桜霞
2022-06-13 13:47:51
57493文字
Public 【twst夢】フライパンは無敵
 

【フライパンは無敵】③監督生はおれが守る(フライパンで素振りしながら)

#twst #twst夢 #not監督生 #女監督生 #オリ女主
2020/04/27にpixivに投稿したものの再掲です。







 契約満了まで、あと三日。
 
 ユウから改めて対価の話を聞いたリンは、早速自分でもその『アトランティカ記念博物館』を調べることにした。そこに飾ってあるリエーレ王子の来館記念写真を明後日の日没までに回収しなければならない。
 
 ───それは立派な窃盗なのでは?
 ───でも、盗られてもどうせ気付かれないって……妙に、なんか……それがさも当たり前のような感じで言ってて。
 
 あの言い方は地元感ありましたね、とユウは言っていた。
 ユウは、「邪魔される可能性も考えて、今日はちょっと下見のつもりで行ってきます」とジャックと共にエースやデュースを引き連れて早々に珊瑚の海へ向かった。
 休憩の合間に図書館を使って調べたところ、そこそこ大きい記念博物館は過去の偉人が収集したコレクションを主に展示しているらしく、一際リンの目を引いたのはトリトン王の銅像だった。
「人魚じゃん」
 
 ───人魚である。
 
 獣人がいるなら人魚もいるのかこの世界。人に角を生やすだけでは飽き足らず、足までも尾ひれに変えてしまったのか。
「このままだと妖精とか出てきそうだな……
 もう何が出てきても驚かんとこ、とリンは本を元の場所に戻した。図書館から学園までの道をてくてく戻っていると、ちょうど昼休みが始まることを報せる鐘の音が鳴ったので、そのまま食堂に移動する。
 大食堂は生徒でごった返していた。時折ぽつんとスタッフパスをぶら下げている事務員も居るので、リンはちょっとだけほっとした。
 ナイトレイブンカレッジの大食堂は、バイキング形式のため、食事内容も豪華だ。そこまで多くを食べないリンにとってはコスパが悪いのだが、今日は仕方がない。リンはサラダとパン、そしてグリルチキンを獲得し紅茶を淹れると、そそくさと隅の方へ移動し、はぁやれやれと腰掛けた。
「おひとりですか?」
「隣座んね〜」
………………
 リンは大きく息を吸い込んで瞑目した。
 
 ───びっ……くりした…………
 
 心臓に悪い。本当に心臓に悪い。ぬうっと気配も無く左右に現れたのはオクタヴィネルのリーチ兄弟だった。
……こんにちは」
「こんちゃ!」
「こんにちは」
 フロイドがにぱっと、ジェイドが丁寧に挨拶を返す。個性だなぁとリンは埒外な事を思った。現実から逃れられた訳では無かったが。
「新人ちゃん、サバナクローに転がり込んだんだって? だいじょーぶ? 俺しんぱーい」
「昨晩はきちんとお休みになれましたか? もし宜しければ、貴方だけでも我々のゲストルームにお迎えしたいのですが」
「えぇ〜、でもお高いんでしょ?」
 リンはわざとらしくしなを作った。ジェイドは笑みを崩さず穏やかに言った。
「貴方の身の上は存じています。代金などは頂きませんよ」
「それなら、これまでお互い支え合ってきたユウとグリムも私の部屋に泊めてあげようかな〜」
……
……
 食事をしながら言うリンに、双子は笑顔のまま沈黙した。その瞳からすう、とそれまで多少残っていた優しい光が消え失せる。
 仮面が剥がれるのが早ァい、とリンはパンを口の中に押し込んでうっかり笑いそうになるのを堪えた。
「つーかさァ、新人ちゃん、よくあんなとこ住めんね」
 フォークを長い指でくるくると弄びながら、フロイドが平坦な声を出す。
「あんなとこって?オンボロ寮?あれでも大分住みやすくなったのよ」
「えぇ? マジぃ?」
「ですが、あれ以上住み良くするのは難しいのでは?」
 ジェイドがにっこりと笑う。確かにね、とリンは頷いた。
 とにかくオンボロ寮はセキュリティ面で不安が残るのだ。ゴースト達が居るとはいえ、心もとないことこの上無い。彼等はリン達の守護霊では無い。
「ユウさん達がオンボロ寮を取り戻すことができたとしても、あそこに住み続けるのは苦痛でしょう」
「だからァ、オレ達んとこ来ていーよ、新人ちゃん」
「ゲストルームの方は、アズールの指示でいつでも利用して頂けるよう、用意が整っていますので」
「ちょーっとお店の方手伝ってもらうかもしんないけどさァ。ぜってぇ今より良くなると思うんだよね」
 瞬間、リンは馬車馬の如く働かされて仕事のイロハを叩き込まれた後二号店の店長だか副店長だか微妙な立ち位置に置かれて永続的に扱き使われる未来を視た。どこぞの千里眼レベルの未来視かと勘違いできるほど分かりやすい予知だった。フロイドが絶対良くなると言ったのは、間違いなく店の方についてであろう。リンなどボロ雑巾レベルで据え置きが関の山だ。
 開眼……しちまったか……と遊んでいる暇は無い。というか千里眼スキルなど欲しくもない。リンがてきとうに双子をいなそうと口を開いたその瞬間、
 
 ダン!!
 
 ───凄まじい音と共にテーブルに拳が叩きつけられ、食器が一様に飛び跳ねた。一瞬、広い食堂が静まり返り、そしてすぐに元のざわめきを取り戻す。
 リンは思わず口を開けたまま固まった。何せその拳が叩きつけられたのはリンとフロイドの中央を割入っていたからである。至近距離で爆発(違う)があったのだ、驚かずにいられいでか。
……ア?」
 フロイドの眼光がぎゅう、と引き絞られた。だが、リンはそれどころではなかった。
 肉食獣のおそろしい唸りがこれでもかと耳朶に叩きつけられる。
……レオナ・キングスカラー……
 ジェイドが呟くようにして言った。机を鳴らした拳の主は、レオナその人だったのだ。
 リンは開けていた口を閉じた。意識して呼吸をし、突然のことに驚いてどこかに行った思考回路をどうにか引きずり戻す。
「何用でしょう。話の邪魔をしないで頂きたいのですが」
「新人ちゃんが見えねンだよ、どけろ」
 ジェイドとフロイドが静かに牙を剥く。しかしレオナは動じなかった。
「───こいつを、今、預かってんのは、俺だ」
 ジェイドとリンの間にぱたりとレオナの尾が横たわる。踏めるものなら踏んでみろという分かりやすい挑発であった。
「俺の預かりモンに、俺の目の前で手を出そうとするたァ、いい度胸じゃねぇか」
 なぁ?とレオナが口端を吊り上げる。聞こえる者には聞こえる声だ。いくつかこちらに向けられた視線を感じ、リンはそっと周囲を見回した。ちらりと視線を走らせただけでも、サバナクローの腕章がちらちらと多方で見かけられる。端的に言えば、囲まれていた。
 いつもこの程度の人数が大食堂にいるのか、それとも今日たまたまなのか、食堂を普段利用しないリンには分からなかった。
……
……
 ジェイドとフロイドは忌々しそうにレオナを睨めつけた。泰然とした態度で、レオナはそれを受け止める。王族というのは伊達ではない。
 いつまで続くか、それともこの一触即発の空気に火がついて喧嘩が始まるのか、リンはどうしたものかと珍しく手を打ちあぐねた。何を言っても下策な気がする。
 そんな膠着状態に割って入ったのは、なんとラギー・ブッチだった。
「おふたりさん、こんな所で睨めっこしてていーんスか?」
「───ア?」
 フロイドの敵意がそのままラギーに叩きつけられる。ラギーは「おー怖、」などと宣って、飄々とおどけて見せた。
「そんな睨まないでくださいよお。オレ、もうすぐ授業ですよーって親切で教えに来てやっただけなのに」
「っせぇんだよ、失せろ。絞めるぞコルァ」
 大抵の生徒ならスミマセンッ!! と叫びながら逃げ出してしまうほどの脅迫も、ラギーは上手く受け流した。
「ところでリンさん、さっき監督生たちが鏡の間に向かってたっスよ。もうすぐ授業始まんのに、どこに行ったのかは知らねーっスけど。連絡手段持ってんなら、呼び戻してあげた方がいいんじゃねぇっスか?」

 がらりと空気が一変した。

 ジェイドとフロイドは素早くアイコンタクトを取った。ラギーの意図を察したリンが目に険を宿らせ、じろりとラギーを射抜く。
……あれもガキじゃねえんだ。お迎えなんざ要らねえだろうよ」
「えっリンさん、もしかしてそっちが素なんスか? 超コエー!」
 ラギーが眉を下げてからからと笑う。
 
 ───こンの生意気なクソガキ、どう処してやろうか。
 
 リンは急激に自分の奥底が冷めていくのを感じた。温度や色を失って、あとには闇だけが残る。
 何にも動じず、何にも染められず、何をしても痛まない闇だ。リンはグリルチキンのために指で持っていたナイフを力いっぱい握り直した。
 
