桜霞
2024-10-11 02:20:20
71355文字
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魔法歳時記 3

オリジナル主人公:
淋(リン)
あだ名はベル。家名は無い。15歳。日本人だが、堀の深い顔立ちに灰がかった青い目の少女。
小さい頃から山の獣や人外に囲まれて育った。
人の心がちょっとよく分からない。



 イギリスの夏は涼しい。
 一日の中に春夏秋冬入り交じると言われているイギリスの空は基本的に曇っている。夏になると晴れ間が増える気もするが、吹く風は基本的に涼やかだ。
 淋は───周囲からはベルと呼ばれている───眩しい陽射しに目を細めながら書き物をしていた。テーブルには参考書や本がうず高く積まれ、羊皮紙は場所が足らず椅子をひとつ占領していた。
 夏休みが始まって、ベルは毎年のように漏れ鍋の隅を占領していた。漏れ鍋を訪れる客は皆「夏が来たなあ」と笑ってベルを迎えてくれる。
 例年とひとつ違うことがあるとすれば、ベルを訪う梟が増えたことだった。ハリーは帰宅早々、教科書やなんやらを、鍵のかかった物置小屋に取り上げられた、宿題ができないとヘルプコールを出してきた。ベルはいつもより長い手紙を書いてハリーの宿題を手助けしてやっていた。何度もロンドンとプリペット通りを往復するヘドウィグに、いつも悪いね、とフクロウフーズをやっていたら、彼女はベルの耳にも甘噛みしてくれるようになった。
 セドリックも、あまり間を開けずにベルへ手紙を寄越してくれていた。内容は他愛ないもので、課題がどうの、箒で飛ぶ時にマグルに見られないようにだの、様々だった。ホグワーツの尖塔の小さなスペースでしていた会話が手紙でも続くのが嬉しくて、ベルはいつも書きすぎないように気をつけなければいけなかった。
「まるでどこぞのお役人のようだな」
 梟が行ったり来たりしている様を見て、トムが笑いながらお茶のお代りを用意してくれる。微笑んで、ベルは一度羽根ペンを置いた。
「あのご老体はもう飛ばないのかい」
「エロール? あぁ、ウィーズリーはエジプトに行くからね」
「おやまあ」
 ウィーズリー家の梟であるエロールは随分な年寄りで、近くを行って帰ってくるだけでもしんどそうだった。ウィーズリー家とは夏の初めに何度かやり取りしたきりだった。
「今日か明日の新聞に載ると思うよ。パパさんが七百ガリオン当てたんだ」
「載ってるよ、ホラ」
 別のテーブルに座っていた客が新聞を見せてくれる。おやほんとだ、とトムは笑みを深めた。
「そうか、ご長男がエジプトで働いているんだったか。久し振りに家族が揃うのか、いいことだ」
「素晴らしい使い道だよ。親子三人で出かけるのさえ大変なのに、ウィーズリー家は……まあ、咄嗟に数が出てこないくらいの大家族だからな」
「ベルはその点、毎年ひとり旅だろう。気楽かい?」
「毎年200ガリオン吹っ飛ぶのに?」
 二人が揃って瞠目する。そんなに、と客の方が呟いた。
「七月は旅行シーズンだから、もっと高いよ。倍になるかな。だから、この店にお世話になってた方が節約できるの。意味わかんないでしょ」
 その飛行機代を稼ぐために、ベルは日本に帰ると言っても過言ではなかった。
 八月いっぱい、ベルは森の世話をしながら日本全国を回って、シーズン故に悪さをする霊を退治たり、そういうものを利用しようとする人間達を検挙するために一役以上買っていた。
 その間、ベルは宿題ができない。ベルは皆の半分の期間で宿題を仕上げなければならなかった。
「大変だな……次は君にくじが当たることを願ってるよ」
「ありがと」
 ベルに両親がおらず、祖母に面倒を見られていることを、店に関わるものはうっすら知っている。その日からあっという間に話が広まったのか、ベルはご飯やお菓子を奢られることが増えた。ひと月で旅費と宿泊費、その間の食費を差っ引いてもしばらくは何もしないで暮らしていけるだろうくらいに稼ぐベルにはあんまり必要のないものだったが、厚意はありがたく受けとっておくことにした。特にフローリッシュ・アンド・ブロッツ書店の店主が、書店を図書室のように扱うことに嫌そうな顔をしなくなったのは、特に有難かった。本を買うお金が節約できるのも嬉しいが、何よりベルに、個人の本をしまうスペースなんて与えられていなかったのだ。
 七月の末、ベルはほとんど課題を終わらせると、グリンゴッツ銀行で換金し、漏れ鍋からロンドンの、マグルの街の方へ繰り出した。ベルは駅へ向かう途中で、公衆電話に入ると、小銭を放り込んで、ダーズリー家へ電話した。ハリーの後見人の家である。
「もしもし」
「こんにちは。ベルと申します。昨年お邪魔させて頂いた……覚えてらっしゃいますか?」
「あー……あぁ、君か……
 電話に出たのは大人の男の声だった。あの太ったおっさんだな、とベルは気にせず話を続けた。
「今年も少しだけ、ハリーに会わせて頂けませんか? ご都合悪いかしら」
「いや……いや、いや、そうだな。是非来てくれ。そして、昨年のように引き取ってもらうことはできんかね」
「引き取る? 昨年のようにというと、泊まりですか」
「そうだ。実は、親戚がひとり、一週間うちに泊まる予定でね」
「あら、大変。承知しました。今からお伺いしても構いませんか?」
「今から。……あー……もちろん、普通に来るんだろうね?」
「ええ、もちろん」ベルは忍び笑いを零した。「普通に、電車とバスで。今、ロンドンなんです。着くのは夕方になるかも」
「よし……重ねて聞くが、普通の格好だね?」
「パーカーとジーンズに、スニーカーです。すみません、カジュアルな格好で」
「いや、いや、普通なことだ、構わんとも。じゃ、暗くならんうちに頼む」
「承知しました」
 電話が切れる。ベルは笑いを噛み殺しながら電話ボックスから出た。ハリーへのプレゼントは、漏れ鍋でケーキを奢ってやるのに変えよう、と思いながら、駅へ向かう。目下の悩みは一ヶ月間のハリーの宿泊代だが、ハリーと相談して折半しても良いなとベルは考えた。荷物をハリーの泊まる部屋に置かせてもらえるなら、日本に持って帰る荷物が減って、山の者達に白い目で見られることが減るかもしれない。今月は食費がいくらか浮いたので、それくらいはできそうだった。
 イギリスの夏は長い。ベルがプリペット通りに着いたのはもうすぐ夕飯という時間帯で、日も傾いていたが、周囲は明るかった。
 プリペット通り4番地の家も例に漏れず美味しそうな匂いを漂わせていて、ベルは空腹を感じながらピンポンとインターホンを押した。
 ドアはすぐに開いた。ペチュニアおばさんは口の端だけを吊り上げた笑顔でベルを出迎えた。ベルはにっこり笑顔で「こんにちは」と挨拶した。
「ご飯時のお忙しいときに、すみません」
 ペチュニアが何か言う前に、家の奥からハリーが飛び出してきた。
「ベル!」
「おー! 元気そうだな、ハリー……うっわお前でかくなったか?」
 すぐ行こうもう出て行こう今すぐ行こう! と言わんばかりに目をきらきらさせて両脇にトランクとヘドウィグの鳥かごを抱える準備万端のハリーに、ベルは思わず肩を揺らして笑った。
「忘れもんは無いな? よし、行こう。それじゃあまた、来年に」
 ペチュニアは終始口元を釣りあげたまま、ベルに何も言わなかった。ハリーはとても嬉しそうで、ベルはヘドウィグの籠を持ってやった。
「今年はちゃんと食わせてもらったか?」
「まあまあかな。でも、夕飯はまだ食べてないんだ」
「私もだ。近くで食べるか」
「あ、でも、僕マグルのお金持ってない……
「誕生日だろ。奢らせろよ」
 ハッピーバースデー、とウィンクするベル。ハリーはありがとう、と嬉しそうにはにかんだ。
 バス停の近くにあるチャイニーズレストランでチャーハンと餃子、小籠包、チンゲン菜のニンニク炒め、卵スープを頼み、ハリーは胡麻団子と杏仁豆腐もペロリと平らげた。レストランの下はミニマーケットになっていたので、ベルはそこで小さなケーキとお菓子をハリーに買ってやった。
 帰りのロンドン行きの電車は空いていた。ハリーは大荷物で、ベルはヘドウィグの鳥籠を抱えていたが、特に奇異な視線を感じることはなかった。
「ベル、いつまでイギリスにいるの?」
「明日の昼便で帰るよ」
「エッ、もう行っちゃうの」
「悪いな。でも、大丈夫だ。店の人達は皆親切だよ。宿題もたまに見てくれる。物は相談なんだがハリー、私の荷物、ハリーの部屋に置かせてくれない? 部屋代は半分払うから」
「いいよ、もちろん。そっか、部屋代……ウン、大丈夫」
 しっかり頷いたハリーに、ベルは小首を傾げた。
「あー、金はあるか?」
「うん、ある。グリンゴッツに、結構たくさん。びっくりするくらい」
「ほお」
「ホントに宝の山って感じなんだ。大事にしないと……お父さんとお母さんが残してくれたお金だから……
「そりゃあ、ほんとに大事にしないとな」
 うん、とハリーが神妙な顔で頷く。ベルはちょっとどころでなくハリーのことが羨ましくなったが、顔には出さなかった。
 ベルには母の遺産が少しだけあったが、すべて祖母のものになった。そして山の管理費に充てられて、きっともう使い切られている。
 駅や街には、まだまばらに人がいた。時折、壁や掲示板などに人が群がって、ポスターか何かの張り替え作業を見守っていた。

「目撃情報求む
 氏名:シリウス・ブラック
 罪状:殺人未遂
 ブラックは銃を所持しているため、見かけた場合は近寄らず、ホットラインへ直ちに連絡してください」

「あの人、テレビで見た人だ」
「コマーシャルでもやってたか?」
「うん、テロとかなんとかって……
「あいつは魔法使いだよ」
「エッ」
 ハリーは驚いて目を見開いた。
「ど、どういうこと?」
「ヴォルデモートの信奉者だったって話だ。お前の両親が死ぬ前だか後だか、雑踏の中で大暴れして、魔法使い一人と、マグル十二人、合計で十三人殺したって」
「十三人───ひとりで?」
「そう、ひとりで。店の奴らが話してた。捕まえて、ガス爆発ってことにしたんだってさ。でも、アズカバンから脱獄したって」
「アズカバンって……ハグリッドが行かされた……
「こんなことは初めてだって、横丁はちょっとピリついてるな。お前もあんまり一人歩きしない方がいいかもしれん」
「どうして? ……僕が生き残ったから?」
「そうさ」
 事も無げに言われて、ハリーは押し黙ってしまった。
 ロンドンの街をセカセカと歩き、二人は何事もなく漏れ鍋に辿り着いた。
「ただいま、トム。お客さんだよ」
「こんばんは」
「おや、こんばんは! 誕生日おめでとうございます、ポッターさん」
「ありがとう、トム」
 へへへ、とはにかむハリー。
「トム、悪いんだけど、空いてる部屋あったよね? 八月いっぱい、ハリーを泊めてやってくれない」
「もちろん、問題ないよ。今、部屋を用意してくる。少々お待ちを」
 ベルは鳥籠からヘドウィグを出してやった。ヘドウィグはベルの肩にとまり、耳を甘噛みして、今度はハリーの肩に移った。
「ベル、明日、見送りに行ってもいい?」
「よしとけ。明日は早いんだ。銀行の換金所が開く前に出る。今日はゆっくり寝なさい」
「そっか……
 しょんぼりと肩を落とすハリー。ベルは苦笑した。
「八月の最後の週には帰ってくるよ。教科書とかは勝手に見ていいから」
「分かった。ありがとう、ベル」
 トムが呼びに来たので、二人は店の奥にある階段を登った。ハリーの荷物はトムが魔法で運んでくれた。
「ベル、ほんとにありがとう」
「どういたしまして。おやすみ、いい夢をな」
「ベルもね。おやすみ……明日は気をつけてね」
「ありがと」
 軽くハグをして、二人はそれぞれの部屋に入った。ベルは嘆息して荷物を取りまとめ、皆との手紙は羊皮紙の余りで作った大きな封筒に放り込み、表に「プライベート」とバカでかく書いた。これでハリーもおいそれと中を見ることはないだろう。
 最低限の衣服と貴重品、絶対忘れられないパスポート、飛行機のチケット、魔法の杖をザックに入れて、シャワーを浴び、ベルはようやく眠りに就いた。
 翌朝、ベルは無人のカウンターに部屋の鍵を起き、荷物はハリーの部屋に移してもらうよう書き置きをして、朝早いロンドンへと繰り出した。




