冬空に蓋をするように広がっていた
銀鼠色の雲が、ふわりと裂けていく。
白銅色の空に少しずつ青が戻り、透き通った空気を柔らかな朝陽が照らす、清々しい朝。
子守唄のような水車の重低音に包まれつつ、布団からむくりと起き上がった娘は、その中の温もりに後ろ髪を引かれつつ、ゆっくりと立ち上がる。
(今日は
……急ぎの依頼は特になかったはず
……)
眠気を覚ますため、娘はぼんやりとしたまま、昨晩の間に枕元に用意しておいたハンターのインナーに着替え、適当に
外套を羽織ってから、土間に降りた。
がらりと玄関引戸を滑らせれば、冬ならではの澄んだ清々しい空気が出迎える。
たちまち
微睡みから覚醒しながら、娘はぶるりと体を震わせた。
銀鼠色の雲の下から真珠色の雲が少しずつ顔を出し、その狭間から溢れ出してくるような、優しい陽射し。
冬の寒さが空の
明澄さを
際立たせており、どこか浮世離れした景色にも見えた。
(ああ
……何か、いいなあ
……今日の、空
……)
不意に、この空をもっと近くで見たくなって、娘は誘われるように翔蟲を空に放ち、水車小屋の屋根上に降り立った。
陽射しの中でひやりと引き締まり、澄み渡った純粋な朝の空気。
その中で深く、深く深呼吸をして、また大きく伸びをしてからその場に座った彼女の瞳は、ゆっくりと閉じられる。
ちゅん、ちゅん、と鳥の
囀りが、里にも彼女の耳にも心地好く響き、一日のはじまりを告げていた。
安寧に包まれた、穏やかで静かな朝。
瞼を閉じて静けさを堪能する娘の、夢の続きのように心地良い暗闇の中では、昨日のウツシの姿が浮かんでいた。
(ふふふ
……ウツシ教官
……。喜んでくれるといいなって思ってたけど
……まさか、あんなに
……)
一生懸命、想いと願いを込めて編んだ手袋を大切に抱きしめて、何度も「ありがとう」と告げてくれた、娘にとって最愛の彼の笑顔。
それは、決して忘れ得ぬもの。
太陽よりも眩しく、温かく、包み込むように優しく、愛おしい。
手招きされているように心地良い静けさと暗闇の中で、娘の意識を微睡みが再び優しく抱きかけた頃。
「愛弟子! やあ! そこに居たの! おはようー!」
朝の
寒気を、静寂を、娘の中の微睡みを熱く吹き飛ばす大声量は里中に
轟き、微かに山彦まで返ってきていた。
ぱっと目を開いた彼女の口角は、自然と緩やかに上がっていく。
声の主が誰なのかなど、考える間もなく明白だったから。
(昨日の夜の続きみたいな
……ふふ、元気な人
……)
座っている娘の元へ、声の主は疾風のように空に翔蟲を放ち継いでやって来ると、そのまま彼女の前に、屋根上に着地した。
空に残る曇天も散り散りになりそうな、晴れやかな満面の笑顔を浮かべていたのは、娘の予想通り、彼女の最愛の人であるウツシ。
「やあ! おはよう、愛弟子! 元気かい、愛弟子!風邪を引いてないかい、愛弟子! 今日も大好きだよ、愛弟子!」
「ふふふっ
……おはようございます、ウツシ教官。ふふ、今日は特にお元気そうで」
「元気いっぱぁいだよ! だって、ねえ、ほらっ!」
無垢な喜びを、あどけなさと共に極彩の輝きにして双眸に宿し、不変の満面の笑顔で、ウツシが両手を胸の前に掲げる。
片手は手背を、もう片手は手の平を娘に見せるようにした彼の両手をふんわりと包み込むのは昨晩の、贈り物の手袋。
「見て! キミからの手袋、着けてみたよ! えへへ、どうかなぁ!?」
湯気のような
白息を吐きながら、朝陽が霞むほどの笑顔と共に明るく跳ねたウツシの声に、娘がつられるように笑う。
