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森永
2022-11-23 17:26:09
16519文字
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春の嵐に紛れて泣いた⑥
無限×風息/くだびれ大学講師×訳アリDKの現パロつづき/修羅場回(全年齢向け)
1
2
3
五日目
風の強い夜
嵐の音で目が覚めた。
ドウドウと遠くから聞こえるのは、荒れた波の音だろうか、それとも強風の音だろうか。騒がしさにふっと意識が浮上して、薄暗い部屋の中で無限は目を開ける。何時だろうか、まだそう遅い時間ではない気がする。壁掛け時計で時間を見ようとすると、部屋の暗さのせいでいまいち判別がつかない。仕方なしに机の上に放っていたスマートフォンを手繰った。
ぱっ、と光る画面が寝起きに眩しい。目を細めてやり過ごすと、時刻の表示の下にメッセージアプリの通知が出ている。現在時刻は午前五時三十五分。億劫に思いながら体を起こして、ロックを解除する。この数日間、誰かから連絡が届いたのはこれが初めてだった。
アプリを開いてよくよく見ると送り主は北河で、時間は昨日の夜になっていた。眠気の抜けない額をこすりながら考えると、ちょうど風息と一緒にいた時間だ。メッセージは三つ。一つ目は調子はどうだという旨の確認、二つ目はやたらと小憎たらしい顔つきをした猫のスタンプ。そして三つ目の文面を目で追った無限は、その途端に眠気も何もかも忘れてしまった。
『小黒から電話がきた。預かり先で元気でやってるってんで安心したよ。お前とも話したいって言ってたから、大丈夫そうなら電話してやれ』
小黒は、北河がつれてきた子どもだった。
ある日突然、「子どもしばらく預かってもらえないか」と言われたときには、自分に頼んできたことが信じられなかった。一人息子で若いうちに家を飛び出している無限は、誰かと暮らすことに慣れていない。それが五つを過ぎたばかりだという幼子であれば、なおのこと無理があると思った。人付き合い方が下手で、さらに言えば生活自体もうまく回しているとはいえない独身の男よりも、もっとふさわしい相手がいる。そう、北河に断固とした態度で断りを入れたはずだったのに、気づけば無限は、五歳の幼児と一緒に暮らすことになっていた。
小黒は生まれてまもなく病院の門前に棄てられ、それから養護施設を転々としてきたのだという。ろくな世話もされずよほど厳しい経験をしたのだろうと北河は推測した。その北河のケアで多少は回復して、無限のもとへ連れられてきた頃には目付きと愛想が悪いくらいになっていたが、突然自分を保護することになった男には当然ながら警戒心をあらわにしていた。
北河は予後の処理や折り悪く抱えていた仕事のために、小黒と暮らすことはできないのだといい、自分が今一番信用できるのはお前だと数少ない友人に言われてしまえば、無限にはそれ以上拒むことなどできないのだった。その後北河は、出来うる限りの無理をおして無限の家を訪ね、小黒の様子を見に来てくれた。
無限はというと、まずもって子どもとの接し方などわからず、慣れない生活に混乱していた。小黒は放っておいても暴れたり、ものを壊したりすることはなかったが、おおよそ普通の暮らしというものを知らなかったために、無限の予想を簡単に越えることばかりした。
食事の作法、風呂の習慣、身支度、寝床。どれもこれもが無限を困惑させ、驚かせ、そして煩わせた。しかし、裏を返せばそれら当たり前のことを小黒がきちんと教えられなかったことの証左で、無限は自分でもこの幼子にどんな感情を抱けばいいのかわからないまま、それでもひとつひとつ小黒に教えていった。そうするしかなかった。
救いだったのは、小黒の根がとても素直で、そして賢かったことだった。染み付いた大人への警戒心はなかなか拭えなかったけれど、無限が適切な距離を保ちながらいけないこと、してよいことを何度か語って聞かせれば、小黒は少しずつ確実に判断を下せるようになった。そして、何も知らない自分に辛抱強くものを教え、声を荒らげることも乱暴なこともしない無限に対して、小黒は徐々に心を開いていったようだった。
ある日、帰るのが予定より遅くなってしまったときがある。小黒を預かってからなるべく定時で帰れるように努めていた無限だが、学生の相談にのっていてどうしても時間をとられてしまったのだ。急いでマンションへと帰り、ドアを開けた無限の目に飛び込んできたのは、玄関先に座り込んでじっと膝を抱える小黒の姿だった。小黒は無限が帰ってきたのを見るや、ぱっと足にしがみついて心底安堵したように「おかえり」といって笑った。
