つまるところ血鬼術とは(6)

ちょうど呪術廻戦0が公開されるのが決まった頃でしたね~



 悪因悪果、善因善果。因果応報は世の倣い。───とは言うけれど。
 悪事を働いた者に罪を背負わせ、罰を与える社会の仕組みは、必ずしも全能とは言えず、完璧には程遠い。でなければ冤罪という言葉も、その概念ですら生まれていないだろう。
 憎まれっ子はいつだって世に憚るし、情けは人の為ならずと善行を積んだ方が傷つくことだってある。とは言え、物事は多面的で、価値観は人それぞれで、何を哀れみ、何を尊ぶのか、それは個人の裁量故に、幸せのカタチがどうこうとは決して言えないけれど。
 それなら、後は、各個人の信念や信条で殴り合うしかないのではないかと、男は思っていた。
 男の信念は、全ての悪人に須らく罰を与えることだ。だから司法に関する職業についた。時折窘められることもあったが、男の情熱は上司からの叱責や同僚からの異物を見るような視線などでは冷ますことはできなかった。
 男は弁護士が嫌いだった。理由はどうあれ、罪は罪、罰は罰だ。情状酌量の余地など、認めなければならない理由が分からないし、執行猶予は全廃すべきだと信じて疑っていない。
 それでも、社会は悪人に情けをかける。そんなものは仏だけで充分だというのに、神気取りで反省を促し、更生に導く。男は唾を吐くほどそれらを嫌悪していたが、この国、いや世界では、数こそが何者にも勝る唯一絶対の正義だ。男は孤独だった。
「うんうん、それは悲しいねえ、辛いねえ。よく俺に話を聞かせてくれたね、えらい、えらい」
 頭から血を被ったようななりをした青年は、悼ましい表情の中に柔らかで穏やかな声を潜ませた。ふんわりとしたそれが、孤独にささくれていた男の心を癒す。
「悪人はね、確かに、罰されるべきだと思うよ。でも君はそれができないから苦しんでるんだね」
 それなら、と優しい声音が続く。
「俺が代わりに、やってあげようか? 人間にとって、死は罰になることもあるんでしょ?」
 無邪気なこどものような言葉だった。まるで、社会の常識からかけ離れた場所に存在しているかの如く浮世離れしていた。それにも関わらず、青年は男自身ですら分かっていなかった心の隙間や欲しかった言葉などを次々と埋めて寄り添い、言い当てて、男の思う悪人を、青年に会わせることを約束していた。


 男が連れてくるのはいわゆる社会的弱者とされる者たちであることが多かった。悪事は万引きなどの小さなものから横領といった大きなものまでより取り見取りだ。よくもまあこれだけ枚挙に暇なく人間を連れて来られるものだと、童磨は珍しく感心した。
 万世極楽教の教主として存在している童磨は、宗教団体に対する世間の警戒度が跳ね上がった昨今、善行を積むことが難しくなっていた。生活に苦しむひとは行政を頼り、病気はその大概が治療できる時代になってしまった。宗教に救いを求める人は、せいぜい近所の寺か神社に行くだけだ。下手に勧誘めいたことを続けすぎれば様々な機関から警戒されることは目に見えていたし、何より「あのお方」はそういう面倒事をいっとう嫌っていた。
 男の主義主張は、童磨の行動と相反する部分が大きい。しかし童磨は敢えてそれを男に伝えずにいた。
 童磨は苦しんでいる人間たちを救ってやりたいと考えていた。悪人だろうが善人だろうが、なにがしかに苦しんでいるなら、そういうものから解放してやりたかった。ほんの少し前の時代ならそういうひとは溢れていたから、童磨も仕事のやりがいがあったのだが、先述の通り社会的セーフティネットが発達した近年、童磨の仕事は少ない。
 童磨の前に連れて来られる悪人たちは、大概なにかしらを抱えていた。彼らはほとんど童磨にとっての可哀想なひとだった。好んで悪事に手を染めるような輩は、そもそも男の言葉に従って童磨の前には姿を見せない。
 男は悪人に罰を与えることができる。童磨は可哀想な人々を救うことができる。暗黙の了解というすれ違いが発生している故に成立している損の無い取引だった。

