桜霞
2024-09-30 20:24:37
70170文字
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魔法歳時記 2

オリジナル主人公:
淋(リン)
あだ名はベル。家名は無い。14歳。日本人だが、堀の深い顔立ちに灰がかった青い目の少女。
小さい頃から山の獣や人外に囲まれて育った。
ハリーのことは弟のように思ってる。





 翌朝、ホグワーツは大吹雪だった。ベルはこの日、1日のほとんどを薬草学のスプラウト先生と過ごすことになった。マンドレイクに靴下を履かせ、マフラーを巻く作業の手伝いをしなければならなかったからだ。
 上機嫌に作業を手伝うベルに、スプラウトは「あなたが積極的に手伝ってくれるのは助かるけど」作業の合間に首を傾げながら聞いた。
「今日はいつにも増して機嫌がいいわね。どうして?」
「この時間、本当ならロックハートの授業なんですよ!」
「あぁ……
 ニコニコ笑顔のベルに、スプラウトは苦笑した。
「まぁ、あなたが笑顔になれるなら、あの男にもそれなりに価値がありそうね」
「強烈っすねェ〜〜〜!」
 出来の悪い授業を受けられない事実に喜ばれることで価値を認められて得意げになる男がいるなら見てみたいものだが。ケラケラ笑うベルに、スプラウトはほんの少し真面目な声音になった。
「あなたはもう少し笑っていた方がいいってことよ。可愛い顔が、もっと可愛くなるわ」
「またまたあ。おだてられてもマンドレイクを引っこ抜くくらいしかできませんが!」
「じゃ、さっさと終わらせてしまいましょうか!」
 耳栓をして、二人は作業に戻った。音もなく、目配せや身振り手振りで合図し、時に魔法を使い、杖を咥えたり耳に引っ掛けたりしながら、二人はなんとかして全てのマンドレイクに靴下を履かせ、マフラーを巻く作業を終えた。
「はー、やれやれ」
「お疲れ様、と言いたいところだけど。もう一仕事のようね」
 スプラウトが温室の向こうを見やる。それを追いかけた先には、ハグリッドがにこやかに手を振っていた。ハグリッドの大きなまつげには雪がちょこちょこと乗っていた。
「よう、ハグリッド!」
「おう、ベル。今日はえらく機嫌がいいな、え? 聞いたぞ、ロックハートをぶっ飛ばしたってな」
「あぁー、まあ、決闘の模範演技としてはあんまり良くなかったかもな……
 スプラウトと別れ、二人は温室から離れた。
「で、どうしたの? 野菜?」
「雄鶏だ。二羽殺された。狐か、吸血お化けか……とにかく、鶏小屋の周りに魔法をかけにゃ。お前さんに頼む話を、これからダンブルドア先生にしてくるところだ。後で来てくれ」
「分かった」
「温い格好で来いよ」
「分かってるよ!」
 ベルはロックハートの授業の時間を目一杯使うことにして、急いで寮に戻った。部屋に置いてある毛皮の半纏を引っ掴み、マフラーを巻いて、とにかく暖かい格好で外に出る。大吹雪の中、積もり出した雪をえっさほいさっさとかき分けながら進み、鶏小屋に辿り着いた時には、ベルは息を切らして汗をかいていた。

 ───今が一番充実している気がする。

 鶏小屋の周りに魔法をかけながら、ベルは上機嫌にもそう思った。
 授業をサボって、日の高いうちから、植物や、動物、自然に関わるものの作業をする。嫌になったこともある日々の暮らしが、今はこんなにも楽しい。
 ベルが城に戻ると、授業終わりの生徒達が城の中をあっちこっち行き来していた。その中から、「お前、なんでそんな格好してるんだ!?」ギョッとして出迎えてくれたのはフレッドとジョージの双子だった。
「今までどこに行ってたんだよ、こんなに吹雪なのに」
「ハグリッドの小屋だよ。ちょっとね。なんで?」
 雪を払い落としながら聞くベルに、双子は訳あり顔でニヤリと笑った。
「今し方、ハリーがマクゴガナル先生に連れてかれたところだよ、ベル」
「またやられた。今度はハッフルパフのジャスティンと、なんと我らが『首なしニック』だ」
「また?」
「石にされたんだよ! ちょうどそこにハリーが居合わせちまったんだ」
「あいつ、蛇のパーセルマウスだろ。継承者は君かハリーかって、みんなこの話で持ちきりだったんだぜ。知らないのか?」
「知らない。ご存知、私、日本人だから。英語、よく分かんなくて」
 ニヤリと目を細めて飄々と言ってのけるベルに、双子も似たような顔で笑った。
「こりゃ、ハリーで決まりだな」
「からかってやろう。偉大なる魔女様もご一緒にいかがでございますか?」
「せっかくですけど、ご遠慮差し上げ奉り申し上げますわ」
 大仰に体を追って腕を振り上げる礼をするフレッドに同じようにしてやって、三人はワハワハと笑って別れた。皆が正体不明の何かに次は自分が石にされるかもしれないと怯えてお守りや呪いを次々と流行らせている中、この三人だけは常と変わらずにいつも通りだったので、ともすればハリー以上に異質な目で見られていた。しかし、三人はそんな視線には慣れっこだったので、大したことではなかった。


 学期が終了し、冬休みが始まった。生徒たちはマルフォイ、クラッブ、ゴイル、ウィーズリー家の子供達、ハリーとハーマイオニー、そしてベルを残して、全員が帰宅した。ベルは皆が遊んでいるのにたまに混ざりながら、ハグリッドの仕事と大広間の飾り付けを手伝った。広間は昨年と同じようにクリスマスツリーに霜を降らせ、ヒイラギやヤドリギの小枝を天井に縫うようにして飾り付けた。魔法の天井は温かく乾いた雪を降らし、ベルは広間を箒で飛びながら壁にもリボンなどで飾り付けを施した。
「ベル」
「お! ジニーじゃねえの」
 破顔して、ベルは流れるように箒でジニーの側に降り立った。ジニーはまだ全快というわけでは無いようだったが、以前よりはマシな表情をしていた。
「相変わらず上手く飛ぶのね」
「お前の兄さんたちには敵わねえよ。どうした? 冷えたか」
「ん……、あのね……
 ジニーはしばらく考えていたが、やがてポツリと、ほとんど響かない声で言った。
「捨てるわ、あの日記」
 ベルは瞬いて、だがそれだけだった。
「そうか」
 腕を広げると、ジニーは吸い込まれるようにしてベルに半身を預けた。しっかり受け止めてやって、ベルも同じように静かに言葉を紡いだ。
「お前のいい相談相手には違いない。それを分かっていたのに、ジニーの気持ちを無視して、ごめんな」
「ううん。私のために言ってくれたって、分かってる。私の方こそ、ごめんなさい」
「仲直りしてくれるか?」
「うん。ごめんね、ベル」
「私もごめんな、ジニー」
 ベルは力一杯ジニーを抱きしめた。ふざけてちょっと体を揺らすと、ジニーはくぐもった笑い声を上げた。その声を聞いて、ベルは心底からホッとした。あの日記がヴォルデモートに関わりがあろうがなかろうが、ジニーにとって悪いものであるには違いなかったので。
「パーシーがペネロピを紹介してくれて、ロンやハーマイオニーがたくさん話をしてくれたの。勉強で分からないことなんてなくなったし、ジャスティンがベルのことすごく褒めてたのよ」
「そうか。友達がたくさんできたな。私とは大違いだ」
「二年生になったら、私もクィディッチチームに入りたいわ。一緒に練習してくれる?」
「箒の乗り方はレクチャーできるが、私は投げるのが壊滅的に下手だからなあ」
 真剣に言うベルに、あはは、とジニーが声を上げて笑う。
「ベル、そこはあなた、自分はスリザリンだからって断るところよ!」
 憑き物が落ちたように笑うジニーに、ベルも相合を崩し、ああそうか、ジニーの言う通りだねと、穏やかに微笑んだ。


 あと数日でクリスマスというところで、ベルは珍しく談話室で暖を取っていた。魔法のかかっている城は夏は涼しく、冬は暖かいが、火の傍はやはり落ち着く。焚き火の爆ぜる音が心地よく、ベルはてきとうに図書室からかっぱらってきた本をぼうっと眺めていた。
「ミス・ベル。珍しいですね、談話室にいるなんて」
 瞬いて、ベルは顔を上げた。ドラコ・マルフォイだった。
「そうだな」
 言葉だけで肯定を返すベル。ドラコは満足げに微笑み、もったいつけてソファに座った。もう少し背が伸びて、手足が長くなれば様になるだろう所作だった。ベルは本を閉じてやった。
「お邪魔してすみません。でも、珍しい機会は誰だって逃したくないものでしょう?」
「そうだな……あぁいや、別に、読んでなかったからいいんだ。ただ広げて、ぼうっとしてただけだから」
 ソファにほとんど寝そべるようになっていたのを座り直して、ベルはマルフォイを無言で促した。話しかけたからには何かあるのだろうとマルフォイを待っていると、マルフォイが口にしたのは、意外にも謝罪だった。
「先日は、すみません。家名のことで───不躾でした。何か事情がおありだろうと、分かってはいたのですが」
「構わんさ」
 ベルは思わず眉を上げて頬を緩めた。
「同室のミランダなんか、一年の時に『親に捨てられたの? あなた何をしたの?』なんて言ってきたんだぞ。なんと言ったらいいか分からんかったから、英語が分からないふりをしてやり過ごしたが。ま、気にするなよ。慣れてるから。いつものことさ」
「それじゃ、聞いてもいいですか? どうして家名が剥ぎ取られたか───」
 マルフォイが身を乗り出す。ベルは苦笑した。
「構わんが、答えられることはほとんどないぞ。お前の家のように、長く続く歴史や、自慢できるようなものも何もない」
「確かに、我が家は歴史ある貴族の家ですが、イギリスでは珍しくありませんよ」
 謙遜のつもりだろうが、尊大な表情で、ドラコが言った。
「昔の話なんて、誰でも知っていることです。最近起こっている事件の、秘密の部屋のこととかね。だから僕、お役に立てるんじゃないかと思って」
「ん?」
 小首を傾げるベルに、マルフォイがさらに身を乗り出して、息を潜めて言った。
「あなたなんじゃないんですか? スリザリンの継承者は」
「───」
 ベルは咄嗟に言葉を失った。泰然と崩されないその態度をどう受け取ったか、マルフォイはさらに言葉を続けた。
「皆が言ってます。実はあなたがサラザール・スリザリンの子孫で、何かあって極東にまで逃げ延びて、身を潜めるために家名を隠しているんじゃないかって」
……なるほど?」
 ベルがようやく絞り出せた相槌はその程度のものだった。
「以前、秘密の部屋が開かれた五十年前のことをご存知ですか?」
「いいや、知らんが……
「お教えしましょう」マルフォイは満足げにしながら言葉を続けた。
「僕の父上の前の時代ですが、もちろん、父上は全てご存知です。とはいえ、父上も多くを語ってはくださらなかったし、関わるなと言われているのですが。当時、『穢れた血』が一人、死んだそうです」
 穢れた血。つまりは両親を含む親戚にマグルの血筋がある者である。
 ベルは考えながら言葉を選んだ。
……秘密の部屋が今になってまた開いたってことは、以前は閉じられたってことだ。開けたやつが閉じたのか、それとも別の誰かに閉じられたのか……
「詳細は不明ですが、ホグワーツからは追放されたそうです。おそらく、今もアズカバンに収監されているかと」
 アズカバンの名は、さしものベルも知っていた。絶海の孤島にある、魔法界で重犯罪を犯した者のための刑務所である。
「ふうん」
「とにかく、継承者は、今度こそ賢く立ち回らなければ。ホグワーツには、粛清が必要です。そうでしょう?」
 父から借りた言葉だな、とベルはすぐに見抜いた。12歳の子供が放つ粛清という言葉は、随分と上滑りしていた。
……ドラコ。お前が色々と話をしてくれたから、私も来学期のことをあんまり気にせずに私の話をするが」
「!」
 ドラコの双眸が期待に色を変える。
 ベルは───淋は、苦笑のような、曖昧で、複雑な表情を浮かべた。
「私の母親は、私を産んで、すぐに死んだ。出血多量でな、輸血ができなかったんだ。私を生かしてくれた母方の祖母は、母が私を身籠る前にイギリスにいたことを、ホグワーツからの手紙が初めて届くまで教えてくれなかった」
 マルフォイは、怪訝そうに眉をひそめた。
「私には魔法力があったが、祖母は魔法力については門外漢だったから。コントロールできるようになってこいと、放り投げられた。故郷に迷惑がかかるから……
……マグルということですか?」
「いいや。祖母の家系は、魔法力とはまた違う力を持っている。私が人より呪文の習得が早いのはそのせいだよ」
…………
 マルフォイは思案する素振りを見せた。気付かないふりをして、ベルは言葉を続けた。
「おそらく、私の父は、イギリス魔法界の、魔法使いの男だろう。おそらく黒髪で、青い目だ。この色は劣性遺伝でこどもに遺るからな。日本人に青い目はほとんどいないし。けど、その男が純血の家の出なのかは何も分からない。蛇の言葉だって、そりゃあ山で育ったから、大体の獣の主張するところはなんとなく察せるよ。でも、それは、必ずしも私が継承者であることを意味しない。そうだろう?」
 話は終わり、とベルが立ち上がる。
「プライベートなことだ。みだりに言いふらすなよ」
 マルフォイは答えない。ベルは気にせずに、自室へ戻った。
 クリスマスイブの日、ベルはみんなにクリスマスカードを書いた。それに紛れるようにして、ハリー達宛に手紙を書いた。マルフォイがどうも継承者ではないということを伝えるためだ。
 少なくとも、自分が継承者であるのなら、ベルが継承者だと決めつけて、それを自分こそが特別に手伝おうと擦り寄ってきたりしないだろう。マルフォイじゃなかったかー、とベルも内心、両手両足を大の字に投げ出していた。