 一通りの挨拶を終えて、セドリックは監督生用の車両を後にした。いつも汽車で合流する友人達とも話したかったし、それに、八月の間、ずっと手紙をやりとりできなかった新しい友人───ベルとも話したかった。
 ベルがたまに話してくれる日本のことは興味深かったし、何より彼女自身も魅力的だった。授業中はどこかつまらなさそうな、澄ましているのとも違うスンとした表情で、普通に話している時もニヒルに微笑むことが多い。けれどもセドリックの話を聞いて笑ったり、難しい課題に取り組んで百面相をしているところは、見ていて可愛らしかった。自分が何かに気を取られて羽根ペンを動かす手が止まることがあるのを、セドリックは初めて知った。
 果たして、ベルはどのコンパートメントに乗っているのだろう。コンパートメントを覗き込まないようにしながらベルを探すのは至難の業だった。
「おっと失礼」
「悪いな」
「あ、うん」
 ウィーズリーの双子と、狭い通路を譲り合う。同時に、セドリックの脳裏に、夏の初め、双子と一緒に魔法の柵を通り抜けるベルの姿が明滅した。
「なあ、フレッド、ジョージ」
 立ち止まった双子がセドリックを顧みる。
「ベルを知らないか? 挨拶したいんだ」
「知ってるよ。隣の車両のコンパートメントにいるぜ」
 フレッドが顎を上げて指し示す。
「でも、今は声をかけない方がいいかもな。あいつ、まだ寝てるぜ。今朝イギリスに着いたばかりなんだ」
「そうか。ありがとう」
 じゃあな、と双子が身を翻して狭い通路を遠くへゆく。セドリックは進むか戻るか迷ったが、結局は進むことにした。こうしている間にもベルが起きているかもしれないからだ。
 隣の車両はそれなりに生徒はいたが、寝ている生徒はほとんどいなかった。セドリックはとあるコンパートメントでミノムシのように毛むくじゃらになって丸くなっている生徒を見つけた。目の上しか外に出ていないが、たぶん、ベルだ。セドリックは小さくノックをして、コンパートメントにするりと滑り込んだ。
「やあ」
「こんにちは」
 コンパートメントには先客がいた。赤毛の白い肌にソバカスがある。ウィーズリー家の子かなと当たりをつけて、女の子の向かいに座った。
「セドリック・ディゴリーだ。初めまして」
「知ってる。ジニー・ウィーズリーよ」
「この寝てる生徒って、ベルだよね」
 隣で丸くなっているベルを指すと、ジニーは目をぱちくりとさせた。
「ベルを知ってるの?」
「ちょっとね。ジニーは?」
「仲良しなの。ほんとのお姉ちゃんみたいな人なのよ。ベルがグリフィンドールだったら良かったのにって、いつも思うの。言わないけど……
 二人はベルが起きないようにヒソヒソ声で会話した。
「ねえ、私、お邪魔かしら」
 ジニーが唐突にそんなことを言うので、セドリックは驚いた。
「そんなことないよ。ベルに久しぶりって言いに来ただけなんだ。ホグワーツだとなかなか会えないし……彼女、面白いよね。これ、毛皮かな」
「ベルのお気に入りよ。暖かいんですって。ハンテンって言うの」
「ハンテン」
 ジニーはよくベルに話をせがんでいるのか、ベルのことをよく知っていた。少し得意気に話す様子から、とても自慢のできる姉と思っている節がよく伺える。セドリックは微笑ましくなった。
「ちょっとミノムシに見えない?」
「セドリック!」
 非難がましく言うジニーもしかし、堪えきれなくなったのか声を殺して笑っている。瞬間、ぱち、とベルの目が開いた。
 あ、と二人が固まる。薄い灰青の瞳はきらきらと光って、しかしその眉間には険しくシワが寄っていた。
「ベル、」
 ごめん、と二人が謝ろうとしたその時、ゆるやかに汽車が止まった。かち、かちち、と照明が点滅したかと思いきや、電気が消える。
「、え、なに?」
「シー、落ち着いて。僕が車掌のところに行ってくる」
「駄目だ」
 低い声だった。それがベルの声だと理解できるまで、二人には少し時間が必要だった。
「座れ、二人とも。動くな」
「ベル、」
 シィ。
 ベルのそれに、二人とも押し黙らざるを得なかった。ベルの纏う空気はいつもとまったく違っていて、形容し難い圧を放っていた。
 セドリックはいつでも魔法を使えるよう杖を構えていたが、ジニーはふとした瞬間に感じた冷気に、骨身の髄まで震えが走って、思わず膝を引き寄せて自分を抱き締めた。気配に気付いたのか、「ジニー」優しい、いつものベルの声が近くでして、ふわりと暖かい何かが掛けられる。指で触るとふわふわ、さらさらとしていて、ジニーは暗闇の中でそれがベルの毛皮のハンテンだと分かった。
 上着越しに、ベルが腕をさすってくれている。ジニーはほっと息をついて、ベルにもたれかかった。ベルが抱きしめてくれるのに甘えて、彼女に埋まるようにして目を閉じる。
 不思議な感覚だった。暖かな上着と、ベルの体温越しに、冷たい気配を感じる。気分が暗く落ち込んでゆく気がするのを、ジニーの心は、離れたところで見ているような心地だった。
 辛くて、苦しくて、悲しいのに、それが平気と思える自分もいる。何せ、こんなにも暖かで安心するものに包まれている───何かが来ている。何かが近くにいる。
「───去れ」
 ベルの声が、おどろおどろしくも厳かに響いた。
 少しして、何かの気配は遠のいた。ベルの腕が緩んだので、ジニーも体を起こした。
「大丈夫か、ジニー」
「うン……なんだったの……?」
「さァ、わからん。死霊よりは生霊に近かったが……まだ汽車の周りにいるな」
 ベルが遠くを見渡すように視線を巡らせる。
「やれやれ、気持ちよく寝てたっつーのに。おはようジニー。セドリックも、久し振り。大丈夫?」
「ありがとう、大丈夫だよ。久しぶり」
 セドリックは笑ったが、その顔は青かった。ジニーもまだ冷えている気がしたので、ベルの毛皮のハンテンを手放せなかった。ベルは瞬くと、ジニーの隣からセドリックの隣に移動した。
「?」
「向こう向いて」
「え」
「いーから」
 肩を掴んで、ドアの方を向かされる。す、と背中に何かが触れた。ベルの手だ、と気付いたときには、背中の辺りから暖かいのがふわりと身体中に広がって、セドリックは無意識に入っていた肩の力を抜いた。
「どう?」
 ベルの手が離れる。セドリックは椅子に座り直した。
「だいぶ良くなったよ……ありがとう」
「良かった」
 寧ろ暑いくらいだった。すっかり顔色が良くなったセドリックに、ベルも微笑んだ。
「うん、セドリックって感じだ」
「何したの? 魔法?」
「ちょっと違うけど、まぁそんなもん。ハーマイオニーに言うなよ、絶対習得しに来るから」
 嫌そうな顔を隠しもしないベルに、ジニーが「オーケー」くすくす笑いながら頷いた。
「それにしても、今の、なんだったのかしら。お城に着いたら、暖かいココアが欲しいわ」
「そうだな、それが良さそうだ。セドリックは何か知ってる?」
「え、君、知らなかったの」
 セドリックは素直に意外に思った。知っていたから、セドリックを助けられたと思ったのに。
「あれは吸魂鬼、ディメンターだよ。アズカバンの看守だ」
「アズカバン?」
 息を呑んだジニーが口元を手で抑えた。ベルは訳が分からないというように眉を寄せている。
「なんだってそいつらがこんなところにいるんだ」
「さァ……でも、シリウス・ブラックに関わりのあることには違いないよ。彼が脱獄したのは知ってるだろ?」
「知ってるけど……あんなオッサン、こんな列車じゃ目立ってしょうがないだろ。例のあの人の腹心ならそれくらい頭の回りそうなもんだがな。ホグワーツが目的なら、村からでも行けるんだし」
「ホグワーツに来るの?」
 ジニーの怯えた様子に、ベルはひとつ瞬いて、気の抜けたように苦笑した。
「せっかく脱獄したんだ、ダンブルドアのいるところに突貫かけるより、どこか海外に高飛びする方が賢いと思うがね。どうせ取り越し苦労さ、気楽にしていな」
……うん……
「ホグワーツはいろんな魔法に守られてる。心配いらないよ」
「うん……ありがとう、セドリック。ベルも」
 ジニーは立ち上がって、上着をベルに返した。
「私、ハーマイオニー達の所に行ってみる。ダメそうだったら、ベルのところに連れてくるわ」
「オーケー、任された」
 鷹揚に頷くベル。ジニーは「また後でね、」とコンパートメントを出て行った。ジニーの気配が遠くなって、やれやれとベルが嘆息する。
「姉ちゃんやるのも楽じゃねえな。狙いはハリーか」
「たぶん……シリウス・ブラックは例のあの人の直属の部下だったって聞いてる。例のあの人が頂点に立ったら、自分が二番手になれるって考えてたのかもしれない」
「敵討ちか。これほど便利な大義名分もねえだろうな。我が弟分ながら、随分な因縁だねえ」
 セドリックは、じ、と半眼のベルを見つめた。視線に気付いたベルが瞬いて、なによ、と眉を上げ、口をちょっと突き出す。
「きみ、……怖くないの?」
「ん? なにが?」
 けろり、いっそキョトンとしているベルに、セドリックは言葉を失った。
「吸魂鬼? それともシリウス・ブラック? 吸魂鬼にビビってたらうちの山じゃ生きていけないし、シリウス・ブラックにビビってるようじゃ私は毎年の飛行機代200ガリオンを稼げないよ」
………………………………………………そうか」
 たっぷり間を開けて、漸う、セドリックが言えたのはそれだけだった。
……やれやれ、もう一寝入りしようにも、もうすぐ学校だ」
 ベルはあくまでも自然に毛皮を肩にかけて、トランクを空いている椅子に乗せた。
「着替えなきゃね。あんたも戻らなくていいの? 監督生」
……あぁ……、そうだね。また学校で」
「またね」
 にっこり微笑んで、コンパートメントを出て行くセドリックを見送る。
 足音が遠くなって、ベルは特大の溜息をついた。

 ───ありゃあ引かれたなー……ドン引きって顔してた。

 ここがコンパートメントじゃなかったら、めちゃくちゃにうつ伏せになって項垂れているところだった。ベルはなんだか泣きたい衝動に駆られたが、けれどもセドリックの前で取り繕うことだけはしたくなかった。彼はいつも真っ直ぐにベルを、そしてリンを見てくれていたから。
 ベルはのろのろと着替え、やっぱり少しウトウトとし、いつの間にか戻ってきたウィーズリーの双子に起こされて、ぽやぽやした顔のまま、二人に手を引かれて馬車に乗り込んだ。
「そうだ、セドリックとは会ったか? 探してたぞ」
「いつの間に仲良くなったんだ?」
 興味津々、といった双子の様子に、ベルは眠そうな顔で何事かむにゃむにゃ言った。
「は?」
「なんだって?」
「うるせえな、もう話せないから、いーんだよ……
 どこか投げやりのそれに、双子は思わず顔を見合せた。
 新学期初日からくさくさした気分で始まるのかと内心不貞腐れていたベルはしかし、ダンブルドアが新しい魔法生物飼育学を担当する先生がハグリッドになったと発表した瞬間にパッと心底嬉しそうな顔をした。めでたい、と思うがしかし、冷静な頭が、はた、とベルを止める。
 果たして、ハグリッドに授業ができるのか。ホグワーツを退学して森番の仕事しかしてこなかったハグリッドが、人に物を教える?
………………
 ベルは一抹の嫌な予感を覚えた。
 まず、あの獣じみた教科書を指定してきたの間違いなくハグリッドだ。そして、ハグリッドが教えたことのある生徒と言えば、地元で似たような仕事の経験があった、自分だ。
…………………………
 対するは、忌憚のない意見を容赦なく大人にぶつけることを躊躇しないこどもたち。ベルもその内のひとりである自覚がある故に、苦い顔をせざるを得ない。
 ハグリッドに、いわゆるちゃんとした授業は無理かもしれない。ベルは少なくとも自分の参加する授業では絶対に積極的に参加してやろうと決めた。そして、一生徒として、ハグリッドを立派な教師に鍛え上げてみせる。いいや、そこまでしなければならない。
 ベルは初めて使命感というか、おれがやらなければという危機感、焦燥感に燃えていた。この時の彼女からは、セドリックとのやりとりなど、とっくに彼方へ消え去っていた。



 ベルの決意虚しく、初日から問題が起きた。マルフォイが魔法生物飼育学の授業で、ヒッポグリフに怪我を負わされたのだ。ベルは授業が終わってからすぐにハグリッドの小屋へすっ飛んだ。
「ハグリッド! うっ」
 小屋の中はアルコールの匂いでいっぱいだった。テーブルの上にはベルの顔ほどもあるでかいジョッキがドンと置かれてあり、見なくてもハグリッドが酒を入れているのが分かる。
「ハグリッド、しっかりしろって」
 ハグリッドは何事かむにゃむにゃ言って、しかしテーブルに突っ伏したまま動こうとしない。もしかして、とベルは近くの畑や家畜小屋の方を確認して回った。
 バン、と肥料や水がそのままの畑があれば。
 ババン、と糞尿や餌がそのままの畜舎があり。
「わーーー! 何もやってない!!!」
 ケトルバーン先生が居た頃は先生とハグリッドで上手い具合に分担作業をして、それをベルがたまに手伝っていたのが、今やハグリッドのみに一任されているのだ。ハグリッドが潰れれば自然とこうなる。加えて、吸魂鬼なんてものを学校の周りに配しているせいで、獣達は特に落ち着きかない。
「わー、わー、わー、……えーっとえーっとえーっと」
 餌をくれ、何はともあれ餌をくれとぎゃんぎゃん喚く動物達に、ベルはパニックになりかけたが、まずは掃除と杖を取り出した。
 日が沈むまで間もない。自分の飯は、最悪寮に帰る前に、厨房の屋敷しもべ妖精に頼んでどうにかしてもらえばいい。けれども禁断の森の近くで夜分遅くに生徒がウロチョロしていたとなれば、吸魂鬼などに取り入る隙を与えることになる。ベルは今までで一番と言っていいくらいに全力疾走で、いつもは手ずからやるところを魔法にすべて任せ、なんとか半日分の作業を二時間で終えた。
「ハグリッドお前マジでいい加減に……あら、」
 ベルがヘトヘトで小屋に戻ると、ジョッキを持ったハーマイオニーと入れ替わりになった。ばしゃん、と地面に酒を撒いている。
「ベル、」
「来てたの?」
「ああ、マルフォイだろ。すまんな、うちの寮生が」
 眉を下げるベルに、ハリーとロンは「ベルのせいじゃないよ!」「マルフォイが悪いんだ、全部!」口々に言い募った。
「バックビーグを侮辱したんだ、ハグリッドは絶対やっちゃいけないって言ってたのに!」
「そんなこったろうと思った……
 疲れた、とベルがソファの肘掛に背中と足を預けるようにして座る、というより横になる。入れ替わるようにして、ハグリッドは水桶にザバンと顔をつけた。
「悪いね、励ましに来てくれたんだろ。ありがとね」
「ううん、当然だよ」
「ねえベル、バックビーグ、どうなるかな……
「最悪、殺処分だな」
 殺処分、とハリー達が沈む。
「そんなことには絶対させないわ。そうでしょ、ベル」
「ったりめえよ。任せな」
「ふう、さっぱりした。おお、ベル」
 ようやく酔いが醒めたらしいハグリッドに、ベルは「なーにが『おお、ベル』だ」と半眼になって口をいーっとさせた。
「バックビークの授業なんぞ私が受けたかったわ!! マルフォイ如きにに引っ掻き回されておじゃんにされやがって!! 挙句の果てに酒に逃げて私に仕事全部任せるとか、そこに直りな!! 根性叩き治してやるァ!!」
「ベル!! もう帰ろう!! ハグリッドは休まなきゃ!!」
 杖を振りかざそうとしたベルの腕に、慌ててハリーがしがみつく。それを見たハグリッドが素っ頓狂な声を上げた。
「あ!? ハリーがいる!? こんな時間に!!?!?」
「オメーは今まで誰と話しとったんだ!!!!」
 更に爆発するベル。
「お前さんたち、なんでこんな時間にこんなところに来た!! 夜に外になんか出ちゃなんねえ!! 俺なんかに会いに来るな!!!」
「なんだとテメーッ!!!!」
 バァン、と天井が揺れた。ベルの魔法が直撃したのだ。ハーマイオニーが慌てて戸を開け、ロンがベルのもう片方の腕にしがみつき、ハリーと二人がかりでベルを外に引きずり出した。
「今晩ゆっくり寝られんのは誰のお陰だと思ってやがるーーーッ!!!」
 ありがとうよ、とハグリッドのぼんやりした声が遠くから響く。ベルは小屋がだいぶ遠くになってくると大人しくなったが、しばらくは憮然とした表情のまま、ハリーとロンに引き摺られていた。
 ハーマイオニーが城の門を開けてくれて、ベルはようやく自分の足で立った。
「ベル……その……
 ベルはむい、と唇を突き出した。拗ねてる、とハリー達は思わず顔を見合わせた。
「初めての授業だから手伝えって。言ってくれたら良かったのに」
「ベル……
 ぶつくさと吐き捨てるベル。
 ハリー達は苦笑し、今度はベルを励ました。
「ハグリッドは、ベルにもサプライズしたかったんだよ」
「バックビーク、僕にはすごく良くしてくれたよ」
「そうよ。誰だって最初は失敗するわ。それに、ハグリッドはちゃんと学べる人よ。次は大丈夫よ」
 ふと、しょんぼりしていていたベルの腹が、くう、と控えめに主張する。四人は揃って音のした方を見て瞬き、顔を見合わせた。
「そういや、飯忘れてた。食って寝るわ。難しいことは、それから考える」
「それがいいよ」
 ハリー達が揃って頷く。
「でも、大広間は閉まっちゃったんじゃない?」
「大丈夫。アテはある。三人とも、ありがとな」
「ううん。ほんとはマルフォイを止めたかったんだけど」
「面倒かけてほんとにすまんな……
 ベルのせいじゃないよ、とハリー達は首を横に振った。
「ねえベル、今度、話す時間ある? いろいろと相談したいんだ」
「いつだって大歓迎さ。ヘドウィグ飛ばしてくれ」
「うん、分かった」
 またね、と階段のところで別れて、ベルはまず厨房へ行った。食事を確保し、寮へ戻る。談話室の隅でさっさと食事を済ませると、ベルは三年生たちに絡まれるより先に自分の部屋へと退散した。今ハグリッドのことを貶されたら冷静でいられる自信がなかったし、マルフォイの自業自得だと正論をぶつけても、聞く耳を持って貰えないことは明らかだった。



