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森永
2022-11-19 21:07:52
18056文字
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春の嵐に紛れて泣いた④
無限×風息/くたびれ大学講師×訳アリDKの現パロつづき/※未成年喫煙の描写がありますが、決して行為を奨励するものではありません。お酒と煙草は成人してから
1
2
3
三日目
曇り時々強風により晴れ
顔を背けた男が何か言っている。髪に白いものが混じりはじめた、中年の男だった。お前になにができる。顔は見えなかったが、無限はその自分と似ていない顔にどんな表情が浮かんでいるのかを、いやというほど知っていた。無感動な顔。突き放すような声音。子供のお前が、どこに行けるというんだ。どこへだって行けるのだと、そのときの無限には言えなかった。無限は、男に与えられたもの以外なにも持たない、正真正銘のこどもだった。答えられない無限に背を向けた男は畳みかける。ここにいれば十分だろう、なにを不満に思うことがある、ここにいればいいんだ、と、そう言う。
ちがう、と叫んだのは、実際の無限ではなかった。無限は父の言うことに逆らったことはない。より正確に言うならば、口に出したことはない。言いたい反論は全て、無限の肺の中でわだかまっていた。ぎゅっと口を引き結んで、この時も喉の奥で叫んでいた。自分はどこへだっていける。なんだってできる。ひとりでも。引き絞るような甲高い声は、果たしてほんとうに無限のそれだったろうか。訝しむ間もなく、それは自分の内側ではなく外側で鳴り出した。ししょー、どうしていっしょにいられないの?
泣かないでくれ、と大人の声で無限は言った。泣かないでくれ、きみが泣いていると、わたしまで途方に暮れてしまう。そう言って、うずくまって顔を隠しているこどもに手を伸ばした。小さな体、丸い頭。無限の手の中に、すっぽりと収まってしまう子供を嗚咽ごと抱きしめる。もう大丈夫、もう泣かないでいいよ。囁くと、鳴き声が途切れて、腕の中の顔が怖気付くように上げられる。
泣き濡れた瞳は、ぶどうの色に潤んでいた。
トントン、トントン、と木製の扉が叩かれる音が続いている。まだ意識が夢の延長線上にあるからか、それがずっと鳴っているのかそれとも今叩かれ出したのか、判別がつかなかった。
「無限さん、無限さーん。朝だよ。起きてる?」
扉越しに、くぐもった少年の声が無限を呼んでいる。戸を叩くのと言い、決して乱雑な音ではないが、痛いほど重い頭にヅクヅク響くようで、無限は顔を顰めた。喉が渇いて、心臓が早鐘を打つようにして動いている。あまりよくない目覚めだった。部屋の外では風息が呼んでいる。その声がだんだんと心配げな色を帯びていくので、痺れたみたいに怠い体に鞭を打って無限は体を起こした。
「あ、おはよ
……
って、すごい顔だな」
なんとか部屋のドアを開けると、無限よりやや背の低い少年はほっと顔を緩ませて、しかしすぐにきゅっと丸っこい眉を寄せた。無理もないと思う。鏡を見なくても、自分の人相がとんでもなく悪くなっている自覚はある。立ち上がるとくらりとして、こめかみのあたりが鋭く痛む感じがする。おはよう、と風息に言いたかったが、渇いた喉は掠れた音しか出せなかった。何度か唾を飲む。
「
…………
おはよ、う。どうして、部屋まで?」
「あんた、今朝はなかなか朝食に降りて来ないから
……
寝坊してるのかなって」
言われて部屋を振り返り、壁掛け時計を見ると確かに、昨日よりも二時間近く遅い時間になっている。そろそろ朝のニュースも終盤という頃合いだった。ああ、とため息ともつかない声を漏らして、無限は額を手で擦った。完全な寝坊である。
「大丈夫? 具合悪いなら、部屋にごはん持ってこようか。粥とか。それか薬とか
……
」
「
……
いや、大丈夫だ。夢見が悪かっただけだから。薬も持っている」
風息の不安げな声音をなんとかして落ち着かせたかったが、あいにく無限から出たのは掠れた硬質な声だけだった。案の定、まだ眉を下げて情けない顔をしている少年に、全身全霊をかけて表情筋を動かし笑ってみせる。かなりぎこちなく、口の端を上げただけのものだったけれど。まだ心配そうにしているので、自分より少し低いところにある頭をぽんぽんと撫でてやって、無限はもういちど頼りなく「大丈夫だ」と言った。
「顔を洗ったら食事をもらいに行く。先に行っていて。
…………
風息?」
「へあ」
ぴたん、と固まってしまった風息を読んでやると、なぜだか素っ頓狂な声をあげた。心なしか二センチばかり飛び上がった気もする。首を傾げる無限をよそに、「わかった!」と半ば叫ぶようにして答えた少年はぴゅうと風のように階段を降りていった。置き場を失くした手を下ろしながらそれを見遣って、若いと朝から機敏に動けていいなあ、と思う。
部屋に戻って洗面台に立つ。鏡に映る顔は青白く、陰気な男のそれだった。これは風息が心配になるのも無理はない、と心の中でごちて、蛇口を捻る。子どもの頃の夢を見るのはずいぶん久々だ。働き出したばかりの頃はよくうなされていたものだが、最近はとんとなかった。腕の中で泣く子どもは半年前から幾度となく夢となって現れるが、今朝見たものはどこかが違っていた気がする。その違和感を探ろうとしても、所詮は夢なのですでに脳裏から霧散していた。諦めて冷たい水を両手に掬い、顔をじゃぶじゃぶ洗う。
容赦なく冷たい水で顔をぬぐうたび、意識がクリアになっていく。あとで薬を飲もう。処方されたものを持ってきている。それにはまず腹に何かを入れなければいけないが、少しでもしゃっきりすっきりして行かないと、また風息が心配するだろう。少年の不安そうな顔を思い出し、ついで立ち去る直前のポカン、としたあどけない顔を思い浮かべる。まるきり子どもの驚いた顔だった。少年とはいえ風息は十七歳だし、しっかりしているけれど、頭を撫でられてああいう表情をするのを見るとまだ子どもなのだな、と。
――――
頭を?
