斜某りったー
2025-01-06 19:43:41
17221文字
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俺が死んだ後にはおまえの笑顔があれば良い

剣伊
神様剣と今回は中学生伊の現パロホラー番外編その2
とある学び舎で発生した集団失踪事件から早数年。繰り返す袋小路に囚われた少年へ手を差し伸べた、月のような人と忘れられゆく呪われた神様の話
注:いつもの如く不穏・不快描写+モブが割と出張ってます


 たぎる蝉のつんざきが五月蝿い。
 口の中が甘ったるくて粘ついている。
 全身から吹き出す汗とは裏腹に、身体の芯は北風に晒された小河のように冷めきっていた。
 ガチガチと、硬いものがぶつかる音が頭に響く。
 何の音だろうか。頭の中に殻を持つ蟲の群れが這入はいり込んで、頭蓋骨を毀そうと硬い体を擦り付けているのだろうか。
 心臓はかつてないほどにバクバクと存在を主張しているのに、頭は不思議と放心していて、いっそ不気味な妄想を蔓延らせる。
 そうして逃避のように呆然と立ち尽くし——しばらくして、音の正体が合わない歯の根だったことに気がついた。

 いつからなのだろうか。
 この光景を繰り返しているのは。
 いつまで続くのだろうか。
 こんな夏が擦り寄る悪夢は。

 記憶にない既視感が反復している。
 確証なんて何もないのに、終わりが来ない確信がある。
 快晴の空が淀んで見える。
 眩むような陽射しの中、辛うじて握っていたわたあめの棒が、ずるりと落ちた。









「タダシ、リコーダーちゃんと持った?」

 じわり。

「持ったよ」




「給食袋は?」

 いら、

「ある」




「今日のプリントファイルに入れた?」

 いら、いら。

……入ってるー」




「タダシ、宿題」

 ぷつん。

「あーもううるさいなぁ、持ったって!」




 墨を一滴落とされた水のようにじわじわと侵食する不快感それが決壊したとき、少年は口を開いていた。
 叫び慣れていないせいか、変声期も迎えていない発達途上の声がひっくり返る。
「なッこら、うるさいって何よ! 大体アンタ中学生にもなって体操服忘れたのをねぇ——
「それずっと前のことじゃん! いちいち掘り返さないでよ!」
「たった二週間前でしょうが!」
もう・・二週間の間違いだろ! 昔のことばっかで年寄り臭いんじゃないの!?」
「大人になると時間経つのが早くなるんだよ! それにアンタ最近何かにつけて年寄り年寄り云うけどね、その年寄りから生まれたのがアンタ!! アンタ年寄りの息子!!」
「〜〜ッッ、……とにかく、俺もう行くから!」
 売り言葉に買い言葉。喧々諤々の応酬も、早急に痛いところを突かれてしまい母親に軍配が上がる。
 このままだと言い負けそうで、小言を遮ろうと勢いよく玄関を飛び出した。
 普段ならば、いってきます、と形作られる筈だった口元は歪み、不機嫌さをアピールするようにへの字に曲がる。
「あっ話は終わってない、って…………んもう、 いって・・・らっしゃい・・・・・! 気をつけるのよ!」

 ——

 逡巡。返事をすべきだろうか。
 明確な答えを出しきる前に大股に踏み切った足は少し捻られ、流れに任せて身体が振り向く。
 母は壁に寄りかかり、肩をすくめながらもゆるゆると手を振っていた。
 いつもの習慣をなぞり、反射的に腕が中途半端に持ち上がる。
 しかし、そこから先が進まない。開きかけた指先はぎこちなく握り込まれていく。
 そうしてうだうだと考えているうちにドアはゆっくりと閉じていき、ついには無常にも二人を隔ててしまった。




