退屈凌ぎ事欠かない巨大な貝での暮らしを1000年間満喫した。そんな最高の暮らしを名残惜しく見送っていれば、身に余る褒美をボスから賜った。これがまた趣味のいいブレスレットなんのって、付けられた両手を目の高さまで持ってきたマタンギは心底うんざりした顔で嘆息を吐いた。
「その内労働基準法に引っ掛かるわね。ついでにパワハラでも」
左肩に止まっているコウモリのペカに耳打ちすれば、愛嬌のある顔でたっぷり頷いてくれる姿にマタンギの心に籠っていた不快な霧が薄まった。
「それにしても暇ね」
待機命令と言えば聞こえはいいが半ば押し込められた陰鬱な濃霧と石しか転がっていない素敵空間を与えられた。揃えられた細く長い足を横に流して優美な動きで膝の上で組んでいた指を解き思案するように人差し指で顎先を撫で。鼻を小さく鳴らしたマタンギが眇めた紫水晶の瞳で周囲を注意深く見渡す。
用意周到に策を練りに練っているらしくナロから声が掛かる気配はうんともすんとも無い。試しに声量を抑えこちらから呼び掛けるのも一興かもしれない。
「しないけど」
何処かのミスターココナッツオイルみたいな真似事をする選択肢を早々に除外したマタンギが大仰に肩を竦めた為、一鳴きすべく息を吸って肺に溜めていた空気がペカの口から気の抜けた口笛になって漏れていき誤魔化すように口の周りを舌で舐めとった。照れ臭そうなペカの首元にあるふかふかな毛を撫でれば気持ちいいのか目を瞑り身を委ねる姿にマタンギの顔が慈しみを帯びる。
触り心地の良い首元マフラーを撫でていたマタンギの指先がピタリと停止して、ペカもまた愛嬌のある丸い目を三角に変え唸り声を上げた。
「あらあら、あの子ってば本当に大人気ね」
柔らかい物言いに潜む静かな畏怖がマタンギの足元に漂っていた濃霧を音もなく払い除ける。大津波となって遠のく重苦しい濃霧を目で追い、周囲に捲かれた無数の監視の目の抜け道を見つけ蠱惑的に嗤う。
「休めるうちに休んでおきましょ」
張り詰めていた威圧を緩めたマタンギが目を閉じたことで濃霧が再び足元に纏わり付き、肩から膝の上にちゃっかり移動したペカもまた鋭い牙を見せ大欠伸をしたあと目を閉じた。
不快感煽る甲高い耳鳴りを受け流して意識を眠りの淵へと旅立たせ──、不明瞭で曖昧な夜の底を掬い取った世界で懸命に金色に輝くオールを振るい襲い掛かる影たちを薙ぎ払う、勇猛果敢な姿をマタンギとペカが視界に捉えた。
鮮やかなオール捌きと華麗な身のこなし。一見危なげなく脅威を御しているように見え、集中力と息が乱れ始めている後輩半神半人の無垢なる勇者に「出番が残ってそうで良かったわ」と重力に囚われない動きでマタンギが山より大きな影を瞬く間に無数のコウモリたちで霧散させた。
「……? マタンギッ!!」
判断が遅れてしまい次に来る衝撃に備えオールを正面で抱えていたモアナがそろり目を開ければ眼前一杯に映り込む逆さまマタンギに驚きよりも喜びが勝った上擦った声が出た。
零れ落ちそうなほど太陽に愛された色の瞳を瞬かせ純粋にはしゃぎ喜ぶモアナを満足気に眺め「こんな可愛い反応されたら夢中になるのも納得ね」と小声でマタンギがペカに耳打ちすれば同意と云わんばかり高速で頷いた。
内緒話する様子を怪訝な面持ちで見上げているモアナに気付き、マタンギはモアナに合わせるように上下を戻して見えない地面に下り立った。
惹きつけられる妖艶な大人の仕草は指先に至るまで品に満ち、老若男女問わず耐性が無い者が見れば忽ちその危ない魅力に虜になる事請け合い。ただし、身振り手振りを交え状況を説明するので頭がいっぱい興奮冷めやらぬモアナには効果が薄い模様。
