森永
2022-11-26 20:02:44
7842文字
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春の嵐に紛れて泣いた⑨

無限×風息/くたびれ大学講師×訳アリDKの現パロ続き


 遠くのほうで水音が反響している。それは古びた民宿の雨戸に吹き付ける雨ではなく、無限の部屋の浴室から生まれる音だ。聞こえる水音に思考がふやけていくのを感じながら、無限はリビングの椅子に腰を降ろしたきりぴくりとも動けずにいる。
 手を引くと少年は、拍子抜けするほど素直に無限の後をついてきた。彼はずっと唇を引き結んでいたが、濡れた肩に無限が羽織っていた薄いジャケットをかけながら男の引く手を拒みはしなかった。二人の間に会話はなく、それがますます少年の存在が無限のみる夢だか幻だかわからなくさせる。それだから、マンションへ辿り着いて体の冷えた風息を風呂に押し込むまでずっと、無限の足は浮ついた感触で地面を踏んでいた。
 シャワーの水音だけが、彼が実在することを無限に知らしめている。ダイニングテーブルに広げた仕事道具も、キッチンシンクに置いたままの食器も、少し埃のついたテレビも、すべてが朝家を出たときのまま、いつも通りの自分の家だ。そこに、そんな場所に、風息という少年がいることが信じられなかった。
 あの曇り空の漁師町に置いてきた彼が、いったいなぜここにいるのか。なんのために町を出たのか。祖父母はどうしているのか。彼に訊かなければならないことが山とある。彼が戻ったら話を聞いて、家に戻すかしかるべきところへ送るかしないといけない。彼は子どもで、無限は大人だから、それが正しい選択のはずだった。
 だが、無限は彼のことになるとどうしたって、「そうするべきこと」を選べない。無限は顔を覆って、深く長い息をついた。