のなくなった大広間の角で一緒に夕飯を食べ、寮のある地下まで一緒に帰った。
 そんな折、ベルは階段で一人チョコを食べるハリーを見つけた。これから見回りに行こうというところだったが、ベルは階段を下りるスピードを弛めて、「よっこいしょ」とハリーの隣に勝手に腰掛けた。
「! ベル」
 ハリーはチョコをもごもごしながら驚いたのか身を引いた。ベルは「一人なのは珍しいな」とニンマリ笑った。
「ベルこそ。セドリックは?」
「城内見回り中。私もこの後城外を箒で飛ぶよ。後でグリフィンドール塔から見えるかもな」
「そうだね」
「何してたの、一人で」
「さっきまで、ルーピン先生に、守護霊の呪文を教えてもらってたんだ。まね妖怪が、僕の前だと吸魂鬼になるから」
 おお、とベルは素直に驚いた。ハリーは真剣だった。
「今度の試合、ベルが守ってくれるのは分かってる。でも、自分でも何とかしたいんだ。ルーピン先生は、吸魂鬼が僕ばかり狙うのは、僕が普通の人よりひどい恐怖の記憶があるからだって言ってた───もう、そういうのは嫌なんだ。乗り越えなきゃ……二人はもう、死んだんだから……
「───」
 ベルは瞬いて、瞼を伏せた。そっと、静かに息を吐く。
 くしゃ、とハリーのくせっ毛が掻き回された。ベルの手だった。
「大丈夫だ。私ができたんだ。お前にもできるよ」
……ありがとう、ベル」
 気恥しそうに、ハリーがはにかむ。ベルも微笑んだ。
 ぽん、と叩いたハリーの肩を支えに、ベルは立ち上がった。
「でも、忘れなくていいんだぜ」
「うん。分かってる」
「ならいいんだ。じゃあな」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 おー、と箒を担いだベルがヒラヒラと手を振った。カンテラのカラカラいう音が遠くへ行って、よし、とハリーも気合いを入れて立ち上がった。



 週末、クィディッチのレイブンクロー対スリザリンが行われた。ベルは空からスリザリンチームに加勢しろとこっそり言われていたが、ベルの警備担当は競技場外である。なんの見返りも脅しもないのに、ベルが協力すると思ったチームに、寧ろベルは呆れ返った。逆恨みで下級生の時に流行った悪口雑言をぶちまけられても、今更痛くも痒くもない。
 ダンブルドアの怒りは存外持続したので、ベルの仕事は楽なものだった。今日も今日とて世は事もなし、という日が試合からしばらく続いたある日、ベルはハリーから手紙を受け取った。

「ベル

 元気? 僕は元気。マクゴナガル先生が、僕に箒を返してくれたんだ。ベルの言った通り、悪いものは何も無かったよ。守護霊の呪文は上手くいかないけど、焦ってもいいことないしね。
 それに、それよりも大変なことが起こったんだ。
 ハーマイオニーが今年オレンジ色の猫を飼ったのは知ってる? クルックシャンクスっていうんだけど、そいつがロンのペットのネズミのスキャバーズを食べちゃったんだ。スキャバーズのことは知ってるよね?
 ロンはクルックシャンクスをハーマイオニーが見張らなかったせいだって言うし、ハーマイオニーはロンの決めつけだって言うんだ。ロンのベッドからオレンジ色の毛が出てきたから、僕はロンの言う通りだと思うんだけど、ハーマイオニーはクリスマスからそこにあったのかもって言ってる。確かに、クリスマスに一瞬、クルックシャンクスがロンのベッドの傍に来たことはあったけど……
 とにかく、二人が喧嘩しちゃって。どうしよう、仲直りしてほしいんだけど。いい案があったら教えて。

 ハリー」


……はて?」
 あいつの家にネズミなんかおったか? とベルは首を傾げた。そういうわけで、ベルは素直に返事を書いた。

「ハリー

 手紙ありがとう。
 お前の飛びっぷり、特等席から堪能させてもらうとしよう。落ちるなよ!
 守護霊の呪文、難しいよな。私もあれは他の魔法みたいにヒョイッと使えるようにはならないと思ってる。私もいるし、ハリーの体調の方が大事だから、焦らず、ゆっくりな。
 それはそうと、ハーマイオニーとロンの板挟みは辛いよな。ほっときゃそのうち仲直りするから、二人には変わらず接してやんな。どっちもの肩を持とうとしないことがコツだ。
 で、スキャバーズだが。あれ、ネズミじゃないぞ。何故かネズミに化けてる人間だよ。ウィーズリー家にかかった呪いかなんかで皆が気付いてないのか、分かってて飼ってるのか、とにかく私がこの事に気付いてから、この話題に触れる機会を逃し続けてるんだ。あいつ、私にバレてるのに気付いてるのか、すぐどっか逃げるんだよ。
 前者だったら根が深すぎて私の手に負えないし、後者だったとしても、まあ、ちょっと付き合い方を考え直したくなるだろ。そういうわけで、聞くのが怖くて。双子とママには世話になってるしな……今更態度を変えるのもな……
 何で死んだと思ったのか知らんが、それによっては死んでないんじゃないか? たぶん。きっと。おそらく。
 ロンに言ったら驚くだろうから、これを言う時は慎重にな。

