いらっしゃいからおかえりまで

花屋バースのスミイサ

弊シンパパは、のっぴきならない事情から大学卒業後にルルの後見人となった立場にあり、書類上はルルと親子関係にありません。未婚かつ、恋愛未経験の純情ボーイという設定です。
そしてイサミはそのことを聞かされていたので安心して恋愛対象としてスミスを見ています。

*****



 スミスの元気がないように見える。
 最初は気にしすぎかと思ったが、週に何度も顔を合わせていれば、その変化を否応なしに見せつけられる。いよいよ目の下の隈が目立ち、いつもの柔らかそうな金髪は艶をなくし、空色をした爽やかな瞳には影が落ちていた。口数も少なく、ルルとのやり取りもどこかうわの空で、俺と目があうと問答無用で振りまいてくるはずの笑顔に物足りなさを感じる──最後のはさすがに自意識過剰か──ともかく、気のせいではないのだと確信するには、なにほども苦労はいらなかった。
 しかし、スミスは我慢強いというか、なかなかにしぶとく、あまり弱みを見せたがらない男だ。弱音を吐かせるにはちょっとしたコツがいる……
 そうこうしてなんとか理由を聞き出せたわけだが、スミスがレジまで持ってきた花を受け取ったまま手が止まり、思わず聞き返してしまった。
「じゃあ今日もこのあと仕事なのか」
「ああ。今がちょうど山場で」言いながらスミスは紙幣をキャッシュトレーに置いた。「でも、ここ最近の俺の最重要ミッションは、ルルをちょっとでも早く寝かしつけること」
 仕事よりハードなんだぜ、とスミスは力なく笑う。
 現在、スミスのチームが抱えているプロジェクトが佳境に入り、彼は激務の真っ只中いた。
 ギリギリまで会社のデスクで仕事をし、会社から幼稚園までを爆走して滑り込みでルルをピックアップ。寄り道したがるルルを小脇に抱えて家に帰り、食事をさせて風呂に入れ、寝かしつけたら今度は書斎にこもってリモートで仕事を続ける。時には会社に戻らなければならないこともあり、そんなときは終電との戦いでもある。
 一度だけ終電を逃して会社で寝泊まりし、始発で帰ったことがあり、いつもならまだぐっすり寝ているはずのルルが〝オジサマ〟のぬいぐるみとスパルガイザーのフィギュアを握りしめて玄関で座り込んでいた姿を目にしたときは、自分が世界一のろくでなしになった気分で、もう二度とこんな思いはさせまいと心に誓ったそうだ。
 ちなみにルルはその日一日まったく口を聞いてくれなかったらしい──三日ほど前、店に来た二人というかルルは、スミスに話しかけようともせず、何かあれば〝オジサマ〟を介して意思疎通を図っていたのだが、あの奇妙な行動はこれが原因だったのだといまさら合点がいった。
 そんな多忙を極めた中で花屋に欠かさず立ち寄ってくれるのはありがたいのだが、とにかく、スミスは今、膨大な仕事量に押し潰されそうになりながら無理やりにでも日常をやり過ごしている有り様で、日に日にやつれていく姿はとてもじゃないが見ていられなかった。
「よし、わかった」俺は力強く頷いた。「しばらく俺がルルの面倒を見るからアンタは仕事に集中しろ」
 勝手に納得して勝手な提案を言う俺にスミスはポカンとしたまま固まった。その間に花を包み、レジを操作して、花はビニール袋に入れてスミスの手首に引っ掛けてやり、お釣りを握らせる。「いいよな」と凄むように言い、なかば強引に彼を頷かせ、明日から一週間、俺は泊まり込みでルルのお世話係をすることとなった。
「と、泊まるのか!?」頷いてからスミスは素っ頓狂な声を上げた。
