桜霞
2022-10-01 16:53:31
33585文字
Public 【twst夢】フライパンは無敵
 

このストーカー野郎がァ!!

#twst #twst夢 #not監督生 #女監督生 #オリ女主 2020/07/07にpixivに投稿したものの再掲です。






 ナイトレイブンカレッジは全寮制の魔法士養成専門学校だ。ワンダーランドの中でも屈指の名門校とされる学園は生徒達が主役だが、もちろんのこと、脇役も存在する。
 学園を運営する上で発生する事務や清掃、食事の提供などに携わる裏方のスタッフ達である。
 ひょんなことからディア・クロウリーに保護され、学園で生きて行くことになったリンは、生徒として扱われることになったユウやグリムとは別に、学園の裏方に携わり、仕事をこなして生活していくことになった。
「リンと言います。しばらくの間、お世話になります。どうぞご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
 彼女は丁寧に頭を下げた。彼女をクロウリーから紹介された食堂の裏方や清掃員、事務局のスタッフ達は、揃って「よろしく」と返し、揃って彼女の新人教育を自分以外の誰かに無言で押し付けた。クロウリーは「それでは頼みましたよ」とさっさとどこぞへ消えてしまった。いつものことである。
 個々人がすぐにリンへと興味をなくし、自分達の仕事へ取り掛かってしまったので、リンは数分、その場にぽつねんと放っておかれることになってしまった。
 そんな状況に、彼女は戸惑うでも、狼狽えるでも、文句を言うでも、誰かをとっ捕まえて金魚の糞のようについて回るでもなく、ただじっと新しい職場の慌ただしい様子を見つめていた。





 彼女が一番初めに選んだのは、清掃作業の手伝いだった。

「いや、あの時はマジでどうしたらいいか分かんなかったんですよ」
「うっそだあ」
「ほんとですって」

 後になって、リンは砕けた様子で仲の良くなった先輩スタッフと会話を弾ませていた。
 スタッフ達は、リンに仕事を教えなかった。ほとんどの作業を魔法で済ませてしまう清掃において、魔力を持たない一般人であるリンは大した戦力にはならなかったからだ。
 けれどもリンはスタッフ達が魔法を使う前にバケツに水を汲んだり、小道具を用意したり、ごみをまとめて運び出したりしていた。
 何か指示を出さずともそこに物が用意されている環境は、ひとを堕落させる。スタッフ達はあっという間にリンを受け入れて、彼女の細やかな気遣いを消費した。
 しかし、本業である清掃作業には、リンでは参加できない。

「だからこの時間帯はちょっと暇なんですよ」

 そう言って、リンは次に、食堂を手伝った。ゴミの回収によく顔を出していたので、食堂のスタッフ達はリンのことをある程度受け入れていた。
 だから彼女が自ら率先して皿洗いや料理の入れ替えなどの仕事を細々やってくれるのを「自分の仕事が減ったぜラッキー」と思いこそすれ邪険に扱うことはなかった。

「え、これ捨てるんですか」
「あぁ、ルールだからね」
……それならちょっとだけちょろまかしてもいいですか?」
……聞かなかったことにしといてあげるよ」

 リンは黙ってマネージャーのゴーストを拝んだ。余った料理や食材などを、リンはこうして貰っていくことが増えていた。
 こういう頼み事をするとき、この学園に在籍するものはまず相手より気持ち上の立場を演出して交渉に挑む。舐められないようにするためだ。
 けれども、リンはその細身を竦ませて、両手を合わせ、申し訳なさそうに眉を八の字にして、こちらを上目で覗き込む。
 決して可愛く見えるわけではない。その頃のリンの見目はお世辞にも整っているとは言い難かった。肌は荒れていたし、着ているものも学園の制服を数日続けて利用しているのですぐにくたくたになった。
 それでも、おねだりというか、お願いをされるというか、純粋に頼られて、そうして心底ほっとしたような表情で「ありがとうございます!」と礼を言われるという状況は、なかなかこの学園では味わえない。
 誰かを助けてやるというのは随分気持ち良くマウントを取った気にさせてくれる。スタッフ達は、一ヶ月ほどでリンに絆されていた。

 こうして学園内の校舎構造や裏方のシステム、全体的な仕事のスケジュール、人脈等を築いたリンは、通りがかった教員たちに「これこれこういう資料または道具を頼む」と突発的に吹っ掛けられても「承知しました」とすぐさま対応して見せた。この世界や学園での仕事においての常識のようなものも既に見知っていたので、事務局とも卒なく関わるようになった。

「ここの資料、」
「まとめこれです」
「リン、ちょっとこっち手伝ってくんない」
「はい、ただいま」
「あ、これ印刷、」
「プリンターにあります」
「リンさん、手ェ空いてる?」
「食堂ですか、すぐ行きます」
「あー! 放課後、植物園に応援頼むわ!」
「了解です!」

「想定外の新人教育とかいうめちゃくちゃ面倒な仕事が増えたんじゃねーか」と眇めた目で斜に構えていたスタッフ達は、リンがそれほど手がかからないどころかハチャメチャに優秀だと気付くと、すぐさま行動を起こした。

 事務局はすぐに人事部に掛け合ってリンの肩書を名無しから「事務局員」へと変えた。そろそろ毎年恒例のマジカルシフト大会運営委員会が動き出そうかという時期だった。





 ◆





 仕事のできる人間というのは、タイミングを計るのが上手い。かと言って、報告、連絡、相談は怠らない。
 リンには学ぶ時間が許されなかった。仕事をしながら、この世界のことを知っていくしかなかったのだ。
 道具や食材、その使い方はリンの世界と大差なかったので、彼女はすぐに順応することができた。しかし、職員同士の会話や、特に教員の授業準備を手伝うときはアカデミックな知識が要求されることもある。かと言って、生徒のように気軽に教師に質問するわけにもいかない。教師には勿論、リンにも仕事があるからだ。
 だから、リンはそういう、自分の知らない、この世界特有の知識について疑問が生じたときは、休憩時間を利用して、スタッフ達に「無知ですみません」といろいろ聞いて回っていた。

