今より少し昔、あるところにヒナイチという名前の娘がいました。ヒナイチはこの春で五歳になったばかり。剣の稽古を毎日続ける頑張り屋さんで、将来の夢はお父さんと同じ警察官。けれども今日は元気がありません。なぜって、剣の稽古でまたお兄さんに負けてしまったからです。彼女のお兄さんの名前はカズサといい、彼もまた吸血鬼対策課という警察官の一員として町の平和を守っていました。カズサは幼い妹相手に容赦をしない性格で、これまでヒナイチは一度も勝てたことがありません。しかもそれを見ていた同じ年頃の男の子からは、「女の子が男に勝てるわけないだろ」と笑われてしまいました。ヒナイチにとってはそれが悔しくてたまりません。
おやすみの挨拶をし、皆が寝静まった夜。眠れないヒナイチは子供部屋の大きな窓を開けてみました。冷たい風がヒナイチの短い赤毛を掠めます。
―――やっぱり、警察官にはなれないのかな。わたしが男の子なら良かったのかな。
しょんぼりとしていると、上の方で何かがぴかぴかと光る気配がしました。星が瞬いたのでしょうか?空を見上げてみると、何やら小さな黒いものがフラフラとこちらにやってくるではありませんか。
「なんだあれは……もしかして小鳥がケガをしているのか?」
心配になったヒナイチが思わず手を伸ばすと、その黒いものは導かれるように彼女の手へと着地しました。よくよく見るとそれは小鳥ではありません。薄い羽根、ぴょこんと生えた耳、ふかふかとした白い胸毛……ヒナイチが絵本でしか見たことのないコウモリという生き物でした。
「どうしたんだ、大丈夫か!」
そう声をかけると、小さな身体からピスピスと鼻息が漏れます。心配になったヒナイチがコウモリの顔を覗き込むと、なんとも愛くるしい表情をしていました。どうやら怪我はしていないようです。ほっとするヒナイチの眼と、コウモリの眼がぱちりと合います。するとコウモリは立ち上がり、まるで貴族がお辞儀をするように片方の翼を畳みました。
「こんばんは、お嬢さん。お会いできて光栄ですよ」
「しゃ、しゃべった……!?」
「私は真祖にして無敵の吸血鬼ドラルク。君のお名前は?」
「ヒ、ヒナイチ……」
吸血鬼と聞いてヒナイチはびっくりしました。カズサが日々警察官として対峙していたのも、町の人々を困らせる悪い吸血鬼たちだったからです。
「こんなにかわいいのに……おまえ、悪い吸血鬼なのか?」
「フフン。『悪い』ではなくて『畏怖い』だよ。本当はもーっとスマートでジェントルな吸血鬼なのさ。まあ今はこんなキュートな姿だけど……私は何にでもなれちゃうからね!」
何にでもなれる。その言葉を聞き、ヒナイチは俯きます。「どうして」と漏れる小さい声は、不意に響いた嫌な音でかき消されました。ドラルクは慌てた様子で窓の方を翼で指し示します。
「しまった、見つかった!」
窓の外を見たヒナイチ。そこにいたのは、ブブブと大きな羽音を響かせるデカい蚊でした。人間に害なす下等吸血鬼の一種で、ヒナイチ、ましてや小さなコウモリが刺されたらひとたまりもありません。デカい蚊はドラルクをその眼で捉えると、開け放っていた窓からヒナイチの部屋に飛び込んできます。ドラルクはぴょんとヒナイチの手から離れると、じりじりと近づいてくるデカい蚊に向き合いました。
「ヒナイチ君! 危ないから逃げて……」
「嫌だ!」
自分が逃げたら、ドラルクが怪我をしてしまう。私も戦わなきゃ、ドラルクを守るんだ。咄嗟にヒナイチは部屋の隅にあった竹刀を手に取りました。
「……勇敢なお嬢さんだ。では私が合図をしよう」
そう言って翼をパタパタと動かし、ドラルクは部屋の中を飛び回ります。決して速い動きではありませんが、予測のつかないフラフラした動きにデカい蚊は攻めあぐねている様子です。やがてドラルクは八の字を描くように飛び方を変化させました。デカい蚊も法則性に気づいたようです。ブンブンと羽音を強め、そして……。
「今だ、ヒナイチ君!」
ドラルクに襲い掛かろうと真っ直ぐ突っ込んできた隙を狙い、デカい蚊に向かってヒナイチは竹刀を振り下ろしました! 竹刀は胴体に見事命中し、デカい蚊はさらさらと塵になっていきます。飛び疲れた小さなコウモリと緊張の糸が切れたヒナイチはお揃いのポーズで床にへたり込みました。
「はぁ、はぁ……さっき外を飛んでいたら急に襲われて、逃げてきたところだったんだ。助けてくれてありがとう。……君、強いんだねぇ」
「いや……合図してくれなかったら勝てなかった。……おまえを助けたかったのに、助けられてしまった」
「……ねぇ、さっき何を言いかけたの? 君を見つけた時、お星さまも見ずになんだか浮かない顔をしていたけれど」