 ───手が滑ってはいけない。
 
「、」
 何かを感じとったのか、ラギーの頬がひくりと引き攣る。
「ジェイドぉ、そろそろ行こうぜ」
「えぇ、フロイド。どうやらお邪魔のようですし、仕事はきちんとしなければアズールに叱られてしまいますからね」
「ハー、めんどくせっ」
 フロイドが長い足で反動ををつけて立ち上がる。ジェイドは滑らかな動きでリンに「それでは」と会釈すると、フロイドと連れ立ってさっさと大食堂を後にした。
 それまでずっとテーブルに拳を置いていたレオナがゆらりと身を起こす。
……
……めんどくせぇのに絡まれてんじゃねえよ」
「助けてなんて言った覚えはないわよ」
 リンはレオナを顧みることもしなかった。
「礼のひとつもしようかしらとは思っていたけどね」
「おっ、マジっスか?」
「調子乗ってんじゃねぇぞ、クソガキ」
 リンがぴしゃりと期待を叩き折る。煮え滾るような怒気に、ラギーの耳が反射的にピンと立った。
……あの双子を追い払うために、ユウ達を出汁に使いやがって」
 これはうっかり下手を踏んでしまったかもしれない。ラギーは意識して、どうにか笑顔を貼り付けた。
「でもオレは、監督生が授業出なくていいのかなーって思っただけっスから……
……
 リンの発する重圧は緩まなかった。ラギーはとうとう耳を垂らしてうぅ、と呻いた。
……そんな怒んないでくださいよ、これでも超頑張ったんスよ!! レオナさんが勝手に突っ込んでくから!! 双子とは関わりたくねえのにさぁ!!」
「あ? 俺のせいだと?」
「絡まれるリンさんが悪いんスよ!!」
 ラギーはあっさり掌をひっくり返した。見事な掌クルーである。
「なんだってこんなとこで昼飯食ってんスか!!」
 理不尽なことをキャンキャン喚くラギーに、リンはどうにもやり切れなくて心底から溜息をついた。そもそも、とレオナが腕を組む。
「なんで目をつけられてんだ、お前」
「知らねえよ。面倒な……
 リンは衝動のままに舌を打った。せいぜいオンボロ寮についてくるかどうか分からないおまけ程度の認識かと思いきや、どうやらそうでも無いらしい。分かっていたらもう少し上手く立ち回ったのに、とリンは苛立ちを落ち着けるために意識して深い呼吸を繰り返した。
「ま、せいぜい気をつけるこったな」
「次は助けてやんねぇっスから!!」
「次なんざねぇよ」
 レオナがひらりと身を翻す。それを追いながら親指を下に突きつけてきたラギーに、リンは躊躇い無く中指を立てて見せた。
 
 
 
 
 
 その日の夜、ユウがジャックやグリムと共にサバナクロー寮へ戻ると、寮内には随分といい匂いが立ち込めていた。
「なんだろ、この匂い……
「ソースか? 美味そうだな」
 二人は揃って鼻をひくつかせ、談話室を覗き込んだ。そして「うわっ」と声を上げ、同じように瞠目する。
「リンさん、もう一枚!!」
「俺、味変!!」
「おい、ソース寄越せよ」
「鰹節足んねぇぞ!!」
「はい、キャベツ一丁上がり!!」
 どん、とラギーが網ボウルいっぱいに盛った微塵切りキャベツをテーブルに置く。明日の昼食に今晩のおかずを詰めてくれる約束で、リンに協力しているのだ。
 キャベツが盛られたボウルに小麦粉がざっと投入され、続いて卵が三つ割られた。薄い黄金色の液体がざっと適量加えられ、ぱらぱらと赤い小魚のようなものが散る。
 お玉で手早く中身を掻き混ぜながら、リンはすたすたと談話室の中央、どデカい鉄板が置かれている所まで移動した。
 リンが掻き混ぜたタネを熱されたフライパンに乗せる瞬間だけ、何故かその周囲が静かになり、固唾を飲んで一連の流れを見守っている。
 
 なんだこの面白い状況。
 
 ユウ達はそろりと談話室に足を踏み入れた。
 リンが薄くスライスしたバラ肉を慣れた仕草で鉄板にまあるく広げたタネの上に乗せていく。一枚だけ、肉を乗せる前にチーズがぱらっと振りかけられた。
「ウワそんなん絶対美味い」
「寄越せ」
「は? ざけんな」
 カン、とリンがフライ返しの頭で机を鳴らした。掴み合いに発展するより前に、寮生達が口を噤む。
 リンは焼き加減を確認した後、巧みな手さばきで次々とそれをひっくり返していく。肉の焼けるいい匂いと音があっという間に空間を支配した。
 ここまで来れば、さしものユウでも心当たりを外さない。
「お好み焼きだ……!」
「おこのみやき」
 ホットケーキの亜種か?と首を捻っていたジャックがオウム返しに繰り返す。ユウはにっこり笑顔になって、「ただいまリンさぁん!!」と上機嫌でリンに飛び付いた。
「あぁ、おかえり。ユウ達の分、向こうに焼いて置いてあるよ」
「わーい!! いっただっきまーす!! 腹ぺこ!!」
 こっちこっち、とラギーが手招きする方に、ユウ達は揃って移動した。ラギーの傍らにはレオナもいて、彼はお好み焼きをくるりとまるめて端の方からかぶりついていた。
「はいこれ、取っておいてやった分っス。飲み物はこっちにあるんで、セルフでどーぞ」
「え、ありがとうございます! わざわざすみません」
「お前らが親切だなんて、気味が悪いんだゾ」
「こらっ!!」
「ふなっ!!」
 驚いたグリムがころんと転がった。すみませんと頭を下げるユウに、ラギーは「いやいや、今回は気にしなくていーっスから」とひらひら手を振った。
 
 ───これ、ユウとグリムとジャックの分だから。
 
 焼きたてほやほやのそれらを三枚の皿に分けて、リンはラギーとレオナの前でただそれだけを言い置いた。レオナは何も言わずに尻尾を揺らし、ラギーは昼休みのことが一瞬脳裏に過ぎったので「うィッス」としか言えなかった。
 そんなことを知る由もないユウ達は、ラギーの様子に弱冠首を傾げながらも、リンお手製のお好み焼きを味わった。
「それにしても、大騒ぎですね」
「ほんとはオレら、大食堂で晩飯食ったんスけど、帰ってきたらリンさんが美味そーなもん焼いてっから」
 文字通り食べ盛りの、しかもガタイのいい学生ばかりが集まるサバナクローである。食べても食べても食べ足りない。
 たかりにたかって、ねだりにねだって、結果、こんなお祭り騒ぎになってしまった。
 
 ───材料費は、自己負担なんだろ? 作ってやるから、買ってこい!!
 
