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森永
2022-11-22 20:14:31
17276文字
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春の嵐に紛れて泣いた⑤
無限×風息/くたびれ大学講師×訳アリDKの現パロ続き/軽微なラッキースケベを含みます/まだお互い自覚してない
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落ち着かない気分を持て余しながら午前を過ごした無限は、午後にまた散歩へ出た。自分でもなぜこんなに気持ちがざわついているのかわからないまま、しかしこのまま悶々と時間を過ごすのも勿体無いと思って、とにかく外の空気を吸おうと宿を出たのだった。
天気は落ち着いていた。時折日が翳るほかは、昨日よりも気温もちょうどよく、風も幾分かゆるやかだ。相変わらず町には人が少なく、静かで穏やかな顔を見せている。無心で歩いていると海岸沿いの道まで出て、しばらく行ったあたりで昨日の夜に風息と歩いた道だ、と思い当たった。無意識に記憶を辿って来たというより、散歩道らしい道を辿るとしぜんとここに出てしまったのだ。なんと言っても、この街は海以外なにもない。
波は靄がかった青緑をしている。アイスクリームを溶かしきってしまったメロンソーダみたいな塩梅だ。ぺたぺた塗った絵の具のようにも見える。よくテレビで青く透き通る海が賞賛されるのを聞くが、無限はこのどこにでもありそうな濁った海のほうが好きだな、と思った。不用意に心に触ることのない、見ていて安らぐ色だった。
そんな海を横目に、このまま進んでいくと初日にはじめて海に出たあたりだな、とぼんやり思い出しながら進んでいく。案の定、少し行ったところで道の向かいに簡素なバス停が見えた。人もいなければ車もほとんど通らないのを言いことにひょいひょいと道路を横切って、錆びて剥がれかけた時刻表をのぞく。平日の最終便は十七時五分。無限がここに来た日は休日だったので、もっと前の便だったようだ。苦い思い出が胸をよぎる。それを振り払うように、そろそろ帰りの算段をしないといけないなと無限は考えた。この休みも終わりが近い。
朝も考えたことだけれど、日常へ戻る日は着々と迫ってきている。着いたころは北河に言いつけられた「バカンス」が叶うとは全く思えなかったし、実際ここで晴れやかな休暇を過ごしているとも言い切れない。けれど、無限の体は徐々に足並み乱れていた体と精神は感覚を少しずつ取り戻しているのは確かだった。ここがなにもなくて、静かで、そして親切な少年と出会ったからだろう。
つらつら考えながら、足はまた動き出していた。少し歩くと、つい先日もみた覚えのある鳥居が木々の間から覗いている。無限はちょっと立ち止まって、その朱い切れ端を眺めた。頭の中でぐるぐる回っていた思考がふっと止み、自然と、あそこで風息と話した時のことを思い出していた。その時に吹いていたあたたかな風や、穏やかな木漏れ日のことを。気づくと足はそっちへ向かって踏み出している。落ち着いて息のできる場所で休みたい、と思った。
無限はうっかり失念していたが、その場所も風息の休憩場所なのだと、本人がそう話していたことがある。それを無限が思い出したのは、すでに境内に足を踏み入れていて、参道から外れたところに立った時だ。はたして、風息はそこにいた。この間と同じ、境内の隅っこの忘れられたような分社の階段に、木陰に溶けるようにしてぽつねんと座っている。さっきのハプニングというか、アクシデントというか、散歩に出た原因の本人がそこにいたので、無限は静かに動揺した。
風息のくっきりとした鎖骨のかたちを思い出しそうになる。だからなぜそんなに同性の体に対して衝撃を覚えているのか、自問自答しても答えは返ってきそうにない。気まずさを覚えて来た道を戻ろうか迷った時、視線の先の彼があの日と同じように、膝の上で冊子を開いてそれを熱心に見つめていたので、ざわつく気持ちはサッと霧散した。
風息は膝の上に広げた冊子に紙かなにかを重ねて、何かを書き付けている。たびたび手を止めては冊子と睨めっこして、ふたたびペンを動かす。それを無限が見ている間だけでも二度、三度と繰り返すので、無限は思わずためらいも忘れて声をかけていた。
「風息」
「あれっ、無限さん」
風息がぱっと顔をあげる。その手が慌てたように冊子を閉じるのも、あの日とまるきり同じだった。
「
……
勉強中だったか?」
「んーん、違うよ。見てただけ」