 時には清掃のおばちゃん先輩スタッフに。
 時には用務のおじさんゴーストに。
 時には図書館司書のお兄さんに。
 時には事務局のお局様に。

 そして時には、食堂の裏方スタッフに。

 すっかり受け入れられていたリンは、「突然異郷に放り込まれて助けてもらえなくても文句を言わずに健気に働く人物」であると、同情が少し、マウントを取れる下位互換的存在だと可愛がるのが半分、自分が楽をするために利用してやろうというのが半分で、総合的に受け入れられ、可愛がられていた。

 特に食堂のとある裏方スタッフなどは、リンが学園に来たばかりの頃から積極的にリンへと声をかけていた。
「新人、分からないことあったらすぐ言えよ」
「はい、ありがとうございます。それじゃあ早速いいですか?」
「おうよ」
 互いが互いにリンの面倒を見ることを押し付け合っていた頃は、本当にそのスタッフしかリンに声をかける者は居なかった。スタッフはそんなリンを、この学園に在籍する者としては珍しく、心底哀れに思っていた。

 ───俺だけはこいつの味方をしてやろう。

 普段は静かな表情をしているリンが、自分が声をかけた瞬間にぱっと目を見開いて頬を緩めるのは、スタッフにとって大層気持ちのいいものだった。

「よう、時間通りだな」
「あぁ、えぇ、はい、まぁ……
 ある日、食堂で皿洗いをしていたリンに声をかけると、彼女は少しだけ困った素振りを見せた。まあ時間通りに行動するなんて社会人としては当然だから褒められても困るよな、とスタッフは好意的に受け止めた。

 ───お前は意識高いもんな。いいことだ。

 スタッフは上機嫌のまま言葉を続けた。
「最近忙しそうにしてるだろ? 何か困ってることとか無いか?」
「いえ、皆さん良くしてくださってますから」
「庇わなくていいんだぜ、清掃どころか事務局でも作業してんだろ?」
「ええ、どこも忙しそうで」
「無理矢理引き留められてるんじゃないのか?」
「まさか」
 それ以上を、リンは言わなかった。手元の作業に集中しているらしく、スタッフは嘆息した。そうして背後からリンに近付き、洗い場を占拠している食器に魔法をかけた。
 水で洗剤が流されるのを大人しく待っていた食器たちが、一斉に水道の滝をくぐって水切りスペースに移動する。
 ちょっとだけ驚いたように目を丸くしていたリンは、けれども「さすが。ありがとうございます」とすぐに残りの皿に手をつけた。
「これぐらい、大したことじゃない」
「そうですか」
「こんなのもできないなんて、本当にお前は俺がいなきゃだめだな」
…………
 ガチャガチャと食器の立てる音がうるさかったからか、リンにはスタッフの言葉が届かなかったようだった。変な沈黙がその場に満ちる。だが、スタッフは気にも留めなかった。
「何かあったら、すぐ俺に言えよ。お前の秘密に気付いていて、それでも味方でいられるのは、俺しかいないんだから」
 わざとらしく囁いて、スタッフはくるりと踵を返し、リンに背を向けた。
 水のざあざあ流れる音がスタッフの遠のく足音を塗り潰していく。食堂は変わらずドタバタしていて喧しい。それは裏の厨房でも同じことだった。

 上機嫌なスタッフは、それ故に、リンがどんな表情をしているかなど、微塵も気付かなかった。

「顔、リンちゃん、顔ヤバイよ」

 ぬう、と壁から透き通る体のゴーストが現れる。この学園の職員はその半数がゴーストで構成されていた。この世界では別に珍しくも無いのだという。彼は往年を生きたゴーストで、この食堂の裏方を預かるリーダーだった。
 リンはヤバいと言われた顔をそのまま彼に向けると、にっこりと完璧な笑顔をその かんばせに張り付けて見せた。わぁ、と心にもない歓声と拍手が一人分、ぱちぱちと響く。
「完全に事務局に移るの、いつからだっけ」
「週明けからです」
「じゃ、今日で最後かあ」
 この日は週末だった。土日を挟んで、リンは学園全体の雑務を担う雑用係から、事務局に昇進する。
 食堂の裏方も、清掃担当も、用務担当も、そこで働くほぼすべてのスタッフが歯軋りして「良かったな」と言ってくれたことが、なんだかんだリンにとっては嬉しかった。自分は魔法を使えなくても優秀だと認めてもらえたような気がしたのだ。
 年の功か、食堂のリーダーゴーストはわりとすぐに「おめでとう」と素直に賞賛してくれた。
「ちょうど良かったかな。最近目に見えてしつこくなってきてたもんね」
「ええ、本当に」
 リンはげんなりして言った。先程のスタッフの事である。いろいろ教えてくれるのでちょっと愛想良くしていたらどこで何を勘違いしたのか、変に彼氏面をしてくるようになって、リンはほとほと参っていた。
「よくもまあ魔法の使えない私に魔法でマウント取って『お前は俺がいないと何もできない』だなんて言えますね。私がフライパンを持っていないことに感謝しろって感じ。ここがオンボロ寮なら城をぶつけて圧し潰している……
「うーん、何を言ってるかよく分かんないけど、上司として謝っとくよ。ごめんね」
「いいえ。あんな部下だとミスターの苦労がしのばれます」
「ははは」
 彼、一応は優秀なんだよ、とゴーストは淡々と言った。
「優秀故に前の職場でいろいろトラブルに巻き込まれたみたいでね。まぁ、マジフト大会もあるし、これから冷却期間だね。次に会う時は落ち着いてるよ」
……そうだといいんですが」
 切り良く皿洗いを終わらせて、リンは今度こそ水に塗れた手を拭いた。
「ミスター、今までお世話になりました。また伺わせて頂きます」
「はいよ。たまにはご飯、食べに来てね」
「是非」
 リンはにっこり笑うと、さっさと食堂を後にした。まったく未練を感じさせない歩みは、今までのリンの笑顔がほとんどすべて愛想笑いであったと確信するのに十分だった。
 利用していたかと思えば、利用されていたのはこちらだったのだ。だが、これで憤るスタッフなど、この学園にはいなかった。
 彼女は正しく実力で這い上がった。一切の迷惑をかけず、仕事は求める以上のクオリティでこなし、十分、利益を置いて行った。寧ろ天晴である。
 やってくれたなと好感度が上がりこそすれ足を引っ張ってやろうとは思わない。面倒な仕事になって自分に迷惑として返ってくるのが目に見えているからだ。