正直、次の日になっても彼がここまで喜んでくれるとは思っておらず、作ったかいがあるのはもちろんだが、奥深くにしまわれることなく早速使ってくれていることも嬉しかった。
「ふふふっ
……良かった、サイズぴったりですね?」
「完璧だよ! 凄くあったかいし、ふふふっ
……!」
手袋に包まれた自分の両手で、ウツシが自分の両頬を包み込み、くんくんと少し鼻を鳴らしてから、頭を愛でられる小動物のようにふわりと目を細める。
「いい匂いがするし
……とにかくふわふわで、気持ちいいんだぁ
……! えへへ
……俺、世界で一番幸せ者だよ
……!」
「もう、大袈裟なんですから」
「大袈裟なもんか! ふふ
……本当にありがとう、俺の愛しい人よ」
静かに、深く告げながら、ウツシは娘の前にしゃがむと、そのままそっと両手で彼女を抱きしめた。
驚きの声を上げることもなく、娘も密かにとろりと微笑んで、愛しげにウツシの腕の中で、ゆっくりとその広い背中に手を回す。
温かく満ち足りた、絶対安全の、唯一無二の場所。
そんな場所で今日のウツシの手は
頓に、綿雲よりもふっくらとして温かい。
自分の贈った手袋に包まれたウツシの手の大きさ、その形に沿った彼らしい熱と優しさが、体と心の芯にまで染み込んでいくような心地。
「
……ふふふっ、本当だ。今日のあなたの手
……ふわふわして、あったかい
……! 手袋、使ってくれて嬉しいです
……」
「
……そういえば、キミは知ってたの?」
「何をですか?」
「ほら、手袋の贈り物って
……」
「
……え?」
ウツシの腕の中で彼を見上げ、今度は娘が大きく目を瞬かせる。
微かな驚きの稲妻に打たれ、何が何やらと頭上に疑問符を浮かべる彼女の表情を見て、ウツシは言葉を繋げることを止め「ふふっ」と静かに笑った。
「
……何でもないよ。ふふふ、ありがとう、愛弟子」
「え? え? 何です? 気になるじゃないですか」
「ふふふっ
……なぁに、後で
……そうだなぁ、夜になったら教えるよ」
少々不服そうに「むう」と唸り、何故夜なのかと言いたげな娘を、ウツシはとても愛おしげに、とろりと目尻を下げながら改めて抱きしめ直す。
自分の腕の中で無抵抗の、可愛い最愛の人の朝陽に煌めく髪を、手袋から僅かに顔を出している指先で、想いを示すが如く愛でるように梳き撫でて、ほうっと白息を吐いて。
「
……大好きだよ。ずっとずっと、愛してるから
……」
「私もです
……ずっと
……このまま、一緒に
……!」
娘がウツシの背に回していた自分の手を彼の胸に添え、彼の腕の中に身を預けながら、ゆっくりと目を閉じていく。
ウツシは手袋を着けた手で、優しく彼女の腰を抱き寄せ、そのまま、ぎゅっと抱きしめた。優しいけれど、強く、離れないように。
──この手で、ずっと捕まえていたい
……
──愛するキミが、そう望んでくれるなら
……
胸の奥で情熱的に呟いた刹那、自分の手が、愛する人のくれた手袋に包まれている光景を見たウツシが「ふふふっ」と、意味深に、とても満足そうに、また笑って。
どうして彼が笑ったのか、懸命に想いを込めて手袋を編み、それを贈った娘は知る
由もなく。
けれど、愛しいウツシの笑顔は、それが自分だけに向けられていることは、何より嬉しくて。
彼の温もりに包まれている至福に、彼の大きな、ふわふわの手の温もりとその感触に、娘も幸せそうに、柔らかに微笑んだ。
(このまま、ずっと
……ずっと
……!)
──あなたに、捕まえていてもらえたら
……
娘の心の奥底から溢れた、声無き願い。
当人たちも知らぬ間に、同じ想いが冬空の下で交わり合い、温かく編まれて心が包まれていく。
冬の朝風が吹き抜けたが、二人が寒さを感じることはなかった。
@acadine