森永
2022-11-23 17:26:09
16519文字
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春の嵐に紛れて泣いた⑥

無限×風息/くだびれ大学講師×訳アリDKの現パロつづき/修羅場回(全年齢向け)




 私もだよ。きみに会いたい。近いうちに、会いに行くよ。
 約束だ。
……………………
 風息は息を殺していた。呼吸を忘れた、といったほうが正しいのかも知れなかった。頭の中では扉の向こうから漏れ聞こえた言葉が、何度もなんども繰り返し再生されている。脳が沸騰するような、しかし体の芯から冷えていくような、そんな矛盾した不愉快な感覚に支配される。この感覚を、風息はよく知っていた。十七年の人生の中で、自意識というものが芽生えてから幾度となく経験してきたからだ。
 これは、途方もない失望だ。
 廊下は薄暗い。ごうごうと吹き荒ぶ嵐のせいで、昼なのに日が暮れているような暗さだった。艶のある廊下の木目に浮かんでいるのが外の木の影なのかそれとも自分のそれなのか、はたまた自分はちゃんとここに形をもっているのか、わからないほどそこは暗い。窓ガラスを木の葉が叩く音がする。早いところ、雨戸を閉めないといけない。祖父の言いつけだからだ。しかし風息は指先のひとつも動かせないまま、その扉の前に立っていた。
 木の扉は年季が入って、下の方は木目がちょっと欠けている。そこは風息の秘密基地だった。町の大人の口さがない噂話を耳にしてしまった時とか、あるいは笑えない冗談まじりに母のことを揶揄われた時とか、誰にも何にも煩わされたくないとき、そこは風息の心を守る砦になった。いっとう海がよく見える窓。形を変えて濁る波をそこから眺めていると、その間は何もかも考えずに済んだ。風息はそこが好きだった。安全で、安寧な場所だからだ。
 祖父母はうすうす気づいているだろうが、それでも何も言わない。これに始まった話ではない。彼らは風息がどんな素行をしようとも、暮らしに直接影響しなければ口うるさく干渉しようとはしなかった。漁協の男たちが暇に任せて風息に喫んでみろと煙草を渡したときも。学校の上級生に誘われて夜通し帰らずに屯していたときも。こんな狭い町で、人伝に聴かないわけもないだろうに咎めることをしない。しゃんとしろ、と言うのは形ばかりだ。二人とも通っている高校を出たらこの窮屈な場所に風息が一生いると本気で思っている。
 祖父母のことは好きだ。娘のことがあっても風息をちゃんとこの歳まで育ててくれた。宿のことや生活の中でささいな小言はこぼすが、決して不当に風息に当たったことはない。祖母の作る食事はだいたい風息が好きなものだし、祖父は風息が風邪などひこうものなら夜通し寝ずにいる。
 風息は自由だった。同時に、どうしようもなく身動きのできない自分の居場所を、苦しくてたまらないと思っていた。それでもちっぽけな子どもである自分ができることなんて少ししかなくて、それではこの場所を変えることも、ましてや祖父母を置いて出ていくこともできない。
 虚淮やミンに諭されて、時折もしかして、と期待することはあった。もしかして、頑張れば何か変わるかもしれない。でも現実というやつはそう甘くなくて、いつも風息の希望をべきべきに折ってしまう。この何ヶ月か、ミンの管理する図書室に通って、誰もいないそこでこそこそと復習を繰り返した。結果は「5」の並ぶ通知表で返ってきて、これならと思ったのは確かだ。けれど、帰る道すがらで今までを思い返すとだめだった。だってこれまで、祖父母は風息の成績表にどんな数字が並んでいても、何も言ってきたことがない。おまけに帰り道に行き合った近所の主婦の、聞こえよがしな陰口まで拾ってしまって、いつもならヘラヘラ笑って自分の感情を誤魔化せるのにその日はどうしても立ち直れなかった。一緒にいた洛竹は気にすんなよ、と憤慨してくれたけれど、ろくに返せないまま別れた。そしてその足で埠頭まで行って、鞄から出した通知表を粉々に破り捨ててしまった。
