森永
2022-11-19 21:07:52
18056文字
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春の嵐に紛れて泣いた④

無限×風息/くたびれ大学講師×訳アリDKの現パロつづき/※未成年喫煙の描写がありますが、決して行為を奨励するものではありません。お酒と煙草は成人してから



 部屋に戻って頭痛薬を服んでから、だらしがないとは思いつつも敷きっぱなしだった布団を畳みもせず窓際に頬杖をつき、しばらく窓の外を眺めていた。布団のシーツは毎日、午後になるとあたらしいものをもらえるので清潔だ。つくづく手厚いなと思う。毎晩頬をつけるとよその家の匂いがした。宿だから多分業務用の洗剤の匂いだ。洗濯をお願いしていたら、無限の服からも同じ匂いがしていたのかもしれない。そんなどうでもいいことを考えながら眺める空は、今に雨が降りそうな暗い色をしている。
 のったりとスマートフォンに手を伸ばして、ウェザーニュースアプリを立ち上げた。現在地から絞り込むと、どうやら近海で低気圧が発生している。嵐が近い。夢見が悪かったのも案外ほんとうに天気のせいだったのだろう。どうにも気力が湧かずにぼんやりしていると、トントンと戸を叩く音がする。また風息かと思って開けると予想に反して彼の祖父で、具合が悪いと孫に聞いたが昼はどうする、と尋ねられた。無限はちょっと考えてから、いらないと答えた。その代わり、自分で軽食を調達できるところはあるかと訊くと、地元の者が使うような雑貨屋が近くにあると返ってくる。
「ちょうど風息を遣いに出したところで。何か必要なものがあれば、店に電話でもして買ってこさせますけど」
「いえ、自分で行きます。散歩も兼ねて」
 そういうことなら、と老爺は雑貨屋への道順を教えてくれた。昨日行ったランドリーの少し先で、青い屋根が目印だという。彼に礼を言って部屋に引っ込み、少し逡巡してから上着を取った。薬が効き始めて楽になってきたからで、決して風息がいると聞いたからとか、そんな理由ではない、と誰にともなく言い訳している自分がいて不思議に思った。

 例によって財布と部屋の鍵をポケットに入れて宿を出る。どんよりした天気に、自分がここに辿り着いた日を思い出した。あれからまだ三日しか経っていないのに、ずいぶん色んなことがあったなあと無限はしみじみ感慨に耽った。主にひとりの少年にまつわるあれこれを、短い間によく知ってしまったものだ。まだ腑に落ちていない部分もあるが、風息自身に関してはやはり好ましい青少年だという感情が強い。旅先でできた年下の友人のような彼を、無限はわりと気に入っている自覚がある。彼は、いいやつだ。
 曇天の下をてくてく歩いて行くと、やがて教えてもらった通りの青い屋根が見えてくる。ガラスの引き戸は開け放たれていて、薄水色の暖簾の向こうに薄暗い店内が待ち構えている。
 色褪せた暖簾をくぐってそろりと店内へ踏み入れると、やや隙間の多い陳列棚が出迎えた。菓子類や日持ちする缶詰、日用雑貨。壁には飲料の入った冷蔵ケースがある。きょろ、と見渡す限り、風息はいないようだった。先に出ていると思ったが、当てが外れたようだ。
「いらっしゃい」
 不意に店の奥から声がかかり、無限はぱっと声の主を振り返った。無人かと思ったレジの内側に、ちょこんと小柄な人影がいることに気づく。どうやらカウンターの内側に椅子を置いて座っていたらしい。そこにいたのは(おそらく)風息と同じくらいに見える少年だった。髪を後ろでくくって、ツンとした無表情をしている。手元には本を広げて、風息のように春休みだからと店番でも任されているのだろうか。どうも、と会釈した無限にそれ以上何を言うでもなく、またふいっと視線を本に戻した。あのお決まりの「こんな時期に珍しい」がなかったことに拍子抜けしつつ、無限は軽食の棚を物色した。
