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森永
2022-11-14 16:26:22
20355文字
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春の嵐に紛れて泣いた①
無限×風息/くたびれ大学講師と訳アリDKの現パロ/続きます/またあんまり無風してない
1
2
3
時間は少し進み十八時。薄暗くなった空の下で、無限は露頭に迷っていた。
ーーーーーー宿がどこもやっていない。
北河の話では、旅館や民宿がたくさんあって泊まるところには困らなかったということだったのだが、いざ海岸をぶらついてから今夜の宿をさがす段になって、街中に入った無限はそこではじめて気がついた。
ポピュラーな観光地でない限り、民宿も旅館も常に空いているとは限らないのだ。
初めに目についた旅館に入ろうと近づくと、看板にだいぶ先の月まで休業するという張り紙があった。まあたまにはそんなこともあるだろうと、気を取り直して近くに見えた民宿らしき建物を覗くと、これまた休業の張り紙。まさかと思って街中の宿泊出来そうな建物を文字通り軒並みまわってみたが、どこもかしこも中は真っ暗、休業の文字。薄暗くなってきたあたりでやっと、ぼんやりした無限の頭もこれはまずいかもしれない、と焦りという感情を久しぶりに伝達しだしたのだった。
確かに、先ほど出会った少年が言っていた。「今は完全にオフシーズンだ」と。
その時点で自分が宿を取っていないことを思い出し、気づくべきだったのだ。いや、そもそも無限がまともな状態であれば、事前にネットなりなんなりで調べて予約してからくることもできただろうが、悲しいことにまともでないから療養のためにここにいるのである。
仕方なく、近くのもう少し賑わった街に出てビジネスホテルでも探すかと、初めに降りたバス停に戻って時刻表をみると、乗ってきたバスこそが最終便だったことを知った。面倒だが歩いて行けばどうにか、とやっとのことで取り出したスマホで検索をかけると、今から部屋をとれる宿がないと無情な結果が表示される。途方に暮れるとはまさに今の無限の状態だろう。
心なしか重みを増したような荷物を肩に提げ、とぼとぼと寂れた街に引き返した。明かりのついた人家はあるが、今どき急に赤の他人を泊めてなどもらえないだろう。無限は半ば本気で、野宿の覚悟を固めつつあった。天気は荒れそうだが、せめてどこか、屋根のあるところを見つけたいーーーーーそう考えながら下を向いて歩いていると、足元に煌々とした光がパッと照らしているのに気がついた。
光源をさがしてのったりと顔をあげた無限の目に、それはまるで天から差す光のように映った。
人家にしては大きな引き戸が開いたことにホッとしながら、ごめんください、と奥に向かって声をかける。「民宿」と掲げられた電灯と明かりのついた玄関を頼みの綱にして入ってきたわけだが、いっこうに返事もなければ人が出てくる気配もない。
「すみません、いらっしゃいませんか」
投げかけた声がしん、とした空間に怖気付いて沈んでいく。鍵も開いていたし誰もいないことはないだろう、まさかここも一般家庭だったのか、そうなるとこれは不法侵入に当たるのでは? 色んな不安が無限の鳩尾を殴りながら駆け回り、段々と声が出なくなってくる。
立ち尽くす背後で、閉めたはずの引き戸がガラガラと開く音がした。
「あれ?」
後ろからかかった少年の、その声変わりしたばかりの澄んだ響きに聞き覚えを感じて無限はぱっと振り向いた。
「あんた、何やってんの?」
「きみは」
つい数時間前に出くわした少年だ。
彼は引き戸に手をかけた姿勢のまま、ころんとした目をさらに丸くしている。少年らしいあどけなさが乗った顔には警戒心はなく、無限は情けなくもよすがを見つけたかのように安心してしまった。不思議そうにする少年をいつまでも見つめているわけにもいかず、彼が現れた理由はさしおいて、
「その、宿がどこもやっていなくて」
と消え入るような声で白状する。
「はあ」
「探していたら、ここの看板に明かりがついているのを見つけて入ったんだが
……
やっている、よな?」
「やってるよ」
萎びかけた希望をこめて重々しく尋ねた無限と対照的に、少年はあっけらかんと肯いた。その答えにホッと息をついて肩を落とした無限は、ふと、なぜこの子はここにいるのだろうという疑問を思い出して、重ねて問いかける。
「きみはどうしてここに
……
?」
「ここ、俺んち」