 本日も好天。浮かぶ綿雲と青のコントラストが眩しい季節。
 されど晴れ晴れとした気候とは裏腹に、少年の心にはどんよりと影がさしていた。
 それもこれも登校してからこちら、朝の口喧嘩への後悔がじわりじわりと浮き上がってきたのだ。
 おかげで楽しみにしていた体育の授業すら身に入らない始末。
 顔面に思いっきりボールをくらったせいで未だヒリヒリする鼻っ面を摩りながら、黒板に書き連ねられた数学の公式を板書していく。
 教師が赤いチョークで例題の解法のポイントをぐるぐると囲っているが、いまいち内容が頭に入ってこない。科目への苦手意識も相まって、数字の羅列が異国の言語のように感じられる。
 完全に削がれた集中力はどこかへ飛び立ってしまったが、所詮は中学、それも一年目で習う範囲。上の空でもまだ何とかなる。危機感の薄さから教師の解説が余計に遠のいていく。
 すっかり学生の本分を放棄した少年の思考は、もっぱら最近の己の言動に着目していた。
 中学に上がってからというもの、些細なことが癇に障るようになった。枠に押し込められているような窮屈さ、とでも云うのだろうか。漠然とした鬱憤が溜まるせいで、介入される、指摘される、そういった他者に対してやけに反発してしまうのだ。
 特に被害を被っているのは母親だろう。今朝の出来事だって、悪いのは完全にこちら側であるのにあの言い草。しかも今回が初めてではない。やけに刺々しい態度を続けていれば、そりゃあ肩もすくめてみせるわけだ。
 今になっての自己嫌悪、顔を伏せる。
 これがいわゆる、ハンコウキ、というやつなのだろうか。

——き、おい、聞いてるのか人貫ひとぬきー?」

 ハッとして顔を上げると、先ほどまで背を向けていた教師が不思議そうにこちらを見ていた。
 握られたチョークがカツカツと黒板に書かれた問題を指し示している。
 少年は一瞬呆然としたが、解けと暗に言われているのだと気付き、跳ねるように立ち上がった。
 慌ただしく黒板に向かうも机の脚に足を取られ、つんのめり声が漏れ出る。
 今日はなんだか全てが上手くいかない。
 クスクスと笑う周囲の声に羞恥で顔を赤らめながらも、少年は、家に帰ったらまず謝ろうと決意した。


 結局最後まで授業に身が入らないまま終わってしまった。
 談笑する相手もいないまま上履きを履き替え、玄関を潜る。他のクラスの生徒たちがふざけ合いながらこちらを追い越していくのを横目にとらえて溜息をついた。
 ほんの少しの疎外感。
 常であれば小学校からの付き合いである友人と肩を並べているのだが、彼はなんとも間の悪いことにここ数日風邪を拗らせている。そのため今日は一人で帰らなければならない。居心地が悪くリュックサックを無意味に揺らす。
 もうさっさと帰ってしまえと足早に立ち去ろうとして——歩が緩んだ。
 正門近く、学生たちがまばらにたむろして、何かを頬張っている。
 首を傾げつつも近寄ってみれば、その正体はすぐに解った。

「わたあめはどうかなーおいしいよー」

 やる気があるのかないのかはっきりしない平坦な声。今どき滅多にお目にかかれないであろう使い古された木製のこぢんまりとした屋台には、これまた腰の曲がった枯れ木のような老爺が機械から出ている綿をぐるぐると割り箸に巻きつけている。
 値札はない。屋根もない。綿菓子機自体も所々錆が目立つし、老爺の見てくれだって伸び放題の白髪を適当にバンダナでまとめているような杜撰さだ。お世辞にも衛生的とは言い難い。
 はっきり云って異様である。
 そもそもここは中学校。校内の敷地に勝手に屋台を構えて良いのだろうか。
 なんて疑問が頭の中を駆け抜けるが、正直なところ、少年は少し浮足立っていた。
 確かに風体は怪しいし古臭いが、良く云えばレトロで趣があるともとれるだろう。それに、買い食いという響きは背伸びしたがりな年頃の少年心をくすぐるのだ。さながら夏祭りの夜、親からもらった千円札を握りしめ、屋台を吟味するような高揚感。年季の入った駄菓子屋に心惹かれてふと足を止めるような心地とも云うべきか。
 吸い寄せられるように屋台へ近づくと、何も云っていないにも関わらず、老爺は手に持っていたわたあめを差し出してきた。