 風息はどこにもいけない。この場所で、息ができなくなって死んでしまう時まで、嵐にまかれながら生きていく。そう思っていた。
 ある日、嵐のさなかに人が来た。ほんの数日前の話だ。通知表を破って海に撒いたあと、しばらくぼうっとしてからそろそろ帰ろうかと踵を返したところで、しゃがんで海を覗き込む男がいた。風息はさすがにびっくりして、沈んだ気持ちも吹っ飛んで声をかけていた。男はやけにぼんやりとしていて、おまけにその目は暗く、時期と天気もあいまって「危ない人なんじゃないか」と風息は思った。声をかけるだけかけてさっさとその場を離れて、あてもなくぶらぶらして帰ると、なぜかそいつはそこにいた。泊まるところがないという。なんだそりゃ、と思いながら、泊まることになった男のために、無意識に風息は自分がいちばん好きな部屋を用意していた。
 暗い目をしてぼんやりしていると思ったら、男が唐突に風息の捨てたはずの通知表を見せてきたので、つい思わず反発してしまった。いちばん他人に触れてほしくないことだったからだ。けれど部屋から出て、やってしまったと後悔した。今まで、何を言われても愛想良くしてヘラヘラとして、そうしていれば波立てずに静かに暮らしてこれたのに、その日はとことんだめだった。外の人間だから大丈夫、でももし誰かに告げ口したら? そう思って気を張っていた風息に、しかし男は「許してほしい」と謝ってきた。
 びっくりした。今までどんな大人も、風息に何を言ったって謝ることをしなかったからだ。彼らにとって風息は、たまたま歩くと蹴っ飛ばしてしまう道端の小石みたいなものだ。風息だって、自分がそういうものだと思っていたから、男が真摯な目をしているのに驚いて、しばらく何も言えなかった。風息がいいよ、と返した時、彼は安心したみたいに、ほんの小さく笑った。
 無限は風息が人生で初めて出会った、風息という一人を尊重してくれるひとだ。
 彼は風息になんにも求めなかった。町の人みたいに、母親のようになるな、祖父母を安心させろと遠回しに言うこともなければ、ミン先生や虚淮のように自分のやりたいことをやれ、ここに囚われるなと強く励ますこともしなかった。ただ彼はふと気づくと横にいて、風息のどうでもいい話にうん、うんと丁寧に相槌をうったり、穏やかな口調で自分のことを話してくれた。ぜったいに風息の生い立ちを誰かから聞いているだろうに、何も聞かないし、踏み込んでこない。波を眺めるような安寧が、無限との時間にはあった。
 風息をただの風息として扱ってくれる人。彼も、窮屈な家から飛び出したのだと言っていた。自分たちは少しだけ似ている。風息は無限のようにはきっとできないけれど、でも彼といる時だけは、自分はなんのしがらみもない「ただの風息」でいられる。無限は風息の安全な秘密基地みたいに、もうひとつの居場所だと思い始めていたのだ。
 でも、自分が思い違いをしていることに風息はたった今気が付かされた。
 ここから出ていけない風息と違って、無限は外に帰る場所がある人だ。あと二日もすれば彼はここを発って、「会いたい」という人のいる、自分の帰るべき場所へ帰るのだろう。風息はずっとこの場所にいて、それっきりだ。だって二人の間には、約束も何もない。無限は「連れて行ってくれる?」と尋ねた風息の言葉にだって、何も応えなかった。
 「きみに会いたい」と電話越しの誰かに言っていたみたいに、風息にも「そばにいたい」とかそんな言葉をくれはしないかと、そう考えてしまった自分に嫌気がさした。自分だって、本気で連れ出して欲しいなんてその時には微塵も思ってなかったくせに。
 自分たちを繋いでいたのは、他でもない、風息が厭いながら慕うこの町なのだ。ここから去ってしまえば、彼はきっといつか風息を忘れる。粉々の通知表も、魚の煮付けも、繋いでくれた手も、花火の匂いも、ぜんぶなかったことになる。いやだ、と頭の奥から悲鳴がした。しかし風息はそれに応えてやる方法を知らない。生まれてからずっと、いやだと泣き叫ぶ頭の中の声をやり過ごすことしか知らない。
 少年は音もなく、その場から踵を返した。