 ベル」


 ハリーへの手紙をヘドウィグに託し、ベルは再び、はて、と首を傾げた。

 ───そう言えば、人間って魔法使って動物になれなかったっけ。

 直後、ベルの脳内で「あなたはこの四年間私の授業で何を学んでいたんですか」とマクゴナガル先生が凄まじい剣幕で怒り出した。ベルはすみませんとダッシュで図書室の変身術コーナーへ行き、現在確認されている動物もどき一覧をなんとか探し当てた。
……ん?」
 しかし、ネズミの動物もどきは確認されていないようだった。
 ということは、魔法以外の方法で動物になっているか、はたまた、───リストから逃れた違法の動物もどきか。
 唐突に、ベルの脳内に、昨年の出来事が飛来した。誰ぞに若かりし頃のヴォルデモートの日記を持たされたジニーが、果たしてどんな目に遭ったかなんて、記憶に新しい。後から聞いた話、あれはルシウス・マルフォイによるものらしいが、証拠は無いのだという。
 ジニーに続いてロンまで何か巻き込まれているんじゃないんだろうな、とベルは親指でこめかみを押え、それ以外の指で重い額を支えた。
 ジニーの時は、余りにも大きすぎる名前に引き摺られないように慎重を期した結果、ジニーはともすれば死ぬ一歩手前までいってしまった。
 二の轍は踏みたくない。けれども猫に食われて死んだということになっているのであれば、おそらくはどこぞに逃亡して潜んでいる。あるいは本当に猫に食われているか。
 このバカでかい城の中から、ネズミ一匹探し出す。全くもって、現実的ではない。
……はー……なんだって毎回こうなんだ………………
 後手に回って、ようやく気付く。つくづく鈍い脳みそめ、とベルは悪態をついたが、それで何かが解決する訳でもない。一応注意を払っておくことにして、ベルは本を元の戸棚に戻した。ベルの中のマクゴナガル先生は、未だに厳しい目でじろりとベルを睨んでいた。



