しちろ
2024-12-22 15:52:00
16964文字
Public LOM・連載主人公の短編
 

十五夜草

男主の昔話。一周目と周回終盤。

 翠の風吹き渡る、夏の日だった。
 空の下、誰かに語りかけられた気がした。
 不思議だ。
 なぜ、君は自分の名前を知っているのだろう。
 なぜ、君はそんなに泣いているのだろう。
 初めて会うはずなのに。
 なぜ、自分は君を知っている気がするのだろう。

「うん、わかった。約束する」
 シオンがそう答えると、風がまた吹いた。

……約束?」
 自分で言っておいて、首を傾げてしまった。何の話だろう。
「今……誰かいた……かな」
 そんなはずはない。ここにいるのは十何年も自分だけだし、もちろん今だってそれは変わらない。盛夏も間近な風は頭上の大樹を大きくそよがせ、無人の草原を波打たせながら遥々駆けていくばかりだ。
 腑に落ちないし、もやもやする。
 しかしそんな気分はすぐに忘れてしまい、シオンはその日の残りをいつもと変わりなく過ごした。

 その日の夜、彼は大きな樹の夢を見た。
 
 

十五夜草



 1

 シオンは、誰からも忘れられた場所にひっそり暮らしていた。
 住まいは、広大な草原の中にぽつんと立つ、大樹に守られた小さな一軒家。物心ついた時にはそこにすでに一人でいて、住み慣れた家から出てどこかに行こうなどとは思いもしなかった。
 教えてくれる者がいないから外の世界には興味を持たなかったし、生きるためにどこかへ出て行く必要もなかった。食料は自宅の果樹園や付近の鳥獣を獲れば賄えた。足りないものがあれば器用な手先を活かし、自分で道具を整えることができた。退屈したら、そこいらの精霊相手に楽器を奏で、あるいは書斎の本を読めばそれなりに楽しかった。
 一人でいることが当たり前で、孤独だとか人恋しいとは思わなかった。炎が欲しければ火の精霊を呼び、夜には光の精霊で明かりを灯し、まるで空気に溶け込むように生きていた。それが人と比べて少し変わった生き方だとも、当然、知らないまんま。
 ある日、玄関前に緑色の丸い物体が落ちていた。
 見たことない生き物だ。それとも植物か。手足のようなものがあり、丸い頭らしい部分には顔があり、さらに目と口がついている。
「どうしたの、君」
 しゃがんで話しかけてみると、緑の丸はカサカサの口を、いかにも『やっと』という風に動かした。
……かれそうです」
 しゃべった。話しかけたのは自分だが。
 シオンは、裏手にある作業小屋から古い植木鉢を探してきて、萎れたサボテンを植えてやり、水と肥料を十分に与えた。なんとか命拾いしたサボテンは、この家が気に入ったのかあるいは家主に恩を感じたか、そのまま居ついてしまった。
 はじめて、家族らしいものができた。

 数年が過ぎた。

 何でもないはずの、いつもの朝だった。
 シオンはベッドから起き上がったまま、妙な顔で制止していた。
 そもそもあまり寝起きが良くないので、起き抜けはぼんやりしていることが多かったのだけど、この日は、いつもなら目が覚めた頃合いを迎えても黙りこくって、むっつり考え込んでいる風だった。
 気になったらしいサボテンが、珍しく自分から話しかけてきた。
「シオン、どうかしましたか?」
……夢を」
 言いかけてそっぽを向き、なんでもないと言った。
 夢を見た。変な夢。
 空に浮かぶ巨大な樹が語りかけてくる、奇妙な夢だ。
 
 私は愛です。
 私を見つけ、私へ歩いてください。

 空間の狭間で揺らめく樹。七色の光を音に紡いだような、清らかな声。薄らいだマナの気配。
 果てしなく遠く感じるのに、どれもが夢とは思えないくらいリアルで、真に迫っていたと思う。
 どういう意味だろうか。あの樹が愛? 愛って何だろう。
 少し時間をかけて考えてみたが、夢は夢に過ぎない。答えなど出ない。