 クリスマスが明けて、ベルは一人、正月気分を味わっていた。
「お、またベルが黒い豆食ってる」
「食べる? 美味しいよ」
 ハリー達は微妙な顔をして去年と同じく「いらない」と首を振った。ジニーも眉を顰めて、「どうしてそんなものを食べているのか」といった風情だった。
「なんなの、それ」
「黒豆だよ。自分で作ったの」
「どうやって?」
「魔法薬で使う鍋に水を入れて、豆入れて、談話室の暖炉に引っ掛けてしばらく煮る。おしまい」
 下級生達が揃って「ええ……」という顔をし、フレッドとジョージは肩を竦めた。以前これをからかったら「よそ様の国の食文化をネタにするんじゃない」とひどく怒られてとんでもない目にあったので、それ以来触れないことにしているのだ。
「それ、変な味しない? 魔法薬の味とか……
「しないよ。こいつは料理をしてやると機嫌が良くなって、美味いのを作ってくれる。魔法薬は嫌いらしい。毎回爆発する。で、スネイプに怒られる」
 黒豆を食べ切って、ベルは魔法薬用の鍋を魔法でさっと片付けた。
「ちなみに、料理をして、こいつがちゃんとれっきとした鍋であることを証明しようとしても怒る。我らが寮監ながらむつかしい人だ」
 顰めつらしく言うベルに、グリフィンドール生たちはくすくす忍び笑いをこぼした。ジニーは「ちょっと食べてみる」とグリフィンドール生らしい勇気を出し、ベルの皿から一口食べて、真面目な顔で「悪くないわね」と言ってくれた。