 だが、おおよそそのように物事を捉えられない人物が、たったひとり、食堂の裏方に紛れ込んでいた。





 ◆





 事務局のデスクに並べられた付箋やメモの切れ端を眺め、リンはぎゅむりと口を歪めた。リンの後ろからは、彼女の同僚や上司が揃ってデスクを覗き込んでいる。

「うーーーん………………

 そうして、皆は一様に険しい顔をして唸った。

「有罪だな」
「アウトオブアウト」
「厳しくない? いや気持ち悪いけど」
「病院が来い?」
「いやまだ病院に行けレベルでしょ」
「その前に警察」
「事務に引き抜いた俺に感謝しろ」
「いやボス、あんたその発言はアウトですよ」
「すいません」
 軽く頭を下げられて、それまで黙っていたリンはいえいえと会釈した。ぎし、と質のいいワーキングチェアが音を立てる。
 リンのデスクには様々な日付と時刻、似たような言葉が書かれた付箋やメモが並べられていた。それらはすべて同じ筆跡だ。
 仕事上、何か報告、連絡、相談をしなければならないときに、どうしても直接対話するが確保できないことがある。付箋やメモ帳などは大抵そういうときに活躍するのだが、今回、これらはすべてリンに宛てられていた。
 だが、リンへの伝言を預かった事務局員は、決して一人ではなかった。複数人が、たまーにリンへの伝言を受け取る機会はままあったので、誰も不思議がらずにリンのデスクに付箋やメモを置いて行ったり、直接手渡したりした。
 だから、リンへの伝言を受け取った事務局員たちは、きっと相変わらずリンがいろんなところに顔を出しているんだろうなと思っていたし、すべての伝言がまさか食堂のとある裏方スタッフからだとはまったく予想していなかった。
 彼は、複数人の事務局員に、複数回、リンへの伝言を頼んでいたのだ。
「どうするよ」
 リンは難しい顔をして黙り込んだまま、片眉を上げるだけだった。
「だってこれなんかやばいよ」
 ひとりが手を伸ばして付箋をデスクから剥ぎ取った。
「表には『PM2時』『食堂、厨房』としか書いてないけどさ、裏には『昨日は帰るのが七時だったろう? 寮に帰る途中、生徒に絡まれてたよな? 俺がいたからあいつらは寮までついて行かなかったんだぞ、自覚しろよ』って書いてある」
「え、一緒に帰ったん?」
 リンは何事が思案しながら緩く首を横に振った。
「そもそも会ってすらないです」
「オンボロ寮にまで勝手について行ってるってこと?」
「アウトーッ!!」
「『約束も守れないような奴じゃないだろ? まだ見捨てないでいてやるから来い』ってヤバイヤバイヤバイヤバイ」
「メモを渡したことが約束したことになってる」
「頭いかれてんな」
「ホリデー前はこんなの無かったよね……?」
「あぁ、無かったな」
 なんでだろう、と首を傾げる同僚に、「ホリデー前まではちょくちょく厨房に顔出してた」ボソッとリンが呟いた。
「え、なんで」
「廃棄食材とか貰いに行ってたんすよ」
「あぁ……
 そういやこいつの給料、最近になってようやく月五万になったんだったなと職員たちは一様に口を閉ざした。
 家賃も光熱費は学園持ち、衣服や化粧品でさえも経費で支給されたとは言え、掛かる食費や雑費の類はリンが負担しなければならない。リンはオンボロ寮の監督生とグリムの食事も面倒見ているので、月二万弱の給料でよくもまあ三人分の食費や雑費を賄ったなと職員たちはいっそ賞賛を通り越して呆れていた。
 そりゃ厨房で廃棄予定の食材などを貰っていかなければ生活が成り立たないのも頷ける。
「でも、そっか。給料上がって、ボーナスも入って」
「もう流石に厨房には行かなくても大丈夫だもんな」
 同僚たちの言葉に、リンは項垂れるようにして首肯した。
「それで、最近めっきり姿を見せなくなったもんだから、こうやってメモを……
「直接来られたことはあるのか?」
「や、無いですね」
 ホリデーが明けてからこちら、リンは食堂には一切立ち寄っていない。姿を見かけることもなかったので、メモや付箋の異常性に気が付くまで忘却の彼方に吹き飛ばされていたほどだ。
「こいつ、街から通ってきてんのか? そしたら八時には外に出なきゃいけないから、そこらへんの心配はなくなるよな」
 宿直の教職員とゴーストを覗くすべてのスタッフは、夜八時まで、学園への出入りを自由にすることができる。教職員用の寮を利用しているスタッフにこのルールは適用されないが、八時以降、学園の外に出る場合は警備に届け出をしなければならない。
「後で人事に用があるから確認してくる」
「ついでに前の職場とか洗っとけ」
「どうする? 外に泊まるか、それともなんかあった時のために俺達が寮に泊まるか?」
「あ、それかサバナクローに泊めてもらえば? 懐かれてるでしょ、空き部屋もあったはずだし……
「いや、生徒を巻き込むわけにはいきませんから」
 リンはざっと付箋やメモを見直した。指定されている時刻はすべて昼間の休憩時間か放課後の忙しくなる前の時間帯だ。八時以降の指定が無いところを見ると、どうやら彼は夜に学園に滞在することを許されない立場らしい。