その顔を見た瞬間、無限はたしかに小黒のことを「大切だ」とつよく思ったのだ。
二人はなんとかうまく生活を送っていたが、やっと小黒を預けてもいいだろうという、信用出来る施設が見つかったという連絡によって、それは呆気なく終わってしまった。小黒も無限も、互いに離れることに抵抗があり、話を持ってきた北河をしても「引き取ってはどうか」と提案してきたが
――――
無限は結局、寂しそうな顔をする小黒の背中を押して、彼を見送ることを選んだ。
小黒とともに暮らすほどの幸福ことはきっと、今後訪れないだろうという確信がそのときの無限にはあった。だが、だからこそ、小黒には自分で生き方を選べるようになってほしいと思ったのも紛れもない事実だ。自分と暮らしていてはきっと見落としてしまう未来への選択肢を、無限の隣ではないどこかで、小黒自身の手で見つけて欲しかった。それが、無限が小黒に渡せる最大限の親愛だった。
小黒を手放してからは、生活にぽっかりと穴が空いたような心地で過ごした。
家に帰ってもおかえりと出迎える声も、夕飯を分け合う相手も、テレビを見てあげる笑い声も、布団の中のぬくもりもない。生まれて初めて心地がいいと思い始めていた家から、自然に無限の足は遠ざかった。幸か不幸か、常勤講師としての仕事はやればやるほどでてくる。自分の研究と、授業の準備、学生の課題の採点。学科内での会議のとりまとめや行事の管理など、若手から中堅の講師にはいくらでも仕事が舞い込んでくる。
無心で働くのはとても楽だった。気が滅入るようなことを考えなくて済むからだ。一時も休むことなく頭を回して、体を動かし、最低限の栄養補給をして気絶するように短い眠りを繰り返せば、いつしか無限のつま先から頭のてっぺんまでが壊れかかっていた。
目まぐるしく働く合間に、うっかりなにもない時間を作ってしまったとき、必ず小黒の声が耳の奥で反響して、自分を放り出した無限を責めた。実際に彼が無限を詰ることなどありはしないときちんとわかっていても鳴り響くそれは、小黒の声を借りた無限自身の自罰に過ぎない。それでも無限自身には、それを止めるすべはなかった。北河がああも強情に休ませたがったのはきっと、自分が小黒に出会わせたという負い目があるからだ。そうして無限は彼の手に背を押され、苦しい記憶から逃れるためにこの街へきた。
しかしこの町に来てからも、後悔は無限を逃さなかった。昼間は絶えず立つ波の音で誤魔化されていても、ふとした時に残響に苛まれる。特に、ひとりの少年と出会ってからは、小黒とは歳もだいぶ離れているというのに彼を幼子に重ねた脳みそが勝手に記憶と感情を再生していた。
けれど、甲高く脳を刺すそれはしかし、いつの間にか、澄んだやわらかな少年の声にすげ変わっていた。
――――――
無限さん。
たった数日、それだけの時間で、風息は無限が苛まれ続けた後悔の端っこをほどいてしまった。
彼の気負いのない、自然な振る舞いは漣のように無限の心を絡めとって、耳障りで消耗する記憶ばかり見返してしまう無限の思考を止めさせた。風息はきっとそう意識してしたわけではないだろう。けれども、無限の内側には入らないようにしながら、ゆるされるとわかる距離から覗いてくるあの紫の瞳が、無限のピントが外れた視界をきちんと現実の世界に引き止めたのだ。
小黒、の名前を見ても、無限の感情は嫌なざわめきを起こさなかった。ただ、懐かしい思いだけが弱い波のように打ち寄せる。いまだに小黒を見送った最後の日を思い出せば後悔が心臓のあたりでうごめくのを感じるが、無理にでも逃げないと破裂しそうなほどには痛まなかった。新しい場所に小黒が馴染むまで連絡は取らないほうがいいと、北河と話し合っていたのがずいぶん昔のことに思える。小黒のほうから連絡が来たということは、あの子も自分の暮らしに向き合えるようになったということだろう。
次は、無限が向き合う番だった。
「おはよう、無限さん。早いな」
「おはよう、風息。外がうるさくて目が覚めてしまって」
いつもよりいくらか早く広間に降りると、朝食の準備をしていたらしい風息が顔を上げた。机を拭いた布巾を畳みながら、無限の言葉に外を見てああ、と頷いている。
「今はまだ大丈夫だけど、雨戸を閉めないとな。なにかぶつかって窓が割れると危ないし」
あとで無限の部屋にも行って雨戸を閉める、と言う風息にわかったと頷くと、「ごはん持ってくる」と言ってたったか奥へ引っ込んで行った。座布団の上に座って待つことにする。出ていく前に風息がつけたテレビで、ニュースキャスターが嵐の被害に気をつけるよう呼びかけていた。