 休暇が明けて、生徒達が帰ってきた。ホグワーツは生徒達で賑々しくなり、ベルは再び、皆の影にひっそりと潜んで静かに生活しようとしたが、そうは問屋が卸さなかった。
 ベルはいつも、図書室だけで勉強しているわけではない。彼女にはいつも、教科書や参考書の他に、辞書が数冊必要だったから、人より余程幅を取る。他の人の迷惑にならないように誰も来ないような城の尖塔のてっぺんで勉強していたら、気付けば孤立していたのだが。
「やぁ、こんにちは」
 それがどうしたことか、先客がいる。ハッフルパフの生徒だった。顔に見覚えがないから、他学年だろうと思われる。
「こんにちは……
 困惑を隠せず、ベルはとりあえず挨拶を返した。
「ええと……
「はじめまして。僕、セドリック・ディゴリー」
「ア、どうも、ベルです……
 手を差し出されたので、握手で返す。セドリックは朗らかに「いつもここで勉強してるの?」と聞いてきた。ベルは、「まぁ、ウン……」と曖昧に返す。ベルが未だに戸惑っているのを見てとって、セドリックは笑みを深めた。
「ごめん、驚かせたよね。実は、ジャスティンから君の話を聞いたんだ。ロックハートを容赦なく吹き飛ばした君が、びっくりするくらい淑女だったって……しかも無言呪文を使ったって。ほんと?」
「あー……まあ……
 微妙な反応を返すベルに、セドリックは優しく言葉を続けた。
「良かったら、無言呪文のコツを教えてくれない? 代わりに、僕で良ければ勉強を手伝うよ。これでも五年生だから、何か役に立てると思うけど」
「あ、うん……
「今日は何を勉強する予定だったの?」
 ベルはひとまず教科書を取り出した。自分で買った闇の魔法の防衛術の本である。
「? 今年の教科書だったっけ?」
 ううん、とベルが首を振る。
「買わなかったの。無駄なお金使いたくなくて」
 セドリックは虚をつかれたような顔をしたが、「君には先見の明があるな」と声を上げて笑った。
「じゃ、授業はどうしてるの?」
「英語が分からないフリしてる」
「英語が分からないフリ!?」
 またセドリックが笑う。
「君、面白いね。イギリスとか、アイルランド出身じゃないの?」
「うん。日本人」
「日本! 遠いね」
「日本のこと知ってるの!?」
 ベルは素っ頓狂な声を上げた。この辺りの子供ときたら、ジャパンと言えばフライパンの一種か、なんて言い出すので。
「知ってるよ。まぁ、国の名前と、形くらいしか知らないけど……アルファベットを使わないんだろ?」
「そう、まあ、たまに使うかな……そうか、知ってるのか……
 日本という国を知って貰えているというだけで、ベルの中で、セドリックへの距離感が一息にぐっと縮まった。勝手に自分のパーソナルスペースとしていた公共の場所に突然他人がいたのでびっくりしてしまったが、優しく朗らかで、爽やかな好青年のセドリックは、ベルの曖昧な態度にも気を悪くしなかったし、他愛ない会話にも穏やかに付き合ってくれた。
 何より、セドリックから向けられる視線は、これまでベルに向けられていた、そのどれとも違っていた。探るような、自分達とは同質ではないと突きつけるような、人を人として見ないような好奇心丸出しの視線ではなく、普通に、一生徒としてベルに対峙してくれている。
 ただそれだけで、とも思う。国の名前や形など、調べればすぐに分かることだ。ただそれだけで、普段ベルの中にうず高く築かれたファイアウォールが、とろ火にまで小さくなってしまっている。普段のベルなら、こんな風にはしないはずだった。なんのために自分に近付くのかと、取り付けた仮面の下、思考を巡らせている筈だった。
「魔法薬の授業は難しいよな。僕のクラスでも、鍋が爆発することはよくあるよ」
「上学年のクラスでも……! あるのか……!」
「あるある」
 セドリックは、なんだか微笑ましい気持ちだった。全身の毛を逆立てていた猫が徐々に懐いてくれるようで、セドリックの話を聞いてベルの表情がふと柔らかくなる時があるのが、少し嬉しい。
「魔法薬だけが苦手なの?」
「そう、いうわけでもないかな……やっぱり一番の敵は英語で……アクセントが難しくて。だから無言呪文を練習したの」
 サラリと言ってのけたベルに、セドリックは瞠目したが、「すごいね」とすぐに相槌を打った。
 普通は、きちんとした発音で呪文を唱えることに慣れてから、ようやく無言呪文に挑戦できるようになるからである。
「コツとかあるの?」
「あー、説明するのが難しいけど」
 考えながら、そう言えばセドリックは無言呪文の練習をしに来たのだったと、ベルは努めて冷静になった。どういうわけかこんないい人がわざわざベルを探しにきてくれたらしいなんて、舞い上がっている暇ではなかった。
「ごめん、雑談ばっかり。ええと、正確な発音も重要だけど、杖に、正確にイメージを伝えるのも大事だと思っていて」
「杖に、伝える?」
「そう。相棒に、こうしてって、魔法力を使ってちゃんと伝えるの」
「なるほど……?」
 ベルの言葉を頑張って咀嚼しようとしているセドリックに、ベルは内心、めちゃくちゃ反省した。自分の感覚を言葉にするとどうしても先の言葉になってしまうが、客観的に字面だけ見れば一体何を言っているのか全くもって分からない。ふわふわすぎる。
「やって見せるね」
 百聞は一見にしかずとも言う。ベルは杖を取り出し、鞄の中から教科書やらなんやらを広げ、いつもそうしているように、ぐだぐだしながら勉強をするための空間を作り出した。クッションやラグがどこからともなく現れて、冷たい石畳のスペースはあっという間にひと心地つけるような空間になった。おお、とセドリックが目を丸くして感心する。
「すごいな。先生達の魔法みたいだ」
「便利だよ。もう自分の手を動かして片付ける気にならないくらい。えーと、今やってるのがレヴィオーソとか……物を、こんな感じで浮かすのを、はっきり頭の中に描きながら、まずは心の中で唱えるといいかも」
 ベルの杖に沿って、クッションがふわふわと上下に漂う。セドリックは早速杖を取り出して、もうひとつのクッションに、何度か魔法をかけようとした。
……うまくいかないな。やってるんだけど……レヴィオーソ」
 ふわ、とクッションが浮く。うーん、と首を傾げながらセドリックの杖が上下に動き、それにつられてクッションもふわふわと漂った。
「なんだか、君の杖の動きの時と比べて、僕のはクッションがちょっと遅れて動く気がするな」
「確かに。練習には家事系の魔法が一番いいよ。ベッドメイキングとか、杖の一振で終わらせられるようになると、すっごく楽」
「それは確かに、すごくやる気になるな。分かった、練習してみるよ」
 にっこり笑ってありがとうと礼を言うセドリックに、ベルもどういたしましてと返す。なんだか肩の力の抜ける感覚に、これが毒気を抜かれるってやつか、とベルは内心苦笑した。
 以降、ベルはほとんど毎週、尖塔のてっぺんでセドリックと会うようになった。ベルがセドリックに懐くのに、そう時間はかからなかった。
 二人は大抵、教科書を広げてそれぞれの課題をしたり、ベルが呪文を使うコツをセドリックに教えたりしたが、半分以上は互いの他愛ない話をした。セドリックが「多くの生徒はスリザリンを誤解してる気がするな」と言い出したら、「あなたは私に絆されてるだけだよ」とベルが笑い飛ばし、ベルが「魔法薬の鍋でコメを炊いてるところをスネイプに見つかってしこたま怒られた」と愚痴ると、セドリックは「また面白いことしてる」と肩を揺らして笑った。
 人と話すことがこんなに楽しいことだと、ベルはほとんど初めて知った。セドリックとの時間は矢のように過ぎ去って、寮の前でまたねと別れることが毎度名残惜しかった。
 そんなベルのふわふわした気持ちが、音を立てて固まるような事件が起こった。
 ある日、ベルはいつものように尖塔のてっぺんで、ひとりで教科書たちを広げて課題に勤しんでいた。いくつかの羊皮紙があらぬところに散らばって、ベルは寝そべりながらレポートを書いていた。
 そこへ、ばたばたと、騒がしい足音が響き渡る。どうもセドリックの気配だが、こんなに慌てているのも珍しい。ベルがセドリックのスペースのために魔法で羊皮紙をかき集めたところで、息を切らしたセドリックが現れた。
「どしたの」
「やぁ、ベル……はぁ、疲れた……
「何があったの」
 セドリックはすぐに階段から死角になるようなところへ引っ込んだ。必然的に、ベルとの距離がいつもより近くなる。ベルは心臓が変に跳ねるのを聞いたが、気付かなかったふりをした。
「お茶飲む?」
「ウン、ありがとう……
 ベルが魔法で用意した紅茶を受け取って、セドリックはようやく一息ついたようだった。
「どしたの」
 再度問うと、「アレだよ」セドリックは眉を寄せて少し嫌そうにして言った。彼にしては珍しい表情に、ベルは驚いて目をぱちくりさせた。セドリックにも嫌なことがあるのか。そらそうか、人間だもの、と新しい心地でいるベルの耳が、第三者の足音を捉える。セドリックの嫌そうな顔が加速するのを見て、ベルは瞬いて、来客の相手をするために階段の方へ顔を出した。
「おう、マドモアゼル。そこにセドリック・ディゴリーはいますか?」
 階段を登ってきていたのは、無愛想な顔をした小人だった。なんだこれ、という顔を隠さず、ベルは「何か用?」と聞いた。
「セドリック・ディゴリー宛です」
「手紙? はあ、ご苦労さん」
 ピンク色の手紙には、ハートの形で封蝋がしてあった。ベルは「セドリックにはちゃんと渡すよ」と約束の言葉をやって、小人が満足気にして階段を降りて行くのを見送ると、踵を返した。そしてまた、目を丸くすることになった。セドリックはローブのフードを目深に被って、器用に縮こまっていた。
「どしたの」
 三度同じことを問いながら、ベルは手紙を差し出した。セドリックは仕方なさそうにして受け取った。
「ベルのところには来てないの」
「来てないよ。何あれ」
「ロックハートだよ」
「ロックハート?」
 あいついつの間にあんなに縮んで、とベルが突飛なことを考えているとは夢にも思わず、セドリックはやれやれと溜息をついた。
「今朝の騒ぎを知らないのかい? 朝食の時に、バレンタインデーだとか何とか言って、ラブレターを配達するって……授業中にも邪魔しにくるんだよ」
「なるほど」ベルはぽりぽり頬をかいた。
 ベルは今朝、ハグリッドを手伝うために夜明け前から野菜や家畜の世話をしていたので、大広間の騒ぎを知らずに済んだのだった。
「うちの学年のスリザリンにモテるやつは一人もいねえってことが今判明した。ある意味地獄だな」
「天国の間違いじゃない? でも、君にならラブレターの一つや二つ、来そうだけど」
 ベルは肩を竦めた。同時に、セドリックはベルに友達らしい友達さえいない事を知らないのだと思い至る。ベルにとっての友人はウィーズリー家のこどもたちと、ハーマイオニー、そしてハリーくらいのものだった。最近ここにセドリックも加えていいものか、ベルは少し迷っていた。スリザリンと仲良くしてるなんて、セドリックがなんて言われるか分かったもんではないからである。第一セドリックがそんなつもりじゃなかったとしたら、ベルはめちゃくちゃにショックを受ける自信があった。
「セドリックはモテるんだろうな。何通目なの」
「さぁ……数えてないよ」
「ちゃんと読んであげなよ。好きでいてくれるのなんて、結構ラッキーなことだよ」
「それは……そうかもしれないけど。でもあいつら、皆の前で手紙の中身を読み上げたりするんだ」
「なんじゃそりゃ」
 なんとも居た堪れないどころでは済まない騒ぎだ。
 ベルは自分がそんな場面に遭遇しないで済んだことを感謝した。
 しかし、やはり、と思い直す。
 セドリックはモテるのだ。顔の善し悪しはベルには分からないが、笑顔は素敵だ。それに、スリザリンだからと言わず分け隔てなく接し、優しく穏やかに話してくれる。きっと誰にでもそうなのだろう。恋愛感情だけでなく、普通に人気者なのだろうな、とベルは少しだけ、胸に隙間風を感じた。
 きっとそのうち、無言呪文をマスターして、この尖塔の小さなスペースからも卒業するのだろう。ベルは素直に、残念だな、と思った。
 ベルがいつか来たるセドリックとの別れに心の準備を始めているのとは裏腹に、季節は移り変わろうとしていた。冬の気配はすっかり遠のいて、春の足音がもうすぐそこにまで迫っていた。
「そうだ、言おうと思ってたことがあったんだ」
 この頃は誰が襲われるということもなく、生徒たちや先生たちも、昨年のように過ごしていた。もう少ししたら本格的な試験対策が始まるし、セドリックは五年生なので普通魔法試験───通称OWL、ふくろう試験が待ち構えているはずだった。その話かな、とあたりをつけたベルを裏切って、セドリックは朗らかに言った。
「今度の土曜日、クィディッチの試合があるんだ。見に来てよ」
……え、クィディッチ?」
 しかも、見に来てよ、とは。何度か瞬くベルに、セドリックは「僕、選手なんだよ」小さくはにかんだ。
「シーカーなんだ」
「えーと……スニッチを捕まえるやつ?」
「そう。クィディッチのことは知ってる?」
「あんまり知らない……ボールが輪っかを潜ったら得点が入る」
「そうだね」
「スニッチ捕まえたら終わり」
「そう」
「んーと……ブラッジャーで……選手を叩き落としていい」
「まあ、そうかな。……あんまり興味無い?」
 セドリックが気遣わしげに苦笑する。ベルはうんともいやとも言わなかった。
「んー。でも、せっかく誘ってくれたし。行くよ。どことやるの?」
「グリフィンドール」
「おお……
 ベルの脳裏にフレッドとジョージが現れて、「この裏切り者!」「俺たちの応援には来ないくせに!」「俺たちが誘っても面倒くさそうにするくせに!」わあわあ騒ぎ出した。ベルはそれらを押し黙らせながら、よし、どっちも応援しに行こう、と決めた。
「ジョーダンの近くに座れないか、頼んでみる」
「分かった。絶対勝つよ」
「そう力むなよ」
 まともに試合を見るのは久しぶりだ。ベルは念の為、ハグリッドに土曜はいつものように手伝いに行けないと手紙を出すことにした。