穏やかにそう問いかけられ、ヒナイチは今日あったことを話しました。小さなコウモリは時折ピスピスと鼻息で相槌を打ちます。一通り話を終え、今度はヒナイチがドラルクに問いかけました。
「どうして、おまえは『何でもなれる』って言い切れるんだ?」
「え……うーん……考えたことがなかったなぁ……だって本当に何にでもなれるし……あ、そうだ! 私はドラゴンにだってなれるんだよ? 今からその姿をお目に入れよう!」
次の瞬間、ポン!とポップコーンが弾けるような音と煙が上がります。ヒナイチが恐る恐る目を開けてみると……ドラルクは短いヘビのような姿になっていました。絵本で幻の生物と描かれていたツチノコそっくりです。
「……ドラゴン?」
「ええと、これはデモンストレーションで……あっあっプニプニしないで、痒い! でも手がないから掻けない!」
「何にでもなれるって……」
「自分を信じてあげなきゃ始まらないさ、さあもう一度!」
ポン、ポン、ポンと音を立ててドラルクは色んな姿に変身します。けれどもなかなかドラゴンにはなれません。むしろ生き物から遠ざかっているようにも見えます。
「こうなったら一旦コウモリに戻って……あれ……しまった、コウモリにも戻れなくなった……! 助けてウェーン! このままじゃ飛べない! 船にも帰れないよー!」
抱きぐるみのような姿になったドラルクが泣いていると、返事をするかのように窓から「ヌー!」と声が聴こえてきます。ヒナイチが振り向くと、きらきら光る金色の粉を身体から振りまく、小さなアルマジロがひょっこりと現れました。
「ヌヌヌヌヌヌ!」
「ああ、ジョン! 迎えに来てくれたんだね!」
「ヌヌヌヌ?」
「この子はさっき私を助けてくれたんだよ。……ヒナイチ君、こちらは私の使い魔のジョンだ」
ジョンと呼ばれたアルマジロは不思議なことに、羽根がないのに空中に浮かんでいます。音もなく部屋へと入ったジョンは、「ヌー!」と嬉しそうにヒナイチの周りをくるくる回りました。そして金色の粉がヒナイチの赤毛に触れると、彼女の身体がふわりと浮き上がったのです!
「うわぁ、なんだこれは!」
「ジョンの力さ。さあヒナイチ君、お礼に一緒に星空散歩でもしようじゃないか!」
ヒナイチと同じく金色の粉を纏ったドラルクは、みるみるうちに姿を変えていきます。ツチノコからコウモリへ、そして兄よりも大きな身体のドラゴンへと変身しました。意気揚々と空へ飛び立ったドラルクを追いかけ、ヒナイチも子供部屋を飛び出します。両手を広げると風が気持ちよく指の間を通り抜け、嬉しくなってヒナイチはどんどん上へと昇っていきました。眼下に広がるのはヒナイチが暮らしている町の姿。星に負けないくらいの数の灯りを眺めていると、この町に暮らす人々を守る父と兄がとても誇らしく思えました。
「いい町じゃないか! きっと君がこの町の警察官になったら、もっと素敵な町になるだろうね」
「ヌン!」
「……私、やっぱり警察官になりたい! もっともっと強くなって、人間も、おまえみたいな良い吸血鬼も守れる大人になるんだ!」
「……ああ、きっとなれるさ。また会おう、勇敢な赤毛のお嬢さん……」
月光に照らされるドラルクとジョンの姿。輪郭がぼやけ、段々声が遠ざかっていきます。星々の向こうからやってくる大きな帆船の影に手を伸ばし―――ヒナイチの意識は、そこで途絶えました。
翌朝。ぐっすりと眠ったヒナイチはベッドの中で目を覚ましました。内容ははっきりと思い出せませんが、とても不思議な夢を見た気がします。それに眠っているときに、誰かが頭を撫でてくれたような……。
「兄さん、か……? でも雰囲気が違ったような……うーん」
ベッドの側の窓を見ると、しっかりと閉じられています。変わらない風景にきょとんとしつつ伸びをするヒナイチ。よくよくみると、枕元には小さな袋が置かれています。
「サンタクロース……いや今日はクリスマスじゃない。これは……クッキー?」
袋を開けると、ふんわりとした甘い香りと共にコウモリの形のクッキーが数枚入っていました。一口齧ったヒナイチは、「おいしい!」と満面の笑みをこぼします。
「こんなにおいしいクッキー、はじめてだ! ……よし!」
なんだか身体中から力が湧いてくるような気がして、ヒナイチはぴょんとベッドから飛び出しました。今日は空でも飛べてしまいそうです。しっかりと閉じられていた窓を開け、ヒナイチはもう一度大きく伸びをします。その顔はお日様に照らされ、赤毛は燃えるように輝いていました。
吸血鬼対策課の期待のエース、ヒナイチ。
彼女がドラルクと再び出会うまで、あと少しです。
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