 でも、あの声の人……なんだか。

 どうしたのとサボテンに再び聞かれて、何でもないとさっきと同じ返事をした。
……サボテン。君は、外から来たんだっけ」
 ふと浮かんだ疑問を、小さな友人に訊ねてみる。
「ここの外って、何がある?」
 サボテンの目が丸くなった。いや、彼の目はもともとまんまるだけど、なんだかそんな気がしただけだ。
 サボテンはうーんと首を左右に振って、こうとだけ言ってきた。
「そういうこと、シオンからはじめてきいた」
……
 答えるつもりはないらしい。
 シオンは居間に降りて、籠に積んであった林檎をひとつ取り上げた。
 簡単な朝食を終えて身支度を整え、帽子をかぶり、玄関脇に立てかけてある大剣を手に取る。いつもの狩りに出る前の、いつもの習慣のつもりだった。そこまでは。

『私を見つけ、私へ歩いてください』

 不思議な夢の、不思議な呼びかけ。
 歩くとは、どこへ歩いて行けばいいのだろうか。どこにあるかもわからない、そもそも実在するのかすらわからない、あの、大きな樹を探せばいいのだろうか。
 ふと、家の外を見た。
 今まで、気にも留めなかった、些細なことが目についた。
 そうか、道があるのだ。この家から、外の世界へ続く道。
 シオンは今まで、外へ出かけようと思ったことはなかった。興味がなかったし、必要を感じなかったから。
 けれど、この日初めて思った。この道の先には、何があるのか。この道は、どこへ続いているのか。あの大きな樹も、探せばどこかに存在しているのだろうか。
 行ってみよう、と思った。
 なにか見つかるかもしれないし、なにもないかもしれない。けれど、たまには知らない場所へ出て、自分の知らない何かを探してみるのも、いいかもしれない。
 そんな風に思っていると、
「こんにちは、シオン」
 なにやら、大きな葉っぱがとことこと歩いてやってきた。
「誰? 君」
「はじめまして。ボク、草人」
 葉っぱ、だけど葉っぱではない。全身を大きな葉で覆いつくされた、不思議な生物だった。辺りの草原にある木々や、書斎の植物事典を思い出す。この辺りの植物ではなく、本のどのページにも、見たことのない種類の葉だった。
「君、どうやらこの辺りで育った葉ではないね」
 シオンが言うと、草人は目を丸くした。
「よくわかるね。君って、すごい」
 そうだろうか。
「世界はみるひとのイメージでかわるんだって。知ってた?」
「イメージ?」
 頭に疑問符が浮かぶ。それこそイメージがわかない。
「知らなかった」
 正直に答えると、草人はにっこり笑って小さなおもちゃを差し出した。
「この積み木が、ドミナの町。もしも外に出てドミナがなかったら、イメージしてみるといい。やりかた? ごめんね、ボクにも分からないんだ。でも、きっとだいじょうぶ。君のココロがその方法をしっているから」



 2

 世界は不思議だ。
 なんていろんなものがあるんだろう。
 家から一歩出るごとに新たな発見があり、出会いがあり、交友関係が見る間に広がった。どれもあまりに多いから、忘れないようノートにつけた。
 そのうちのひとつが人物事典。一人二人から始まったが、知り合いが増えるごとにページ数も増えてくる。一頁目は珠魅の瑠璃だ。ドミナの町で最初に会ったというのもあるし、のどかな町並みの中を、砂のマントを翻してのしのし歩く彼は、妙にインパクトがあった。
「真珠姫、ユカちゃん、ジェニファー、レイチェル……
 少しずつ厚みを増していくノート――この調子だとそのうち本になりそうだ――をペラペラめくってシオンは思った。うん、悪くない。かもしれない。
 新しい家族もできた。
「つぇえ! おれを弟子にして下せえ!」
「でし?」
 ドミナの町外れで悪戯していた双子の姉弟を止めると、弟のほうに強くせがまれた。自分は、彼がそんな喜ぶようなことをしただろうか。よくわからないなりに受け入れると、姉が「あわわ……」と焦りだした。
 双子がマイホームの住人になってから、数日後。
 新しい師匠相手にひたすら背筋を正し、模範生のように過ごしていた姉のコロナが、はじめて本音を打ち明けた。
「実は私たち、どこにも行くとこなくって。お父さんとお母さん、死んじゃったし。通ってた魔法学園からは追い出されちゃったし、帰る家ももうなかったから」
 だから、すこしでもいい子でいよう。家主に気に入られようとして、気を張ってふるまっていたらしい。新たな師を得て無邪気に喜んでいたバドと違い、姉のコロナはどうやら、そのうちシオンの気が変わるかもしれない、もしかしたらここからも追い出されるかもしれないと心配していたらしかった。
 シオンは素直に反省した。どうやら自分は、他者の心の機微にあまりに疎い。それからおそらく、言葉が足りないらしい、とも。
 しゃがんでコロナと目線を合わせ、シオンは言った。
「コロナ。そういうことなら、好きなだけここにいたらいい。ここには俺とサボテンしかいないし、君たちがいて賑やかな方が俺も楽しいから。もしいつか、君たちが他に好きな居場所を見つけたら、その時は遠慮なく旅立てばいい。そうした後に、もし気が変わって戻ってきたくなったら、いつでもここへ戻ってきたらいい。家とはきっと、帰ってくるための場所だから」
 新米の師が頭にぽんと手を置くと、コロナは堰を切ったように泣き出した。
 その日を境に、双子とシオンは、本当の家族のようになった。
 大樹に守られた、小さなマイホーム。住む家は変わらないはずなのに、見える景色は同じなのに、弟子ができて世界は大きく広がった。