 土曜の午前中、ベルはごった返す生徒達の流れに乗ってクィディッチ競技場に向かった。ダメ元でジョーダンに隣の席に座っていいか頼むと、彼は二つ返事で快諾してくれた。
「ありがと、ジョーダン。助かったよ」
「良いってことさ。それにしても珍しいな。一体どんな風向きがあったんだ?」
「別に、気紛れだよ」
「ふーん?」
 ジョーダンはまだ何か聞きたそうだったが、選手入場が近かったので、マイクの調子を確かめる作業を始めた。ベルはなんとなく、セドリックに誘われたことを伏せたことに、ちょっとだけ心苦しさを覚えた。
 ジニーとの喧嘩の時に堪えたはずなのに、どうしても自分がスリザリンであることを気にしてしまう。誰にだって嫌なところはあって、いいところがあって、それは寮の色なんて関係ないと思っていて、そう在るよう努めていたのに。でも、ベルがスリザリンであることが、セドリックに何か不利に働くようなことになったら、自分が耐えられるかどうか、ベルには自信がなかった。
「さあ、選手の入場です!」
 ジョーダンが小気味よいトークで会場を盛り上げる。グリフィンドールの選手達は箒に乗ってぐるりと会場を一周した。ハッフルパフの選手達はスクラムを組んで、何事か最終確認しているらしかった。
 審判のマダム・フーチがクァッフルを取り出す。いざ試合が始まろうとしたその空気を打ち壊すように、メガフォンを持ったマクゴナガル先生が現れた。
「ん?」
「なんだ?」
「あれ? 先生がベルを寄越したんだと思ったのに。ベル、何か知ってる?」
「知らない。なんで?」
「いつもマクゴナガル先生が僕の隣に座るんだ。今日はいつまでも来なかったから……君が代わりなんだろうって」
「なんの?」
「つまんないことさ。僕の実況を行儀よくさせようとするんだ」
「あぁ……
 ジョーダンが解説をしていたのは知っていたが、そこにマクゴナガル先生の監視が入っていたのは初耳だ。生徒達もザワザワしだして、選手たちも全員がグラウンドに降りてきた。
 全員がマクゴナガルに注目している。直後、「この試合は中止です」とんでもない一言が試合会場を貫いた。
「えーッ、そりゃないぜ!」
 会場中から野次や怒号が飛ぶ。こどもたちのそれをものともせずに、マクゴナガルは「全生徒はそれぞれの寮の談話室に戻りなさい」と続けた。
「そこで寮監から詳しい話があります。みなさん、できるだけ急いで!」
 ブーイングする生徒たちも、やがては何が起こったのか心配そうな生徒たちに混じって城の方へ戻って行った。
「ああ、ベル。あなた、今日はここに居たのね」
 城へ戻る道すがら、ベルはマクゴナガルに呼び止められた。
「はぁ、まぁ。どうしました」
「他にスリザリンの生徒は?」
「居ませんが」
「ではあなたも一緒にいらっしゃい。私が寮まで送ります」
「はぁ……
 マクゴナガルの後方にはハリーとロンがついてきていた。二人とも、どこかキョトンとした顔をしている。ベルもその二人に混じり、城へと戻って行った。
 マクゴナガルが向かったのは医務室だった。
「また襲われました。二人一緒に……
 マダム・ポンフリーがレイブンクロー生の上にかがみ込んでいる。ペネロピだ、とベルはすぐに察した。
「ハーマイオニー!」
 ロンが呻く。三人は慌ててベッドに寝かされたハーマイオニーの傍に駆け寄った。
 ハーマイオニーはペネロピの隣に寝かされていた。目を見開き、身動ぎもしない。
「二人は図書室の近くで発見されました。三人とも、これに心当たりは?」
 二人の傍に落ちていた、とマクゴナガルが小さな丸い鏡を差し出す。三人はそれぞれで首を横に振った。
「あなた達をそれぞれの寮に送っていきましょう」
 重苦しく、マクゴナガルが言う。
「私も、いずれにせよ、生徒達に説明しなければなりません」
 先にベルがスリザリン寮へ送られた。地下室へ降りるところでハリー達と別れ、ベルはスリザリンの談話室で、いつかのように大勢の生徒たちの注目を浴びることになった。
 けれども、生徒達がベルに押しかけることは無かった。既にスネイプが到着していて、「揃ったな」と羊皮紙を広げたからだった。
「全校生徒は夕方六時までに、各寮の談話室に戻るように。それ以降は外出禁止だ。授業に行く時は、必ず先生が一人引率をする。トイレに行く際は、必ず先生に付き添ってもらうこと。クィディッチの練習および試合はすべて延期し、夕方は一切のクラブ活動を禁ずる」
 スネイプは羊皮紙を丸めると、「以上」と言って、さっさと談話室を後にした。途端に生徒達がわっと喋りだす。誰もがもう少し詳細な話をベルが知っているに違いないと彼女を探したが、ベルは気配を消して、生徒たちの間を縫うように進み、ひとり先立って自室のベッドに横になった。
 ハーマイオニーの行動には意味があるはずだ。彼女は賢い。ハリーの試合だったのにも関わらず、おそらく何がしかに気付いて、……しかし、蛮勇を犯すような性格だろうか? 小さな手鏡の意味も、全く分からない。
 お手上げだ。ベルはやれやれと嘆息した。
 その日の晩、真夜中に、ベルはスネイプに叩き起こされた。
「、な、なんすか」
「来なさい」
「はぁ……?」
 ベルは寝ぼけ眼をショボショボさせながらスネイプについて行った。スネイプはせかせかと進み、迷うことなく玄関から外へ出て、ハグリッドの小屋までベルを送った。
「セブルス。それは……?」
「森番の代わりだ」
 ハグリッドの小屋には、どこかで見たようなブロンドの男と、背の低くて恰幅のいい、くしゃくしゃの白髪頭の男がいた。白髪頭の方が「彼女が?」と驚きの声を上げる。
「まだほんのこどもじゃないか、アルバス」
「じゃが、禁じられた森などを任せられるものは、ハグリッドの他に彼女しかおらん」
 ブロンドの背の高い男が、品定めするようにベルを頭から爪先まで舐め回す。ベルは眉をひそめたが、男は意にも介さず、ふん、と鼻を鳴らし、ハグリッドの小屋から離れて行った。
「あー……ハグリッド……?」
「ベル。すまんが、しばらく俺の代わりにファングを頼む。それから、クモの跡を追いかけろ」
「? 分かった」
 意味が分からなかったが、ベルは頷いた。ハグリッドはどこかへ出かけるらしかったが、寝起きのせいで頭が回らない。
「さあ行こう、ハグリッド」
 促されて、よし、とハグリッドは腹を括った顔で小屋を後にした。ベルはなんと声をかけたものか分からず、黙って見送ることしかできなかった。
 スネイプも、仕事は終わったとばかりにマントを翻す。一人ぽつねんと残されたベルに、ファングがくうんと鼻を鳴らして擦り寄った。
「分かったよ、今晩は一緒にいてやるから」
 いったん、小屋の中に入って、ベルはしっかりと扉を閉めた。窓から誰の姿も見えないことを確認し、小屋の角の方に「いるんだろ、出てきな」声を張り上げる。
 直後、空間を剥ぐようにしてハリーとロンが現れたので、ベルは驚いて目を丸くした。
「お前達、こんなところで何をしてるんだ。それに、なんだそれ」
「透明マントだよ。僕の父さんが僕にって遺してくれてたんだ」
「はー……しっかし、まあ、助かった。何が何だかさっぱりでな。とりあえず、茶でも飲むか」
 ベルは杖を取り出して、何故だか壊れているポットを直し、ヤカンに入っていたお湯を沸かし直した。ハリーとロンのぶんも入れ直してやると、ベルはやれやれとソファに腰掛けた。待ち構えていたかのように、ファングはベルにぴっとりとひっついて離れなくなった。
「で、何があった」
「えーと……どこから話せばいいかな……
 やがて、ハリーが「ベルが前に手紙で教えてくれた、五十年前の話なんだけど」と切り出した。
「当時、秘密の部屋を開けちゃって、結果的にマグル生まれの子が一人死んだ事件を引き起こしたのが、どうもハグリッドらしいんだ」
 ベルは苦虫を噛み潰した顔になった。
「私が組分け帽子なら、まずハグリッドをスリザリンには入れねえ。ということは、冤罪だな。あの白髪頭とブロンドは役人か。ようやく首突っ込んできやがって、何をやるかと思えばパフォーマンスたあ、呆れるね」
 吐き捨てるように言うベルに、ハリーとロンは思わず顔を見合わせた。確かに、秘密の部屋はスリザリンの継承者にしか開けられない。ハグリッドはとんでもない生き物を好んで育てる傾向にあるが、そのために秘密の部屋を使うことは難しいかもしれない。
「五十年前も、冤罪だったんだろ。そうでなけりゃ、ダンブルドアがこんなところに置いておくはずがねえ。ということは、犯人は他にいるな。ハグリッドはたぶん、別の生き物を育ててた。それで証拠が揃っちまって、ホグワーツを追放されたんだろう。その時の立役者が犯人だろうな……対外的には賞やらなんやら貰っているだろうから、後でトロフィールームを調べれば分かるかな」
 眠そうに、くわりとベルが欠伸する。
「すごい、ベル。ほとんどその通りだよ」
「違うところと言ったら、白髪頭とブロンドのことくらいかな。白髪の方はコーネリウス・ファッジって言って、魔法大臣なんだ。パパのボスだよ」
「もう一人は、ルシウス・マルフォイ。ドラコの父親だ。ホグワーツの理事をやってるとかなんとかで、ダンブルドアがこの状況に何もできていないって言って、ダンブルドアを停職にしちゃったんだ」
「おやあらまあ、」
 ベルはほとほと呆れ果てた。
「もう終わりだね。お前達、荷物まとめてとっとと帰ンな。私も人の世話がいらないように片付けたら追っかけるから」
「冗談だよね?」
「真犯人を見つけないと。ハグリッドがアズカバンから出られないなんて、そんなの嘘だぜ」
「ハーマイオニーだって……ねえ、お願いだ、ベル。助けてよ。ハグリッドは最後になんて言ったの?」
……はあー……
 ベルは溜息をついた。突然とんでもない仕事をさせられた脳みそが、もう限界だと悲鳴をあげていた。
「明日には手紙を出す。今夜は寝かせてくれ。私はしばらく城には行けないから、ハーマイオニーが何をしようとしていたのか調べるのは、お前達に任せたよ」
……分かった」
 ハリーとロンは不承ぶしょうと言った体で頷くと、二人で透明マントをかぶった。気配だけが動いてドアを開け、小屋から離れていく。
……
 ベルはひとまず、朝が来るまで眠ることにした。授業は免除になるとしても、森番の仕事は山ほどあるし、何よりしばらくここで生活するなら、まずは掃除から始めなければならない。やらなければならないことはたくさんあったが、もうこれ以上ものを考えるのは、頭痛がしそうな勢いだった。




 翌朝、ベルは魔法をフルに使って森番の仕事を始めた。
 まずは鶏などの家畜や魔法生物の世話から始める。その後朝露で野菜に水を撒き、今度は森に入って余分に生えている枝を切り落とす。ファングは不安なのか、ベルの側をつかず離れずの距離で、ずっと大人しくついてきていた。
 ひと段落したところで、朝食を食べる。皿の片付けついでに、ベルは小屋の中を大掃除した。いつもはハグリッドがいるので手を出さなかったが、これからしばらく仮住まいとして世話になるには、掃除をしなければ落ち着かない程度だったのである。
 片手間にサンドイッチを作って腹ごなしをしながら掃除を終える頃には日が傾き始めていた。ベルは再び森番の仕事に出かけた。ついでに城に顔を出し、寮に戻ると、部屋で荷物をまとめ、何も盗られていないことを確かめてからまた小屋に戻った。いじめられていた数年前は、よく物がなくなったので、部屋に荷物をそのままにしておくのは心許なかったのである。
 スプラウトを手伝いながら澱みなく夕方の仕事をこなし、森番としての1日を終えて、ベルはようやくひと心地ついた。しかし、休んでいる暇はない。ベルはレターセットを取り出した。ハリーに手紙を書かなければならない。

「ハリー、そしてロン

 こんばんは。これを読むのはたぶん朝かな?
 昨晩ハグリッドが私に言っていたことを、今晩、これからやるつもりだよ。
 ハグリッドは私に『クモの後をつけろ』と言った。たぶん、五十年前に関わりのある動物なら、危険が伴うだろうから、もし明日の夕方になっても手紙が来なかったら、一番信頼できる先生を森に寄越してくれ。或いは、フィレンツェなら私のことを探してくれるかもしれない。
 ハーマイオニーの方はどうだった? 今度聞きに行くよ。

 ベル」


「セドリック

 こんばんは。
 試合、残念だったね。次を楽しみにしてる。
 ハグリッドがいない間、森番をすることになったから、また授業について行くのが大変になりそう。良かったら助けてくれると嬉しい。
 おやすみ。いい夢を。