 ───夜中に襲われる心配はなさそう……

 学園のセキュリティは堅牢だ。唯一の穴が闇の鏡と言っていいくらいには。
 リンは嘆息して、ようやくまともに口を開いた。
「どうにかしますわ。最悪、フライパンで殴ります」
「そうした方がいいな」
「いや止めろ?」
 案外真面目に受け止められて、リンは反射的に突っ込んでしまった。
「まだ殺人は犯したくないんですが」
「大丈夫だ、バレねえようにしてやる。魔法でどうにかなる」
「なるんかい。いやどういうサポートの仕方? というかさっきから随分協力的で有難い事この上ないんですが、どうしてまた」
「え、だって」
 職員たちは意外そうに瞬いた。
「そりゃあ、こんなキモい奴と同じ職場にいたくはないだろ」
「どーにかして辞めさせようぜ」
「一番は豚箱に突っ込むことだから、気持ち悪いし怖いかも知れねえけど、これは証拠品として置いておこうな」
…………
 はい、とこの世界におけるジップロックのようなものを渡されて、リンはきゅむりと口を噤んだ後、ぼそぼそ「ありがとうございます」とお礼を言った。
 同僚たちや上司は一様に「うむ」よきにはからえ、とばかりに頷いて見せると、さっさと自分達の仕事に戻って行った。
…………
 持つべきものは良いビジネスパートナーだな、とリンはメモや付箋をまとめてジップロックもどきに放り込んだ。





 リンはその日のうちに人事部を経由して食堂のリーダーゴーストを呼んでもらい、かくかくしかじかと経緯を話して直属の上司であるゴーストから注意警告をしてもらうよう頼んだ。
「こりゃあ、申し訳ないな。楽観視しとったわ」
「いや、私もさすがにここまでになるとは……
「あいつ街通いだし、夜はそんなに心配しなくても大丈夫だと思うけど」
「あ、そうなんですね」
「うん、ちょっと強めに注意しとくね。落ち着いたらまたご飯食べに来て。割引券出すし」
「有難く」
 一番は逮捕、そうでなくとも自己都合による辞職を、リンの同僚たちは目論んでいるようだったが、流石にリンはそこまで考えてはいなかった。
 職場が同じとは言え気を付ければ会わないし、目を覚ましてもらって今後一切こういうことをしてこないのであれば仕事をする上ではまったく無問題である。
 職を失ったり、逮捕歴がついてしまうことは、どうしたって生きにくくなる。この世界がどうかは知らなかったが、少なくともリンの世界ではそうだったし、そこらへんはあながち違う感覚でもないだろう。
 確かにこのスタッフの行動は異常で、ちょっとどころじゃなく恐ろしいが、今の所実害は無い。
 訳の分からない難癖をつけられるくらいでは、リンはまったく揺らがなかった。寧ろフライパンを持ち出して返り討ちにしてやるくらいの気概であった。





 ◆





 食堂の厨房リーダーゴーストがくたびれた様子で事務局に顔を出したのは、リンがアズールを掌の上で転がして酒や調味料の類を格安で仕入れられるようになってからしばらく経った頃だった。
 ホリデーが過ぎたとは言え季節は春の足音遠い冬真っただ中。リンは久々に見たリーダーゴーストが随分やつれたように感じて、ちょっとばかり戸惑った。
「久しぶり」
「ええ、ご無沙汰してます。なんというか、随分、その、色が」
「あぁ、季節だからね。冬は特に見えにくくなるんだ」
 リーダーゴーストは小さく肩を揺らして笑った。
「ま、いつでも透けてるわけだけど」
「はあ、それはよく存じておりますが」
「そうだろうね。で、彼なんだけど」
「あぁハイ」
「最近ようやく落ち着いてきて、静かになって」
「静かでなかったんですか」
「静かでなかったんですよ」
 ゴーストはやれやれと溜息をついた。
「君にいろいろ話を聞いて、すぐにそういう迷惑行為はやめなさいって注意したんだけど、まぁ聞く耳を持たなくて。『そんなはずはない』ってそればかりでね」
 件のスタッフが「仮に彼女が迷惑がっているとしましょう」としたのはそれから数日経ってからのことだった。この間、リーダーは毎日スタッフと時間を設けて会話を試みていた。
「曰く、『これはリンのためにやっていることなんだ』ってね。『魔法も使えず、非力な』……あー、『女であるリンを守ってやれるのは自分だけだ』って……
「はぁ」
「『彼女が女性であることを、あなたは知らなかったでしょう』とまで言ってのけたよ、彼」
「ホォー」
 今度はリンが小さく肩を揺らす番だった。リンはあからさまに己の性を主張したことはただの一度も無いが、ハーツラビュルのトレイ・クローバーやエース・トラッポラ、デュース・スペード、サバナクローのレオナ・キングスカラー、ラギー・ブッチをはじめとした一部の生徒には既に知られている。それに加え、「たぶん気付いてるだろうけど敢えて黙ってくれてるな」という生徒もチラホラいることに、リンは気が付いていた。
 ユウとリンの性別は、生徒はともかくとして、裏方スタッフである大人たちにはある程度周知されている。無論、生徒に対する箝口令が敷かれてはいるものの、特に罰則は設けられていないので、二人の秘密は公然と暗黙の了解になっていた。
「自分だけが知っている」だなんて思い込んでいる輩は、件のスタッフぐらいのものなのだ。
「それで、まあ地道に説得を続けていたわけなんだけど。その間、『皆して彼女を使い潰す気なんだろう』とか『裏で奴隷のように扱っているんだろう』とかまあいろいろ言って学園長にまで突貫したんだけど」
 曰く。

