②
チャンドラに金を渡して別れ、三か月経って再び仕事で地球に降りた。
季節がひとつ巡り、北米の西海岸は春を通り越して初夏の陽気になっている。
地球に降りるタイミングに合わせて休暇を三日間入れて滞在することにしたのはプラントで休みを取ると婚姻統制で引き合わされた婚約者候補との顔合わせをしなければならないからだ。
チャンドラのことが気になったからというのもあったが、現実に差し迫る社会的責任からの逃避の意味合いが強い。
仕事を済ませて休暇に入るとチャンドラと出会った駅の近くのホテルに移動した。
荷物を置いて駅に向かい、チャンドラと入った駅構内のカフェで窓から雑踏を眺めながらゆっくりとコーヒーを飲んで時間を潰す。
乗り換え駅のため行き交う人は多い。人間観察をしながら小一時間過ごしたが、当然チャンドラと再会することはない。あんな偶然、二度もあるはずない。
今度こそ近場の古書店を全て回って何かしらの発見があれば良いとカフェから出て構内を歩いている時に、突然背後からぶつかられた。
ドッ、と衝撃がきたがコノエはよろけただけ。ぶつかってきた方が地面に転がった。
驚いて振り返るとコンクリートの汚れた雑踏に倒れ込む小柄な女性の姿。
茶色いふわふわのショートヘアに黒いパーカー、デニムパンツに斜めがけのバッグという既視感のある姿。
「チャンドラ
…?」
まさか会えると思っていなかったので驚いた。コノエが助け起こそうと歩を進めるとつま先にカツンと当たるものがある。
野暮ったい黒縁眼鏡だ。先に拾い上げて駆け寄ると、チャンドラは泣いていたし頬が不自然に赤くなっている。まるで殴られた痕のようだ。
「え? アレクセイさん
…? なんでここに」
「仕事のついでだ。それより、その顔はどうした?」
「いや
…」
チャンドラはコノエの手を取り立ち上がったが、すぐに手を離してしまうと、赤くなったところを隠すように抑えて顔を背ける。
問い詰めようとしたら、チャンドラが来た方からいかにも柄の悪そうな男が二人走ってきて誰かを探している様子に辺りが騒然となった。
チャンドラが明らかに怯えてコノエの後ろに隠れようとしたのを見て、トラブルが発生していることを察した。
「例のアプリは削除すると言っただろう?」
「違う! バイト募集のアプリで、普通のバイトかと思って行った先がヤバい所だったって感じです。ちょっと後ろに隠れさせてもらっても?」
「もちろん」
受け答えははっきりしているが、目尻に浮かぶ涙を手の甲で拭ったところを見てしまったし、コノエの手を取った小さな指先は震えていた。
どういう理由で揉めているのかは知らないが男が二人して一人の少女に暴力を振るったうえ追い回し泣かせている。それだけでチャンドラを助ける動機になる。
コノエが振り返ったと同時に、追いかけてきた男の一人と目が合った。背後に隠し損ねたチャンドラの姿も見られてしまい「てめぇ!この野郎!」と絵に描いたような三下のセリフを吐きながら駆け寄ってきたので躊躇なく実力を行使する。
二人は大男と言って良い体躯ではあったが、所詮はナチュラル。コーディネイターであり、軍事教練をひと通り受けているコノエには簡単すぎる相手だ。
一人は鳩尾に掌底を入れて沈め、次にやってきたもう一人は足を払って転ばせた後、背中に一撃を入れて昏倒させた。
数秒で沈黙させ、騒ぎを聞きつけてやってきた駅員に「この二人が目の前で喧嘩を始めて殴り合って倒れた」と雑な説明をしてからチャンドラの手を取りその場を離れる。
小さな手を握りしめ走ること数分。駅から出て少し離れた路上で足を止めた。
チャンドラは完全に息が上がっており、そういえばナチュラルの一般人の女性であると思い至り申し訳ない気持ちになる。
「すまないね、もう少しゆっくり走ればよかったな」
「だっ、い、じょぶ、ですッ
…はぁっ、はぁ
…ッ」
初夏の気温も相まってチャンドラは汗だくだが、膝に手をついて前屈みになりつつも笑ってくれた。
「助けてくれて、ありがとう、ございます」
「どういたしまして。ここで少し待っていてくれ」
彼女の息が整うのを待つ間、目についた自動販売機で水のペットボトルを二本買ってくる。
チャンドラのところに戻れば手の甲で汗を拭ってから受け取ってくれた。
「どうも
…」
「さっきのは何だったんだ?」
「詐欺、ってことになるのかなぁ。通販の撮影のアシスタントってバイトのはずが、行ってみたらアダルトビデオの撮影でクスリ打たれそうになったんで男優の股間蹴り上げて走って逃げました。報酬は受け取ってないんで訴えられたりはしないと思うけど」