 ベル」

 手紙を梟に預けて、ベルはファングを連れて森に入った。暗闇には慣れているとは言え、クモの跡を追いかけるのは流石に難しい。杖に光を灯し、ベルはいつも使っている道から外れて、森の奥の方にまで進んで行った。
…………
 やがて、ベルは光を消した。後は気配だけで追えるほど、クモの気配が大きくなったからである。何を感じ取ったのか、ファングは終始怯えて、尻尾を後ろ足の間に挟んでいた。
 大丈夫だ、と撫でてやって、ベルは堂々と森を進んだ。やがて、さっと視界が開けて、星明かりがベルと、眼前に広がる窪地を照らした。
 窪地には、蜘蛛がいた。しかも、大量に。人の背丈ほどもある、大きな蜘蛛が、手足をかしゃかしゃ言わせながらひしめき合っている。幾つもの目が、ベルを見つめていた。
 人を食うな、とベルはすぐさま判断した。ベルを捉える視線が、気配が、己の餌を求めるそれとそっくりだった。
「私は淋。縁あって、ハグリッドの代わりに森番を務めている」
 ベルの声は朗々と響いた。ハグリッド、と蜘蛛達がささめきあう。
 蜘蛛達をかき分けて、さらに大きな蜘蛛が現れた。その目は全て白濁していた───盲目なのだろうと、ベルは推測した。アラゴグ、と蜘蛛達が叫ぶ。
「なんの用だ」
 しゃがれた声だった。どうも長生きらしいな、とベルは一歩踏み出した。
「ハグリッドに言われてきた」
「ハグリッドは、今まで一度もこの窪地に人を寄越したことはない」
「あんたに用があるなら、ハグリッドは確かに一人で来るだろうさ。来れるならな」
「何故ハグリッドが来ない」
 アラゴグの声音が気遣わしげになる。ベルは「ハグリッドが捕まった」端的に告げた。
「ホグワーツの秘密の部屋が再び開いた。以前、その件でハグリッドが追放されたな? 再犯じゃねえかと、アズカバンに連れて行かれたよ」
 アラゴグが怒り狂って地を這うような唸り声を上げ、前脚の鋏を鳴らした。群れがそれに従い、窪地じゅうに音が木霊する。
「昔の話だ。何年も何年も前の」
 苛立った声で、アラゴグは言葉を続けた。
「みんながわしのことをいわゆる秘密の部屋の怪物だと信じ込んだ。それでハグリッドは退学させられた……
「じゃ、やっぱりあんたじゃねえんだな」
「違う。わしは遠いところからやってきて、まだ卵だった時にハグリッドに与えられた。ハグリッドはわしの面倒を見てくれた。いいやつだ……ハグリッドはわしの親友だ」
「だろうな」
 ハグリッドは、魔法生物に並々ならぬ愛を注いでいる。彼らは人間よりよほど純粋であるが故に、素直にその想いに応える。ベルはそれを、誰よりも近くで見ていた。
「わしが見つかって、女の子を殺した罪を着せられた時も、ハグリッドはわしを護ってくれた……この窪地にやってきて、妻も探してくれた。そして、わしらの家族はこんなに大きくなった」
「そうか。女の子はどこで死んだか知ってるか?」
「トイレだ。そう聞いた。どこのトイレかは知らん。わしは自分の育った物置以外、他の場所は見たことがない」
「なるほどな」
 トイレ。女子。二つのキーワードが、とあるゴーストをベルに思い出させていた。
「秘密の部屋にいる怪物に心当たりはあるか?」
「ある。しかし、わしらはその話をしない」
 アラゴグは嗄れ声で言った。
「わしら蜘蛛が何よりも恐れる太古の生き物だ。ハグリッドにも何度も聞かれたが、決して教えなかった」
「そうか。分かった。じゅうぶんだ」
 ベルは半身を引いた。その四方八方に、じり、と蜘蛛達が迫っている。
「夜分遅くに、悪かったな。お暇するよ」
「は、」
 老いた大蜘蛛が、かしゃかしゃと嗤う。
「わしらの娘や息子達に、新鮮な肉を前にして、手を出すなと言わせるのか?」
「おいおい、正気か?」
 受けて、淋も凄絶な笑みを見せた。
「ハグリッドにこの窪地が焼き払われているところを見せてえのか? 帰ってきたハグリッドに、五十年来の友人の一族、その全ての訃報を知らせろって?」
 空気がひりつく。
 蜘蛛は答えなかった。誰も、鋏を微塵も動かせなかった。
 淋が本気であり、かつその実力を持っていることを、アラゴグは敏感に肌で感じ取っていた。多勢に無勢で、やがては一族が勝るだろうとも、大多数はこの娘により、文字通り灰燼と帰されるだろう。
 淋と蜘蛛の睨み合いは、やがて蜘蛛達がジリジリと後ずさり、窪地の奥の方へ移動したことにより、幕を引いた。ベルは一言、「今度は肉を持ってくるよ」おやすみ、と今度こそ踵を返した。
 アラゴグは二度と来るなと呻いたが、しかし、ベルの耳には届かなかった。


 昼間の森番の仕事に、夜のアラゴグとの対話のせいで疲れ切っていたが、ベルはなんとかハリー達に宛てて手紙を書いた。

「ハリー、ロン

 おはよう。
 蜘蛛に話を聞いてきたよ。結論から言うと、部屋を開けたのはハグリッドじゃなかった。
 蜘蛛はむしろ、逃げようとしていたらしい。やっぱり冤罪だった。
 ハグリッドが城の物置で卵から孵したんだって。とんでもない群れになってた。
 五十年前に亡くなったのは、女の子だった。トイレで見つかったらしい。
 たぶん、嘆きのマートルだ。あのトイレを使ってたんだもの、知ってるよな?
 そこに秘密の部屋への入り口があって、おそらくは怪物が中にいる。
 何かは分からん。魔法使いたちの例のあの人みたいに話そうとしなかった。
 マートルが死に際、何か見てたかもしれん。調べられるか?

 ベル」

 少しだけ眠った後、ベルは昨日と同じように森番の仕事をこなした。
 流石に疲れが出たので、昼過ぎになって、再び短い睡眠を取った。夕方になってベルを起こしたのは、空腹になって餌を欲しがったファングではなく、凄まじい勢いで窓を突くヘドウィグだった。
「おーおーごめんごめん。今開けるでな……
 ベルは多少スッキリした頭を振って眠気を振り払いながら窓を開けた。ヘドウィグが手紙とも呼べない、折り畳まれた紙をパサリと置いて、ほーと鳴く。
「ありがとね」
 フクロウフーズを上げながら、ベルは紙を開いた。

「ベル

 嘆きのマートルには会えなかったけど、ハーマイオニーが見つけてた。
 怪物はバジリスクだ。知ってる? 毒蛇の王だって。ひと睨みで相手を即死させられるらしい。蜘蛛が逃げ出すのはバジリスクが来る前触れだって。雄鶏が時を作る声が弱点らしいけど。雄鶏ってホグワーツにいるのかな。
 みんなが石になったのは、直接目を見てないからだと思う。水たまりとか、鏡とか、ゴースト越しとか、カメラのレンズとか……
 それと、やつは配管を使って移動してるんじゃないかな。ベルには言ってなかったけど、僕、今年はずっと、壁から聞こえる声に悩まされてたんだ。
 すぐ来れる? ジニーが秘密の部屋に連れ去られた。
『彼女の白骨は永遠に秘密の部屋に横たわるであろう』って伝言が残ってた。
 明日、全校生徒が帰宅させられる。
 フレッドとジョージに会ってあげて。

 ハリー」


「───」
 ばさ、とヘドウィグが羽を震わせた。ファングがたたらを踏み、そうっとベルの様子を伺う。

 ぐしゃり。

 羊皮紙の切れ端が、握りつぶされた。




「ハリー

 嘆きのマートルのトイレで待ってる。
 大人達のことは待っていられない。
 私の責任かもしれない。

 ベル」



 ハリーとロンがベルからの手紙をヘドウィグから受け取ったのは、ロックハートから杖を取り上げた後だった。ちょうどいいから、このままロックハートも連れて行こう、と二人は嘆きのマートルのトイレへ向かった。
 ベルはとっくにトイレに着いて、ハリー達を待ち構えていたようだった。動きやすそうな私服で、背にハグリッドの石弓を背負い、矢筒を腰に下げている。ロックハートを見るなり、ベルは訝しげに眉を寄せた。
「なんで連れてきた」
「使えるかなと思って」
……
 ベルは嫌そうな顔をした。
「忘却呪文しか使えないようなやつでも、カナリアくらいはやってもらわなきゃ」
「人の命をなんだと思ってる」
 ロンの言葉を、ベルがピシャリと叩きのめした。ベルの険しい眼光に、ロンは開けていた口を閉じた。
「はぁ……何か勘違いしているようだがな。お前達は連れて行かん。ハリーを呼んだのは、蛇語じゃねえと部屋を開けられねえだろうからだ」
 ハリーとロンはショックを受けた顔をして、対照的にロックハートの表情はパッと明るくなった。
「で、でも、扉はここだけじゃないかも」
「それに、囮くらいなら、僕たちだって───」
「阿呆。そりゃ勇気じゃねえ。無謀だ。履き違えるな」
「───そう言うベルだって、冷静じゃないじゃないか!」
 ハリーががなる。瞬間叩きつけられた殺気に、ハリー達は固まった。さながら、蛇に睨まれた蛙のように。
 ベルは───淋は、今まで見たことがないような顔をしていた。いつもの優しい光はその双眸になく、穏やかな微笑みはどこぞへ消え去って、代わりに怜悧な口元が、静かに引き結ばれている。その眼光は、今にもハリー達を射殺さんばかりだった。
 しかし、ハリーは目を逸さなかった。昏く険しいその瞳の奥に、胸を突くような、深い悲しみが揺蕩っていたのを、ハリーは見逃さなかった。
「手伝わせて、ベル」
 ハリーは、なんとか言葉を絞り出した。
「僕ら、助け合おうって……キングス・クロスで、次は頼れって言ってくれたの、そういうことじゃないの……
 数時間とも取れるほどの、重い沈黙が降りた。やがて、ゆっくりと、ベルが細長く息を吐く。
……分かったよ。確かにお前の言う通りだ。みんなで行こう」
 ロックハートの顔が絶望に染まる。ロンは気合いを入れ、ハリーは顎を引いて笑みを深めた。
 ベルはハリーに場所を譲った。ハリーがベルの指し示した場所にある蛇口と睨めっこをし、「開け」と何度か繰り返す。
「■■」
 やがて、蛇の出すような音をハリーが口にしすると、蛇口が眩い光を放ち、回り始めた。かと思えば、手洗い台が動き出し、沈み始める。やがて大人一人が潜り込めるほどの太さのパイプが剥き出しになった。
「先に降りろ」
 ベルに言われて、ロックハートは息を呑んだ。
「き、きみ、言葉を、」
「降りろ」
 それ以上、ロックハートは二の句を告げなかった。震える足取りで、パイプの中に潜り込み、滑り降りていく。ハリーとロンが後に続いた。
「マートル。二時間経っても誰も戻って来なかったら、学校の先生に連絡しろ。いいな」
 ベルに気押されてマートルがコクコクと必死で頷くのを横目に、ベルもパイプに潜り込んだ。
 急勾配のパイプを全て滑り降りるのにはだいぶ時間がかかった。パイプはどこぞのトンネルに繋がっており、立ち上がるにじゅうぶんな広さをしていた。
「ベル、光はつけない方がいい?」
「そうだな」
「正気か?」
 ロンが信じられないといった風情の声を上げる。
「何も見えないよ」
「そのうち慣れる」
「光があると、向こうから僕らを見つけられるから……
 行こう、とハリーが号令をかけると、湿った床に足音がビシャビシャと大きく響いた。
 しばらく進むと、ベルがふと立ち止まった。
「この辺りにはいねえな。ハリー、光をつけろ」
「うん───ルーモス!」
 ベルも杖に光を灯した。
 途端に辺りが明るくなって、直後、「ひいい!!」ロックハートが情けない悲鳴をあげて腰を抜かした。ハリーとロンも硬直して、動けなくなっている。
「ビビってんなよ。ただの抜け殻だ」
 杖灯りが照らし出したのは、巨大な蛇の抜け殻だった。鮮やかな緑色の皮が、トンネルの床にとぐろを巻いている。
「六メートルくらいあるな」
「なんてこった……
「ベル、本当に近くにいないの?」
「あぁ。たぶん、向こうの方に行き止まりがある。その行き止まりまでの空間で、生きてるのは私たちだけだ。音と気配で分かる」
 すげえ、とロンがぼやく。ベルは脱皮とトンネルの隙間を照らしながら言った。
「あそこを通ろう。どうも死骸だらけだ、骨が足に刺さらんように気をつけろよ」
「ほら、行くぞ。さっさと立て」
 ロンがロックハートに杖を突きつける。ふらふらと立ち上がったロックハートは、直後、───ロンを殴り飛ばし、杖を奪った。
「!?」
 先に進んでいたハリーとベルが音に驚いて振り返る。
 ロックハートはロンの杖を持ち、勝ち誇ったように笑みを浮かべていた。
「お遊びはこれでおしまいだ! 私はこの皮を少しだけ持ち帰り、女の子を救うには遅すぎたと言おう。君たち三人はズタズタになった無惨な死骸を見て哀れにも気が狂ったと言おう!! さあ、記憶に別れを告げるがいい!!」
 ロックハートが、細い枝木でなんとか繋がっているだけの杖を振り上げる。
「オブリビエイト!! 忘れよ!!」
 直後、杖が小型爆弾並に爆発した。ベルは咄嗟にハリーを薙ぎ倒すようにして抱えて飛び、なんとかトンネルの天井からの落盤を避けた。
「っ……!」
「ロン!!」
 静寂が訪れる。岩の塊が硬い壁のように立ち塞がっているのを見てとって、ハリーとベルはサッと血の気が引いた音を聞いた。
「ロン、返事してくれ!!」
「大丈夫だよ!!」
 元気な声がぼんやりと響いてきて、ベルとハリーは揃ってホッと息をついた。
「よかった。怪我はないか」
「ないよ! 大丈夫だよ、ペシャンコになんてなってないから……ロックハートもだけど……杖で吹っ飛ばされちゃったんだ」
「お前、まだあの杖使ってたのか」
 ベルは呆れて口をへの字に曲げた。
「ベル、どうしよう。こっちからは通れるところがなさそうだけど」
「魔法でどうにかできる?」
……いや、やめておこう」
 ベルは天井を見上げながら言った。
「最悪、トンネルが全部壊れるかも。そこで待ってろ」
「分かった。少しでもこの岩石を取り崩してみる」
「一時間やっても私たちが戻らなかったら、先に戻れ。いいな」
 物言いたげな沈黙の後、岩石を取り除く作業を始めたのか、向こうからガラゴロと音が聞こえる。行くぞ、と踵を返したベルの後に続いて、ハリーも意識して深い呼吸を繰り返した。
 トンネルを何度もクネクネと曲がり、二人はやがて壁に行き当たった。二匹の蛇が絡み合った彫刻が施され、蛇の目には大粒のエメラレルドが嵌められていた。
 ハリーが、前に進み出る。少しだけ咳を払って、ハリーは迷わず、はっきりと言った。
「■■」
 絡み合っていた蛇が分かれ、壁が二つに裂ける。やがて壁がするすると見えなくなり、二人はどちらからともなく一歩を進み出した。