その言葉にはた、と瞬く無限をよそに、少年はするりと玄関に身を滑り込ませると、開けっぱなしだった引き戸を静かに閉めた。こんな偶然もあったものか。なかなかない巡り合わせに静かに目を瞠る男など気にも留めず、少年はそのまま無限の横を通ってごく自然な動作でもってスニーカーを脱ぐ。
「さっき見た時からどこ泊まるんだろうなーって思ってたんだ。この時期客なんて来ないからどこも休んでるし、開けてんのうちくらいなのにって。でも予約なんか入ってないから、駅前にでも宿とってるのかと思った」
駅前、というのは、ここからバスで三十分ほどのところにある市街地で、無限が戻ろうとして戻れなかったところである。改めて自分の失態を痛感し、いたたまれなくなってクッと俯いた。誰に責められているわけでもないのに、脳みそが処理落ちしているんだから許してくれという気持ちになる。
少年は脱いだ靴を適当に脇によせ、ホルダーに連なったスリッパをひとつ取ると、揃えて置いて無限に差し出した。
「どーぞ、オアガリクダサイ」
こなれない言葉遣いに、慚愧に堪えない心持ちでいた無限は拍子抜けて、恐縮するつもりがふっと自然に緊張の糸をほどかれた。少年は無限が靴を脱ぎ始めるのを見ると、昼間のようにさっさと踵を返した。そして颯爽とした足取りで、「じいちゃーん! 客!」と声を張りながら奥の方へ引っ込んでいく。いっそ無関心そうなそぶりにまたひとつ肩の力が抜けて、靴を脱いだ足をくたびれかけたスリッパに通した。
外から見てもこぢんまりとした、郊外によくある大きめの一軒家という様相だったが、寂れた街の様子に反して、ここは生活感がありつつも小綺麗な宿だった。無人の受付には、サザエだかなんだかの白っぽい貝がちょこねんと並んでいる。あがった近くに襖をとっぱらった続きの間があって、壁の方に長机がいくつか折り畳んで立てかけてあるあたり、ちょっとした食堂のような部屋らしかった。
無限は受付の貝のように所在なくぽつん、と立っていた。しん、とした部屋の沈黙がどうにも居心地を悪くさせる。昼のうちはなんとか思考の隅に追いやっていた、仕事もせずにここで何をやっているんだろう、という罪悪感めいた感情がひりひりと目玉のうしろを刺激した。つい数秒前まで、あの少年の気取らない態度に落ち着いていたのが嘘のようだ。少年らしいいとけなさのうちに、不思議に落ち着きはらった安心感のある彼を、風のような子だな、と思うことで後ろ向きな思考をごまかした。
しばらく所在なく玄関先に立っていると、何やらどやどやとした話し声とともに、二人ぶんになった足音が戻ってくる。
「なんだ、帰ってきて早々騒がしい」
「客だって。聞こえてねえの」
「ああ? 予約なんぞ聞いとらんが」
「飛び込みだってさ」
一人は先ほどと同じ少年で、もう一人は日焼けした老人だった。彼は胡乱げなまなざしで少年を見、それから視線を流してそのうしろで所在なく立つ無限に焦点をあてる。じいちゃんと呼ばれているからには少年の祖父なのだろうか、日焼けした肌にごま塩のような髪の老人はやや吊り気味の目で無限を爪先から頭のてっぺんまで眺めている。決して無限が言えた義理ではないが、愛想がない。無限は居心地の悪さに意味もなく抱えた上着を持ち直した。
老人はひとしきり、くたびれた顔をして突然やってきた男を眺めると、少年に向かって声をかける。
「お前、準備してこい」
「やっぱ俺かよ」
「早くせえ」
はいはい、とおざなりな返事をして、少年は無限を一瞥することなくまた踵を返す。無限が何を言う隙もなく、二人の短いやりとりでどうやら宿泊を受け入れられたらしいことを察した。
少年がそばにあった階段をてってっと軽やかに登っていくと、老人は受付から古びた大学ノートを引っ張り出して無限に差し出した。「名前、住所、電話番号」と言われるがまま、サザエの並んだ受付台で無限はノートに書きつけていく。今の時代に不用心なことに、前の宿泊者の個人情報が隣に載ったままになっている。なんとなく見ないようにと気を使ったが、「宿泊日」の欄に書いてあった日付が去年のものになっていることだけやけに頭に残る。書き終わったノートを差し出すと、老爺は無限の名前の上に日付をいれ、それからちらっと視線を寄越した。
「何日泊まるね」
「え
……
っと」
簡潔な問いだが、無限は言葉に詰まる。というのも、宿を取っていないことからも察せられる通り、いつまで出先に滞在するかなんてまったく考えていなかったからだ。強制的にとらされた休みは一週間ほど残っているが、このオフシーズン、他に宿泊客もいないらしい宿に、たった一人でそれほど厄介になれるものなのだろうか。しかし、泊まれないことにはどうしようもない。おそるおそる、一週間お世話になれますか、と尋ねると、老爺はさすがにすこし面食らった顔をして、無限の顔をまじまじと眺めた。