 ある日、男と会う予定だった童磨は、男の弟だと名乗る人物と対面することになった。
「騙すような真似をして申し訳ありません」弟は律儀に頭を下げた。「それでも、兄のことで、あなたにお会いしたかったんです」
 童磨は「もちろん、構わないとも」にっこり、ぺかりと笑って言った。何かに困っているから、こうした手段を取ったのだろうという事は童磨にも察せられる。
 弟は、ぴしりと着込んだ黒のスーツに弁護士バッチをつけていた。ネオンの光が眼下に明るいバーで、開口一番に弟の口が紡いだのは「兄を救ってやってほしいんです」という言葉だった。
「へえ。お兄さんを」
「はい」
「そりゃまた、どうして。彼がなにか、可哀想なことになったのかな? 最近、すごく活き活きしてるけど」
「確かに。肉体的にも精神的にも健康でしょうね。ただ、兄は可哀想なことになっていると、私は思います」
 まったくそんなふうには思っていない口ぶりだった。可哀想という言葉にはなにも含まれておらず、いっそ空虚だった。
「この世にひとりでしょう、あんなひとは。少なくとも、彼が形成している世界の中でということですが」
「確かに、海を越えた向こうの大陸には彼と似たようなひとがいるかもしれないね」
「あなたは可哀想な人を救ってくださるとお聞きしましたが」
「そうだよ」
「では、兄を救ってやってくださいませんか。このままでは、……
 弟は、初めて口を噤み、眉間にしわを寄せ、少しだけ瞳を揺らした。何かを堪える様子だった。握りしめた拳には青筋が浮かんでいる。
……このままだと、どうなるのかな」
 童磨は柔らかく促した。それに引きずられるようにして、弟はぽつりとその言葉を落とした。
「兄は、……憎む弟に、殺されてしまうでしょう」
……
 童磨は笑みを深めた。そうかそうかと、幼子をあやすようにして頷く。
「確かに、それは可哀想だね。分かった、それじゃあ、お兄さんを救ってあげよう」
……
 お願いしますと、やはり律儀に、弟は頭を下げた。
 別れ際、少しその辺を一緒に歩かないかと誘った童磨に、弟はこれから火葬なのだとバッチを外した。つい先日、妻が失踪し、遺体の一部と見られる左手だけが見つかったらしい。結婚指輪を嵌めていたので、身元確認ができたのだ。
 きっと綺麗なひとだったんだろうねと眉を下げる童磨に、弟は初めて表情を柔らかくさせて、写真を見せてくれた。
「もしかしたら、こどもが居たかもしれないんです。病院に検査に行ってくると、それきり」
……そう。残念だったね」
「過ぎたことです」
 柔らかな黒髪を緩く巻いている儚げな女性は、しっかりとした光をその瞳に宿していた。

 ───あぁ、綺麗なひとだった。

 お悔やみを申し上げて、童磨は弟と別れた。

 ───でもやっぱり、最近の技術ってすごいなあ。実際に会った時と謙遜ない美しさだった。

 ───それにしても。あの弟。

 童磨が救いと称してやっていることに気が付いているだろうに、己の兄が妻を殺したことを微塵も疑っていなかった。童磨は弟の瞳の奥底にあった復讐の炎の片鱗を見逃してはいなかった。
 ひとの復讐心とは恐ろしい。燃え尽きるまで止まれない。きっと、もう何が何でも、どうでもいいに違いない。ただ、妻との幸せだった日々だけが本来の彼の拠り所らしかった。
 それもそれで可哀想だと、童磨はしばらく弟の方も気にかけてやることにした。


 その日の内に呼びつけられた男は、はて教主が俺に一体なんの用だろうと、首を傾げていた。
 男と童磨が会うことはほとんどない。悪人を連れて童磨の屋敷を訪れることもあるが、大抵玄関前で挨拶を交わしてすぐに別れるし、そもそもこの屋敷まで悪人を送還することさえ稀だった。
 万事任せてくれと童磨が言ったので、男はうっすらとした予感や推測と共にそれを許容していた。最後に悪人を紹介してから数日は経っているので、何か不手際があったとは考えにくい。
「やぁよく来てくれたね!」
 夜はこれからという時間帯にも関わらず、童磨は笑顔で男を出迎えた。座って座って、と庭に面した廊下に置かれている古めかしい椅子に押し込まれる。
「今日きみを呼んだのは他でもない。俺ときみの間にある取引について話そうと思って」
 唐突な話題に、男は驚いて目を見開き、硬直した。
 にこにこと微笑んでいるこの青年が一体何を言い出すのか、男には皆目見当がつかなかった。
「実は、きみの弟にね。可哀想な君を救ってやってくれと頼まれたのさ。俺は是と応えた。でもそれじゃあ困るだろう?」
 しょんぼり、童磨の眉が下がり、哀れっぽい声が静かな縁側に響く。
 風の気配や、葉擦れの音さえ聞こえなかった。
 己の心臓の音でさえ、どこか、遠い。
 彼が救うと言った。誰を。自分を。

 それは、つまり。

「可哀想な人たちは、君を介してでしか見つけられなかった。君がいなくなると、俺も困る。どうしようかなと思ったんだけどね、同業が手を貸してくれるって言ったんだ」

 逃げろと、か細い声が脳裏で木霊した。けれども手足はすっかり冷え切って、血の巡りが止まったかのようだった。あらゆる場所に力を入れることをすっかり忘れてしまったようで、身動ぎさえとることができない。

