森永
2022-11-26 20:02:44
7842文字
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春の嵐に紛れて泣いた⑨

無限×風息/くたびれ大学講師×訳アリDKの現パロ続き



 来てしまった。今日一日、ずっと頭を駆け巡っていた文字が、またひとつがつんと風息の頭蓋を叩いた。そういう感覚だった。
 頭上から温かいシャワーが降り注いで、それを浴びながら風息は目を閉じている。自分があの町を出てきたことも、風息から去った彼と再会したことも、その彼の家で冷えた体にシャワーを当てていることも、すべて現実からかけ離れていた。自分のしたことなのに、まるで信じられない。目をあけてそこに映る景色を見続けていたら脳がパンクしそうで、風息はおとがいに湯が伝っていくのも無視してぎゅっと目を閉ざした。
 目を背けようとする風息を、ばたばたと浴室の床に叩きつけられる水音が責め立てる。知らない家のシャンプーの匂いが、これがお前が選んだことなのだ、と容赦なくこの現状が事実なのだと突きつけてくる。
 もう逃げられないことを悟ってシャワーコックを捻る。降り注いでいたあたたかな雨が止んで、浴室の湿った空気がぬくんだ肌を撫で、それが徐々に冷えていくのに急き立てられるので、風息は逃げるように浴室を出た。脱衣所に据えられた洗濯機の上に、タオルと着替えが置かれている。風息が着ていた服はずぶ濡れだったので、洗濯機の中に押し込められているはずだ。少年はためらったが、毛先からぽと、ぽとと滴る雫が脱衣所の床に散らばるのに観念して、タオルに手を伸ばした。
 体を拭いたタオルも、袖を通した服も、自分の家と違う匂いがして落ち着かなかった。書き置きひとつ残したきりの家で待つ祖父母への罪悪感からなのか、そうまでして追いかけてきた男への清濁入り混じった感情からなのかは、あまり考えたくはなかった。
 
 脱衣所から出ると、電灯の落とされた廊下は薄暗く、ひとつのドアだけがぼうと浮かび上がっている。そろそろと短い廊下を抜けて、明かりの漏れるリビングの戸をおっかなびっくりした心地で押すと、無限はダイニングテーブルに広げた紙束や参考書らしき本に目を落としていた。とても食事をするための机とも思われない使い方だが、せまい作業スペースを囲うようにして資料が積み上がっているあたり、ここでゆったりと食事をすることはないのだろう。よくよくみると、手許は画面を畳んだノートパソコンを下敷きにしている。
 ぴんと伸びた背中だった。横顔はつめたいくらいに無表情で、まるでさっきまでと別人にみえる。机に齧り付く男が自分の知っている無限か、突然不安になって、風息は廊下とリビングの境い目で足踏みした。その気配にふ、と集中の波が途絶えたのか、顔を上げた拍子にひとの気配に気付いたらしい無限が顔を上げる。ドアノブに指をかけたまま立ち尽くす風息をとらえると、硬質な表情がへら、と緩んだ。風息、と呼ぶ声は、記憶のなかのそれをまるきりなぞった。
「どうした、そんなところで」
「いや、…………
「おいで」
 雨の中で風息にかけたものと、同じ台詞になぜだか背中がしびびと震えた。シャワーで散々ぬくまったはずなのに。ぴしりと固まった風息は、けれどもう一度名前を呼ばれて、おずおずと男へ歩み寄る。椅子の上で半身を振り向いた無限の前までくると、上から見下ろすくせにまるでこれから怒られることを察したこどものような顔をする。そんな風息を見上げてふっと笑うと、無限は大人の顔をして、つかれたろう、とやさしげに言った。色んなことが一挙に起こりすぎて、身体も頭のなかもクタクタになっていたのは事実なので、風息は素直に頷いた。
「廊下に出て右手のドアが寝室になっているから、そこで寝るといい」
 そう言った無限を風息は信じられない気持ちで見つめた。この男は、こんなことになっても何も聞かないのか。
 無限の勤める大学を出たあと、雨に降られてコンビニの軒下に足止めを食らい、そこを無限に見つかって手を取られ、こうして彼の家にまできてしまった。ここにくるまでの間、風息はずっと、家に着いたら無限に質問攻めにされるものとばかり思っていた。だって、春にあんなことがあったのだから。自分の力で町を出ることを頑なに拒んでいた自分が、どうして今になってこんなところにいるのかを、話さなければならないと思って風息は気を張っていたのだ。それなのに、無限は風息に寝ろという。話すことを拒まれたように思えて、風息はがっかりするような心地で、しかし当然かと思う気持ちにもなった。