 旅に出て、家族が増えた。友が増えた。知識が増えた。
 もっと、知ろうと思った。
 人を知ろう。ものを知ろう。世界を知ろう。
 自分が今まで、何も知らなかった分。

 そういう星周りなのか運命なのか、シオンはますます様々な出来事に関わるようになった。自ら首を突っ込むよりは巻き込まれる形になることが多く、その大半が厄介ごとだったが、それほど嫌だとは思わなかった。出会った一つ一つの出来事の先には、自分の知らなかった景色が必ずあったから。
 変わったやつ、とも言われた。
「シオンさんと話してると不思議な気持ちになるわ」
 ガトでマチルダ誘拐事件を解決した後に、ダナエが言った。具体的には、マチルダや大地の顔ガイアと話す時と似た気分になるらしい。
 ダナエに、日ごろどんな問答をしているのかと聞かれて、普段の自分を思い出してみた。
「俺の、話し相手?」
 思いつく限り、指折り数えてみる。
「サボテンとか果樹園の樹とか、たまにその辺の精霊とか」
 ダナエは無言になった。
……いろいろあるわよね、あなたにだって」
 慈愛の笑みを浮かべたダナエに、そっと肩を叩かれた。なんで、そんな優しい目を向けられるのだろう。
 他の者にもダナエと同じようなことを言われた。
「アンタ、浮世離れしすぎてて人間ぽくないというか、安全牌感すごいというか……まあ大したことじゃない、オレの個人的意見だ。気にするな」
 これは瑠璃。珠魅で人間嫌いの瑠璃も、シオン相手にはあまり抵抗を感じないらしい。悪気あっての発言ではないのはわかるが、そこまで言われたらさすがに少し気になる。
 敵対的な態度をとられることも、しばしばあった。
 こちらはエスカデ。
「世間知らずも大概にしろ。貴様のような能天気な馬鹿が、状況を悪化させるんだ。悪を働こうとする者は、最悪の事態を招く前に討たなければならない」
 修道女が襲われた現場で、悪魔のすべてが悪だという彼に、自分は悪魔を見たことがないから本当に悪いかどうか判断がつかないと返事をしたらこうだ。
 これから少しのち、エスカデとはガトのマチルダ誘拐事件で再会したが、ジャングルで一瞬会っただけの小童のことなど、エスカデの眼中にはなさそうだった。シオンからすれば強烈な印象のあったエスカデだが、エスカデからすればシオンなど世間知らずの小僧に過ぎないだろうし、そんなものかもしれない。
 遠出の外出に慣れたころ、しばらくぶりにドゥエルに会った。
「キミ、なんだか楽しそうだね」
「ああ、ドゥエル」
 シオンの顔を見た彼は、物知り顔でにやっと笑った。
「チャボくん、ドミナで初めて会った時より生き生きしてるさ。みんな、キミが何考えているかわからないっていうけどね。俺にはわかるさ。こう、キミの目がキラキラして、ハートがアツく燃えてるのが」
 ドゥエルの、兜の奥の目が、きらりと光った。そう見えるのだろうか。
「自分では楽しいのかよくわからない。出先で出会うのは、嫌なことや辛い出来事も多いと思う。失敗したり、上手くいかないことも多いし」
 正直な気持ちだった。
 出会った者は親切な者ばかりではなかったし、嘘や騙りに出会うこともあった。いくら頑張ってみても力が足りず、好ましい結果が出ないことも多かった。
「でも、いいことも悪いことも、どちらも新鮮な気がする。今まで何も学んでこなかった分、いろんなことを知りたいと思っている。ひとつ分かるともっと知りたいと思うようになる。いろんな人に会ってみたいし、行っていないところにも行ってみたい。読んだことない本もたくさん読みたい。あと、俺はチャボくんじゃない」
