2025-01-24 19:21:14
12568文字
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特別なきみの大事な一日

Re:valeの千さん、お誕生日おめでとうございます。
貴方にとっての普通の日のお話を書きました。

ブラホワを目前に、突然、千が新曲をボツにする。歌いこなせなかった責任を感じてしまう百。
でも、本当の理由は。

時間軸はふんわりとデビュー二年目~三年目くらい。から、現在へ。
糖度はほぼゼロですが、つきあってない→つきあってるユキモモのつもりです。

※過呼吸の描写が有ります。ご注意ください。
※2024年誕生日企画「16 PRODUCERS」を下敷きにしています。
※歌唱関連の説明・描写はすべて捏造です。公式設定や声優さんに依拠するものではありません。

話に直接の繋がりはありませんが、対となっている百誕はこちら。
https://privatter.me/page/673b2edd859a4

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「It's ALL-for you-」の歌詞

千「大事に思うから」
百「特別だって思うから」

が大好きです。

無人島や新ブラホワを経て、大事で特別に思うことも、特別で大事に思うことも、
ふたりにとっては当たり前な普通の日々になっていたらいいな、という気持ちで書きました。

 透きとおったメロディは、艶めいていながら軽やかで。
 優しく甘いけれど、しっかりと耳に残って。
 まるでユキみたいだと思った。

 ◇     ◇     ◇

 早朝の光に目を細めながら、少しばかり年季の入った馴染みの雑居ビルにゆっくりと足を踏み入れる。
 数年前、おかりんに案内されてユキと一緒に初めて訪問した時は、どことなくがらんとした印象のあった岡崎事務所だけれど、今は事務方も現場担当者もどんどん増員されてだいぶ手狭になりつつある。年明けには移転に向けて動き出す予定だ。オフィスと同じフロアに多目的スタジオを備える構想とのことで、オレもユキも楽しみにしている。
 エレベータは使わずに、階段で三階へと向かった。手すりを掴んで狭い踊り場をターンしながら、喉の奥だけでメロディを鳴らす。先週受け取った新曲のサビのフレーズは、ハイトーンで絡みあうハーモニーがとても美しく、それだけに少し難度が高い。とにかく喉に馴染ませて、しっかりと歌えるようにならなくちゃいけない。年末から年始のチャート、そして何よりもブラホワへと攻め上がるために作られた、ユキの渾身の一曲なのだから。
 ユキとおかりんは、今日は朝から曲制作のスケジュールについて打ち合わせをしているはずだ。オレは都内のスタジオに単身で直行の予定だったけれど、少しだけ時間が作れたので立ち寄ることにした。レコーディングまでに、一時間でも二時間でも歌い込む時間を追加で取れないか、交渉しようと考えている。出来ることは何でもしたい。どれだけでも動いていたい。
 男性アイドル部門を制し、総合部門へと。ブラホワの栄冠、頂点を目指して。
 ここが正念場だ。Re:valeも、岡崎事務所も。


――とにかく、この曲は駄目だ」
 オフィスに入ったところで、思いがけず強い声が耳に飛び込んできて、びくりとする。入り口の横、パーテーションに仕切られた打ち合わせスペースから、それは聞こえた。苛立ちを纏わせてなおも聞き心地の良い、端正なテノールボイス。対する相手はおかりんだろうか。宥めるような声は低く、内容は聞き取れない。
 背筋を伸ばし、ひとつ深呼吸をする。ユキのこの口調は、音楽について妥協を許せずに戦っている時のものだ。共同戦線を張るか、停戦への仲介役になるか。しっかりと事情を聞いて、ユキの、Re:valeのために、オレが取るべき方策を見極めないと。
 緊張はなるたけ出さないように、パーテーションからひょっこりと顔を覗かせる。
 四人掛けのミーティングテーブルの奥側に座っているのは、やっぱりおかりんだった。オレの顔を見て、なぜか小さく息を呑む。ユキはこちらに背を向けていて、まだ気がついていない。
 声をかけようとしたその時、ユキの口から発された言葉に凍りついた。