 グリフィンドール対レイブンクローの試合当日。
 カラッと晴れた風の強い日だった。ベルはのんびりと欠伸して、競技場の周りを風に逆らうようにしながらゆっくりと周っていた。今日はこの後ダンブルドアも来ると言うし、ベルの仕事なんぞあってないようなもんである。
 試合が始まって、ハリーが真っ先に空中へと上がった。箒の性能故か、他の生徒よりも段違いに速い。よくもまああんな速さで高く上がって気持ち悪くなったりしないことだよ、とベルは感心した。気圧の差があるので、急上昇と急降下は選手の体に間違いなく負担をかけていた。勿論、それによる重力も。
 箒の性能で劣るレイブンクローは、しかし負けてはいなかった。クィディッチはチーム戦だ。シーカーひとりがずば抜けていても、チームで地道に点を稼いで、花形に襷を繋いでやることはできる。レイブンクローのシーカーであるチョウ・チャンはハリーをぴったりマークしている。賢いな、とベルは少しだけつまらなかった。彼女はベルと同じアジア系の筈だが、下級生のときにいじめのターゲットになったのはベルで、同じアジア系統でも出身や言語の違いだけでこうも立場が変わるのかと、愕然としたものである。ほとんど逆恨みで八つ当たりだということを自覚はしているが、くさくさする気持ちは止められない。
 やったれハリー、いてこましたれ、と神戸のおっちゃんもかくやな応援をしていたベルは、ふとピッチの方を二度見した。黒い布を被った人型の何かがピッチをウロウロとしている。……吸魂鬼に、見えなくも、ない。
 なんだあれ、とベルは上昇した。あんまり球場に近付きすぎると選手の邪魔になる。ベルがフーチを呼ぼうと息を吸った、その時。
「エクスペクト・パトローナム!!」
 爆速で真っ直ぐに進むハリーの杖から銀の光が炸裂した。ハリーは迷いなく突き進み、何かを掴んで急上昇した。グリフィンドールのチームメイトが我先にとハリーのところへ集まり、ロン達がピッチへ駆け下りる。確かこれでグリフィンドールは優勝争いに残ることになるはずだ。ベルはピッチに降りた。
 芝生の上でウゴウゴしているのは黒い布を被ってひっくり返ったマルフォイ達だった。ベルは呆れて口をへの字にし、物も言えなかった。
「先生、ベル!! 僕、できた!! できました!! 平気だった!!」
「ああうん、とても素晴らしかったよ、ハリー。だが、その、アー……なんと言ったらいいか……
「うーん。先に謝っとく。すまん」
「へ?」
 ベルがちょいちょいと招き寄せ、ハリーはルーピンに助けてもらって生徒達の囲みからなんとか抜け出した。ほとんど同時に、マクゴナガル先生がやってきて、開口一番「あさましい悪戯です!!」バッサリとマルフォイ達を切り捨てた。
「グリフィンドールのシーカーに危害を加えようとは、下劣な卑しい行為です!!」
 そもそも、選手と審判以外がフィールドに闖入するのが良くないです、とベルは内心で付け足した。
「みんな処罰します。さらに、スリザリンからは50点減点!! このことはダンブルドア先生にお話します。間違いなく!! ああ、噂をすればいらっしゃいました!!」
 ゆったりとした足取りでダンブルドアがやってくる。
 グリフィンドールの生徒達はニッコリ笑って、我関せず「パーティだ!!」とはしゃいで城の方に行ってしまった。
 ベルは嘆息し、もがく黒い布にもつれてじたばたしているマルフォイを、猫の子をつまみ上げるようにして救出してやった。
「因果だなあ。ハリーを助けた百点が、ハリーの守護霊で50点減るとは……恩を仇で返すとはこのことかねえ。どう思うよ、マルフォイ」
 そのきっかけを作り出した張本人は、ぶすくれて黙ったまま、ベルを見もしない。気にした風もなく、ベルはマルフォイ達四人を鼻で笑った。
「私の目を掻い潜って吸魂鬼を誘き寄せようともしねえチキンが。狡猾が聞いて呆れるぜ」
「ベル」
 ダンブルドアに窘められて、ベルは半眼で肩を竦めた。内心では舌を出していた。
「私の警護はあくまで競技場外から、吸魂鬼からだよ」
「分かっておる。この後の見回りと、夕刻の見回りを忘れずにな」
「へいよ」
 再び箒を跨ぎ、ベルはふわりと空中へ舞い上がった。スリザリン生達はぶすくれたままマクゴナガルとダンブルドアに連れて行かれ、罰則を受けることになった。
 その日の晩、というよりほとんど明け方、ベルはいつかのようにスネイプに叩き起された。
「来なさい」
「ふぁい……
 今日はさんざ飛び回って疲れてるんですよ、なんて嘆願はスネイプに通じるわけがない。ベルは目をしょぼしょぼさせながらなんとか着替えて、押し付けられた箒を持ち、スネイプの後に続いて寮を出た。
「さっさと目を覚ませ」
「何があったんです……
「シリウス・ブラックがグリフィンドール塔に侵入した」
「、……はい?」
「二度は言わん。フィルチが抜け道を確認している。お前は城の周りと禁じられた森を調べろ」
「はぁ……
 それで箒を押し付けられたのか、とベルは欠伸を噛み殺した。
 ベルは玄関を出てすぐにふわりと空に飛んだ。明け方の空は寒く、キンと張り詰めている。うー寒い、と箒の下で足をガッチリ組んで、ベルは薄目を開けて城をぐるりと周り、禁じられた森の方を注視した。
 太った婦人の襲撃後、塔の警備はガトガン卿に移行していたはず。彼は毎日合言葉を変えて、それぞれ中々な長さだったとか。突破するには相当の下調べが必要か、或いは中から手引きをする者が必要だ。
 下調べをするにはそもそも城内に侵入しなければならず、怪しい影を吸魂鬼が見逃すはずがない。となると内部に手引きをした者がいる筈だ。どうやって手引きをしたのか、そこまで考えて、ベルはスキャバーズを思い出した。
 ネズミに化けた人間が死んだフリしてグリフィンドール塔から出て、シリウス・ブラックと接触することは可能だが、それならロンのポケットからてきとうな時分を見計らって脱出すればよい。わざわざ死んだフリをする必要はない。これは無いか、とベルは内心手を振ってモヤモヤ浮かんだ考えを霧散させた。
 突然の寝起きゆえ、頭がさっぱり回らない。ひとまずそれらしい影がないことを確かめて、ベルは城内に戻った。朝食には早い時間だったが、城内はいつもよりザワザワとしていた。
「淋、」
 玄関ホールには監督生と教師達が集まっていた。ダンブルドアの姿もある。一人駆け寄ってくれたセドリックに、ベルは寒さで強ばる頬を頑張って動かした。
「セド、おはよう」
「え? あ、おはよう……
「私が一番最後? ごめんね、お待たせ。まあ、何も無かったんだけど……
 落胆が少し、緊張が半分。じわりと広がる安堵を、マクゴナガルの厳格な声が引き締めた。
「では、寮監の先生方から各寮生に連絡を。監督生たちも、それぞれの寮に戻りなさい。今朝の城内検索は結構。宜しいですね?」
「ああ、構わんとも。皆、朝早くからご苦労じゃった」
 ダンブルドアの号令で、監督生達のうち何人かが寮監と連れ立って寮に戻った。
「淋、戻らないの?」
「うん、もうすぐ動物達の世話の時間だし。ご飯食べる」
「じゃあ……僕もそうしようかな」
「私も」
「僕もそうする」
 ゾロゾロ連れ立って、生徒達はなんとなくハッフルパフのテーブルを一部占領した。皆が席に着くと、程なくして音もなく食事がひとりでに現れる。各々紅茶を入れ、トーストにジャムやバターを塗り、ベーコンや卵を取り分けた。
「シリウス・ブラック、本当にグリフィンドール塔に侵入したの?」
「ああ、どうもそうらしい」
「合言葉は?」
「どっかの誰かが紙に書いてたのを無くして、シリウス・ブラックに拾われたらしいよ」
 ああ、と皆が呻く。
「マクゴナガルはおかんむりだろうな」
「そりゃそうさ。自分のとこの生徒のミスだもの」
「で、ハリーは無事なの?」
「それが、狙われたのはロン・ウィーズリーらしい。襲われる寸前で目が覚めたんだと。大声上げたら逃げたって」
「ロン・ウィーズリー? ハリーじゃなくて?」
「ハリーのベッドと間違えたのかな? カーテン降ろすから」
「襲われる寸前に気付いたって、どうやって気付いたの?」
「ナイフでカーテンを切られたって聞いたけど」
「ナイフ? 杖じゃなくて?」
「さぁ…………呪文を唱える声で起きるからとか……
「シリウス・ブラックって無言呪文使えないの?」
「さぁ……
 沈黙が降りる。ベルは一言も発さず、黙々と食べ、ちみちみとスープを飲んだ。暖かい。ほっとする。
「ベル、これから禁じられた森に行くの?」
 監督生の一人に問われて、ベルは「うん、」と頷いた。
「まあ、言うてもそんな奥までは行かないけど……
「危なくない? 怖くないの?」
「うん。今、生徒を誰か傷付けたら、居場所とか潜伏場所を吸魂鬼に知らせることになるだけだしね」
「、そ、そっか……
 再びの沈黙から逃げるように、監督生達はセドリックを残して大広間を後にした。
……実際、君はどう思う?」
「うん?」
「シリウス・ブラックが、どうしてロンを狙ったのか。どうしてナイフだったのか」
「うーん」
 ベルはちょっとだけ困ったように眉を寄せた。
……ドン引かないで聞いてほしいんだけど」
「うん」
「私だったら、もう部屋ごと爆発させるなって」
……吸魂鬼に捕まるんじゃない?」
 至極冷静に返してくれたセドリックに、ベルは瞬いて言葉を続けた。
「でも、ここまで上手く逃げ果せるならなんか手段があると思うんだよな。それで脱獄できたわけだし」
「なるほど」
「そうしなかったってことは、杖を持ってないか、確殺したかったか。でも、いくら部屋が暗いっていったって、ネームプレートを見間違えることなんてないと思うし……
「じゃあ、ロンが狙いだったのかな」
「でも、ロンを狙う理由が分かんないんだよなあ。かつ、魔法無しでここまで逃げ隠れできる事はないだろうから、確実に杖は持ってるとしてよ……
 堂々巡りである。二人は揃って「ウーン」と唸った。
「ま、もう禁じられた森くらいしか潜伏できるとこなんて無さそうだけどね」
「うん。気を付けてね、ベル」
「ありがと」
 二人は大広間を出たところで別れた。セドリックは一度寮に戻り、ベルはハグリッドの手伝いのために校庭へ駆けて行った。
 この日以降、生徒はベルを除く全員が放課後を城内で過ごすようにとの通達があった。クィディッチのための練習は許可されたが、それも日が沈むまで、かつ、ベルの見回りが終わるまでだった。ベルでさえ、見回りの後は城内を出ないように厳命された。主にルーピンに。
 しかし、ベルは金曜の夜から寮ではなくハグリッドの小屋に泊まり込むことになった。
 ハグリッドがヒッポグリフのバックビークを連れてロンドンは魔法省にまで出頭しなければならないからである。
 ヒッポグリフ対マルフォイの裁判が、とうとう目前に迫っていた。