極力なんでもないふうに風息は首を振ったが、それはちょっぴり芝居がかっていて、嘘だと丸わかりだった。その拙さを無限は少しおかしく思いながら、座ってもいい、と少年の隣を指して尋ねる。風息が頷いたので、そっと腰を下ろして肩を並べた。こんなに近くで見られながらしまうのも不自然だと思ったのか、風息は冊子を足元の買い物袋にしまうことはせずに膝の上に置いたまま、落ち着かなそうにページ端をかりかりいじっている。「学校のか?」と無限が訊くと、首を振って否定して「洛竹の塾のやつ」と風息が答える。言ってから、洛竹ってわかる? おとついすれ違ったやつ、と付け足したので頷いておいた。
無限が視線を落とすと、「化学」の文字が見える。先日見たものと同じ系列のワークのようだった。風息が乱暴に閉じたときにシャープペンシルを巻き込んだので、少しぽこっと歪んでいる。無限の視線に慌てたのか、風息は少し饒舌になって口を開いた。
「いや、洛竹がさ、一緒に帰ってる時に忘れていったんだよ。次会った時に返そうと思って、それでちょっとどんなものかなって、覗いてみてただけで
……
」
「ミン先生が」
あえて、風息の言葉が終わるのを待たずに無限が言葉を被せると、少年はその口から出た名前に虚をつかれたように押し黙る。ワークに落としていた視線をあげて、風息のぶどう色の目をじっと見つめる。それは小刻みに揺れていて、少年の動揺をあらわしていた。彼の感情を漣立たせてしまうことを無限は少し悔やんだが、出てしまった言葉を取り消すことはできない。硬い声音にならないようにと、それだけは意識して続けた。
「きみは学ぶ意欲がないわけじゃないと言っていた」
ぎゅっ、と引き結んだ風息の唇から色が引いていく。畳み掛けるように無限が「成績表、オール5だったんだろ」と言うと、風息はとうとう膝に突っ伏すようにして顔を隠してしまった。顔を伏せた腕の隙間からはああ、と長く深いため息がこぼれ、心なしか跳ねた髪の毛先までしなだれているふうにも見える。うう、と小さく呻いたあと、風息は消え入りそうな声でつぶやいた。
「
…………
恥ずかしい
……
」
「恥ずかしがるようなことじゃないだろう。きみが勤勉なことを、ミン先生は褒めていたよ」
「昨日あんなに言っといて
…………
」
それは、まあ、無限が彼の立場でもいたたまれないと思う。かたくなに自分は進学しない、だから勉強もしない、とうそぶいておきながら、そう思わせていたと思っていた相手に本当のところがバレていたのだから、恥ずかしくもなるだろう。だから無限はなにも言わずに、うなだれるその背中をかるく摩ってやった。風息は驚きも拒みもせず、無限の手のひらを受け入れているようだったので、しばらくそうして落ち着かせてやる。案外、広い背中だった。
沈黙がしばらく続いたあとに、無限が「がんばったな」と小さく言うと、風息はゆっくり顔をあげて、ちろりと自分の横に座る男を見上げた。それからのったりと背中を起こして、しかし視線がまだ地面に落ちて揺れている。
「俺、でも、それでも
…………
」
口の中でつぶやくようにして、継ぐ言葉がなかなか出てこないのだろう。無限も、無理に風息に何かを言わせようとか、考えを改めさせようとはこれっぽっちも頭になかった。なので、ひとまずこの話は終わりだ、と暗に伝えるために、風息がいまだに膝に抱えているワークを指差して「やってみるか」と声をかけた。
「え?」
「さっき解いてたところ、苦戦していただろう」
「いや、べつに俺は、」
「『暇つぶし』だ。付き合ってくれないか」
無限がそう言うと、風息はちょっとびっくりしたように目を丸くする。自分が昨夜言った言葉を無限がわざと拾ったのに気付いたのだろう。口の端っこで笑って見せると、風息は決まりが悪そうに口をモニャモニャと動かした。ほら、と無限がワークの角を指でトントン突っつくと、風息は渋々と言った様子でさっきまで見ていたページを開いた。ワークが落ちないように、互いに膝を寄せた真ん中に置いて、問題を覗き込む。
解いていたのは有機化合物の組成を問う問題だった。ざっと見たところ基礎的な問題ばかりだが、そもそも高校で学ぶ化学のなかでもややこしくなってくる部分だ。風息がメモがわりに書き付けていたらしいルーズリーフには、記号や数字がいくつも並んでいて、風息の苦戦を物語っている。無限が今受け持っている専攻は歴史関係なので、この分野に触れるのは学生のとき以来だ。ペンを借りて、記憶を辿りながら化学式と化合物の名称を書き付けていくと、現役の風息もすぐに詰まっていた思考の絡まりがほどけたらしく、「あっ、ああ〜」と声をあげて無限から取り返したペンで答えを書き込んだ。基礎ができていないわけではないのだろう。オール5の成績は伊達ではないと見える。