「この曲を、モモに歌わせるわけにはいかない」

「千くん、ちょっと待っ……
「おかりんには迷惑をかけて申し訳ないけれど、これは絶対に譲れない。責任は取る。何としてでも仕上げるから、一週間……いや、五日……なんなら三日でもいい、あらためて曲を書く時間を作って欲しい。必要ならスタッフにも、偉い人にでも、僕から頭を下げるから言ってくれ」
「そういう話ではなくて、あの」
「なに」
 苛々と髪をかき上げたユキに、おかりんが目だけを動かして背後を示した。振り返ったユキが、オレを見て、微かに目を見開く。それから、ひどくきまり悪そうな顔をした。その表情が、なによりも雄弁に語っている。オレに聞かせるつもりは無かったのだということ。後ろめたい気持ちを。
「モモ、来てたの」
「うん。少し早く起きたから、寄れそうだなって思って」
「早く起きた、ね……
 ユキはどこか探るような目でオレを眺め、それから、ため息をついた。長く吐き出された息にはざらりとした失望が混じっていて、喉の奥がぐっと詰まる。
 怯む気持ちを押し潰し、出来るだけ普段通りの、何気なさそうな口調で言った。
「それより、聞こえちゃったんだけど。新しく曲を作るって」
「ああ、うん、そう。だから、悪いけど、先週渡したあの曲は無かったことにして欲しいんだ」
「ユキが決めたことなんでしょ。謝らなくていいよ。でも、……聞いてもいいかな」
「聞かないで」
 一瞬の躊躇もない即答だった。それでもう、何も言えなくなる。
 ユキのことなら、Re:valeのことなら、一緒に戦う。でも。
 オレのためだけに、オレは戦えない。
 震えないように注意深く息を吐き、それからもういちど深く息を吸い込んで、おかりんの方へと向き直った。
「おかりん、ごめん。オレからもお願い。作曲の時間、作ってあげて」
「百くん……
 眼鏡の奥、いつも柔和なおかりんの瞳が気遣わしげに曇っている。笑顔を作り、なるべく明るい、元気な声を出した。
「オレ、全力でカバーする。変更とか代打とか、なんでも引き受けるから任せてよ」
 おかりんは諦め半分、胃痛半分という感じの苦笑いを浮かべた。
「百くんも過密スケジュールの真っ最中なんですから、無理は禁物ですよ」
「オレは大丈夫だって。体力あるもん。それに、ユキはきっと、前よりもっとずっと最高の曲を作ってくれるって信じてる!」
「嬉しいけれど、それはそれでプレッシャーだな」
 そう言ってユキは、ほっとしたように微笑んだ。笑みでありつつ何処となく疚しそうな、翳りのある表情。それでもやはり美しくて、見惚れてしまいながら、いつもよりもっと強く心に刻む。

 ――調子に乗るな。分をわきまえろ。スペアもこなせない己の身の程を知れ。

 ふたりがかりで頼まれたら仕方ありませんね、なんとかスケジュールの調整を頑張ってみます、と言っておかりんは打ち合わせスペースを出て行った。
 後ろ姿を見送りつつ、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 だって、オレのせいだ。
 オレが、ちゃんと歌えなかったから。

 ×     ×     ×

 先週、初めて聴いた時から。正直言って、不安な気持ちはずっとあった。
 新曲は、本当に、最高に素晴らしかった。たぶん、今のユキが尽くせる限りの技術を尽くし、そして――今のオレが出せる限りの音が、使われていた。


 歌唱について何の素地もないまっさらな素人だったオレは、岡崎事務所に入った後、トレーナーをつけてもらって一からボイストレーニングを始めた。
 バイトの合い間を縫って通ったレッスンは楽しかった。時間をかければかけるだけ、努力すればするだけ、見合った声が出せるようになる。基本の呼吸法と発声法を学び、喉の開き方と閉じ方を知り、音域と表現力が広がって。自分の歌声が次第にシンガーらしくなっていくのを実感するたび、すごく嬉しかった。
 ユキさんをひとりで歌わせないで済む。ユキさんの隣に立って歌うことができる。こんなに幸せで誇らしいことってない。
 だけど、今回の曲を貰って、歌ってみて……歌おうとしてみて、それがとんだ思い上がりだったと知った。
 ギリギリまで身体を使わなければ出せないピッチ。音程に集中しすぎると、今度は共鳴がおろそかになる。そうしてなんとか歌いこなせたと思った次の瞬間、しばしば声が掠れ、あるいは意図せず裏返り、楽曲全体を崩壊させてしまう。
 ボイストレーナーいわく、オレの歌声は情感の繊細さが特徴であり魅力だけれど、それは息漏れ癖に起因していて、発声効率があまり良くないのだそうだ。息を多めに使うから細かな音程を取るのに苦労するし、呼気が足りずに詰まる場面も多くある。
 エモーショナルな歌声は強みとして生かしつつ、呼吸と声帯を少しずつ鍛えていこう、長い目で見れば強力な武器になるからね、とトレーナーは笑顔で言った。
 でもオレは、今、武器が欲しい。長い目なんていらないから、五年目まで持ってくれれば。
 使い捨ての武器で、いいんだ。