「夜中や早朝に出入りするのが迷惑じゃなければ通ってもいいけど。スミスんちまでなら自転車で移動できるし」と代案を思いつくとスミスは食い気味で「ぜひ泊まってくれ」と俺の手を強く握り返した。
 待てよ、泊まるってことは──と下心が脳裏をかすめ、同時に浅はかな自分を恥ずかしく思い、たちまち頬が熱くなる。だが、ルルが期待の眼差しで見上げてくるので、やっぱり帰るとは言い出しにくかった。
 とはいえ俺だって仕事は休めない。休めないが、シフトの融通ぐらいは聞いてもらえそうだったので、ルルの送り迎えができる時間帯に出退勤時間を調整してもらうことにした。
 サタケ店長は「珍しく甘えてきたと思ったら中途半端だな」とため息をつき、ヒビキには「押しかけ女房じゃん」とからかわれた。


「いらっしゃい」スミスは玄関先でルルを抱っこしながら照れくさそうに笑った。
「お邪魔します」いつもと立場が逆だからか俺も思わず他人行儀に頭を下げる。
 すっかり張りきっているルルは、登園の準備をばっちり整え元気いっぱいに「まぁまぁ、ゆっくりしていきなさい!」と、らしからぬ台詞を口にする。
 俺たちは目を見合わせ、それから揃って吹き出した。
「ルル、イサミに〝お世話になります〟、だろ」
「いえっさー! オセワニナリマス!」
 ガピッ!とルルは背筋を伸ばし、小さな手を顔の前にくっつけて敬礼のポーズを取る。またスミスが笑い出す。こんな風に手放しの笑顔を見せる彼は久しぶりで、俺も心が和らいだ。
 スミスはさり気なく俺の肩からボストンバッグを預かるとリビングへ向かった。彼のあとに続こうとして、不意に上品な赤紫へと意識を奪われる。
 玄関先に飾られている大輪のダリアの花。昨日、ルルが店に入ってきたとたん「この子がいい!」と一目惚れして連れ帰ってくれたものだ。
 ダリアは、くすんだグリーンのガラス製のフラワーベースに飾られていて、これは以前、スミスがブレイブフラワーで買っていったものだった。
 それまでは週に一度きり、ご褒美のように小さなアレンジメント(花瓶に移し替える必要がなく、そのまま飾れるタイプのもの)を買いに来ていた彼が切り花を眺め、そしてガーベラの花を一本だけレジに持ってくると恥ずかしそうに言ったのだ。
「家に花瓶がなくて」と。
 そしてレジ横に飾られた一輪挿しを見つめ、ああいうのはどこで買えるのかと聞いてきた。残念ながら、店の常連さんが趣味で作ってくれた一点ものなので紹介はしてあげられなかったが、かわりに、シンプルなデザインで、初めての人にもおすすめな花器を店の奥から出してきて見せてあげた。これなら一輪挿しでも、ちょっとしたブーケを投げ入れてもおしゃれに決まる……というのは、店長の受け売りだ。
 スミスは家に花瓶すらない奴が花屋にくるなんて、と思ったかもしれないが、ふと思い立って花を買いにくる人は少なくない。そういう人のために、ブレイブフラワーでは草花の手入れに必要な初歩的なアイテムを常に取り揃えている。
 花瓶がないのなら花ばさみもないだろうと、花瓶の高さに揃えてガーベラを切ってやるとスミスは〝このご恩は一生忘れません〟とばかりに大げさに喜んで帰っていった。
 そして翌日、ガーベラが一本だけでは寂しそうだったので、という理由で別の花も買いに来た。そのときはルルも一緒だった。花を選ぶ時の会話から察するに「ガーベラが寂しそうにしている」と言い出したのはルルだろうと思った。アレンジメントを買いに来ていた頃もときどき連れていた子で見覚えはあったが、「スミス、スミス」しか言わなかったので、こんなに快活でお喋り好きとは知らなかった。そしてもう一つ、知らなかったことを何の気なしの会話で打ち明けられた。
