有🍙
2024-12-03 07:43:44
16542文字
Public ARGN|ふうあお
 

[ふうあお] milk and wisdom

 
つきあってるふうあおの乳歯と親知らずのおはなし(イベント当日がむし歯予防デーだったので…)
2023/06/04 結ブ4の展示作品でした。
【読了目安:約30分】
 

 
 
 
 日が長くなってきたとはいえ空は既に薄暗く、湿った空気が夜闇の藍色を纏いはじめていた。あおいはすっかり店じまいを終えたはなまる商店の正面を往き過ぎ、シェアハウスの玄関を開ける。
「ただいまー」
 二階に向かって声を張ると、あおいが靴を脱ぐより早く風太が転げるように階段を駆け降りてきた。
「あおい! あおいー!」
 さわがしい出迎えに呆然と階段を見あげつつ、とりあえずおとなしく迎えられてやることにした。ばたばたと前のめりに玄関におりてきた風太はおおげさに眉を歪め、勢い込んであおいの両肩を掴んだ。
「あおい! どうやった? 痛かった? 泣いとらん?」
「泣いてないよっ! 見ればわかるだろ!」 
「よかったぁ……
 風太のほうこそ泣き出してしまいそうな顔と声で、けれどすぐにおひさまみたいにはれやかに、おかえり、と笑った。
「ただいま……ってか心配しすぎだって……
「みんな心配してあおいの帰りば待っとったと!」
「みんなも⁈ ちょっと歯医者行ってきただけでおおげさだって!」
「おおげさやなか! あおいが歯医者さんで泣いとっとやなかかーってみーんな心配しとったんやけん!」
「だから泣いてないってば!」
 風太は歯医者という響きだけで随分と心配をしていたらしい。受診するあおいよりよほどそわそわしていたし、出がけにも「オレも一緒に行かんでよか? ほんとについて行かんでんよかか?」などと言い出したくらいだ。
 奥歯の奥がむず痒いような違和感が続いていたから念のため受診してきたというだけなのに。心配しすぎだし、付添なんてもってのほかだ。風太じゃあるまいし。
 でも、まあ、おおげさといえばおおげさだしみんなにも心配をかけたのなら申し訳ない気もするけれど、べつに、うれしくない、わけではない。岬は今日の夕食の当番を快く代わってくれたし、絋平もあおいにばかり負担がかからないよう気遣ってくれていたし、大和もなにやら神妙な顔をして送り出してくれたし。
 ようやく靴を脱いで框に足をかけると、たいした段差でもないのに風太がいたわるように手を伸べてきた。気遣いをうれしく思う気持ちと気恥ずかしさとがあおいのなかで複雑にまざりあう。脱いだ靴を揃えるというひと呼吸をおいてから風太の手に自分のそれを重ねてやると、たちまちにぎゅっとつよく握られてしまった。
「むし歯やなかったと?」
 風太に手を引かれるように階段をあがりながら、あおいは頷きを返した。
「うん、親知らずが生えてきてるんだって」
「おやしらず」
「下の一番奥の歯のさらに奥のとこ。歯茎突き破ってちょっと頭出してきてるみたいで」
「つきやぶって……?」
 繋いだ手からかすかな身震いが伝わってきた。
「痛くはないけどなんかむずむずしてたのってそのせいだったみたい」
 風太は階段をのぼる足を止め、くっきりと眉を寄せて覗きこんできた。
「はぐきばつきやぶるって……ほんとに痛うなかと?」
 自分のことでもないのになんだか痛そうな顔をしているので笑ってしまいそうになった。しかし風太には笑いごとではないのだろう。むやみに心配させることもない、ちゃんと安心させてやりたい。
「大丈夫、痛くないよ。むずむずするとかちょっと痛痒いくらい。あ、ほら、乳歯から永久歯に生え変わるときもそんな感じだった気がしない?」
 これは歯科医師にも言われたことだ。歯が生えてくるなんて永久歯の生え変わりのとき以来でしょ、昔のことだから忘れちゃってるかな、そのときも違和感はあったはずだよ、と。
「そうやったっけ……
「そうだよ。だから大丈夫、新しく歯が生えてきてるだけ」
 強がっているわけでもなくつとめてあかるく言ったつもりだったが、風太はなおも「うー」と唸っている。めんどくさいなあ、と思った。だってなんとかしてやりたいと思ってしまう。そういう自分が、とてもめんどくさいのだ。