 ×     ×     ×

 バラエティ番組のスタジオ収録が二本、インタビューが一本、早速の調整でユキの代打となったラジオ収録が一本。今日の仕事はすべてソロで助かった。長い時間ユキと顔を合わせていたら、申し訳なくて、情けなくて、いつも通りに振る舞うのが難しかっただろうから。
 ラジオ収録にはおかりんが付き添ってくれて、一緒にスタッフへの挨拶とフォローをして回った。朝からずっとスケジュールの交渉に駆け回っていたおかりんは、声ががさついていて、頭を下げたスーツの背には少し皺が寄っている。気苦労をかけてばかりだけれど、その苦労を当然のように受け止めてくれるのがおかりんで、だからこそユキも信頼し、甘えてしまう面はあるのだろう。

 収録はつつがなく終わり、今日はこれで上がりだ。マンションまで送りますと言われ、おかりんの運転する社用車の後部座席に乗った。
 頃合いを見てスマホを取り出し、画面を目で追うふりをしながら、あ、そうだ、と思いついたように呟く。
「おかりん、ごめん。ちょっと寄るところがあってさ。そこの駅のロータリーで降ろしてくれる?」
 運転席のおかりんが、ちらりとバックミラー越しにオレを見た。行き先を聞かれるだろうかと身構えて、脳内に何通りかの回答を準備したけれど、続けて言われたのは思いもよらない言葉だった。
「千くんの家でしたら、このまま送りますよ」
「なんで、ユキの家」
 スマホを握ったまま、声が大きくなる。慌ててトーンを下げ、違うよ、と言った。
 同居生活が終わりを告げたのち、オレがユキのマンションに行くことはしばしばある。ユキがオレのマンションに来ることも、たまにある。でも、今日じゃないでしょ。おかりんが勝ち取ってくれた時間で、ユキは作業に集中したいはずだ。オレのせいで作り直すことになってしまった新曲の作業に。
……聞かなくていいんですか」
 駅近くの交差点の長い赤信号に引っかかり、アイドリングストップした静かな車内に、おかりんの声が響いた。
「千くんが百くんにあの曲を歌わせたくないと言った理由。本当に、聞かないままでいいんですか」
 バックミラーから目を逸らし、うつむいて、またスマホに目を落とすふりをする。唇を噛んだ顔を見られないように。
「ユキに聞かないでって言われたの、おかりんも知ってるでしょ」
「はい。でも、それで百くんは納得しているんですか?」
「納得もなにも、Re:valeは、……Re:valeの音楽はユキだ。オレは、うん、いいんだよ。聞かなくてもなんとなく分かるし」
「なんとなく、って――
 信号が青に変わった。まわりの車たちが、夕暮れの街を滑るように動き出す。おかりんはまだ何か言いたそうだったけれど、口を閉じて運転に集中した。その後は会話のタイミングがないまま、頼んだとおり駅のロータリーに入り、車を停めてくれた。
 変装用の帽子とマスクを着けて、人目を気にしながら降りようとしたオレに、運転席から身を乗り出しておかりんが言う。
「寄り道はいいですが、千くんの曲が出来るまでの間、少し喉と身体を休めて下さいね。レコーディングは突貫になりますし、ただでさえハードスケジュールなんですから。飲み会もほどほどにお願いします」
「あはは、今日は飲み会じゃないよ、大丈夫! 早めに帰るようにする。心配してくれてありがとね」
 笑って手を振り、ドアを閉めて、小走りに駅へと向かう。駅舎に入る前に振り返ると、おかりんの運転する車はゆっくりとロータリーを抜けていくところだった。ちかちかと光るウインカーを見て、なぜかぐっと込み上げたものを呑み込み、改札へと向かった。