「俺はこの子の父親じゃないんですが」とスミスは、背中で眠るルルを優しく撫でながら言った。
「でも、家族のようなものになれたらいいな、とは思ってて」そうほほ笑んだ彼の青い眼差しが美しくて、胸を焼かれるほどに眩しくて、きっとあの瞬間、俺はスミスに惚れたのだ。
 しかし、あの頃はまだお互いのことを知らなさすぎた。俺は慎重になるあまり、彼の心にも自分の本心にすらそれ以上踏み込むことができず、受け流すように笑いかえすことしかできなかった。
 ダリアの隣にはスミスとルルの写真、ルルが幼稚園で作った粘土でできた恐竜(いや、犬?)も並んで飾られている。素敵な場所に飾ってもらっているじゃないか。そう心の中で語りかけ、俺はスミスのあとを追った。
「散らかっててごめん」とスミスは頬を掻く。
「そうか?」と言ってから俺はぐるりと頭を動かした。ラグの上には大量の折り紙や落書き帳や色鉛筆が転がり、テーブルには家電のリモコンとおもちゃが一緒くたに放置され、ソファにはスミスの大好きな機攻特警スパルガイザーのフィギュアが決めポーズをしたまま転がっている。部屋の隅には有名な通販サイトの名前のある段ボールと、プラモの箱が積み上げられている。テレビ横のマガジンラックにはルルの絵本とスミスの趣味の情報誌が折り重なるように突っ込まれ、明らかにキャパオーバーなはずのそれは、絶妙なバランスでもって一つのオブジェと化している。
 たしかにものは多い。だがそこに溢れているのは〝生活〟で、俺の目にはスミスとルルのあたたかい営みの痕跡がそこかしこに映っていた。
 以前、スミスの家に招かれてたこ焼きパーティーをしたときはもっとすっきりしていた記憶がある。
 あれはきっと、人を招くにあたっていろんな生活を見えない場所に押し込んだ姿だったのだろう。
 あくまでその記憶も、スミス家に立ち入った最初で最後の記憶でしかないのだが。
 この家に初めて訪れた時の記憶はもう数ヶ月ほど前まで遡り、しかもマンションのエントランスで玄関にすら入っていない。店を閉めたあと、忘れ物を届けに家まで出向いた俺にスミスは「せっかくなら少し飲んでいくか」と気遣ってくれたが、時間を理由に丁重に断ったのだ。いつもスーツ姿のスミスは〝トリコロール〟と書かれた真っ青なTシャツにハーフパンツというカジュアルな──むしろ無防備なくらい寛ぎモード全開で、風呂上がりなのか髪も少し濡れ、頬がわすがに赤らんでいた。
 帰り道、来るときは少しぬるいくらいだった夜風が、すっきりとした涼しさで頬を撫でた。そのくせ頭の中はぼんやりとして、うっかり最寄りのバス停を通り過ぎてしまった。慌てて引き返したが、不意に、このまま彼の家まで戻り「やっぱり一緒に飲もう」と誘い直せる勇気が欲しいと、よっぽど思ったほどだった。
 そのとき初めて自覚した。俺はスミスのことが好きなのだ、と。
 好きな人が困っている。だから何か力になってあげられないだろうか。そういう純粋な献身を身につけられたらよかったのに。身の丈に合わない友情と親切心で己を着飾って、俺はいま、ずるいことをしているのだ。
「ところでイサミ、君に休んでもらう部屋のことだけど」
 キッチンやバスルーム、ルルの部屋など勝手を説明してもらっている間「うん」とか「了解」とか、俺はぼんやりしたまま相槌を打っていた。
「俺の寝室使ってくれていいから」
「うん、ん?」
 ここでようやくハッとして、慌てて首を振った。
「いいよ。俺、寝袋持ってきてるしリビングのソファでも使わせてもらえば」
