森永
2022-11-14 16:26:22
20355文字
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春の嵐に紛れて泣いた①

無限×風息/くたびれ大学講師と訳アリDKの現パロ/続きます/またあんまり無風してない

出会い・曇りと強風

 バカンスしてこい、と友人は言った。
 人付き合いのうすい無限の、唯一と言っても過言ではない友は、医師から伝えられた診察結果をそっくりそのまま報告した無限に向かって、きっぱりとした口調で休暇を言い渡した。言っておくと、彼はフリーの医師であり、無限の上司でもなんでもない。
 そんな暇はない、と能面のような表情で返した無限に対して、どこから湧いてくるのか北河は自信満々の顔つきで「どうにかしてやる」と言うと、翌週には本当に無限のスケジュールは休暇となった。なぜだ。権限はいっさい無いはずの彼がなにをどうしたのか、無限にはいくら考えても分からなかった。そもそもその時には「考える」という動作もおぼつかなくなっていたのだから、頭を捻っても首を傾げても意味のないことだったのだけれど。
 とにかく、研究会やら教授たちのご機嫌うかがいやら新入生の受入準備やら教務課との折衝やら、一介の大学講師がする量ではない仕事で、まさしく忙殺されていた無限は、新学期を間近に控えたこの時期に、休暇をとることと相成ったのである。
「北でも南でもどこでもいいから、とにかく職場から離れた場所で養生して、そんで人間を取り戻してこい」
 あたかも無限が理性を失った獣にでもなったかのような言い草だったが、それは当たらずとも遠からずといったところだった。何せ、その頃の無限ときたら、三大欲求のバランスが完全に崩れて暴食しては胃を壊してゲーゲーやり、睡眠を削って仕事しては拷問のような頭痛に気絶しかけたりしていて、人間の様相を急速に失いかけていのだ。それもたちが悪いことに、自分ではまったく危機感を抱かずいたので、久方ぶりにイスタンブールだかチベットだかから帰ってきた友人に力ずくで病院に押し込まれなければ、完全に体が壊れるまでその生活を続けていたことだろう。今でもいまいち、友人の緊迫感に共感できないが、処方された睡眠薬で無理矢理に一晩寝て微々たる回復を遂げた頭で客観視するに、自分は割と命に関わるラインに立っていたらしい。
 統合失調症ぎみですね、というのが医師の見解だった。対して、靄のかかった思考に慣れ切っていた無限はろくな反応も示せず、はあ、とため息とも相槌ともつかない声を漏らした。
 おおまかに言うと、過度の身体疲労と精神的な負荷によって、脳みそが正しく機能しない状態にある、らしい。急に飢餓感をおぼえて無心でジャンクフードを貪ったのも、疲れているはずなのにちっとも寝付けなかったのも、脳が体の状態をうまく処理できずに誤った命令を出したためだと医師はいう。
「人によっては投薬による治療をすることもありますが、あなたの場合はまず頭と体の両方を十分に休ませることが優先になるかと思います。ずっと電源をつけっぱなしにしていたコンピュータを、シャットダウンする要領ですね」
 身体疲労だけでも改善されれば、比例して精神的な負荷に対する抵抗力も増してくる、というような説明をされた記憶がぼんやりとある。つまり、無限の状態はほっとくと危険だけれども、大掛かりな治療を必要とするものではない、まずはとにかく脳と身体が正常に戻るまで休め、ということらしい。
 しかし休めと言って、はいわかりましたと簡単に休める社会人がこの世にどれだけいることだろうか。少なくとも無限はそれに当てはまらず、それは靄がかってほとんど使い物にならない脳みそでも判断できたのだから、いつまでかかるのかもはっきりわからない休みを取ることなど到底できるはずもない。
 と、いうことをまるっと北河に話したのは、他でもない彼が受診前の無限に「終わったら一言一句報告しろよ、絶対だぞ」と口を酸っぱくしていい含めていたからだ。本人も医師である北河だが、さすがにメンタルは専門外だと早いうちから匙を投げていた。
 しかし、北河というやつは、朴念仁の無限と十年以上付き合ってきた懐の深さと面倒見の良さとをもつコミュニケーション強者の男である。それで   無限を見捨てるはずもなく、信頼できるクリニックをやたらと広い人脈の中から見つけ出し、予約を入れたうえ、無理やり奪ったスケジュール帳を睨み付け、無限のぎちぎちに詰まったスケジュールに無理くり押し込んで病院にまで連れて行ってくれたのがことの次第だ。
そうした経緯があって、使い物にならなくなっていたとはいえもともと質のよい無限の脳みそは、ピンときていなくとも医師の話を一通りおぼえており、言いつけ通りに北河へ説明してみせたのだった。ウンウンと真剣な顔で聞いていた北河が、無限が話し終わると同時に放ったのが、冒頭のセリフというわけだ。
「バカンス」
 おうむ返しする無限に、大きく頷いてみせながら北河は「バカンスだ」と繰り返した。
「簡単な話じゃないか。要するに、お前には休息が必要なんだよ。とにかく休め。そんでどっか旅行でも行ってこい」
「いや……無理だ。休めない」
 ただでさえ、無限が講師として属する学科の教員は全員、ギリギリの状態で業務を回しているのだ。一人抜けたらその分の仕事は、すでに手一杯になっている他の教員に割り振られるわけで、ふやけた頭でもそんなことは組織に属する社会人としてあるまじきことだとわかる。と言うことをふにゃふにゃと言いながら首を振った無限に、北河は毅然とした態度で「大丈夫だ」と親指なんぞ立てて見せる。
「安心しろ。北河おにいさんがどうにかしてやるから!」
……お前、そんな権限あるのか」
「ない!」
………
 すっぱりきっぱり、胸さえ張って潔く言い切った友人を、無限はどんよりとした眼で見つめる。のちに北河が語るところによると、その時の無限の目は、どこかの国の寂れた市場で見かけた、死んで腐りかけた魚の目にそっくりだったという。失礼に輪をかけて失礼なやつだ。
「まあ、でも本当に、どうにかなるから。お前はもう仕事のことは何も考えずに荷造りだけしてろって。な?」
 とんと肩を軽く叩かれた無限は、もう何か返す言葉を考えることもできず、おとなしくわかった、と頷いたのだった。