「それを、楽しいっていうのさ」
 ドゥエルがからりと笑う。動きに合わせて、彼の背中の槍が揺れた。
 ドゥエルの持つ手製の槍は、使っているところをシオンは見たことはないが、よく使い込まれていて年季が入っている。
「しっかし、聞けば聞くほど物好きだね。キミの周り、いつ見てもヘンなヤツばっかりでさ。あの砂マントとかウサギネコの商人とかさ、よく辛抱強く付き合えるね」
「そうかな。瑠璃もニキータも、話してみると面白いと思う」
「どの辺が?」
「基本的に他人を信用していないところとか、考え方が独特なところとか、人と違うことばかり言うところとか」
 ドゥエルは呆れたようだった。手に負えない、と顔に書いてある。
「キミ、やっぱり変わってるよ。もめ事やトラブルにばっかり遭う理由がよくわかるさ」
 ドゥエルはこれみよがしに両手を広げて、肩をすくめた。
「でもその素直さと好奇心は、友達を作るには意外と向いてるかもね。ただ、できればもう少し、言葉の選び方と笑顔を覚えるといいね。良い言葉は人間関係を円滑にし、笑顔は自分も他人も幸せにするさ。そしたらきっとキミの毎日、もっと楽しくなるさ。したらな、シオン」
 いつもの挨拶を残し、玉ねぎ剣士は妙に上機嫌に去っていく。
……名前、憶えてるんじゃないか」
 ドゥエルに初めて正しく名前を呼ばれて、気が抜けた。自分の限られた交友関係で考える限り、ドゥエルも十分変わっていると思う。さほど歳は変わらなそうなのに、言うことがやけに含蓄に富んでいる……というより、はっきり言えばオヤジ臭い。
 ドゥエルや他の者たちに言われたことが、自宅に帰っても気になった。
「師匠、どうしたの? うわの空で」
 バドに聞かれて、つい本音が出た。
……俺って、変わってる?」
 師の言葉を聞いて、双子が顔を見合わせた。難しい顔をして何を考えているかと思えば、などと思ったらしい。
「誰かに言われました?」
「言われた。いろんな人に」
 すると、双子を声をそろえて断言した。
「変わってると思います」
 シオンの返事はと言えば、短く、そう、と答えるにとどまった。弟子にまではっきり言われるとは相当なのか。
「でも、おれたちそういう師匠が好きだし、みんなもそうだと思いますよ」
「私も! マスターと会えてとってもうれしい」
 双子が、屈託のない笑顔を向けてくる。いよいよ、なんと返事をしていいのか分からなくなった。
「師匠、そんな顔できるんですね」
 返答に困る師を目の当たりにして、バドがにたりと笑った。
……顔、洗ってくる」
 なぜだか居づらくなってしまい、シオンは背中を丸めて洗面所へ引っ込んだ。コロナとバドの姉弟が、後ろ姿を見てケラケラ笑っている。





 世の中、いいことばかりじゃない。むしろ、苦いことの方が多いらしい。
 ダナエとの出会いから始まったガトの騒動は、いくらほどいても絡む糸のようで、混迷を極めた。そしてその過程で、エスカデは命を落とした。古に滅んだ王国の、風の塔の祭壇で。
 剥き身の武器を手にし、相手への殺意さえもむき出しにして牙を剥きあう僧兵と聖騎士は、もはや話し合いでどうにかなる状況ではなかった。
 ダナエに加勢するか、エスカデに加勢するか。
 選択を迫られたとき、シオンは選ぶことができなかった。
 どちらに共感したわけでも、思想的に共鳴したわけでもない。
 ただ、エスカデがダナエより強かったから。
 エスカデの剣がダナエの急所を捉えようとしたその時、ダナエをかばい、エスカデを斬った理由は、それだけだった。