「また学費か?」
「アパートの家賃が上がって引っ越さないといけなくて。困りますよねぇ、そんな急に、言われても。あいたっ
…口の中切れてるや」
水のペットボトルを半分ほど一気に煽ったチャンドラは薄ら笑いを浮かべて言った。
「これで頬を冷やして。警察に行った方が良いのでは?」
コノエはもう一本買っておいたペットボトルを渡そうとしたが断られた。チャンドラは中身が半分に減ったペットボトルをそっと頬に当てて冷やしながら遠くを見る。
「はは、そんなことしてる暇ないっすよ。それよりなんか割のいいバイト探さないと。まぁ、殴られたりクスリとかは、困るんですけど
…」
殴られて赤く腫れた頬、涙の跡、季節が変わったのにチャンドラは三か月前に会った時と全く同じ格好をしているし、さっき握った手も前より荒れてガサガサだった。心なし痩せた気もする。
「あー、眼鏡無くなっちゃったなぁ
…」
西海岸の強い日差しに目を細めるチャンドラが本当に困ったように呟いたので胸が痛んだ。
拾って咄嗟にポケットに突っ込んでおいたチャンドラの眼鏡を出す。
「そうだ、これを」
「うわ! 拾ってくれてたんですか。ありがとうございます!」
見れば眼鏡のレンズにはたくさんの擦り傷とヒビが入っていたがこんな状態でも無いよりマシと言わんばかりの満面の笑みで受け取った。
「流石にそのレンズでは目を悪くするのでは?」
視力に問題のあるコーディネイターはほぼいない為、眼鏡をかけているというシチュエーションがまずレアだし詳しくは無いが、傷だらけの眼鏡をかけ続ければ目に負担がかかってしまうのではないかと予測はつく。
「金が貯まったらレンズ変えますから、とりあえずはこれで大丈夫です」
「そうか
…」
笑って言うが、声が震えているし、さっきからずっとコノエの目を見ない。強がっているだけだ。
「前も助けてもらって、今回もだし、学費ちゃんと払えたし買いたかった教科書も買えたし、それで来期の奨学金も貰えることになって感謝してます。何かお礼したいんですけど今金、無くて
…すみません」
俯いて告げるチャンドラの報告は喜ばしい反面、痛々しいものだった。どう見ても前回会った時より困窮している。
「そんなことはしなくて良い。そうだ、また会えたのも何かの縁だしこれから食事でもどうかな」
「あの、だから、金がないので」
「この状況で君に支払わせる訳がないだろう。ご馳走するよ」
「なんで
…」
「学費どころか食うに困って危ないバイトに手を染めようとしているところを見て、見なかったふりは出来ない。心配しなくても私は裕福な方だと思う。君に騙されて金を毟られても痛くも痒くもない程度には」
「ははっ
…何言ってんですか」
チャンドラは笑ってくれたが、コノエは冗談を言ったつもりは無かった。十六歳の女の子が困窮して暴力を受け、違法薬物で身を持ち崩しそうになるところを目の当たりにして放置できるほど非情になれない。
「これ以上寄付してもらっちゃ流石に悪いです。帰ります」
「家はどこだ? 送るよ」
まだ駅からさほど離れておらず、タクシーも捕まえられる。チャンドラの答えを待たずに車を停めると、逃げられないよう手首を掴んでドアを開けた。
「困ります。タクシー代なんか無いし」
「私が払う。いいから乗りなさい」
「でも」
タクシーの横でもたついていたら後続の車からクラクションを鳴らされ、運転手も「乗るの? 乗らないの?」と苛立った声をかけてきた。
「乗ります」
すかさずコノエが答えると、チャンドラは困りきった顔をしてコノエを見上げてきた。
「おいで」
多少無理矢理にだがタクシーに押し込むと、隣に乗り込む。
「どちらまで?」
運転手に問われてコノエがチャンドラに視線を向けると、小さな声で住所を伝えた。
目的地に向かう車内で運転手が言うには、その近くでは再開発の話があって安いアパートが地上げされて立ち退きを強いられホームレスが増えているという。
図らずもチャンドラの話の裏が取れてしまった。
二十分程の移動で到着した街は汚くて寂れており、治安が悪そうな下町だった。
煉瓦造りのボロいアパートが密集して立ち並ぶ薄暗い路地でタクシーを降りる。途端に周りにちらほらと居た住人たちから好奇の視線が向けられた。おそらく、コノエの身なりの良さがこの街の雰囲気にそぐわないせいだ。
「本当にこの近くに家が?」
「あのアパートの四階です」
チャンドラの指差した先には一際ボロい外階段のアパートがあった。