「おだいはいいよー、おかねじゃないからね」

 それだけ云うと、シミだらけの浅黒い顔がくしゃりと歪む。剝きだされた黄ばんだ歯がやけに目につく。どうやら笑いかけてくれたらしい。
 ぺこりと軽く会釈するも、老爺は急に表情を消し、こちらを見ないままわたを巻き付ける作業へ戻ると、またもやあの妙に平坦な声で呼び込みを始めた。
 そそくさと退散し、木陰になっている少し離れた道端に腰を据える。割りばしに巻き付くわたあめは夏場特有のむわりとした生温い風に揺れ、何とも頼りなくたなびいている。大口を開けて頬張ってしまえば二口程で終わってしまうような儚さだ。
 祭りで目にするものと比較するとどうしても見劣りするが、まあ、タダでもらったものに文句をつけるのは無粋であるし。わたあめ・・・・成し・・いるの・・・だから・・・これは・・・わたあめ・・・・なのだ・・・ろう・・
 そうして周囲の彼らと同じく、少年は一口、わたあめを齧る。
 ふわりとした口当たり。次いでとろける甘いザラメ。出店に出されるそれと同じ、期待通りの味である。舌に残るぐにぐにとした・・・・・・・触感を楽しみつつ、さてもう一口と飲み込もうとして──

『知らない人からもらったものは食べちゃいけません。毒だったらどうするの』
『大げさ
『アンタはまーた他人事みたいに。変な人ってのは世の中には必ずいるの。あとで泣きついたって遅いんだから、危機管理はちゃんとしなさい』

 動きを止める。
 気分が低迷する。今になって急に不安になってきた。
 いや、口にしてしまっているのだから既に手遅れなのだが、飲み込んではいないしまだ大丈夫なのではないか。それに周りの子もみんな食べているし。待て、今大丈夫だからといっても後で全員お腹を下すかもしれない。そもそも衛生面的にやっぱりよろしくないのではないか、等々。
 本当に遅いのだが、口に溜まった甘い液体にそれとない危機感を抱く。急激に減衰した食欲も相まって、到底飲み込む気にはなれない。ちらりと老爺の方を伺いこちらを見ていないことを確認すると、木の裏へと回り、行儀が悪いことを承知でペッと吐き出させてもらった。給食袋から取り出した箸箱に割りばしをしまってしまえば証拠隠滅。
 尾を引く後味の悪さを振り切るように、少年はその場を後にした。





 口に広がるザラメの甘さに違和感を感じ、少年は飲み込もうとする動作を取りやめる。
 そうだ。よくよく考えればこんなところで油を売っている場合ではない。謝るにしたって怒らせるような火種を作ってどうするのだ。
 それにしても、なんだかこの味、最近食べたような。
 吐き出したそれに少々の罪悪感と引っかかりを感じたものの、まあ気のせいかと少年は正門へと歩き出した。






 甘い。眉を顰めて、動きを止める。
 あれほど美味しそうに見えたわたあめがくどく感じる。今日の給食にデザートはなかったのだが、はて。
 もしかすると暑さのせいかもしれない。先程から胃の底に鉛を流し込まれたかのような気怠さを感じる。知らないうちに夏バテになってしまったのだろう。
 自覚すると何だか気が滅入ってきた。割りばしも持って帰る気にはなれない。なんだか見るのも嫌になって、視界の端に映った溝蓋みぞぶたに捻じ込んだ。
 ポイ捨ての四文字が頭を過ぎったが、やってしまったものは仕方がない。
 ボトンと落ちた割りばしは底に溜まった雨水の中へ。シュワリと泡を吐き溶け出すわたあめを横目に、少年は足はやに立ち去った。





「わたあめだよー」





 甘い。あまい。





「あまぁい、ふわふわとろけるわたあめだよー」





 気持ちが悪い。





「あとはきみだけなんだよ」





 帰らなければ。





「おいしいよー」





 きっと、気のせいだ。





「だってかんびなあじって、こういうことをあらわしているんだろうからね」





 きっと、こんな光景は全部まやかしだ。
 きっと帰れる。帰れるに決まってる。そうでなければ可笑しいじゃないか。





「そこのぼくー」




 ……あれ。





「さいごまでさぁ」





 これ、





「のこしちゃだめっておそわらなかったの?」







 ──はじめてじゃ、ない?