 にこにこ、にこにこと、虹色の瞳が細められる。

「でもね、そのためには、俺がきみを救うことを諦めなくちゃいけない。きみには感謝してるから、できれば俺が救ってあげたいんだけど……
「いいっ、いい、いらない、大丈夫だ」
 みっともない声だった。喉が引き連れて、上手く呼吸ができない。気道が痛かった。一刻も早くここから解放されたかった。屋敷から全速力で遠ざかりたい。
 本能が逃げろと警告している。それでも、今この瞬間に逃げを打って走り出したら死ぬと、己ですら知らないところで直感している。
 童磨は少しだけ残念そうに「そうかい?」と眉を寄せたが、「まあ、きみの希望を優先しよう!」と一転、朗らかに言った。
 ほっと、我知らず、息を吐く。ようやく強張っていた指先が動くようになって、男は意識して深く呼吸した。ぶわりと汗が噴き出して、体温が上下する。ぶるりと背筋が震えた。
「夏油殿、聞いたかい? どうやら彼は、きみの方がいいみたいだ」
 げとう。誰だ。知らぬ名だ。会ったこともない。
 男が再び身構えられるようになるより先に、ぎしりと廊が軋む。「光栄だね」静かだがどこか甘い声が、少し離れた場所から響いた。
「ッ……!」
 ぬるりと、暗闇から浮き出るように現れたのは、袈裟に身を包んだ男だった。整った顔立ちの額に十字の縫い目が視線を引く。体格が良いのが、傍目にも分かった。
 夏油と呼ばれた男は、ひとのいい笑みを口の端に乗せたまま、男の前まで来て立ち止まった。
「童磨は少し言葉が足りなかったからね。補足させてもらおう。もっとも、君が知ったところで意味はないけど」
「は、」
 なに、どういう意味だと男が口走るより先に、夏油が鋭く言葉を並べた。
「君が彼に供給していた餌についてだが、これからは私が用意することになった。利害の一致でね、私はこれ以上私の抱える団体から死人を出したくないんだが、どうしても要りようなんだ。君みたいな人が」
 男は盛んに目を瞬かせた。あまりにも急な展開で、夏油の言葉が右から左へと流れていく。
 餌とはなんだ。供給とは。確かに童磨は己が用意した悪人に対して死に繋がる行為を施していたのだろうが、どうして夏油がそういう言葉を使うのか、男には咄嗟に理解できなかった。
 童磨に視線を走らせるも、「最近の警察って面倒だよねえ」とまるで世間話でもしているかのように寛いでいる。一体どういうことなのか、皆目見当もつかない。
「ちょうど、探していたのさ。周囲に死を切望されるような、親類縁者からも疎まれている、孤立した人間をね」
 直後、男はびしりと体を硬直させた。肩を何かに押さえつけられて、反射的に暴れて立ち上がろうとしても、腰を浮かすことすらできない。ばたばたと暴れる足は空を掻き、何もないのに何かに触れられている感触だけが確かなことに、心臓が蹴り上げられた。
 が、と首ごと顎を掴まれる。男は咄嗟に振り払おうと自由になった腕を前に振り回したが、無様なだけだった。
「った、たひゅ、たひゅへ、」
 不可視の物体に、無理やり開かされた口さえ塞がれる。かと思いきやそれがぬるりと口の中に入り込んできて、男は絶叫した。総身が嫌悪に慄いて吐き出させようと内臓を震わせるが、どうにもならない。酸素不足で脳みそが朦朧とし、意識に霞がかかり始める。
「あーあ、可哀想に、泣いちゃって。だから俺、きみを救ってあげたかったのになあ」
 己に伸ばされた手を、童磨は心底悔しそうな表情で見詰めた。夏油は涼しい表情で、それを見下ろしている。
「でも、俺を選ばなかったのは君だしね。馬鹿だなあ。なんて可哀想なんだろう」
 口の奥に押し込まれた物体が、喉をずるりと隆起させる。男の体はすぐにぼこぼこと変形を始め、やがて、血涙を流す顔の下に大きな開けっ放しの口を持つ異形が生まれ落ちた。
「へーっ。これが呪霊の受肉かあ」
 物珍しそうな童磨は、この異形───血塗の受肉体となった男のことなど、もう忘れている風情だった。それよりも生まれて初めて見る呪霊という存在に興味津々で、「他のもこんな姿をしているのかい」と虹色の瞳をきらきらさせている。夏油は微笑んで「まさか。いろいろだよ」と答えた。
「それにしても、助かったよ。困ってたのは本当だからね。約束通り、会の人間を定期的にこちらに回す。今度、繋ぎの人間を寄こすけど、そいつは喰べないでくれよ」
「分かってるさ! こちらこそ助かる、困ったときはお互いさまだね! これからも仲良くしよう!」
 ぺかりと宣う童磨を、夏油は「それじゃ、今日はこの辺で」あっさり袖にした。