 その日のガトは、いかにもこの町らしい、冴えた風がよく吹く晴天だった。
 癒しの寺院を左に見ながら参道を上がり、風のテラスに出る。
 テラスは無人だった。
 聖なる風は上天の白い雲を流し、眼下には岩の町や篝火や働く修道女や行商、遠くには名物の滝が見えている。
 マチルダが亡くなった直後、ガトはいくらかの混乱に見舞われたが、すぐに平常を取り戻した。それには当然、僧兵長を務めるダナエの尽力があり、修道女たちの迅速な――ある意味マニュアル的な――働きがあり、そして、一般の者たちの上層部や他者への無関心があった。棺の中が空であることは伏せられたまま、司祭の葬儀は粛々と執り行われ、それを終えると人々は日々の暮らしへと帰っていった。
 膨大な日常が誰かの死の上に降り積もり、誰かの悲しみと痛みを静かに覆い隠していく。
 それでも、なにかが大きく欠けている、とシオンは思った。ひどく空虚な、ぽっかり穴が開いたような。
 それはもしかしたら、ただの感傷なのかもしれないけれど。たぶん自分が未熟で、起きた出来事を飲み下せていないだけだ。
 そのまま、いくらか時が経った頃。
「こんにちは」
 後方から女性の声がした。ダナエだった。
 ダナエは軽く会釈して、シオンに近づいてくる。ルシェイメア以来で会う彼女は生彩に欠けていて、少しやせたようにも見せた。
「寺院の窓から、あなたの姿が見えたから」
 来ていたのなら声をかけてくれればいいのにと言いながら、ダナエはシオンの隣に並ぶ。
「いいのか、仕事抜け出してきて」
「少しくらい大丈夫。修道女たちに指示は出してあるから」
 現在、寺院最高位の司祭は空位だ。マチルダとエスカデが死亡し、ガトの両輪たる血筋は途絶えた。ひとまず、運営には問題ないらしい。そもそもマチルダは体調が優れず、エスカデは十年もの間消息不明だった。実質、取り仕切り役であるダナエは、寺院の業務なんて決められたとおりに行うだけよ、と疲れた顔で笑った。
「マチルダがいなくなってから今日まで、あっという間だったわ。あまりに慌ただしくて悲しみに向き合う暇がないくらい。……それでかえって、よかったのかしらね」
 ほうと息を吐き、ダナエはぽつりと言った。
……けっきょく、二人しか残らなかったのね。私と、あなたと」
「エスカデやアーウィンと対立した時は、いつでも紙一重だったと思う。俺、一度はエスカデに負けたんだよ」
「でも、アーウィンは倒したわ」
……
 シオンが黙ってしまうと、ダナエが弱り顔になった。
 エスカデ、アーウィン、マチルダ。互いに反目しあい、あるいは理解し合えずにいた幼馴染たち。命が尽きる瞬間まで分かり合うことなく、順にこの世を去っていった。他人のシオンを勘定に入れてくれたのは、ダナエの気遣いだろうか。
……ごめんなさいね。こんな話、あなたにしかできないから」
 冷たい風を受けて、彼女の耳がひょこひょこと動いている。
 エスカデとシオンは、ウルカン鉱山でも対立した。豊富な経験と厳しい鍛錬を積み重ねた聖騎士の腕は、まだ経験の浅いシオンを凌駕しており、対抗しきれなかったシオンは危うく命を落としかけた。
 順当に行けば、アーウィンの元へたどり着いたのはエスカデだっただろう。だが結果は違っていた。エスカデは道半ばで落命し、ダナエがシオンとともにルシェイメアへと飛んだ。
「つながらないものね。想いなんて」
 嘆息交じりに呟いて、ダナエは「いいえ」と言い直した。
「私のは『想い』なんて大層なものじゃなかったわ。ガイアに言われたこと、今になってやっとわかった気がするの。マチルダのためって言いながら、自分の考えを押しつけていただけ。わかろうとしなかったの。マチルダのこと」
「今は、わかった?」
「ええ。たとえ世界を破壊しつくしても、それでもアーウィンを愛しているなんて気持ちは、私にはとても理解できないってことがね」
 そう言ってダナエが浮かべた笑みは、苦みを含んで見える。
 シオンから視線を外したダナエは、遠く、空へと目をやった。世界を吞みこもうとした空の蛇は地に堕ちて、今は影も形もない。
「私、きっと、ずっと嫌いだったの。アーウィンのこと」
 ダナエが自身で気づいていて、けれど認めてはいなかった事実。アーウィンなど、十年前から嫌いだったのだと思う。悪魔だからという理由なんかではなくて、彼がアーウィンだったから。意固地で勝手で傲慢で。マチルダを自由にすると言いながら彼女の精霊力を、寿命を奪ったから。……マチルダの心を奪ったから。
 ダナエが長年秘めてきた言葉の数々を、ガトの風が端から攫っては吹き消していく。今まで誰にも打ち明けてこなかった、もしかしたら自身すら目を背けていた本当の気持ちを、ダナエは年下の少年相手に初めて告白した。
 それでいいのだろうとシオンは思う。マチルダとダナエは違う人間だ。相手を思うことと、無理に相手に合わせて価値観を同じにすることはきっと違う。妹のようにかわいがってきたダナエが、自分のわがままのために心を捻じ曲げることを、マチルダは望んでいなかった。
「ダナエは、死んだら魂はどうなると思う?」
 シオンの静かな問いかけ。
 ダナエが意外そうに隣を見る。
「それ、はじめて会った頃にあなたに聞いたわね」
 ダナエの口ぶりは、どことなくむずがゆそうにも、面映ゆそうにも見える。
 