 さほど品数が多いわけでもないが、シーズンにはそこそこ人が訪れるのだろう、棚はやや大きく設られている。無限の背丈ほどもある菓子パンや携帯食の陳列された棚は、今はややさびしげなものの、きっと時期には所狭しと商品が並ぶのかもしれない。無限がうろうろと視線を彷徨わせて、ブロック状の完全栄養食品にかつての思い出を刺激されたりされなかったりしていると、店の入り口から「こんにちは」と軽やかな声が飛び込んできてつい手を止めた。風息の声だ。
「虚淮! ほんとに帰ってきてたんだ」
「よう、風息。久しぶり」
「久しぶり! そんでおかえり」
「ああ」
 気安いやり取りをしながら、風息は店の奥へ進んでいく。背の高い陳列棚のせいか、無限には気づいていないらしい。虚淮と呼ばれた店番の彼と知り合いのようで、声音がミンと会った時のように弾んでいる。
「仕事の調子はどうだ? やっぱり忙しい?」
「まあ、繁忙期はな。今月に入ってやっと落ち着いた」
「おお、なんか社会人って感じ」
「社会人なんだよ」
「へへっ、そうでした。向こうの大学出てからそのまんま就職だもんなー。正月もろくに帰ってこないから、おばさん心配してたんじゃないか」
「まあ、小言が溜まって帰省になったまであるな」
 あはは、と弾けるように響く笑い声を聞きながら、無限は静かに驚いていた。店番の彼はてっきり未成年かと思っていたのに、どうやら風息よりも年上の社会人だったらしい。大学まで出ているというのだから間違いなく二十代の半ばだろう。人は見かけによらないものだ。
 しかし、ややタイミングを逃したな、と思う。風息と虚淮はすっかり和気藹々とした雰囲気で――虚淮の氷のような無表情がどうなっているかは定かではないが――再会を喜びつつ内輪の話に花を咲かせている。今出ていったとして、虚淮は驚かないだろうが、せっかく楽しげにしている風息の気分に水を差してしまうかもしれない。昨日までのあれこれがあるために、風息が心穏やかに過ごしているであろう時間を壊したくはないのだった。
 しかしずっとここで盗み聞きのような真似をしているのも、これはそれで居心地が悪い。無限が考えあぐねていると、それまで風息の弾んだ口調に平坦にも穏やかに言葉少なく応えていた虚淮がそういえば、と切り出した。
「進学の話はどうした」
 ぴたっ、と、一瞬店の空気が固まったように感じた。風息の声はすぐに答えず、無限の位置からは決して見えないその表情が気になった。
「春休みが明けたら進級で、受験の年だろう。そろそろ志望校を絞ってもいい時期じゃないか。おじいさん達には言ったのか?」
…………言ってないよ。進学する気もないし」
「どうして。前に会った時には、考えてみると言っていたろう」
「考えたよ」
 乾燥した声音で風息は答えた。ぴしゃりとした響きで、ともすれば拒絶の色さえ見えた。無限ならそれを聞いたら最後、もう踏み込めなかっただろう。だが虚淮という男性は儚げな外見に反してよっぽど胆力があるのか、「風息」と窘める言葉で風息の拒絶を押し除けようとしているようだった。
「考えたよ。なんべんも。それで俺には無理だなって思って、やめたんだ」
「俺は無理かどうかを考えろなんて言ってない。お前がやりたいかどうかを、きちんと考えろと言ったんだ」
「同じだろ」
「違う」
「違わない」
「風息、」
……もういいって。こんなことで、虚淮と喧嘩したくないよ、俺」
 互いに頑なな態度で言葉を交わし合った最後に、風息がつかえていた息をほどくような弱さでそう言った。泣き笑いみたいにも聞こえる声に、今すぐこの場から飛び出して行って風息を連れ出してやりたい衝動に駆られて、それを無限はぐっと奥歯を噛んでやり過ごした。虚淮のほうも、しばらく押し黙っていたようだったが、やがて小さな溜息が聞こえて、それで彼のほうもどうにか気を鎮めたことを悟った。
…………わかった、ひとまずこの話は置いておこう」
「虚淮、おれ……
 お前みたいにはできないよ、と消えいるような言葉が、閑散とした店内の四隅まで拡散していく。虚淮はなにも答えなかった。微かに衣擦れの音がして、それよりも小さく鼻を啜る音がした。無限はじっと、菓子パンの成分表示を意味もなく見つめながら身じろぎせずに立っている。