 週末、生徒達の大半はホグズミードへ繰り出した。
 ベルはハーマイオニーと一緒に、ハグリッドの小屋で過ごすことにした。結果が出たら、梟を飛ばして知らせてくれることになっている。ベルはハーマイオニーに紅茶と自分で焼いたクッキーを出してやり、梟が来るのを二人で待っていた。
「そう言えば、ハリーはどうした? 城に居るはずだろ。クィディッチの練習か?」
「ううん……違うの。こっそりホグズミードに行ってるのよ」
「え。なんで?」
 思わず顔を上げるベル。
 ハーマイオニーは鼻の付け根にぎゅっと皺を寄せた。
「魔法のかかった地図よ。フレッドとジョージから手に入れたんだって。ホグズミードへの抜け道が幾つか書いてあるの」
「おいおいそりゃあ…………
「魔法の呪文というか……合言葉を使わないとちゃんと機能しないみたいなんだけど、……ロンがあんな目に遭った後なのに……
……心配だな」
 ハーマイオニーが、ぐ、と奥歯を噛み締める。目に力を入れているのが、傍目にも分かるほどだった。ベルは気付いていないふりをすることにした。紅茶に視線を落とし、次いで窓の外を見遣る。
「ちょっと外で作業してくるよ。ファング見ててくれ。夕方の散歩は一緒に行こう」
「うん」
 こくんと頷くハーマイオニーに微笑んで、ベルは小屋の外に出た。そうして、そっと息をつく。
 こういうの苦手だ、とつくづく思う。
 間違いなく、ハリー達に何かあっても自業自得だ、と今までの自分なら言っていた。だって言葉は口の中にまで転がりこんでいた。ひとえにうっかり口走ってしまわなかったのは、おそらくルーピンやセドリックのおかげだろう。
 手慰みに魔法生物と戯れながら、ベルは梟を待った。やがて訪れた梟に、ハーマイオニーは顔を真っ青にさせて城へと駆け戻り、ベルはひとつ嘆息して、夕方の見回りに繰り出した。
 分かっていたこととは言え、ベルの胸の内は重たく沈んだ───バックビークの殺処分が決まったのだ。


 ベルは日増しに自分の顔付きが険しくなるのを感じていた。意識せずとも、目元が細まり、口元が引き結ばれ、静かに、深い呼吸を繰り返す。日々感じていた喜びや浮ついた気持ちが消え失せて、ただ淡々と、生きるための作業をこなし、砂を噛むようにして時間を過ごした。
 まだ控訴がある、とロンが息巻いていたが、ハグリッドはほとんど戦意喪失していた。これがベルの気持ちにも拍車をかけていた。当人がこれでは、盛り立てられるものも盛り立てられない。
 ベルは徹底的にマルフォイを避けた。今何事か会話でもすれば、てめえも死ねと手を出してしまいそうだった。
 セドリックは、そんな淋を、ただ静かに受け止めてくれた。尖塔のてっぺんの小さなスペースをはじめとした階段のふもとなどの人目につかないところで、淋はセドリックにもたれることが多くなった。自分より余程逞しい体に半身を預け、肩を抱いてくれる大きな掌に、ほんの少し体の力を抜くことができても、どうしてか気持ちは上向かず、胸中をもやもやとした何かが席巻して、息を塞いでいた。
 自分でもどうしたらいいか分からない。勉強も手につかなかった。ただ、ふとした瞬間に、セドリックに甘えっぱなしで、彼にも無駄にできる時間はないのにと、焦りが募る。
「ごめんね、セドリック」
 ようやく吐き出せた弱々しい声は、さほど響かなかったが、セドリックには届いたようだった。
「何が?」
 優しい声に、甘やかされる。淋は何故だか、鼻の奥がつんとして、じんわりと視界が熱く滲んだ。
 セドリックの肩に埋まる。整えようとした息が震える。戦慄く唇を、奥歯を噛み締めて抑え込む。
 ぎゅう、と抱きしめてくれる腕が、嬉しいのに、足りない。
「まだ、バックビークは死んでないよ、淋」
…………
 分かってる。そう応える淋の声は、かつてないほど小さく、か細かった。
 静かに沈んだままの淋とは裏腹に、スリザリン生とグリフィンドール生はいつにない緊張感で盛り上がっていた。廊下のそこかしこで小競り合いが起きたし、呪いの掛け合いで互いの寮生が何人か、葱を耳から生やす事態になった。ハリーは常に大人数に護衛されていたし、スリザリンの談話室ではいかにグリフィンドールへ事前に仕掛けて自分達にハンデをつけるかという話に皆が躍起になっていた。ベルは自分がグリフィンドールへのスパイに最適だと皆が考えているのを知っていたが、協力する気はサラサラなかったので、常に気配を消して過ごすことにした。ベルのあだ名はいつしかスリザリンの裏切り者になっていた。