 薄明るい部屋は、細長く奥まで続いていた。天井を支えているのは、蛇が絡み合う彫刻が施された柱だった。ベルは歩きながら、細長い布で目元を覆った。
「ベル、それ、大丈夫なの?」
 顰めた声で聞くハリーに、ベルははっきりと答えた。
「見えなくていい。気配で分かる。杖は持っておけ、ちゃんと息をしろ。まだいない」
 彫り物の眼窩が追ってきている気がするのを、できるだけ気にしないようにして、ハリーは言われた通り、意識して深い呼吸を繰り返した。胃がザワザワとして、気を抜けばひっくり返りそうだった。
 最後の一対の柱の奥には、天井に届くほど高く聳える石像が壁を背に立っていた。年老いた猿のような顔に、細長い顎髭が石のローブの裾まで伸びている。その下に、灰色の巨大な足が二本、床を踏み締めていた。その足の間に、燃えるような赤毛の、黒いローブの小さな姿が、うつ伏せになって横たわっている。
「ジニー、」
「ジニー!」
 小声で叫び、ベルとハリーはジニーの側に駆け寄った。まるで見えているかのように、ベルがジニーを抱き起こす。
「ジニー、ジニー……! お願いだ、生きていて……!」
 ベルがそっと首筋に指を当てる。
「脈はある。が……
「その子は目を覚ましはしない」
 ふと、第三者の声が響いた。ハリーがぎくりと音を立てて固まる。声のした方を振り返ると、黒髪の、背の高い青年が、すぐそばの柱にもたれてこちらを見ていた。曇りガラスの向こう側にいるように、姿が微妙にぼやけている。
「トム───トム・リドル?」
 ハリーの紡いだ名を聞いて、ベルは自分の耳を疑った。
「かろうじて、生きてはいるけどね……
 ハリーはベルの方を伺ったが、ベルは口を引き結んだまま、動こうとしない。ハリーはもう一度ベルの方を見やった。
「きみは……ゴーストなの?」
「記憶だよ」
 リドルが静かに答える。
「日記の中に、五十年間残されていた記憶だ」
 リドルの指が、石像の足の、指の間を指し示す。そこにはジニーの持っていた黒い日記が、開かれたままで置いてあった。ハリーは不思議がったようだったが、それよりもジニーを助けなければいけないと、トムに手を貸すよう頼もうとして、
「、……ベル?」
 しかし、ベルがハリーのローブを掴んで引き留めた。
「ジニーが世話になったな」
 初めて、ベルが口を開いた。
 ハリーはベルにローブを引かれるがまま、何歩か後ろに移動した。目隠しをしているにも関わらず、ベルははっきりとトム・リドルを見つめていた。
「大したことじゃないさ……11歳の小娘の他愛ない悩み事を聞いてあげるのは、まったくうんざりだったけどね……
「いつでも代わってやったぜ。早く言ってくれれば良かったのに」
「僕を拾わなかったのは君の方だろう、ベル。ジニーに日記を捨てるように言ったみたいだが、逆効果だったね。おかげさまで、ジニーの魂は予想以上に僕に注ぎ込まれた」
 ベルは努めて呼吸を一定にし続けた。敢えて視界を切り捨てている今、冷静さえ失ってしまえば、次に待つのは死だ。
「どういうこと……?」
「まだ気づかないのかい、ハリー・ポッター」
 リドルの口調は柔らかかった。まるで、出来の悪い生徒を教えてやるように。
「秘密の部屋を開けたのは、ジニー・ウィーズリーだよ。雄鶏を締め殺したのも、脅迫の文字を書き殴ったのも、四人の穢れた血やスクイブの飼い猫にスリザリンの蛇をけしかけたのも、ジニーだ」
「まさか」
「そのまさかだ」
「いいや違う」
 ベルがはっきりと否定する。
「ジニーの体を使って、トム・リドル、てめえがやったんだ」
 トムは答えなかった。ただ静かに微笑んでいる───その双眸に一切の光がないことに、ハリーは背筋がぞくりとした。
「だが、ジニーは日記を捨てたはずだがな。証拠に、年明けから、だいぶお前、大人しかったろう」
「あぁ。でも、そこにいるハリー・ポッターが拾ってくれたからね」
「なに?」
 ハリーは思わず息を詰めた。
「嬉しかったよ。ずっと会いたかったんだ。もっと話したかった。だから僕のことを信用してもらおうと、ウドの大木のハグリッドを捕まえた有名な場面を見せてやった」
「お前がハグリッドを嵌めたのか」
 ベルが唸る。
「じゃ、ハリーが持っていたはずの日記が、なんでまたジニーと転がってる」
「ハリーが日記を持っているのを見つけたジニーがパニックになったんだ。自分の秘密を、僕にバラされてしまうかもしれないからね。寝室に誰もいなくなるのを見計らって、日記を取り戻しに行ったのさ」
 捨てろと言わずに、燃やせと言うべきだった。ベルは歯噛みしたが、今更悔いてもどうしようもないことだった。
「がっかりしたよ。でも、ジニーは君が色々探っていることを教えてくれたからね。必ずここに来てくれるだろうと、ジニーをここに連れて来たんだ。おかげで、ハリー・ポッター、どうしても聞きたかったことを君に聞ける」
……なにを?」
 ハリーが吐き捨てるように言った。
「そうだな」
 トムは、気にするそぶりを見せなかった。
「たとえば、そう。これと言って特別な力を持たない赤ん坊が、不世出の偉大な魔法使いを、どうやって破ったのか、とかね。ヴォルデモート卿の力が打ち砕かれたのに、君の方はたった一つの傷跡で逃れたのは何故だい?」
……どうして君がそんなことを気にするんだ? ヴォルデモートは、君より後に出てきた人だろう」
「ヴォルデモートは」
 リドルは静かに言った。
「僕の過去であり、現在であり、未来なのだ。ハリー・ポッターよ……
 トムの輪郭がぼやけ、宙に文字を書き始める。