 ───私は優しいので、そんなことは教育者として一切しませんし、そんな事実はありませんとも

 ───何やら誤解があるようですね。証拠も何も無いことを言われてはこちらとしても名誉棄損を訴える他ありませんが……そうなると君は確実に負けますよ? そして職を失います。我が校としてもそのようなひとをスタッフに置いておくわけにはいきませんから

 ───おや、分かってくれたんですか? ええ、ええ、そんな事実はありませんとも、私優しいので。誤解が解けたならば結構ですよ、不問にしましょう。ええ、私優しいので

……おぉ」
「これまでの努力は一体なんだったんだろうっていうくらい、あっさり静かになっちゃって」
 それからしばらくはまだリンと直接コンタクトを取ろうとしていたようだった。相変わらずこのメモや付箋を渡してくれと事務局員に返事も聞かず押し付けていたのだ。
 しかし、ここ十日ほどはそういう動きも無い。周囲はようやく一段落ついたかと息をついていた。
「まぁ……何はともあれ、落ち着いたのなら良い事です」
「これ以上ひとが減るのは勘弁だしねえ」
 ゴーストはやれやれと溜息をついたが、すぐに気を取り直すようにして声音を明るくした。
「君が来てもなんともなかったら、今度こそ完全解決だ。機会があれば食堂に寄ってね。お詫びで奢るよ」
「いやいや、奢りだなんて」
「いいからいいから、上司としてこれくらいはやんなきゃいけないから」
「はぁ、でしたらまぁ、機会があれば」
 言って、リンは職場に戻ると言うゴーストを見送った。

 ───死んだ人間に飯を奢られる機会もそうそう無ぇな……

 食堂に顔を出すのは気が進まない。けれども、一緒に食べようと言うとユウが喜ぶのは目に見えているし、エースやデュースと、そう言えばランチを共にしたことは無い。学生に混じるのは気が引けるが、きっと楽しいかもしれない。

 ───……ま、近いうちに行く

 いつもは厄介事を持ち込む烏が、今回は役に立ったなと偉そうなことを内心で思いながら、リンはどこかすっきりとした心持ちで仕事に戻った。
 大した実害は無いから気にしていなかったとは言え、決して気分が良い訳では無い。なんとなく胸に引っ掛かっていたモヤモヤも、これで霧散してくれることだろう。

 ───ようやくジップロックを捨てられる

 ストーカー紛いの執着の証拠として、押し付けられたメモや付箋は、未だにきちんと取り置かれていた。





 ◆





 いずれ食堂に寄るとは口約束しておいても、それが体面だけのものであろうことは、リンには察しがついていた。
 上司故に部下の異常は糾さねばならぬとは言え、限度というものがあろう。ゴーストは十二分に無い骨を折ってくれた。リンからしてみれば寧ろお礼をしなくてはならないのでは、という心持ちにさえなった。あくまでもリンは被害者なので、詫びを受け取って然るべきだが。
 リーダーゴーストとしては、「己の部下が迷惑をかけた」と、きちんと謝った事実が欲しいのだろう。それは確かに上司という責任ある立場なら果たさねばならないタスクだ。リンとて察せない訳では無いので協力したい。