 試合当日、ベルはいつも通りマダム・フーチとピッチに入った。日差しに目を細めた直後、スリザリン側から大ブーイングが飛んでくる。
「大丈夫ですか?」
「いつもの事でさァ、ったく……
 マダム・フーチはピッチの中央まで進むが、ベルはすぐに空中へ飛ぶ。競技場内をぐるりと一周して、そのまま場外へ飛ぼうとしたベルは、反射的に杖を振るった。
「!?」
 誰かが魔法でベルを攻撃したのだ。信じられない面持ちでそちらを見遣れば、何人かのスリザリン生がニヤニヤと笑いながら杖を構えている。次々と放たれる魔法をプロテゴで全て叩き落とすベルの背後で、グリフィンドールの寮生が大ブーイングを起こした。
 ベルはすぐさま箒を急上昇させた。狙いを外した魔法がどこぞへ飛んでいくのとすれ違いざま、ベルは競技場外へすぐに移動した。観客席の背後に回ったので、生徒達からはベルの姿が見えなくなる。
 歓声を爆発させたまま、ピー、と試合開始の笛が鳴った。ベルは何度か客席より上に移動して試合を観ようか考えたが、また生徒達に魔法を使われては警備どころの話では無かった。リー・ジョーダンの実況放送もどこかぼやけて聞こえるため、試合がどうなっているか分からない。
 最後の警備が、まさかこんなことになるとは思わなかった。
 ベルはむつかしい顔をどうにも元に戻せないまま、競技場の周りをぐるぐると飛び、歓声が爆発する度に眉を顰めた。
 もう何周したのか数えるのをやめてしばらく経った頃、競技場から生徒達が溢れ出してきた。真紅の旗を持っている生徒がはしゃいでいる。おそらく、グリフィンドールが勝ったのだろう。
 ベルは地上に降りようかと思ったが、スリザリン生と遭遇することも考えたら、箒から降りたくなくなってしまった。ベルは森に近いところでしばらく待って、やがて生徒たちが居なくなった頃に、箒の柄の先をいつもの尖塔に向けた。小さな窓はベルの肩幅より狭いが、体を傾ければ入れないことはない。
 上手く尖塔に体を滑り込ませ、ベルは小さなスペースの階段から一番遠い隅っこに、膝を抱えて蹲った。
 スリザリン寮生ごときに遅れを取らない自信はある。だが、ベルとて多勢に無勢という言葉を知っているし、そうなっては生徒達を傷付けないでいられる自信はなかった。
 寮に戻ったら、また魔法で攻撃されるだろうか。彼らが満足するまで、一頻りサンドバックになっていた方がいいのだろうか。そうすれば、何物にも脅かされない安眠を得ることはできるだろうか……
「淋。淋、大丈夫?」
 不意に聞こえた声に、淋は顔を上げた。滲んだ世界にいたのはセドリックだった。その後ろには、ルーピンの姿もあった。
 ひとりどころか、ふたりぶんの足音や気配にも気付かなかった。淋は眉根を寄せた。
「怪我は? どこか痛い?」
 心配そうなセドリックに、淋は首を横に振った。腕を引かれて、強ばる体がまるごとセドリックに抱き締められる。ベルは震えを押し殺しながらセドリックの背に手を回した。
「本当に、怪我はないんだね?」
 セドリックの向こうで、膝を床に着いて目線を合わせてくれたルーピンに、淋はこくりと頷いた。
「そうか。まあ、確かに、現役の闇祓いに匹敵する程の反射神経だった。見事だったよ。反撃もできただろうに、しなかったのも、偉かったね。ダンブルドアが、自分との生徒を守るという約束を守ってくれたのだと、感心していた」
 だからなんだという言葉を、淋は飲み込んだ。代わりに、セドリックの影に蹲る。ルーピンの姿がセドリックに隠れて見えなくなった。
「スネイプ先生が、寮生達に話してくれている筈だ。寮に戻っても、大丈夫だよ」
 淋が首を横に振る。セドリックが顔だけでルーピンの方を顧みた。
「寮に戻りたくないみたいです」
「そりゃそうだろうな」
 ルーピンが立ちあがる。
「うーん、どうしたものかな……マダム・ポンフリーに相談してみよう」
 ゆっくりと、足音が遠ざかる。瞬いた淋は、自分の睫毛が濡れていることに気付いた。
……ごめんね。君が外に行った後、僕も追いかけようとしたんだけど、マクゴナガル先生に止められたんだ。君の仕事の邪魔になるって……守護霊の呪文を使えるだけじゃだめだって……
「ううん……来てくれたから、……ありがとう……
 抱き締めあいながら、淋はこの後どうすればいいのかを迷っていた。ルーピンがマダム・ポンフリーのところに行ってくれたのは、淋が今晩保健室に泊まれないか相談するためだろう。でも、淋は怪我をしていない。……でも、寮に戻ると怪我をするかもしれない。
 保健室に逃げ込みたい思いと、逃げずに寮に戻って実力差を突き付けて己の安全圏を守りたい気持ちがせめぎ合っている。
……今日で、試合が最後だし……ダンブルドア先生は、見廻りはもうしなくていいって言ってた」
「なんで? 朝夕の見廻りとクィディッチの試合の警護は違う話でしょ。ちゃんと行くよ」
「あんな事があった後だよ。少し休んだ方がいい」
「今に始まったことじゃないのに……
「じゃあ、ハグは要らない?」
「要る……
 ぎゅう、と抱きつく腕に力の篭もる。セドリックは苦笑した。
「ね。疲れてるんだよ。休まないと、寮に戻った後に大変だろ」
「むぐ……
 反論したい気持ちはあるが、言い返せない。淋はセドリックの肩のところに額をぐりぐりさせた。イタタ、と痛がるセドリック。しかし、淋を離す素振りは見せない。
「ルーピン先生のところに行って、寮に戻るか保健室に泊まるか決めよう。その後、厨房に行って、ご飯をもらって、空き教室で二人で食べよう。一緒に城内を見回って、そしたら、今晩過ごすところまで送るよ」
……分かった」
 二人は連れ立って尖塔を後にした。保健室で、淋はマダム・ポンフリーとルーピンの勧めを断って、寮に戻ると宣言した。


 その後一週間、スリザリン寮の空気は葬式会場のようだった。ベルは気配を消して過ごし、変わらず朝晩の見回りを継続したが、ハグリッドの手伝いをすることはめっきり減った。学期末試験が迫っているのだ。
 生徒が試験対策をするなら先生だって試験の準備をする。ベルはダンブルドア直々にハグリッドの手伝いを控えるように指示された。ベルがうっかりテスト内容を知ってしまわないようにするためだ。
 セドリックとウィーズリーの双子は普通魔法レベル試験、通称ふくろう試験の対策に追われるようになり、パーシーはめちゃくちゃ疲れる魔法試験、いわゆるイモリ試験で特に高い成績を収めなければならないため、常に苛立っていた。
 ベルもこの時期は神経を尖らせる。レポートなら甘く採点される文法のミスが、試験ではそうはいかないからだ。ベルは未だに、英語で学術的な文章を書くのが苦手だった。
 ベルの小さなミスや覚え間違いを淡々と指摘するのがセドリックは得意だった。代わりにベルはセドリックの実技試験対策の良い手本になった。二人は図書室や陽光眩しい中庭、そして尖塔のてっぺんで参考書や教科書を広げ、杖を振って試験のために魔法を練習した。
 学校中が学期末試験に向かって突き進む中、バックビークの控訴裁判が試験最終日の午後に決まったことがハグリッドから知らされた。
 ちょうど試験があって、ベルはハグリッドの助けに入れない。
 ベルは歯噛みした。なにもできない無力感が羽根ペンを投げ出しそうになる。
 ……でも、一緒に勉強する人がいるなら、サボれない。
 ベルは意識して規則的な呼吸を繰り返しながら、なんとか教科書に齧り付いた。