 翌朝、ベルが受け取った手紙はハリーからのものではなかった。

「ベル

 ホグワーツの森番の仕事について、話があります。今日の放課後、校長室に来るように。

 マクゴナガル」

 フォークを咥えたまま、ベルは半眼になって片眉を上げた。これまでのハグリッドの手伝いはベルの気分転換も兼ねてのことだったのだが、今年はなんかしらあるんだろうか。
 あるんだろうなあ、と吸魂鬼の姿が脳裏に浮かぶ。十中八九、間違いなく、吸魂鬼についてのことだろう。あの手の存在は生きているものを存在しているだけで脅かす。禁じられた森がざわついているのは肌で感じていたし、このまま放置しておけばハグリッドはもっと大変になる。
 ……ということは、授業の方も大変になって、かつ、手伝うベルも大変になる。
 無性に、ケトルバーン先生に戻ってきてほしい。ベルは険しい顔をして、なんとかしてそれを飲み込んだ。


 ベルは一日中ヘドウィグの姿を探したが、結局彼女はその日のうちに現れることはなかった。ベルは「なんだかなぁ」という顔をしながら校長室を訪った。ベルにとって死霊とも生霊ともつかない何かと対峙するのは夏の風物詩であったので、正直気が進まない。
 校長室の前を塞ぐガーゴイルの前で待っていると、マクゴナガル先生がキビキビした足取りでやってきた。軽く挨拶をし、マクゴナガルが合言葉を言って、二人で連れ立って中に入る。
「おお、先生。それに、ベル。よく来たの」
 かけなさいと言われ、ベルは素直にソファに腰掛けた。ダンブルドアも腰掛けて、マクゴナガルがその近くに控える。魔法のかかったティーポットやカップがひとりでに動き、ベルは両手で紅茶を受け取った。
「どうも」
「クッキーはいかがかな」
「頂きます」
 ベルがクッキーをサクサク食べるのを目を細めながら見つめ、ダンブルドアは節くれだった指を組んだ。
「さて、ベル。ホグワーツ特急では、吸魂鬼に一歩も引かなかったとか」
「はぁ」
「君は、魔法生物だけでなく、あの手の生き物にも見識があるのかね?」
「ありますよ。うちの国じゃ、夏にうじゃうじゃ出ますからね、似たようなのが」
 マクゴナガルが眉をひそめる。ダンブルドアはそうか、と頷いた。
「では、やはり君が適任のようじゃの。察しておるかもしれんが、君にハグリッドの補佐を、本格的に頼もうかと思っておる。ハグリッドが先生と呼ばれるのに慣れるまでな」
「曖昧この上ない任期ですこと」
「それに関しては、すまんと言うしかないのう」
 ベルはティーカップを揺らす指を止めた。揺蕩う紅茶を見ていた視線だけを上げる。ダンブルドアは、静かにベルを見つめていた。
「受けてくれるかね?」
「いいですよ」
 即答して、ベルは瞼を伏せた。ダンブルドアがすまんと言ったので、まあ許してやろうという心持ちだった。
「ありがとう。しかし、吸魂鬼を倒すようなことがあってはならん。本格的な補佐は、君が守護霊の呪文を使えるようになってからで良い」
「じゃ、お断りします」
 ベルはティーカップを置いた。手のひらを返したベルに、マクゴナガルが瞠目して顎を引く。
「私にあの呪文は使えません」
「それは、奇しくも、君に適任な『闇の魔術の防衛術』の先生がいなかったからじゃと、わしは思うとる」
「仕事で死んでも、教員の責任にはなりませんよ、先生。それに、私の死の責任を追求するような人も、あなた達を訴えるような人もいません」
 ベルは立ち上がった。
「ルーピン先生がいくら優秀でも、私にあの呪文は使えません。それ以外で何とかします」
「では、この話はなかったことにしよう。君がハグリッドの手伝いをするのも禁ずる。危険じゃからな」
 ベルが片目を眇める。ブルーの瞳が真正面から視線をぶつけ合い、両者共に譲らない気配が部屋中に満ちた。
 マクゴナガルが口を挟もうとしたちょうどその時、「失礼します、校長先生」と新しい声が部屋に入ってきた。瞬いたダンブルドアが立ち上がる。
「おお、ルーピン先生。ちょうど君の話をしとったところじゃ」
「そうですか。すみません、遅れまして」
「いやいや、ちょうどいいところに来た。紹介しよう、ミス・ベルじゃ」
 どうも、とベルは会釈した。改めて向き合うと、リーマス・ルーピンはまじまじとベルを見つめていた。ベルが瞬いて、なにか? というように眉を上げても、ちょっと顎を傾けても、これといった反応が無い。ベルはほんの少し戸惑って、助けを求めるかのようにマクゴナガル先生の方を見やった。
「実は、ルーピン先生に、彼女の個別指導を頼もうかと思っての」
 弾かれたように、ルーピンが顔を上げる。
……なんですって?」
「個別指導じゃ。守護霊呪文のな。彼女は入学してからずっとハグリッドのことを手伝ってもらっておってのう。今後とも是非協力頂きたい。彼女のためにもなろう」
「あぁ、そういうことでしたら。承知しました」
 ルーピンが再度ベルに向き直る。
「放課後に、防衛術の教室で。構わないかな?」
……分かりました。よろしくお願いします、先生」
「よろしく」
 ルーピンが微笑む。ベルも微笑み返し、最後にダンブルドアを冷え冷えとした流し目で一瞥し、「失礼」短い挨拶を残して身を翻した。

 ───あいつめっちゃ人狼じゃん。ダンブルドアは何考えてんの? とうとう耄碌したか?

 遠くから見て分からなかったということは、おそらくは薬か何か使って気配を殺してるんだろうと推察する。リンはなんだか面倒なことになっちまったな、と少々投げやりな気持ちになっていた。

 ───純粋に、実力を買ってくれたんだと思ったのに。

 なんだかやる気になれなくて、ベルはいつもの尖塔のてっぺんに登ることにした。あそこから雄大な景色でも眺めていたら、多少は気分が晴れようというものだ。
 尖塔には、窓とはあまり呼びたくない、小さな隙間がある。ちょうどベルの上体くらいの長さで、幅は肩より狭いくらい。そこからは、空と、どこまでも続く丘陵と、流れる雲しか見えない。たまに生徒たちが箒に乗って遊んでいるが、その程度だ。ぽけらっとするには最適の場所だった。
 窓の縁にもたれながら、このところ、こうやってぼけっとする時間がなかったなと思う。どうしてかというと、ここに来る時は大概セドリックが居たからだった。鞄の中に入れた課題が、勉強のためなのか、セドリックとの話題のためなのか、境界が曖昧になっていたのを、敢えて無視していたなと、改めて気付く。
 セドリックは結局、無言呪文を使えるようになったのだろうか。ベルとの時間は、少しでも役に立ったのだろうか。……考えても答えの出ない問ばかりが、くるくると浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。ハグリッドはどうしよう、とか。バックビークはどうしよう、とか。
 マルフォイのやつ、どうしてくれよう、とか。吸魂鬼の牽制役やるの、嫌だな、とか。
 ぼうっとしているうちに、なんだか泣きたくなってくる。気付けば、斜陽が目に染みていた。天頂の方は、とっくに夜の帳が降り始めている。ベルは空腹を感じたが、なんだか動く気になれなかった。大広間で食事をするのが億劫で、いつまでもここでダラダラと過ごしていたかった。
…………?」
 ふと、ベルの耳が、階段を上がってくる音を捉えた。フィルチか、と思ったが違う。この足音に、この気配は、覚えのある、
「───ベル、」
……セドリック…………
 セドリックは少し驚いた顔をしていたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「もうそろそろ談話室に戻る時間だぞ」
「、あ、うん……
 驚いたところからなかなか戻って来れなくて、ベルはなんとなく、半ば逃げるようにしてセドリックから視線を逸らし、小さな窓の外の方に向けた。斜陽は益々輝き、夜の星々が今まさに空を覆い尽くさんとしているところだった。
……忙しかった?」
「まぁ……
「そっか。何見てたの?」
「なにも……ぼけっとしてただけ……
「そう」
 どうしてだろう。少し気まずい。ベルはほとんどセドリックから顔を背けていた。
 もう来ないと思ってたのに。もう、去年みたいに喋れないんだと諦めてたのに。
 息ばかり苦しくなる。どんな顔をすればいいのか分からないし、どんな風に喋ってたかも思い出せない。
「ベル」
 心臓が、音もなく止まる。全ての音が掻き消えて、体は声のした方を振り向こうとするのに、心が嫌がって、ぎこちない動きになる。
 おそるおそる、セドリックの方を見上げると、そこにはいつも通りの、穏やかに微笑むセドリックがいた。涼やかな灰色の目が、優しく、ベルをまっすぐ見つめている。
「疲れた?」
「───」
 とす、と心臓を貫かれた。
 ぶわりと涙が溢れそうになる。反射的に堪えようとして、ベルは眉間に力を入れた。
 だって、まだ、新学期から一週間も経ってないのに。
……つかれて、ない。ぜんぜん……
「そうかな」
 声が震える。喉に上手く力が入らない。手にも、足にも。ベルの言うことを聞く力は、どうにも残っていないらしかった。
「ちょっと、……嫌なこと、あったから……
「そっか」
 セドリックは、ぱ、と両腕を広げた。瞬いて不思議そうな顔をするベルに、「ハグ。いる?」と優しく笑う。
 ベルが目を丸くした。セドリックは、ベルの答えを待たずに、ベルを抱き締めた。
 頼り甲斐のある、自分よりすごい、大人顔負けの魔法使いと思っていた彼女は、想像以上に小さくて、細かった。自分の腕の中にすっぽり収まる柔らかさで、セドリックはできるだけ苦しくないように、けれどもしっかりと抱き締めた。
 戸惑う気配はいつしか薄れて、ベルは額をセドリックの肩の付け根辺りに擦り付けた。楽に息ができるようにもたれると、そのぶんさらに、ぴとりと密着する。
「嫌なことは、ヒッポグリフのこと?」
……それもだけど……
 やはり一番嫌なことは、守護霊の呪文だった。
 呪文は言える。覚えている。エクスペクトパトローナム、守護霊よ来たれ。
 でも、この呪文は、呪文を成功させるイメージでは使えない。
 これまでの人生で一番幸せだった頃を思い浮かべないと、守護霊は顕れない。
 ベルに───淋に、守護霊の呪文は使えない。
 淋は、今までで一番幸せだったと思ったことなんて、一度も無かったのだ。



 セドリックに促されて、ベルはどこか沈んだ気持ちのままスリザリン寮まで戻ってきた。セドリックは悪戯っぽく、「次は減点だぞ」なんて言って、ベルが寮のドアを潜るのを見送ってくれた。そう言えば、セドリックは監督生だった。
 いいやつだなあと、しみじみ思う。
 傲慢にも実力の彼我の差を詳らかにして煽り立てるような奴を、軽蔑だの小馬鹿にするだのしないで、今まで通りに接してくれた。……ハグは初めてだったけど。元気がないように見える奴を、慰めて励まそうとしてくれたのだろう。
 ベルはベッドに潜り込みながら、幸せってなんだろうと考えた。
 守護霊の呪文を試したことはある。まだ英語が分からない頃、どこまで課題をすればいいのかよく分からくて、手当り次第に魔法を練習していたとき。どうにもこうにもいかなくて、何度も辞書と睨めっこをして、自分なりに幸せだと思った瞬間を思い浮かべて頑張ってみたが、結局は白いほわほわしたものしか顕れなかった。
 寒い冬、羽毛ぶとんの中で微睡むとき。温泉にのんびり浸かるとき。桜吹雪に包まれたとき。夏になって、川の冷たいのでひとりはしゃいでいたとき。実りの秋、真っ黄色に染まる世界、甘く焼いたサツマイモ。
 そのどれもがダメだった。お手上げだ。
 物語の登場人物は、家族や無二の親友、最愛のパートナーを思い浮かべることが多かった。どれも淋にはいないものだ。
 他には、苦労が報われた時。難しい試練を踏破した時。そうして、何がしかを得た時。淋は日々外国語に苦労したり理不尽なことでいじめられたり、勝手に立場を決められて陰で笑われているが、それが何か報われた試しはない。夏の仕事で苦労することはあるが、報酬を受け取ったときは、約束が果たされたことへの安堵と、200ガリオンという目標までの遠い道のりへのしょっぱい気持ちだった。
 淋に守護霊の呪文は使えない。それに、吸魂鬼が傍にいたって、淋は平気だ。そういう風に鍛えられた。そうでなければ生き残れなかった。
 ……結局、ベルはよく分からないまま眠りに落ちた。夢の中で、ベルは白い大きな山犬の背にうつ伏せに寝っ転がって、ウトウト微睡んでいた。