無限はビッ、と硬直する。
「
…………
しまった
…………
」
洗面台の縁に手をついて、がっくり項垂れる男が一人。まちがえた。一気に後悔が襲いかかってくる。しかし覆水盆に返らず、起きてしまったことはこのじゃあじゃあ流れ続ける蛇口の水のように、二度と戻ってくることはないのである。顔と両手をびしょびしょに濡らしたまま、無限はしばらく後悔に呻いていた。
ばっちりしっかり目が覚めたことだけは、言うまでもない。
後悔と羞恥心に辛々勝利を収めた無限が階下に降りると、ちょうど風息がお盆を持って奥から出てくるところだった。吸い寄せられるようにお互い目が合って、ふたつの口から同時に「あ」という声が漏れた。風息の持った盆の上で、食器がカチャンと小さく音を立てる。
「あの、風息、さっきはすまない。ちょっと
……
まちがえた」
「え、あ、いや。だ、大丈夫
……
」
いつも快活な風息少年の声が心なしか尻すぼみになっていく。彼が視線を落とすので、無限もちょっと下を向いた。床は濃い飴色にぴかぴか磨かれて、ここも風息が掃除しているんだろうかなんて現実逃避に頭が勝手に考えたりした。三秒くらいしてから、先に気を取り直したのは風息だった。
「無限さん、ほんとに体調だいじょうぶ? 一応、少なめにしてきたけど
……
」
「あ、ありがとう。助かる。食べられると思う」
「そっか。じゃ、並べるから座ってよ」
風息はほっと安堵の息を吐くと、お馴染みの広間の方を指した。わかったと頷いて、所定の位置となった座布団に腰を下ろす。温かいお茶の入った保温ポットの掠れかけた花柄も、すっかり見慣れてしまったように思う。相変わらず澱みない手つきで風息が食器を並べ、礼を言ってから無限は手を合わせる。見ると、確かにどの皿も少しずつ量が加減されているようで、風息の気遣いにあらためて感謝が尽きなかった。さっさと食べて部屋に退散しよう、そして薬を飲もうと、箸を取る。
「ぅあっち!」
と、正面から悲鳴があがって、ついでからんと湯呑みが転がった。ぱっと見ると、風息が顔を歪めている。保温ポットから茶を注ごうとして、うっかり手にかかったらしい。
「大丈夫か、風息」
「ん、ごめん、大丈夫」
無限は慌てて握ったばかりの箸を放って、手近に合った布巾を取った。溢れたお茶はそう多くなかったので、ひとまず布巾に吸わせる。大丈夫と言いつつも風息の肌は傍目にみてもわかるくらい赤らんでいて、無限は「冷やさないと」と言いながら思わずその手を取った。すると「あっ」と声を上げた風息は、ぱっと無限の手を振り払ってしまう。その素早さに一瞬呆気に取られたけれど、すぐに先ほどのことを思い出して、無限は「ごめん」と手を引っ込めた。
「て、手冷やしてくる! 食べたら置いといて!」
風息はそれだけ言い置いて、パタパタと足音を立てて行ってしまった。ぽつんと残された無限は、しばらく風息の消えていった方を見ていたが、ふっと脱力して深々とため息をついた。起き抜けから失敗続きである。それもこれもきっと、天気が悪いせいだ。そうに違いない。やけっぱちに責任転嫁して、どんより曇った空を窓越しに睨め付ける。昨日よりもさらに天候不順が悪化している。この世の悪いことの半分は気圧のせいにしていい、と教え子の一人がいつだったか言っていたが、今まさに全面的に同意したい。
しかしいつまでも空と睨めっこしていても埒はあかない。無限はもうひとつ息を吐くと、もう一度箸を取った。メインの皿に乗った煮魚に手をつける。少し冷めかけていたが、それでも口に入れると美味しかった。
咀嚼しながら、ぼんやりと今朝見た夢を思い返す。目覚めた直後は不快にせわしなかった鼓動は落ち着いていた。今になって思い返しても、もう感情は漣立たなかった。あれは終わったことだからだ。
魘されていたのは、無限が十歳あまりの頃、病弱な母が没してから不和をおこしていた父親の夢を見たからだった。妻を亡くした男は自分の殻の中に籠るようになり、そこに無限も一緒くたに押し込もうとした。学校に通う以外は無限の外出を渋り、家の中ですべてを完結させたがる。そのくせ、家の中に居さえすればあとは会話もなく世話をするでもなく、放置状態なのだから自分勝手なものだった。大人になった今ならうんざりだったなあ、で済むけれど、当時の無限少年はそんな生活が苦しくてたまらなかった。