「ほんとに大丈夫だよ。……えっと、……心配してくれてありがと、風太」
 すこしだけ声がちいさくなってしまったけれど、礼を述べて繋いだ手に力をこめてやった。ようやく眉をひらいた風太を見届けてから、今度はあおいが風太の手を引いて階段をのぼりきった。
 居間に入る直前にどちらからともなく一瞬足が止まり、自然に手と手がほどけた。
 べつに、名残惜しいなんて思っちゃいない。風太とは世間一般にいう「つきあってる」ってやつだけど、四六時中べたべたしたいわけじゃないし風太だっていろいろとわきまえているだけだ。だからべつに、名残惜しくなんかない。断じてない。
 居間を開けると夕食の馨しいにおいが鼻腔に飛び込んできた。熱したバター、あとはかすかにケチャップと、ごま油。
「ただいま」
「たっだいまー!」
「オメーはどこにも出かけてねえだろーが!」
 なぜか風太まで帰宅を告げた途端、食い気味に岬のつっこみが飛んできた。エプロンとおたまを装備していようがキレは抜群だ。風太は「あおいば出迎えに行ったばい!」と無駄に得意げに台所に向かい、入れ替わるように絋平がちゃぶ台に手をついて立ちあがった。
「あおい、どうだった? 大丈夫だったか? 痛くなかったか? 泣いてないか?」
「なんで絋にいまで風太とおなじこと言うの……
「で、どうだったよあおい、みんな心配してたんだぞ」
「あー……うん」
 岬までおたまを握り締めて身を乗り出してきたので、食事の当番を代わってくれた礼をしてから風太にした説明とおなじことを話した。絋平はほっとしたように表情を緩ませ、岬は「親知らず……?」と怪訝な声をあげた。
「経過見せに来てって言われてるから次は来週で予約とってあるから。スタジオ練とかぶらない日にしてもらえたけど、しばらくは通院することになると思うからまたみんなのスケジュール調整してもらったりとか、食事当番代わってもらったりとかあるかも……
「そいは全然よかよ!」
「オメーはスケジュール管理もメシ作ったりもしてねえだろーが!」
 人数分の箸やらスプーンやらを握り締めて割って入ってきた風太にまたしても岬が食い気味にどやしつけ、絋平がまあまあと窘める。
 いつもどおりのさわがしさを横目にあおいは台所へ向かった。鍋ののったガス台に汁椀が重ねられており、シンク横の狭いスペースには盛りつけの済んだオムライスの皿がぎゅうぎゅうに並んでいる。あとは配膳をするだけなのだろう。
「大和も食事当番手伝ってくれてたんだ、ありがとう」
 炊飯器の蓋を閉めながら大和が振り返った。手にした皿には皆とおなじオムライスとつけあわせが盛られていたが、その皿のささやかな余白に白米の小山が、なんというか、不思議な存在感を放っていた。まあこれもいつもどおりといえばいつもどおりなので、もはやつっこむほどのこともない。
……親知らずか」
「え、うん……?」
……そうか」
 大和はそれきり黙って頷いただけで自分の皿を運んでいってしまった。大和は風太のようにめまぐるしく表情が変わるわけではないからわかりづらいけれど、眉間にかすかな気懸かりを湛えているように感じられた。おそらくチキンライスと白米の比率は逆がよかったとかそんなことだろうから、あまり気にしないことにする。
 残り物の野菜の細切れを煮込んで溶き卵を落としただけのスープ(鶏もものかけらが入っていたら「当たり」であるらしい)を岬が全員分よそい、各々に皿と椀を運び、皆がちゃぶ台の周囲の定位置に腰をおろす。
 ほどよくとろみを残して火の入ったオムレツ部分の黄色と白、わずかに覗くチキンライスの淡い朱色とケチャップの深い赤、そのコントラストがやけにまぶしい。つけあわせのウィンナーは律儀にタコさんになっており、ミニトマトとブロッコリーの彩りも目に楽しい。バターとケチャップの香りがやさしくまじりあい、湯気のたつ鶏ガラスープにほんのすこし落としたごま油がさらなるシナジーを生み、食欲を加速させる。自分でも単純だなと思うけれど、おいしそうな食事の前ではつい笑顔になってしまうし親知らずのむずむずすら些末なことのように思えてしまう。皆で食べるとなればなおさらだ。
 各々に箸やスプーンを握りいただきますと言いかけた、そのときだった。

