東京ふたりづれ/裕チャンに逢えるまち

一条/一条と佐原…
初出・同人誌(アンソロ)「一条聖也ムード歌謡アンソロ 〜聖也…どうするの?〜」2012
一条聖也ムード歌謡アンソロって何?→映画2で一条の下の名前が設定された後、同姓同名のムード歌謡歌手の方がいることに気づいたことから生まれた謎のアンソロ

東京ふたりづれ


 くっつくスナック菓子を甘ったるいジュースで洗い流すが、口の中が酸で粘つくばかりでちっとも美味しくない。荷物も少なく手持ち無沙汰だったので、酸によって歯が少しずつ溶けていく妄想をする。待合室からあぶれた母と並んで突っ立っているホームはとてつもなく寒い。
 とはいえ、くだらない妄想の合間、十分間に一度くらいは、ここには二度と戻らないのだろうなどと考えてみた。母親に言われたわけではないが、そういうのは子供にだってわかるのだ。きっとここには二度と戻らない。だが、ああそうかという以上の感想は特に持てなかった。それでまた口内の酸を持て余す作業に戻る俺の横で、母親は「東京でがんばろう」とまじないのように繰り返している。
「東京でがんばろう」
 一言で言えば、母親と自分は父親に見捨てられたのだった。生前から彼自身の死後、遺産の相続に至るまでだ。
 母親が俺に遺言状を見せることは一度もなかったが、同時に、それを廃棄することも完璧に隠すこともしなかった。母親の留守に盗み見た遺言状には母親の名も俺の名もなく、代わりに記載されていたのは俺が見たことも聞いたこともない人間の名前で、つまりそれは、俺や母親にではなく、放っておいては遺産など一銭たりとも渡らない人物に全てを譲渡するという宣言だった。
 記憶をたどる限りでは父親が俺の前に姿を現すこと自体数えるほどもなかったので、そんなことになったそもそもの理由は知らない。俺の姓は母のものでなく父のものだから、母と父は内縁の関係ではなく確かに籍を入れており離婚もしていなかった。というより、それすらしていなかった。それから彼は最期にこんなものを遺した。ご丁寧に。
 とはいえ、どんな過去を想像しようが結果はこの紙ペラ一枚だったから考えるだけ無駄だった。だいたい、母親はそのあたりの事情を俺に説明することもまたなかったのだ。自尊心が高かったのかもしれないし息子に対する憐みの心かもしれない。どちらにせよ俺は、そのように自分を見くびる母親が好きではなかったので、彼女の味方をするためだけに父親を恨むことはできなかった。かと言って母親を一人にする理由もなく、東京では母親と二人で暮らしていた。
 ところで、東京は故郷にくらべればずっと住みやすい。小さなコミュニティがこの世の全てだった故郷とは大違いで、人が多すぎて誰もいないのと一緒なのだ。俺はいたく感動した。母親の恨み言がなければ故郷の事など数年で忘れ去っていたに違いない。それは母親にとっても同じであるはずだった。
 だが彼女は、「どうしてこんなことに」と恨み言を繰り返した。まじないのように「どうしてこんな辛い目に」あるいはもっと「帰りたい」無機質に「でもがんばろう」英単語の復習「ね」のように繰り返した。
 俺は帰りたくなどなかったし辛くもなかったのでいつも黙っていた。母親も同意など求めていなかった。
「二人でがんばろうね」
 実際、彼女は立派だった。俺を高校までやってくれたのは他ならぬ彼女だ。だから彼女が倒れてからも俺はきちんと献身的な介護をした。母親はゆっくりと、それはそれは緩やかに死んでいったが、そんなことには考えが及ばなかったようで、彼女曰く二人で支え合ってきたはずの俺にはこれといった遺言を残さなかった。
 分かっていた。もとよりこの女は俺に遺すものなど何一つ持っていないのだ。
彼女は酔っていた。女手一つで息子を育てている自分に、自分を見捨てた夫の血の入った息子を見捨てない自分に、夫の姓を名乗り続けている自分に、縁も所縁もない東京で息子と二人肩を寄せ合って生きている自分に、どれかはわからない。そのすべてかもしれない。何にせよ俺の名を呼びながら二人でがんばろうと繰り返した彼女の目は底の見えない井戸のままだったし、呼びかけの対象は俺ではなかった。東京で息子と二人肩を寄せあって生きている私という一人芝居の舞台に立った彼女が見ていたのは、たった一人の観客である夫の幽霊、いや、あの紙ペラ一枚だ。俺という小道具を含めた彼女の人生は全てあれに捧げられたのだ。あれを憎むことで彼女の惨めは生涯を照らされていたのだ。彼女はあれと二人きりで生きていたのだ。
 さぞかし。さぞかしこの女は。
 俺は母親の棺に父親の遺言状を入れてやった。
「それは何ですか」
 無粋にも葬儀屋がそんなことを聞いてくる。答える必要などないことは分かっていたのだが、俺は手を止めてしまった。
「手紙ですか」
 違う。そんな大層なものではない。いや、そんな程度のものかもしれない。俺は黄ばんだ封筒を見つめた。躊躇っているのはこれが何かわからないからではなく、これをなんと説明していいかわからないからだった。
……
 分からないなら自分で書いてみればいいと言いながら葬儀屋が紙とペンを押し付けてきたところでこれが夢だと気づいた。すっかり気が楽になった俺は紙を広げ、遺言状、と書いた。何度も盗み見たから書き方はわかっていた。
「遺言状だったんですか」
そうかもしれない。書きながら体裁は大した問題ではなかったのだと気づいた。だが俺はやっぱりこれがいい。遺言状。
遺言者は遺言者の有する預貯金負債その他一切の財産を、下記の者に包括して遺贈する。記。受遺者、
「誰に宛てるんですか」
考えるまでもない。俺も母親の紙ペラと似たようなものを持っているのだ。これはその仕返しなのだから、「い」