……あんたは」
「仕事があるからまだ寝ない。寝る時はソファがあるから、私のことは気にしなくていい」
 ちら、と風息はリビングに鎮座する布張りのソファを見た。大人がゆうに三人は座れそうな、大きなソファ。周到なことに、背にブランケットまでかかっている。
「疲れてるのは、あんたもだろ」
 ちゃんと布団で寝れば、と、そう意識したわけでもないのに、なんだかひどくいじけた口調になったのを風息は恥じた。無限がただ見上げてくるのにもまともに目を合わせられなくって、床へ視線を逸らしながら、話す言葉は少し早口になる。
「二回も授業やってたし、なんか、他にもきっと色々あったんだろ、仕事」
 転がるようにして言ってから、無限が押し黙っているのが気になって視線を戻す。見下ろした顔は、鳩が豆鉄砲を喰らったようにぽかんとしている。自分よりずっと歳上の男が、なんだかやけに幼く見えるのが場違いにもおかしかった。
……………………どうして知っているんだ?」
 呆然とした声音でつぶやいた男に、今度は風息がきょとんとする番だった。どうして知っているって、そんなの、実際に見たからに決まっている。そう考えてから、自分の失態に気がついた。わざわざ講義室の外で様子を中をこっそり覗いていたのは、目の前にいる男に気づかれないようにするためなのに。虚淮は大学というものを見るついでに男とけりをつけてこいと背中を叩いたけれど、半年ぶりにその姿を見た途端、向き合うのは無理だ、と脊髄で悟って、風息はそそくさと踵を返したのだ。それが、帰り道に雨に降られたせいで捕まってしまって、その手の大きさに春の夜の記憶なんかを思い出しているうちに、すっかり頭から抜けていた。
 しかし、言ってしまったのもは取り返せない。困惑と、どこか期待のようなものを滲ませて見上げてくる無限を、風息は苦々しい思いとほのかな羞恥を覚えながら見つめ返した。
「もしかして、やっぱり見にきていた? オープンキャンパス」
…………やっぱり、って」
「学内で、風息を見たと思ったんだ。一瞬だけで、探しても見つからないから、気のせいだと思ったのに…………
 く、と小さく息を呑む。見つかっていた、と失敗を悔やむ気持ちの裏で、自分でも制御できないかすかな喜びがざわめいていた。探してくれたのだ、いるはずのない風息を、一度は気のせいだと思ったのに。嫌になるほど諦めの悪い子どもの部分を、風息は内心で叱咤した。
「進学することにしたのか」
………………
……いや、それはいいとして。どうしてうちの大学の……近いところにもあっただろう?」
 無限のいう通りだった。わざわざ新幹線を使わないと出てこられないこんな都会よりも、風息の住む町からほど近い大学なんていくつもある。オープンキャンパスの会期だって、同じような時期にやっているところだってあった。さほどあるわけでもない貯金をはたいて新幹線のチケットを買い、慣れない大都市の喧騒のなかを苦心してあの大学を訪れたのは、そこでしか果たせない目的があったからだ。それは専攻も資格もなにも関係がない。無限は答えない風息に向かってもしかして、と慎重そうなそぶりで口を開いた。
「私がいたから?」
…………そうだよ。だって俺、あんたを見つけにきたんだから」
 真正面から言われてしまえば、もう言い逃れはできなかった。初めから目に見えていた白旗を、とうとう風息はあげるしかなかった。
 
 あの春の嵐のあと、風息の内側を占めていたのは失望と羞恥だった。互いに心を寄せていると、家族や幼馴染の誰よりも親しいと思っていた相手にさえ、手を引いて連れ出してもらえなかったこと。彼に手を引いて欲しいがために捨て身で迫ってしまったこと。無限と過ごした時間は風息のまだ短い人生の中で唯一、なんの衒いもなく穏やかに過ごした時間だった。それをみすみす、自分でぶち壊して終わりにしてしまったことが、風息にとっては何より悲しいことだった。