 ハグリッドの授業はフロバーワームから始まり、ボウトラックルの観察、彼らが住む木の世話、パフスケインの手入れ、ビリーウィグの針の採取、マートラップの触手の手入れなどが続いた。これは言わずもがなハグリッドの作業を手伝っていたベルが、ふと「手が足りなけりゃあ、他から調達すればいいじゃい」と気が付いたことにより考案された方法だった。つまりは普段ベルがやっているような作業を生徒たちに授業の一環としてやってもらおう作戦、である。
 ホグワーツにいる魔法生物については、大概が教科書に載っている。加えて、ハグリッドも生徒たちに指示を出しやすいし、人の手に世話されることを慣れている彼らなら、生徒達に早々危害は加えない。
 まずはこれで、ド素人兼未経験者に教えることに慣れてもらおうというベルの作戦は、結構かなり上手くいった。初週はずっとしょげていたハグリッドが、日に日に元の調子に戻りつつあったからだった。生徒達に楽しんでもらうコツを覚えたらしいハグリッドは、積極的に「次はこいつなんかどうだ」とベルに相談するようになっていた。ベルは「それやりてえならこいつ先にやった方がいいだろ」とハグリッドを止めたり、「いいね。たまにはそういうのがなくちゃな」と背を押してやったりしていた。ベルは、誰かに相談に乗って欲しかったら、一番最初にちょっとのお節介を焼くのは必要なことなんだなと学んだ。
 一方で、守護霊の呪文の練習は、上手くいかなかった。
「幸せだと思ったことがない?」
 最初の授業で、ベルは正直に打ち明けた。半ば投げやりだったが、言わないよりはいいと思ったのだ。
 ルーピンは何かを教えるというより、ベルの話を聞く体勢を取った。具体的には、杖をしまった。
「確かに、それなら、……守護霊の呪文を練習するのは難しいね」
 思案しながら、ルーピンは言葉を慎重に選んでいるようだった。
「一度、呪文を試してみたことは?」
「あります」
「その時に思い浮かべたのは、なんだった?」
……故郷の景色……
……そんな顔になってしまうようでは、呪文の練習は難しいかもな」
 ルーピンは苦笑した。ベルは眉を寄せて、どこかむつかしい顔をしていた。
「故郷で、何かあったのかい?」
「あったというか…………嫌われてるんです。よその国の血が入ってるから」
「それは……
 ルーピンが言葉を詰まらせる。ベルはなんだか申し訳なくなってきた。
「綺麗なところなんですけどね」
 散々迷って、ようやく絞り出せた言葉は、どうにもチープで、言い訳がましかった。
「ちょっと、……なんというか……英語での説明が難しいんですが……地方独特の……ルールとか……いろいろあって……死んだ母と私は除け者ですね。仕事はさせてもらえるんですけど」
……なるほど。……君にとって、故郷は、どちらかと言うと、職場に近いんだね」
「そう……かも」
 確かに、とベルは付け足した。言われてみれば、夏休みに家に帰る皆の表情は大抵きらきらしている。夏季休暇が終われば、どこそこに行ってきた、こんなことがあったと、色んな話を楽しそうにしていた。ベルは自慢話ねハイハイと聞き流していたが、普通は、故郷に帰るって、そういうものなのかもしれない。吸魂鬼のような生霊や死霊をばったばったと黄泉に送り、それらを狙って悪どいことをする人外化粧共や、それらを利用する人間達と戦うことは、確かに、周囲が『故郷に帰る』という言葉に感じるものとは違うのだろう。
「じゃあ、ホグワーツでの生活はどう? 楽しいかい?」
「うん……まあ……
「ふふ。勉強は面倒かな?」
 悪戯っぽく言うルーピンに、ベルは少しだけ相合を崩した。
「面倒ではないけど……最初は、英語が分からなくって、それでいじめられてたから。友達はあんまりいないかも」
「そりゃひどい」
 ルーピンが痛ましそうに眉を下げる。お食べ、とチョコレートを差し出され、ベルは瞬いて受け取った。持っておくのもなんなので、早速頂くことにする。
「じゃ、数少ない君の友達について聞いてもいいかい?」
「えーと。フレッドとジョージは、仲良いと思う。寮が違うからあんまり話さないけど……いじめられてたの、助けてくれてた。そこから、ウィーズリー達とは仲良くなって、家にも呼んでもらって……ハリーは、ハグリッドが入学前にダイアゴン横丁に連れて来てて、そこでたまたま会って。ハーマイオニーは、ハリーと喋ってる内に知り合いになったかな」
「そうか。他には?」
 他には。……思い浮かぶ人はひとりいるが、どうにも、なんとなく、話すのが躊躇われる。
「他には……セドリック」
 友人として彼を挙げないのも何か違うと思って、ベルは結局セドリックの名前を口にした。
「去年、決闘クラブで模範演技の時にした無言呪文が、結構、噂になって……それで、話しかけてくれて……
「無言呪文が使えるのかい? 去年ということは、三年生で? すごいじゃないか」
 ルーピンが素っ頓狂な声を出したので、ベルは思わず面食らった。ぱちぱちと盛んに目を瞬かせて、慌てて「ア、イヤ、それほどでも」なんて頭の後ろの方をカリカリする。
「しかし、そうか」
 ふむ、とルーピンは思案する素振りを見せた。
「すると、後は本当に、君次第だね。よし、それじゃ、宿題を出そう」
「ええ……
 嫌そうな態度を隠しもしないベルに、ルーピンは微笑ましく、ニッコリと笑った。
「来週また、君が一週間、どんなことをして、何を感じたか、私に教えてくれ」
 優しく諭すように言われ、ベルはむい、と唇を突き出したが、それだけだった。ひとつ瞬いて、結局、最後には「はあい」と言って、ルーピンに見送られるがまま、教室を後にした。
 ルーピンとの課外授業は、終始そんな感じだった。二週目からは、紅茶とお茶菓子がたくさん用意されるようになった。

「魔法薬を作る時に、また鍋が爆発して」
「大変だったね。悲しかった?」
「鍋が爆発するのは面白いけど、でも、スネイプ……先生に怒られるのはちょっと怖い。嫌かな……

「パルスケインの世話をしてたら、皆に群がられちゃって、パルスケインに埋まっちゃうような感じになって」
「世話をする方からしたら、嬉しい悲鳴だね」
「うん、そう、ふわふわで楽しかった。毛だらけになったけど、いつものことだし」

「マルフォイが、ヒッポグリフのバックビークの爪で怪我したことをまだ引っ張ってる。バックビーク、殺処分にならないかな……一応、裁判の判例とか調べてるんだけど」
「心配だね。バックビークは大切? 喪われたら悲しいね」
「うん……そう。悲しい。泣いちゃうかも……

「なんかハーマイオニーが隠してるくさいんだよね。一日二十四時間以上過ごしてる感じがする。昼に会うのに、ハーマイオニーは夕方の感じなの。分かる?」
「言わんとするところは分かるよ。彼女の話は私も聞いている。随分たくさんの授業を取っているようだから、心配かい?」
「うん、心配。大変すぎると良くないし……

「セドリックと話す時に、話題がなくなると焦る。別に、無理して話さなくてもいいんだろうし……セドリックは五年生だから、無言呪文ができるようになるには、まだ余裕があるし……でも、私、教えるの下手で……焦らなくていいって分かってるんだけど」
「ふふ。そうか。それじゃ、私に話すようなことを話してみてもいいんじゃないかな」
「ええ? そう? つまんないんじゃない? 魔法薬の鍋でコメ炊いたり豆を煮たりする話はウケたけど、もう何回かしてるからな、バレて怒られるとこも含めて」
「ううん……? まぁ、とにかく、そういう悪戯の話以外も、君の話は興味深いし、面白いよ。大丈夫だ。それに、友人同士で一緒にいるときに、常に何か話さなきゃいけないなんてルールは無いしね」
「それは……分かってるんだけど……いいのかな……放置というか……無視してるというか……でも話しすぎもうざいかな……
「ふふふ」
「ええ? なに?」
「なんでも」

「ハリー、私に相談事があるって言ってたのに、何も言ってこないの。大丈夫かな」
「心配なら、手紙を書くといいよ。この間、自分から動かなきゃって言ってただろう?」
「そうか……そうかも」
「頼られたら嬉しいかい?」
「うん……でも、緊張もするかも」
「プレッシャーだね。頼られたからには、期待に応えたいと感じるタイプかな」
「ん……だから、そう。守護霊の呪文を使えないとハグリッドの手伝いはさせないって言われたときは、……辛かった……?」
 眉を寄せて、首を傾げるベル。ルーピンは、静かに微笑んだ。
「それはきっと、悔しい、だね」
「そう……かも……うん……、」
 眉間に皺を寄せ、少し俯きがちに何かを睨みつけるようにして、ベルはくやしいかも、とぽつり、呟いた。
「今まではそんなこと言わなかったくせに……
 恨みがましい、拗ねた言葉は、きっとダンブルドア宛だ。ルーピンは柔らかくベルの言葉を受け止めた。
「信頼されていないと感じたんだね」
「そう。それ」
「ベルは、信頼されて、期待に応えられることが、嬉しいのかな」
「いや……安心の方が近いかも。ホッとするから」
 期待に応える。求められることを過不足なく達する。無理な要求は断って、見合う能力を持つ誰かに任せる。
 ちゃんとやる。ちゃんとやれているうちは、大丈夫。祖母の、皆の、山の役に立っている。
 だから。ちゃんと、やれていたら。
「まだ、死ななくていい、……って……
 言って、ベルの瞳が、ゆるゆると見開かれる。自分で発した言葉に、自分で驚いたのだ。
 同時に、愕然とする。

 ───私、いつか死ななければならないと思って、今まで生きてきたのか

 肺に、鉛が沈む。
 胸の奥が、ひどく重苦しかった。息をするのが辛くて、難しいことに感じた。腹の底に力を入れて、しゃんと背筋を正すことが、どうしてもできない。力が、入らない。あれ、あれ、と思ううち、四肢からすべての力がぐったりと抜け落ちる。
 故郷で感じてきた嫌悪の、侮蔑の、醜悪なものを見るようなものとも違う、あの、ただひたすらに息苦しくなる、冷たい視線は、気配は。正しく殺気であると、───知っていた、はずなのに。

……りん」
 のろのろと、少女の顔が上がる。灰青の瞳はきらきらしくひび割れていた。ルーピンは奥歯を噛み締めて、顔が険しくなるのをなんとか堪えた。喉に、腹に力を入れて、声の震えないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ここは、学校だ。失敗しても、いいんだよ。死ぬなんてことはない。我々が、必ずきみを守ってみせる」
「───」
「りんは、頑張ってる。今まで、ずっと。必死に。今も」
 鼻の奥が、つん、とした。目と目の間が引き絞られて、じわりと視界が滲む。……とうとう眉が寄って、くしゃりと淋の顔が歪んだ。
「───、───」
 涙が一筋、片頬を伝う。
 瞼が伏せられ、唇は戦慄き、けれども、嗚咽は、形にならなかった。
 沈む華奢な肩を摩ってやりながら、ルーピンはそれ以上の言葉を、ぐ、と飲み込んだ。今、口を開けば、煮えたぎる怒りがとめどなく溢れそうだった。
 幸せな記憶、どころではない。

 ───彼女は、泣き方ひとつ、知らぬのだ。

 この日、淋は入院した。彼女の中で何かが壊れてしまったようだった。泣きやもう、常の自分に戻ろうと思っても、どうしようもない。涙は全く流れないくせに、悲しくて、辛くて、苦しいのが止まらない。
 マダム・ポンフリーにベルと呼ばれるのが、嫌で堪らなかった。淋はマダムの追求から逃れるようにしてシーツにくるまった。ルーピンが眠るまで傍に居るよと言ってくれて、ただ、静かに、ベッドの傍らに座っていてくれたのが、何故だか、底抜けにホッとした。

 翌朝、淋はどこかしょんぼりした気持ちのまま目覚めたが、そんなものはすぐに吹き飛んでしまった。
 驚いたことに、ルーピンは、淋のベッドの傍の椅子で一夜を明かしたようだった。淋の顔には「なんでそこまで」と大きく書いてあったが、ルーピンはなんでもない事のように「おはよう」と言って、眠そうな顔をしながら淋と一緒に朝食を取った。ルーピンは見ている方の口の中が甘くなるくらいママレードをトーストに塗りたくった。
「今日は土曜だけど、ホグズミードには行くのかい?」
「ううん、行かない……
 淋は思わず自分の喉に手を当てた。随分掠れて、弱々しい、常のそれとは掛け離れた声だった。ルーピンは淋のヨーグルトに、蜂蜜をたっぷり入れた。
「そうか。私は、少し仕事をするよ。今日、授業用の水魔が届くはずだからね」
……ふーん……
「カッパの後じゃ、手応えがないかな。どう思う?」
「カッパ!?」
 ぎょっとしてそこそこ大きい声を出した淋に、ルーピンはなんでもない事のように「ウン」と頷いた。
「本当は逆の方がいいかな、とは思ってたんだけど。日本は遠くてね、輸送にどれくらいかかるのか読めなくて……あぁそうか、君のクラスはまだやってなかったね」
 まさかの、日本の河童だった。淋はトーストを置き、両頬を掌で挟んだ。信じられないものを見るような目でルーピンを見やる。ルーピンは何食わぬ顔で紅茶に砂糖を付け足していた。
……手伝う?」
 そっと伺う淋に、ルーピンは微笑んで「助かるな」と言った。うん、と頷いた直後、自分から言ったくせにちょっとだけガッカリしていることに気付いて、淋はなんだか嫌気が差した。
「でも、ホグズミードに行ったり、何か好きなことをしたりして、その後に、気が向いたらでいいよ」
「!」
 少女の灰青がパッと明るくなる。ルーピンは優しく、笑みを深めた。