 ◆





 五条がよく「トぶ」と表現する瞬間移動も、二度目ともなれば慣れるなあ、と虎杖はぽけらっと猫のように首根っこを掴まれて体をぶらぶら揺らしていた。


 それは、移動時間のせいで早朝までかかってしまった任務から帰り、流石に仮眠を取らせてもらって、昼からの授業に参加しようと校庭に顔を出した直後だった。
「おっ、起きたか、悠仁」
「はよーっす」
「ツナマヨ」
 先に始めていたらしいパンダと棘が声をかけてくれる。向こうの方では真希と伏黒が軽く打ち合いを行っていた。
「アレ、野薔薇は?」
「もうすぐ来るだろ。まだ時間には早いしな」
 片手で数え足りるほどの学生数、しかも時折任務のためにそもそも一日授業なしになる日があっても、学校は学校。一応、昼休みやら授業時間やらは割り振られていた。
「せんぱぁーい、次おれー」
「だめでーす!!」
「うわっ!!」
 唐突に横殴りのダメ出しを繰り出したのは誰あろう、五条悟だった。急に間近で登場された悠仁はリアクション良く飛び跳ねて驚いたが、パンダと棘は「またか」といっそ呆れた風情を醸し出していた。
「も~、なんだよ先生、びっくりさせんなって」
「悠仁と野薔薇は、この後出かけるよ。伊地知が先に行ってるから、詳しいことは現地で聞いてね」
「え、また任務?」
「ううん、ちがーう。悪いけど、制服に着替えておいで。野薔薇もー! 制服ー!」
 ようやく姿を見せた野薔薇は、遠目にも分かるほど「はぁ?」と顔を歪めて、ったくしょうがないわね、とすぐに踵を返して行った。ほら早く、と急かされるがまま、悠仁も寮に戻される。
 パンダと棘はのんびり「気を付けろよー」「しゃけー」二人を見送った。伏黒は遠くで少しだけ不思議そうな顔をしていたが、すぐに真希との模擬試合に集中し直した。