 言いかけた自分の声で目が覚めた。カラカラの口内に唾液を絞り出すと出すと生臭い匂いがした。地下の寝床は暗く、目を開けていても閉じていても大差ない。まだ起床時間ではないので目を閉じたが、一度覚醒した脳は寝静まらず、それにつれて先ほどまで眺めていた夢はボロボロと崩落していった。母親の呪詛だけが耳の奥にこびりついて残る。がんばろうね。俺は舌打ちをする。がんばろうね。
 クソ。
 苛立ったのは母親の声が鬱陶しいからではない。自分が彼女の相似であるという可能性に気づいているからだった。あれが何か俺はよく知っている。俺もあれに似たようなものを持っているからだ。
 あれは呪いであると同時に喫煙者の煙草であり中毒者の麻薬である。あれは俺の身体を血より速く巡るのだ。と言っても俺のは遺書ではない。きっと悪意もなく、奴は今ものうのうと生きているだろうから、母親のものよりずっと忌々しかった。
 がんばろうね。
(あれは俺か?)
 いや。違う。消えかけた夢の光景を掻き集めて反芻する。遺言状。俺は書いた。
 奴がどんな顔をするかなんてどうでも良かった。だが母のようになるわけにはいかない。何があっても俺は唾を吐き返さねばならない。だから書いたのだ。遺言状。遺言者は遺言者の有する預貯金負債その他一切の財産を、下記の者に包括して遺贈する。記。受遺者、伊藤開司。
 カイジ。お前は俺を励ましてくれたからな。俺はお前に遺してやろう。
 目を開ける。底のない井戸のような暗闇を見つめる。おかげで生きていけるよ、カイジくん。
 紙ペラではなく、彼の声を呼び出しながら、俺は笑う。這い上がって来い。一条、這い上がって来い。

 がんばろうね。