 今日は奇しくもハロウィンであったと、ベルが思い出したのは、ルーピンと別れて大広間を通りがかった後だった。ベルは広間の飾り付けをしていたハグリッドに慌てて声をかけた。
「ワー!! ごめんハグリッド!! すっかり忘れてた、」
「うんにゃ、大丈夫だ。お前さんが授業の方を手伝ってくれるから、だいぶ助かっとるよ。たまにはお前さんもゆっくりするとええ。ダンブルドア先生から話は聞いとるしな」
「そ……そっか……
 ハグリッドがニッコリ笑う。ベルの肩も、自然と力を抜いた。
 そうして、はたと気付く。今までだったら慌てて忘れていたぶんを取り返そうと必死に働いたのだろうけど、どうにもそんな気が起こらない。
「お前さん、ホグズミードには行かんのかい。まあ今どきは、あんまり外に出ん方が良いが……
「うん……
 ベルは曖昧に顎を引いた。
……ねえ、ハグリッド」
「うん?」
「あそこにいていい?」
 ベルが指し示したのは広間の隅の方だった。ハグリッドはキョトンとしてしまった。
「ええに決まっとろうが。なんでそんなことを聞く?」
 ベルは慌ててううん、と首を振った。
「ありがと」
 少女がパッと身を翻す。彼女がちょこんと隅の方に座ったのを見て、ハグリッドはベルのやつ、何か変わったかと思ったが、大して気にも留めなかった。人間、たまにはそういうこともあろうというものだ。
 ベルは大広間がハロウィンパーティの装飾に覆われているのを、ポケラッと眺めていた。脳みそが考えることをやめて、ただただ、カボチャが転がされ、燭台がふよふよ漂うのを視線でのんびり追いかける。
 極たまにルーピンの手伝いのことが頭をよぎるが、その度に、まあ、いいかなあ、と思ってしまう。きっと手伝いに行かなくても、ルーピンは彼女が来なかったという事実を、それ以上でも以下でもなく、ただそれだけを受け止めてくれる気がした。
「ベル?」
 自分が呼ばれているのだということに、数秒遅れて気がついた。ベルと呼ばれることへの嫌悪が薄れていることに気付く。声のした方に視線を向けると、意外そうなハリーがこちらに向かって駆け寄ってきたところだった。
「こんなとこで、何してるの? 手伝い?」
「ううん、ぼーっとしてる。ハリーも座る?」
「うん……
 ハリーが隣に座る。そう言えば、ハリーはホグズミードに行かなかったのだろうか。いいや、と即座にベルは思い直した。きっと、許可証にサインを貰えなかったのだ。
「ベルは、ホグズミード、行かないの?」
「うん。行かない。1回行ったんだけど、あんまり楽しくなかった。ダイアゴン横丁と、そんなに変わんないよ」
「そうかなあ……
 ハリーは不満そうにして行った。確かに、ホグズミードをあんまり楽しくないというのは、ベルくらいのものだろう。ベルは苦笑した。
「まあ、確かに、皆楽しんでるけどね」
「うん……僕も行きたかった」
「そうだね」
 腕を伸ばして、肩を組む。ハリーは素直にベルにもたれかかった。
「本当は、ウィーズリーおじさんに頼もうと思ったんだ。でも、断られた」
「あら。どうして?」
「シリウス・ブラックが、僕を狙ってるんだって。ベルの言ってた通りだ。アズカバンで、『やつはホグワーツにいる』ってずっと呟いてたみたい」
 ウィーズリーおじさんが、おばさんに話してるのを聞いちゃったんだ、とハリーはポソポソ響かない声で言った。
「そうか。だから吸魂鬼がホグワーツに来たんだな」
「うん……僕がここにいるから……
「どうかな」
「?」
 ハリーがベルの方を見上げる。ベルはどこか遠くを見て、何か思案しているようだった。
「ハリーが11歳になったらホグワーツに行くことは大体予想が着くだろ。なんで今年なんだろうな」
……確かに?」
「シリウス・ブラックがハリーを狙うのは、まあ分かるが。アズカバンが案外ザルなら、一年目と二年目にやることを、外からシリウスに流してなけりゃ、よし次は俺の番、にならない気がして」
「なるほど」
 言われてみれば、とハリーは昨年と一昨年の騒動を思い出した。
 昨年はルシウス・マルフォイが策略を巡らせてジニーを利用し、ヴォルデモートの日記をホグワーツに運び込んで秘密の部屋を開けた。一昨年はヴォルデモート自身がクィレルに憑依して、賢者の石を盗もうとホグワーツ城に侵入した。
 このふたつは、ハリーがホグワーツに居るから起こった出来事ではない。
「シリウスの言う、奴っていうのは、お前じゃないかもな、ハリー。昔からホグワーツにいるやつとか……或いは仲間内でトラブルでもあって、誰かがホグワーツに逃げ込んでるとか? ま、全部想像の域を出ないな」
 忘れろとばかりにポン、と肩を叩いて、ベルはハリーの肩から腕をのけた。
「すごいね、ベル。一度にそんなにたくさん考えられるの、ハーマイオニーみたい」
「よせやい、私はあんな秀才じゃないぞ」
 ベルがはにかむ。ハリーは忍び笑いを零した。
「確かに。ベルなら、ハーマイオニーみたいに、占いに論理を求めることはなさそう」
「占い?」
 ベルが聞き返す。うん、とハリーは話を続けた。
「トレローニー先生、知ってる? 僕、今年から占い学を取ったんだけど。毎年、誰かが死ぬって予言するんだって。それが今年、僕だったんだ。黒い犬とかなんとか」
 ああ、とベルは得心がいったように顎を上下させた。トレローニー先生の悪い癖は、ベルの耳にも聞き及んでいる。占いが好きな女子には大人気の先生だが、ベルは個人的に、占い学を取らなくて正解だったなと思っていた。
「怖がらせたいわけじゃないが」
 ベルは考え考え、言葉を選んだ。
「トレローニーは、言葉は言霊ってことを知らないな。まあこれは東洋の考え方かもしれんが……
「コトダマ? 何それ」
「言葉には力が宿る。下手な呪文よりも、ロンに侮辱されたりする方がダメージでかいだろ」
……うん」
 想像したのか、ハリーの顔がくしゃりと嫌そうに歪んだ。
「言葉はな、人を救うし、呪いもする。だから、未来はこうじゃないかな、って物事を推測して、それを言葉に出すときには、慎重にならなきゃいけない。人の命が関わることは特にな」
 ゆっくりと、ベルが言葉を並べる。ハリーは、うん、と頷いた。
「トレローニーは、それをあんまり分かってない。そういうやつは、言霊の力を上手く操れない。だから、死とか、そういう大きな力を持つ言葉を使っても、その事象を引き寄せられる可能性は低い」
「本当?」
「たぶんな。ダンブルドアがここに置いてるってことは、何か意図があるんだと思うが。ま、あんまり気にするな。お前は死にゃあせんよ。私もいるし、先生方もいる」
 ルーピンがそう言ってくれた。だからこそ紡げた言葉を、ハリーは小さく微笑んで受け止めた。
……コトダマってさ、もしかして、自分で自分に行っても影響がある?」
「あるよ。ネガティブなことを言ってる奴は、実際その通りになりやすい。ポジティブな奴は、いつだって楽しそうだろ? 双子とか」
 確かに、フレッドとジョージはいつも面白いことを言っていて、実際、二人の近くにいると、ハリーも楽しいことが多い。同時に、ハリーはネビルのことを思い浮かべた。言われてみれば、彼はいつも心配を口にして、それを本気にして、そうして心配した通りになっている気がした。
「大丈夫だよ、ハリー。大抵の事は、なんとかなるもんだ」
……そうだね」
 なんとかなるもんだ、とベルが繰り返す。まるで、自分に言い聞かせているようだった。ハリーも、なんとかなる、と口にしてみた。シリウス・ブラックに対抗する気力は湧かないまでも、今度のクィディッチの試合へのやる気は、雨嵐ごときに負けないくらいに強くなった気がした。


 ハロウィンパーティーに出たい気分ではなかったが、腹が減っては何とやら。ベルはきちんと満腹になるまでご馳走をバランス良く食べた。
 スープを啜りながら、今日からしっかりしよう、と心に決める。もう、幸せな記憶が無いだの、幸せがどういうことか分からないだの、言っていられない。言いたくない。
 生まれ育った土地は、心安らかに過ごせる場所ではなかった。それが分かっただけでも、悲しいことだが、収穫だ。切り替えていこう、とベルは自分に言い聞かせた。だって、ルーピンが───教師としての矜恃故かもしれないが───一生徒に対してあんなに心を砕いてくれたのだから。生徒として、ベルとして、何より、───淋として。

 ───絶対、守護霊呼んでやる。

 ルーピンに、どうだ、あんたの生徒はすごいだろと、ドヤ顔かましてやるのだ。



 淋の決意は固かった。たとえシリウス・ブラックがグリフィンドール寮に侵入しようとした爪痕が発見されて、生徒全員が大広間で眠ることになっても揺るがなかった。その上でダンブルドアに、「吸魂鬼が勝手に城の中に入らないように見張りをしているように」と言われて、明け方三時くらいまで箒でその辺を飛ぶことになってもへっちゃらだった。寧ろ、後でルーピンがこっそりチョコレートを多めにくれたので、お釣りが出るくらいだった。



 ハロウィンが過ぎて、天気はずっと坂を転がり落ちていた。毎日どんよりとした雲が空を覆い、ざあざあと音を立てて雨が降っていた。空気は湿気って、冬が近づいているので、ベルとハグリッドは授業中に生徒達の手を借りて魔法生物達の雨支度を済ませることにした。生徒たちは城からの移動には散々文句を言ったが、不思議と授業中は雨など気にする素振りを見せなかった。
 ハグリッドにも「風邪引いちゃなんねえ」と言われて勉強と魔法の練習に集中することにしたベルは、放課後、いつかのように尖塔のてっぺんに籠ることが多くなった。
「あれ、今日もいる」
「お、セドリック。見回りご苦労さん」
「ありがと」
 ベルが投げてやった菓子を受け取り、セドリックはやれやれとベルの隣に腰を下ろした。
「毎日大変だねえ」
「まあね」
 シリウス・ブラックが城内に侵入を果たしてからこちら、監督生たちは毎日城内の見回りをしていた。パーシーは主にハリーの護衛に割かれていて、まとわりつかれているように感じているのか、ハリーはとても嫌そうだった。
「ここでちょっと休憩できるから頑張れるよ」
「ははは。まあゆっくりしてお行きよ」
 おだてられたと受け取って、ベルは紅茶も出してやった。お世辞でも嬉しかったのだ。セドリックは礼を言ってカップを受け取った。
「クィディッチの練習をするのも好きだけど、たまには君とこうやって、ここでゆっくりしたいな……
「おや」
 ベルは教科書から視線を上げた。セドリックの顔はどこか脱力していて、なんというか、いつもの優しい気配がどこぞへ雲隠れしていた。
「疲れた?」
「ウン」
 ベルが腕を広げる。セドリックはベルにもたれるようにして彼女を抱き締めた。最近、二人はこうして互いに一息つくのが恒例になっていた。
「元気になれそう?」
「うーん……
 セドリックはベルの頭にこめかみを預けながら、少しだけ思案を巡らせた。
「君が今度の試合に応援に来てくれるなら、もっと元気になれるな」
「え? 今度の試合ってウチとグリフィンドールじゃなかったっけ」
「知ってたの? 君が?」
「まあ……耳に入ってくるというか……
 セドリックと話すようになってから、具体的にはセドリックに一度観戦に誘われてから、ベルはクィディッチの試合日程をなんとはなしに目で追うようになっていた。ルールや戦法についても、ちょっとだけ、前より詳しくなった。……なんてことをわざわざ言うのは少し、なんとなく、口が閉じた貝のようになってしまうので、置いておくとして。
「スリザリンのチームのシーカーが、本調子じゃないらしいからね」
 瞬間、ベルの纏う空気が変わった。
「マルフォイ……
 半眼になったベルの声がおどろおどろしくも地を這ってゆく。
「おのれ……あいつ……一生根に持ってやる……
「まあまあ。ね、来てくれる?」
「絶対この雨が嫌だからだろ……え?」
「だから、来てくれる? 応援」
 ベルは顔を上げた。キョトンとした顔を、セドリックはほど近くから見下ろした。
「僕の応援」
 ベルはちょっとだけ口を尖らせた。何事か迷っている時のベルの癖だ。そうして、ほんの少し、視線が彷徨う。
 けれども、最後には、うん、と言ってくれる。
「ん……
 セドリックの予想通り、ベルはこくんと頷いた。
 何も言わないのはきっと、ウィーズリーの双子やハリーの事があるからだろう。それでもいい、とセドリックは再度ベルとの隙間を埋めた。
「ありがとう。勝つよ」
「力むなって……
 心ゆくまでベルを抱き締めて、セドリックは「また来るよ」と尖塔を降りて行った。それを見送って、ベルはぱたりと大の字になった。

 ───また誘ってもらっちゃった……

 学期の始め、セドリックにはドン引きされた筈なのに、彼とはここ最近、二日と空けず会っている。少しだけ話をして、たまにハグをする。お互い、ちょっと疲れてるときに。無言呪文の練習の約束など、どこぞへ行って久しかった。
 セドリックは監督生だし、今年からクィディッチのキャプテンになったし、シリウス・ブラックの件で、さらに多忙を極めていた。放課後にゆっくり勉強する時間は無いらしい。疲れた顔をすることも多くなって、ベルは少し心配だった。
 とは言え、見回りのついでに、ほんの少しでも会話してくれるのは嬉しい。
 嬉しいばっかりだ。思えば、ホグワーツでの暮らしが、ほんのちょっといいものなんじゃないかって思えるようになったのは、セドリックと話すようになってからかもしれない。

………………

 ベルは起き上がると、荷物を纏めた。これからルーピンと守護霊の呪文の練習だった。
 ハロウィンの後、ダンブルドアはベルに、クィディッチの第一試合までに守護霊の呪文を使えるようになりなさいと通達した。ルーピンはもう少し時間をかけるべきではないかと主張したが、ベルはしっかり「やります」と答えた。
 やりたいです、と言えば、ルーピンは慎重な姿勢を崩さなかったが、最終的には折れた。ルーピンとの課外授業は週に二度に頻度を増やし、ベルの守護霊は少しずつ、けれども着実に、形を取ろうとしていた。
「今日はもうちょい長く保たせたいです」
「リン。何度も言うけど、君にその実力はじゅうぶんにある。後は、君が、君自身の幸せを、ちゃんと分かることだけなんだ」
 ほんのあと一つ、最後の一欠片の材料だけが足りないのだと、ルーピンが繰り返す。分かってます、と淋は頷いた。
 深く、呼吸する。肩の力を抜いて、全身を巡る力の気配を感じる。相棒の杖はいつだって準備万端で、淋が命じればすぐさまそれをカタチにしてくれる。
 力を通じて、杖と話す感覚。リンが、杖を構えた。