 そして、校舎前に集合した途端、ひょいっと抱え上げられて、気が付いたら、ばしゅ、という音と共にトんでいた。
 これを初めて経験する野薔薇も「えっなに?」ポカンとしている。なかなかに珍しい、と悠仁は思ったが、同じようにポカンとしているふりをすることにした。お前だけ余裕なのなんか腹立つ、とみぞおちに一発喰らうかもしれない未来を回避するためだ。
 悠仁と野薔薇が初めて訪れるそこは、藤の花の香りに包まれていた。清涼な空気が満ちて、吹く風は爽やかだ。木擦れの音も、どこか優しい。
 いわゆる京町屋における通り庭のような狭さの場所だった。少し離れたところに屋敷の廊下や棟が見える。
……清らかなところね……
「かもね」
 喉の奥でくつりと笑った五条が、覆いに隠された視線を動かす。その気配につられて、悠仁と野薔薇も顔を動かした。
 広大な武家屋敷に見える建物の、外側に張り出された廊下に、大柄な男が立っていた。一同を視界に入れた男が、ぱっと表情を明るくさせる。
「おー、来たな! こっちだ」
「あー! 宇髄の兄ちゃん!」
 相変わらず気配も足音も無い人だな、と悠仁は迷わず宇髄の方へ駆け寄った。宝石の原石らしきものがそのままついている派手な額宛も、目の周りの派手なメイクも変わらない。
「鬼殺の案件? この間の話し合いで決着はついたんじゃないの?」
「あー、あれね」
 野薔薇の疑問に、お寺でやったやつね、と五条はそう言えばそんな話し合いもしたなという風情で言葉を続けた。
「あれは対症療法みたいなもん。あっちもこっちも忙しいけど人の命には代えられないからとりあえず情報共有して対策を決めただけ」
 堰き止められていた情報は、悠仁によって拡散された。本来は野薔薇たちが知る由もない会合の事実だが、五条は気にも留めなかった。何せ呪術師として一番鬼殺隊と濃密に関わっているのは、なんだかんだ呪術高専の生徒たちであったので。
「宇髄の兄ちゃん、俺らここで何すればいいの? つーかここどこ?」
「あ? お前ら地味に何も聞いてねえのか?」
「悪いね! あとはよろしく!」
 朗らかに片手を挙げて、五条は再びばしゅりと消えた。瞬き一つで描き消えた長身に、「相変わらず派手な野郎だな」と宇髄が笑う。懐でっけー、と悠仁は感心した。
「で? なんで私らが呼ばれたわけ? つまんない用だったらぶっ飛ばすわよ」
「釘崎はなんでそんなに強気なの? ここ人んちよ?」
「ひとまず、お前ら上がってけ。伊地知とかいう地味な奴が先に来てるから、話はそいつから聞けよ。この廊下まっすぐな」
「ういーす」
「俺はお館様を呼んでくる。部屋で地味に待ってろ」
 宇髄がひらりと身を翻す。二人は靴を手に持ち、廊下を進むことにした。
「音も気配も静かすぎるのが不気味ね、あの筋肉達磨」
「釘崎もそう思う? あのひとめっちゃ跳ぶぜ」
「ふーん。真希さんと比べたらどう?」
「ど……どう……!?」
 びし、と肩を強張らせる虎杖を、野薔薇は「そこは真希さんって即答しろよ」と肘でどついた。
 不意に、延々と続く部屋の内の一つだった障子が横に滑る。ひょこりと顔を出したのは、蝶の髪飾りが可愛らしいたおやかな女性だった。
「うおっ、」
「あら!」
 驚いた虎杖がたたらを踏む。部屋から一歩踏み出して「お久しぶりね~」とにこやかに挨拶してくれたのは、以前虎杖の怪我を診てくれた胡蝶カナエだった。
「伊地知さん、いらっしゃってるわよ。どうぞ~。お靴は預かっておくわね」
「あ、ども」
 ぺこりと会釈して、部屋に移動する。カナエはごゆっくり、とすぐに部屋から離れていった。
 二人と顔を合わせた伊地知は、どこか少しだけホッとした様子を見せた。
「お二人とも、来て頂いてありがとうございます。五条さんからは……
「なんにも聞いてないわ。相変わらず丸投げよ」
 丁寧に磨かれたローテーブルを挟んで向かい側に座る。野薔薇の言葉に、伊地知は「そうでしたか」とどこか遠い目になった。
「ええと、情報伝達が遅れて申し訳ないのですが」
「鬼の等級とか日輪刀の帯刀のことならもう聞いてるぜ」
「えっ!? あ、そうでしたか」
 ずれた眼鏡の位置を直し、「では念の為、簡単に確認を」と伊地知は資料を取り出した。
「先日、虎杖くんと真希さんが宇髄さん、我妻くんと共に向かった任務で鬼化した呪詛師と遭遇した件で、それまで懸念されていた呪術師の鬼殺案件とのバッティング、鬼殺隊士の呪霊案件へのバッティングが明確な課題として顕在化しました。つまりは、どうやって事前に呪霊案件か、鬼殺案件かを見分けるかが問題になったわけです」
「それで、どっちがどっちに当たってもいいように、日輪刀とか、呪具とかを持つことになったんだよな」
 善逸から聞いた話を思い出しながら言った虎杖に、その通りですと伊地知は頷いた。
「加えて、こちらは鬼殺案件の可能性がある場合、任務の等級を引き上げる処置を行うことにしました。実力があれば撤退は可能ですので」