 バックビークのことがずっと頭の片隅に居座る状態での試験は、集中力を保たせるのが大変だったが、なんとか乗り切って、ベルはハグリッドの小屋に急いだ。
「ハグリッド、」
「ベル、帰れ」
「帰らない!!」
 ベルが大声を出したので、ハグリッドは目を丸くして驚いた。
「なんだ帰れって、言うに事欠いてそれか!!」
「お前に見せたくねえ!!」
「───」
 怒鳴ったハグリッドが、途端に顔をくしゃりと歪める。
 大きな雫が、ぼろぼろとハグリッドの髭を伝った。
 見せたくない。何を。
「───!」
 脳みそが、カッと熱を持つ。
「ふくろうと……すれ違ったんだな、お前……
 ぐすぐす泣きながら、ハグリッドは言った。
「控訴には負けた。ビーキーは日没に処刑される……
……………
 大きな体が、床に縮こまって、震えている。爆発していた感情が少しずつしなんでいくのを感じて、ベルは意識して肩の力を抜いた。細い手が、大きな肩にそっと触れた。
……バックビークのところにいる」
 うん、とハグリッドが頷いた。ベルは泣きそうになるのを、なんとか堪えた。険しい顔のまま外に出て、近くの放牧場に繋がれているバックビークの傍まで移動する。
「バッキー。……ビーキー」
 ベルのつけたあだ名には反応しないくせ、ハグリッドからつけられた愛称には反応するヒッポグリフ。可愛くねえやつ、とベルは苦笑した。お辞儀したベルに、バックビークも慣れた仕草で翼を広げ、頭を下げる。
 嘴を撫でると、くるると喉が鳴った。頭を擦り付け、ついで足首をベルに見せつける。じゃらりと鎖が音を立てた。
 外してくれと、強請られている。ベルは今度こそ泣きそうな顔を堪えられなかった。
 たまらなくなって首元に抱き着くと、どうしたの、と翼がバサバサ波打った。大きな体が膝を追って地面に座るのに引きずられるようにして、ベルも地面に座った。大きな片翼がベルの足を覆ってくれる。
 土曜や休日に世話をしてやるときは、よくこうやって一緒に日向ぼっこをしたなと、ベルは思い出した。何か嫌なことがあっても、ベルが傷つけなければ、バックビークだって、他の生き物だってベルを傷付けなかった。彼らは間違いなくベルの心の拠り所で、分かりやすくベルのことを大事にしてくれていた。
 大きな嘴がベルの頭を優しくつつく。毛繕いのつもりなのだ。ベルはいやいやをするように翼の中に潜り込んだ。すっぽり覆われたベルの姿は、きっと外からは見えない。
 ベルは知らぬ事だが、ベルが生き物達に引っ付く時は、何がしかあって、逃げ隠れしたい時だと生き物達は思っていた。バックビークは念入りにベルを翼の影に隠し、ファッジや何事か重たい斧を持った人間がダンブルドアと一緒にハグリッドの小屋に来た時に、素知らぬ顔をしてベルを隠し通した。
「ああ、ダンブルドア先生……
「邪魔するよ、ハグリッド」
「すんません、少々お待ちを。さっきそこにベルが……生徒が……帰さにゃなんねえ……
「はて。ワシには誰もおらんかったように見えたが。のう、コーネリウス」
「うむ。ヒッポグリフの……アー……バックビークだけだと思ったがね」
 処刑人が窓から外を見遣る。そこには座って羽の毛繕いをしている風なヒッポグリフしかいなかった。
「きっと、他の生き物の世話に向かったんじゃろう。対吸魂鬼の見回りもあることじゃしな」
「いやいや、話には聞いていたがまさか本当だとは。十四歳の女の子だろう?」
 処刑人が窓から離れる。ファッジとダンブルドアも移動したのか、声が一息に遠くなった。
 ベルはもぞもぞと翼の中から顔を出した。バックビークが突然翼の中に押し込んできたのはダンブルドア達が来たからだったか、とぷるぷる頭を振って頭に着いた羽根を飛ばす。───と、ベルはハリーと目が合った。
「、あ」
「ん?」
 ハリー。何故。しかもなんだか日没頃のハリーというより、深夜どこぞへ出かけてきた帰りといったような雰囲気を感じる。訝しげに眉を顰めるベルに、ハリーは手綱を持ったまま固まり、少しずつ顔色を悪くさせた。
 ベルが手綱を見る。ハリーも手綱に視線を落とし、次いでまた二人の目が合った。かと思えば、ハリーは今にも吐きそうな顔でバックビークを繋いでいる足枷の方を見た。

 ───もしかしなくても逃がそうとしている?