 ───私のさいわい。私のよろこび。

……エクスペクトパトローナム……

 杖の先が光る。お前のさいわい、お前のよろこびはなんだと、問いかける。淋は、目を閉じた。

 ───ハリー達が頼ってくれること。フレッドとジョージが気にかけてくれること。

 ───実の母のように振舞ってくれるモリー。

 ───一番最初に、淋を見つけてくれたセドリック。

 ───紅茶のおかわりを頼まなくても用意してくれるトム。勉強の邪魔をしないようにしてくれる客人達。

 ───教え、導いてくれる、ルーピンを始めとした教師たち。

 ───ホグワーツでの暮らし。故郷の森での暮らし。

 ───淋を、生かしてくれている、すべて。

「守護霊よ、来たれ……!」

 銀の光が、教室いっぱいに広がった。





 ホグワーツのクィディッチシーズン開幕戦は、雨嵐の中で行われた。傘など役に立たないことは分かりきっていたので、ベルは全身に雨避けの魔法をかけた。
 森の遠くの方に傘が飛んで行くのを、明日になったら回収に行かなきゃフィレンツェに小言くらいは頂戴するかもしれんとしょっぱい気持ちで眺めながら、ベルは競技場に入った。今回もリー・ジョーダンに頼んで、隣に座らせてもらうことになっている。前回と違う点で言えば、マクゴナガル先生が一緒であることだ。
「おや。まさか今日この日にスリザリン生と会うことになろうとは」
「クィディッチに興味を持ち始めたんですか? いつから? まさかチームに入ろうなどと考えているわけではないでしょうね」
 わざとらしく意地悪に言うジョーダンに対し、マクゴナガルの目は険しかった。ベルは中々に上手く飛ぶのだ。
「大丈夫ですよ先生、私は投げるのが壊滅的に下手です。双子が保証してくれますよ」
……そうですか」
 マクゴナガルは一瞬だけ虚をつかれた様な顔をしたが、それだけだった。
 芝生のピッチを見下ろす形になっている観客席から、特にこんな横殴りの雨の中では、選手などどれが誰だかハッキリするはずもない。ベルはセドリックを探したが、イマイチ判別がつかなかった。しかしやはり見慣れているのか、ジョーダンにはどっちのチームがクァッフルを持っているのか分かっている風情で、雨にも負けない実況を面白おかしく披露していた。ピッチの端まで聞こえているかは怪しかったが。
「君、もしかしてこれが初試合?」
 一度目のタイムアウトのとき、ほとんど怒鳴るようにして聞かれて、ベルは「そうだよ」と怒鳴り返した。
 ジョーダンはケラケラと笑った。
「ようこそ、これがクィディッチの洗礼ってやつさ!!」
「そりゃどうも!!」
 とんでもない洗礼である。ある程度のことは魔法でなんとかなるからって。
 間もなく試合が再開された。ジョーダンによると、現在50点グリフィンドールがリードしているらしかった。雨は激しくなる一方で、とうとう雷まで鳴り出した。
「くわばらくわばら───」
「セドリックだ!! セドリックがスニッチを見つけた!!」
 ジョーダンが声を張り上げる。ベルも雨で烟る視界の中、まっすぐ上空に箒で駆け上がるカナリアイエローを見た───瞬間、ベルは目の色を変えて息を呑み、弾かれたようにして席を立った。
「ベル!?」
 マクゴナガルの驚いた声が背後から追いかけるが、ベルは止まらなかった。肌の下がザワザワと粟立って、嫌な予感が胸中を席巻する。ベルは呼吸ひとつでそれを押さえつけた。凄まじい勢いで観客席を駆け下りて、柵を飛び越え、跳躍する。数拍遅れて、漣が引いていくように、サーッと歓声が遠ざかった。ベルのピッチへの乱入を咎めるものはいなかった。
 白い光がひらりと空を舞う。
「───、────!」
 雷が、轟いた。
 ベルの杖から放たれた銀色の守護霊が雨をものともせずに空を駆け上がるのと、ハリーが箒から手を取り落とすのは、ほとんど同時だった。ベルは泥だらけのピッチに魔法を撃った勢いを利用して宙に跳び、落下寸前、ほんの少しその動きが遅くなったハリーに、懸命に手を伸ばした。
「とっ……! った!」
 がっ、と音を立ててハリーの体を腕で囲う。着地の瞬間、勢いを殺せず、泥に足を取られて、しかしベルは受身を取った。泥飛沫を上げて、ベルはハリーの下敷きになるようにしてピッチにもんどり打って転がった。
「はーっ、はー、っは……
 腕の中のハリーはぐったりして動かない。向こうから名前を叫ばれているような気がするが、雨の音でぼやけて聞こえない。遠くから少しずつはっきりするカナリアイエローと紅を横目に、ベルは身を起こし、必死になってハリーを揺さぶった。
「ハリー、しっかりしろ、」
 首筋、そして口元に指を当て、脈と呼吸があるのを確かめる。ぱたぱたと体を触り、骨身に大きな怪我が無さそうだと把握して、ベルはハリーを抱えて立ち上がった。
「ベル、ハリーは、」
「気絶してるだけだ、たぶん、」
「ようやった、ベル」
 選手たちの合間を縫うようにして、ダンブルドアが現れる。ダンブルドアは杖を振って担架を出した。
「素晴らしい反応じゃった」
「吸魂鬼は」
 聞きながら、ベルはさっさとハリーを担架に寝かせ、雨避けの魔法をかけてやった。
「わしが相手をする。守護霊の呪文は解除してよい。ハリーについていてやってくれんかの」
「はいよ」
 言うが早いか、ベルは担架を押して走り出した。ハーマイオニーとロンが観客席から飛び出してベル達を追いかけ、競技場を離れていく。
 ダンブルドアは空を振り仰いだ。月光のような淡い光を纏う狼が、たった一匹で吸魂鬼達を追い回して、競技場から引き離そうとしている。
「見事じゃ。まっこと、見事じゃ」
 柔らかにベルを讃える声音とは裏腹に、ダンブルドアのブルーの瞳は、怒りに燃えていた。ダンブルドアが、杖を振る。

 ───銀の光が、競技場を席巻した。


 ハリーを保健室に救急搬送した後、ベルはフリットウィック先生に呼ばれて外に出た。ハリーの箒が暴れ柳の方に飛んで行ったから、それを回収しようとしてのことだった。
「暴れ柳は、ある一点を押さえればその動きを止めます。その隙に、箒を……箒だったものを集めます。私が行きますから、あなたが箒を拾いなさい」
 フリットウィック先生のキーキーした声は横殴りの雨の中でもよく響いた。
……先生、私が行きますよ。危ないから」
「危ないから、私が行くのです」
 ベルの返事を聞かずに、フリットウィックは危なげなく暴れ柳の枝葉を潜り抜け、節の一部をしっかりと押えた。ベルは魔法を使いながら、無惨にもぼろぼろに大破した箒を集めた。集めるたび、ぼろぼろの一部に触れる度、ベルまでどこか痛むような気がした。
「全部拾いましたか」
「たぶん……
 ベルには自信がなかった。ただでさえ烟る雨で視界が悪いし、ベルは箒に詳しくない。
「先生、これ直るんですか」
「直りません」
「そんなきっぱり言わんでも……
 ハリーのことを思うと、ベルまでなんだかしょんぼりしてしまう。眉を下げたベルに、フリットウィックは「仕方の無いことです」と嘆息した。
「形あるものはいつか喪われる。太古の昔からそう決まっています……私からポッターに渡しましょうか」
……いや、大丈夫です」
 ベルは箒の残骸の束を脇に抱え、フリットウィックと城に戻った。ちょうどダンブルドアも戻ってきているところで、フリットウィックは少し意外そうにした。ダンブルドアがここまで怒りを持続させることは珍しかったからだ。
「校長……
「おお、フリットウィック先生。ハリーの箒はどうじゃった」
 ベルは黙って小脇に抱えたものを見せた。ダンブルドアの眉が痛ましそうに下がる。
「ハリーはがっかりするじゃろうな」
「ええ、……もう少し早く気付けていたら良かった」
「わしが気付くより早く、君は動いておった。何より、ハリーにはかすり傷ひとつない。誇りこそすれ、己を責める謂れはないぞ。そうじゃな、寧ろ───スリザリンに百点」
……そりゃどーも」
 あんまり嬉しくなさそうに言ったベルを、こら、とフリットウィックが窘める。ベルは肩を竦めたが、それだけだった。
「しかし、君にもしその気があるのなら、少し今後について相談させてもらおうかの。まだハリーは目覚めておらんかったから、先にわしの部屋に来るが良い」
「では、やはり箒は私が届けましょう」
 ベルはフリットウィック先生に箒だったものをほとんど薪のように渡すと、ダンブルドアの後について校長室へ入った。老体の背を追いながら、ベルは若干引いた。フリットウィックと喋ってちょっとマシになったかと思いきや、ダンブルドアはまだ怒っていた。放つ怒気が、ベルを除いて、周囲の全てを威圧していた。
 校長室で、ダンブルドアはベルにある提案をした。
「これ以降、今年度いっぱいは、クィディッチの試合を空から警護してくれんかの」
「はぁ、構いませんが。あんたの怒りはそんなに長続きしませんか?」
「いいや。しかし、念には念をじゃ」
「左様で」
 構いませんよとベルは続けた。
「じゃ、ハグリッドの手伝いも今まで通りしていいわけだ」
「あの守護霊を見せられて、他に何を言えば良いのかね?」
 やったぜ、と静かにガッツポーズするベル。ダンブルドアは微笑んだが、しかし嘆息した。
「ルーピン先生が体調を崩されておったのは残念じゃったのう……きっと我が事のように喜ばれたろう」
「そうかな……ああそうか、そろそろ満月か」
「ん?」
「え?」
 ぱちくり。ダンブルドアが瞬く。ベルも同じようにダンブルドアを見返した。
「ベル。まさかとは思うが……
 数拍、ベルはダンブルドアの意図を図りかねた。しかしすぐに思いついて、あぁ、と声を上げる。
「あの人が人狼ってこと? 気付いてるけど。見たら分かるよ」
「───」
 ダンブルドアは言葉もなく瞠目して驚いていた。ベルも同じように、目をわざと大きく開けて顎を引いて見せた。
「まっ、そんなの関係ないけど。でも、薬で抑えるより、人のいないところで狼になる方が楽だと思うな。特に人を襲う衝動は調教できるし」
「、」
 調教、とダンブルドアが内心繰り返したのを、ベルは敏感に察した。


 校長室から解放されて、ベルは保健室に向かった。ちょうどハーマイオニーとロンが心配そうにしながら保健室を出て行くところだった。
 ベルはできるだけ気配を消して静かに保健室に入った。
「ハリー」
……ベル……
 ハリーは自分にかけられたシーツの上に箒を乗せて、今にも泣きそうな顔をしていた。ベルはそっと傍の椅子に腰掛けた。
「悪かった。間に合わなくて」
「ううん……ベルが助けてくれたって聞いた。ありがとう」
……どういたしまして」
 無事で良かった、と抱きしめる。体を離して肩を叩くと、ハリーはどこか縋るようにベルを見た。
「ベル、これ、直せない? ロンの杖みたいに……
「形は元に戻してやれるが、もう飛べないよ。ただの箒になるだけだ」
……それでもいい……
 言葉とは裏腹に、ハリーはしょんぼりと俯いて、肩を落とした。ベルは少し考えて、杖を取り出した。
「それなら、いつでも一緒にいれるようにしてやろう」
 折れた箒の上で、ベルがゆっくりと空をかき混ぜるように杖を振る。ふわりと浮いた木の枝達は、くるくると回りながらひとところに集まり、やがて、───小さな、ちょうどハリーの掌くらいの、ニンバス2000になった。
……!」
 驚くハリーの周りを、箒はくるりと滑空し、親しみを込めるように柄でコンコンとハリーの頬骨を突くと、やがてゆっくり、ハリーの掌に収まった。
「まだ、少しだけ箒に力が残ってるから……しばらくは、上がれと言ったら上がるし、思ったように飛ぶだろう。でも、三日くらいで、ただのミニチュア箒になる。……そしたら、キーホルダーにしよう。これでずっと一緒にいられるだろ」
 優しく言ったベルに、ハリーは涙ぐみながら、ぐっと小さなニンバス2000を握り締めた。
「ありがとう、ベル」
「どういたしまして」
 元気出せよ、とベルは保健室を後にした。本当はルーピンがしてくれたように傍にいてやりたかったが、罰則を食らうわけにはいかなかった。