 逆に実力のない術師がうっかり鬼殺案件に遭遇してしまった場合、退避することすら難しいかもしれない。喰われるだけならまだいいが、呪術師は死後、呪いに転ずる場合がある。等級の低い術師たちを守るための措置でもあった。
「で? それで終わりにならなかった理由はなんなの?」
「鬼舞辻無惨の存在です。鬼になるには、鬼舞辻無惨が自身の血を対象者に含ませなければいけません。必然的に、死亡した呪詛師は鬼舞辻無惨と何かしらの接触を持ったということになります」
「鬼ってヒトを食べるんでしょ? たまたま目を付けたのが呪詛師だったんじゃないの」
「その可能性は低い!!」
 どっかん、と明朗快活な声が爆発した。さしもの野薔薇も、目を剥いて声のした方を顧みる。部屋の障子が、いつの間にか開け放たれていた。
 そしてそこには、刀を履いた煉獄杏寿郎が、腕を組んだ仁王立ちで、堂々と立ち塞がっていた。傍に控えている炭治郎は、あわあわとして視線を行ったり来たりさせている。
「鬼がひとを食うとき! 大抵、遺体は残らない! 残ったとして、いわゆる欠損状態になる! その先に待ち受けるのは死だ! 鬼化ではない!」
「ちょっと、なによこいつ。どこ見てんのよ、キモいんだけど」
「鬼舞辻無惨が鬼を増やすとき、奴は傷を負わせ、己の血を浴びせる!」煉獄はずいっと野薔薇に詰め寄った。
「ほとんどの場合、血に含まれる毒素で死ぬが、稀に鬼となるものがいる!! 故に、鬼舞辻無惨はなんらかの意思を持って故人に接触した可能性が高い!!」
「うるさっ!! 耳元で大声出さないでくれる!? 聞こえてるわよ!!」
「詳しい話はこちらでしよう! お館様がお待ちだ!!」
「ひとの話を聞かねえなこいつ!!」
 あっさり身を翻してあっという間に部屋を出た煉獄に、いきり立った野薔薇は金槌を構える勢いだった。まあまあと伊地知と悠仁が宥め、すみませんすみませんと炭治郎が頭を下げる。
「あの方は鬼殺隊炎柱の煉獄杏寿郎と言います。俺は竈門炭治郎です! その節は、お世話になりました」
 丁寧に頭を下げる炭治郎の耳で、花札のような飾りがカラン、と乾いた音を立てた。礼儀正しい所作に、野薔薇もスン、と大人しくなる。
「善逸から聞いてるぜ! 俺は虎杖悠仁」
……釘崎野薔薇よ」
……あっ、私もですか。伊地知潔高と申します」
「そういえば……あんた、魚臭いキモい壺のときの」
 あー! あのぎょろぎょろ目ん玉も! と野薔薇はぽんと握った拳で手を叩いた。
 炭治郎はそうです、と苦笑して、三人を促した。煉獄が随分先に行ってしまったので、早く追いつかなければならない。
「お館様というのは、鬼殺隊を取りまとめている方のことです。今日は、無惨や呪霊、呪詛師のことをお聞きしたいらしくて」
「ふーん。まぁ、伊地知さんが大体知ってんでしょ」
「つーか炭治郎って善逸とタメだろ? じゃあ俺らとも同い年じゃん、敬語とかいいって」
「あ……そう、か? じゃあ、お言葉に甘えて」
 広大な屋敷の中を少し歩いて、一行は広間に通された。失礼します、と炭治郎が朗々声を張り上げる。
「隊士、階級・癸、竈門炭治郎です。呪術高専の方々をお連れしました」
「お入り」
 野薔薇と悠仁は思わず顔を見合わせた。隊のまとめ役というから、もっとごつい感じを想像していたのに、襖越しの声はどきりとするほど、どこか儚げで、それでいて柔らかな強さを持っていた。
 襖が開けられる。炭治郎はすぐに部屋の中で控えていた煉獄と宇髄の傍へ移動した。
 広間は庭に面していた。跳ね上げ式の雨戸は開け放たれていて、午後の柔らかな日差しが部屋に差し込んでいる。床の間には、やはり藤が飾られていた。
「よく来てくれた。どうぞ楽にしてくれ」
 耳障りのよい声が、三人を促す。悠仁たちは促されるままに、用意された座布団に腰かけた。あまり間を空けず、綺麗な着物を纏った女性がてきぱきと茶を出してくれた。悠仁は礼を言い、野薔薇と伊地知も会釈したり「お構いなく」と頭を下げたが、彼女はぴくりとも表情を動かさずに部屋を辞した。
「彼女は私の妻だよ。感情を表に出すのが苦手でね。どうか、気にしないでやってくれ」
……奥さん、綺麗っすね!」
「ありがとう」
 天真爛漫な悠仁に、産屋敷輝哉は笑みを深めた。紫に染まった白磁の目元が、柔らかく緩む。きっと見えていない、と三人は思ったが、それを表には出さなかった。
……本日は、先の件に関しましてお話を、ということでしたが……
「そう。五条悟といったかな。彼はやはり、来てくれなかったのだね」
「申し訳ございません。なにぶん、多忙でして……どうぞご憂慮頂ければ」
「あぁ、いや。責めているわけではないんだ。ただ彼は、面白いからね。少し残念だというだけさ。さて、悠仁と、野薔薇だったね。天元たちから話は聞いているよ」
 話の水が、生徒たちに向けられる。