 ピン、と来たベルの脳内に、先程の「ベルを見なかったか」「いや、バックビークだけだった」という聞くともなしに聞こえた会話がリフレインした。

 ───今なら助けられる、

 気付いた瞬間、ベルは杖で足枷を繋ぐ鎖に魔法をかけていた。自分の体の下に折りたたんだ足が自由になったことに気付いたバックビークが、驚いて立ち上がる。
「ビーキー、」
 小声で呼べば、バックビークは大人しくベルの後について来た。ベルとバックビークは手綱を持つハリーに続いて森の中へ入った。森の中には顔面蒼白のハーマイオニーの姿もあった。ベルは瞬いたが、ひとまずバックビークを座らせ、木陰で三人の姿が見えないようにしてから、ハリー、そしてハーマイオニーと額を突き合わせた。
「何してんの。ロンは?」
「えーっと……保健室……
「?」
 なんで、という顔をするベルに、黙って、とハーマイオニーが無言でジェスチャーし、ハグリッドの小屋の方を指した。ちょうど小屋から処刑人、ファッジ、ダンブルドア、そしてハグリッドが出てくるところだった。
「いない!!」
 処刑人が呻く。
「どういうことだ、逃がしたか!?」
「逃げた!? ビーキーが!?」
「いや、いや、これは異な事」
 ダンブルドアがおかしそうに笑う。ハグリッドは全身をぶるぶる震わせながら滂沱の涙を流していた。
「逃げた、自分で逃げたんだ、賢いビーキー……
 唸る処刑人が、錆び付いた斧を地面に勢いよく突き立てた。ファッジはポカンとして困惑し、ダンブルドアは変わらず笑っていた。
 やがて四人が再び小屋の中に戻る。再びの静寂に、三人はホッと息を吐いた。
……で、だ。なんでロンが保健室にいるんだ」
「いろいろあって……今はまだ居ないんだけど……
「あぁ?」
 眉を顰めるベル。ハリーは助けを求める顔でハーマイオニーを見た。ハーマイオニーは相変わらず今にも吐きそうな白い顔で、けれども何事か腹を括ったようにしてベルと向き直った。
「ベル、今から言うことは絶対秘密にしてほしいの、セドリックにも」
「いいよ。淋として約束する。それで?」
「私、今学期、いろいろな授業をたくさん取るために、逆転時計を使っていたの。知ってる? タイムターナー」
「知らん。何それ」
 ハーマイオニーはパーカーの胸元からネックレスを引っ張り出した。円の内側に、砂時計がはめ込まれている。
「これをひっくり返すと、ひっくり返した分だけ巻き戻った時間に移動できるの」
「なんつー魔法アイテム。明らかにご禁制だろ、よくもまあ許可されたな」
「マクゴナガル先生がたくさん手紙を書いてくださって……それで、私たち、三時間後から巻き戻ってきたの」
 ははあ、とベルは感嘆した。
「そうか、それでお前達の雰囲気とちょっと時間がズレてるような気がするわけだ。この後三時間で何が起こる?」
「いろいろとたくさん……
「ええ……しょうがない、結論だけ言え」
 ハリーとハーマイオニーは一瞬だけ顔を見合わせた。
「シリウス・ブラックは僕じゃなくてスキャバーズになってたピーター・ペティグリューを狙ってた。僕の両親を裏切ってヴォルデモートに密告して殺したのはピーターだったから。ルーピン先生も気付いたけど、薬の飲み忘れで狼になっちゃった。僕たちはスネイプに捕まったけど、ダンブルドアに逃がしてもらった……僕の父と、シリウスと、ルーピン先生とピーターは同学年だった……スネイプはシリウスにされたイタズラでシリウスのことを恨んで……えーと……
 ぽん、とベルがハリーの肩を叩いて言葉を遮る。ハリーは口を開けたまま固まった。
「だいたい分かった。とりあえず、私は今から箒で飛んでアリバイを作る。バックビークを頼む」
「───」
 こくこくとハリーが頷いた。ベルはハーマイオニーにも「しっかりな」と声をかけると素早く森の中を移動した。誰も見ていないことを確かめ、城に戻り、急いで寮から箒を引ったくって、玄関ホールから空に向かって地を蹴る。ふわりとベルの体が浮き、カラカラとカンテラに火が着いた。
 誰もいない空に在って、ベルはようやく息を吐き。
……いや、なんも分からんが…………?」
 ひとり、限界まで首を捻ったのだった。
 風が吹く。腕を組んで、足だけで箒を器用に操りながら、ベルはゆっくりと城の周りを巡り始めた。
 まず、ピーター・ペティグリューって誰だ。ベルは脳内検索をかけたが、なかなか引っかからなかった。スキャバーズに化けていた魔法使いの名前らしいが、そいつがハリーの両親を裏切ったということなのだろうか。
 思い返してみれば、クリスマス休暇の時に、ハリーの両親がシリウス・ブラックの裏切りのせいで死んだと聞いてしまった話を、されたような、されていないような。それが実はシリウスの冤罪で、真犯人がピーター・ペティグリューだという話なのだろうか。
 何がしかあって、ハリー達はそれを知り、後からルーピンとスネイプがその場に合流し、ルーピンは狼人間になり、ロンは保健室送りになって、スネイプは一人勝ちをする、……ことになる、らしい。整理してもよく分からない情報達に、ベルは城を二周するはめになった。
 日が完全に沈んだ頃になって、ベルは城に降り立った。
 ひとまずハリー達に話を聞きたいが、合流してもいいのかどうか、不安が募る。中でも一番は人狼になってしまうルーピンだが、スネイプが一人勝ちするらしいのと、ハリーたちのあの様子から、死にはしないのだろうことだけは確実だ。しかし、本当に大丈夫なのだろうか。
 訳が分からないもやもやを抱えたまま、大広間で夕飯を胃の中に押し込んでいるところで、ベルはセドリックに手招かれて、ハッフルパフのテーブルの方に移った。
「バックビークが逃げたって本当?」
「うん」
 本当なので、ベルは頷いた。
「君が逃がしたの?」
「ううん」
 ベルは首を横に振った。足枷を外したのはベルだが、手綱を引いたのはハリーだ。セドリックは他の生徒たちと顔を見合わせた。
「何にせよ、良かったね、淋」
「うん……もう会えないけど……
 これは本当だ。バックビークはホグワーツ城の周囲に居る訳にはいかない。しょぼん、と肩を落としたベルに、ハッフルパフの生徒達は口々に「元気だして」と励ました。
「スリザリンの連中、あなたほど生き物の世話をしてないんだし。バックビークが戻ってきても分かりっこないわよ」
「またひょっこり会えるさ。森とかで。君は自由に行けるんだろう?」
「ううん、奥の方に行く時はハグリッドと一緒じゃないとダメだよ。私がひとりで出入りしてるのは歩いて五分とか十分とかの範囲だけ」
 それでも結構な距離だ、という顔のハッフルパフの生徒達。ベルは気にせず、「それに」と言葉を続けた。
「万が一、変な奴に見つかってほしくないから。元気でいてくれたらいいよ」
 ほんとにね、と口々に同意の声が上がる。
 ベルはスン、と鼻を鳴らした。バックビークが生きていても、もう会えない寂しさがヒタヒタとせり上がっているのは事実だったが、同時に、誰かの優しさを一度に受け止めるのがちょっと大変だったのだ。