アパートの出入り口付近にはガラの悪そうな男が数名たむろしていて、それを見た瞬間、横のチャンドラが身体を強張らせたのを見てとても一人で帰らせるわけにはいかないと思った。玄関ドアの中に入るところまで見届けなければ安心出来ない。コノエは家まで着いて行くことにした。
五階建てなのに、階段しかないアパートだった。
四階まで登ってたどり着いたチャンドラの部屋はワンルームで、空間のほとんどを小さなベッドが占めている。廊下には狭いキッチンと何が入るのかわからないくらい小さな冷蔵庫。玄関以外の唯一のドアはトイレとバスが一緒になった水回りとなっている。締め切っていた部屋は蒸して暑いがエアコンは入れずにベッド横の窓を少しだけ開けて風を通した。
ボロボロになったアイボリーのカーテンが生ぬるい風に靡くが大して涼しくない。窓の外は数十センチ先に隣のアパートの壁があり景観は最悪だった。
「エアコン壊れてるんですよ。すみません」
「いや、大丈夫」
申し訳なさそうに謝られ、コノエが答えるとチャンドラは適当に座ってくださいね。と言ってキッチンに手を洗いに行った。
その間に部屋を見渡す。清潔にはしてあるようだが極端に物が少ないように思う。ベッドの前の小さなテーブルの周りだけは学校で使うと思しき書籍が山積みになっている。
テーブルの上には物件情報のチラシが数枚。記載の家賃はコノエからすると格安に思えるが、赤ペンでバツ印がついているところを見ると、チャンドラにはこの程度の家賃を支払うことも難しいのだろう。
チラシを手に取り読みながらチャンドラに話しかける。
「アパートの出入り口にいたのは?」
「多分立ち退き促進のためにデベロッパーに雇われてる人じゃないすかね。タクシーの運転手も言ってたでしょ。この辺再開発されるらしくて最近変な人がアパートのまわりうろうろしてて話しかけて来るから怖いんですよね」
「地上げ屋か」
「そうみたいです。そういう状況なんでウチにお客さんが来るの久しぶり。せっかく来てくれたしゆっくりしてもらいたいところですけど、ご覧の通り狭くて汚いし何にもなくて。何か出せるものあったかな
…」
チャンドラは冷蔵庫の中やキッチンの吊り棚の中を漁るが悲しいくらい何も入っていなかった。
今日コノエと会ったのも、コノエがここに来ることになったのも全くの偶然であり、予め貧乏生活を装えるはずもない。
これはいよいよ放って置けない状況だな、とコノエは色々と計算を始めた。
そこしか座るところがないからと勧められたベッドに腰かけ、テーブルの上の教科書や参考書を眺めるに思ったよりずっと高度な勉強をしている様子だ。
チャンドラが廊下のキッチンから戻ってくるが、手には曇ったガラスコップが一つ。しかも中身は無色透明の液体。おそらくは水だろう。
「本当に何にもなくて
…あの、何か買ってきますから待っててもらっても?」
「必要ないよ。失礼だが、かなり困窮しているようだね」
コノエが単刀直入に切り出すと、チャンドラはテーブルの上、コノエの前にコップを置くと膝を抱えて床に座って言った。
「引っ越しって金かかりますよねぇ
…」
「親御さんは?」
「もう死んでます。ここは遠い親戚が保証金出してくれて借りたところで、でもその親戚も連絡つかなくなってて」
「なるほど
…」
「アレクセイさんには悪いけど、今度こそ身体売らないと無理かも」
チャンドラはへらりと笑った。その笑みが痛々しくて胸が痛い。出来るならホッとした時に浮かべる柔らかな笑顔が見たかった。
「せっかく助けてくれたのに、すみません。あのアプリもう一回入れます」
「待ちなさい。なら君のことは私が買う」
コノエは咄嗟に口走っていた。
男に脚を開くつもりがあるのなら、自分がその相手になればいい。
そう思って言ったが、チャンドラはぽかんとしたまま固まってしまい、数秒の沈黙の間にコノエは深い後悔に襲われた。
困窮している学生の弱みにつけ込んで身体を要求するなんて最低だ。
「いや、今のはその。違うんだ」
しどろもどろになりながら弁解しようとして、ふと目に付いたテーブルの上のテキストに手を伸ばす。
量子力学、電子工学、航空力学など、プラントでも大学生が読むようなテキストばかりが積んであるテーブルの上、ルーズリーフにまとめてあるレポートの内容も高度なものでチャンドラのしている勉強のレベルの高さが窺えた。
ナチュラルの十六歳でこのレベルなら将来的に有望な研究者になれるのではないかと思った。
「未来への投資だ」
「
…はい?」
「私はコーディネイターなんだ」
「えっ、そうなんですか。そっか、納得かも。
…強いし、背も高いし顔もやたらかっこいいなって思ってました」