 ───なんだか調子狂うわね

 野薔薇はどこか居心地悪そうに眉を寄せた。
「えーっ、どんな話? 変な話じゃない?」

 ───逆にいつも通りのこいつがイラつくわね

 野薔薇は自分のこめかみに青筋が浮いた音を聞いた。
「さて、どうかな。呪霊を取り込んだ……受肉体になったのだという話は、変な話かな?」
「───」
 悠仁はうっかり言葉を失った。まさかいきなり、受肉の───しかも宿儺の話をされるとは思いもしなかったのだ。
 さらさらと、藤の花が風に揺れる。悠仁は、「あー……」少し考える素振りを見せたが、すぐに答えた。
「変じゃないかな。え、そういう話が聞きたい感じ?」
「いや……きっと、悠仁が想定しているものとは違うかな。私が聞きたいのは個人的な話ではなくて、あくまでも一般的な話だよ」
「いっぱんてき」
「すみません、こいつ馬鹿なんで、分かりやすくお願いします」
「くぎさき……!!」
 言うなよ、と悠仁が顔を歪める。野薔薇は知らん顔だ。伊地知は自分が口を挟んだ方がいいのかずっと逡巡していた。
 忍び笑いをこぼした産屋敷が、「私が聞きたいのは、」と優しく言い直す。
「つまり、呪霊を取り込んだ人間が、みんな悠仁のように、普通でいられるのかどうか、ということ」
「あー……なるほど……
 悠仁はそのまま伊地知に顔ごと視線を向けた。「その辺りのことは私が」と伊地知が少し前に出る。
「虎杖くんの場合は、少々特殊です。そもそも肉体を持っていない呪霊や呪物が能動的に受肉することはありませんが、第三者の介入など何らかの理由で受肉する際、基本的に受肉のための器に何らかの条件などは必要ありません。文字通り、無差別に、誰でも器になることができます。しかし、虎杖くんが取り込んだのは呪物のなかでも格どころか次元の違う代物です」
 故に、適正が必要となる。呪物は人間にとって文字通り有害で、取り込んだ場合、いわゆる毒のようなものが摂取者を死に至らしめる。虎杖は千年に一度の逸材だった。
「ほぼ100%、受肉体となった人間の意思は残りません。文字通り、死にます。肉体も変貌する場合がほとんどかと」
……なるほど」
 では、と産屋敷が変わらない調子で言った。
「鬼が呪霊を取りこんだら、どうなるかな」
……は」
 鬼が、ですか、と伊地知が眼鏡を触る。悠仁は思わず釘崎の方を見やったが、彼女は目元を険しくさせているだけだった。
「前例がないので憶測になりますが……おそらく、受肉体が一般人である場合と大差はないかと。不確定要素として血鬼術の存在がありますが……肉体の変貌により適正が消失し、術式を使えなくなる、受肉した呪霊の術式のみ使用可能となる、といった可能性は考えられるかと……
「でも、鬼はヒトではない。元はヒトだが……悠仁のように、自意識を保ったまま……呪力や術式だけ得られる、ということにはならないかい?」
……可能性の話としては、ありえなくもないですが……
「───あー、わかった。なるほどね」
 あんた、アレね、と野薔薇は不意に口端を吊り上げた。
「ビビってんのね。要するに。日輪刀とか、日光とか。鬼に効かなくなるんじゃないかって」
 誰かが、はっと息を呑んだ。
 確かに、鬼の肉体が取り込んだ呪霊によって根本的に変わってしまったら、鬼の致命的な弱点である日光も克服できるかもしれない。
 加えて、受肉体となったのなら、それは呪霊だ。呪力でとどめを刺さなければ祓えない。
「それをナントカ無惨が成功させたら手に負えなくなるんじゃないかって、そういうことね」
…………おみごと、そのとおり」
 産屋敷は、毛ほども微笑を崩さなかった。
「鬼舞辻はね、たぶん、そのために呪詛師の元を訪れたのではないかと思う。日光を克服することは、奴の一番の望みだからね」
「確かに、高専管轄外の呪詛師であれば、裏ルートなどで我々の把握していない呪物などを取引する場合もあるかと思いますが……
「じゃあなんで鬼にしちゃったのよ。あ、そいつが死んで呪いに転じてから食べるつもりだったのかな」
「鬼舞辻は、いろんな人間が鬼になった場合を実験している風情がある」
 たとえば病弱だったり、反対に凄まじい身体能力を持っていたり、武の才に恵まれたものだったり、それは様々だ。全て、日光を克服できる鬼を作り出すため、或いは探し出すためだと、産屋敷は見ている。
「呪詛師というのも、その一例だったのではないかな。分からないけどね。けれど、どうやら失敗続きらしいし、それに。受肉の可能性も、あまり考えなくて良さそうだ」
「念の為、懸念事項として次の報告で上層部に連絡させて頂きます」
「それがいいだろうね。さて、次は野薔薇に聞きたいことがあるのだけれど」
「私?」
 そう、と産屋敷は緩やかにひとつ、頷いた。
「五寸釘のようなもので戦っていたとか。いくら呪術に関しては素人の私でも、五寸釘に呪い、金槌と訊けば、なんとなく分かるよ」
「あー、まぁ、元祖みたいなもんだしね」
 他者を呪う逸話として最古のものと言ってもいい、丑三つ時の五寸釘と藁人形。恨めしいひとの髪を五寸釘に巻き着けて、金槌で五寸釘を打ち込み、呪いあれと怨念をこめるのだ。平安の御代の話である。
「でも、それとはちょっと違うのよね。あぁ、術式開示ってリスキーだから詳しい事は伏せさせてもらうわ」
「そうなのか」
「手の内をさらすようなものですから。逆に、己の戦闘方法を敵前にさらすという縛り……ゲームでいうデバフのようなものを敢えて背負うことで、術式が敵に与える効果を底上げすることも可能です」
 伊地知が補足する。産屋敷は少しだけ思案する素振りを見せた。
……我々は、鬼殺隊士選抜試験のために、藤襲山という場所に鬼を閉じ込めているんだが。彼らの中にある鬼舞辻無惨の血や細胞を通して、無惨本体を攻撃することは可能かい?」
……できなくはないけど。でも、血液ならまだしも細胞かあ……
 さしもの野薔薇とて、確証を持って「できる」とは言えなかった。芻霊呪法は繋がりを辿る。確かに細胞レベルで鬼舞辻無惨に侵されているなら野薔薇の攻撃も届く可能性はなくはない。
「というか、そもそも。攻撃できたところで、再生されて終わりよ。鬼は呪霊じゃないんでしょ? 祓えないじゃない。釘の無駄ね、頼まれてもやんないわよ」
「釘崎……もうちょっと言い方ってもんがさ……
「なによ。何事もはっきりさせるのが一番じゃないの」
「うん。気にしていないよ。ありがとう、悠仁。私も、日光以外で無惨は倒せないだろうと思っているから」
「じゃあなんで聞いたのよ……
 げんなりとした野薔薇に、産屋敷は調子を崩さなかった。
「場所をね。知りたいんだ」
「、ばしょ?」
「そう。無惨の居場所。巧みに地下を経由した移動を繰り返している。もし繋がりを辿って無惨にまで攻撃が届くなら、術者である野薔薇がその方向に気付かないはずはないのではないかとね」
……

 ───術式をほとんど開示してないのにある程度の正確さを持って私の術式のことを表現してる

 ───ただものじゃないわね……

 野薔薇の術式は大抵呪詛返しだと誤認される。それがブラフになることもあるのだが、産屋敷にとってはそうはいかないらしい。
……確かに、分かるわ。でも、大体の方角くらいしか分かんないわよ。あとは、近いか、遠いか。索敵には向かないわ」
……そうか」
「それに、移動してるんでしょ? それなら猶更よ」
「そうだね。……野薔薇の言う通りだ」
 細く、長い息を吐く。産屋敷は、「すまないね」と瞼を伏せた。
「どうにも、膠着状態が続いていてね。少しでも何かないかと、藁をも縋る思いなんだ」
…………
「気を悪くさせたら、すまなかったね」
「別に。気にしてませんけど」
 お、さすがの野薔薇もこれには大人しくなるか、と悠仁はようやくホッとした。釘崎とて、必死に足掻いている人間に鞭を打つような真似はしない。───敵は別だが。
「私が聞きたかったのはこの二つだけだ。悠仁、野薔薇。それから、伊地知殿。今日は来てくれてありがとう。これからも、宜しくお頼み申します」
「いえ、こちらこそ。どうぞよろしくお願い致します」
 どこか疲労を滲ませて、それでも産屋敷が頭を下げる。慣れた仕草で伊地知も丁寧に礼を返し、悠仁と野薔薇はぎこちなくそれに倣った。
 静かに腰を上げた宇髄が、するりと産屋敷の傍に寄って、彼を支えて立たせた。部屋を後にする二人と悠仁たちの間に入るようにして、煉獄が移動してくる。
「すまない。お館様は、不治の病に罹っておられる。最近特に進行が進んでいるらしい」