『死んだら、魂はどうなると思う?』

 ダナエとシオンが出会って間もない頃。迷いの淵にあったダナエがシオンにした質問だ。今のダナエにもおそらく自覚があるように、それはあまりに思想的で、初対面の相手に尋ねるには、あまり適したものではなかった。それだけあの時のダナエは切羽詰まっていて、冷静でなかったのだろうとシオンは思う。
 シオンはこの問いに至極真面目に答えた。死んだことがないからわからない。
 その日のことを思い出したか、ダナエが小さくふきだした。まるきり反抗期の少年みたいな子どもじみた答えなのに、シオンはいたって真顔で答えていて、可笑しくなってしまったのだ。
 この問答のあと、ダナエはシオンに大地の顔までの同行を頼んだ。彼の返事はダナエの求めている答えではなかったけれど、この、ちょっと奇妙で純粋すぎる人間ともうすこしだけ話をしてみたいと思ったのだった。
「ガイアに知恵を授かってから、そんなに経ったわけではないけれど、シオンさん、あの頃からすこし雰囲気が変わったかしら」
「そう、だろうか」
 近頃、シオンが人から言われることだ。自分ではよくわからないけれども。
「だとしたら、いろんな人と話すようになったからかも。いろんな種族とも」
 シオンの素直な言葉に、自然とダナエの目は優しくなる。知り合って間もない頃、この少年は、自分の話し合い相手はサボテンや精霊や樹くらいだと答えたのだ。
「でも、そうしたら、余計に分からないことが増えた。言葉では通じないこともあれば、目に見えないものも触れられないものもある。ひとつわかったことがあるとすれば、自分はほかの誰とも違うってことくらいだ」
 そうね、人の心ほどわからないものはないのかもしれないわ、とダナエが同意する。
「あんなに傍にいたのに、私はマチルダのことを何も知ろうとしなかった。そんな自分にすら、気づいていなかったの。彼女の見る景色と私の見る景色は同じではないのに、むりやり同じものを見ようとしていたの」
 ガトには今日も風が吹いている。
 あの日、ダナエとともに鳥の背に乗って空へと飛んだ日。世界を滅ぼす蛇、ルシェイメアの上にも同じ風は吹いていた。かつては友であったかもしれない、四人の幼馴染たち。標高の高いガトをはるかに見下ろして、激情の渦といくつもの死に直面しながらも、ファ・ディールの空だけは変わらず美しかった。
 シオンは天を仰ぎ見る。カンクン鳥が飛んでいた。いつものガト、いつもの風。同じ空。
 ああ、なるほど。変わったのは自分だ。そして、ダナエだ。
「俺が旅に出る前、言われたことがある。世界はイメージでできている。見る人によって違うんだって、って」
「イメージ?」
「あの時は意味がよくわからなかった。そうなんだとしか思わなかった。けれど……ちょっとだけ、わかったかも」
 目に見える景色に変化はない。人の死も想いも、膨大な日常にたちまち埋もれ、日々の生活へ溶け込んで帰っていく。だけど、誰かが刻んだ想いは消えず、違う誰かの中に残っていく。きっと少しずつ、なにかが変わっている。ダナエがそうであるように、自分がそうであるように。もしかしたら、自分の知らない誰かがそうかもしれないように。心が変われば、世界は変わる。世界は泰然として変わることなく、世界に生きる者たちの心は少しずつ移ろい、変化していく。
「ねえ、シオンさん。マチルダは自由になれたと思う?」
 マチルダの本当の望みは、ダナエもシオンも知らない。想像することができるだけだ。二十六年の短い生涯を駆け抜けるように終えたマチルダは、肉体という不自由な檻を脱ぎ捨て、人間という器を抜け出でて、魂だけの存在になった。脱ぎ捨てた空の肉体すらも、誰の手も触れない場所へと消し去った。
「彼女の身体と魂は、いったいどこに行ったのかしら」
「さあ、どこだろう」
 カンクン鳥は大きな翼を広げ、遥か天空を飛んでいる。ルシェイメアが堕ちた今、ガトの空は薄く青く澄み渡り、果てしなく高い。
「でもあの人は、俺の知る限りもっとも不自由で、そのくせ我が儘な人だ。全ての人に自由であることを求め、枷を嫌う。だから、あの人が自由を手にいれたらきっと、例え世界中の誰から反対されたとしても、自分の一番行きたい場所へ行くような気がする」
 ダナエがふふっと笑った。
「あなたには、マチルダはそんな風に見えていたのね。もしそうなら、マチルダはきっと、今頃……アーウィンのところね」
 そこで一度、ダナエは言葉を切った。
 もし、そうなら……
「そうなら?」
「とても腹立たしいわ」
 正直に答えて、ダナエは笑った。
 目尻を下げて困ったように。……少し、悔しそうに。