 威勢のいい姐さん宜しく、リンは寮生達を叩き出して買い物に行かせた。食い物が無償提供されるとあれば、食材費くらい安いものである。厨房から余った肉やキャベツを貰い受け、廃棄予定のソースなどをサムの店で買い叩き等々、サバナクロー寮生達は珍しく見事な連携を披露した。
「はー、ブラックホールを見たわ。もう笑うしかない」
 材料が切れたので、リンはやれやれとユウの傍に腰を下ろした。リンさんちの今日のご飯はこれにて終了である。
「リンさん、洗いもんは?」
 遠くから飛んできた言葉に、リンは声を張り上げた。
「やってくれたら明日もなんか作っちゃる」
「肉!!」
「肉奢ってリンさん!!」
 リンは声色を変えた。
「材料費はー?」
「自己負担!!!!」
「はいよろしくー」
 野太い声が合唱する。リンはひらりと手を振って、「はぁ疲れた」とユウに凭れた。
「お疲れ様です、リンさん」
「お疲れ様です。ユウさんは今日、大丈夫だった? 珊瑚の海に行ったんだろ」
「はい、いろいろ見て来ました!」
 魔法薬が激マズだったこと、珊瑚の海はとても色鮮やかで綺麗だったこと、何故か制服が濡れなかったこと、記念博物館は広大だったけれどどこか地方の中規模博物館という感じがしたことなどを楽しそうに語っていたユウは、不意にはっと目を見開いた。
「アッ!! リンさん!! 邪魔しに来たリーチ兄弟ヤバかったです!!」
「えっなに」
「いつどうやって邪魔しに来るんだろうな〜って思ってたら、ウツボ!! ウツボの人魚だったんですよリンさん!! あっあとマジモンの人魚見て来ました」
……エッ?」
 話を噛み砕けないリンに、「リーチ兄弟が実はウツボの人魚で、博物館に行こうとした俺達を邪魔しに来たんス」とジャックが言い添えた。
「えっなにそれ、マジモンのギャングじゃん。海のギャングじゃんウツボ・リーチ。オクタヴィネルはポートマフィアだった……?」
「確かにそれっぽい格好してましたね」
「もう銛で目の横あたりをぶっ刺すしかない」
「それはガチのウツボの獲り方ですリンさん」
「素揚げが美味しいらしいな」
「とったどー!ってやつですね。違いますよリンさん、相手は人魚なんです、人魚」
 人魚かぁ、とリンはウツボ兄弟の人間ではない姿を思い浮かべようとしているらしかった。「すげぇデカかったっス」とジャックが嫌そうな顔をしながら零した言葉に、そう言えば以前、身長を訊ねた時に「この姿の時は」とかいう変な枕詞が付いていたことをリンは思い出した。
 あれはつまり、人魚のときはもっとデカくなりますということだったらしい。分からんわそんなん、とリンは目を据わらせた。
「それで、リンさん。実際行ってみて、そして邪魔されてみて思ったんですけど」
「うん?」
 いつの間にかお好み焼きをぺろりと平らげたユウが、改めてリンに向き直る。
「たぶん、チキチキ☆タイムアタックどころの話じゃなくなってくると思うんですよね」
「なにて?」
「人魚に水の中で勝てるわけないんですよ。陽動作戦も、使える魔法が制限されてるとちょっと厳しくて。日没までに兄弟に邪魔されながら行って帰って来るのは、ちょっと厳しいかなって」
 それと、とユウは言葉を続けた。
「契約は契約なんですけど、なんだかんだ詐欺られて取り立てられるのがオチな気がしてきたんですよね」
「お、おう……
「なんで、ここはひとつ、徳政令、じゃなかった打ち壊し、米騒動ならぬ契約書騒動を起こそうかと」
「オッ……!?」
 ユウの言葉に、さては日本史選択だな、とリンはユウをまじまじと見やった。
「なんだ、そのトクセーレーっつうのは」
「コメソードーってのも聞いた事ねぇっスねえ」
 レオナとラギーが口を挟む。ユウはお願いします、とリンに向かって頭を下げた。
「あぇ? 私? えぇ、うーん……はっちゃめちゃに簡単な説明をすると、徳政令は、お上……政府が金貸しに『今の経済最悪だから借金帳消しな、踏み倒し一定期間合法にする』って言うお触れで、」
「最悪だな」
「最高じゃねぇっスか!」
 ほとんど同時に正反対の感想が飛び出てきて、リンは一拍、言葉を失った。
……米騒動とか打ち壊しっつーのは、自分たちだけが儲けたいからっつって高値で売るために買い占めしまくってる問屋とかへ『ふざけんなテメーーッ!!』つって皆で押し入り強盗すること」
「すんげぇ分かりやすい説明っスわ」
「つまり、ユウはアズールが持ってる契約書を無効にしたい、ってことか」
 でも、それって反則みてえだな、とジャックが居心地悪そうに頭を掻いた。
「あのねえ、ジャックくん。意識高いのも結構っスけど、陸でも勝てない相手にどーやって正攻法で立ち向かうんスか」
「うぐ、」
 ラギーの呆れたような態度に、ジャックは体を強張らせた。レオナも嘆息する。
「そもそも、相手は何も知らねえ草食動物をあの手この手で身包み剥がそうとしてる悪党だぞ。遠慮してやる必要があるか?」
 リンもうんうんと腕を組んで頷いた。
「目には目を、歯には歯を、詐欺師には詐欺師を、卑怯には卑怯を、勝てば官軍。歴史が証明してますね」
「そういうこと。でも……
 リンの言葉に我が意を得たりとユウは胸を張ったが、すぐにしょもんと眉を下げて肩を丸めた。
「前に、モストロ・ラウンジで、この契約書は無敵ー、何をやっても破れないーってアズール先輩が言ってて。しかも実際その通りに、魔法攻撃でも破れなかったんですよね」
 ユウの話を聞いて何かにぴんと来たらしいリンが、ぱちんと指を鳴らした。
「包丁かなんかに『破戒すべきすべての符 ルールブレイカー』って名付けようぜ」
「赤い金属バットの斬鉄剣みたいな民俗学的概念付与された武器はフライパンの円卓だけで十分です」
「えぇ……
 今度はリンがしょもんと眉を下げて肩を丸める番だった。
「第一、契約書はどこに保管されてるのか分からないし…………VIPルームの金庫がいかにも感ありましたけど……
「鍵開けの魔法とか無いの? アロホモラとか」
「それはマジカルペンじゃなくて魔法の杖の方ですね」
「そもそも、なんで無敵なんだ? ただの紙切れだろ」
 首を捻るジャックに、「あれ、知らなかったんスか」とラギーは意外そうに目を丸くした。
……あれは『黄金の契約書 It's a Deal』という名の、アズールのユニーク魔法だ」
 ラギーは更に目を見開いた。まさかレオナが言葉を引き継ぐとは思ってもみなかったからだ。
「契約を結べば、相手から能力をひとつ奪うことができ、その契約を守ることができなければアズールに絶対服従するしかなくなるとかいう魔法らしいな。俺は能力を担保に取引したことが無いから理屈は分からねぇが……
 この中で唯一アズールに能力を奪われているグリムに視線が集まる。グリムは満腹になったのか、疲労がピークに達したのか、うつらうつらと船を漕いでいた。
 道理で静かなわけだ、とユウは半眼になった。
……ま、相手は詐欺師だから、その無敵っつーのもハッタリくさいな……
 リンがぼやく。ユウは確かに、と腕を組んだ。
「ううん……でも弱点が分からない…………なにかご存知でないですか?」
「さてな」
 レオナはラギーに自分の分の皿を押し付けて立ち上がった。
「俺は知らねえ。後は勝手にやってろ」
 くぁ、と欠伸をし、レオナはさっさと踵を返した。ゆらりゆらりと尻尾が揺れて、奥の方へ消えていく。
「もー、後片付けくらい、自分でやってほしいっスわ」
 ラギーはぶつくさ文句を言いながらキッチンに立った。これ以上何かを教えてもらうことは無理そうだと察したユウが心做しか肩を落とす。
「明日、アズール先輩にぴったり張り付いて隙を伺うしかねえな」
「もはやストーカー状態……
「はは、がんばれ! 情報収集は大事だぞう!」
「はあい……
 ユウはしおしおとなりながら返事をしたが、いざ食後の後片付けとなるとすぐに雰囲気を一変させ、グリムを叩き起こしてキッチンに立った。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 
 
 契約満了まで、残り二日。
 
 サバナクロー寮では焼きそば祭りが開かれていた。昨日と味が変わらないと文句を垂れた生徒は、リンの用意した塩焼きそばを前に他の生徒からプロレス技をキメられていた。
「ああああ食いたい……リンさん許してリンさん……!!」
「宜しい」
「えーっ、もうちょっと食えるところ減ってからにしようぜ」
「お前の食べる分が無くなるぞ」
 ぱっとプロレス技から解放された生徒がどてっと床に倒れ伏す。
「感謝しろよテメー」
 あざーっス!! とくぐもった声が響く。リンは肩を震わせて笑った。サバナクロー寮生は総じてノリが良かった。
「ところでリンさん、あれだろ? 明日の日没後にはここから叩き出されるんだろ?」
「えーっ、夜食作りに来てよ」
「俺達、買い出しならいくらでもするからさあ」
「ええ……やだよ、今これ作ってるのだってここに泊めさせてもらってるからだしさあ」
 リンが鉄板に乗せていた蓋を取り上げる。ふわりと白い煙が立って、じゅわあと匂いの焼ける音が辺りに立ち込めた。
 一斉にトングやフォークなど、逞しい腕が伸びてあっという間に塩焼きそばを掻っ攫っていく。あっさりとした味付けで仕上がっているので胸がもたれず、学生たちはいくらでもいけると見ている方が気持ちよくなる食べっぷりを披露してくれた。
 皆がもくもくと食べる作業に集中しているので、談話室が一斉に静かになる。リンはやれやれと鉄板の火を止めた。多少残ってはいるが、この分なら後は余熱だけで十分だ。
「ふぇもさあ、いんさん」
「なにて? 呑み込んでから喋んな」
 リスのように膨らんだ頬がもっもっと動く。つつきたい衝動を堪えて、リンはお茶を渡してやった。
「でもさあ、リンさんさあ、アズールとの勝負に勝っても負けてもここからは出て行くじゃん」
 どうやらユウとアズールの勝負の話は結構広まっているらしかった。リンは「そりゃ、まぁ……そうだけど」とさも当然のように答えた。レオナとの約束は三泊のみだ。今日がその最終日である。
 アズールとの勝負に勝ってオンボロ寮を守ることができたなら、リンは学園長に宛がわれたあの館の一室に戻るだけだ。もしユウが負けたとしたら、その時は、学園長と改めて交渉するか、或いは───
「それならさあ、勝ってオンボロ寮行くより、負けて俺らに飼われた方が良くね?」
「飼う、て」
 言い方は他に無かったのか、とリンは頬を引き攣らせた。
「でもほら、俺ら優しいし」
「そうそう、不自由させねえし」
「タコ野郎より絶対こっちの方がいいぜ!!」
「ふざけやがれ、テメーら夜食をタダ食らいしたいだけだろうが」
 違うってー!! と一斉にやんややんやの大合唱である。リンはだんだん嫌ともNOとも言う事に疲れて来た。
「あーもう、」
 うるさいな、というリンのぼやきごと、生徒達の百万語を掻き消したのは轟音のような空恐ろしい獅子の咆哮だった。きゃいん、と何人かが飛び上がって尻尾を足の間に挟む。
「喧しい、散れ」
 鶴の一声ならぬ獅子の一吼えである。リンはいっそ感嘆して、ぞろぞろとキッチンに移動して洗い物を始める生徒達を見やった。皆一様に耳や尻尾が垂れている。
「来い」
 談話室を高いところから見下ろしていたレオナがくいっと顎をしゃくる。これぞ弱肉強食、と埒外なことを思っていたリンはなんだなんだとレオナの部屋へ移動した。出迎えてくれたのはユウだった。
「リンさん、助けてください」
「えっなに、どうした」
「リンさんの力が必要なんです」
「えっ」
 何事、とリンは目を丸くした。
 ユウ達は宿代としてラギーの指示の元、レオナの部屋を掃除していたはずだ。しかし部屋は微妙に片付いたなあと言える程度である。
「なに、掃除?」
「違います」
「えっ」
「ダンシングオールナイトしましょう」
「えっ?」
「はっ?」
 リンとラギーの素っ頓狂な声が重なった。レオナも信じられないようなものを見る目でユウを見ている。
「てめぇ、まさか」
「『この寮のテッペンならリンさんくらいあそこから呼び戻せますよね!』とか煽っといてレオナさんにリンさんを呼びに行かせたのって……
「問答無用!!」
 ユウがどこからかフライパンとお玉を取り出した。かぁん、と凄まじい金属音が鳴り響く。なんだ? と談話室の方が少しだけざわついた。
「この作戦に協力してくれないのなら、明日から毎晩、ここを超特大クラブも真っ青のお祭り騒ぎを披露してやります!!」
「えっ?」
「欲しい返事は『はい』か『YES』のみ!! 先手必勝、行くよグリム!!」
「おう!!」
「えっ!?」
 腹を決めたら一直線なユウとグリムに、リンだけが一人置いて行かれている。しかしなんだかんだユウ達の味方であったリンは、洗い終わった鉄板や牛乳とガラスのコップで作った即席ミラーボールなどを用意して、何が何だか分からないながらに「ダンシングオールナイッ!!!!!!!!!」と久々の徹夜を楽しんだのだった。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 
 