 TOM MARVOLO RIDDLE

 リドルが瞬くと、文字がふわりと瞬いて、並び方が変わった。

 I AM LORD VOLDEMORT

「父は、母方の血筋の偉大さを理解していなかった。魔女だというだけで母を捨てた汚らしいマグルの名前など、使いたくもない」
 リドルが吐き捨てる。ハリーは絶句していた。ベルも、言葉を探しあぐねていた。
 ベルは、トムの気持ちが、なんだか少しだけ、分かるような気がしてしまった。自分で自分に名前をつけないと、自分をのことを認められない───絶対的な魂の指針を、無償の愛と共に、授けられていない。
 淋とて、その名はただの記号だ。湖のそばの林の中にある診療所で生まれたから、淋。願いも、想いも、何もない、ただ無いと不便だからつけられた、記号。
 同時に、理解する。トムは、己の野心を、ヴォルデモートと名付けたのだと。きっとその時に、彼は生まれ直したのだ。───で、あるならば。
 容赦はしない。情けもかけない。たった今この時から、ヴォルデモートは純然たる、淋の敵だ。
「大した野心だ。お見それするよ。己でロードを名乗るなど、厚顔無恥も甚だしい。そうそう真似できることじゃない」
 リドルの表情から、感情がストンと抜け落ちた。対するベルは、飄々とリドルをせせら笑っている。
「自分の名前のアナグラムか。確かに歴史に残るだろうな。黒い方の」
「黙れ!!」
 リドルが吼える。ベルは余裕綽々とした態度を崩さなかった。
「実際、その日は来た。僕の名前を、魔法界の全てが口にすることさえ恐れる日が!! 僕が、世界一偉大な魔法使いになった日が!!」
「君は世界一偉大な魔法使いじゃない!!」
 ハリーが切り返す。
「世界一偉大な魔法使いはアルバス・ダンブルドアだ!! 君が強大だった時でさえ、ホグワーツを乗っ取ることはおろか、手出しさえできなかった。君はいまだに、ダンブルドアを恐れている!!」
「ダンブルドアは僕の記憶に過ぎないものによって追放された!!」
 リドルの顔が醜悪に歪む。しかし、ハリーは負けなかった。
「ダンブルドアは、君の思っているほど、遠くに行ってはいないぞ!!」
 言い返そうと、リドルが口を開いたが、しかし何がしかの言葉が紡がれることはなかった。───どこからともなく、音楽が聞こえて来たのだ。
 その旋律は、妖しく、この世のものとは思えないほど、背筋をぞくぞくと震わせるものだった。肌が粟立ち、心臓の鼓動が高まる。やがてすぐ傍から聞こえるほど、骨身がその音圧に震えるほどに旋律が近くなった時、柱の頂上から炎が燃え上がった。
 炎の色をした、大きな鳥が、ドーム型の天井に姿を現した。長い金色の尾羽を輝かせ、まばゆい金色の爪にボロボロの包みを掴んでいる。
 鳥はまっすぐハリーの方へやってきた。運んできたボロボロのものをハリーの足元に落とし、ハリーの肩に止まる。
「不死鳥だな」
 リドルが鳥を睨みつける。
「フォークス?」
 ハリーがそっと呟いた。応えるかのように、金色の爪が、ぎゅっと優しくハリーの肩を掴む。
「鳥は何を落とした」
 ベルの問いに答えたのはリドルだった。
「古い組分け帽子だ」
 く、とリドルが喉を鳴らす。直後、リドルは堪えきれなかったのか、大声で高く笑った。
「ダンブルドアが味方に送ってきたのはそんなものか! 歌い鳥に古い帽子! さぞかし心強いだろうな!!」
 リドルの高笑いが、部屋に反響する。まるで十人のリドルが笑っているようだった。ベルはじっと耳を澄ませ、ハリーは組分け帽子を拾い上げた。
「さて、ハリー、今度こそ聞かせてもらおう。君の過去、僕の未来で、僕は二回も君を殺し損ねた。君はどうやって生き残ったんだ?」
 今度はリドルがせせら笑う番だった。
「長く話せば、それだけ長く生きていられることになる」
 ハリーは思案する素振りを見せたが、やがて、唐突に話し始めた。
「君が僕を襲った時、どうして君が力を失ったのか、誰にもわからない。僕自身も」
 でも、とハリーは力強く言葉を続けた。
「何故僕を殺せなかったかは、分かるよ。母が、僕を庇って死んだから───僕は、本当の君を見たぞ」
 ハリーの声は、怒りを抑えつけるためか、わなわなと震えていた。
「去年のことだ。落ちぶれた残骸だった。かろうじて生きているだけの、君の力の成れの果てだった。君は逃げ隠れしている! 醜くも、汚らわしく!」
 瞬き一つ、リドルの顔が歪む。しかし、彼はすぐに、ゾッとするような笑みを取り繕った。
「なるほど。つまり、君自身に特別な力は何も無いわけだ。母親が子供を救うために命を捧げた、呪いに対する強力な反対呪文に生かされたに過ぎない。なるほど───ただ幸運だった。それだけ分かれば、じゅうぶんだ」
 リドルが歪んだ笑みを深める。
「さて。ハリー、そして、ベル。少し揉んでやろう。サラザール・スリザリンの継承者、ヴォルデモート卿の力と、有名なハリー・ポッター、極東の田舎者、ダンブルドアが下さった精一杯の武器とを、お手合わせ願おうじゃないか」
 リドルが滑るようにしてその場を離れた。毒蛇を呼ぶつもりだろう。
「結局は蛇頼りじゃねえか」
 ベルが呆れたように吐き捨てる。杖を構えようとするハリーから組分け帽子をひったくり、ベルは帽子をハリーに深く被せた。
「被っとけ。無いよりマシだ。とにかく、牙から逃げろ。怪我ならなんとかしてやれるが、バジリスクの毒なんぞ、どうしようもできん」
「分かった」
「■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■■■■。■■■■■■■」
 リドルがシューシューと音を立てる。見上げると、スリザリンの巨大な石の頭が動いていた。口がだんだんと広がっていき、大きな黒い穴になる。何かが、その黒い穴の中で蠢いて、ずるずると這い出そうとしていた。
 ベルが素早く石弓を構え、矢を番える。
「下がれ、ハリー」
 ハリーは壁にぶつかるまで後ずさった。バサリと音を立ててフォークスが飛び立つ。
 ズドン、と音を立てて大蛇が床に落ちてきた。瞬間、ベルの放った矢が、大蛇の片目を潰した。ドス黒い血が音を立てて噴水のように吹き出す。突然の奇襲に、蛇がシャーッと雄叫びをあげてのたうち回った。
「■■■■■■!」
「テメエが来いよ!!」
 矢を番えながら、ベルは走り、軽々と跳躍した。大蛇が鎌首をもたげ、素早くベルを狙うが、ベルがひょいひょいと避けるので、次々と柱に頭突きを繰り返すハメになった。
 流石に大蛇の脳でも何度も叩けば揺れるのか、口をだらりと開けたまま、バジリスクの動きが止まる。その隙を逃さず、フォークスが急降下し、長い嘴を大蛇の眼球に突き刺した。黒い血が勢いよく吹き出し、大蛇が絶叫する。
「ハリー、目を開けろ!! 即死は潰した!!」
 ベルが目元を覆っていた細布を解いてその場に放り捨てた。瞼をしっかり押し上げて、はっきりと像を結んだ世界を見る。ベルの動きに、一層の精細さが増した。
「■■!」リドルが叫ぶ。「■■■■■!」
 鳥に構うなあたりだろうか。ベルはのたうち回る大蛇の体を避けながら、部屋中を走り回った。夥しい血が床に塗れ、ベルが走るたびに飛沫をあげたが、構っている暇はなかった。
 フォークスが蛇の頭上を、輪を描きながら飛び、蛇の鼻面をあちこち突いている。
 大蛇の体がのたうって、何度も床を掃いた。ベルは舌を打った。これでは避ける躱すで精一杯だ。
「ハリー!!」
 ハリーは床に這いつくばっていた。なんとかハリーを拾いに行こうとしても、のたうつ大蛇の体が、先に進むことを許さない。
 だったら、とベルはいっそ距離を取った。目は脳につながっている。脳が潰れれば、たいていの生き物は死ぬ。床、柱、壁、と次々に跳躍し、ベルは再び狙いを定めた。音を立てて放たれた矢は、まっすぐ大蛇の目に吸い込まれ───しかし、眼球の残骸に突き立てられただけだった。
「ちっくしょうめ、」
 石弓を扱うのが久しぶりだからといってこれでは、祖母にバレたら叱られるだけでは済まない。しかし、大蛇はとうとう動きを止めた。息も荒い。ベルはチラリとハリーの様子を確認した。ハリーはしっかと、自分の足で立っている。そして、───その手に、眩く光る、銀の剣を持っていた。
「!?」
 あんなもん、どっから。
 しかし、そんなことを言っている暇はない。
「■■■■■! ■■■!」
 リドルが喚く。バジリスクは胴体を捻りながら柱を叩きつけ、鎌首をもたげた。やみくもに襲うが、ハリーは危うくかわした。壁にぶつかった蛇の鼻っ面を、今度はベルの放った矢が穿つ。
 しかし、大蛇はそれでもハリーを襲ってきた。ハリーが諸手で、剣を高々と掲げる。
「ハリー!!」
 まっすぐ襲ってくるバジリスクに、しかしハリーは一歩も引かなかった。全体重をかけ、剣を支える。銀の剣は口蓋をずぶりと突き抜け、鍔まで届くほど深く、大蛇を刺しつらぬいた。
「ハリー!!」
 溢れる血が、ハリーの両腕を濡らす。ベルが駆け寄ったが、遅かった。長い毒牙が、ハリーの腕に深く突き刺さっている。
「ハリー、ハリー、だめだ、ああそんな……
 毒牙の破片が残ったまま、バジリスクの牙が折れる。ベルが石弓をその場に放ってハリーを支えるのと同時、毒蛇の王はドッと音を立てて横に倒れ、ヒクヒクと痙攣した。
 ベルがハリーを支えながら床に膝をつき、ハリーの腕にある牙の残骸を丁寧に抜き取った。しかし、ハリーは傷口からズキズキと、灼熱の痛みがゆっくり、確実に広がっていることを感じ取っていた。視界が霞んでいる。そこを、真紅の影が横切った。
「フォークス……
 もつれる舌で呟く。
「君は素晴らしかったよ、フォークス……
 不死鳥が、ハリーの傷に、頭をもたせかける。
「ベル……ごめん、ベル……
「謝るな、頼むから……
 ベルは力一杯。ハリーを抱きしめた。徐々に冷えていく体に、少しでも自分の熱を分け与えたかった。
「ハリー・ポッター。君は死んだ」
 足音が響く。リドルだ。
「ダンブルドアの鳥にさえ、それが分かるらしい。泣いているよ」
 ハリーは瞬きした。真珠のような涙が、艶やかな羽毛を伝って、ぽろぽろとハリーの腕の傷に滴り落ちている。
「僕はここで、君の臨終を見物させてもらおう。ゆっくりやってくれ。僕は急がない」
 随分と、体が重かった。まるで眠りに落ちる時のようだった。
「ねむい……
「あぁ、そうだな」
 ぼやいたハリーに、ベルの声が返る。それがほんの少し震えていることに気付いて、ハリーはほんの少し、ベルについてきたことを後悔した。ベルを傷つけたいわけではなかった。一緒に行こうと言ってくれて、本当に嬉しかったのに。
「大丈夫だ、ハリー。大丈夫」
 ベルが抱きしめてくれている。その力強さに、ハリーはゆっくりと全身の緊張がほぐれていくような気がした。
 これが死ぬということなら、悪くないかもしれない。痛みさえ薄らいでくる。ベルが抱きしめてくれているのだってはっきりと分かるから、何も怖くない───痛みが薄らいでいる?
 ハリーは瞬きした。霞んでいた視界が、どうしてかはっきりとしだす。身動ぎして体を起こそうとするハリーにベルは戸惑ったが、しかし遮らなかった。ハリーは自分の腕を見下ろした。フォークスが頭をもたせかけて休んでいる。そして、その傷口の周りが、真珠のような涙で覆われて、───するりと、溶けるようにして、傷口が消えた。
「鳥め、どけ」
 突然、リドルが声を荒げた。
「そいつから離れろ。聞こえないのか。どけ!」
 ハリーを庇うように、ベルが素早く膝を滑らせて前に出る。瞬間、フォークスは再び舞い上がった。
「そうだ、忘れていた。不死鳥の涙には癒しの力がある……
 リドルの輪郭がぼやける。ベルが杖を構えた。
「素手でやる度胸をお持ちとはな。卑怯などと宣うなよ」
「黙れ。お前達の死が、少し先延ばしになっただけだ」
 今にも二人の力が真正面からぶつかり合おうとしたその時、フォークスが激しい羽音と共に頭上に舞い戻った。そして、ハリーの膝に、何かをポトリと落とす。それは、黒い日記帳だった。
 ほんの一瞬、部屋の空気が固まった。
 ハリーは流れるような動きでバジリスクの牙を掴み、躊躇わず、まるで最初からそうするつもりだったかのように、日記の中心に、それをぶすりと突き立てた。