 数少ない趣味のソロキャンで培った、寝袋の中でならどこでも眠れる能力がまさかこんな形で活かされるとは。ルルの世話を任されるという名目でスミスの家に上がり込んだとはいえ、友人の、いや、密かな想い人のベッドでぐーすか眠れるほど図々しくはない。
「たしかにシーツは新品じゃないが、しっかり洗っておいたし」
「そういう意味じゃなくて。代わりにアンタがソファで寝るとか言い出すんだろ」
 それまでハキハキした口調だったスミスは途端にまごついて、それからうまい言い訳も思いつかないまま顎を引き攣らせた。
「スミスのベッド、おっきいよ」
 すると突然ルルが言い出して、不思議そうに首をかしげた。ルルの目を見て、次に何を言い出すのか悟った俺はそれを遮るべく無理やり声を上げた。
「俺、ここのソファが気に入っちまったんだ」
 だから声はひっくり返っていたし、鏡を見なくてもわかるくらいにはぎこちなく笑っていた。
 しかしルルはパッと顔を明るくすると「じゃあ、イサミはスパルガイザーとおねんねね!」とソファで転がっていたフィギュアを俺のズボンのポケットにねじ込んできた。


 家でのあれこれを済ませ、俺たちは少し早めに幼稚園に向かった。園での事務手続きが必要らしく、今朝はスミスも同行することになった。
 ルルはやっぱり朝からはりきっていて、抱っこを嫌がり自分で歩きたがるとスミスの手を握り、俺の方にも左手を伸ばした。俺は右手にルルのリュックを持っていたので、それを左手に持ち直し、少し屈みながらルルの手を取った。ルルは丸い顔にたっぷり笑みを広げて俺とスミスを交互に見ると歩き出した。
「ガピッガピッ」と声を弾ませぐんぐん進むルルの上で俺とスミスの視線が交差する。スミスの合図で俺たちは同時にルルの腕を引っ張り上げた。
 ルルはワッと驚いて、それから空中で足をぶらぶらさせながら「ひーと、びーっむ!」とスパルガイザーの必殺技を真似た。それ、ビームじゃないけど。
 幼稚園につくと、まるで待ってましたとばかりに保育士さんたちが門の前に立っていた。実際「ようこそ!」と一人は両腕を広げ、もう一人は胸の前で手を組み、ワクワクとした表情を見せた。職業柄、子供相手の仕草が染みついて大人にも自然と大げさな態度になりがちなのかもしれない。よく知らないが。
 手を組んだ先生がしゃがみこんで「ルルちゃん、今日はとってもワンダフルだね〜」とでれでれした顔をルルに向けている。皆、天真爛漫なルルのことが大好きで、いつもより早めに来てくれたことが嬉しいのだろう。
 門の前にいた先生がルルを連れていき、スミスと俺は職員室に通された。本来の登園時間より早い為、まだ子供たちの姿はなく園内は静かだった。だが、職員室に入ると保育士さんたちは一斉に顔を上げ、スミスを見るなり色めきだったのだ。
 まだまだ女性の多い職業だが、この園には男性の保育士さんも目立ち、俺達くらいの年齢の若手もいれば父親くらいの年齢の人もいて、しかし男女年齢問わず誰もがスミスを見ながら口元を緩ませている。だがあくまで控えめに、こちらをじろじろ見ることはない。それでも意識がデスクワークに向いていないのは肌身に感じた。わかる、こいつってカッコイイもんな。
「それじゃあ、イサミさんのお名前と緊急連絡先を」
 言われてボールペンを持ち、紙の上で一瞬手が止まった。どうして俺の名前を知っているのだろう。