そっとマタンギの人差し指が柔らかく愛らしいお喋りな唇に添えられ、唇から伝わる指先の感触及びマタンギの殊更柔和な面持ちにモアナが自身の失態に気付き申し訳なさそうに上目遣いで見上げた。
口を噤み目で謝罪をする素直な態度がマタンギの笑みを深める。
「いい子ね」
名残惜しくモアナの唇に触れていた人指差しを下ろした。
「あなたが聞きたい事は此処が一体何処で、何故おかしなモノに襲われたのか、違う? ふふ、そんな不安そうな顔をしなくて大丈夫よ。所謂此処は夢の中。泡沫のように儚くて、あなたを精神を引き摺り込み喰らおうとしていた性質の悪い魔物が仕掛けた悪夢になり得る可能性のあった、夢」
「……夢? これが夢? だってこんな意識と感触がはっきりしているなんて、」
「夢じゃない?」
戸惑うモアナにマタンギが言葉を被せる。
無理もない。人間の頃では到底考えられないリアルに近くて最も遠い夢の厭らしさは半神成りたての時に嫌という程味わった。正確には精神攻撃の一種であり夢と然程大差ない。
ただし、この世界で意識を失ったが最後、心身はおろか魂までも食い尽くされ一生夜の底に沈み続ける。
「で、でもっ、あなたが来てくれて本当に心強いわ! それにあの巨大な貝から出られたのね!」
マタンギが過去の記憶を頭の隅に追いやっている間にモアナの顔がパッと晴れ渡り──、気付かなくていい事に気付いてしまったお陰で曇ってしまった。
「ええ、巨大な貝の門番は卒業したわ」
あなたのお陰よ。悲しげに嵌められた手枷を見つめ続けるモアナの視線を向けさせるため、決して咎めも責めてもいないと優しい声色で語り掛ける。マタンギの声に導かれ顔を上げたが、変わらずモアナの眉尻は下がりっぱなし。悲しげに伏せられた目で再びマタンギの両手首を一括りにしている枷を視界に収め労わるように両手で包み込んだ。
「(嗚呼、本当に優しい子…)」
睫毛を震わせ涙ぐむモアナの肩にペカが静かに乗り、そのまろい頬に顔を押し付け泣かないでと慰める。
細かな毛並みがくすぐったいのか泣き笑いまで回復したモアナに安堵したのも束の間、タイミングがいいのか悪いのか二人と一匹の頭上高くに現れた青白い切れ目からムキムキな半神半人の英雄が重低音を響かせ着地を決めた。
実に膝を悪くしそうな着地に二人と一匹の視線が注がれ、その視線に応えるように釣り針を振るい青白い光をさらに強め顔を上げたマウイは予想外の人物がモアナの隣にいる事態に余裕溢れていた表情を厳めしいものに変えた。
「……無事かい迷子ちゃん」
「マウイッ!!」
剣呑な眼光で睨み深海の底から這い上がるような声にありありと含まれる警戒心。
されど、そんな事なぞつゆ知らずマウイの登場に顔を綻ばせるモアナと、マウイの威嚇を諸共しないもとい雛鳥の威嚇くらいにしか感じていないマタンギが「ほら、ヒーローって遅れてやってくるものじゃない?」と自分の肩に戻って来たペカに囁き、ペカはあからさまに顔を渋くさせた。
その一人と一匹の態度が癪に障るだけに収まらず、事実自分が遅れてしまった事で今度こそ取り返しのつかない事態に陥ってしまったかもしれない不甲斐なさの自己嫌悪からマウイは奥歯を噛み締める。
「一応、礼を言っておく」
「どういたしまして」
「だが、これで終いだ。…お前の力は借りない。必要、ない」
「遠慮しなくていいのに」
突っ撥ねた物言いをするマウイを何てことないように物腰柔らかに返すマタンギ。一方的であるものの如何せんよろしくない空気を察したモアナが仲裁に入る前にマウイが身を翻すのと同時にモアナを手招いた。
大きな半神の手がモアナを呼ぶ。はやくこっちに来い、と。モアナの眉が見る見るうちに困り眉になっていき、ずっと険しい顔付きのマウイと柔和な表情を崩さないマタンギの二人を交互に忙しなく目で追う。