4 

 ダナエと違う道を歩み始めてからも、シオンは世界を歩きつづけた。
 小さな家しか知らなかった少年の世界はいつしか、ファ・ディールに住む誰よりも広くなっていた。
 ラルクと戦い、シエラと竜を倒し、瑠璃とともに煌めく都市へ行った。
 千年にも渡った戦争で疲弊しきったファ・ディール。
 少年を中心に世界には、目には見えない、小さな変化が起きていく。長きにわたる戦乱で疲弊し、錆びついていた時代の歯車は、軋みながらもゆっくりと回りだす。



……変だな」
 その日のマナは様子が違っていた。
 自室の窓辺から外を見たシオンは一目で異変に気づいた。ドミナの方角に黒い雲がかかっているように見える。もちろんそんなわけはないだろうし、煙とも違うように見える。霧か靄という方が近い。
 シオンはどうやらマナを操る才に恵まれていたらしく、他の人間よりマナの流れがよく見えた。マナをより深く探ろうと、神経を研ぎ澄ませてみる。闇のマナだ。それも、異常なレベルで凝っている。
 胸騒ぎを覚えたシオンは、使い慣れた大剣を手に家を飛び出し、ドミナへ向かった。ドミナに近づくほどにマナは密度を増し、息苦しいほどに闇が濃い。
 本能的に、嫌だな、と感じた。
 ファ・ディールの闇は悪ではない。光があれば闇があり、明るい場所があれば影ができ、昼があれば夜がある。あくまでも世界の一面であって、生きとし生けるものと敵対するような存在ではない。本来ならば。
 ドミナに入ると、いよいよ嫌な気配は強くなった。一般人から見ればいつも通りの、マナに敏感な者には普段となんとなく違和感のあるこの日の町は、シオンから見れば、一帯に黒い霧が立ち込めているようにさえ見えた。
 その、濃霧の中でも、一段と黒い霧の向こう。