チャンドラからさらりと外見を褒められて、なぜか心臓がどきりと高鳴った。原因不明の不整脈に戸惑いながらも続ける。
「君の才能や努力の結果が世の中を作ってゆくことを願うよ。前途ある若者を応援するのは持てる者の義務というものだ」
「はぁ
…え、つまり?」
「私が君の支援をすると言っている」
「でもそれって、セックスするんですよね」
「しない。将来性に投資するだけだ」
「いや、そんな上手い話
…逆に怖いっていうか。自分がそんな大層な人間になれるかわからないじゃないですか。何の保障もなく金は出すって道楽にも程がありますって。大体そんな金あるんですか? あ、騙してプラントに連れてって臓器売ろうとか思ってます? ナチュラルの臓器でもいいんですか?」
チャンドラはしっかりしている。コノエの出した条件を訝しみ明らかに警戒している。
「そんなことはしない。一つ条件をつけるなら、身体を売ったり危険なバイトをするのはやめて欲しい」
「そんなことしてアレクセイさんに何のメリットが?」
「訝しむのもわかるが、若者がどうにもならない貧困を乗り越えるためのわずかな金銭と引き換えに身体を売ったり薬漬けにされそうなのを見過ごすのは非人道的だと思う。 助けられる余裕があるのだから手を差し伸べるだけで、見返りは求めてない。慈善活動だよ」
「うぅっ
…他人の口から聞くと今の状況が余計に惨めだ!」
チャンドラがガクンと肩を落として俯いてしまった。だいぶ心が揺れていると見て、あとひと押しだと畳み掛ける。
「どうしても施されることに抵抗があるなら勉強を頑張っていつかプラントと地球、コーディネイターとナチュラルの役に立つような仕事に就いてくれればいい。もしコーディネイターに差別感情があるなら無理強いはしないし、私も手を差し伸べるのを諦める」
「差別なんて、そんな! そういうのは無いです」
「良かった。ではここから引っ越す費用と生活費を少し出す。定期的に援助するから連絡先も交換しよう。成績の報告を兼ねてたまにメッセージを送ってくれたら当面はそれで良い」
「やっぱりアレクセイさんに何もメリットが無いように思いますが
…」
「言っただろう。慈善事業は持てるものの義務だ。プラントではよくある事だよ」
コノエは右手を差し出して言った。
「支援させてくれ。了承するなら握手を」
チャンドラはしばし腕組みして考えたあと、パーカーの裾で拭った右手を出してきてコノエの手を握ってくれた。
三日間の休暇で色々なことをした。
まずはその日のうちに、チャンドラの引っ越し先を探した。治安の悪いアパートにこれ以上彼女を住まわせておきたくなかった。
それまで住んでいたところより格段に治安の良い街にアパートを借りることにした。チャンドラは家賃に驚いて固辞したが家賃は当分の間コノエが支払うと約束した。少なくとも、チャンドラが学生でいる間の支払いができる程度には引き落とし口座に金を入れてある。
次にチャンドラの身の回りのものを揃えた。家具家電を新居に合わせて手配した後、食料、生活全般の消耗品、服と眼鏡を買いに行った。
何と、チャンドラの服は下着類が二枚にくたびれたパーカーとTシャツ、デニムパンツとジャージパンツが一枚。靴はスニーカーのみで引越しの荷物は学校の教材まで全部まとめても小さなダンボール箱二つに収まってしまった。
引っ越しの合間に聞き出したところによると、親は数年前に事故で亡くなり、名義の上で保護者となった遠い親戚が厄介払いも兼ねて保証金を出してくれて借りた格安アパートで奨学金を得てバイトをしながらハイスクールに通っているという。
ハイスクールを卒業すればそれなりに生きていける程度の仕事が得られるし、成績が良ければ大学進学の希望もある。
生活費を稼ぐためバイトをいくつか掛け持ちしており食事は一日に一回、しかもバイト先の賄いだけという生活を長く続けていたため、栄養不足で冬に体調を崩し、流行りの感染症にかかって奨学金の試験を受けられず貯蓄を切り崩して学費と生活費にあてていた。
所持金が底をつき三ヶ月前はいよいよ身体を売るしかないと思い詰めて出会い系アプリを入れたらしい。
コノエがあの日渡した金のおかげで学費や止められていた電気代が払えたし、足りなかった教科書も買えた。食事も一日二回食べられるようになって体調が良くなったので奨学金の試験も無事に受けられてまた授業料免除になったと嬉しそうにお礼を言われた。
あの日、間違えて話しかけてくれて本当に良かったとコノエはしみじみと思った。
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