 ベルは再び、禁じられた森に行くことを許されるようになった。ハグリッドもベルに手伝いを頼みやすくなったらしく、ベルはにわかに忙しくなった。バックビークの裁判に備える傍ら、ハグリッドの手伝いのために家畜の世話をしたり森に入ったりしなければならなかった。加えて朝晩、箒に乗って城の周りを一周し、吸魂鬼を牽制した。
 生徒達は、特にフレッドとジョージは、唯一城の外に自由に出入りできるベルを、それはもう羨ましがった。ほとんどの先生達から、自分達とは違ってほとんど大人扱いされるベルを、敬意の籠った眼差しで見つめる生徒も多かった。
 ハリー・ポッターを救った英雄として、ベルは本人の預かり知らぬところで持ち上げられ、持て囃されていた。下級生の頃は糸目、狐目とからかわれた顔も、涼やかで凛々しいと褒めそやされる。やせっぽち、貧乏という悪口はスタイルがいい、物持ちが良いと反転した。家無し親無しと口さがなく嘲っていた連中は、今やベルが通りかかる度に澄ました顔をするようになり、ベルがいじめられているのを見て見ぬフリしていたものたちは、彼女のその境遇を悲劇の中でも不屈のヒロインとして盛り上げた。
 幸か不幸か、ベルはこの騒ぎを知らなかった。何せ、彼女に親切にこのことを教えてくれるだろうウィーズリー達は皆グリフィンドール生だったから、普段はスリザリン生に余り近付かないからだ。双子などは「とうとう奴の顔の良さに世界が気付いちまったな……」などとしみじみ言っていた。これを後の世では後方腕組み彼氏面と言うことを、この双子は知らない。
 どこか疲れてげっそりしているルーピンは、実の所、あまり手放しに喜ばなかった。
「君が箒から落ちる可能性もあるんだ、淋。油断大敵だよ」
 いつになく真剣な表情だったので、淋も神妙な顔をして気を付けると頷いた。
 ベルを憧憬と羨望の入り交じった目で見る生徒たちの中にあって、唯一ルーピンと同じように複雑な心持ちでいるのがセドリックだった。
 多くの生徒は、今までベルに見向きもしなかったのに。その才能に気付いていて、仲が良かったのはほとんどセドリックだけだったのに。あんなに目立つことをしたから、そりゃあ見つかって、有名になってしまった。なのに鼻にかけない態度でいつも通りに振舞っているのが、さらにベルの評判を上げていた。よく見れば可愛い、イケるかも、なんて言い出す奴も出てくる始末。
 何より、……あの日は、セドリックの応援に来てくれていたのではなかったか。人命優先というのは、セドリックにだって分かっているけども。
 唯一良かったと思ったのは、尖塔のてっぺんの小さなスペースが、未だベルとセドリックだけの不可侵領域であることだった。しかし、ここもいつ誰ぞにバレるとも知れない。だって、セドリックはベルがいつもあそこにいることを、親切なゴーストに教えてもらって、だからベルを待ち伏せすることができたのだ。
 誰かがセドリックのようにベルの居場所を聞いたらどうしよう。最近のセドリックは、尖塔への階段を上る度、そんなことを考える。そうして誰も居なかったり、ベルだけが居ることに小さくホッとしていた。
「やあ、ベル」
「よう、セドリック。今日もお疲れさん」
 あのクィディッチの試合から、ベルの雰囲気は分かりにくくも確実に柔らかくなった。どこか一皮剥けて、また一層と、なんだか目を惹く存在になっていた。
「あれ、いつもと違う?」
「最近冷えてきたからな」
 ベルはティーカップではなく、取っ手の付いていない、筒状のコップに茶を入れていた。
「ほうじ茶って言うの。ちょっと甘くて渋い。試してみる?」
「うん、ありがとう」
 熱いほうじ茶は、確かに独特の甘みがあった。後に残る渋みは紅茶のそれとよく似ている。少し冷まして口に含むと、体の中心からポカポカと暖かいのが広がっていった。知らず、ほ、と息をつく。
「寒くなってきたよな。雨もなかなか止まないし。暖かくしないと」
「朝晩飛んでるだろう? 何か魔法使ってるの?」
「ううん、ハンテン着込んでる……そうだ、聞こうと思ってたんだった」
「何を?」
「箒のこと。詳しい? 私も自分の買おうと思って、今度ホグズミードで……良かったらついてきてほしいんだけど」
 セドリックは驚いた。
「もしかして、学校の古い箒を使ってるの?」
「まあ、ちょっと城を一周するだけだしね……
「飛びにくいだろ? すぐにでも新しいのを買うべきだよ。通信販売もできるし……、」
 ホグズミードに行くならついて行くよと言いかけて、ふと、セドリックは言葉に詰まった。瞬いたベルが小首を傾げる。
「セドリック?」
「、いや……フレッドとジョージも、箒に詳しいと思うけど……それに、ハリーだって」
「ハリー? あいつ、相棒が木っ端微塵になったばっかりなんだぜ」
「それなら尚更、ホグズミードにハリーと行けばいいじゃないか」
 口を尖らせるセドリックに、ベルは思わず片眉を寄せた。
「ハリーは許可証にサインを貰えてないんだよ。世話になってる親戚がアンチ魔法族だから」
「、……
 セドリックは咄嗟に言葉に窮した。視線を彷徨わせるセドリックに、ベルは少し戸惑いながら言葉を続けた。
「フレッドとジョージは、あんまり私とは出掛けたがらないと思うよ。あいつらはあいつらの用事で忙しいし……悪戯用のいろいろ仕入れなくちゃいけないから……スリザリンとつるみたくないだろうし」
……そうかな」
 消え入るような声で、セドリックがなんとか相槌を打つ。どうしちゃったんだろう、とベルは目を瞬かせた。今日のセドリックはどうにも様子がおかしい。
「それに、セドリック、教えるのが上手いし……通信販売よりは、ちゃんと見て選びたいっていうか……
…………
……
 沈黙が降りる。ベルはポリポリと頬をかいた。むつかしい顔のセドリックは、ぐるぐると何かを考えているようで、しかしベルにはサッパリ検討がつかない。
……えーと……
 困った。どうしよう。あれか、もしかして既に他の用事があるとかだろうか。でも、それならそうと言ってくれる気がする。ベルはぼのぼの汗を飛ばしながら、あれかこれかといろいろ考えてみたが、どれもしっくり来ないということしか分からない。
 とうとうベルも言葉をなくしてしまった。もしかしてベルと出かけるのが嫌なのかもと思ったが、それを確かめる勇気はなかった。
……ベルはさ」
 やがて、セドリックがぽつりと沈黙を破った。ベルは全力でセドリックの言葉に耳を傾けた。
「ハリーのこと、どう思ってる?」
……ハリーのこと……?」
 ここでどうしてハリーなのか。ベルは不思議に思ったが、ひとまずちゃんと答えることにした。
「えっと、そうだな。特別な仲間意識があるかもしれない。生まれた時から両親がいなくて、育ててもらった人達に疎まれているというか……受け入れられていないというか……生きるのに必死だったというか……そういう共通点があって。最初は、自分が魔法使いだってことを知らなかったハリーが昔の自分に重なって……私もそうだったから……それで、私がその時前もって知りたかったこととかを教えてたんだけど……うん、そうしてる間に、弟みたいな感じになったかな」
 真面目に聞いていたセドリックは、ふうんと相槌を打った。本当は、ベルやハリーに両親がいないことや、今までの二人の苦労に心が痛んだが、ベルがあまりにも何とも思っていない風情で話すので、可哀想にと言うのは、なんだか違う気がした。
……フレッドとジョージは?」
 ベルは瞬いたが、「双子はねえ」と思案しながら言葉を選んだ。
「いじめから分かりにくく助けてくれてたのは感謝してる。二人と一緒にいると楽しいよ。ウン、でも城であんまり一緒にいると、周りに波風が立つからな。お互いの快適な生活のために、あんまり一緒にいないようにしてる節はあるかな……
「そうか」
 セドリックは、そっとベルの方に身を乗り出した。
「じゃ、僕のことは?」
「、え?」
「僕のこと。どう思ってる?」
「───」
 きらきら光る灰色にじっと見つめられて、ベルはぎゅん、と胸が苦しくなったのを聞いた。これがなんだか考えようとしてもすぐに気を逸らしたくなってしまうし、セドリックのことをどう思っているかなんて、どうにもこうにも口にできない。
 どうしよう。ベルは焦った。なんと答えたものか分からない。早く何か言わなければと、顔ばかり熱くなってくる。
「ええと。セドリックのこと。えと……
 頼りになる。それはそうだけど。
 物知り。勉強を教えるのが上手い。そりゃ年上だから。
 監督生。すごい。……みんなに慕われているのだから当然かもとは思うが、別にすごいとは思わないかも……
 というか、そういうことではなくて。セドリックが聞いているのは、ベルが、セドリックに、どんなことを思っているかだ。ベルはちょっと恥ずかしかったが、この際だから、ちゃんと言うことにした。
「あのね。セドリックと一番最初に会った時に、スリザリンのベルでもなんでもなくて、ただの私と、話をしようとしてくれてたのが、すごく嬉しかったの」
 セドリックは、真剣にベルと向き合っていた。ベルも、しっかりと言葉に力を入れた。
「その後も、なんだかんだ、こうやって私と話してくれるのが、嬉しいの。セドリックがここに来ない時は、ちょっと寂しい。セドリックが嫌じゃなかったら、これからもここで会いたい。話したいし……あのね。学期の一番最初、電車の中で、私、感じ悪かったでしょ。捻くれた自慢みたいなことして」
 バツの悪そうなベル。セドリックは無言で続きを促した。
「あの後、セドリックには、嫌な奴だって思われたかなって、ちょっと……自業自得なんだけど……落ち込んで。でも、その後、セドリックはいつも通りにしてくれたし、クィディッチにも誘ってくれたし。嬉しいばっかりで」
 灰青が、まっすぐにセドリックを見つめる。
「だから私、守護霊の呪文、ちゃんとできるようになったんだよ。私には一生使えないと思ってた。幸せだった時なんて無いし、これからもそうだって思ってたから」
 唇が震えそうになるのを何とか堪えて、ベルは喉に力を込めた。
「ありがとう、セドリック。私、生きてて良かった。ほんとに、ありがとう。……
 大好きよ、勢いでうっかり言ってしまいそうになって、ベルは大きく息を吸ってくちびるをしまい込んだ。何度も唾を飲み込んで、なんとか自分を落ち着けさせる。
 そうだよ、好きだよ、でも急にそんなこと言われてもびっくりだろ、ただでさえ重いのに、と理性に怒鳴りつけてもらって、本当は気づいていたくせに何度も気づいていないふりをしやがってと暴れる感情を押し殺した。
 そっとセドリックを伺うと、彼はただ静かに、じっとベルのことを見つめていた。
「ええと……
 ベルは瞬いて視線を彷徨わせたが、まだ言っていないことがある、ともう一度息を整えた。
「ホグワーツ特急で、感じ悪くて、ごめんね」
……うん。気にしてないよ」
 嘘だ。本当は、年上の自分がベル達を守りたかったのに逆に守られたばかりか、彼我の差を突きつけられたので、ちょっとだけプライドが傷付いていた。
 けれど、セドリックだって、吸魂鬼がクィディッチの試合に闖入したときに、ベルの守護霊に助けられたうちのひとりだ。あの魔法は、本当に凄かった。
「君にはそれだけの実力があるんだし」
 一方のベルは、困ったように眉を下げた。
「いやあ、そんなことは……特別すごいわけじゃないというか……実技が得意なだけで、筆記は苦手だし……説明下手だし……
 実際、ベルは、例えば変身術の授業で、実技は満点を取れても、筆記テストで「『変身呪文』は『異種間取り替え』を行う場合、どのように調整しなければならないか説明せよ」という問いに答えられなくて、結果平均点になる、というようなことがよくあった。
 謙遜どころか、真実そう思っているらしいベルに、セドリックは微笑むだけだった。それがベルの、人によっては良くも悪くも受け取られるところなのだろう。勉強ができても実技ができない人間にとって、ベルの言葉は嫌味でしかない。
 ───だが、それがなんだと言うのか。そんなもの、その人がなにを一番に考えるかによって、くるりと様変わりするのに。
 セドリックはもう、ベルを羨むのをやめた。彼女はそういうひとなのだ。
「ねえ、ベル」
「ん?」
 普段は涼やかにどこか遠くを眺めている目が、セドリックを見つめるために丸くなる。セドリックが腕を広げると、慣れた仕草で身を寄せてくれる。互いのでこぼこが埋まるのが、安堵を連れてきてくれた。ベルを抱き締めながら、セドリックは言葉を紡いだ。
「今度、ホグズミードに行こう。箒もだけど……デートしない?」
「───」
 音もなく、ベルは固まった。



 気付けば約束した日になっていた。
 セドリックにデートに誘われた後、あんまりにもびっくりしてしまって、どうやってセドリックと別れたのか、そしてどうやって日々を過ごしたのかがめちゃくちゃ曖昧だった。ふとした瞬間に世はこともなしにいつも通りだということに気付き、まあ常の通りに過ごしているのだろうと思えども、やはりすぐにセドリックとのデートのことに意識を持っていかれてしまう。
 本は読めどもティーン系のよくある恋愛小説なんて守備範囲外だったので、ベルの中にはデートとか恋愛とかいうものに対する知識がほとんどゼロに近かった。なんやかんやいい感じになって、なんやかんやお互いそういう相手だと認め、そういう二人にちょっかい出したり、一度に二人以上とそういう仲になるのは褒められたことではない、くらいしか知らない。

 ───そういう……感じだったのか!?

 ゲーン、と受けた衝撃から、ベルはなかなか立ち直れなかった。セドリックのことは大好きだけど、まさか自分が誰かとそういう仲になるなんて考えてもみなかったし、想像だにしなかったのだ。
 困惑、戸惑い、あとはほんの少しの興奮を胸に、ベルはその日を迎えた。オシャレとかした方がいいのか? とも思ったが、今日の目的は雨にも風にも負けぬ箒を手に入れることであるし、烟る雨は降り続いているし、冷えてきたし、ということはコートで全て隠れるし、化粧品など持っていないので、しようと思ってもできない。
 ベルはいつも通りの自分で行くことにした。できない勝負はしない主義であるし。ただ、長い黒髪はアレンジできるかもと気付いて、いつものポニーテールに一本だけ編み込みを入れた。何かしなければ落ち着かない、をこんな時に味わうとは思ってもみなかった。
 初めてのこと故に空回りしてひっくり返りそうになりながら、ベルは玄関でセドリックを待った。雨のせいか、ホグズミードに行こうという生徒はいつもより格段に少なかった。
「ベル、」
 しっかしこの雨どうにかならんかねとわざとなんでもいいことに思考を飛ばしていると、聞き慣れた声が自分を呼ぶ。振り返ると、セドリックがハッフルパフのグループから抜け出してくるところだった。
「ごめん、お待たせ。行こう」
「うん、……ほんとにいいの?」
 こちらを見ているハッフルパフの生徒たちをちらりと見るベルに、セドリックはきょとんと首を傾げた。
「なんで? 行こうよ」
 セドリックが傘を差して外に出る。ベルもそれに続いた。ベルは傘を持つのが嫌だったので、全身に雨避けの魔法をかけていた。
「ベル、濡れない?」
「うん、濡れない」
…………でも、なんだか……うーん……
 セドリックがそっと傘を傾ける。気遣わしげな表情とは裏腹に、セドリックは「分かってるんだけど……」と申し訳なさそうに言った。
 ベルはセドリックが濡れないようにできるだけ彼との距離を詰めて、セドリックの肩が濡れないように雨避けの魔法をかけた。
「こっちの方が、話しやすいね」
「! うん」
 セドリックが嬉しそうに笑う。ベルもつられて頬を緩めた。
 腕持って、と言われたので、どきどきしながらセドリックの腕に手を添える。いつものハグくらいに隙間がなくなって、ホッとするやら、緊張するやら、自分でももうよく分からない。
「箒ってさ」
 ごまかすように、ベルは本日の目的を引っ張り出した。
「いいやつとそんなによくないやつって、どういうふうに違うの?」
「そうだな。分かりやすく言うと、反応が違うよ」
「反応?」
「乗り手の意志への反応かな。方向を変えるのに、ちょっと体重をかけるだけでいいか、重心の位置ギリギリまで傾けないといけないか、とかね」
「なるほど」
「あとは、機能だな。いい箒は、足を置けたり、急ブレーキがついてたりする」
「そのブレーキがよく分からんのだけども……
 自転車や車のように、これを握ったり踏んだりすればブレーキが掛かるといった構造でもない。
「これも、さっきの乗り手の意志への反応の話に関係するんだ。古い箒ほど、ブレーキがそこまでかからなくて、勢いと風に流されやすい」
「なるほど。相場の値段ってどれくらいなの? 機能差で変わるんでしょ?」
「そうだね、大体は───」
 セドリックの箒についての授業を受けているうちに、ふたりはホグズミードに入った。セドリックは迷わずスピントゥイッチーズ・スポーツ用品店へベルを案内した。
 店主は「ようこそ」とにこやかに二人を出迎えた。
「こんにちは。箒を見に来たんですが」
「いらっしゃい。どんなものをお探しで? クィディッチをやるの?」
「あーいや、ちょっと飛ぶだけ……
 言いながら、ベルの視線は箒の柄にカンテラがぶら下がっているものに吸い寄せられていた。
「ウィンドウィプスかい? これは少し繊細な杖だから、手入れには注意が必要なんだ。小さいけどシートがついているから、長時間の飛行には向いてるね」
「こっちは?」
「ムーントリマーだ。トネリコから作られている。安定性が抜群で、ちょっとの風ならびくともしない」
「おお……
「持ってみるかい? 少しだけ浮く程度なら、乗ってもいいよ」
 言われるがまま、ベルは試乗した。店主は「スピード重視ならやはり競技用だな」とセドリックに伝えられた予算の範囲で許されるニンバスシリーズなどを持ってきてベルにいろいろ試させたが、結局ベルはムーントリマーを選んだ。
「気に入った?」
「乗りやすさとカンテラが最高!」
「カンテラかぁ」
「ほんとは携帯ラジオぶら下げたいんだけど……
 魔法界においてラジオの小型化は進んでいなかった。移動に時間がかかることの方が稀なので、暇潰しを考慮しなくていいのだ。必然的にマグルのものを使うことになるが、ホグワーツの周りでは電波という電波が狂う。
 あっのーひーとのーままにあうためにー、と鼻歌まで歌うほど上機嫌なベルは、今までで一番、自分が魔女だと感じていた。
「、は! 忘れてた!」
「どうしたの」
 ガリオン金貨を並べて店主と支払いのやり取りをしているときに突然ベルが大声を上げたので、セドリックと店主が揃ってベルの方を見やる。ベルはどこか悔しそうにして言った。
「ダンブルドアに、これを経費につけていいか聞くの忘れてた…………!!!! ルーピン先生にもダンブルドアに相談しようと思うんだけどって聞こうと思ってたのに……!!」
「けいひ」
 意外な単語が飛び出てきたことに驚いたセドリックとは対照的に、店主は「ああ、君が!」と瞠目していた目をさらに見開いた。
「なんだ、君だったのか。クィディッチの試合の警護をするんだろう? それならお代は要らないよ。校長から話を聞いていてね。代金は学校が持ってくれるそうだから」
「エーッ本当!!!」
 ヤッターーー!!! とベルが今日一番、諸手を挙げて喜んだ。本当はかなり痛い出費だったので、経費にならなければ来年の夏の仕事量を増やさなければならないんじゃないかと覚悟していたのだ。
 ベルの喜びようにくすりと忍び笑いを零したセドリックが、じゃあこれも、と手入れ道具を追加する。ちゃっかりしてるねえ、と店主は肩を揺らして笑った。
 箒を手に入れた後、二人は三本の箒に入った。バタービールを注文すると、セドリックは「クィディッチの警護をするってどういうこと?」と切り出した。
「ああうん、言ってなかったね」
 ベルは口髭を作りながら答えた。
「こないだ吸魂鬼がクィディッチの会場に来ちゃったでしょ。ルーピン先生とダンブルドアは、ああいう大観衆の感情の盛り上がりは吸魂鬼の大好物だから、またこういう事が起こるかもしれないって言ってて。毎回ダンブルドアが観戦に行ける訳でもないから、試合中は私が競技場の周りをぐるぐる飛ぶことになったの」
「そうだったのか……
「私だけじゃなくてね。毎回先生数人が客席にいることになって。フーチ先生と私が主に選手担当」
 ベルだけに任せるのはどうなんですかとルーピンが頑なに主張したので、先生達も試合中は対吸魂鬼を意識することになった。ベルは一人でも良かったが、大半の先生が「そりゃそう」とルーピンの言葉に頷いてくれたので、我知らずホッとした。
「そういうわけで、安心して試合に集中してくださいよ」
「確かに、安心するけど」
 セドリックはへにょりと眉を下げた。
「困ったな。次はレイブンクローとの試合なんだ。たぶん負ける」
「そうなの? 強いの?」
「うん、強い。戦略に関してはずば抜けてると思う。シーカーのチョウ・チャンも上手いし、早いし」
「へえ……
 相槌を打ちながら、そう言えば各寮のチームがどんなもんなのかよく知らないな、とベルは気付いた。双子やハリーのせいでどうしてもグリフィンドールの印象の方が強い。
「早いのって、箒の性能?」
「だけじゃないよ。勿論、性能差はどうしようもないところはあるけど。でも、スリザリンのニンバス2001にハリー達は負けなかった」
「そんな裏話があったのか。それはアツい展開だ」
「あれはめちゃくちゃ大盛り上がりだった。スリザリンの君には面白くないかもしれないけど」
「いやあ、まあ……
 正直どうでもいい、という文字がベルの背後にデカデカと現れているようだった。セドリックは苦笑した。
 きっと彼女は、セドリックが負けたところで、セドリックをからかったり勝手にガッカリするなんてこともないんだろう。
「でも、応援するよ。いい試合って、勝ち負けだけじゃないでしょ」
「ああ。その通りさ」
 二人は行きと同じように帰りもひとつの傘を分け合って帰った。ベルはその日の夕方、早速新しい箒を下ろしたし、経費報告のついでにダンブルドアとルーピンに「見て見て私の初めての箒!! セドリックと選んだ!! カンテラが一押しポイント!!」と見せに行った。端的に言ってめちゃめちゃ浮かれていたので、セドリックがベルと付き合ってるんじゃ? なんて噂が生徒達の間で流行りだしたのなんて、これっぽっちも知らなかったし、至極どうでもよかった。