 二十三、四ともなると、慣れていないことをすれば翌日のあれそれに支障が出る。仕事であるとか、家事であるとか、とにかくいろいろだ。
 リンはそれを痛感していた。頭はがんがん痛むし、まだ耳の奥の方で鉄板がどんどか鳴っているし、グリムは壁に爪を立てて嫌な音をさせていたし、フライパンとお玉はかんかん叫んでいる。
 しかし朝が来て、目が覚めて、風邪を引いていないのなら、たとえ圧倒的に寝不足だろうが仕事に行かねばならぬのが社会人である。リンはどうにか起き上がろうとして、───重たい何かに阻まれた。というか苦しい。息がしにくい。
……んぁ?」
 なんじゃこりゃ、と自分の体にまとわりつく何かを、どうにかこうにか視界に入れる。
……
 はて、この褐色肌、どこか腕のようにも見えるがこれは、何か見覚えがあるような。
 体全体にのしかかるそれから逃れようと、リンは体を捻ってベッドヘッドがあるだろう方向へまっすぐ、芋虫のように這った。押しのけられないのならすり抜ければいいじゃない作戦は成功したが、結果視界に入った景色に、リンは沈黙して顔を手で覆った。
 すかー、と気持ちよさそうにリンの足を枕にして寝ているのはレオナだ。そして部屋の隅には、ぐちゃぐちゃになった二つの布団を贅沢に使って、ユウとグリムが倒れるようにして眠っている。
 
 ───ああああもう分かった!! 分かったからうるせえ!! 寝ろ!!
 ───ぶっ、
 ───うわああリンさんが布団で圧死する!! 離せケダモノ!!
 ───分かったつってんだろうが寝ろ!!!!
 ───んぐっ!!
 
……おあぁ……
 だんだんと深夜未明、おそらく数時間前の記憶が蘇ってくる。確か何かのタイミングでプチっと切れたレオナに叩きつけられた布団ごと頭をベッドに押し付けられたのだ。
 しばらくはもだもだ足掻いていたような気もするが、疲れていたのと、慣れないことをしたせいで、リンはあっさり落ちた。レオナのベッドはさすが、良い寝心地だった。
 ンン、と顰め面をして唸ったレオナがリンの足を力いっぱい抱き枕変わりにして蹲る。寝息が当たって擽ったい。
 いやまあふくらはぎくらい、いいんですけどねえとリンは半眼になって溜息をついた。これでは動けない。足は引き抜こうとしてもびくりともしなかった。馬鹿力すぎる。
 どうやら着替えずに寝てしまったようだ。アイロンと消臭剤を借りて、今日一日はどうにか誤魔化そう。ご飯は、今日はもういいや。すべて食堂のお世話になろう。給料も上がるし、とリンはレオナの頭に手を伸ばした。とにかく、起きてもらわねば始まらない。
「レオナさーん、起きてー、起きなくてもいいけど腕の力を緩めてー」
「んー……
 ぴこ、とレオナの耳がそよぐ。どこか癖っけのある髪は、それでも絡まることを知らなかった。まったく羨ましい限りである。
 モフモフを撫でる穏やかな気持ちで、リンは「はい、腕の力緩めてー」と何度か繰り返した。
「ぅう……
「あでででで嘘でしょこれ以上力入るんですかあででででで」
 血が止まる以上に折れる気がする。今みしって音がしなかったか。こうなったら最終兵器だ。ピンと来たリンは「あっ」と声を上げた。
「どうしたのチェカくん、こんな朝早くから」
「!!」
 バッと音を立てて布団が剥ぎ取られ、瞬き一つでレオナの姿が見えなくなる。自由になったリンは、「はーやれやれ」とベッドから降りた。
…………あ?」
 覚醒したらしいレオナがのそりと起き上がる。周囲を見回し、鼻を引く突かせ、耳をぴこぴこと立てたり伏せたりして、騙されたことを知ったレオナは「ンだよクソが……」と再びベッドに突っ伏した。
 リンは素知らぬ顔で浴衣に着替え、クローゼットに収納されている消臭スプレーやアイロンを拝借し、てきぱきと一セットしか無い一張羅を整えた。
「テメェ、覚えてろよ……日没後は叩き出すからな……
「なにて? アンタ今言ったこと全部布団に吸収されてんよ」
 しゅこー、とアイロンが音を立てる。んあ、とユウがびくりと体を強張らせて目を覚ました。
 
 
 
 
 
 契約満了まで、残り一日。
 
 それにしても、どうして一晩中、レオナの部屋で騒ぐことになったのだろうか。リンは未だにそれを知らされていなかった。
 ユウは作戦だとか協力だとか言っていたが、一体なんのことだったのだろう。寝不足でしぱしぱする目を擦り、欠伸を噛み殺しながら、リンはどうにかその日最後の仕事を終わらせた。
 頑張った。とても頑張った。ユウから話を聞こうにもラギーやレオナを捕まえようにも今日のリンは脳みそがいつもの半分程度しか働かず、仕事をいつも通りにするだけで精一杯だった。脳みその情報処理能力にここまで影響を及ぼすとは、ダンシングオールナイト、恐るべし。そしておのれ、体力の無さ。数年前までは徹夜くらい平気だったのに、ちょっと騒いだだけでこれとか、衰え加減が著しすぎる。今日をどうにか乗り越えなければならないのにこれではユウの足を引っ張りかねない。リンはサムの店に翼を授けるアレが無いかどうか探しに行くことにした。
 
 ───というかユウとグリムは元気すぎじゃない? 最近の若いのってあんなに元気なの? 私だってまだ二十四なのに……くっ、歳のことを考えると現状に不安と虚しさしか感じられないからやめよう!!
 
 購買部への道すがら、リンはがしがしと頭をかき回した。仕事が楽しくて人付き合いをおざなりに済ませるタイプの人間だったリンはとにかく眠りたかった。今ならソファでも何でもいい。
「おや、随分お疲れのご様子ですね」
 しかし、厄介事は、決まって調子の整っていないときに襲来する。聞き覚えのある声に、リンは目を眇めてそちらを顧みた。
……
「お久しぶりです、リンさん。その節はお世話になりました」
……こちらこそ」
 それはとても綺麗な笑みを張り付けたアズールが、そこにいた。
 レザーの手袋に包まれた指が、胸元の宝石をつるりとなぞる。
「宜しければ、我がモストロ・ラウンジで休んでいかれてはいかがです? いえ───是非、おもてなしさせて頂ければ」
「え、」
 リンが最後に見たものは、宝石が放った、不思議な光だけだった。
 
 
 
 
 