「う゛、ッ゛ぇ、え゛ぇえぇ……!」

 せりあがる吐き気に襲われ、胃の中のものをすべてぶちまける。
 食道が痙攣する。頭がズンと重くなって、ガンガンと痛みだす。酸味で涙がにじむ。くらくらと眩暈がして世界がぐるりと一回転する。立っているのか座っているのか、上にいるのか下にいるのかも解らない。
 膝をつき、必死に息をする。犬のようにハッハッと舌を出し涎を垂らす様は滑稽だろうが、なりふり構ってはいられない。
 吐くものがなくなっても胃がひくつく。背中を丸めて瞼を閉じ、襲い来る耳鳴りが治まるのをじっと待つ。
 数回の嘔気を耐えたのち、漸く波が引く。何度か瞬きして涙を落とし、クリアになった世界を捉えて──異変に気付く。

 誰もいない。

 人の気配がない。声もしない。生活音さえも聞こえない。
 否、否、一人だけ存在を許されたものがいる。

 あの老爺だ。
 首を真横にぎしぎしと傾げ、こちらを覗き込んでいる。
 腕を止め、ただこちらを。
 沼のようにぬとりとしたまなこが、何かを待ちわびている。

 何を?
 たべろ・・・と。
 かきあつめて、のみこんでしまえと、促している。

 多分、そうすれば楽になれる。
 予感だ。きっともうこんな景色は終わりになるという確信さえある。
 逆を云えば、受け入れない限りこの地獄は繰り返すのだろう。
 逃げても、眼を逸らしても、終わりはなく、永遠に。
……けて」
 それでも、まだ生きていたい。
「たす、けて」
 まだ、消えたくはない。
「だれか……、たすけてよぉ…………ッ!」
 藁にも縋る思いで、必死のSOSを絞り出す。
 おそらくこれすら初めてではない。誰もいないことは知っている。声なんて届かないことは察しがついている。所詮伸ばした手は虚しく空を掴むだけだと、理性は冷静に諭してくる。
 それでも、諦めてしまえば本当に終わってしまうから。

「ねぇ、だれか、かみさま、……だれでもいい、だれでもいいから、ッおねがい、ここからだして……!」

 まだ、ただいまって、ごめんなさいすら、云えてないから。




「──センパイ・・・・の頼みとあれば断われないか」




 それは、この異様な場においてはいっそ似つかわしくないほどに静謐な空気を引き連れやってきた。
 年頃は二つか三つ程上だろうか。他校の制服を身に纏う少年は、まるで散歩のような気軽さでここにいる。
 重たげな前髪からちらりと覗く瞳に揺らぎはなく、惑いもなく。一見冷たくも感じられるが、確かにそこにある輝きは星さえ隠れた夜闇より注ぐ、一条の光のような。
「偶さか寄る機会があってな。それで声が聞こえたので乗り込んだわけだが……よくぞここまで耐えたものだ」
 老爺から庇うように背を向ける彼の声は穏やかで、呆然とした頭へするりと溶け込み思考を引き戻す。
「あ、あの、」
「うん? ……ああ、そうか、そうだな、この場合、先にこう云っておくべきか」
 何故ここに来ることができたのか、声が聞こえたとはなんだ、あなたは誰なのか、これからどうするのか。
 何を云うべきか、いやまずは感謝から述べるべきか、未だ混乱を残しつっかえる言の葉に彼は振り向き僅かに首を傾げた後、得心が行ったように一つ頷いた。
「あとは全て任せておけ」
 口の端を緩く持ち上げて、たおやかに微笑む。
 こみあげる不安を一言で打ち消してみせたその姿は、鈍くも光る月のようであった。