 ───けどまぁ、大抵弁当か購買なんだよなぁ……

 何せ食堂はバイキング形式であるが故に、そこまで多くを食べないリンにとってはコスパが悪い。そしてただ単純に、めちゃくちゃ混んでいる大食堂を積極的に利用したいとは思わない。できるなら静かに手早く食べたい、というのがリンの本音だった。
 錬金術の授業で使用した実験器具の片付けを手伝いながら、リンはそっと嘆息した。
「リン、お前、昼はどうする」
「今まさにそれで悩んでました」
 何にせよ財布を取りに行かなければならないので、事務局に戻ることは決定しているのだが。
「ランチボックスを作ってきていると聞いたが」
「前日の晩御飯が余ったらね。でも昨日は完売御礼だったので」
「そうか」
「先生は?」
「俺は購買で買ってある」
「あ、ランチボックスのデリバリーサービスあるんでしたっけ」
 サムの店が始めたものだ。学生には割高だが、教職員には人気のサービスで、サンドイッチとフルーツのセットなどが定刻になるとデスクにちょこんと配達されている。どういう仕組みで成り立っているのかはミステリーで、サムのみぞ知る。
「うーん、購買が少しでも空いてますように!」
 結局、リンは購買で手頃に済ませることにした。
「この時間帯、植物園が静かでな」
「知ってますよ、レオナが縄張りにしてるでしょ」
「そして俺はこの後の授業のためにとある実を収穫しなくてはならない。一人で運ぶのには少しばかり量が多いんだ」
…………なるほど」
「なに、大したことではない。昼を奢ってやる」
………………ゴチになりまーす」
 熟考の末、リンはクルーウェルに頭を下げた。宜しい、とクルーウェルは満足気に頷いた。
 そうと決まれば話は早いと、二人はごった返す食堂を後目に一度教職員室へ戻った。事務局とは扉一枚しか隔てるものがない。その扉は常に解放されていて、情報の受け渡しがスムーズにできるようになっていた。
「あれ」
 一旦分かれて自分のデスクに戻ったリンは、見覚えの無い紙袋に瞠目した。
 なんてことは無い、茶色い紙袋だ。サムの店がデリバリーするランチボックスに使われるような縦長の紙袋である。
 誰だろう、とリンは辺りをきょろきょろと見回した。しかし皆が昼食休憩に出払っていて、事務局は静かなものだった。
 紙袋には何か入っているらしく、リンは矯めつ眇めつしてそうっと口を開けた。
 中にはメッセージカードと箱が入っていた。
「何をしている?」
 片手に紙袋を持ったクルーウェルが傍に寄って手元を覗き込んでくる。リンは「頼んだ覚えはないんですけど」とメッセージカードを開いた。
「サムの店では無いだろう、ロゴが入っていない」
「あぁ……食堂からでした」
 見慣れない筆跡で、「詫びをしなければならない相手に来いというのもおかしな話だと思ったんだ」とある。食堂の裏を預かるリーダーゴーストからのようだった。
「詫び? 何があった」
「え、」
 訝し気に問われて、リンは思わず弾かれた様にクルーウェルの方を見た。事務局では一度結構な大騒ぎになったし学園長にまで話が行ったとは言え、クルーウェルは知らないのだろう。そりゃそうだ、関係ないもの、とリンはちょっとだけ自意識過剰になっていたことを反省した。
「いやあ……あれですよ、モテる女は大変で」
「ほう? それはじっくり話を聞く必要がありそうだ」
 クルーウェルはリンの隣のデスクを陣取って腰かけた。決してクルーウェルの席ではないが、彼はよくこのエリアを利用していた。
「植物園には?」
「食べた後でいいだろう」
 自分のデスクなのに座るのを促されて、リンは一度嘆息してから腰を降ろした。
 どちらにしろ、昼食代が浮いて有難い。紙袋から取り出した箱はプラスチックでできていて、リンはオシャレなタッパーだなという印象を受けた。
 添えられていたフォークは食堂にあるものだ。返した方がいいかしらと逡巡したリンは、メッセージカードに再び視線を落とした。メッセージには続きがあった。
『食器は御自由に。迷惑だったら捨ててくれ』
 リンは有難く、食器も食事も、どちらも頂くことにした。きちんと手を合わせて「いただきます」とここにはいないゴーストを拝む。
 ぱか、と蓋を開けると、スライスされたバケットにサラダ、こまごまとしたおかずが敷き詰められている。
「選り取り見取りだな」
「確かに。人気メニューの一口詰め合わせセットみたいな」
「あぁ、そんな感じだ。で、何があったんだ」
「いやね、もうほとんど解決したので、まあ大したことではないんですけど」
 リンは器用にサラダをフォークでまとめ、ひょいぱくと口の中に放り込んだ。シャキシャキとした食感が瑞々しい。しかし備え付けのドレッシングってこんな味だったかしら、とリンはちょっとだけ眉根を寄せた。
「年末までいろんなところに顔出してたでしょ。そしたらスタッフさんのうちのひとりがしつこくなっちゃって」
「ほう、お前も隅に置けないな」
「そいつが地雷の上でタップダンスするもんだから参っちゃって」
「それは……御愁傷さまだと言っておこう」
 クルーウェルがサンドイッチを一口で半分ほど齧り取る。このひとも食べるんだな、とリンは埒外に失礼なことを思った。
「まぁミスターは御存じだと思うんですけど、そういうのって迷惑以外の何物でもないじゃないですか」
「よく分かるとも」
「なんで、そいつの直属の上司に注意してもらって、学園長にも出張ってもらって、最近ようやく落ち着いたんですって」
「伝聞系か?」
「避けてるので知らないんですよ」
 リンはミニハンバーグを細かくして、バケットと交互に食べた。不思議な味がして、はてと思わず首を傾げる。
……どうした?」
「いや……食堂の味付けって、こんな感じだったかなって……
…………そもそもあまり利用していなかっただろう」
「まあね」
 一口分のスパゲティをフォークに絡めたリンが、あ、と口を開けて少しだけ首を前に出す。特に気にすることもなく、クルーウェルもサンドイッチについてきたコーヒーで口の中を潤した。


 ご、がしゃん、


「───、は?」
 その音を誰かが何かを落としたか、と捉えたクルーウェルは、視線を落として、目を剥いた。からんからん、とフォークが床に落ちて、スパゲティが散らばった。
「、ぁ、っ……
 かひゅ、と苦しそうな呼吸と共に、デスクに立てられた爪が細かく震える。数秒の自失をクルーウェルが自覚したのは、突如机に突っ伏したリンを無理やり抱き起してからだった。
「っ、な、に、」
「喋るな」
 クルーウェルはまずリンの様子を確認した。苦しそうな呼吸、抗おうとしてなのか細かく震える手、浮き出る血管、ぐらぐらと揺れる体。おそらくひどい眩暈が彼女を襲っている。

 ───毒か?

 味がおかしい、とリンは言っていた。味覚に支障をきたす突発的な病気などもあったはずだが、リンは昨日から変わらず健康な様子だった。
 毒ならば吐き出させなければならない。だが、毒物の中には食道や胃に火傷を負わせるものもある。そういうものは吐き出させない方がいい。喉を再び焼いて炎症を悪化させるからだ。
 クルーウェルはリンの食べていたランチボックスの匂いを嗅いだ。特に不審な点は無い。

 ───食器か

 クルーウェルは指示棒を揮った。魔法石がきらりと光る。魔法をかけられたフォークはふわりと浮いた。
 続けざまに指示棒が振るわれる。それまでコーヒーだったものが水に変質し、宙に飛び出してフォークの周囲をぐるりと囲み、水球を形取った。
 これは特殊な水で、所謂聖水に類するものだった。モンスター退治には何の役にも立たないが、穢れを祓うだとか、そういう気持ちを整える程度のために用いられるものだ。
 ただ、この水の大きな特徴に、魔法薬に反応するとすぐに色が濁るというものがある。ただの毒なのか、それとも魔法薬なのか判断するため、こういう時に使われることも多い。