 二駅を電車に乗り、十分ほど歩いて。着いたのは分厚い壁のビルだ。楽器メーカーの音楽教室がテナントとして入っていて、空き時間にはレッスンブースのレンタルも行っている。
 その一室、ボーカルレッスン用のスタジオに、ひとり佇む。
 予約を取ったのは昨日だった。ユキにも、おかりんにも知られたくなくて、事務所のリストからあまり使ったことのないスタジオを適当に選び、収録の合い間に自分で電話をかけた。秘密の特訓だなんて意気込んでいた昨日のオレ、ばかみたいだな。
 防音カーペットのフロアに立ち、新曲の――お蔵入りとなった曲のメロディを口ずさむ。
 美しいメロディと疾走するリズムは誰の耳にも心地良く、玄人好みのテクニカルな展開も織り込まれて、ブラホワに引っ提げていくのに相応しい、文句なしの名曲だ。だからこそ悔しいし、不甲斐ないし、やりきれない。

 声合わせの初回からサビで裏返ってしまい、ハモリを台無しにしたオレにユキは大丈夫だよ、落ち着いて音を取っていこう、と言ってくれた。
 けれど、二回目、三回目。何度も何度も、引っかかる。裏返ってしまうだけでなく、掠れたり、止まってしまったり。
 それでも繰り返し歌ううち、少しずつ引っかかりは減っていった。頑張って練習を重ねれば、ちゃんと歌いこなせるようになる。そう思って、自主練のためにここを借りたんだ。なのに。
 大丈夫だよ、って言ってくれたのに。