 ――誰か、いる。

 霧に覆われて良くは見えない。
 確認できるのは影法師のような姿だけ。だが、あまりにも見覚えのある……ありすぎるシルエット。
 シオンが目を眇めて近づこうとすると、それを見越したかのように、相手がくるりと背を向けて走り出した。
 本能的に、追わないほうが良いと感じた。
 だが、理性がそれを拒絶した。頭に鳴り響く警鐘を強引に振りきり、まっすぐに追いかける。謎の影がまともな人間――そもそも人間かどうかも不明だが――ではないことは一目でわかった。それに何よりも、到底無視できない見た目をしていたから。
 追うシオンから逃げ出したか、それとも誘い出されたか。
 謎の人物はシオンからつかず離れずの速さで走っていき、町外れの広場まで来たところで立ち止まった。
……誰」
 シオンが警戒もあらわに問うと、影はこちらを振り返った。
 赤い帽子に金の髪、胸当て。シオンと全く同じ背格好、同じ顔。腰元には、シオンが携えているのと同じ剣。身体をうっすらと覆う、闇のマナ。
 見た目から服装から何から何までシオンにそっくりの少年は、シオンと全く同じ声で答えた。
「お前の、暗黒面」
 感情の読み取れない台詞の最後に、影の少年は「……らしいけど」と付け加える。冗談なのか本気なのか。闇のマナを纏ったもう一人の自分は、冷めきった目をしていて、心を彼岸の向こうにでも置き忘れたような顔つきをしていた。
 今度は、影のほうから問いかけてきた。
「聖域に、行くの?」
 聖域。
 ファ・ディールにおける聖域とは、マナを生み出すマナの樹が存在する空間、そして創世神たる女神のおわすマナの聖域に他ならない。その、聖域への扉を開く鍵――聖剣『マナの剣』をシオンがマナの女神より授かったのは、つい先日のことだ。
 しかし、そのことを知っているのは自分以外に誰もいないはず。
 シオンが疑問を口に出すより先に、暗黒面を称する存在がまた訊ねた。
「聖域に行って、何をする気?」
「なにを……って」
 対する影は、これからシオンがしようとしている行動にまるで疑問を抱いていないらしい。
 聖剣を手に入れたシオンは、すでに次の目的地を決めていた。ドミナの向こうに、うっすら浮かぶ異空間。今までの生活をがらりと変えて、旅に出ようと思ったきっかけ。自分を求め、自分へと歩いてほしいと訴えかけてきた、大きな樹と美しい声の主。そこへ至る道筋を、長い旅を経てシオンはようやく手に入れた。
「あの人に会って、話をしようと」
……そう」
 次の瞬間、何が起きたかわからなかった。
 衝撃を受けたと感じる間もなく、シオンは刹那のうちにねじ伏せられて、首筋に剣の切っ先を突き付けられていた。
「そんな程度で、女神に会うつもり?」
 影は、倒れ伏したシオンの背中を片足で踏みつけている。力を込めている様子はないのに、シオンは少しも動けない。
 それでも首をぎりぎり動かし、動く目でなんとか影を見ようとする。
 影の剣は一見すると自分と同じ意匠だが、その刀身はまるで違っていた。明らかに上質の素材、しかもこの上なく研ぎ澄まされている。そしておそらく、夥しい血を吸っている。青白い刃の先を辿り、目だけで何とか上を見ると、影の冷たい目が見えた。
 圧倒的に強かった。シオンの知る誰よりも、どんな敵よりも、桁違いに。
……残念だね。このままお前を斬れないの」
 影は深々と息を吐き、剣を下ろした。息苦しいほど圧迫されていた背中から、ふっと重量が消える。それでも、全身が痺れたようにすぐには動けない。初撃のダメージが大きすぎる。
「おま、え、なんで」
 声を振り絞るシオンの頭上から、抑揚のない声が降ってきた。
……この先、長いよ。せいぜい気を付けて」
 闇のマナが薄らぐ気配がした。シオンはようやっと顔だけを上げる。
 影の姿が、闇のマナに覆われていた。闇に溶けて、影の自分が消えていく。ドミナの闇が晴れていくのがわかる。自分の影は、何のために現れたのか。
 シオンは、萎えた足に力を込めた。もう一人の自分は、自分の知らない何かを知っている。もう少し、もう少しだけ話を聞きたい。シオンは何とか立ちあがり、待って、と追いかけた。
 
 正確には、消えゆく影を追いかけようとして、そこで、ぷつりと記憶の映像は途切れた。