今になって、ああして夢になって無限を揺さぶったのは、おそらく、きのうミンから風息の生い立ちを聞いたからに他ならなかった。大人たちの期待や誹りに行く道を塞がれて、どこにも行けない少年と、過去の自分とを無意識に重ね合わせたのだろう。
しかし風息の状況とは違う、と冷静になった頭で無限は思う。父親と無限との間に、そう難しい問題はなかった。少なくとも無限はそう思っている。ただ父は、失う事に耐えられなかった男は妻に似た息子を自由には生きさせることができず、無限はそこから無理やり飛び出した。ただそれだけのことだ。もう終わったことなのだ。
ミンに言われた「風息に外の話を」という言葉が脳裏によぎる。忘れてもいいと言われて忘れられるものでもなかったが、無限にはどうしても簡単にはそうしてやれそうにない。話して、それでどうなるというのだろう。この町の外へ出ようと、あの責任感がつよくて優しい少年に言ってやるには、無限はやっぱり他人なのだ。風息がすこしずつ心を許してくれていると感じていても。
煮魚に箸をいれる。よく煮込まれた身が骨からほろりと外れた。いま風息がこの息苦しい嵐のさなかのような場所から抜け出しても、祖父母の落胆と町の人からの誹りに後ろ髪を引かれるだけだ。なら、無責任にも下手に手を出すことは無限にはできない。せめて風息を傷つけないようにしたい。そう思いながら魚を口にいれる。あまじょっぱく、舌に沁みた。
おいしいけれどどこか味気ない食事を終え、無限は席を立った。のろのろと食べていたけれど、結局風息は戻ってこない。言われた通り、食器はそのままにして部屋に戻ろうと広間をでる。階段のはじめの一段目に足をかけたとき、廊下のほうから「無限さん」と声がして、引き止められた。見やると風息が焦ったような顔をして立っている。
「風息。やけど、大丈夫か」
「だ、大丈夫、大したことないし。じゃなくて、ええと
……
」
お茶のかかったほうの手を振って見せてから、風息はためらいがちにまごついている。無限は少年の手にほとんど腫れも残っていなさそうなことに安堵して、続く言葉をまった。しばらく置いてから、風息はおずおずと切り出す。
「あの、さっき、振り払っちゃったの、ごめん。いやとかじゃなくって、その
…………
手、生臭かったから」
「え?」
「俺のね! えっと、朝ごはん用に魚捌いたから、洗ったけどけっこう臭いが取れなくて
……
」
それで無限に手を触られて、咄嗟に振り払ってしまったという。それを聞いた無限はというと、なんだかよくわからない未知の感情に襲われていた。鳩尾からぐわっと迫ってくるような。気を抜いたら口から何か出ていってしまいそうで、それを抑えるために力を入れたら「グゥ」みたいな声が出て恥ずかしかった。風息に聞こえていやしないかとヒヤッとしたが、風息は必死な様子でそれどころではないようだった。よかった。
「気を悪くしてたら、ごめん
……
」
しゅんとした雰囲気でうなだれるので、無限は慌てて首を横に振った。
「いや、気にしてないよ。朝ごはんの魚、風息がつくったんだな。おいしかったよ」
「
…………
へへ、よかった。
……
頭撫でられたことってほとんどないから、なんか、うれしかった」
無限の言葉に風息は、心底ほっとしたように眉を下げた。それから力の抜けたようにはにかんで、ぶどう色の目を細めてみせる。音にするならへにゃっ、とか、ふにゃっ、とかそういう感じの笑みだった。また、無限の腹のあたりをそわっとした何かが通り過ぎる。それに内心で首を傾げているうちに、すっかり落ち着いたらしい風息はそれじゃ、と言って仕事に戻って行った。ああ、と腑抜けた返事をして、その背中を見送ってから、無限はどこかそわついた足取りで部屋へ戻った。多分、天気が悪いせいだと思う。
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