 ───今回は、魔法薬の方か

 水球の中にぷかりと浮くフォークがみるみるうちに変色し、やがて水球そのものを濁らせていく。クルーウェルは舌を打った。これは心肺蘇生や嘔吐でどうにかなるような代物ではない。
 だが、ここには魔法薬を扱う錬金術においてのプロがいる。
「まったく、運がいいのか悪いのか」
 リンはとうとうぐったりとして、ただ苦しそうな息をぜぇぜぇと続けるだけになっていた。
「リン、聞こえるか、リン、」
 ぐ、とリンの眉間に皺が寄る。クルーウェルは「寝ていろ」と短く言った。
「眠れ。目が覚める頃には、楽になっている」
 きらりとクルーウェルの魔法石が光を放つ。瞬きひとつで、リンは意識を失った。肢体からすべての力が失われ、クルーウェルの腕にかかる重さが増える。
 苦しそうだった表情は幾分かやわらいで、呼吸もどこか落ち着いた。

 ───しばらくはこのままだろう

 クルーウェルは、肺が空になる程、息を吐いた。
 フォークを口に入れてからリンが倒れるまで、大した時間がかかっていない。つまり、今回の魔法薬は即効性だったということになる。
 だが、人体に害をなす魔法薬で即効性のあるものは、ほとんどが即座に命そのものを刈り取ってしまうものだ。リンのように、酷い眩暈のような症状が長く続き、なかなか意識を失えず苦しむのは珍しい。勿論、苦しませるための魔法薬が無いではないが、調合に恐ろしいほどの手間暇と材料が必要になる。それこそクルーウェルやサムのように特殊な職に就いていて、独自の人脈を持っていなければ、材料を揃えるところから難儀するのだ。

 ───おそらく、珍しい部類の魔法薬か、それとも精製に失敗したのか

 どちらにせよ、対処のしようはあった。長引けば危ういが、リンの命が急に脅かされるわけでもない。
……
 クルーウェルは少しだけ思案すると、水球に魔法をかけた。直後、まるで最初からそこに何も無かったかのように、するりと宙に溶けて水が消える。
 残されたフォークは随分と穢れて汚らしかった。それをてきとうな紙で包み、懐に入れる。
 トレードマークでもあるコートでリンをくるんで一息に横抱きにし、クルーウェルは保健室へと移動することにした。





 授業開始の鐘が鳴る。机に脚を乗せ、椅子と後ろの座席にもたれ、てきとうに開いた本を顔に被せて寝ていたレオナは耳をぴくりとそよがせた。
 時間ぴったりに教室の扉を開けて入ってきた足音は、いつものクルーウェルの足音ではない。どころか、いつまで経ってもあの教師の足音が近付く気配が無い。
 何事だと本をちらりと押し上げた直後、レオナの耳に「今日自習だってよ!」という生徒の声が飛び込んできた。途端に歓声が湧き、椅子と机がガタガタ音を立てた。レオナの舌打ちは音の波に消えて行った。
「どうせ後で来るんだろ?」
「いや、来ねえみてえ」
「課題は?」
「一応ある、次の単元の予習レポ」
 連絡役と他の生徒の会話は、教室を後にする大半の生徒の足音に紛れて響いた。
 クルーウェルにしては珍しく、手隙だらけの課題だった。監督役もいないのに錬金術の実験を強いるわけにもいかなかったのだろう。
「明日は雨か」
「嵐だろ」
「槍でも降ってくるんじゃね」
 教室でだべることにしたらしい生徒の会話を聞き流しながら、レオナものっそりと教室を後にした。ぎゃんぎゃん喧しいラギーに辟易として顔を出したが、あのままてきとうに言いくるめて昼寝をしていれば良かった。
 教室からなら、植物園に戻るより保健室に行く方が近い。レオナはくあ、と欠伸をしながらサンダルをぺたぺた鳴らした。
 授業中の廊下はいっそ異質なほど静まり返っている。石造りの床や壁に響くのは自分の足音のみで、規則的なそれが一層の眠気を誘う。
 もう少しで保健室、というところで、レオナの耳が反応した。自分以外の足音がいやに忙しなくばたばたと移動している。どうやらそれは複数人分あるようだった。
 静寂を邪魔された不快感がじんわりと広がっていく。レオナは寝ぼけ眼を眇めて耳を澄まし、すん、と辺りの匂いを嗅いだ。
 保健室特有のアルコールの匂いの他に、鼻がひん曲がるような、魔法薬独特の匂いが微かに漂っている。
……?」

 ───誰か大怪我でもしたのか?

 レオナは音もなくするりと移動した。サンダルは主人の意向に沿って、すっかり静かになった。
「だめだ、飲みません」
「眠っているだけなんですよね?」
 聞き覚えの無い声は、緊張や不安を孕んでいて、随分硬かった。かつ、と聞き覚えのある足音が響く。レオナは咄嗟に、扉の影に身を隠した。

 ───……何故クルーウェルがここに?

 授業を突然自習にしたのはこれが理由なのだろうか。ともかく見つかると面倒なことになるのは明白だった。このまま隠れてやり過ごし、居なくなったらベッドを間借りすればいい。
 そう思案を巡らせるレオナを他所に、「少し魔法を強くかけすぎたかもしれん」淡々と教師の声が響く。

 ───あいつが? 魔法を? ……生徒以外に?

 レオナはそっと身を乗り出した。クルーウェルはこちらに背を向けており、ベッドを挟んで向かいに立っている大人たちは険しい表情でベッドを見つめていた。
「貸せ、俺がやる」
 クルーウェルが横たわっている人物を抱き起す。その人物の顔を見て、レオナは目を見開いた。

 ───リン?