 不思議に思いながら書類の項目を埋めていると、スミスが「あ」と声を上げ、わずかに腰を上げた。それからまた座り直すと誰かと話し始めた。流暢な英語を話す女性の声は年齢を感じさせたが、柔らかでいて快活でもあった。──スミスさん、あまりお仕事無理しないでね──ありがとうございます、園長先生──それより貴方、ねぇいつのまに? だってこの前まではなかなか切り出せないって言って──と、ここでスミスはいきなり立ち上がり、園長先生とともに職員室を出て行ってしまった。俺は彼らの背中をちらりと見やり、手続きを進めた。
 

 仕事を終え、ルルを迎えに行き(子供達に「お花屋さんだ!」と囲まれたときには、さすがに焦った。だからどうして知ってるんだ?)、スーパーに寄った。家を出る前に見た冷蔵庫の中はほとんどカラだったのだ。ルルに「何食べたい?」と聞くと「んー、ドーナツ」と返されたので、カレーの材料を買い物かごに入れた。夕飯前に甘いものは食べさせないでと釘を刺されている。
 夕食の準備をしている間、さてルルには何をさせようかと考えていると、ルルは自らテレビをつけて〝オジサマ〟を膝に抱え、録画されたアニメを見始めた。
 アイランドキッチンからはリビングスペースがしっかり見渡せて、料理をしながらルルの様子をうかがえるのはありがたかった。なにより開放的で調理スペースも広く、ここならもっと手の込んだ料理を試せそうな気がした。スミスが何時に帰ってくるかは分からないが、明日──いや、二日目のカレーを逃すわけにはいかないので明後日、さて、何を作ってやろう。
 30分アニメを見終えたルルがカウンターチェアによじ登り、〝オジサマ〟と一緒に料理風景を眺め始めた。玉ねぎを炒めているだけなのに物珍しそうに目を輝かせており、もし目の前で魚を三枚おろしにしたら「サイシューオーギだ」とか言うのだろうか。想像しただけでかわいくて仕方なかった。
「ガピ! イサミ、スマホなってる」
 言われてカウンターの上に置いてあったスマートフォンが点滅していることに気づく。スミスからの着信だった。
『初日から申し訳ない』とスミスは電話の向こうで深々と謝った。いま進行中のプロジェクトとは別で、緊急の仕事が差し込まれ、今日は家に戻れないのだと彼は言った。さらにまだ何かあるのか言いよどんでおり、ルルも一緒に聞いていることを確認するとようやく続けた。
 明日から大阪に向かう予定だったチームに欠員が出た。誰か助っ人に回れないか──。そんな通知が、つい先ほど社内のグループチャットに流れたそうだ。
 それでスミスは手をあげたのかもしれなかった。彼はそうとは言わなかったが、俺達に了解をもらえたらすぐにでも動きだしそうな意志を感じ取れた。
 仕事に集中しろと言ったのは俺だ。俺が家にいなければ、スミスはきっとその通知をスルーするに違いない。ルルのために。
 俺は「イサミがいてくれればルルは大丈夫だ」と信頼されていることを嬉しく思ったが、それを決めるのは俺でも、ましてやスミスでもなかった。
 ちらりと目線をあげると、〝オジサマ〟を抱きしめ、スマートフォンを覗き込むルルの姿があった。
 スミスもルルに向けて話しかけている。俺は口を閉じ、二人のやりとりを祈るような気持ちで聞いていた。
「スミス、いつ帰ってくる?」
『三日後になるかな』
「みっかご」おうむ返しするルルにスミスは帰ってくる曜日を伝えた。曜日であれば、幼稚園の授業やアニメの放送日などで検討がつくのだろう。ルルの〝オジサマ〟を抱いた腕にかすかに力が入った。
 だが、次にルルは明るく答えていた。
「スミス、お仕事がんばって。ルルがイサミと一緒におうち、まもるから」