 開店直後であるにも関わらず、モストロ・ラウンジは大勢の客でごった返していた。がたいのいい学生たちが、好き勝手に叫び、笑い、足を踏み鳴らして埃を立てている。
「オイ、グラスが空だぞ!!」
「は、はひ、ただいま!!」
「肉!! 肉!!」
 ヒィハハハハ、と下品な笑い声がこれでもかと響き渡る。通路ですら客とスタッフで溢れかえり、騒ぎを聞きつけてフロアに顔を出したアズールは眉を顰めた。
「どいてください、通ります! っと、失礼」
 ぶつかった相手に軽く謝り、アズールは急ぎ足で一番騒がしいテーブルへと向かった。
……いえいえ、お気遣いなく~。シシッ!」
 肩を揺らして口端を吊り上げたラギーは、するすると人の間をすり抜けて、VIPルームへと足を踏み入れた。
 あのリーチ兄弟は、今頃、珊瑚の海へ出向いた取引相手のユウ達と追いかけっこに勤しんでいるに違いない。ラウンジのテーブルのほとんどを占拠するサバナクロー生も、それを知っているからこそ、大手を振って好き勝手振る舞っていた。
 この隙に契約書を奪取し、VIPルームの外に出して、レオナの魔法で砂に変える。金庫は鍵と暗証番号の二重ロックになっているらしいが、暗証番号の方は、以前このVIPルームに忍び込んだユウが知っていた。アズールが契約書の出し入れをするところを見ていたのだ。その後、ユウ達は罠に引っかかって危うく双子に絞められるところだったが、どうにか危機を脱したらしい。それなりに元気な様子で帰って来たし、その日の晩は有り得ないほどの大騒ぎを一晩中繰り広げていた。
「さーって、お宝お宝、……って、え!?」
 ラギーは思わずそのひとを二度見した。VIPルームのソファに、どこか力の入っていない様子でリンが座っていたのだ。
 リンには昨晩負担をかけてしまったから、とユウは今回の作戦にリンを組み込まなかった。それはレオナも、ラギーも知っている。けれどリンはここにいて、焦点の合っていない目でぼうっとここではないどこかを見つめていた。いや、見つめているのかどうかすら怪しい。
 どうしようか迷って、ラギーはひとまず契約書を優先させることにした。アズールがいつ戻ってくるとも知れない。ラギーは素早く金庫を操作して契約書の束を懐に収め、外で待ち受けていたレオナの腕を掴んで引き寄せた。
「ンだよ、お前はさっさと、」
「中にリンさんがいるんです」
「、……なに?」
 レオナが訝し気に目を細める。
「どうも様子がおかしかったっス。俺が入って行ったのにもなんの反応も無かったんスよ」
……分かった。だが、ひとまずは契約書が優先だ」
「了解っス」
 ラギーから鍵を受け取り、入れ替わるようにしてレオナはVIPルームにその身を滑り込ませた。
 確かに、そこにはリンの姿があった。レオナは舌を打ってリンの前にしゃがみ込み、その顔を覗き込んだ。
 これだけ近付いても、なんの反応も示さない。生理現象か瞬きはするが、それだけだ。焦点の合っていない目、どこかぐらついている体。何かされたことは明白だった。
 レオナの耳が、忙しない足音を捉える。仕方ない、とレオナは手元の鍵に視線を落とした。
 直後、派手な音を立てて扉が開かれる。
……よォ、タコ野郎」
……レオナ・キングスカラー……
「これはどういうことだ? 説明してもらおうじゃねえか」
 レオナは敢えてリンに尻尾を絡ませた。改めてリンの所有を主張されたアズールは、眼鏡を指で押し上げて、澄ました顔を取り繕った。
「どういうこと、とは。ただ、お疲れの様子でしたので、こちらで休んでいただこうと、お連れしただけですよ」
……フン、そうかよ」
「貴方こそ、人の部屋で何をしているんです」
「俺か? 俺はなァ……
 レオナは手の中に隠していた鍵をこれ見よがしにぶら下げた。アズールが息を呑んで目を見開く。
「落ちていたのを見つけたんだ。お前のだった気がしてな、親切で届けに来てやったが……気が変わった」
 ぐしゃ、と握りしめられた鍵が静かになる。アズールは目元を険しくさせて反論を並べ立てた。
「気が変わるも何も、窃盗は重大な犯罪ですよ」
「言ったろ? 俺は落ちていたのを拾っただけだ。返してやるさ───その代わり、こいつは連れて行く」
…………
 親指で指されたリンは無反応だ。アズールは何度か口を開閉させたが、結局は「いいでしょう」と口にした。
 リンは確かにレオナの預かりだが、それも今日の日没までだ。オンボロ寮を手にした後に、後でまた改めて丸め込むことなど、いくらでも可能である。
 アズールにとっては、新たな人材よりも契約書を守る金庫の鍵の方が余程重要だった。
「交渉成立だ。ほらよ」
「う、わっ!」
 まるで石ころのように投げ捨てられて、アズールは慌てて手を伸ばした。その間に、レオナは「ったく」と吐き捨てながらリンを一息に肩に担いだ。ぷらん、と細長い四肢が揺れる。
「じゃあな」
 レオナはさっさとVIPルームを後にした。そのままモストロ・ラウンジを通り抜け、オクタヴィネル寮の外に出る。
「レオナさん!」
 待機していたらしいラギーが駆け寄ってくる。レオナは寮の入り口から少し離れた場所で、リンを階段に座らせるようにして降ろした。
「リンさん、どうしちまったんスか?」
「さてな。何か変な魔法でもかけられたんだろ、めんどくせえ……ひとつ貸しだな」
「わーい!! そんじゃ、今度はシチューでも作ってもらいましょうよ!! 最近寒くなってきたんで!!」
……外傷も毒素もねえみてえだし、先に砂にするか」
「了解っス!!」
 ラギーが懐から契約書の束を取り出す。五、六百枚は無さそうな分厚いそれに、レオナはマジカルペンをかざした。
「俺こそが飢え、俺こそが乾き。お前から明日を奪うもの───」
 眩い光が少しずつ量を増し、一点に集中する。ラギーが眩しさに目を細め始めた頃、寮の方から一つの足音が飛び出してきた。
「待ちなさい!!」
「おっと」
 血相を変えて現れたのはアズールだった。
「返してください……、それを返してください!!」
「おいおい、少しは取り繕えよ。おすましごっこはもうやめたのか?」
「その慌てぶりを見るに、監督生の予想は当たってたみたいっスね!」
「なん、……だって……?」
 アズールの頬を、冷たい汗が伝う。背筋を這う震えを押し殺し、アズールはラギーとレオナを睨み据えた。
本当に契約書が無敵なら ・・・・・・・・・・・金庫に入れて守る必要は無い ・・・・・・・・・・・・・。つまり、金庫の中や、アズールくんが手にしていないときは、契約書を破ることができる。監督生はそう予想したんスよ」
 ラギーが懇切丁寧に説明する。眉を下げ、口端を吊り上げた表情に、アズールは歯噛みした。
「なぁ、アズール。お前、これ、返してほしいだろ?」
 ラギーから契約書の束を取り上げて、レオナはぷらぷらとそれを揺らした。
「取引しようぜ。俺がこれをお前に返したら、お前は俺に何を差し出す?」
「な、なんでもします」
 アズールは反射的に答えた。
「テストの対策ノートでも、卒業論文の代筆でも、出席日数の水増しでも、なんでもあなたの願いを叶えます!」
「なるほど」
 レオナはくつりと喉を鳴らした。なんとも魅力的な申し出の数々だったが、レオナにとってはそうではない。

……それだけか?」

「───えっ?」

 レオナの声に、アズールは色を失った。

「俺はな、今あいつに脅されてんだよ。契約書破棄に協力してくれなきゃあ毎日毎晩、こいつら三人で部屋の前で大騒ぎしてやるってなァ……
「まさ、か、」
 そんなことで、とアズールの唇が震える。
「お前にオンボロ寮を取られたら、俺が寝不足になっちまう。こいつらにサバナクローから出て行ってもらうためにも、これはここで破棄させてもらうぜ」
 ぐわり、とレオナを覆う魔力が増幅した。契約書に集まっていた光が、尚一層の輝きを放つ。
「悪党として、ユウに一歩負けたな、アズール」
「う、そだ、やめろ……!!」

「さぁ───平服しろ! 『王者の咆哮 King's Roar』!!」

 獅子の咆哮が、辺り一帯に轟いた。

「やめろおおおおおおお!!!」

 アズールの絶叫が虚しく響く。その悲鳴を嘲笑うかのように、黄金の契約書は瞬き一つで砂塵と帰した。

「あ……あああ……
 がくり、とアズールが膝を着く。
 あーあー可哀想に、とラギーは心にもない事を口にした。
「つーかレオナさん、あいつらの脅しなんか一発でぶっ飛ばせるのに、ここまで協力したのって、アレでしょ? オレ、分かっちゃったっス」
「あん?」
 ラギーはにやりとあくどい笑みを浮かべた。
「『能力を担保に取引したことが無い』だけで、アズールくんと何か取引してたんじゃないっスか? それもついでに破棄する魂胆だったんでしょ」
「ハッ───詮索屋は嫌われるぜ」
 レオナが口端を吊り上げる。
「俺は目の前で困ってるやつを見過ごせない、優しい性分なだけだ」
 飄々と宣ったはいいものの、結局レオナは喉の奥でくつりと笑い、肩を何度か震わせた。「自分で言ってて笑ってんじゃないスか!」とラギーも楽しそうに声を張り上げる。
「破棄される前に、どんな契約内容だったか見ておけば良かったっス。さーて、後はリンさんを起こして、っと」
 マジカルペンを一振りして、ラギーは気つけの魔法を発動させた。
 放たれた魔法の光が、こん、と軽い音を立ててリンの額に命中する。四散した光が溶けて消える頃、リンの瞼がふるりと震えた。
………………あっ?」
 息を呑んでびくりと体を震わせたリンは、何度か目を瞬かせて、忙しなく周囲を見渡した。
……はっ? へっ? 何ここ海の中?」
「貸しだぞ、リン」
「はっ!?」
 息ができる、と自分の喉元に手を当てていたリンは、ラギーの腕を借りて立ち上がった。レオナの言っていることも、ここがどこだか分からないことも、アズールが膝をついて項垂れて呆然自失としているのも、何が何だか分からない。疑問符が頭上で現れては弾け、現れては弾けていく。
「な……なに……? 私、寝てた……?」
「ブフッ、……違うっスよ!!」
 混乱しているリンが目新しくて、ラギーは思わず噴き出した。
「いや、オレ達にも詳しいことは分かんないっスけど! たぶん、何か、操る系の魔法をかけられて、アズールにここまで連れてこられたんじゃないっスか? どこまで覚えてます?」
「あ? え、えー……購買部に行こうとして……
 リンは顔の半分を手で覆った。思考回路を叩き起こして記憶を巡らせる。
……そうだ、アズールに声をかけられて……宝石が光って……
 気付けば意識を失っていた。そしてどうやらこの様子を見るに、レオナたちに助けられてしまったらしい。リンは肺が空になるほど息をついた。
 
 ───面倒な相手に借りを作ってしまった。
 
……ありがと。今回ばかりは助かったわ」
「リンさん、オレ、シチューがいいっス!!」
「鶏肉は骨付きでな」
「はいはい、分かりましたよ……、今晩だけな」
「えーっ!! オレら命の恩人っスよ!?」
 じゃれつくラギーに、リンは片方の耳を塞ぎながら口をへの字にして返した。
「命って……さすがにそれは言い過ぎでしょ……
「助けられた癖になーに言ってんスか!! ほらほら、さっさと行かないと、めぼしい材料なくなっちまうっスよ!! こんなとこほっといて早く」
 