「───■■■■■■■!!!!!!」

 耳をつんざくような絶叫が轟いた。日記帳からは黒いインクが激流のように迸り、ハリーの手の上を流れ、床を浸した。リドルは身を捩り、悶え、悲鳴をあげながらのたうち回り、……やがて消えた。
……
……
 沈黙が、場を支配した。ベルは構えをとき、体の力を抜いて、その場に座り込んだ。べちゃりとインクが沁みたが、気にならないようだった。ハリーもしばらく何も考えられなくて、ぽけらっとしたままだった。
 やがて、ベルが「ジニーだ」弾かれたように立ち上がり、部屋の隅へ駆けて行った。ハリーはそれをしばらく見つめ、少しして、よろよろと立ち上がった。全身に疲労がドッと重くのしかかり、一歩一歩踏み出すのも酷く億劫だった。ハリーはなんとか日記を持ったまま、組分け帽子を拾って、バジリスクの口に刺さった剣を引っこ抜いた。
 ハリーがベルの側に辿り着くと、ジニーはベルに支えられて身を起こし、トロントした目で辺りを見回した。その視線がハリーの持っている日記に辿り着いた途端、ジニーは目を見開いて息を呑み、ぶわりと涙を溢れさせた。
「あ、あた、あたし、あたしがやったの、ハリー、ベル、あたし、ど、どうやって───」
「混乱してるな」
 はは、とベルが気の抜けたように笑う。ハリーも微笑んで、「もう大丈夫だよ」と日記に開けた穴をよく見えるようにした。穴は毒で焼け爛れて、未だじゅうじゅうと言っていた。
「リドルはおしまいだ。それに、バジリスクも。さぁ、ここを出よう」
「あたし、退学になるわ、」
「大丈夫だって」
 言いながら、ベルがジニーを支え、立たせてやる。
「痛いところは? ない? そいつは重畳。私もハリーも、頑張った甲斐があるってもんだ。もちろん、ロンもな」
 ジニーはポカンとしていた。三人はバジリスクの死体を乗り越え、石弓を拾い、行きよりも気楽に、しかし疲労に負けそうになりながら、トンネルに戻ってきた。
 トンネルを数分歩くと、遠くの方から、ゆっくりと岩がズレ動く音が聞こえてきた。
「ロン! ジニーは無事だよ!」
 ハリーが駆け寄る。直後、ロンの胸の詰まったような感性が聞こえた。ロンが作った岩の間の隙間は、かなり大きくなっていた。待ちきれない風情のロンが顔を覗かせている。ジニーが歩いている姿を見た途端、ロンの顔がぱっと明るくなった。
「ジニー!!」
 ロンが腕を突き出して、最初にジニーを引っ張る。
「生きてた!! 夢じゃないよな!?」
 ロンがジニーを抱きしめる。しゃくりあげたままのジニーに、ロンはにっこり笑った。
「もう大丈夫だ。もう終わったんだ」
 ハリーに続いて、ベルも隙間を通った。その後から、フォークスがすい、と空を滑る。
「やあ助かった。最後にこれを動かすのはちょいとしんどい」
「よかった、ベルも元通りだ」
「うん?」
 小首を傾げるベル。うんうんとハリーも頷いた。戦いに行く前のベルは、いつもと違ってちょっとどころではなく怖かったのだ。
「で、この鳥はどこから来たんだい?」
「ダンブルドアの鳥だよ」
……君、そんな剣、持ってたっけ」
「ここを出てから説明するよ……
「ロックハートはどこだ?」
「あぁ、それならあっち」
 ロンに先導され、三人はパイプの出口まで引き返した。ロックハートは、ちょこんと座って、一人で大人しく鼻歌を歌っていた。
「記憶をなくしてるんだ。忘却術が逆噴射しちゃってね。自分が誰なのか、ここがどこなのかもちんぷんかんぷん。だからここで待ってるように言ったんだよ。怪我したりすると危ないし」
 ロックハートは人の好さそうな顔で笑って、「やあ」と生徒達に挨拶した。
 ベルはやれやれと肩を落とした。毒気が抜かれた心地である。
「さて、どうやって上に戻るかな」
 ベルが思案している目の前を、フォークスがすい、と横切り、ハリーの前で羽をパタパタさせた。長い金色の尾羽が揺れている。
「掴まれって言ってるように見えるけど……
 ロンが当惑した声で言う。ハリーはハッと息を呑んだ。
「大丈夫、フォークスは普通の鳥じゃない。みんな手を繋いで。ベル、これ、どうやったら危なくないかな」
「あー、ベルトに挟むか?」
 ハリーは組分け帽子と一緒に剣をベルトに挟んだ。ロンはハリーのローブを掴み、ジニーと手を繋いだ。ベルもジニーと手を繋ぎ、仕方がないのでロックハートの腕を持ってやった。
 ハリーが手を伸ばして、フォークスの尾羽をしっかりと掴む。瞬間、ヒューッと風を切って、五人はパイプの中を上に向かって飛んでいた。
「すごい! すごい! まるで魔法のようだ!」
「暴れるな!」
 はしゃぐロックハートを、ベルが一喝する。そうこうしているうちに、ひんやりした空気が髪を打ち、五人は「嘆きのマートル」のトイレの湿った床に着地した。パイプを覆い隠していた手洗い場が、スルスルと元の位置に戻っていく。
「生きてるの」
 マートルが五人をジロジロ見ながら言った。
「さーて、まずは身綺麗にしてえところだが。あー、温泉入りてえなあ」
 ベルに背を押され、一同はトイレの外に出た。フォークスが先導するようにくるりと旋回し、すい、と先をゆく。五人はそれぞれが目配せし合うと、フォークスの後を追って歩き出した。


 フォークスについて行った先にあったのは、校長室だった。五人がドロドロのネトネト、中でもハリーとベルは血まみれで戸口に立つと、一瞬の沈黙が走った。
「ジニー!!」
 叫び声を上げて、モリーが駆け寄った。アーサーも後に続き、二人は娘に飛びついて抱きしめた。
「あぁ、あぁ、ジニー、ジニー、」
 言いながら、モリーはすぐ側に立っていたベルのことも抱きしめ、ハリーとロンのことも抱きしめた。
「あなた達が助けてくれたの。ジニーを……ジニーの命を……でもどうやって……
 ハリー、ロン、ベルは顔を見合わせた。誰が喋るのかと言った沈黙は、ハリーがデスクまで行って、組分け帽子とルビーの散りばめられた剣、そしてリドルの日記の残骸を置いたことによって破られた。
 ハリーは一部始終を話し始めた。姿なき声を聞いたこと、それが水道管を通るバジリスクだとハーマイオニーが気づいたこと、ベルが蜘蛛を追って森に入ったこと。アラゴグがバジリスクの最初の犠牲者について話してくれたことは、ベルが補った。そして、トイレのどこかに、秘密の部屋の入り口があるのではないかと考えたこと。
 散々話して声が掠れてきたが、ハリーは言葉を続けた。四人でパイプを降りたこと、途中、事故があってハリーとベルだけが先に進み、バジリスクと遭遇したこと。そこへフォークスが組分け帽子を持って現れ、みんなでバジリスクを倒したこと───その後、フォークスにここまで連れてきてもらったこと。
 一つ息を吐き、ハリーはベルを見やった。ジニーのことをどう説明したものか、分からなかったからだ。ベルは一つ瞬き、ダンブルドアの方を見やった。ダンブルドアは微かに微笑むと、「わしが一番興味があるのが」優しく言った。
「ヴォルデモート卿が、どうやってジニーに魔法をかけたかということじゃな。わしの個人的情報によれば、ヴォルデモートは現在、アルバニアの森に隠れているらしいが」

 ───やっぱり知ってたんかい。

 ベルは半眼になって遠くを見はるかし、ハリーはホッと安堵した風情で肩の力を抜いた。
「な、なんですって?」
「『例のあの人』が? ジニーに? どう、いや、でも……ジニーはそんな……
「この日記です!」
 ハリーが慌てて日記をダンブルドアに見せる。
「リドルが16歳の時に作ったものです」
 ダンブルドアは日記を受け取って、焼け焦げ、ブヨブヨになったページを熱心に眺め回した。
「見事じゃ」
 静かに言って、ダンブルドアはウィーズリー一家に向き直った。
「ヴォルデモート卿が、かつてトム・リドルと呼ばれていたことを知る者は、ほとんどいない。わし自身、五十年前、ホグワーツでトムを教えた……
「でも、ジニーが、うちのジニーが、その人となんの関係が?」
 モリーに答えたのは、ついに堪えきれなくなったジニーだった。
「日記なの!」
 わっ、とジニーがしゃくりあげる。
「あたし、いつもその日記に書いてたの、ベルが、ベルが捨てろって言ってくれたのに、ずっと、その人が返事をくれて、だから───」
「ジニー、どうしてそんな……どうして日記をすぐにパパかママに見せなかったの?」
「あ、あたし、知らなかった、ママが準備してくれた本の中にこれがあったから、誰か忘れていったんだと思って───」
「ミス・ウィーズリーはすぐに医務室に行きなさい」
 ダンブルドアがきっぱりと言い切った。
「過酷な試練じゃったろう。処罰はなし。もっと優秀な魔法使いでさえ、ヴォルデモート卿に誑かされてきたのじゃ」
 戸口まで移動したダンブルドアが、手ずからドアを開けた。
「安静にして、熱い湯気の出るようなココアをマグカップ一杯飲むがよい。マダム・ポンフリーはまだ起きておられる。マンドレイクのジュースを、みんなに飲ませたところでな。きっと、バジリスクの犠牲者たちが、いまにも目を覚ますじゃろう」
 ハリーとロンがぱっと表情を明るく輝かせ、顔を見合せた。ベルもようやく、胸のつかえが取れた気がした。
「ベル。ジニーについていてあげなさい」
「はいよ、承知しました。ハリー、ロン、後でな」
 ジニーをしっかり抱えるモリーママの後をアーサーパパに行かせ、ベルは校長室を後にした。
「医務室はこっち……って、覚えてるか」
「ええ、ええ、まさか久し振りにここに来ることになるなんて、思ってもみなかったけど……
「そりゃそうだろうな。ジニー、フレッドとジョージからトイレの便座が見舞い品として届くかもしれんぞ」
「やめてよ、ベル!」
「はは、それだけ大声出せるなら大丈夫だな。流石はウィーズリー、グリフィンドールだ」
 朗らかに笑うベルに、ウィーズリー一家は揃って気の抜けたようにして、肩から力を抜いた。


 ジニーはベルと一緒に医務室でゆっくり休んだ後、少しだけ眠って、事件が解決したお祝いの宴会に参加することにした。ベルは珍しく喧喧囂囂とワガママを言って、監督生用の広い風呂場を堪能した後、寮に戻って寝ようとしたが、フレッドとジョージが、ハグリッドが戻ってきたと伝えに来てくれたので、飛び上がって大広間に急行した。
「ハグリッド!!」
「おお、ベル!!」
 ベルは思いっきりハグリッドに飛びついたが、ハグリッドはしっかりとベルを受け止めた。
「世話かけた。すまんな」
「たった二、三日の話じゃないの。小屋、綺麗にしといたからびっくりするかも。あとは、矢をちょっと失敬しちゃって……バジリスクの骨にぶっ刺さったままでね」
「そんなこたぁ構わねえよ」
 ハグリッドが笑い飛ばす。ベルはもう一度、ハグリッドにハグをした。どうしたって、ベルがハグリッドにぶら下がっているようにしか見えなかったが。
 宴は明け方まで続いた。ベルはそこで、自分が寮点を二百点稼いだことを初めて知った。正直、ベルは自分が二百点稼いだことより、学校からのお祝いとして、学年末試験がキャンセルになったことの方が嬉しかった。


 ホグワーツから危機が去ってからの日々はあっという間だった。闇の魔術の防衛術の授業はキャンセルされ、ドラコは自分の父が理事長を辞めさせられたので、どこか拗ねて不貞腐れ、大きい顔をしなくなっていた。気付けばベルはホグワーツ特急に乗っていたし、ハリー達と騒いでいるうちにキングス・クロスに辿り着いていた。

「ベル!」
 魔法のかかった柵までの順番待ちをしている間、ベルはセドリックに声をかけられた。
「セドリック。どしたの?」
「聞こうと思って忘れてたことがあって。夏休みの間、手紙を出していい?」
「もちろん。でも、八月は日本にいるから、手紙は出さないでね」
「分かった」
 ベル、と双子に呼ばれて、ベルは踵を返した。
「じゃ、いい夏休みを」
「ベルもね」
「ありがと!」
 カートを押して、ベルは双子に合流すると、そのまま一緒に魔法の柵を通り抜けた。途端にざわりと人の気配が押し寄せて、ああ帰ってきたと実感する。
「ハッフルパフの王子様と一体何を話してたんだ?」
「なーんにも」
「なんだよ」
「なあ、今年もうちに来るだろ?」
「たぶんね」
「ベル! うちには来てくれる!?」
 必死の形相のハリー。ベルは嘆息しながら言った。
「お前のところには行くよ、心配だから」
「任せろ、いつでも車の準備はしておいてやる」
「助かるよ……僕が死に損なったって知ったら、連中はカンカンだ……
「今年の夏も荒れそうだな」
 ベルが再び嘆息する。
「そうこなくっちゃ」
 フレッドとジョージがニヤリと笑う。ベルは三度、嘆息した。