 ね、とルルは俺に笑顔を見せた。俺の目には子供らしい無邪気な笑顔が映っていたが、果たしてスミスならばルルのわずかな変化を汲み取ってやれたのかもしれない。どうしようもない無力感にただ歯がゆくて、それでも俺は努めて平静を装い「まかせてくれ」としか言えなかった。
 それからルルと二人でカレーを食べ、ルルがひとりで風呂に入るのを扉の外から話しかけながら待ち、パジャマに着替えたルルの髪を乾かして、まだ眠気がこないルルの遊び相手をしていたらすっかり時間が過ぎていて、ルルを無理やりベッドに寝かせて、ようやく俺もシャワーを浴びた。
 寝袋をブランケット代わりに、ソファへ横になる。するとテーブルの上に置かれたスパルガイザーの碧色の瞳──バイザーと目が合った。朝の出来事を忘れていなかったのか、ルルが「これでイサミも寂しくない」と置いていったのだ。俺は気まずい気持ちでスパルガイザーのフィギュアを取り上げ、さすがに抱いて眠るわけにはいかないので枕元に置いた。
 電気を消そうとリモコンに手を伸ばしたとき、小さな足音に気づいて顔を上げた。ルルが〝オジサマ〟と一緒にリビングに顔を覗かせていた。
「イサミ、あのね」もじもじと〝オジサマ〟の手を動かすルルに俺は手招きする。それを見たルルは嬉しそうに駆け寄ってきて、俺の胸の上に寝転がった。もちろん、〝オジサマ〟も一緒に。
 だが、相手は子供といえども並んでソファで眠るにはさすがに狭過ぎる。この体勢から微動だにせず、ルルもまったく寝返りをうたないという保証はない。
 俺はルルを抱っこしたまま起き上がり、寝場所を変えることにした。
 結局こうなったか──もう一人の自分が頭の中で嘲ってくる。言い訳がましくスミスのベッドで眠る俺に向けて。腕の中でスヤスヤ眠るルルに聞かせないよう、静かに、嫌味を耳打ちしてくるのだ。
 俺は頭を振り、不貞腐れた子供のようにピローに顔を埋めた。そんままうっかり深呼吸しそうになり、すんでのところで息を止め、ピローをベッドの端に追い払った。ルルが小さくくしゃみをしたのでキルトをしっかりかけてやると、しぜん、俺の体もそれに包まれる。
 寝具のどれにもスミスのぬくもりはおろか、香りすら残っていない──はずだ。もちろん、彼の体温も、肌の匂いも、知るよしもないのだけれど。
 それなのに、その夜はスミスに抱きしめられている眩惑に浮かされながら、なかなか寝つくことができなかった。
 

 わずかな物音に聴覚が冴える。だが、緊張してばかりだった一日の疲労は体に重くのしかかり、指先ひとつ動かず、瞼を持ち上げる気力もない。
 ドアがひらく。近づく足音。ベッドがかすかに揺れる。寝顔を覗き込まれた気配があり、しかし不思議と嫌な感じはしなかった。そして、そっと頬を撫でる──これは、指の感触。そして、もっと柔らかで、冷たいような熱いような、どう形容するのが正しいのか分からない、知らない感触がそこに触れた。
 頭の中は靄がかかったようにすべてが判然としないまま──Sweet dreams──低く、やわらかな声にあやされる。誰だろう。体に、心に、自然と染み渡ってくる声だった。
 そこはかわたれ時、現実と夢のあわい。心地のいい夢の中へともう一度深くもぐり込もうとした、そのとき。
 スマートフォンのアラームが遠慮なしに現実へ引き戻す。俺は画面のロックを素早く解除し、アラームを止め、ルルを起こさないようベッドを抜け出した。


 それからスミスが戻るまでの間、とくに変わったこともなく、ルルもよくよく元気で穏やかな日々が続いた。
 三日後、ルルは玄関へ駆け出してスミスの胸に飛びついた。
「スミス、おかえり!」見事なタックルが決まり、スミスはその場に尻もちをつく。