……で、あおい、その親知らずはいつ抜くんだ?」

 ひとり神妙な顔をした大和が、しあわせな夕餉の食卓に爆弾を投げ込んだのだ。





   **


……でさあ、そのあとみんな大騒ぎになっちゃって……
 上京してから毎晩欠かしたことのない長崎の実家との電話は、毎日なにかしらが巻き起こるおかげで話題にもまた欠くことがなかった。歯科を受診することは昨日伝えていたから今日はその結果を報告するだけのつもりだったのに、結局は長電話になろうとしている。
 今日は、というか今日も、夕食のときだけでもいろいろなことがありすぎた。

 爆弾が落ちたあとの焼野原で、風太は音高くスプーンを取り落として「あおい……歯、抜くと……?」とこの世の終わりのような悲壮な顔と声をしていたし、絋平は「本当に抜くのか? いつだ? 大丈夫だぞあおい安心しろ、ちゃんと付き添ってやるから」とやや見当違いではあったものの手でも握っていてくれそうな勢いで頼もしかったし、岬は「おいおいおい抜歯ってちょっとした手術みてえなもんだろ、大丈夫かよ……」と無駄な心配をし、風太が「しゅじゅちゅ⁈」と片言めいた悲鳴をあげ、挙句に大和の「俺は入院して抜いたぞ」という追撃で茶の間は完全に混沌の渦に飲み込まれた。
「いや抜かないよ⁈ 抜かないから! そんな話になってないから! 手術とかありえないから! ちょっとみんな聞いてる⁈ 抜かないよ! ぬーかーなーいーからあああ!」
 あおいが必死に、喉が嗄れるほど訴え続けてようやく事態が収束したのだ。

『あーくん、それですこしかすれた声してるのね……?』
「そうなんだよもう……ごはんは冷めちゃったしそのあとも親知らずが生えてるとか生えてないとかお互いの口のなかの覗きあいみたいになっちゃって……岬は親知らずが全部横向きに埋まってるんだって。いずれ抜くとか抜いたほうがいいとか言われてたっぽくて……大和が入院とか言ったからちょっとびくびくしてたと思う……うん、そう、岬って意外とそういうとこあるから。風太なんか、あおいの生えかけの親知らず見たか! とか言い出してさ……まあ見えなかったみたいだけど……はあ、口でっかく開けすぎて顎痛いよ……
 愚痴ともつかないあおいの話を、母はいつもにこやかに聞いてくれる。勿論声だけのやりとりなのだが、電話の向こうの母のようすはあおいには容易に想像できるのだ。
……それで、あーくんは大丈夫なの?』
 これは親知らずを抜くとか抜かないとかという話のことだろう。母の声に不安げな響きが感じられた。
「え、俺は大丈夫だよ! 大和は親知らずがなんかややこしい埋まりかたしてたから入院して抜いたんだって。あと、親知らずってみんな必ず抜くものだって思ってたみたい……俺のはまっすぐ生えてきてるから大丈夫なんだって。レントゲンも見せてもらったし説明も受けたし、ちゃんと歯磨きできるならほかの歯と変わらないみたいだよ。だから大事にしていきましょうね、って言われたんだ」
 そう、よかったわねぇ、大事にしなきゃねぇ、と答える声にあきらかな安堵が窺えてあおいも胸をなでおろした。わざわざ母を心配させるために食事時の喧々囂々を報告したわけではなかったから。
「でもさあ、生えてる途中のむずむずする感じってしばらく続くみたい。痛くはないけどやっぱり気になっちゃうっていうか……なにかに夢中になってるときなんかは忘れてるくらいなんだけど……
 皆があまりに心配するので大丈夫と言い張ったけれど、実のところこのむずむず感がすこしだけ憂鬱に感じられることが、なかったわけではないのだ。
『ふふ、歯がかゆい?』
「えー? なにそれ」
『あーくんがちいさい頃にね、奥の大きな永久歯が生えはじめたときに歯がかゆいよーってすごく気にしてたのよ』