「あああああああ!!! もうやだあああああああああああああ!!!!」
 
 行きましょ、というラギーの言葉はアズールの絶叫によってかき消された。
「!?」
 突然の発狂に、リン達はぎょっと目を剥いてアズールを見やった。
「消えた……コツコツ集めた僕の魔法コレクションが……万能の力が……!」
 悲鳴のような言葉がぶつぶつとここまで届いてくる。リンは何をしたんだという目でレオナとラギーを見やった。しかし二人も何が起きているのか分かっていない、どこか狼狽を隠しきれない様子でアズールを窺っていた。
「なんだァ……?」
「き、急にキャラが……
「あぁああもう全てがパアだ!! なんてことをしてくれたんだ!!!」
 アズールが帽子を地面に叩きつけ、ぐしゃぐしゃと頭を掻き回す。
「アレが無くなったら、僕は……僕はまた、愚図でのろまなタコに逆戻りじゃないか!!」
「えっ、」
「そんなのは嫌だ……いやだ、やだ、いやだああ!! もう昔の僕に戻るのは嫌なんだよぉ……っ!!」
 完全に泣きが入っている。同時に、アズールの周囲から、黒い靄が漂い始めた。
「なんだ……!? 黒い……
「レオナさんが上げて落とすような真似するからっスよ!! ア、アズールくーん……? ちょっと落ち着こ、ねっ……!」
「うるせええええ!!!」
 怒声がこれでもかと叩きつけられる。リンは思わず肩を跳ねさせた。
「愚図でのろまなタコ野郎と馬鹿にされてきた僕の気持なんか、お前達に分かるはずがない!!」
「っ……、」
 ゆらり、ゆらりとアズールが立ち上がる。何事かを呟きながら、アズールはふらふらと前に進み、こちらとの距離を詰めてきた。
「くれよ……お前達の自慢の能力……僕にくれよォ!!!」
「!!」
 顔を上げたアズールは、正気を失った顔で泣きながら笑っていた。
 それまでただ蠢くだけだった黒い靄が、突如、弾かれた様に跳ね上がり、意思を持っているかのように分裂して動き出す。
 まるで触手のようなそれに、リンは思わず後ずさってたたらを踏んだ。
「リンさん!!」
「!?」
 ラギーが叫ぶ。咄嗟に動けなかったリンの視界を黒い靄が鋭く埋め尽くした。息を呑んだリンの四肢を黒い靄が絡めとる。
「っ、」
「リ…………っ!!」
 反射的に動いた体が、靄から逃れようと体を捻る。それすらも許すまいと、リンの体はあっという間に黒い靄に覆われて、身動きが取れなくなる。
 眼前に広がる海が、あっという間に真っ黒なインクで埋め尽くされていく。
 丸い気泡が、素知らぬ顔でぷかぷかと漂っているのが憎らしい。
 手を伸ばしたつもりでも、リンが掴めたものは何も無かった。目の前が闇に閉ざされる。
 
 ───ふわり、
 
 浮いた感覚がして、恐怖が四肢を這いあがる。震えが全身を覆う直前、リンの意識はふつりと途絶えた。
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 そこは海の底だった。こぽこぽと口の中から空気が気泡となって漏れていく。
 けれど、不思議と苦しくはなくて、リンは鼻から息を吸ってみた。
……いきが、」
 できる。こぽこぽと、不安を煽るような音はしても、リンは問題なく呼吸ができて、心臓を働かせ、血を巡らせることができた。
「ここは……
 視線を巡らせる。真っ暗な海の底には、日の光すら届かない。
 試しに腕を揺蕩わせてみると、まるで線を描くようにして細かな粒子が跳ねまわった。
 インクを水に垂らして、筆で掻き回したときのそれに似ているとリンは思った。
 ここが海ならば、上を目指せば水面に出ることはできるだろうか。しかし今のリンは正しく無重力の中、上下左右の感覚無しにふわふわと漂っているようなものだった。
 
 ───髪がもう少し長ければ、海流を読めただろうか。
 
 馬鹿な考えを、リンは頭を振って追い出した。海流が読めたところでなんだというのか。その流れに身を任せるしか、今のリンに出来ることは無い。
 手足は動く。体も軽い。出来ることはあるはずだが、───さて。
 リンはひとまず、自分の体の感覚を信じて、よいしょと目の前の水をかき分けた。泳ぐのなんか数年ぶりだ。しかも海でなど。
 ごぽごぽと自分の口から溢れる気泡が本当に大丈夫なのかと不安を煽る。確かに呼吸はできているが、なんとも不思議な感覚だ。
 しばらく泳いでいたリンは、ふと何かを聞き留めて、その場で息を止めた。そのままきょろきょろと周囲に視線を彷徨わせる。
 
 ───どこからか、こどもの声がした。
 
 しかも、泣いていた。
 リンはしばらくあちこちを移動して、やがてようやく、蹲っているタコ足のこどもを見つけた。
 丸っこくて、ころころしている。生まれたばかりなのだろうか。リンは戻ってきた勘を頼りに、周りの色と同化しているタコ足のこどもの所まで泳いで行った。
「あら」
 こどもは怪我をしていた。至る所に裂傷が走り、痛い痛いと泣いていた。
……こんなに傷ついて。何したの? 何されたの?」
 こどもは泣くばかりで、リンの問いには答えなかった。参ったな、とリンは頭を掻いたが、どうにも放っておけなくて、傷が血を流していないことを確かめた後、そうっと手を当てた。
 こどもの体は随分冷えていた。リンは驚いたが、こんなに深くて暗い場所にいるのだから当然だとも思った。
…………、」
 しゃくりあげていたこどもが、ようやく目を擦っていた手を退けて、リンに顔を見せてくれた。不思議そうな顔をするこどもに、リンは目元を和らげた。
……
……この傷は、どうしてできたか、分かる?」
…………
 こどもはぎこちなく瞼を伏せた。きゅむりと食まれた唇を見て、言いたくないのだと悟ったリンは、困ったなと眉を寄せた。
……どうして傷ができたのか、分からないと。治すことも、できないよ」
 ぎゅう、とこどもの手に力が入る。その丸い瞳にはみるみるうちに水の膜が張って、リンはそれをじっと見ていた。
 
 ───海の中で泣いたら、涙は頬を伝うのかしら。
 
 果たしてそれは分からなかった。結局こどもは目尻から雫を零さなかった。
……ぼくは、」
 か細い声が、擦り切れる。リンはじっと耳を傾けた。
…………ぼくは、いやなんだって」
……
「わすれたいんだって」
 こどもが一言、何か言うたびに、するりするりと肌に線が増えていき、ぱくりと割れて、血が滲む。リンは目を見開き、奥歯を噛み締めてそれを見やった。
 いたい、とこどもが泣く。リンはどうしたらいいのか分からなくて、ただ、こどもの目元を優しく拭ってやることしかできなかった。
「擦ったらいけない、腫れてしまうから」
 こどもは顔をくしゃくしゃにして泣いていた。それでもリンが柔らかく撫でてやると、少しはましになるようだった。
…………お前をいらないと、……忘れたいと言ったのは、誰?」
 リンは、できるだけそっと、こどもを刺激しないように、柔らかな声で訊ねた。こどもは、何度かすんすんと鼻を鳴らしていた。
………………ぼく」
 こどもの言葉に、リンは瞬いた。
 こどもはそれっきり黙ってしまった。
 
 ───自分が、自分を、要らない、忘れたいと言ったから、傷ついて、泣いている……
 
 リンはどうしたものか、首を傾げてしまった。こどもは気持ちよさそうに目を細めて、リンの手に擦り寄った。八本の足が、遠慮がちにリンの服を掴み、腕に縋る。
……ここにいて」
…………
 小さな小さな、拒絶される恐怖を押し殺した懇願に、リンは一度、強く瞑目した。そしてゆっくりと瞼を押し上げて、改めてこどもに手を伸ばす。
 抱き込んだこどもは予想以上に小さくて、リンの胸の中にすっぽりと収まった。
 
……いらないって、言っちゃいけないのにな」
 
 それは、ふと湧いてきたリンの心底からの想いだった。
「え?」
「ん?」
 声に出ていると思わなかったリンは、思わず瞠目してこどもを見やった。こどもは丸い瞳でこちらをまっすぐに見つめていた。
 きらきらして、まるで宝石のようだった。
……
 こどもはじっとリンのことを見つめていた。リンは口をまごつかせて、ううんと頬を掻いて見せた。
……今も、昔も、この先も。すべては繋がっていて、切り離せるものではないから」
 このこどもが何歳なのか、リンには見当もつかなかった。だが、「ぼく」と零したそのこどもが、「ぼく」をまるで他人を指すようにして言ったので、どうしても語気が他人事になってしまう。
「お前のことを要らないと言っても、忘れたいと言っても、そんなことはできない。……そういうことを望んでも、しんどくなるだけなのにな」
 こどもはぱちくりと大きな目を瞬かせた。リンは思わず「綺麗な目だねえ」と相好を崩した。
「私は行くよ。ここには居られない」
「、……
 何かを言おうとしたこどもが、きゅ、と口を噤む。「ごめんよ」リンはそっとふわふわの前髪に口づけた。
「私も、自分の居場所がどこかなんて分からないけどさ。ここでは無いみたいだから」
……またあえる?」
…………願えば、きっと。いつか叶うよ」
……ほんとう?」
「嘘をついてどうする。まぁ……叶うかどうかは分からないが、叶うかもと信じる方が、私は好きだな。お前は嫌いか?」
……
 こどもは少し考えて、「わかんない」と首を横に振った。
「じゃ、次に会う時にまで考えといてくれ」
……わかった」
「じゃあな。こんな暗いところに居ないで、もっと景色のいいところに行った方がいいぞ」
 こどもから腕を離し、リンは今度こそ、自分が「上」だと思う方へ水を掻き分けて進んだ。水圧が少しずつ軽くなっていき、視界がだんだんと明るくなっていく。
 