巻末についていた解答で答え合わせをして、やっと解けた、と風息がスッキリした顔をする。その、さっきまでの暗い顔とのギャップに無限が小さく笑いをこぼすと、はっとした少年はあわてて表情を引き締めにかかる。もう遅いと思うが、その努力まで笑うと怒り出しそうなので、無限は緩んだ口元を摩って誤魔化した。
「
…………
あんた、教えるのうまいね。いや、大学の先生なんだから当たり前か」
「大学の授業は、化学式を教えるのとはちょっと違うけどな。むかしアルバイトで塾講をしていたからじゃないか」
実際、無限の塾で扱っていたワークと似通った作りをしていて、遠い感覚を呼び起こせたのもあった。ふうん、と興味ありげに返事をした風息は、今しがた解き終わった問題に目を落とすと、「これ、ほんとは洛竹に借りたんだ」と静かに打ち明けた。一緒に帰っているとき、別れ際に屯っていた場所に置いて行こうとするので注意したら、まだ使わないから持っててよと言って押し付けられたらしい。
「塾で来期以降に使うやつをまとめてもらったけど、まだ使わないからって。『風息やってもいいよ』なんて冗談っぽく言ってたけど、あいつ、たぶん気を回してくれたんだな」
洛竹は風息の一つ下の学年だと言っていた。進学を考えるなら受験にも密接に繋がる科目だ、確かにその彼よりも風息の方が持っていたほうが役立つに違いない。無限はその洛竹少年とまともに話したこともないので本当のところはわからないが、風息がそう思うのならきっとそうなのだろう。ワークの表紙を撫でる風息の横顔は、穏やかでどこか苦しげだった。
「貸してもらったからどうせなら、って開いでみたけどやっぱ難しくて、ちょっと挫けかけてた。でも無限さんのおかげで解けたから、よかった」
「私が教えなくても、きみはできていたと思うよ」
「へへ、お世辞? そんなことないよ」
顔を無限のほうに向けた風息ははにかんだ。ひとまずそれでいいか、と無限はそれ以上何も言わなかった。この流れで説教くさいことを言うつもりもない。ただこの少年が、諦めて手放そうとしているものに向き合おうとしていることを尊重できて、ほっとしていた。ふと思い出して、羽織っていた上着のポケットに手を入れる。確か、昨日店を出てからずっと入れたままになっていたはずだ。探ってみると思ったとおり、チョコレート菓子の包装が指先に当たった
「風息、手を出して」
「なに?」
「これ、勉強のご褒美だ」
そう言って、きのう虚淮からもらった菓子をふたつ、反射で出された風息の手に落としてやる。手のひらに転がった菓子を見た風息は、丸っこい目をさらに丸くした。これどうしたの、俺の好きなやつ、とびっくり眼で尋ねてくるのに謎の達成感を覚えながら、無限は昨日雑貨屋で店番の人にもらったのだと正直に言った。
「虚淮って言ったか。幼馴染なんだろう。風息にとくれたんだよ」
「そうなんだ
…………
」
次会った時でもいいのに、あいつ、なんて呟く風息は、たぶん無限が一部始終を聞いていたことなど思いもよらないだろう。チョコレートが風息へのごめんねの証だけでなく、無限への詫びも兼ねていることを。虚淮はせっかく二人分を無限に渡してくれたんだろうが、無限としても罪悪感があるわけで、二つとも風息に渡してしまった。
小さく笑って、ありがと、と言う風息にうん、と返す。それから誰もいない境内に視線をやって、すうと一つ息をした。ちょうど、木々に囲まれた空に晴れ間ができていた。それを眺める無限の裾を、風息の指先ちょいと引く。なんだと思ってもう一度、少年の方へ顔を向ける。ぬるい風がふらりと吹いた。
「ありがと、先生」
目を細めて風息が笑う。その頬にかかる木漏れ日が、一瞬、カーテンの翻る影に見えて小さく息を呑んだ。それは今朝、夢で見た風景と瓜二つだった。
時間が止まったように思えたが、それは無限だけの感覚だったようだ。風息はぱっと手を離して立ち上がると、「まだ買ってくものあったんだった!」と言って足元の買い物袋を引っ掴んだ。ワークもしまってしまうと、じゃあ後でね、と無限に手を振ってタッと駆け出す。と思ったら三歩もいったところで急に足を止めて、ぽかんとしている無限にビッと指を突きつけた。
「あとでお礼、するから! 覚えといて」
「え? あ、ああ
……
?」
なんだかよく飲み込めないながら無限が曖昧に肯くと、それで満足したのかふすんと鼻を鳴らして、少年は今度こそ軽やかに走って行ってしまった。あとには呆然として残された男が一人。無限はしばらく吹く風に髪を遊ばせていたけれど、それが止んだ頃にぽつんと一人つぶやいた。
「
……
別にお礼は、いらないんだけどな」
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