 歯がかゆくなるなんてことはあり得ないと今ならわかるけれど、こどもの語彙と表現力の限界というところだろう。親知らずが生えはじめてなんだがむずむずしている今の状況とおなじようなものだ。
「なんか恥ずかしいなあ……それ、いつ頃だったっけ」
『六才臼歯っていうくらいだから、小学校にあがったくらいだったかしら? ……ふふ、あーくん、前歯が生え変わるときも大変だったものね』
……あー……
 なんとなく返事が曖昧になった。それは覚えているが、あまり蒸し返されたくないやつだ。はじめて乳歯が抜けたときは……ああ、やっぱり思い出したくない。
『ほら、最初の乳歯が抜けたときあーくんったら』
「わー! その話はいいから!」
 慌てて遮っても電話の向こうの母は『あら、そう?』となおくすくす笑っている。親というものは、どうしてこうも子に起きた出来事を覚えているものなのだろう。両親にはほほえましい成長の記録かもしれないが、あおいにとっては気恥ずかしい思い出にほかならないというのに。
 いくら小学校にあがったばかりの年頃だったとはいえ、はじめて乳歯が抜けたときあおいは、おどろきのあまり大泣きしてしまったのだ。
『ふふっ……びっくりしちゃったのよね、あーくん』
「し、仕方ないよあれは……朝起きたら抜けた乳歯が枕の上にころがってたんだから……
『しかも二本一度に、だものね。あーくんがあんまり泣いてるから、かあさんたちもびっくりしちゃって……
「も、もうその話はいいから……!」
 電話の向こうのささめくような母の笑い声は、あおいをからかうようなそれではない。むしろ思い出をいつくしむようにやさしいものだから、あおいはかえって羞恥を覚えてしまう。
「ねえかあさん……あの箱って、まだあるの?」
『箱?』
「うん、ほら、あのまるいやつ……
……ああ、乳歯ケースね? あるわよ?』
「そっか……
 あおいの乳歯は両親が専用のちいさな檜の小箱に保管してくれている。両手のてのひらに載るくらいの円形の箱を開けると円周に沿って乳歯の数だけ小さな窪みがあり、そこに抜けた歯をおさめてゆくというものだ。
 こどもの頃はその箱がなんだか大仰に思えた。だって風太も岬も、抜けた歯は家族と一緒に屋根の上や縁の下に投げたなんて言うから。
 その頃あおいは、どの家庭でも子の乳歯は成長の記念品のように保管されているものと思っていた。しかしそうではなくそれぞれの家で乳歯の扱いが違うのは、子のすこやかな成長を願い、またよろこばしく思う、その家ごとのやりかたであるというだけだ。
 あおいの二十本すべての乳歯が収納されたその箱は、あおいの気恥ずかしい思い出と、両親からあおいへの思いをもめいっぱいにおさめて、今も実家のリビングのチェストにしまわれているはずだ。宝物のようにたいせつにされていることは、母に聞かずともちゃんと知っているのだ。
 両親はあおいをほんとうにたいせつにしてくれている。あおいという存在そのものも、その成長も、ともに過ごす時間も、すべてをいつくしんでくれる。そして、折に触れてそれを感じられる自分をとても誇らしく思う。この気持ちも、両親がはぐくんでくれたものだ。
「かあさん、今度帰ったときにさ……
 うっかり涙腺が緩みかけている自分に気づき、あおいは懸命に声を引き締めた。
『なぁに?』
「えっと……あの箱、見たいかも……
『あら、急にどうしたの?』
「うん、ちゃんと見たことなかったなって思って……あ、かあさんととうさんも一緒に……
 そうね、楽しみね、待ち遠しいわ、と母は笑った。
 電話の向こうでやさしく笑む顔までもが想像できるようなおだやかな声に、あおいのこころはいつもぽかぽかとあたたかくなるのだ。