……おじいさんのお使いなんだろう。いつもの、用意できてるから持っていけ」
…………うん。これ、代金な」
「ああ。ちょうどだ。…………週明けまでは泊まる予定だから、どこかで集まろう。洛竹たちも一緒に」
「わかった。じゃあな、虚淮」
 袋の擦れるがさがさという音、小銭のささやかな金属音と続いて、風息の軽やかな足音が遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなってから、無限はふっと肩から力を抜いて、菓子パンの袋を手に持つと陳列棚の前からやっとこさ動いた。レジの前に立つと、虚淮がちろりと見上げてくる。
「盗み聞き」
……そんなつもりはなかったんだ」
「知ってる。タイミングが悪かったな」
 いっそ少女めいた顔立ちをしておいて、虚淮という男は丸椅子にどっかり座り直した。腕組みまでして、実に尊大な態度である。彼は無限の置いた菓子パンを一瞥すると、おもむろににゅっと白い手を伸ばした。レジカウンターの縁に置かれた「ついで購入」狙いらしい商品の中からふたつばかり掴み取ると、菓子パンのそばに転がす。そして「二百十円になります」と言ってトレーを手で示した。菓子パンひとつぶんの値段である。これは、と視線で無限が問うと、「詫びだ」という至極さっぱりした返事が返ってくる。
「店員のお薦めというやつだ」
「はあ、そうですか……
「ちなみに、風息が昔から好きなやつだ」
…………
「しょぼくれて帰ったから、適当なタイミングでやるといい」
 どうして私が。もう一度、無限がいろんな感情を込めて見ると、「あんた、風息のうちに泊まってる客だろう」と虚淮が言う。結局、時間差で同じことを言われる羽目になって無限は胡乱な顔になった。
「それでもって、風息となにかあるんだろう」
……なにか、とは」
「知らん。けどなにもない赤の他人が、あそこまで話を聞いてそんなに険しい顔をして出てこないと思うが」
 咄嗟に、無限は口元に手をやった。そんなにわかりやすい表情をしていたろうか。よく「なにを考えているかわからない」と評されるのだが、さっきから視線で言いたいことを把握しているらしい虚淮は、もしかすると人の表情を読むのが上手いのかもしれない。自分も表情に乏しそうだからだろうか。そんな失礼なことを思った無限の思考を知ってか知らずか、虚淮は「表情に乏しい知り合いがいてな。汲み取るのは得意だ」と心なしか胸を張っている。
 そうか、とだけ返して無限は財布を取り出した。小銭をぴったり取り出してトレーに置くと、受け取った虚淮は「まいど」と言って手でレジスターを引き出して小銭をしまい、手で閉めた。どうやら故障しているらしい。財布をポケットにしまう無限に向かって、虚淮の言葉がぽちんと投げられた。
「あんたが風息になにをしてやれるかはわからんが、ここの人間じゃないというだけでもまだマシかもしれないな」
 半ば独り言の響きだったので、聞き返していいものか迷って虚淮を見ると、返答不要とばかりに肩をすくめる。
「まったく、この街には面倒なことばかりだ。昔から」
 ミンといい虚淮といい、他の住民とはどこか違う思考をもつようだった。二人とも共通して、あのままならない少年をどうにかしてやりたいと思っているのだろう。しかし他ならぬ少年がああも頑ななのだから、きっと昔から彼をどこかへ逃してやりたくて、でも叶わないのだ。この街の、どこにでもある、保守的で排他的な空気を厭って。
「だから、この街を出た?」
「まあ。でも今となってはそれなりに、今の居場所にいる理由もある」
 さぱさぱと言い切って、虚淮はさあ言ったとばかりに再び本を開いた。借り物だから休みのうちに読み終えなければいけないらしい。無限もそろそろ退散することにした。今なら店を出ても、風息とかちあって気まずい思いをしないで済むだろう。無限が踵を返す直前、虚淮は「あ」と何かに気づいたように声をあげた。
「袋はいるか。有料だけど」
……いや、いりません」