「
…………
」
「あの、
……
やはり難しいですか」
「
……
いや、いいよ。そのぶん嵩むが、お代をきっちりはらってくれりゃええ」
「ああ、はい、それは大丈夫です」
適当に金を突っ込んできた財布は懐にある。どう見てもキャッシュレスに対応しているようには見えなかったが、もし心許なければ、滞在期間中にコンビニのATMででもおろせば問題ないだろう。
無限が請け負うのをみとめると、老人も顎を引くようにして頷いた。ノートにいくつか書き足すと、受付の棚にそれをふたたび押し込む。話がまとまったとみえて無限はほっと息をつく。老人はふと思い出したように声をあげた。
「あんた、そういや夕飯は食ったんか」
「え? いえ、まだですが
……
」
「そうか。そいじゃ、家内に言って用意させんとな」
頷いて奥へ踵を返そうとする老爺を、無限はあわてて呼び止めた。
「急に宿泊をお願いして、そこまでお世話になるわけには
――――
」
「いや、もうどこもやってないから」
「は?」
「この時期はどこもかしこも真面目に店開けてねえのよ。ぼちぼち暖簾しまって酒盛りしとるだろうな」
「
………………
」
一難去ってまた一難、人生ままならないものである。
けっきょく、無限にとってはありがたいようなそうでないようなトントン拍子で話が進み、老爺に言われるがまま彼ら家族と夕飯をとることになった。ふだん客には大広間で食事を提供しているらしいが、そこはいま使える状態でないそうだ。
そうして通された居住スペースの居間で、無限は岩のように押し黙っていた。少年の祖母らしい老婆が置いて行った麦茶に手を付けることもできずに身を固くする無限をよそに、コップの麦茶をぐびりと煽り、老爺のほうは完全にくつろいだ様子である。ただ会話はまったくない。あっても楽しく和気藹々、というのは無限の得意とすることではないので困るのだが、無言の空間もそれはそれで気まずいものだ。人の家に来るとどうしてこうもそわついて、つけっぱなしのテレビを凝視するのすらためらってしまうのか。人付き合いの苦手な無限だからだろうか。
せめてあの少年がいてくれればなあ、と無限は思った。祖父に言いつけられて、おそらく無限の泊まる部屋の用意などをしてくれていると思うのだが、一向に姿を見せない。彼が気の利いたトークを得意とするかどうかはわからないが、彼がここにいてくれたら、石のようにだんまりの老爺と二人きりでいるよりは緊張せずに済みそうなので、できれば早急にもどってきてほしかった。
一応、営業はしているようだけれども、明らかに客がくる想定はされていなかった宿である。客室も準備が万端に整っていたわけもないだろうが、それにしてもそこまで準備に時間がかかるものなんだろうか? とそこまで考えて、会ったばかりの親交もなにもない少年に頼ろうとしている自分に気がつき、はっとする。
会って数時間の、よくよく思い返せばお互いに名前の知らない人間に何を考えているのだろう。ふだんの無限であれば絶対に思わないだろうが、たぶん、気が弱っているせいだろう。視線を落とすと、口をつけていない麦茶の水面に、テレビの反射がゆらゆら映ってゆれている。誰かと話したり、接することは平常時よりも増してひどく億劫だけれど、同時に自分は人恋しいのかもしれない、と無限はぼんやり思考した。
あるものを失くしてぽっかり空いた隙間を、なにかで埋めようとするのは、生物の本能なのかもしれない。
「
……
仕事は、何をされとるんですか」
ふいに、押し黙っていた老爺が口を聞いたので、無限は何拍か声が出ずにまごついた。なんとか、大学で講師を、と答えると、チラと無限のほうを見た老爺は、さきほど帳簿に書いた無限の住む地名をあげて、都会の大学で先生か、とつぶやく。
「そりゃあ、立派なことだの」
どこか乾いた空虚な声音に、無限はいいえ、そんな、とはっきりしない返答しか返せない。どこか引っかかるものを感じながらも、その正体まではわからない。内心首をかしげていると、テレビの方へ視線を戻した老爺はぼそっとつぶやくように続ける。
「うちの孫ときたら、十七にもなっていつもどっかしらほっつき歩いて、先生の爪の垢でも煎じて飲ませたいわい」
どれくらい経ったのか、無限にとっては長いと感じたが、実際はさほどの時間でもなかったのだろう。老婆が盆にのせた食事を居間に運んでくるのとほぼ同時に、少年もひょっこり顔を出して「腹減った~」と声をあげ、それを合図に夕食となった。
正直、特に腹は減っていなかったけれど、鼻先をかすめたこってりとした匂いに、久しぶりに食べ物の匂いを感じたなと思う。