   **


 その夜の洗面所には先客がいた。五人で暮らしているのだから混みあう時間もあるが、今日は歯の話をしたからだろうか、皆食後早々に歯磨きを済ませていたはずだ。
 ひとりやや遅い歯磨きをしていたのは風太だった。鏡越しにあおいをみとめ、口のなかを泡だらけにして「んぉ」と声にならない声をあげ、口を漱ぎはじめた。洗面台に背を屈める風太の傍をすり抜けてあおいは、鏡の横の棚を開けた。
「あおい、歯磨きさっきしとらんかった?」
 未だ口の端に歯磨剤が残っている風太に指さしてそれを指摘しつつ、あおいは棚の中を探る。
「うん、歯磨きはしたけど、これ、取りに来たんだ」
 あおいが棚から取り出して風太に掲げて見せたのは、買い置きの歯ブラシだった。
「ふーん……なして?」
 月が変わったときに皆一斉に歯ブラシを交換することにしているから今使っているあおいの歯ブラシもまだ新しいもので、風太の問いももっともなものだ。
「今日歯医者でブラッシング指導もしてもらったんだ。親知らずってすごく奥だし磨きにくいし、特に今生えかけだからきれいにしておくのが大事なんだって。だから歯磨きセット持ち歩こうかなって思ってさ。ほら、大学で昼ごはん食べたあとなんかも歯磨きしたほうがいいかなあって」
 ぶくぶくと口を漱ぎながら、鏡越しの風太がなにやら感心しているような目線をよこしてきた。
……っていうのもあるんだけど、さっき電話でとうさんとも話してて言われたんだ。歯はだいじにするんだぞーって」
 風太が歯ブラシの水気を切るべく手首を振るさまを見るとはなしに目で追う。
「そいは……まあそうたいねえ」
「ずっと前から言われてたんだけど……俺がトロンボーンはじめた頃からだったかなあ」
「トロンボーン……はなんか関係あっと?」
「あるよ。ってか風太にも関係あるかも」
 からん、と音を立てて所定の場所にコップと歯ブラシが戻された。風太が鏡越しにこちらを見つめている。
「たとえばだけど、むし歯になったり歯の治療したりで歯のかたちとか口のなかの環境が変わったら……って風太、想像できる?」
「んー……あんまできん……
「だよね、俺もあんまり想像できないんだけど……でも俺たちって演奏するとき舌とか口とか口のまわりの筋肉とか、とにかく口、いろんなふうに使うだろ? だからほんのちょっとの歯の治療でも、マウスピースとの感触が違ってきて吹き心地が変わるなんてこともあるんだって。すこし違和感、くらいなら調整できるかもしれないけど、アンブシュアが崩れたりすることもあるって」
「うーん……
 納得していないのか理解していないのかその両方なのか、風太の返答はいまいち歯切れがわるい。
「じゃあ風太、いま自分の歯がぜんぶなくなっちゃったらどうする?」
「えっ、そいは困る!」
「それはそうなんだけど、サックス……サクタローを吹くときはどう? リード咥えるのも息を入れるのも、歯があるときとは違ってくるんじゃないかな」
「うーん……
 この相槌はさっきとは違う。風太なりに考えを巡らせて唸っているときのやつだ。
「考えたくなかっちゃけど……歯のなかったら、今んごと思いっきしサクタローば吹けん気のすったい……そがんと楽しゅうなか……イヤばい……
……うん。だよね。……なんか、ごめん、風太」
「んにゃ、たとえばの話やけん」
「うん……俺も、ボーンはマウスピースがあのかたちだから、もし歯がなくなったら全然変わってくるしほんと困るどころじゃないよ。だからさ……
 東京には楽器を演奏する人のための歯科治療を前面に打ち出した医院もあるらしい、と父が教えてくれた。あおいは父との話を反芻する。いざとなればそういうところを頼っていいんだ、それはそれで安心もできる、でもあおい、とうさんは思うんだよ、やっぱり一番に考えるべきは――
「今ある自分の歯を一生使うつもりで大事にしなさい、ってことだよ」
「いっしょう、だいじに…………あっ!」
 風太は急になにかに気づいたように大きな声をあげた。
「やったらオレも! オレもあおいと一緒に歯ブラシ持って歩くばい!」
「え、急になに?」
 父の話を風太にも共有したかったのはたしかだったが、なにも歯ブラシの携行まで強要するつもりはなかった。
「いやべつに、無理につきあわなくてもいいんだぞ?」
「んにゃ、オレもだいじにせんばいかんとやった! あおい、こい見んね!」
「え、なに……?」
「こい!」
 ついさっきまでサクタローが吹けなくなるのはいやだ、そんなの楽しくないと眉をさげていたくせに、鏡に向かってにっと歯列を覗かせる風太はちょっと意味がわからないくらい得意げだった。あおいも鏡越しに風太の口許を覗き込んでみる。風太は「こい、ここ」としきりに口角よりやや手前、右下の前歯の一本を指しているが、あおいにはなんの変哲もない健康なそれに見える。
「その歯が……なに?」
「こい、乳歯ばい」
「え、うっそだあ!」
 思わず鏡のなかではない風太に向き直ると、風太も歯を見せたままこちらに体を向けた。