 春休みが終わって、また消化するだけの日々が始まっても、風息は何度もなんども無限と過ごした時間を思い返しては塞ぎ込んだ。明らかに沈んだ顔をして過ごす風息の様子に祖父母も気づいていて、はじめの頃は「無限さんがいなくなって寂しいのか」と揶揄うようなそぶりを見せたがやがて何も言わなくなった。様子のおかしい孫を扱いかねている祖父母と一緒にいるのが辛くて、風息は無限の止まっていた部屋に居座ることが増えた。以前までは無心になって眺めていた窓から見る海は、あの嵐を境に苦しみを思い出させるものになってしまった。波が揺れるたびに無限の声や、手の厚みや、ぎこちない笑い方を思い出して消えたくなる。それでも、海を眺めることはやめられなかった。風息は悲しみを紛らわすすべをそれしか知らなかったので。
 そんなある日、虚淮が訪ねてきた。夏が半分くらい過ぎた頃で、風息は飽きもせず窓辺にうずくまっていたので少し日に焼けていた。仕事は、と訊く風息にお前が気にするのはそこじゃない、と切り捨てた幼馴染は、風息の鼻先に「オープンキャンパス開催」と書かれたパンフレットを突きつけて言った。いい加減ガキみたいにうじうじするのはやめろ、けりをつけてこい。ずいぶんな言い様だった。風息はまだガキなのに。甘ったれるなとまでは言わなかったが、虚淮の仏頂面にはありありとそう書いてあった。そんなこと言ったって、とまごつく風息に、ついには虚淮は勝手に宿の台帳を持ってきて、無限の名前の書いてあるページを開いてこれも風息に突きつけた。いますぐこの番号にかけるか、秋に大学を見に行くか、どちらか選べ。風息が狼狽えているうちに、なんと虚淮は自分のスマートフォンで無限の電話番号を入力し始めたので慌ててパンフレットをひったくる。すると満足げにふんと鼻を鳴らした幼馴染はさいごに「交通費は俺が出す」と言い置いて帰って行った。
 風息は困惑して、そしてとても動揺した。虚淮が押し付けていったパンフレットを見ると、以前教えてもらった無限の大学の名前がでかでかと載っている。どうして虚淮が知っているのかと思ったが、よくよく思い返すと無限が去った日の夜に集まったとき、やけに根掘り葉掘り尋ねてくる虚淮に教えたことを思い出した。
 それからオープンキャンパスの開催される日まで一ヶ月、風息はずっと悩んでいた。行ってもいいんだろうか。この町の外に出て、知らないことを知って、色んなものに出会ったら、母のように祖父母を悲しませるだけじゃないのか。もし祖父母を捨てることになったら、次は彼らまで町の人に後ろ指さされることになったら? しかしいくら考えても、風息はパンフレットひとつ捨てられなかった。諦められたと思っていた選択肢が目の前に差し出されて、自分がまだちっぽけな期待と希望を抱いていることを、少年は自覚した。夏の刺すような日差しが秋のそれに変わった日。風息は虚淮にも連絡せず、祖父母には書き置きを残して、生まれて初めてひとりで町を出た。
 無限に会って、あの夜のことを謝りたいと思った。そして、なぜ自分の手を引いてくれなかったのかを、理由をその口からちゃんと聞きたい。知ったそのあとに自分がどうなるか、どんなに打ちのめされるかもしれなくとも、それでもいいと思った。だって、無限が言ったのだ。理由も意味も、あとになってからついてくるものだと。
「けっきょく、あんたを見たらビビって逃げちゃったけど。……でも、無限さんにまた会いたくてここにきたのは、本当だから」
 言いながら、風息の喉は緊張に乾いて言葉尻は掠れていた。無限の拒絶が怖かった。目の前の男は、少し苦しそうな顔をしている。この表情には見覚えがあった。あの嵐の夜、風息が無理やり押し倒して、唇に噛みついて、吠え散らかした時のそれとよく似ている。また低く抑えた声で拒絶されたらと思うと、風息はまた口を閉ざして身を固くするしかない。
 無限の手がゆっくり伸びて、肘の上あたりを両側から挟むように添えられる。風息はかすかに体をこわばらせたけれど、その手は優しかった。ぽん、ぽん、とあやすみたいにかるく叩くと、ずるずると手が降りていって、風息のてのひらをつかまえるとそれをゆるりと引いた。きゅっ。一度、やわく握られる。ぎゅ。今度はすこしつよく。手の中にあることを確かめるような仕草で風息の手をにぎると、そこに無限の額が落ちてきた。指に、手の甲に、男の額のあたたかさが伝わる。息を吸って、長く吐く音がする。合わせて無限の肩がかすかに上下すると、かかっていた髪がするすると流れていった。風息よりも広いと思った肩がなんだかとても、小さく見える。