流れるように慣れた手つきで配膳を手伝った少年は、器に盛られた夕飯を見て「ジャージャー麺だ!」とうれしそうに破顔する。どうやら好物らしい。屈託のない笑顔だ。ここでも所在なく肩身をちぢめていた無限は、その表情をとらえて緊張の糸をすこしだけ緩ませ、目の前に置かれた食事に目を落とした。
中華麺の上に細切りにされた胡瓜、レタスと、さらにその上からたっぷりと色濃い肉味噌がかけられている。はじめてではないけれど、あまり食べ馴染みのない料理だ。他にも、食卓の真ん中のほうへ和え物や煮物といった副菜の皿がいくつか並べられていた。
好物なのか、少年はわくわくとした様子で箸を取る。意外にもきちんと手を合わせて「いただきます!」と声をあげてから、麺と肉味噌を絡めて食べ始めてしまった。
名前さえ訊くひまもない。老夫婦もそれぞれ食事に手をつけはじめたので、気おくれしながら無限もいただきます、と手を合わせてから久しぶりのまともな食事にありついたのだった。
箸をつけたはいいものの、無限はすこし不安だった。大盛りに盛られているわけではないが、最近の自分の食習慣から勘定すると、食べ切れるかあやしい量だったからだ。もともと家族のぶんしか作っていなかったのを、無限のためにわざわざ取り分けてくれたのだから、できれば残すような不義理はしたくない。したくないが、胃の方が言うことをきいてくれるのか、自分の身体とさえすっかり付き合いが下手になってしまっている今、このふやけた決意が果たされるかは五分と五分といったところだ。
控えめに麺をすすりながら、無限ははた、と気づいた。そういえば、この三人のほかにはいないのだろうか。
少年は老爺を「じいちゃん」と呼び、であればこの二人は少年の祖父母で間違いないだろう。では、少年の父母は? 外で働いて、夜遅く帰ってくるのだろうか。しかしそれを訊く勇気は、無限にはない。視界の端っこで、仏壇がやけに存在感を増した気がした。
内心、四苦八苦しながらジャージャー麺をすする無限をまったく意に介さず、祖父母と孫はぽつぽつと咀嚼の合間に会話している。
「あんた、成績表はどうしたの。今日終業式だったろ」
そういえばそんな時期か、と思いながら、「成績表」の三文字に新学期の準備をまるきり残したまま休暇をとっていることを思い出し、ずんと胃のあたりに重石がかかったようになる。上司となる教授にも、教務課にも認可されて休んでいるわけだが、いまだに休んでいるという事実に慣れないのだ。
一気に味のしなくなったジャージャー麺に苦戦していると、少年の「んー」と曖昧な返事が耳に入ってくる。
「たぶんなくした」
「なくしたあ? 今日もらって今日なくすやつがあるかい」
「でも、無ぇもんは無ぇんだもん」
「まったくこの子は
……
」
老婆があきれかえった様子でため息をつくと、少年はごまかすようにえへへと笑って見せた。
「帰りに洛竹と海岸歩いてきたから、どっかで落としたのかも」
「もう十七になんのに、フラフラしてっからそうなんのよ」
少年はたしなめる祖母の口ぶりにひょっと肩をすくめるだけで応える。慣れたやりとりなのだろうことが傍目にもわかる。皿に目を落としていた無限は、目の前でやり取りされるごく家庭的なやりとりを聞くともなしに(じっくり聞いて反応するのもどうかと思って)聞いていた。耳に断片的に入ってくる言葉が脳裏で連想とともにしぜんと並んでいく。成績表、数字の羅列、海岸、濁った波間、なくした紙きれ
………………
。
………………
あ。
「あっ」
「ん?」
ぴん、と脳裏でひらめいた考えに、思わず声が口をついて零れてしまったようだ。少年がぱっと顔を無限に向けて、きょとんとした表情を浮かべている。瞳はつるりと丸く、深い色をしているのに、無限ははじめて気がついた。それが覗いたものを吸い込んでしまいそうなほど、深くて暗い色だったので、おもわず息を飲みかけてしまう。「どうかした?」と尋ねられてとっさに「なんでもない」と答えると、少年はとくに気にするでもなく祖母との会話にもどった。ふたたび食事に意識を戻してからも、無限のあたまの中では思い浮かんだことがどきどきと存在を主張していた。落ち着かない心を誤魔化そうと、冷たい麦茶のコップを掴む。
「
……
ま、落第だろうがなんだろうが、外の大学にいくわけでもなし。いいけどねぇ」
皿の中で麺をかきまぜながら言う祖母に、ほんの一瞬の間を置いて少年はまたひとつ、へへっと笑う。ちょうど麦茶を口に含んで箸を止めていた無限は、その些細な間がなぜだか気になって視線をあげてしまった。食卓の向かいに座った少年は、口許に笑みを浮かべながらもどこか遠い目をしている。もやしとニラの和え物を見ているわけではなさそうだ、と無限は考えるともなしにそう思った。