今日は一日、どこにも行けないだろう。ここのところ、昼は近くを歩くこともあったし、それ以外は部屋で海を眺めながらぼうっと時間を過ごして、たまに文庫本のページを読むともなしに捲ることもあった。しかし今日は、読書以外にできそうなことがない。かえって好都合だ、と無限は思った。
朝食の後か、昼過ぎにでも小黒に電話をしてみようと思っていた。番号は北河から送られてきている。さっき部屋を出る前、北河には返信しておいた。調子が戻っていること、聞いたよりバカンス向きの場所ではなかったこと、しかし好ましい出会いがあったこと。ありがとう、とも。
北河は忙しくしているのにまめな男なので、朝食のあとにはまた返信がきているかもしれない。たぶん、お前ひとに決めさせておいて、とか、なんだそれ詳しく教えろ、とか。そういうメッセージが来るだろう未来がありありと描けて、無限は無意識に小さく笑った。
「おまたせ
……
なに笑ってるんだ? ニュースでなんかおもしろいのやってた?」
口許が緩んでいることを、盆を抱えて戻ってきた風息に言われてはじめて気がつく。少し照れくさくて、手で口を抑えることでごまかした。
「いや、思い出し笑い」
「無限さんでも思い出し笑いとかするんだ」
「きみ、私をなんだと思ってるんだ」
「ん? うーん
……
男前だけど仏頂面の変な人
……
?」
「なんだそれは」
小鉢や茶碗を並べながら、あながち冗談でないふうに風息が言うので、無限は胡乱な顔をする。風息はだって、と言っておひつからご飯をよそいながら続けた。
「こんな天気の悪い時期に来るし、暗い顔してるし、飛び込みで泊まりに来るし」
聞けば聞くほど、釈明の余地がない。かくんと肩を落としてご飯の盛られた茶碗を受け取ると、風息はフォローのつもりかあわててまた口を開いた。
「でも、俺みたいな子どもにも丁寧だし、優しいし、意外と笑うよな。俺はあんたのこと、いい人だと思ってるよ」
「
…………
本当に?」
「ホントホント」
「
……
そんなに笑ってるか、私」
「え?」
今度は風息のほうが虚をつかれた顔をして、無限の顔をしげしげと見つめる。何を確かめているのか、ひとつふたつと納得したように頷くと、「笑ってるよ」とお墨付きをおす面持ちで言った。そこそこの力強さがあった。
「最初会った時は無愛想なのかなって思ったけど、意外とよく笑うんだなって。よく言われない?」
「言われない。よく仏頂面と言われる」
「ええ?」
疑わしげな声をあげられても、言ったとおりなのだから無限も困る。伊達に四半世紀以上、人付き合いが苦手で通ってきていないのだ。奇跡的に仲を深められた友人は、「人に興味なさそう」とか「この世の全てに興味なさそう」とか「鋼とかでできてそう」とか言う。無限としてはいたって不満である。人に興味がないわけではなく、踏み込んでいいか見極めているだけだし、好奇心がなければ講師になってまで大学に残って研究を続けていない。
というようなことを、目の前にいる風息につらつら文句にして垂れた。向かいで頬杖をついてふんふんと聞いていた少年は、そのうち面倒くさくなってきたのか両手のひらを無限に向けて「わかったわかった」と雑に話を切り上げにかかる。無限はむっと口を噤んだが、二人の間で健気に湯気を立てる朝食を指さされては何も言えなかった。
「冷める前に食べちゃってよ」
「
………………
いただきます」
部屋に戻った無限は、スマートフォンを手に取った。北河からさっそく返信が来ていて、少し笑ってしまう。案の定、帰ったら根掘り葉掘り聞くからな、お前の奢りで飲みにいくぞ、とメッセージ。それから、小黒の連絡先が最後にぽっと放り投げるように打ち込まれている。ご丁寧に小憎たらしい顔をした猫がファイティングポーズをとるスタンプと一緒に。
ひとつ呼吸をおいて、電話機能を呼び出して北河のメッセージから数字の羅列を打ち込む。指が澱みなく動いたことに安堵したのに、耳に当てた端末がコール音を流しだすと思い出したように緊張が体を走った。いい歳をして、何を恐れているんだろう。小黒とは、一応きちんと話し合って互いに頷いて送り出したのだ。寂しそうにしていた別れ際、あの子は無限を責めたりなんて一切しなかった。自分の罪悪感が生み出した幻で、身勝手にも苛まれているのは無限自身の問題だ。だから大丈夫、ただ小黒が元気かを確認すればいい。あの子のほうから話したいと言ってくれたのだから。