 ───あぁ、もう少しだ
 
 ふわり、とリンの肢体が浮いた。
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
 
 
 眩しい。
……!! …………!! ……リン……!! リンさん!!」
 そしてうるさい。体が揺さぶられて、息ができない。
「ぁあなに、」
 リンはほとんど反射的にそう言った。途端に、自分の体を揺さぶっていた何かがぴたりと止まる。
「リンさん……!!」
「ぐっ、」
 直後、力いっぱい抱き締められて、或いは胸のあたりに頭突きをかまされる勢いで飛びつかれて、リンは思わず目を眇めた。
「なに……えっ? なに、ユウ? あれ?」
「リン!! 生きてたんだゾ!!」
「勝手に殺すな」
 わしゃわしゃとイソギンチャクが消えたグリムの頭を掻き回し、リンはユウをよしよしと宥めながらどうにかこうにか起き上がった。それをリンの傍に膝をついたジャックが、逞しい腕で支える。
「リンさん、大丈夫っスか。どこか痛むところとか……
「無いけど……、あれ? ジャック達、なんで……あれ? エースとデュースもいる……
 二人の頭からも、イソギンチャクは消えていた。
「あー……リンさん、ここがどこだか分かります?」
 ジャックと同じようにリンの視線に合わせて屈んだエースが、どこか心配そうにリンの様子を窺った。
「どこ、って……さっきまでいた場所……あっ、レオナとラギーは? 二人に助けられたんだった」
「えっ?」
 エースが驚きそのままに瞠目する。
「僕たちがここに来たときは、キングスカラー先輩たちの傍で倒れてましたよ、リンさん」
「えぇ……?」
 デュースの言葉に、リンは眉を寄せて記憶を巡らせた。
…………いや、なんか黒い靄がこう、ぶわーって触手みたいに……それが最後の記憶なんですけど……
 取り込まれたかと思いきや、五体満足でどこも怪我をしていないようだ。リンは改めてほっと安堵の息を吐き、全身から不必要な力を抜いた。ユウは未だにリンにくっついたまま離れなかった。心配させただろうことは明白なので、リンもしばらく好きにさせることにした。
「ところで、そろそろ陽が沈むけど、そのー……なんだっけ、写真? 取ってこれたの?」
「あぁ、」
 ジャックの尻尾がひょんと揺れる。しかし答えたのはエースだった。
「一昨日の下調べの甲斐もあって、休館日の人が居ないときにささっと取ってこれたよ。その後リーチ兄弟と色々あったけど、無事に戻ってきたらここがてんやわんやの大騒ぎ」
……アズールがオーバーブロットして暴れてたんだ。それをレオナ先輩とラギー先輩がどうにか相手取ってて、アンタはその傍で倒れてた」
 ジャックの捕捉に、エースはやれやれと肩を竦めた。
「そしたらもうユウの奴が血相変えてさあ」
「ブロットの暴走を皆でどうにか収めた後、倒れてるアーシェングロット先輩に取ってきた写真を叩きつけて、それからずっとそんな感じだ」
「お前もいい加減落ち着け!」
 グリムが特徴的な尻尾でぴしぴしとユウを叩く。ユウはぐりぐりとリンの胸に頭を押し付けた。どうやらまだしばらくは離れたくないらしい。リンは苦笑した。
「というか、リンさんはなんでこんなところにいたんスか?」
 ジャックの疑問は尤もだったが、リンは「来る予定は無かったんだよ。ほんとだよ」と言って誤魔化した。
「え~、じゃあなんでぶっ倒れてたんスか?」
「やっぱりアーシェングロット先輩っスか!?」
「おのれタコ野郎!!」
「ユウさんどうどう!! どうどう!!」
 瞬発的に立ち上がったユウに、今度はリンが慌てて抱き着き、追い縋った。向こうで「ヒッ」と小さく悲鳴が上がった気がする。何か自分の中で引っかかるものがあり、「ん?」とユウはそちらに視線を巡らせた。
 ぼろぼろのアズールが、ジェイドとフロイドに支えられて起き上がっている。それをレオナとラギーが見降ろしていた。その手には四角い額縁に収められた長方形の何かがあった。
 あれが写真か、とリンはなんとなく察した。なんだってあんな一見普通の、なんでもない写真なんか欲しがったんだろう。リンは不思議に思ったが、それを聞くのは今度にすることにした。今少しでも腕の力を緩めれば、ユウが飛び出して行ってしまうのは火を見るより明らかだったからだ。
「あーダメだこりゃ。ユウがオーバーブロットした」
「アーシェングロット先輩、大人しく一発、殴られといた方が身のためですよ!」
 デュースが声を張り上げる。悲鳴のような呻き声が木霊したのを、リンは聞いた。
「ユウさんだめだって!! 殴り慣れてないひとが殴ると手を怪我しちゃうから!!」
「フライパンで殴ります!!」
「死ぬ!! 死んでしまいます!!」
「落ち着け、監督生」
 流石にまずいと思ったのか、ジャックが慌てて立ち上がった。エースとデュースもユウの前に回り込む。
「ユウ、フライパンはだめだ。流石にだめだ」
「グリム、フライパン持って離れとけ!!」
「分かったんだゾ!!」
「うううううううう!!!」
 見事な連携でユウからフライパンをもぎ取ったエースが、グリムにそれを投げ渡す。グリムはさっと素早く一同から離れた場所に位置取った。ユウは尚もやりきれないのか、唸り声をあげて威嚇している。リンはたまりかねて「ユウぅ、」と情けない声を出した。
「、」
 ぴたりとユウが動きを止める。
「びっくりさせてごめんって。悪かったから。な、もう落ち着け。もう契約のあれこれ面倒なのも終わったんだろ。一緒に館に戻ろ。な?」
………………
 振り上げた拳を、ユウがゆっくりと降ろす。ユウはそのままリンに向き直り、リンの腕を取って立たせた。
 そして再び、リンにひっついて離れようとしなくなる。
 誰からともなく息を吐いて、肩の力を抜いていると、向こうからおっかなびっくりという体を押し殺し、アズールがゆっくりと歩み寄って来た。ユウはまるで人見知りの幼子のようにリンの背後に隠れた。
……
 何度か口を開閉させるアズールに、ゆっくりでいいとも、とリンは黙然と促した。
……この度は、その。……あなたの意思を無視して、ここにお連れした事、本当に、……すみませんでした」
 帽子を取ったアズールをはじめとして、ジェイドとフロイドも頭を下げる。
 リンは目を瞬かせた。
……そして、このような事態に巻き込んでしまったことも、お詫び申し上げます」
……
 いくら待っても、許しを願ったり、頭を上げようとしたりしない三人に、リンは少しだけ困ってしまった。
……ひとまず、顔を上げてください」
…………
 ジェイドとフロイドはすぐにそうしたが、アズールの動きはどこかぎこちなかった。
 顔つきは強張り、瞳には水膜が張っている。何かを堪えているのか唇は痛そうなほど引き結ばれて、眉間には深い皺が寄っていた。
 屈辱で震えているわけでも、殴られる恐怖に震えているわけでもない。リンは言葉を探しあぐねたが、結局、今の自分の状況を伝えるくらいしか、誠実な対応は思いつかなかった。
「えー…………あなたがどうして私に魔法をかけて? ここまで連れて来たのかは……まぁアレでしょ? 人材的な……ね、察しがついてますから、もう聞きませんけども。どうせオンボロ寮も手に入るし、って事を急いたとか、そんなところでしょ?」
「、……仰る、通りです」
 ジェイドとフロイドが呆れたようにアズールを見やる。「二兎どころか三兎……」とラギーが呟いていたが、リンは黙殺した。
「まぁあんたのことだから契約交渉自体は素面でやらせてくれたんだろうけどさ……
「それは、はい。そのつもりでした」
…………
 リンの背後から、ユウがジトっとした目を覗かせる。本当か? と言わんばかりの疑念の目に、「本当ですよ!!」とアズールは自棄になって叫んだ。
「でもアズール、調子乗ったんでしょ」
「う、」
「こらフロイド、たとえ本当のことでも言っていいときと悪いときがあります」
「うぐ、」
 ぐさぐさと言葉の刃がアズールに突き刺さる。小さく笑ったリンは、「それはいかんな」とアズールの頭を掻き回した。
「わ、ちょ、」
「反省して、次はもっと上手くやんな」
「、」
「迷惑をかけた人たちには、ちゃんと謝ること」
 ぽん、と柔く頭を叩いて、リンはアズールの顔を覗き込んだ。
「できるね?」
……はい」
「宜しい」
 鷹揚に言ったリンに、アズールは俯いて、ぎこちなく帽子を被った。リンさんは甘すぎます、とユウがぼそぼそ言う。
「んー?」
「んぎゃっ」
 リンは体を思いっきり逸らしてユウに体重をかけた。
「何か聞こえたなあー」
「あーまーすーぎーるーんーでーすー!!!」
「わはは」
 声を張り上げたユウが、ぷくりと頬を膨らませているのだろうことが見ずとも分かる。
 リンは姿勢を戻すと、「それで、」とレオナの持っている写真らしきものに視線を移した。
「盗ってきちゃった写真、どうすんの?」
「それは……
「お前が責任取って返して来い」
 すかさずジャックが口を挟んだ。嫌そうに眉を顰めているので、よっぽど盗みなど働きたくなかったようだ。アズールは観念して項垂れた。
……はい。分かりました」
「見張りについて行きます」
「えっほんとォ?」
 疑念に目を光らせたユウの言葉に食いついたのはフロイドだった。
「じゃあ皆で行こーよ! 新人ちゃんへのお詫びも兼ねて、俺達が珊瑚の海、案内したげるからさあ!!」
 ねっ!! と身を乗り出すフロイドに、いいですねとジェイドも頷いた。
「え、でも、魔法薬って激マズなんでしょ?」
「そこはほら、アズールがどうにかするからさあ。ね、行こ!! ねえねえねえ!!」
「あぁはい分かった、行こう行こう」
 ヤッター!! とフロイドが跳ねる。リンは苦笑したが、すぐにユウを顧みた。
「そろそろサバナクローに置いてる荷物も取りに行かなきゃ。グリムー、お前も手伝っ……お前なに食ってんの!?」
 素っ頓狂な声を上げたリンに、「ふに゛っ!!」とグリムが身を跳ねさせる。フライパンをその辺に放り、グリムは黒い石を口の中に入れ、ばりぼりと貪っていた。
「あっ!! お前、また拾い食いしてるのか!!」
「もう止めるのも馬鹿らしいっつか……やっぱモンスターの胃袋わけわかんねえわ……
「また、って……
 察したリンがうわあと顔を歪める。眉をひそめたのはリンだけではなかったようで、「おい、」とレオナが声をかけてきた。
「あの毛玉、いつもアレ食ってんのか?」
「さぁ……
「グリムの意地汚さには困ったもんです」
 ユウが地獄の底から這い出るような声を出す。リンは驚いて、思わずおぅわと身を引いた。
「どうかしましたか、レオナ先輩」
「いや、……なんでもねえよ」
 レオナは写真をジェイドに放ると、仕事は終わったとばかりに身を翻した。
「さっさと荷物持って出てけ。でなければ捨てる」
「わあそれは困る!! ユウ、ほら行くよ!!」
「うえぇ」
「俺達も戻るか」
「そうだな」
 ばたばたと忙しなく、リン達は急いで駆け出した。まったねー! とフロイドだけが陽気に彼らを見送った。
 