「とは云え俺が太刀打ちできるわけではないが」
「え」
「おっと、あー俺自身は、という話だ。手はあるからそう不安にならずとも良い」
 さらりと零れた文言に目を剥けば、彼は気まずそうに言い繕って肩にかけていた鞄へ手を入れる。
 これで顔でも拭いてくれ、と手拭いを渡され、先程まで盛大に吐いていたことを思い出し顔に熱が集まっていく。涙やら鼻水やらありとあらゆる液体で汚れた顔面は見るに堪えない惨状だろう。有り難く拝借して隠すように顔を覆う。
「時に、ここへ閉じ込められたきっかけに心当たりは?」
 粗方拭き終えたのを見計らったのか、徐に問いかけられる。
「帰るときおじいさんからわたあめを貰って、食べたらいつの間にか……あ、これありがとうございます、ええと……
 名前を聞きそびれた。先を察したのか、少年は伊織だと名を明かす。
 伊織先輩と口にすると一瞬奇妙な顔をしたが、こちらが訊ね返す前に敬語はいいと手拭いを受け取られる。
黄泉戸喫よもつへぐいをなぞったか。恐らく口にした時点で元の世界に戻れなくなる手合いだな。察するに、おまえ、受け取ったは良いが飲み込むまでには至らなかったな?」
「はい、あっ、うん。吐き出して、それからはずっと、覚えてないけど同じことを繰り返してる気がする」
「半端に口にしたため干渉され起点にされたのだろう。だが、どうやらあちらもそれが限界らしい」
「なんで解るの」
「奇妙に思わないか? 先刻からあの怪異、俺たちを襲おうとはしてこないだろう」
 そうして少年──伊織は、一歩身体を引く。
 今まで彼に隠れて見えなかったが、確かに老爺はこちらを見てくるばかりで近付きもしない。
 こころなしか、感情の読めない表情が恨めし気に感じられる。
「それにしても、わたあめとはまた」
「? 何か変?」
「──いや、いっそ都合が良いか。視えるものばかりが全てではないが、だからと云って全てを視る必要もない」
 伊織は不思議そうに瞬きをする少年の口元、先程までこびりついていた赤く・・滴る・・一筋の跡を思い起こす。

 ——時に、内臓のことをわたと呼ぶこともあるそうな……などと、水を差すこともあるまい。

 真白い手拭に染み付いた汚れをそっと隠し、何食わぬ顔で真相に蓋をした。

「まあ種が割れればこんなものだ。所詮は虚仮威こけおどし。だが出口がないのもまた事実」
「じゃあどうするの?」
「強硬手段だが、こじ開ける」
 そう云うと、伊織はゆっくりと怪異へ向かい歩き始めた。
黄泉戸喫よもつへぐいとは、あの世の食物を口にした者はこの世に戻れないという観念だ。古事記にある伊邪那美イザナミの話が有名だが、つまり何が起こるのか。その地に応じた身体に作り替わる、楔を穿たれる、……若しくは契機としてその地の者・・・・・干渉される・・・・・ことを赦す、とも考えられる」
 ちょうど、少年と怪異の中間あたりで歩を止める。
 シャツの下から、首に下げられたあるものを取り出す。
「ところで、この町の神社に祀られている神は水を操る。俺は昔から怪異には遭いやすくてな。手水がてらあれが生む水にはよく触れるし、何度か飲まされてもいるのだが……
 柏手を一つ。
「故に、こんなこともできる」
 掌に挟んだ翡翠の勾玉。
 三つ連なるそれ、そしてこの身に巡る、神とのえにしを手繰り寄せる。

かしこかしこもうす。けまくもかしこ水神みなかみよ、諸諸もろもろ禍事まがごと、罪、けがれらむをば祓へ給ひはらえたまい清め給へたまえもうす事を、聞こしせとかしこかしこもうす」