「よかった」
 長い沈黙の後、風息の両手にかしづいたまま、懺悔のように男はつぶやいた。
「きみとまた会えて、ほんとうによかった
 じわんと、湿った声音だった。泣いているのかと錯覚するほど、無限の声は安堵で滲んでいる。握られた手の強さと、触れる額のあたたかさ、そしてその声音に、かちかちにこわばっていた風息の体から水が流れ落ちるみたいに力が抜けていく。ついでにゆるんだ唇からぽろりと言葉が落ちた。
…………おこられるかと、思った」
「どうして?」
「あんた、あのとき……怖い顔してたから」
 風息の言葉に男は顔をあげて、「あのとき?」と不思議そうな顔をする。風息は気まずくなって眉を下げながら、「俺が部屋に行って、その、押し倒したとき」と答えた。手を握られたまま顔を覗き込まれていると、まるでイタズラをしてそれを怒られている心地になった。
……そうか。あれは怒っていたんじゃなくて、驚いていたし、きみが心配だったからだよ。今にも死んでしまいそうなほど、切羽詰まって見えたから」
「そう……だったんだ」
 うん、と頷く無限は穏やかな表情をしている。それを見ていると、あの春の一週間のうちに感じていた安心感とか慕わしさが、洪水みたいに一気によみがえってくるようだった。失望と羞恥に飲まれている時でも、ずっと恋しいと思っていた時間だ。無限の横にいると風息は、腫れ物でも道はずれの息子でもなく、ただの風息でいられた。ずっとあの時間が続けばいいと思っていて、それを壊してしまったことが悲しくて、無限がちっとも責めないことがうれしくて、風息の胸がぬるい水で満たされていくようなささやかな苦しみで引き攣った。
「あのあと、もうだめだ、って……思ったけど、どうしても……忘れらんなくて……
 ふらふら震えようとする声を抑えることが難しい。無限の手を握って力を入れようとしても、握り返す手にまた力をほどかれる。無限は薄い色の目でじっと風息を見つめている。真摯なまなざしだった。耳のうしろがじんと熱くなる。こんなに誰かを烈しく想ったことなんて、人生で一度もない。どんなに落ち着かせようとしても、やっぱり無限がいるだけで胸が震えた。
「あんたには、ちゃんと帰る場所も、会いたい人もいるって、わかってたけど。……あ、あんたなら、俺、また傍にいても、ゆるしてくれるかもしれないと思ったから」
 だから、また会いたくて、ここまで来た。風息を許してくれた人。唯一のひと。目の縁から表面張力に負けた雫がころりと落ちた。
「あのとき、無理やり迫ったりして、ごめんなさい。……許して、ほしい」
「うん。許すよ。私も、すまなかった」
 無限が指を伸ばして、風息のおとがいを伝った涙を拭った。男の乾いた大きな手で頬を撫でられると、もう涙は止まらなくなる。頬に触れた無限の指を濡らしながら、いくつも涙が伝っていった。それを嫌がるそぶりなどちっとも見せず、無限はどこまでも優しい目をして風息のびしょびしょになった目尻を指で撫でながら言った。
「私は自分勝手に家を飛び出したけれど、それが自分の心を支える過去になっていたから……きみも、生きる自由を自分で知ってほしかった」
 その一瞬だけ、無限は寂しそうな色を穏やかな表情の中に滲ませた。その目の奥に、がむしゃらになって父から離れようとする少年の姿を風息は見かけた気がした。瞬きをしたあとの無限の瞳には、ぼろぼろに泣き崩れる自分しか映っていない。
「それをきちんと言葉にしなかったこと、本当に後悔している。ごめんね、風息」
 少年は声もなく頷いた。置いていかれたことは悲しかったけれど、そうあって当然なのだと思っていた。風息はずっと、身勝手な母の息子で、かわいそうな祖父母の孫で、扱いにくい子どもだった。だから誰とも深入りすることなんてできないと、先に町を出た幼馴染みたいに最後にはみんな離れていくのだと思い込んで生きてきた。それをどうしようもなく寂しく思いながら、そう生まれついたのだから仕方がない。そう思っていた。
 本当は、自分が望んで、ちゃんと言葉にしていれば、それは叶ったのだ。叶うことを知らなかった風息は、今になってやっと、頭の奥で叫んでいた子どもの声を自分の口から溢すことができる。それを教え、許してくれた唯一のひとに伝えるために。
「無限さん、お願いだから……傍にいたいから、傍にいて」
「うん。私もそうしたい」