 だが、負けじと両腕に力を込め、全身で包み込むようにルルを抱きしめた。
「ただいま、ルル! くらえっ三日分のハグだ!」
 わーきゃーと楽しそうな二人の声が重なり合う。くしゃくしゃの笑顔は瓜二つで、嬉しさが全身から溢れ出ている。
 この微笑ましい光景を、あともう少し堪能していたかった。
 しかし、パッと振り向いたルルは俺に目を当て、それから慌ててスミスに向き直った。
「ルル、もう大丈夫」
 さらに興奮気味の声でこう続けた。
「ねぇスミス、イサミにもぎゅってしてあげて!」
 弾かれたように顔を上げたスミスがパチパチと瞬きして俺を見やる。
「いや、俺は」おかまいなく。そう言えたらよかったのに、見事に喉がつっかえた。
 ルルの言葉に戸惑い、スミスの視線に期待した。
 そのとき、俺は初めて自分が寂しがっていたことに気づかされた。最初の日、あの通話で不安を抱いたのはルルではなく他でもない俺の方だったのだ。
 そしてもう一つ、気づいたことがある。
「ああ、そうだ、そうとも。うっかりしてた!よし、イサミも!」
 スミスはにこやかに笑い、ルルを抱っこしたまま立ち上がると右腕でガバッと俺の肩を抱いた。
「ただいま、イサミ!」
 いつもの調子、いつもの豪快さ。
「ルルもー!」とルルの細い腕が俺の首にしがみつく。だから、俺たち二人の友人らしい気安さが一気に縮まった。
 ぴったりくっつく上半身からは心臓の音がダイレクトに伝わる。その爆音のような高鳴りは遠慮なく俺の心をも揺さぶった。
 視界を埋め尽くすスミスの顔は真っ赤に染まり、汗をふき出した。彼の体温が急激に上昇し、その熱で俺の肌まで灼かれるようだった。
 ドギマギと揺れる青い瞳に躊躇いと歓喜が満ちる。まるで、少女の初恋みたいに無垢で、真っ直ぐで、鮮やかな瞳の色をしている。そこに映されているのは他の誰でもなく、俺だった。
 スミスの好意が、こんなにも分かりやすいものだったなんて。
 どうして気づけなかったのだろう。情けなくて、嬉しくて、今にも泣き出しそうになるのをこらえて俺は無理やり笑顔を作った。
「ああ、おかえり。スミス」
 いよいよ耐えきれなくなり、隠れるようにスミスの肩に顔を埋めた。でもやっぱりルルにはバレていて、よしよしと頭を撫でられながら、縋り付くように二人を強く強く抱きしめていた。


 スミスの家にきて、初めて三人で食卓を囲んだ。今夜はルルも手伝ってくれたのだと話すと、ルルはえっへんと鼻を鳴らし、スミスは大げさなくらい感動して喜んだ。
 さらにスミスは「今日は特別」とルルにウィンクしてみせて、ルルはお風呂上がりのアイスに大はしゃぎだ。スミスも今夜は仕事のことは綺麗さっぱり忘れて心ゆくまで息抜きするつもりらしく、機攻特警スパルガイザーの〝神回〟をテレビで流し、ルルと一緒になって大興奮だった。ほぼ初見の俺のために細かく説明しながら、その実、名シーンを語りたくて仕方がないスミス。目を炯々とさせ、鼻の穴を膨らませ、拳を握ってテレビの中のヒーローを夢中で応援する横顔がふたつ。せっかくいろいろと説明してくれたが二人の興奮した声とテレビの音声が混線して話の内容はほとんど入ってこなかった。それでもスミスと彼の膝の上に座ったルルの楽しそうな様子が俺を楽しませてくれた。
 やがてうとうとし始めたルルを寝かしつけたスミスは「Sweet dreams」とルルの額にキスを落とし、子供部屋のドアをそっと閉じる。
 リビングに戻り、ソファやローテーブルの上からスパルガイザーの映像ディスクの入ったケースやフィギュアの類を片付けて気持ちを切り替える。スミスに今日までのことをかいつまんで報告し、明日以降の打ち合わせのようなものをする。残り数日とはいえ、ルルのお世話係りとして最後までしっかり貢献するつもりだ。