「うそやなかよ?」
……ほんとに?」
「ほんとばい」
「ちょっと見せなよ」
 あおいが風太の頬を両手で掴むように引き寄せると、風太は「いーっ」と声に出して歯列をよく見えるようにし、背を屈めて顔を寄せてきた。
 大学生の口のなかに未だ乳歯があるなんてまたとんでもない冗談を言いだしたものだと、あおいは半ば呆れながら風太の歯列を検分しはじめた。
 歯磨きを終えたばかりでつやつやした、乱れたところのない揃った歯並び。ぱっと見たところはどこもおかしくはない気がするし、そもそも専門家でもないのだから乳歯と永久歯の違いだってよくわからない。あおいはふと思いついて反対側のおなじ位置の歯を確認することにした。これ糸切り歯ってやつかな、と視線を動かしてあおいは、あ、と声をあげそうになった。
 くらべてみてやっとわかった。大きさがまるで違う。反対側のその歯は、風太が乳歯と主張する歯とくらべてあきらかに大きい――いや、「乳歯」が小さいと言ったほうがいいのかも。大きいほうはかたちも独特なすこし尖ったそれだ。あおいはまた真正面から風太を見据えた。歯並びとしては乱れたところはないが、よくよく見ればかたちは左右対称ではない。それに、そのつもりで見れば「乳歯」は両隣の透明感のある乳白色より若干色が濁っている気もするし、かたちもまるみがあってかなり小ぶりだ。乳歯といわれればそうなんだと思わせるには充分な相違だった。
「ほんとに、乳歯なんだ……
「やけんさっきからそう言っとるばい?」
 風太の頬から両手を離しながら、それでもそのちいさな歯からは目が離せなかった。
「でも、なんで? 生え変わってないの?」
「ここは生え変わっとらんねえ」
「永久歯どこいっちゃったんだよ……
「ちゃんとあるばい」
「え、どこに?」
「ここ!」
 やや右寄りの顎の一点をちょんちょんと指す風太は、またしてもどうしてそんなにと思うほど得意げだ。
「それこそ、うそじゃないよな……?」
「うそやなかって、オレ、見たことあるけん」
「どこで見たんだよ、生えてないのに」
「歯医者さんでレントゲン撮って……中学んときやったやろか……顎? 骨んなか? ようわからんちゃけど、変なか向きで埋まっとるおとなの歯の写っとったっさ。なんか、こう……
 風太は今度はまっすぐに伸ばした人差し指を口唇の下に平行に当て、顎を擦るように左右に動かした。
「こがん向きで埋まっとっとやって。やけん生えてこられんごとなっとるって」
「え、ちょちょちょっと待って!」
 にわかには信じられない。風太が示したのは歯列と垂直の向きだ。歯の生えている方向とはまるで違う。あおい自身が今日の受診で撮ったレントゲンを見せてもらったときに、歯というものは思ったよりも長さがあるものなんだなと感じたばかりだった。歯茎の上に見えているより埋まっている部分のほうが長さがあるように思えたくらいだ。そんなものが生えるべきところに生えずに埋まったままになっている? しかもおかしな向きで? どこにどうやって? そんなスペースある?
 疑問はつきないが、おそらく風太に訊いてもよく理解していないのであろうことは想像がつく。かわりにあおいはべつのことを口にした。
「それってなんか影響あったりしないもんなの? 痛いとか、違和感あるなーとか……
「なーんもなかよ!」
 あっけらかんとした即答だった。さすがにこれはうそでも冗談でもないだろう。
「そんなことあるんだ……
「あるごたーねえ」
「ってか、ねえ、俺の親知らずが埋まってたとこから生えてきたみたいに、風太のその歯もいつか生えてきたりしないのかな……
「んー、生えてくるかもしれんし生えてこんかもしれんって先生言うとったねえ……ばってん……
 風太はふたたび歯列が見えるように口角を広げた。
「一生こん乳歯ば使うことんなるかもしれんし、そしたらこん歯はおとなん歯よりよわかけん、大事にしんしゃいって言われとったっさ」
「一生……
「あおいの話ば聞いとったらそいば思い出したけん、オレもあおいと一緒に歯磨きがんばらんば! 一生! だいじにせんばいかんけんね!」
 風太も棚を探って新品の歯ブラシを、あおいと色違いのそれを手にしてにこにこと振り返った。
 風太はよく笑う。その顔も、そのときに見せる歯列も、見慣れたものであったはずだ。それでも今まで乳歯のことなんてちっとも気がつかなかった。見慣れているからこそ気がつきにくいということもあるのだろうか。
 今でっかく口を開けて笑う口許からもちいさな歯が覗いている。揃った並びのなかにぽつんと在るそれは、今までどうして気づかなかったのだろうと思わせるほど、見れば見るほどアンバランスだった。けれどそれが、その小粒が――なんだろ、これ……かわいい? いとおしい? みたいな……なんかへんな感じ……
 あおいは吸い寄せられるように風太の頬に手を伸べた。風太もあおいのてのひらに頬をすり寄せるように首を傾け、さもうれしそうに目を細める。ちょっといたずらをして親指でくちびるをつついてやってもされるがままだ。口角に指先をひっかけるとわずかに歯列が覗いた。