なおも少年にお小言を落とそうとした祖母を、それまでだんまりだった祖父が「やめんか、お客の前で」と今更ながらにたしなめる。
「大学の先生の前で言うことでもなかろ」
その言葉にぴく、と反応する少年のその様子も、無限の目にしっかりと捉えていた。祖母はどこか感心したような声をあげて、少年の視線はその陰に隠れてしまう。
「ほお、大学の先生なんですか」
「
……
ただの講師なので、大したものでは」
老婆に謙遜してみせながらも、無限は少年の表情が気になってつい視線を向けてしまう。
少年は無限のほうを見て、すとんと感情を落としたような真顔をしていた。だがすぐにぱっと表情を屈託のないそれに戻すと、何事もなかったかのようににっこりと笑って「そりゃすごいな」と無限に向かって話しかけてくる。その表情の変化に面食らった。
「お兄さん、ただのお兄さんじゃなくて先生だったんだ」
「
……
まあ、いつもはそう呼ばれているよ」
へえぇ、と少年は、無限の言葉に興味深そうなそぶりをみせる。
「すごいな、大学の先生なんてはじめて会った」
「そうなのか」
「そうだよ。俺は遊んでばかりだから、そんなとこ縁もないし」
少年のその口ぶりに、また薄い違和感をおぼえた無限はかすかに眉根を寄せた。
「なくしちゃったからよく覚えてないけど、成績もほんとひどくて。大学なんて夢のまた夢だよ」
そう言って少年がひひひとおどけて笑うと、祖父母は特になにも言わずに肩をすくめて食事に戻った。やる気のなさを責めるでも、呆れるでもない。そうであって当然、という顔付きだった。
「ここいらでわざわざ都会まで出て大学いくやつもいねえもんよ」
ぼそりと老爺は言い、
「最近だと、二丁目の商店のせがれくらいかねぇ」
と老婆が漬物を齧る合間に話題を継いだ。
「虚淮はむかしっから頭いいから。外でやりたいことあるって言ってたし」
少年は、おいしそうに麺をすすっている。その表情には一寸の曇りもない。ただ、咀嚼の隙間に彼がちいさく呟いたのを、無限はたしかに聞いていた。
「俺とちがって」
無限は黙って、まだ底の見えない器に残った麺と具を箸で寄せた。ただの旅行者が、特になにかを言う場面でもなかった。
久しぶりのまともな時間、まともなメニューの食事に辛くも勝利をおさめ、無限は泊まる部屋へ通された。いつもより腹が重い。案内をするのは当然というかなんというか、少年だった。
風呂や食事の説明を受けながら年季の入った階段をあがり、廊下を折れ曲がって進んだ端っこのドアを、少年はガチャガチャと鍵を使って開けた。先に入って電気の紐をひく彼に続くと、カッカッと音をあげて点った蛍光灯に照らされた部屋が出迎える。
思ったよりも広く、六、七畳ほどの和室だ。荷物を置いた畳は色褪せているが毛羽立ちもなく、埃っぽくもない。民宿らしい無造作で居心地のよさそうな部屋だった。気の利いたことに、すでに布団まで敷いてある。ぴしっと伸ばされたシーツ、それを整えたであろう少年は、窓の障子をからりと開けて振り返った。
「開けてたけど、客が来るとは思ってなかったから、急いで準備できたのがここしかなかった」
にっといたずらっぽく笑う顔は、突然手間をとらせたことを責めるものではなく、無限も肩の力を抜いた。
「今は暗いけど、明るくなったら海がよく見える。いちおう、いちばん眺めのいい部屋なんだ」
「そうか、それは楽しみだ」
少年は気さくだったが、無限は初対面の人間と二人で室内にいることにそわついていた。落ち着かない心地を誤魔化すようにして、きれいに整えられた室内に目を逸らす。
「部屋の準備と
……
布団も、きみが?」
「風息」
「え?」
「俺の名前。何日か泊まるんだろ、用があったら呼んで。春休みだし、どうせ宿の仕事は俺に回ってくるんだ」
「あ、ああ
……
」
そういえば自分はこの子の名前さえ知らなかったのだ。ここまできてまだ名前さえ知らなかったのだと、無限は今になって思い出した。彼の歳と、目の形と、これは推測だが家族構成まで知ったあとだというのに、だ。彼は自分の名前と、高校二年生であること、祖父母に言われて宿の手伝いをしていることを無限に教えてくれた。
風息、知ったばかりの名前を、舌の奥で転がす。彼の振る舞いと同じように、軽やかで不思議と舌によく馴染む音だと思った。
「お兄さんは? 名前、そういえば聞いてなかった」
そう言って首を傾ける風息に名乗ると、少年は舌を慣らすように何度か無限の名を呼んだ。こそばゆい心地に襲われて、無限はつい、指の先を擦り合わせた。
「無限
……
さん? 無限『先生』?」
「
…………