 オレは、ユキの信頼に応えることが出来なかった。

「LaLaLa
 サビのメロディを喉から絞り出す。ほんの二小節。たったそれだけを、どうして思うとおりに歌えない。歌うことができない。
 口を開ける。唇を動かす。
 喉を絞る。緩める。
 息が漏れるのなら、足りないのなら、素速く何度も吸って声にして。速く、速く。
「LaLaLaLaLa、Ah……
 掠れる。途切れる。
 歌えない。
 もっと、もっとだ。息をたくさん吸うんだ。そうすれば、きっと。
……LaLa、ah……アー、ああアー」
 けれどオレの喉から出る音は耳障りに引っ繰り返るばかり。もっともっと、速く速く息を。
 息を吸う。歌う。息を吸う。息を吸う。歌う。息を吸う。
……っ、あ、……
 気がつけば全力疾走した後みたいに息切れしていた。息が切れる。息が吸えない。吸わなくちゃいけないのに。歌わなくちゃいけないのに。必死に息を吸おうとして、でも、吸えない。なんで。なんで?
 ふと、恐怖に囚われる。このままずっと呼吸が出来なかったら? 歌えない、息が出来ない。そうしたら、オレは。
 頭がガンガンと鳴っている。激しい動悸で胸が破れそうに痛む。手の先、足先が冷えていく。押し潰されるように視界が狭くなり、ゆらりと身体のバランスが崩れた。膝に力が入らない。床にくずおれながら、カーペット敷きで良かった、なんてぼんやり考えたとき。
――モモ!」
 誰かが肩を抱き、背中を包み込んだ。支えきれず、そのまま後ろへと倒れ込んで一緒に尻もちをつく。ふうっと安堵の息が耳もとにかかった。テノールの吐息。
 誰か、なんて。ひとりしかいない。
…………? ……な、で」
 ひゅうひゅうと息が抜ける。驚きがまた呼気を奪って、懸命に吸おうとするけれど全然吸えなくて、目の前がぼうっと霞んだ。
 なんでユキが、どうして、ああ、ユキに見られた、ユキを下敷きにしてしまった。かなしくて、しんどくて、わけがわからなくて、ぼろぼろと涙が溢れた。ヒッヒッと喉を鳴らし、しゃくりあげるオレをユキが背後からしっかりと抱きかかえ、ぽんぽんと肩を叩く。
「大丈夫、大丈夫だから。過呼吸を起こしかけているだけだ。焦らないで、まず、息を吐いて」
 右手は肩を掴んで支えたまま、左手が滑り落ちて、オレの胸にそっと触れた。激しく上下する胸のうえで、ゆっくりと円を描くように手が動く。温かくて大きなてのひら。ユキのてのひらが、呼吸を、心を、やさしく撫でていく。
「おなか、ひっこむまで息を吐いて。吐き切ったら、おなかが自然とふくらむのに任せて」
 オレの腹に手をあてて、ユキが言った。ユキの手の温度、それだけを意識して、息を吐く。胸のなかの呼気が全部抜けて、すると、普通にすうっと肺に空気が入ってきた。そうか、息って、しようと考えなくていいんだった。
 それからしばらく、ユキの声と手に合わせて、息を吐いて、吸って。どれくらいの時間が経ったことだろう。
 気がつけば、普通に呼吸をしていた。微かに身体の震えは残っているけれど、さっきまでの恐ろしいほどの不安感は消えている。
 まだオレの胸から腹へと、身体をなぞるように撫でさすっている手にそっと触れて押しとどめ、背後を振り返った。
……もう大丈夫みたい。ありがとう、ユキ。ごめんね。迷惑かけちゃって」
 ユキはゆったりとしたカーディガンを羽織り、肩にかかる髪はひとつにまとめていた。作曲のためにスタジオに籠るときの格好だ。作業を中断して来てくれたのだと察せられて、きちんと向き直って座り、もういちど頭を下げてごめんなさいと言った。
 でも、どうしてユキがここに。どうしてここが。
 よほど腑に落ちない顔をしてしまっていたのだろうか。ユキは小さく笑って指を伸ばし、ほつれて額にかかったオレの前髪を直してくれた。それから真面目な顔になって言った。
「僕こそ、モモに謝らないと。おかりんに怒られちゃったよ。しっかりと言葉にして説明した方が絶対いいです、って。それで、この場所を教えてくれた」
「おかりんが……?」
「今日の昼、事務所に確認の電話があったんだって。それでモモが予約していることを知ったって」
……そっか」
 予約は岡崎事務所の名前で取っていた。名乗りはしなかったけれど、電話口に出た人には、オレだってことは気づかれていただろう。
「きちんと話すよ。その間、モモ、これ舐めといて」
 ユキがカーディガンのポケットを探り、取り出したものをオレのてのひらにそっと乗せた。
 透明な袋に包まれた、丸くて平たい、茶色っぽいなにか。飴だ。色あいからして、のど飴だろうか。個包装には図案化されたみつばちのマークがプリントされている。
 よくわからないままに受け取って、口に入れた。とろみのある甘さが舌に乗り、一瞬の後、すうっとしたレモンの香りが鼻に抜ける。
「マヌカハニードロップ。ちょっと風味が独特だけど、喉によく効くから」
 口のなかで転がすと、歯にあたって軽やかな音がした。かろかろん、というかわいらしい音を聞いて、身体に残っていた緊張の最後の欠片が霧のように消えていく。
――僕はモモに、あの曲を歌わせたくなかった」
 そう言ってユキは、おもむろにオレの手を取り、包み込むように両手で握りしめた。不意のことに、オレは口の中の飴さえ動かせなくて、舌の上でただ蕩けていくに任せながら、次の言葉を待つ。
「でもそれは、モモのせいじゃない。僕のせいなんだ。あるいは僕のため、Re:valeのためでもある」
……Re:valeの?」
 オレが歌わないことが、ユキのため、Re:valeのため? じゃあ……オレが歌うことは。
 また滲み出しかけた不安を、繋いだ手の温度と、マヌカハニーの不思議な甘さが溶かしてくれる。そうだ。このドロップを舐めながら、オレもきちんと最後まで話を聞くんだ。
「僕は、モモが……モモの歌が、とても好きで」
 そんなふうに、ユキは話し始めた。


 低音の穏やかな連なり。高音の澄みとおった調べ。そして、甘やかに耳を撫でるミックスボイスからのファルセット。
 この声の魅力を最大限に生かし響かせたい。その衝動のままに曲を作った。
 けれどそれは、当然のことながら、高く負荷のかかる歌唱を要求するものとなった。ただでさえ多忙な時期であり、バラエティや特番など、歌以外にも高いテンションで喉を使う現場が増える中、疲れを溜めながら繰り返し歌っていけるような代物ではない。ダンスを含めたパフォーマンスを考えると、今の時期、生放送の多さもプレッシャーになるだろう。
 己の欲求に任せてこんな曲を作り、歌わせようとしたのが、そもそもの間違いだった。プロ意識に欠けていた。作曲者として、アイドルとして、Re:valeとしての意識に。