如何見てもマウイはマタンギのことをよく思っていない。
しかし、モアナとしては彼女も一緒にこのよく分からない場所からの脱出を諦めきれない。踵を浮かしては下ろすをくり返し、駄目もと上等の眼差しで「彼女も一緒じゃ駄目…?」訴えかければ、険しい顔のまま顔を横に振われてしまった。
挙句の果て──。
「俺よりそのコウモリ女の方がいいってか」
冷たさを感じるマウイが紡いだ言葉にモアナの胸がキュッと締め付けられた。
まるで、3年前の無謀にもテ・カァの傍を横切ろうとしてマウイの釣り針に罅が入ってしまった時の会話のよう。モアナは嫌にドキドキする自分の胸を落ち着かせるため祖母から受け継いだ貝のペンダントを握り締め、マタンギに敵意は無い自分を守ってくれた味方側だと。
「マウイ、どうしたの…? 彼女不思議で掴みどころがないけどいい人? よ?」
祈るように言った。
「……そうかい。だったらそいつと一緒にいればいい」
だが、それはマウイにとって逆効果だった。
モアナは自分が呼べば必ず自分のもとへ来るものだと無自覚ながら思っていた思い込んでいた。マウイの中にあった絶対的な自信が、モアナがマタンギの傍から離れないだけで呆気なく崩れ落ちる。
足元から黒く這い上がる裏切られたという感情がマウイの止まっていた足を突き動かした。
「待って!? マ、」
「Ah~。まるで子供のヤキモチね。構ってくれる人を取られてご機嫌斜めみたい」
行ってしまう屈強な背中に縋るように伸ばしたモアナの手の前にマタンギがわざとらしく舞台女優染みた動きで割って入り、これまた仰々しく先の言葉を心なしか丸まっている半神半人の英雄の背中に向かって言い放った。
「おいおいおい。聞き捨てならないなその言葉。いいか? 俺は5000歳の半神だ。そこのお嬢ちゃんより全然長生きしてる、大人だ」
ゆらり振り返りジト目でモアナを人差し指で指差し、その手で自身を親指で指した。
まんまと引っ掛かったマウイに笑いたくなるのを必死に堪えマタンギが続ける。
「あら? 今度は3000歳ってサバを読まないのね。この子に若く見られたいから言ったのかと思った」
「はっ! 盗み聞きとは神らしい趣味だな」
離れた分以上にずんずん距離を詰め身長差に物を言わせ睥睨するマウイにマタンギは一切怯まない。メンチを切っている距離が最早額同士がくっ付く一歩手前の近さ。まさに一触即発。釣り針が今まで聞いたこと無いくらいバチバチと青白い音を鳴らしミニ・マウイは終始ファイティングポーズを取り、涼しげな顔で嘲笑しているマタンギの肩に乗っているペカが牙剥き出しで唸り声をあげ威嚇している。
「あっち! あっちよね!? 行きましょうマウイッ!!」
モアナ一人分じゃ足りない太いマウイの腕に抱き着き、全く動く気配のない重たいマウイをモアナは引っ張り続けた。踏ん張った足が何度も滑って一向に進まなくてもモアナは引っ張り続けた。
次期村長になるべく何度も人々の仲裁に入ったモアナの経験則上、これ以上二人を同じ場所に居させては悪化の一方だと考えた結果である。熱くなっている相手を宥めるには離すのが一番手っ取り早い。
何とか釣り針を下ろして歩き出したマウイに手を引かれ足を縺れさせながらモアナは後方に首を捻り口だけでマタンギに謝罪した。
「(……最後まで私のことを気遣うのを忘れないなんて…)それにしても彼、あれで隠しているつもりかしら」
モアナとマウイの背中が見えなくなるまで見送っていたマタンギは小さく呟き、面倒な上司に気付かれそうな気配に取り繕った態度を保ち夢の中から元の詰まらない場所へと戻っていったのだった。
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