呼びやすいのでいい。でもできれば『先生』は遠慮したいな。休暇中だし」
「じゃあ、無限さん」
成績表の話のときもそうだったが、ふとしたことで仕事のことを思い出していては休まらないのでそう言うと、風息は笑った。あんた、おじさんって感じじゃないのにさん付けするなんて変な感じ、と風息は言う。歳の近い人間は全員呼び捨てで、敬称をつけるのは誰かの親ほどの年齢の人だけだと言い足した風息は、顎を引いてはにかんだ。どこか気まずそうに上目がちで窺う少年に、庇護欲にも似たなにかが胸の奥でゆらりと沸き起こって、そんな自分に無限は驚いた。感情が動くことなど、この数ヶ月でほとんど無かったことだ。
風息はふいに真剣そうな顔をつくると、確認したいことがあるんだけど、と少し重くなった口調で尋ねてくる。首を傾げる無限に、風息は言った。
「あんた、いつまで泊まる予定なの」
「一週間ほどの予定だけど」
言うと、風息は額のまんなかに寄っていた眉がふわっ、とほどけるように破顔した。「なあんだ、よかったあ」とまで言うのでなんだろうと首をかしげると、胸を撫でおろした風息はだってさ、とおどけて言う。
「海に飛び込んで死ぬ気なんじゃないかと思ってたからさ」
「
…………
えっ?」
「たまに来るんだよ。あんたみたいにくらーい目して季節はずれにやってくる自殺志願者ってやつ」
「じ、
………
」
「そういう人ってだいたい、一晩だけ泊まって次の日の朝には
……
って感じだから。一週間もこんな何もない街で過ごしてから死ぬなんてことないだろうから、安心した」
からりと笑う風息を呆然と見ながら、無限は言葉を失った。
もしかしなくても、受付でみた彼の祖父のびっくり顔も同じ理由なのかもしれない、と思い当って、たちまち気恥ずかしくなった。自分が呑気に「泊まれるかなあ」と心配していたとき、少なくとも二人に「こいつ死にそうだなあ」と思われていたのだ。そんなつもり微塵もなかっただけに、いたたまれない心地がすごい。無限に向かって「死んだ魚の目」とか言った北河になにも言い返せない。
「ち、違うぞ、断じて」
「うん、わかったってば」
くくっとおかしそうに笑って、風息は首を振って否定する無限の肩をぽんと叩いた。随分気安い仕草だが、そうしたのは無限があんまり必死だからかもしれない。
「疑ってごめんな。あんた、昼に見た時は海なんか覗き込んで、おっかなびっくり声かけたらほんとうに死んじゃいそうな顔してたから」
「いや
……
そうか
……
」
死んじゃいそうな顔、をしていた自覚は、無限にもあった。くたびれきって、元から乏しい表情がさらにげんなりとしているのを、今朝も鏡の中で見たので。しかし、自殺志願者に間違われるのまでは、想像だにしていなかった。それでも、考えてみればそうとられてもおかしくないのかもしれない。風息と出くわした時のことを思い出してみる。どんよりとした顔で、シーズン外の天気も悪い漁師町にやってきた男が、海に向かって身を乗り出しているのだ。側からみれば印象は最悪だろう。
「違うけど
……
よくあの時声をかけてきてくれたな」
ふつう、今にも自殺しそうな人間に高校生が声をかけられるものではないだろう。下手したら逆上して、なんて可能性だってある。そう考えて無限が問うと、風息は視線を逸らした。
「まあ
……
たまたま通りがかったし。もしほんとに自殺、とかだったら、寝覚悪すぎるじゃん」
そういうものかと首を傾げる無限に、そういうもんだよと風息は含めるように言った。
「せっかくの春休みの初日から、騒ぎになったら縁起でもないだろ? それに昼も言ったけど、この時期荒れやすいから純粋に危ないよ」
「
………
そうか、すまなかった。なるべく、海には近づかないようにしよう」
無限は少年の肩越しに、窓の外に広がるという海を眺めた。明るい室内から見ると景色は真っ暗に塗りつぶされて、風息と出会った場所がどのあたりなのか判別がつかない。けれど確かに、思い返してみればあんなところにいては誤解も招くよな、と思う。そもそもあそこで海をのぞき込んでいたのは、と記憶をたどって、無限の脳裏でまた思考のチャンネルがぷちんと繋がった。
そうだ。風の吹きすさぶ埠頭など、人っ子一人いなかったのに風息は現れたのだ。わざわざ足場のわるい階段を下りないといけないところで、とても学生が「たまたま」通りかかる用事など、ないように思うが。かすかな違和感が像を結んで、無限はポケットに指をすべらせた。布地に指を突っ込むと、しわくちゃになった紙片が指先に触れる。
窓から視線を戻すと、ぼんやりと考え事をする無限の顔を伺っていた風息が、疑うような、心配そうな表情をしていた。
「風息」
「ん?