 空気が変わる。
 纏わりつくような熱気が引き、水を打ったかのような静けさが伊織を中心として波紋のように駆け抜け、時が遡るかのように戻っていく。
 怪異たる老爺が一歩退こうとしたときには、全てが終わっていた。

「欲をかいたな怪異。招くべきではなかった。俺は餌で、門でもある──本命はあちらだ」




「──カミの手付きに手を出すなと、どうやら教わらなかったらしいな」




 神が降り立つ。
 豊かな黒髪を背に流し、白妙の衣を纏う手には蛇行剣が握られている。
 気品あるかんばせは女か男か区別がつかない。
 そうして嵌めこまれた美しい黄金の瞳がこちらを向いて──、
「き・み・なぁ~~~、喚ぶのが遅い!!!!」
 厳かな立ち姿はどこへやら。間髪入れずに蛇行剣を伊織に向けやいのやいの騒ぎ出す様子は弟さながらだ。
「遅くはないだろう。現にほら、間に合った」
「ああ云えばこう云う~~! 私は気を揉ませるなと云っているのだ!! 大体急に『囮になる、道は後で作る故頼んだ』などと抜かして消えられた私の身にもなってみろ!!」
「それは済まなかった。だが意図は伝わっていたようだな、助かった」
「きみってやつはぁ……っ!!!!」
 暖簾に腕押し。馬耳東風。のらりくらりと躱す伊織の態度はおよそ神に対するものとは思えない。
 いや、気安いと云えば良いのだろうか。気の置けない仲であることが伺える。
……まあ、良い。きみは後で説教するとして」
「む、セイバー」
「問答無用!! それはそれとして、そこのきみ」
 びしりと剣──ではなく指を指され、反射的に背筋が伸びる。
「あれほどの時をよく生き抜いた。人の子には随分と酷だったろうに。よく、頑張ったな」
 庇護するようにふわりと微笑まれ、心臓が跳ねる。
 先程同じく登場した彼に感じたものとは別種の心地。
 またもや顔に集まる熱を悟らせないよう、慌てて頷く。
「さて、では斯様な地、疾く去るとしよう」
 セイバーは蛇行剣を翳す。
 繰り出すは荒々しき水の大波。
 飛沫が全身に飛ぶ。恐ろしいまでの勢いだ。
 しかし何するものぞ。ここに 御座おわすは百戦錬磨の善為す皇子。
 意気揚々と跳び乗ると波を操り突進する。
 いつかの日、伊織に余興として見せた白波の名を冠する技は、怪異を巻き込み藻屑と消し去った。


「セイバー、やりすぎだ。空間が崩壊す……ああ、その前に水で溢れるな。溺れると面倒なことに」
「むう、その前に出れば良いだろう! ほら、さっさと繋ぐ!!」
「解った解った。悪いが手を繋いでくれ。でないと死因が溺死になる」
 伊織が怪異を虚仮威こけおどしと称した訳が迫りくる。
 どうやらこの空間、見かけよりずっと狭かったらしい。
 差し出された手を必死に握る。壁となり襲い来る波にぶつかると思った瞬間、瞑った瞼すら貫くほどの閃光が走った。