 初めてのデート以降、セドリックは尖塔のてっぺん以外でもベルに話しかけるようになったし、人目に着くところでも二人で過ごすようになった。ベルはセドリックがスリザリンの生徒とそういう噂をされて彼が嫌な思いをするんじゃないかと不安だったが、セドリックが気にした風でもないので、まあいいかとあまり気にしないようにすることにした。
 レイブンクローとの試合で、セドリックは奮起したが、けれどもレイブンクローの方が一段上手だった。ハッフルパフは罠とかそういうのに気付くのが苦手なんだなと試合を見ていたベルは思った。しかし両チームともルールの範囲内で工夫して試合をしたので、安心して見られる雰囲気が楽しかった。
 冬休みまで残り2週間を切ろうというところで、ようやく秋の長雨が終わった。曇り空は相変わらずそこにあったが、地面には霜が降りていた。フリットウィック先生は早速自分の教室をクリスマス仕様に飾り付けたし、ベルもそろそろ森に行ってクリスマスツリー用の木をハグリッドと選びに行かなければならなかった。
 ベルはセドリックにクリスマス前のホグズミードに誘われたが、今回ばかりは忙しいので断った。それに、このまま嬉しいことが続きすぎると心臓がもたないかもと、ベルは結構真面目に考えていた。ベルの話を聞いたハグリッドは呆れていたが、ベルにとっては死活問題だった。
「お前さん、それなら、見送りくらいは行ってやれよ」
「見送り? ああそうか、皆帰るのか」
 そうね、確かにそのくらいは、と休暇一日目の朝、ベルはセドリック達を見送りに行くことにした。
「あれ、ベル。君は残るんじゃなかったっけ」
 玄関ホールは生徒達と荷物でごった返していたし、皆友達同士で固まっていたが、セドリックはサッと移動してベルの傍まで来てくれた。
「ウン、お見送り……
「ほんとに? 嬉しいな、ありがとう」
「ん、」
 抱き締められながら、ホグズミード行けなかったし、とボソボソ言うと、寂しかったよ、と返ってくる。
 ベルは努めていつも通りの呼吸を心がけた。
「カード書くね」
「楽しみにしてる」
「えーと……冷えないでね、風邪ひかないで……
「ベルも、気を付けてね」
「うん」
 そろそろ時間だろうと、体を離す。セドリックは名残惜しそうにして、そっとベルのこめかみに唇を寄せた。ちゅ、と柔らかい音がして、ベルの肌が音を立てて赤くなる。
「ん」
 ベルも、と無言で促されて、ベルはぎこちなく爪先立って、セドリックの頬にふゆりとくちびるを押し付けた。首筋が、耳が、頬が熱い。トムの店とかで見慣れているはずなのに、自分がやるとなるとこうもドギマギする。
「いいクリスマスを。またね」
「うん、また……
 するりと離れていったセドリックは鞄を持つと、あっという間に玄関を出て行ってしまった。友達らしき人に肩を組まれて、なんだか楽しそうだ。ベルはいくつかの好奇心丸出しの視線から逃れるように寮へと戻った。一人きりの寮は静かで、ベルはようやくほっとして、デカデカと溜息をつき、力尽きてズルズルと床に座り込み、果てにはうつ伏せに寝っ転がった。
 セドリックにキスされたときの感触は、それくらいでは消えてくれなさそうだった。
 ベルに冷静さを取り戻してくれたのはハグリッドからの手紙だった。

「ベル

 ダンブルドア先生のおかげで、マルフォイのことは不問になった。
 だが、バックビークは危険生物処理委員会で裁判されることになった。お前の考えていた通りだ……ルシウスはバックビークを殺すつもりだ。
 事情聴取が四月二十日に行われる。それまでバックビークを隔離しておけと言われた。相談させてくれ。
 クリスマスなのにすまねえ。

 ハグリッド」

 とうとう来たな、とベルは取るものも取りあえずハグリッドの小屋へ飛んだ。ハグリッドは今から緊張しているようだったが、それでも日々の作業をこなせるだけの精神力は残っていた。
「絶対……俺が……裁判に勝たにゃ……
「そうだぞハグリッド。あんたには私がついてる。目には目を、歯には歯を、スリザリンにはスリザリンをだ」
 バックビークが寂しくないように、そして暖かくしていられるように隔離して、二人が小屋に戻ると、ハリー達が顔を見せていた。
 三人の雰囲気は傍目にも分かるほどいつもと違っていた。ハリーはどこかぴりぴりしていて、ハーマイオニーとロンは不安そうだった。
「ハグリッド、それにベルまで。何してたの?」
「バックビークを、ちょっとな」
「あぁ……今朝知らせが届いた」
 魔法省からの通達を見せると、三人の雰囲気は一変して、途端にいつも通りになった。
「僕達も協力するよ、ハグリッド」
「そうだよ、証人に呼んでよ」
「私、ヒッポグリフのいじめの事件を調べてみる。無罪になってたはずよ」
「私が調べたやつと突き合わせよう」
 皆でハグリッドを励まして、紅茶を飲んで気合を入れ、生徒達は城に戻った。
「で、ホントはハグリッドに何の用だったんだ」
 ぴた、と三人の動きが止まる。ロンとハーマイオニーは揃っておそるおそるハリーを見遣った。ハリーはじわじわと眉間の皺を深くした。
……何があったんだよ」
「その……私達、聞いてしまったの」
「何を」
 話を切り出したのはハーマイオニーだった。
「今、逃亡中のシリウス・ブラックが、実は、ハリーのご両親の友人で、秘密の守人だったの」
「秘密の守人って、ベル、分かる? その人に秘密にしておきたい情報をしまいこむんだ。そうすると、秘密はその人が口にするまでバレることはないっていう魔法なんだけど」
「話には聞いたことがあるような……そうか、そこまで信用されていて、それで裏切ったのか」
 なかなかやりおる、とベルは内心呟いた。二重スパイは楽では無い。しかも、ダンブルドアを相手に、だ。
「そりゃあハリーがそんな顔になるわけだ」
「当たり前だろ」
 いつになくぶっきらぼうなハリーに、ベルは嘆息した。ロンとハーマイオニーが、助けてほしそうにベルを伺う。
「ほっとけ。復讐者は走り出したら止まれねえんだから」
「でも、ハリーのご両親は、きっとそんなこと望まないわ」
「そうか? 案外ブラック憎しでハリーを応援しているかもだ」
 ベル、とロンが咎めるように声を出す。ハーマイオニーは信じられないといった面持ちでベルを見た。
「私が言いたいのは、死者の気持ちなんて推し量れねえってことだよ。死んじまってんだから。でも、ハリーの復讐心に火がつくほど、ハリーが両親からの想いを感じられているのは、喜ばしいことだと思うよ」
「、」
……
 ロンとハーマイオニーは、言葉に詰まって、のろのろと視線を落とした。
「それにどう応えるかは、ハリーが決めることだ」
 今度はハリーが気まずそうにする番だった。誤魔化そうとしているのか、更に顔が険しくなっている。
「私は、たとえ自分の両親が親友に裏切られて殺されていたとしても、なんとも思えん」
 ベルの言葉に、三人は黙りこくってしまった。階段のところで、ベルは三人にいつものように「じゃあな」と言ったが、三人はちょっとベルを顧みただけで、何も言わなかった。
 何事もなく日々が過ぎて、とうとうクリスマスになった。ベルはウィーズリー家からクリスマスカードとセーター、それにケーキを貰った。フレッドとジョージのカードには、「どうやってあのクソ真面目を落としたのか、今度教えろよ」と書いてあったし、ジニーからは「どうして教えてくれなかったの!」恋バナしましょう、と気恥しいお誘いが書かれてあった。皆あの玄関ホールのやり取りを見ていたのだと思うと、ベルは半纏で自分の顔を隠していないとやりきれない気持ちになった。
 当のセドリックからはうっかりカードを閉じてしまうような甘い言葉が書いてあって、ベルは急に自分の書いたカードが素っ気なかったかしらと不安になった。
「いやいや、バックビークのことがまず最優先だから」
 浮かれてる場合じゃないからと手で扇いで熱を冷ます。それに、最近ハリー達と話せていない。気まずい感じで別れてしまったから、何か話さないと。しかし話題と言っても楽しい話は今のところそんなに持ち合わせが、と思案して外に出ると、意外にもハーマイオニーの方から飛び込んできた。ちょうど今から大広間に行って朝食を食べようかというところだった。
「ベル、聞いて!」
「はいはい聞いてるよ」
「ハリーのところに、今朝、クリスマスプレゼントが届いたの。あなた、ハリーに箒を贈った?」
「いや、箒のリスト本みたいなのは贈ったが。どうしたよ」
 ハーマイオニーは「よく聞いてね」と一度呼吸を整えた。
「ファイアボルトが、今朝、ハリーに贈られてきたの」
……うん?」
「現存する箒の中で、一番の箒よ。素人の私から見ても、すごい箒だって一目で分かるくらい。でも、私、これ、……シリウス・ブラックから贈られたんじゃないかって……ああとにかく、あなた一度でいいから見てくれない? 心配なの……
 ベルは瞬いたが、とにかくハーマイオニーに腕を引かれるがままグリフィンドール塔の入口までやってきた。入り口はガトガン卿が鎧をガタガタ言わせながら守っていた。
 ハーマイオニーは一度絵画の向こうに消えると、すぐにハリー達を引きずるようにして現れた。ハリーは確かに、そりゃもう高級だと一目で分かる箒を手にしていた。ハリーとロン、二人揃って目を丸くしてキラキラさせている。ベルはひとまず、「メリークリスマス」と言った。
「あ。メリークリスマス、ベル」
「私も、言い忘れてた。メリークリスマス」
「メリークリスマス……すっこいだろ!?」
「そうねえ」
 ハリーから箒を受け取って、ベルは軽く視線を滑らせた。
「まあ、私もそこまでクィディッチに詳しい方とは言えないが。確か昔、相手チームに魔法を使えなくなった時に、箒の方にも魔法や呪いに掛からんようにいろいろと工夫されるようになったというのは話に聞いてて」
 ロンが得意気にする。ハリーはソワソワとして、箒を試す眇めつするベルを見ていた。ハーマイオニーは尚も心配そうだ。
「でも、ハリーを殺そうとしている人が、わざとこうして、ハリーを油断させて、空から落とそうとしてるのかも……
「あれ? 言ってなかったっけ。私、これからクィディッチの試合を警護するために競技場の周りを飛ぶことになったんだよ」
 そうなの、と三人が目を丸くする。
「だからお前が落ちても大丈夫ってワケ」
 ウインクするベルに、ハリーとロンはあからさまにホッとしたような表情になった。
「まっ、それはそれとして、安全策は講じておいた方がいい。心配してくれる友達が安心してお前を応援できるようにするためにも。一度フリットウィック先生とルーピン先生に見せよう、飛ぶのはそれからでも遅くないよ」
「ベルの目から見ても、危ないと思う?」
 少しだけ不安そうにしながら、ハリーはベルから箒を受け取った。
「大丈夫だとは思うがねえ。私は闇の魔術には詳しくないからな。それにしても、なんでシリウス・ブラックだと思ったんだ? カードか何かあったのか?」
「ううん、なんにも」
 ハリーとロンが首を横に振る。
「でも、ブラック家って旧くからある魔法族の家でしょう。ハリーに関わる人達の中で、そんなお金を動かせるのはブラック家くらいしかないんじゃないかしら……
 ハーマイオニーが口を挟む。なるほど、とベルは腕を組んだ。
「確かになぁ。グリンゴッツの小鬼共はどこまで行っても平等で公平というか、魔法使いたちの事情に我関せずというか……脱獄した奴でも金庫は使わせてもらえるだろうし……ま、とにかく、用心に越したことはない。マクゴナガル先生ンとこ行こう」
 渋々、ハリーとロンがウン、と頷く。三人は一度寝巻きから着替えてくると、箒を担いでまずは大広間に行った。腹ごしらえをしてからでないと、どうにもやる気が出なかったからだ。しかし、ちょうどマクゴナガル先生も朝食に来ていたので、四人は事務所を探す手間が省けたと、マクゴナガルへ突撃した。
「まあ、どうしたんです、ポッター、その箒は」
「今朝、匿名で贈られてきたんですよ。パッと見、ただの高級箒ですけど」
「ベル、これはただの高級箒ではありませんよ。これがあなたに……本当に匿名で?」
「はい、先生。ハーマイオニーが、これはシリウス・ブラックからじゃないかって言うんです」
 顎を引き、眼鏡の上からハーマイオニーを見るようにして、マクゴナガルはゆっくりとひとつ瞬いた。
「よろしい、これは私とフリットウィック先生、そしてルーピン先生で調べます」
「よろしくお願いします」
「先生、僕、それで次の試合に出たいんです」
「分かっていますよポッター。必要な練習時間の前までには間に合わせます。よくぞ私に相談してくれました、正しい判断です。グリフィンドールとスリザリン、それぞれに10点差し上げます。さ、もうお行きなさい」
 促されて、生徒達はぞろぞろと大広間を後にした。
「な、大丈夫だったろ。マクゴナガルだってお前の命を天秤から降ろして優勝杯を勝ち取りたいんだ」
「うん……でも、1回飛んでみたかったな………………
「はっはは、ま、少しの我慢だ。よし、雪合戦でもするか? それとも私とハグリッドを手伝ってくれる?」
 四人は連れ立ってハグリッドの小屋を訪ねた。生徒達はベルの指揮で作業を少し手伝い、ヒッポグリフに乗って空を駆けたり、ファングと雪で遊んだりした。ランチの時間になってハリー達は城に戻ったが、ベルはハグリッドと昼食を食べて、午後の作業に取り掛かることにした。