……
」
視線を動かした風息の表情がほんの一瞬、決定的にこわばった。まるい眼がみつめる無限の指先の、ほんのちいさな紙片がそうさせたのは間違いようがなかった。
白い紙だった。それは握りつぶされたかのような皺がより、おまけにひどく乱雑に破られている。かろうじて、「現代国語」「5」という文字だけが読み取れる紙片は、昼間に堤防の隅に手をついた時に拾ったものだった。指先に触れたこれを、よくよく確かめる前に声をかけられて、咄嗟に手の中に握り込んでしまったのだ。
ほとんど直観だった。けれど海岸での出会いと、夕食のときに聞いた祖父母と彼の会話と、今の話が点々と誘導するように線を結んでいて、無限にはこれがこの少年のものだという確信めいたものがあった。この、惨たらしく破られた成績表の破片が。
「これは、きみの?」
「
…………
」
咄嗟になにか取り繕えばまだ無限は誤魔化されただろう。しかし風息はぐっと口を引き結んだきりなにも答えなかった。そうなるともう、それが答えだと沈黙が代わりに答えているようなものだった。
「
……
どうして捨てようとしたんだ? こんなに破いてしまってまで、家族に嘘もついて」
「
……………………
あってもしょうがないから」
静かな声で、風息がつぶやいた。悪さをとがめられた子どもそのものの様子で、白い開襟シャツの肩がちっぽけに見える。身体も声も震えていないが、彼の雰囲気は数分前と打って変わって痛々しいものになっていた。丸っこく、人好きする目に髪がかかって表情が読めない。
「どんな成績とっても、この町から出ないんじゃ意味ないし」
「意味がないことは
……
ないんじゃないか。少なくとも、進学という手もある」
「
……
ハ。そういう道を選べる人も、いるよな」
吐き捨てるように言ってから、風息ははっとしたように戸惑う無限の顔を見、そしていそいで取り繕うようににっこりとしてみせた。作り笑いと、無限でも察せるようなぎこちない表情を隠すように、少年はすぐに無限に背を向けると抑えた声でまくしたてる。
「でも俺はそうじゃない。だからそんなものあっても意味はない。ゴミ拾いさせて悪かったよ。屑籠にでも捨てといて。それじゃ」
おやすみなさい。先程までの快活さを喉の奥に引っ込めて、風息は囁くように言って忙しなく部屋を出て行った。ドアを閉める直前、戸の影に隠れるようにして覗いた顔はどうにも苦しそうに見えた。おやすみの声とともにドアが閉まったので、無限の返した「おやすみ」が彼に届いたかはわからない。
無限の手の中で、紙切れがいっそう白々しく、蛍光灯の明かりを受けていた。
一人になって、部屋のきんとした静けさを知覚した途端にどっと疲れが体の奥から吹き出してきて、無限は敷かれた布団にバタンと倒れ込んだ。
「
…………
つかれた」
薄い枕に頬を埋めていると、意図しない呟きがぽろんと口から溢れた。出張とは違う、旅の疲れだろうか。宿を求めて歩き回った、純粋な疲労かもしれなかった。あるいは、他人の家という慣れない空間に放り込まれた気疲れもあるだろう。そして、出会ったばかりの少年の、おそらく繊細な部分に踏み込んでしまった失敗が、決定打になって無限を打ちのめしていた。
(失敗した)
あのまま放っておけばよかったのに。自分でもどうしてああしたのかよく分からなかったし、屈託のない少年に嫌な思いをさせてしまったことが胸に重くのしかかる。あの様子だと、彼は祖父母に話したりはしないだろう。それでも、だからこそなおさら、年の離れた若者をいじめてしまったように思えて申し訳なくなった。対人関係でこんな思いをするのも、ずいぶん久しぶりだ。