 そっと目を開ける。
 辺りには少し古ぼけているような気もしないでもないが、馴染みのある校舎とグラウンドが広がっていた。
 敷地に面する道路を行き交う車から元の世界に戻れたことを確信すると、少年は震える程握り込んでいた手を解き、頭を下げた。
「あのっ二人とも、助けてくれてありがとうございました!」
「俺はただあの場に居合わせただけだ。俺の分はこの……セイバーに云ってくれ」
「またそうやって……云っておくが、きみが先導しなければ私が駆けつけることもできなかったのだからな、感謝は素直に受け取っておけ」
……確かに無粋か。……その言の葉、有り難く頂戴する」
 感謝される立場であるのに頭を下げられ慌てて上げさせる。
 時折古風な言い回しをしているが、癖なのだろうか。
 もしかすると隣にいる彼──或いは彼女?──の口調が移ったのかもしれない。
「そう云えばきみ、こちらに戻っても私が視えるのか」
「え、見えるものじゃないんですか」
「普通の人間は私の影すら捉えることが適わないさ。きみ、昔からそういったものを視た経験は?」
「ないです」
「であれば後天的に開花した線が高いな。一時的であれば良いが……もしかすると、一生あのようなものが視えるやもしれん」
 深刻な面持ちで告げられるが今一つピンとこない。
 助けを求めるように向けられた視線を受け止めた伊織は口火を切った。
「視えるということは、即ち視られていることと同義。認識する者に対し、あれら怪異は目をつけやすい。程度に寄るが、要は襲われやすくなる。あの怪異は黄泉戸喫よもつへぐいを模倣していた。未遂ではあったが、半端に口にしたおまえは影響されてピントが合っている状況なのだろう。往々にして時が経てばぼやける・・・・が、それが何時になるのか、明日か、一年か、はたまた死ぬまでか……そこまでは解らないな」
 つまりは、死ぬまであのような化け物が付きまとってくる可能性があるのか。
 肝が冷えるどころの騒ぎではない。ただでさえ恐ろしい目に遭ったのに、それが一生続くかもしれないなんて。
 そして恐らく、根拠を示さずとも実感に満ちた物言いである伊織という少年が、日夜自分が遭ったあれよりも悍ましい何かと相対してきたのだということを察し、一層慄く。
「まあ、最悪の事態を想定すれば、という話だ。イオリも云ったが、大半は数か月もせずに視えなくなる。それに、遍く怪異が視えるわけでもなし、波長の合うものが視えるのみだ。怪異と云えどそこら中に蔓延っているわけではない。この付近一帯に限れば、早々下手なことは起きまいよ」
 縮こまる少年を哀れに思ったのか、セイバーは慰めるように言の葉を投げかける。
「暫く不要な外出は控えるに越したことはない。まあどちらにせよ、聴取やらで拘束されるだろうが……
 伊織はそう云いながら、鞄から取り出した紅い手帳に何やら書き込んでいき、ビリ、と破く。横から覗いていたセイバーは意味深に伊織を凝視していた。
「もし何か異変に 気付いた・・・・のならば、ここに書いてある住所に来ると良い」
 渡された紙片には簡素な地図と、丁寧な字で住所が書き連ねられている。
「ここって」
「セイバーを祀る神社だ。かなり趣はあるがな」
「きみ、なにいけしゃあしゃあと」
「俺もここにいることが多い。覚えておいてくれ・・・・・・・・
 伊織はセイバーに構わず続けているが、先程のような掛け合いの一つなのだろう。
 わかったと云いポケットにしまうと、セイバーもこれ以上長引くのを嫌ってか口を閉じた。
「あっそうだ。俺、早く帰らなきゃ」
……そうだな、それが良い。きっときみを待ちわびていることだろう」
 含蓄深くセイバーが頷く。
「一人で帰れるか? 不安なら途中まで送っていくが」
「うーん、……いや、大丈夫。家すぐそこだし」
 気を利かせてくれた伊織の提案に甘えるか悩むも、この程度の道のりで頼ってしまえば今後の生活などままならない。
 それに、見栄とも云うべきか。
 ちらりと伺った先、セイバーが不思議そうに首を傾げるので急いで眼を逸らす。
 そのまま正門を通り越し、振り返る。
「今度お礼に行きます! 絶対に!!」
 勢いに任せ一礼し、家に向かって駆けだす。
 まずはただいま、次に云うのはごめんなさい、だ。


「きみ、どういうつもりだ」
「どうもこうも、常套句だろう」
……、まあ良い。…………あの童、どうなるだろうな」
「さて、四年で済んだと取るべきか、四年もかかったと取るべきか……それを決めるのは、彼と、彼の周りがすべきだろうな」
 正門前、老朽化した掲示板に隙間なく貼り付けられたおびただしい数の捜索願。
 日に焼けて褪せたものが目立つ中、更新したのだろうか。そのうちの一つ、人貫ひとぬきただしと書かれ先程別れた顔と同一の写真が載せられた、比較的新しいポスターが最前面に貼られている。
 枠が足りず、紙を紙で覆う有様。恐らくこの膨れ上がった紙の束には、そして、あの異空間には、日の目にさえ当たらず埋もれていった誰かがいるのだろう。
 本来であれば四つ歳を重ねる筈だった 先輩たち・・・・を横目に、伊織はその場を後にした。