そう念じて自分を落ち着かせながら、しばらくじっと待つ。ぷつ、とコール音が途切れたとき、鼓動がひとつどきんと跳ねた。もしもし、と電話口で応答したのは若い男性の声で、施設名を名乗った彼に自分の名前と、小黒に用があるのだと伝える。前もって知らされていたのか、男性はすぐにああ、あの、と合点がいったように答えてくれた。小黒を呼んでくるから待つように言われ、合成音のオルゴールを聴きながらその時を再び待った。
『
…………
もしもし?』
ふいにオルゴールが途切れ、一瞬の間をおいて、スピーカーが高いソプラノの声音がおずおずとした響きを持って流した。無限の吐息がくっ、と一瞬、つまる。小黒の声だ。最後に会ったときとそう変わっていない。なかなか返事をしないことに不安がったのか、『もしもし、あれ? もしもし?』と困惑した小黒の声を聞いて、はっと我に返った。
「
………………
小黒、私だよ。無限だ」
『師匠! ほんとに師匠だよね? わあ、久しぶり!』
言葉尻が掠れていたのには気づかれていないだろうか。小黒は、無限の声を聞いた途端にぱっと弾けるようにはしゃぎだした。電話越し、小黒の声の後ろから『こら、跳ねない!』と窘める声が聞こえる。どうやら本当に飛び跳ねて喜んでいたらしい。それを知って、そうしたら一気に力が抜けて、無限は額に手をやって小さく息を吐いた。ああ、久しぶり。言葉を返す口元はほのかに笑んでいた。
やっぱり、小黒は一緒に暮らしていた頃と変わらない。生活の色んなことを教える無限を「師匠」と呼ぶ呼び方もまったく同じ。優しく、無限を慕う無邪気な幼な子だ。悪夢の残滓がするすると脳裏から溶け出していく。
「なかなか会いに行けなくてすまない。電話も」
『ううん。北河が、無限はすっごく忙しいんだって教えてくれたから。でも今日はお休みなんだよね?』
「うん。
……
最近は、どうだ? 元気にやっている?」
『うん! 会館におもしろい人がいっぱいいるんだ。それにこの間、近所の子と遊んだよ。じどーかい? っていうんだって』
会館、というのは、小黒が入所ている児童養護施設の通称だ。矢継ぎ早に話す小黒は、無限が調子を崩していることを知らないようだった。北河が気を回してくれたのだろう。無用な心配をかけたくないので、その心遣いに無限は胸の内で感謝した。うん、うん、と小黒の話に相槌を打つ。会館での暮らしは、早くも小黒にいろんな出会いや学びを、そして安心できる生活を与えてくれているようで、心底安心した。
『それでね、ぼくね、友達ができたよ。会館の近くに住んでて、小白っていう子なの。あとね、小白の友達の山新と、小白のお兄ちゃんの阿根と
……
』
「
……
そうか。よかったな」
『師匠は?』
「私?」
『師匠は、友達できた?』
「私は
………
」
唐突な問いに、ぱっと脳裏に浮かんだのはひとりの少年だった。ごめんなさいと言う強張った顔、許してほしいと言ったときの気の抜けた顔。穏やかな声音とイタズラっぽい笑い方。秘密基地と波のかたち。冷たい手とあたたかな肩。すべて、たった数日間に知った、風息の記憶だ。それはこの限られた短い時間の中、世界でいちばん無限の近くにあったよすがだった。
「
…………
友達、かはわからないけど。一緒にいて楽しいひとはいる」
『ほんとに! 良かったねぇ、師匠』
無限の笑む声を聞いて、小黒は我が事のように喜んでくれた。離れていても、血のつながりがなくとも、無限がそうであるように小黒は無限を大事に思っている。むしょうに小黒のふかふかと柔らかい髪を撫でてやりたくなった。逃げ出すくらいの後悔に苛まれていたのが嘘のように。
小黒は他にもいくつか、会館での暮らしについて無限に教え、その度に無限は相槌を打って、時に声をあげて笑った。ふいに、話の切れ間にしんと小黒の声が沈んだのでどうしたのかと尋ねると、彼は溌剌とした声を潜めて、すがるように言った。
『師匠、あのね、ぼく
……
師匠にあいたい』
「うん
……
私もだよ、小黒。きみに会いたい」
きっと、互いにいちばん伝えたかったのはこれだった。二人の生活は苦難に満ちていて、けれど確かな幸福もあった。それが急にばらばらになってしまって、簡単に会えない距離にまでなってしまった。小黒は新しい環境に慣れる必要があったし、無限は罪悪感と喪失感の呵責に耐えていた。しかし季節が変わるのと同じように、また別の形で絆をつなげていけると、ようやく理解できたのだ。
「近いうちに、会いに行くよ」
『うん。約束ね、師匠』
「ああ。約束だ」
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