都会で働いている間は、トラブルでさえルーチンの中に組み込まれていて、言ってしまえばマニュアル通りの対応ができた。機械的に没頭して仕事をしていれば、周りの音も景色も時間も勝手に過ぎ去っていくので楽だった。少なくとも、無限はそんな生活に慣れ切っている。疲れを自覚することも忘れるほどに。その結果として、調子を崩して目まぐるしい街から遠ざかってるわけだけれども。
対して、ここは静かで、それでいて程よく騒がしかった。耳に痛いと思った静寂も、時間が経つにつれ、遠くから寄せてくる波の音や風の音に塗り替えられていく。都会にいる時は聴覚も視覚もあまりの情報量のために、ほぼ無意識に鈍くならざるを得なかったように思う。今は意識してもしなくとも、耳にはささやかな音しか入らず、視界を埋め尽くす人ごみも液晶の文字もない。いっそ心許ないほどの穏やかさのさなかで、少年に対する鬱々とした感情と同時に、だんだんと頭の芯が痺れるような疲労感が募っていく。
うつ伏せていた体をゴロンと仰向けて、蛍光灯の眩しさに腕で目を覆った。思い浮かぶのは猫のような少年の、紫褐色の瞳と、自分が放った言葉だった。
どうして、あんなことを言ってしまえたのだろう。
出会ったばかりの少年に、踏み込むようなことを、普段の無限なら決して言わなかったはずだ。他者との繋がりを最小限に生きてきて、自分から相手に何かを与えようと心を動かしたことなどそう多くない。
(あの、目のせいだろうか)
食卓越しに見た遠い目と、相手に踏み込むか躊躇いがちな目と、暗い視界の中ではそのどちらもが、疲れた脳みそは見覚えのある光景といっしょくたにしているようだった。無限はその心許ない瞳をした子供を知っている。しかしそれは風息ではない。今日出会った少年は、無限の手から離されていったあの子ではないのだ。数ヶ月前までの無限が心を砕いて手を差し伸べていた存在ではない。でも同じくらい、どこか肩を支えてやりたくなるような、翳りのある瞳をしている。
ししょー、と幼く高い声が聞こえた気がして、ふっと意識が浮上した。いつの間にか下ろしていた瞼を押し上げると、煌々とした電気が網膜を焼いてぐっと顔をしかめる。どうやら一瞬、意識が落ちかかっていたらしい。着替えもしないまま寝落ちかけていた自分にため息をついて、無限はのろのろと体を起こした。頭は溶けた鉛かと思うほど重い。今日は睡眠薬の世話にならずに眠れそうだった。
なんとか電気の紐をひき、部屋の明かりを落とす。鞄を漁って服を取り出すのさえひどく面倒で、せめて重ねて着ていた薄手のセーターだけ雑に首から抜いて近くに放った。
再び布団に潜りこむと、真っ暗になったと思った部屋の中に薄い光が落ちていることに気がついた。窓から障子越しに、本当にうっすらとした月明かりが差している。あんなに天気が悪かったのに、風で雲が流れたらしい。眠りを妨げるほどのものでもなく、無限はとろりと目を閉じると、寝やすい体勢をさがして掛け布団の中で身じろいだ。
かさりと枕元で乾いた感触がして、薄く目を開ける。破かれた風息の成績表の、その破片だ。捨てろと言われてもどうにも気が引けて、寝落ちたときにシーツの上に放ってしまったらしかった。ぼんやりとしながら指先でそれをつまんだ。感情に靄がかかって、現国の成績がいいんだなあとしか考えられなかった。
無邪気で、どこか落ち着き払っていて、気さくな少年がもらったばかりの成績表をびりびりに破いてしまうとき、どんな感情でどんな表情をしているものだろう。
「
…………
」
眠い。もうなにも筋の通ったことは考えられなかった。月明かりを受けてぼうっと浮かび上がる白さは、もっと小さければまるで花片のように見えたかもしれない。いよいよ勝手に落ちかかってくる瞼に逆らわず、無限は紙片ごと手を握り込んで、今度こそ意識を手放した。
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