─██新聞号外『“集団神隠しか?” ██中学校生徒 行方不明者続出』一部抜粋─
 ██町、町立██中学校にて、17名の児童生徒が██日午後下校途中にいなくなり、両親から██署に捜索届が出された。同署は同日、事件・事故の両面から捜索を開始、██日午後三時、公開捜査に踏み切り、発見に全力をあげている。同署は生徒の失踪時、██中学校の敷地内に不審人物(男性・60代後半から70代前半)がいたとの情報を入手、この男性の特定を急いでいる。(中略。以下、生徒の名前、顔写真、男性の似顔絵などが情報と共に載せられている)





 とっぷりと夜も更けた頃、少年は漸く解放されたと息をついた。
 鍵を開けて入ってみれば家の中は惨憺たる有様で、日も高いというのにカーテンは閉めっぱなし、部屋は辛うじて片付けはされているものの、どこか陰鬱な空気が漂っていた。
 恐る恐るリビングへと踏み込んでみれば、テーブルに沈む女性が一人。重苦しい雰囲気から、一瞬誰か解らなかったほどだ。
 父が帰ってきたと勘違いしたのか気だるげに持ち上がった顔がみるみるうちに驚愕へと変わり、脚をもつれさせながら縋りついてくるまで然程時間はかからなかった。
 いつも気丈な母があれほど取り乱すさまは初めて見たし、大の大人が人目をはばからず──その場には母と自分しかいなかったが──大泣きする様なんてもっと見たことがなかった。仔細は省くが、今後一生見たくはないし、させたくないと決意するのに十分な悲惨さであったとだけ述べておこう。
 質問攻めに注ぐ質問攻め、合間に挟まれる号泣、嗚咽、安堵、幻覚・幻聴と疑いセルフビンタ、エトセトラ。
 ともすれば洪水のような問いかけに少年は置いていかれっぱなしだった。何せ自分がいなくなっていたのなんて精々数日か長くとも数か月程度だと思っていたので、まさか四年も歳月が流れているとは想像だにしなかったし、第一化け物に変な空間に閉じ込められて永遠に時間を繰り返してました、運が良かったのか伊織という先輩に助けられました、なんて突飛な内容をこの母に伝えたら卒倒しそうで到底云えそうにもなかったからだ。
 結局失踪していたころの記憶ははっきりしない、学校を出たところまでは覚えているとだけ返し、なあなあに流すしかなかった。
 幸か不幸か母は事件性があり記憶を失っていると解釈したらしく、命だけでもあってよかったと抱きしめられたので、取り敢えず危機は脱した訳だ。
 詳しい話は後日警察署で話すことになっている。五体満足健康体であり精神状態も良好であることから、今は母子共々一緒に過ごす時間を作りましょうというごもっともな口上を述べる警察に、母が電話越しに頭を下げていたので間違いはない。
 父はどうしても抜けられない仕事があり早退はできないものの、あともうしばらくすれば帰ってくるはずだ。
 ずっと目に入る場所に居続ける母の思いも察するが、なんだか気まずくなり汗が気持ち悪いからお風呂に入りたいと頼み込んでから数十分。
 ピロリンとなる通知音に腰を上げる。
 母をなだめすかして脱衣所に行き、下を脱ごうと足を引き抜こうとしたとき、ポケットからはらりと何かが落ちた。
 怪訝に思い拾い上げる。 無地の紙片・・・・・のようだ。
 なぜこのようなものをしまっていたのか解らない。が、どうせ取るに足らない理由だろう。
 思い当たる節がないため・・・・・・・・・・・一気に関心が失せ、少年はそれを小さく丸め、ダストボックスへと放り投げた。