 結局、ハリー達に会えないまま、ベルは学期末を迎えた。試験明けの日にホグズミードに行こうとセドリックに誘われて、流石に断れなかったのだ。誰にも言わないと淋の名に賭けて約束したので、ベルはなんでもないフリをしたが、セドリックにはお見通しだった。
「君がバックビークを逃がすのを手伝ってても、僕は君のこと責めないし、告げ口なんてしないよ。減点も」
…………
 ベルは苦笑を堪えられなかった。
 二人は他の生徒より先に城に戻った。玄関に入ろうという時、ちょうどトランクと空っぽの水槽を抱えたルーピンと鉢合わせた。
「先生? 出張ですか」
「あ───いや、……君も知らないのかい?」
「はい?」
「辞任されるんだ」
 セドリックに耳打ちされて、ベルは「エッ!?」と素っ頓狂な声を出した。
「辞める!? どうして!?」
「どうしてって。君ほどの人物が、気付いてなかったのかい?」
 ベルは眉根を寄せた。なんの事だとしばらく考えて、
「───先生が人狼だってこと? バレたの? どうして!」
 掠れた声で絶叫するベルに、むしろ戸惑ったのはルーピンの方だった。
「君の方こそ、どうして言わなかったんだい」
「だってそんなの大したことじゃないでしょう!?」
 ベルの言葉に、ルーピンは目を見開いた。
「月に一度狼になるからなんだってんですか!! 人間に化ける狼やら山犬やらが社会に紛れて暮らしてんのに、なんでその逆がだめなんです!?」
 ルーピンは虚を突かれてなんどか目を瞬かせた。
……君のところは……随分とその……
「人外魔境ですよ。そんなことはどうでもいいいんです、先生、あぁそんな……居てくれないと……先生のおかげで私……
 言葉にならなくて、ベルはルーピンに飛びついた。まるで親に飛びつくこどものようだった。ルーピンは両手が塞がっていたが、セドリックが水槽を引き取ってくれたので、片腕だけをベルの背に回した。
「大丈夫だよ、ベル。君なら上手くやっていける」
「やだ!!」
 とうとう駄々を捏ね始めたベルに、ルーピンは困ったと眉を寄せた。セドリックを見ても、彼は素知らぬ顔をしていた。
「なんですか? 僕だって、先生の授業がないと、再来年の試験に耐えられる気がしないんですよ。頑張れ、淋」
「任された」
「任されるな!! まったく君は、本当に、───、……
 ルーピンの言葉が不自然に途切れる。離れなさい、いい子だからと宥めすかされて、ベルは渋々ルーピンとの間に隙間を開けた。上着からは手を離さなかったが。
「大丈夫だよ。君には、ムーニーがついてる。パッドフットも、きっとね」
……?」
 ルーピンの言葉の意味が分からなくて、きょと、と灰青を瞬かせ、首を傾げるベル。ルーピンは隙を逃さずにセドリックから水槽を取上げ、玄関の前に停まっていた馬車に向かって歩き出した。
「ぜってー手紙書くからな!!!」
 ベルはヤケクソになって怒鳴った。ルーピンは馬車に乗り込む瞬間、仕方なさそうに笑ったようだった。
 馬車が小さくなるまで見送っていると、ふと、セドリックが切り出した。
「今朝、スネイプか、彼が人狼だって、生徒に話してたんだ。君は、ハグリッドの手伝いで、居なかったんだね」
「そう。私、ほとんどの朝は外で食べるから。そうか……スネイプか……我が寮監ながらやる事がせせこましい……転寮しようかな……
「歓迎するよ」
 本気でぼやくベルに、セドリックは心からの言葉を送った。


 キングス・クロス駅の9と4分の3番線に向かうホグワーツ特急の中で、ベルはようやくハリー達から一連の謎の答え合わせをすることができた。セドリックが監督生用の車両を使うので、ベルがハリー達のコンパートメントに突撃したのだ。
 ハリー達は、かわるがわる、バックビークの処刑の日に起こったできごとを話した。
 実は、透明マントを着てハグリッドの小屋に来ていたこと。死んでいたと思ったスキャバーズを小屋で見つけたはいいものの、暴れ柳の方に逃げられたこと。それを追いかけたら黒い犬に変身していたシリウスが、ロンごとスキャバーズを暴れ柳の根元に引きずり込み、ホグズミードの外れにある叫びの屋敷まで連れて行ってしまったこと。ハリーとハーマイオニー、そしてクルックシャンクスで追いかけて、それを更にルーピンが追いかけて、シリウスの冤罪と、真犯人であるピーター・ペティグリューの正体が判明し、連行しようとしたが、ルーピンが狼になってしまったので逃げられたこと。その後は吸魂鬼に襲われるなどして、揃って気絶し、全員を追いかけてきたスネイプに保健室まで運び込まれ、ダンブルドアの示唆を受けてハリーとハーマイオニーで時を巻き戻して、助けたバックビークをシリウスに預けることで逃亡を手伝ったこと───
 全てを聞き終わった時、ベルは一言「なるほど」と呟き、コンパートメントに盗聴の類が一切ないことを三度ほど確かめた。とんでもねえ自白もあったもんである。
 冤罪とは言え、シリウスは未だ重罪人のままなのだ。
 その逃亡幇助ともなれば、三人ともとんでもないことになる。ベルもうっかり片棒を担いでいるので、他人事ではない。
「お前らなぁ、いい加減にしなさいよ」
「何言ってるの、ベルも共犯だよ。僕が何か言う前に鎖を魔法でどうにかしたじゃないか」
「お前なぁ…………
 いけしゃあしゃあと言うハリーに、こいつ、スリザリンの素質があるなとベルは思った。それは、キングス・クロスに着いたハリーが、ひと夏世話になるダーズリー一家に向かって放った言葉で、ほとんど確信に変わった。
「父さんと母さんの親友で、僕の名付け親だった人に出会ったんだ。殺人犯だけど、魔法使いの牢獄を脱獄して、逃亡中だよ。ただ、僕といつも連絡を取りたいらしい。僕がどうしてるか、幸せかどうか、確かめたいんだって…………
 家族の顔がサーッと音を立てて青ざめる。ハリーはニッコリ笑っている。
 ベルは、ちょっとだけダーズリー一家に同情した。