 ───めっちゃ静かに喋るじゃん

 ───別人かしら。双子とか。

 お気遣いなくと口では言いつつも、二人は同時に似たようなことを思った。煉獄は相変わらずどこを見ているのか分からない表情で「ところで」と話を切り出した。
「ついでのようで悪いが、ひとつ、相談がある」
「なによ」
「先日から、ある隊士が一名、行方不明になっている」
 煉獄さん、と炭治郎が腰を浮かしかけたが、煉獄は視線だけで炭治郎を制した。
「名を嘴平伊之助という。イノシシの被り物をした、見込みのある隊士だ」
「イノシシの被り物?」
「そいつが行方不明なの? 悪いけど、捜索のための占いとかやんないわよ。できないし」
「君たちの摩訶不思議な力がそういうものではないということは分かっている! ただ、加茂殿からお借りした書物の中に残穢という言葉があった」
「!」
 三人の纏う空気が少しだけ変わったことを、煉獄は勿論、炭治郎も感じ取った。
「猪頭少年はただで鬼にやられるような隊士ではない。加えて、鬼に喰われたならば、烏がそれを報告するはずだ! だがそのような報告はなかった!」
「カラス?」
 悠仁は炭治郎の方を見やった。視線を受けた炭治郎は、「鎹烏のことだ」とすぐに答えた。
「主に、俺達の連絡用に使われる、人語を操る烏がいるんだ。善逸のは、雀だけど……入隊したら、一人につき一羽がつけられて、任務の連絡をしてくれたり、道案内をしてくれたりする」
「情報漏洩防止のためには結局アナログが一番ってことね」
「伊之助にも、伊之助の烏がいた。その烏が、伊之助が行方不明になったことを教えてくれたんだけど……

 曰く。鬼が喰われた。
 次いで、伊之助が消えた。

 錯乱した烏がまともに報告できたのは、これだけだったという。
 話を聞いた三人は、少しだけ顔を見合わせた。
「伊之助が調査に入った山は、少し前から怪談のような噂が流れ始めた場所だったんです。地図に載っていない集落があって、道を間違えて迷ってしまうとその集落で怖い目に遭う……というような」
「そういうところに敢えて鬼が縄張りを持ち、肝試しに来た人々を襲うといったことが多々あった! だが、今回の事件では、喰われたのは鬼だという!」
「そこに、呪術とか、呪霊とか……そういう話を聞いて……もしかして階段の噂が本当なら、伊之助は呪霊に襲われたんじゃないかと思うんだ」
「どうだろう。残穢のあるなしだけでも、見てもらうことは可能だろうか」
 その上で、呪霊による被害として改めて呪術高専に救出作戦を依頼したい、と煉獄は言い切った。
……確かに、山間での行方不明事件が呪霊によるものだったということは多々あります。昔からある神隠しも、実は呪霊の仕業だった、というものが多い事は確かです」
 受けて、口火を切ったのは伊地知だった。
「しかし、虎杖くんと釘崎さんは呪術師で任務経験があるとはいえ、事前調査も行っていない場所に送り出すことは、補助監督の立場として容認できません」
 伊地知はきっぱり言い切った。虎杖と釘崎は思わず瞬いたし、煉獄はさもありなんと頷いた。炭治郎は、気落ちするのを堪え切れないようだった。伊之助のことが心配なのだろう。
……でもさ、その事前調査をしようって話だろ?」
 ふと。
 優しい匂いが、炭治郎の鼻を擽った。思わず顔を上げた炭治郎が見たのは、伊地知に向き直った虎杖だった。
「念の為、伏黒も呼ぼうぜ。それでさ、玉犬に調べてもらおう。で、やばそうだったら撤退すればいいしさ」
……それでも行っちゃうでしょ君たち……
 伊地知が眉間にしわを寄せ、眼鏡ごと目元を覆った。釘崎は当然という表情だが、虎杖は申し訳なさそうに手を合わせている。
「行方不明ってことは昨日今日の話じゃないっぽいし! 他の任務、入ってないっしょ? ねっ?」
「入ってはいませんが……はぁ……
 仕方ありません、と伊地知は煉獄に向き直った。
「嘴平伊之助隊士が行方不明になった日時、場所の詳細をできるだけ詳しく教えてください。近隣の高専関係者に情報収集を行ってから向かいましょう」
「引き受けてくれるのか!!」
「あくまでも様子をみるだけです。あくまでも」
「有難う!!」
「ありがとうございます!!」
 二人が勢いよく頭を下げる。伊地知はすぐにスマホと連絡用の携帯を取り出そうとして、ここでは使わないでくださいねとカナエに先刻回収されたことを思い出した。