 今日その存在をはじめてみとめた、ちいさな歯。
 おさない頃から持っているものを、多くの人がおとなになる途中で当然に手放さざるを得ないものを、今もって持ち続けている――なんて言ったら、風太らしいといえば風太らしい、のかな……? まだ乳歯があるような奴だし、と思えばすこしくらいのこどもじみた言動や行動もまあゆるせる……わけないか、やっぱそれはそれだよな、そこんとこはちゃんとしとかないと、俺だって親知らずが生えてきたから大人ってわけじゃないのと一緒で……
 さまざまに思いを巡らせながら風太の頬やくちびるを捏ねるようにもてあそんでいると、ふとその手をとられ、実にさりげなく、流れるようにごく自然に、くちびるを掠めとられてしまった。にわかにはなにが起きたのか理解できず、身じろぎもできない。とろけるように目を細める風太に二度目をよこされそうになったとき、あおいはようやく、風太の胸に腕をつっぱねた。
「や、ちょ待っ、い、今そういう雰囲気だった⁈」
「えー? あおい、なんかいっつもちゅーするときんごたー感じやったばい?」
「わーっ⁈」
 あおいは勢いよく両手で風太の口を塞いだ。「んぎゅ」とくぐもった風太の声をてのひらに感じながら、自分の顔じゅうにみるみる熱がのぼってくるのがわかった。
 たしかにはじめてくちびるを重ねたのもからだを重ねたのもこのシェアハウスで、だったけど。だったけど! そのときはそうするしかないような暗黙の空気があったりそうするための機会をわざわざ設けたり、とにかく生活感しかないような場所と雰囲気のなかでする行為じゃない! ないはず! たぶん! わかんないけど!
 風太はややしばらく律儀にあおいのてのひらに呼吸を塞がれていたけれど、いよいよ息苦しくなって水面から顔を出すようにてのひらから逃れ、ふは、と大きく呼吸をした。
「あおい、黙ってじいっとオレんこと見とったけん、そがんことやって思うたとに、違うたと?」
「違うよ……あ、こら」
 咎めてはみたものの、額に落っこちてきたくちびるも、我が物顔で腰にまわされる腕も、拒み切れなかった。
 たしかに最近は体調がわるいとまではいかなくても歯の不調のせいで気分がすぐれない、くらいはたびたびあったわけで……風太もそれを気遣ってくれていたし、いろいろと「控えめ」にしていたのであろうことは、まあ、わかる。だから帰宅したときも手を繋ぎたがったり、今もこんなにもべたべたしたがっているのかも……
 あおいは仕方なく、ほんとうに仕方なく、風太の腕に囲われてやることにした。ただしおとなしくしてやるつもりはない。風太の頬を両手で包んで親指の先でくちびるをつつきまわしてやった。さっきみたいにくちびるの隙間からあのちいさな歯が見え隠れするたび、なんだかそわそわする。
「そい、気に入ったと?」
「気に入っ……っていうか、き、気になるだろ、乳歯とかさ……今日はじめて知ったんだし……
 風太はあおいの腰をさらに抱き寄せ、大きく口角をあげて笑った。目の前であらわになった乳歯の表面を思い切って爪でつついてみると、こつこつとかわいらしい音がした。
「ねえ……これ、乳歯のこと、みんなも知ってるの?」
「んにゃ、ひっさしぶりに思い出したけん、オレから話したとはあおいがはじめてばい」
「そっか……
 風太はなにやらうれしそうに、へへ、と笑った。
「『はじめて』ばあおいにあげてしもうたねえ」
……変な言い方すんのやめてもらえる?」
「オレもあおいからいーっぱい『はじめて』ばもらっとるけんね!」
…………
 なに言ってんだほんと……風太のくせに……
 ここ最近ふたりではじめてのことをいろいろとした、というのは事実にほかならない。しかしながら婉曲なようで直截な表現になにも言い返せないのがくやしいうえに猛烈に気恥ずかしかった。腹いせというわけではなかったけれど、ひとつ、あおいは仕掛けてやることにした。
 風太を見あげ、あおいは指摘する。
……風太、歯磨き粉ついてる」
「えっ、どこ?」
 言うが早いか風太は片方の口角をちろりと舐めあげた。
「逆」
「こっち?」
 反対側の口角へ動くその舌先を目で追いながら、あおいは両腕を風太の首に巻きつけて引き寄せた。
「うそだよ」
 風太の舌の動きを、今度は自分の舌で追う。濡れた粘膜が擦れあい、思いのほか猥雑な音がして背筋がいっぺんに粟立った。くちびるとくちびるの触れあいを求めるような風太の動きを、あおいはすっと躱す。風太の首を引き寄せて、それでもたりなくて背伸びをして、風太の口角にちろちろと舌を這わせた。すぐにうすく開いたくちびるの奥に、めざすものはあった。歯列を舌先でなぞっていけば舌の感触だけでも小粒な乳歯はすぐにわかった。舌先をかたくしてその表面を何度も、ちいさな動きで何度も何度も舐めあげた。中途半端に口を塞がれた風太が吐息ともつかないような感じ入った声を漏らし、あおいの背をつよく抱いて、ことさらにからだじゅうを押しつけてくる。どうしよう、かわいいなんて、思うなんて。この歯も、風太も。