「ポリープ、声帯結節、外傷性出血。喉の酷使で声帯を傷める可能性なんて、そこらじゅうに転がっている。モモの場合、飲み会が多いから、胃酸の逆流で炎症を起こす危険もある。今朝だって、飲み会で徹夜したあと、寝ないまま事務所に来たでしょう。知ってるからな」
「そ、れは……
 ユキの言ったことは、半分は当たっていて、半分は外れていた。昨夜は飲み会を三つばかり梯子して、深夜過ぎにマンションに戻り、それからずっと新曲の音取りをしていた。目と耳から覚え込んで、少しでも早く歌いこなせるようにと。飲み会で夜明かしをしたわけではない、けれど、徹夜してしまったのは事実だ。
「今日も一日ずっと喋る仕事だったろ。そんな状態でまた高難度のサビを反復練習するなんて、どれだけ喉に負担がかかると思う」
 たたみかけられて言葉に詰まっていると、ユキは小さく息を吐き、苦い顔で笑った。
「ごめん。責めるつもりじゃなかった。ただ、モモは頑張りすぎてしまうから。仕事も、レッスンも、付き合いも。それも折り込んで曲を作るべきだったのに、見積もりが甘かった僕が全面的に悪い」
「ユキ……ユキが悪いことなんて、ないよ!」
 慌ててぶんぶんと力いっぱいに首を振る。
 ユキがそんなところまで考えて、オレのコンディションも気にかけていてくれたなんて、思いもしなかった。身体の奥底に、じわりと熱が灯る。嬉しい。泣き出したくなるくらい、叫び出したくなるくらい、嬉しかった。
 けれど、そうであれば尚更に。
……やっぱり、謝るのはオレのほうだ。オレの歌唱スキルが低いせいで、ユキの曲の幅を狭くしちゃったんだから。そりゃ、歌わせるわけにはいかないよね。あんなに素敵な曲を、歌いこなせないオレなんかに」
「だからそれは僕の……ああもう、そうじゃなくて!」
 ユキに取られたままの手が、さらに強く、少し痛いくらいに力を込めて握りしめられる。驚いて顔を見ると、ユキは怖いくらいに真剣な瞳で見つめ返してきた。
「僕がモモにあの曲を歌って欲しくないのは、モモに歌って欲しいからなんだよ」
「えっ、と……え? あの、ユキ……?」
 歌って欲しくない。
 歌って欲しい。
 ふたつの言葉、ふたつの意味が、頭のなかでぐるぐると回る。
「いまここで、目先のために無理をして、歌って欲しくないんだ。だって、モモにはずっと長く、一日ずつを大事に、歌って欲しいから。何年後も、何十年後も、歌っていて欲しいから」
「なん……
「いつかモモは、今回よりさらに高い音を取り混ぜた曲だって歌えるようになる。焦らず気長に見ていけばいい。トレーナーにもそう言われただろう?」
 使い捨ての武器として、オレはここにいる。喉なんて、あと数年持てばいい。長い目で見る必要はない。
 だって、オレは取り替えのきくスペアなんだから。
 そのはずだったのに。それで良かったはずなのに。ユキはいつも、惑わせる。

 ――何年後も、何十年後も。

 口のなかで、ドロップの最後の欠片が溶けて消えた。ユキがくれた甘さが、喉を潤し、癒し、そしてふわりとオレのなかに沁み込む。
 応えを待つユキの瞳に、オレはうつむくように頷いて、ボイトレ頑張るね、無理はしないよ、と小声で言った。
 ありふれた言葉で、昨日の続きへと着地する。明日へとまた進んでいく。
 ユキと過ごす一日一日を、大事な宝物にして。


 それからずっと、オレは、ユキと歌い続けてきた。
 ひとりで歌いたくない。そう言ったユキのために、オレは歌う。五年という期限に追い立てられながら、はるか先の未来へと歌が続く日まで。歌が届く日まで。

 そうして、届けることが出来たなら、その後は。