 ぐったりとして意識を失っているのは、リンだった。どうせ生徒の誰かが問題を起こしたんだろうと勝手に決めつけていたレオナは、予想外の人物に絶句した。

 ───何故。何が。

 心臓が嫌な音を立てる。レオナは意識して呼吸を一定に保った。
 だが、それも長くはもたなかった。
 クルーウェルがガラスの小瓶の蓋を口で外し、吐き捨てる。中身を一息に煽ったクルーウェルは、中身の空になった小瓶を預けると、そっとリンの頬に手を添えた。珍しく剥き出しになっている節くれだった男の指が小さな薄い唇を割開く。

「───」

 くち、という音が、聞こえたような、気がした。

「飲め。いい子だ」
 聞いたことのない、甘やかな声音でクルーウェルが囁く。鼻を摘ままれたリンは、苦しそうに眉間に皺を寄せたが、やがてその喉が嚥下したのを見ると、クルーウェルは再び新しい小瓶を煽った。そしてもう一度、リンに口で移して含ませる。
 レオナは努めてゆっくりとその光景から視線を外した。体ごと彼らに背を向けて、できるだけ静かに息を吐く。馬鹿か、と頭の奥で怒鳴り声がした。

 ───ティーンでもねえのに、なにを狼狽えてやがる

 狼狽えている。俺が? 何故? 医療行為らしい、クルーウェルとリンの、口づけを見て?

…………

 なんにせよ、クルーウェルがいるならここから離れなくてはならない。あれがついているならリンとて無事に済むだろう。病人のいる空間でベッドを借りて昼寝をするのは些か気分が悪い。今すぐここを離れて植物園か自室にでも行くべきだ。

 ───行くべきだと、思うのに。

 クソ、と内心で吐き捨てる。
 彼の足は、そこに根が生えたかのように、その場所からちっとも動こうとしなかった。

 ───うるせぇ心臓を黙らせて、動かねえ足から力を抜いて、音を立てずに、

 怒鳴る自分が不意にふつりと消え失せる。レオナは反射的に、腰を落として構えていた。

 考えるより先に、肌で感じた体が動く。

 覚えのある感触だ。かつて居場所の無かった王宮で、兄弟共々どこかの阿呆に襲われたときと似ている。肌の下を幾万の虫が蠢くような気持ち悪さが背筋を這い上がる。
 身は竦まない。逃げも打たない。立ち向かうため、跳ね除けるために四肢が動く。
 見開いた目が仕入れる情報が新鮮に感じて、レオナは驚いた。

 そこには男が立っていた。濁った色の、虚ろな目。魔法石を掲げる構えは不格好で、酷く醜い。

 瞬間、恐怖も嫌悪も不快も焦燥も、悉くが霧散した。

 魔法石が光る。魔法が形になる様を、レオナはまざまざと捉えた。

 身体が自然に動く。魔力が巡る。そこに意志は無く、ただ気息と四肢の動きが合致した。


 咆哮が轟く。
 魔法が「現象」として成立した瞬間から、砂となって崩れてゆく。
 手応えが掌から這い上がる。
 くぐもった呻き声が微かに響いた。
「キングスカラー?」
 レオナは、は、と息を呑んだ。反射的に顔を上げ、声のした方を見やる。
……そこで何をしている」
「───」
 クルーウェルが訝し気にこちらを注視していた。その瞳に、男の腕を背中に捻り上げて床に押さえつけているレオナが映っている。
…………お前こそ」
 言って、レオナは唇を引き結んだ。口の中がカラカラに乾いている。気付かれないように一度強く瞑目し、レオナは大きく息を吸った。落ち着いて現状を把握するのに、レオナにとってはそれだけで十分だった。
「気持ち悪ィ魔法をお前達に向けて使おうとしてた。なんだこいつは」
……さてな。残念なことに、俺も詳しくは知らん」
……
 クルーウェルは嘘を言っているようには見えなかったし、何かを隠しているわけでも無さそうだった。言っていることはおそらく本当だ。
……そうかよ」
 吐き捨てたレオナに、今度はクルーウェルが問いかけた。
「で、お前は何をしている。自習を課したはずだが?」
 レオナは「ハッ」と鼻で短く笑うにとどまった。それだけで粗方を悟ったクルーウェルがやれやれと言わんばかりにわざとらしく目を回して嘆息する。
「大人しく待てもできんのか」
「待ってやってるじゃねえか」
 クルーウェルは器用に片眉を跳ねさせた。レオナは緩く小首を傾げる。何を感じ取ったのか、押さえつけられた男は尚も暴れようとしたが、その一切が無駄だった。
「そうだな。……地下牢にでも放り込んでおけ」
「へえ?」
「そこを出てすぐの階段から行ける」
 そんなものがこの城にあるなど、レオナは知らなかった。城故にあるのだろうが、あくまでも学び舎であるというのに、全く予想外である。
「ワケぐらい聞かせてくれるんだろうな」
「どうせソレがいくらでも喋るだろう」
「俺はアンタに聞いてんだぜ」
…………
 クルーウェルの目が、すっと細められる。しかしレオナは負けじとその眼光を真っ向から受け止めて睨み返した。
 やがて先に口を開いたのはクルーウェルだった。
「───イオラムエイル」
「、」
 レオナの柳眉がぴくりとそよぐ。
「これに使われた薬の名だ。以上。行け」
……
 言い終わるや否や、クルーウェルは解毒薬らしい小瓶をさらに煽って、すぐにリンに口付けた。
「やめろ!!! やめろ!!! やめろ!!!!」
 凄まじい勢いで男が暴れ出す。カッと目を見開き、口角泡を飛ばして、男は拘束から逃れようともがいた。
 直後、ほんの半瞬、絶対的な枷のようだった重しが消えて、男は「へ、」と間抜けな声を上げた。反動で体が浮き上がる───瞬間。


 ばきゃ、


 容赦の無いレオナの右ストレートが男の顔を吹き飛ばした。どしゃりと気持ちの悪い音を立てて、男は意識を失った。