「あ、あお、っ、あおい……?」
 くぐもって困惑しきった声に胸がすく。黙って、という返答は、風太の口のなかに直接吹き込んでやることにした。ようやくくちびるとくちびるをしっかりと重ねあわせると風太の舌が無遠慮に歯列を割って入り込んできた。余裕のなさはあおいもおなじだった。技巧もなにもない舌の動きを懸命に受け止めるしかなかった。変な声が出そうで息を詰める。呼吸の隙間に湿った声で名を呼ばれると腰の奥がじんじんとしびれる。からだじゅうを押しつけあう衣擦れと途切れ途切れの呼吸とはしたなく濡れた音に頭がぼうっとしてくる。ああなにやってんだろこんなところで……あ、俺が仕掛けたんだった……
 ついに風太がなにかに耐えかねたようにあおいの肩に両手を置いて距離をとった。突然自由になった呼吸にぼんやりした頭が追いついてこない。互いに顔をうつむけて、肩で息をして、同時にまた顔を見あわせた。
 風太はさんざん暴れまわったライブの後でもこうはならないというくらいに茹だった顔をしていた。そのひとみが、爛としたひとみのかがやきが、ふたりきりで肌を触れあわせているときのそれを想起させて背筋がざわめく。食べられてしまうと思った瞬間、風太は見る間に眉をさげ、ひとみは溶けてなくなりそうに潤みだし、汗ばんだてのひらがあおいの肩からするりと落っこちた。変に焚きつけてしまったのか、それとも計らずも骨抜きにしてしまったのだろうか。
「あおいぃ……
 風太はふにゃふにゃした声で呻きながら、力なくあおいの肩に額を擦りつけてきた。
「なん、なんね……? なんか、まにあっくなちゅーされてしもうた……
「え、ばっ、だから変な言い方すんなって!」
「えー……やっちゃやらしかちゅーやったぁ……
「なにそれ⁈ バカなこと言ってないで、ほ、ほら、もう部屋戻るぞ!」
「歩けん……
「歩け!」
「イヤやぁ……
「風太!」
 のろのろと風太が顔をあげる。まずい、と思った。風太はなさけないくらいに眉をさげ、亢奮の余韻を残したひとみを潤ませて、もうすっかり、あおいにあまえてくるときの顔をしていた。だめだやめろそれにはよわい、ほんとうにやめてほしいやめてくださいおねがいだから!
「あおいの部屋までやったら歩ける……
「ふ、風太の部屋のが近いだろ……
「一緒に寝るだけやけん……
「一緒に寝るほかになにかするつもりだったわけ?」
「ええぇ……だめ……?」
…………
「あおいぃ……
…………
「うー……
…………いいよそれで、もう……
 風太はずるい。そんな顔してれば俺がなんでもいうこと聞くと思ってるからずるい。実際そうなってしまうってわかっててやってるからずるい。無意識なところがほんとうにずるい。ばか。風太のばか。ばかばかばか。
「あおい、早う行こうで」
「ちょっと風太、歯ブラシ忘れてる!」
 あおいはかろうじてふたり分の新品の歯ブラシを引っ掴み、洗面所を飛び出ようとする風太の手も反対の手でかっさらうように握り締めた。風太は跳ねるようにあおいの手を引いてゆく。鼻歌が出ないのは一応もう夜遅い時間だとわきまえているからだ。さっきまで歩けないとかなんとかぐずぐずしていたくせに。ずるい。そういうところだぞ!
「なああおい、明日、歯ブラシケース買おうで」
 急に生活感あふれる話を振られてあおいは大いに面食らった。風太のなかの切り替えって、なんかときどきすごい。
「え、……あー、うん、そ、そうしよっか」
「おそろいの!」
「おそろ、っ、……まあ、いいけど……
「やったら明日、帰りにドラッグストア寄るやろー、そいからー……
 あ、オレ、ハングリードーナツの半額券あるばい、などと喋り続ける風太に相槌を返しているうちに風太の部屋の前をかろやかに通過する。ほんの数歩先のあおいの部屋の扉の前に立つと風太もおしゃべりをやめ、どちらからともなく繋いだ手にきゅっと力がこもった。
 傍らの風太を見あげる。風太は未だ潤んだひとみをやわらかく細め、いつものようにはれやかに笑った。これから「一緒に寝るほかのなにか」をしようとしてるくせに、あんまりにもいとけなく笑うものだから、なんだか可笑しい。
 風太のくちびるの隙間に覗く、ちいさな歯。さっきみたいにしてやったら、風太、またふにゃふにゃになるかな。いつも風太のいいようにされてしまうから、もういっかいくらい「まにあっく」なやつ、試してみてもいいかな。なによりも俺が、そうしたいから。あとは風太が、親知らずのむずむずが気にならなくなるくらい「なにか」に夢中させてくれたら、それでいいかな。
 ひそやかな期待をこめて風太に笑みを返す。それが合図みたいにぎゅうっと手と手を握り締めあいながら、部屋になだれこんだ。
 
<了>
 



[NEXT] → おまけ:本編に入りきらなかった大和くんの親知らずのはなし。
 
 
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