 
 
 
 
 ◆
 
 
 
 
 
 週末になって、リン達はリーチ兄弟の案内で珊瑚の海を訪れていた。
 海の中なのに息ができる感覚は不思議だった。酸素ボンベやダイビング用のウェットスーツに身を包まずとも深海を泳げる機会など、それこそ有り得ない。リンは積極的に海の中を楽しんだ。ウツボの姿になったリーチ兄弟が都度助けてくれるので、そこそこ快適である。
「にしても、二人ともでっかいねえ」
「この姿のときはねえ、二メートル超えてんだっけ」
「確かそのぐらいですね」
「ぎゅーってする?」
「しない」
「ちぇー」
 フロイドはさっさとエースやデュースのところへ移動した。二人は慣れないのか、慣れたとしても突然来られるのは心臓に悪いのか、面白いくらいに肩を跳ねさせていた。
 アトランティカ記念博物館は、アズールが「モストロ・ラウンジの研修旅行」という名目で貸し切りにしていたので、どこか閑散としていた。静かな館内は海底洞窟のようで、リンは泳いだり、ゆるく地面を蹴ったりして器用に進んだ。
「リンさん、すごいですね。もうここでの移動に慣れたんですか?」
 最近になってようやく機嫌を直したユウが頑張ってリンについてくる。リンは「まあね」と少しだけ得意げに胸を張った。
「海流とか、よく見たらいいよ。あとはそれに乗るだけだし、私は昔、よく泳いでたからなあ」
「ほへー……あっ、アズール先輩だ」
 一足先に到着していたらしいアズールは、いつもの制服姿だった。なんだあとリンは分かりやすく肩を落とした。
「アズールのタコ姿、ちょっと楽しみだったのに」
「嫌です。ここでは珍しくて目立つんですから」
 アズールが苦々し気に顔を歪める。
「ほら、僕は写真をそっと戻してきますから。館内はどうぞご自由にご覧下さい」
 アズールの言葉を受けて、エースやデュース、そしてジャック達はリーチ兄弟と共に展示物の方へ移動していった。その手にはパンフレットや展示物一蘭などが握られている。
……あなた方は行かないんですか?」
「最後まで見張ります」
「ユウと一緒に回るって約束なんで!」
 たはー、モテちゃって! とリンは大げさにはにかんだ。はいはいそうですかとアズールはジェイドから受け取った写真を、そっと元あった場所だろう位置に戻した。
 そこは、他にも様々な写真が飾られている場所だった。何とはなしに眺めていると、ぽつりとアズールが言葉を零した。
……昔の写真をすべて消去すれば、僕が愚図でのろまなタコ野郎と馬鹿にされていた過去も消えるような気がしていたんです」
……
「結局……他人に認められたいと言いながら……やっていたことは、過去の否定でしたが」
 そこに自嘲の響きは無かった。淡々とした、静かで平坦な、事実を粛々と受け止める苦しさがあるだけだった。
……アズール先輩は、魔法よりもすごい力を持ってると思います。というか、そこだけは認めざるを得ないと言うか」
「、え」
 アズールが瞠目して、ユウを見やる。リンも驚いた。まさかユウがアズールに何か言葉をかけるとは思わなかったからだ。
「努力って、魔法より、習得するのが難しいと思うんですよ。だから……まぁ……そこだけ。そこだけです」
 ユウは腕を組んで、つんと唇を尖らせた。つっけんどんな言葉はしかし、どこまでも暖かく、柔らかかった。
 ぽかん、としていたアズールは、やがて頬を緩めて、「勝手に美談にするのはやめてください」と穏やかな声音で言った。
「僕は、ただ……僕を馬鹿にした奴らを、見返したかっただけです」
……それだけでここまで来れるんだから、大したもんですよ」
 ユウが嫌そうな顔でぶつくさと言う。どうやらまだリンのことを根に持っているらしかったが、それでもユウはアズールの評価にあたる長所を「すごい」と認め、言葉にし、相手に伝えたのだ。リンはユウのそういうところに飛び上がるほど嬉しくなって、衝動のままにユウに抱き着いた。
「うわっ!?」
「も~~~お前ってやつは~~~!! リンさん鼻が高いったら!!」
「ちょ、もう、なんなんですか、もう!!」
 ユウがじたばたともがく。リンはしばらくユウのことを撫で繰り回して離さなかった。
 
 
 
 
 
 ひとしきり博物館や珊瑚の海を見て回って、エースやデュースに写真を撮ってもらった後、一同はモストロ・ラウンジに招待された。休憩にいかがですかとアズールが誘ってくれたのだ。
「銀の髪梳き、あれどう見てもフォークだったよな」
「海の中で温まる不思議な釜もあったしねえ」
「シードラゴンの骨、クジラの骨格標本見た時のこと思い出したわ」
「え、それ本物ですか?」
「いやー、作り物だったと思うけど、でっかかったよー」
 というか、シードラゴンってタツノオトシゴじゃないけどそれっぽい見た目の海水魚のことじゃねえの? とは言えなかったリンであった。
 とは言え、話題は尽きない。既に開店していたらしいラウンジは中々の賑わいで、リン達はあの騒ぎがあった直後なのに、と瞠目した。
「これは……アズールが打ち出した広告が、早速、功を奏しているようですね」
「アズールが打ち出した広告?」
 ジャックがオウム返しに訊ねる。説明役を引き受けたのはフロイドだった。
「アズール、ポイントカード作ったんだよねえ」
「ポイントカード」
……モストロ・ラウンジの?」
 ユウとリンは思わず顔を見合わせた。商売人の顔になったアズールが「えぇ!」と表情を輝かせた。
「六百マドルのスペシャルドリンクで一ポイント。千五百マドルの限定フード付きメニューで三ポイント。五十ポイントで、なんと、この僕がお悩み相談を無料で一回、受け付けます」
「さらにポイントカードを三枚貯めると、スペシャルなサービスが受けられる特典付き」
「より詳しい情報はこちらのパンフレットか、お店のホームページをご確認ください」
 流れるようなダイマ(ダイレクトマーケティング)である。リンは百貨店などの客引きを思い出し、ちょっと遠い目になった。こういう店でポイントカードとか、正直言いだしてほしくなかった感が否めない。
「その、お悩み相談って……なんでもいいのか?」
「勉強の、悩み……でも?」
「えぇ、もちろん」
 アズールはぺかーっと笑っている。ジェイドも同様である。見事な接客スマイルであった。
「じ、じゃあオレはスペシャルドリンク!」
「オレもー!」
「僕はフード付きのセットで……
「早速のご注文、ありがとうございます!」
 どうやらイソギンチャク生活が懲りていない様子の二人と一匹に、ジャックとユウは口をへの字に曲げ、リンは肩を揺らして笑った。
「さあ、ジェイド、フロイド、稼ぎ時ですよ。この調子で必要予算を獲得し、必ずやモストロ・ラウンジの二号店を開設しましょう!!」
「ええ!?」
「まだ諦めてなかったのかよ!?」
「わっはっはっはっは!!」
 アズールが引き締まった良い笑顔で言い放ったそれに、ユウ達は思わず腰を浮かした。リンはひとり、堪え切れずに腹を抱えて大笑いした。
「ちょ、リンさん!! なに笑ってんスか!!」
「いーじゃないの、過去を払拭するための努力から未来を獲得するための努力へ!! 思考する葦ならこうでなくっちゃ。今度はへますんなよ!!」
 アズールはいつものように、得意げに眼鏡を押し上げ、不敵に微笑んだ。
「フッ……言われるまでもありません」
 肩に羽織ったコートが翻る。あーあーとエースがファーストドリンクをストローで掻き回した。
「いーのかよリンさん、焚きつけるようなこと言って」
「いいのさ、今度は真正面から全力で叩き潰すから」
 にっこりと笑ったリンに、エースがひゅうと口笛を吹いて、ユウがぱちぱちと手を叩いた。おぉ、とジャックも感嘆する。
「さすがリンさん……僕達にできないことを平然とやってのける……そこに痺れる、憧れる……ッ!!」
「煽てても奢んねーぞ」
「えーっ!!」
 エースが不満げに口を尖らせる。リンさんにたかるな!! とユウが眦を吊り上げた。
 
 ───せいぜい足掻くがいいさ。
 
 目の前で繰り広げられる賑やかなやり取りを微笑ましく見守りながら、リンはグラスを傾けた。
 
 ───そして 大人の屍を、その長い足で越えてゆけ。お前たちなら余裕だよ。
 
 輝かしい未来の可能性と、追い抜かされるだろうことへの少しの寂寥と、悔しさと。それらすべてを一緒くたに、リンはドリンクで呑み下した。