 そういえば、と俺は登園バッグから小さなノートを取りだし、スミスに渡した。幼稚園でルルが描いてくる絵日記帳だ。
 三日分のページをスミスはじっくり眺めていて、ほどなく何度も同じページを行きつ戻りつし始める。スミスの横顔は相変わらず笑んでいて、しかし並みの笑みではなかった。でれでれの、腑抜けた顔だ。彼の手元をちらりと覗く。その指先が、保護者のサイン欄に書かれた〝碧 勇〟つまり、俺の名前を嬉しそうに撫でている。
 ほんと、分かりやすい奴
 いったいぜんたい、なにをどうして今まで気づけなかったのか甚だ疑問で、自分の鈍感さを恨みたくなる──いいや、仕方ないじゃないか。余裕がなくなるほど、俺はこいつに惚れているのだから。
 スミスは満足したのか日記帳を登園バッグに戻すと、ぐうっと伸びをして、そのまますっかり気の抜けた様子でソファにもたれかかった。
「イサミ、ルルのことも家のことも、君にお願いして本当に良かった。こんなにされると、もう君なしじゃいられないかもしれないな」
 スミスは相変わらずカラッとした態度で恥ずかしげもなくそんなことを言う。
 この男の〝スイッチ〟がわからない。俺はスミスを横目に眺め、「そりゃどうも」と気の無い返事をする。しかしスミスは「君は謙虚だ」と得意げに笑うだけだ。
「明日から、改めてよろしく頼むよ。ところで、他に何か聞いておきたいことはない?」
「んー、そうだな」俺は考えるふりをして視線を漂わせ、スミスを直視したままでは聞けないことを訊ねた。
「あんた、俺のこと好きなのか」
 数秒、いやもっと長い沈黙が続く。それからスミスは胃がひっくり返ったような、どこから出ているのか分からないようなぶっ飛んだ声を上げた。そしてソファの上で正座になり、俺に向かって深々頭を下げ懺悔し始めた。
 スミスは出張に行く日の朝、着替えを取りに一度帰ったきていたらしい。そのとき、俺とルルが自分の寝室で寝ていることに気づくと癒やしを求めて寝顔を覗き込み、ルルの頭にキスをして、つい出来心で(とは彼の言葉だ)俺にも触れ、そのまま頬にキスをしたらしかった。
 なんだ、あれって夢じゃなかったのか。
 なるほど彼は、自分の好意が最悪な形で俺にバレたと思い、それを悔いている。勘違いして勝手に口を滑らせたのはそっちだろうに。
 まるでこの世のあらゆる罪のすべてを引き受けたような、罪人みたいな顔で動けないでいるスミス。確かに、起きてようと寝てようと、気の置けない友人同士だろうと、非合意で体に触れるなど気色悪いことこの上ない。他の誰かだったならば、決して──。
「許さねぇ」俺の声が罪悪感を煽ったのか、スミスの肩がビクッと跳ねた。
 さらに下がっていくスミスの頭を「逃げんな」と両手で掴み、無理やり上向かせる。
「そういうのは、俺が起きてるときにやれ」
 ふたたび頓狂な声を上げかけたスミスの口を、俺の口で塞いでやる。
 ──って、でっけぇ口!
 威勢よく噛み付いたのにぜんぜん塞げなくて、スミスは狂ったように「嬉しいほんとか君も俺をそんなああもう大好きだイサミ」と口元で喋り続けて煩くて、歯もぶつかって痛いのに両頬を大きな手に挟まれて頭蓋骨がミシミシいい、もうそれどころじゃなかった。
 ファーストキスってもっとこう、唇の柔らかさに驚いたり、あてどない感じにたどたどしく触れ合ったり、それでもちゃんとロマンチックで胸がときめいて、ちょっと恥ずかしいけれど、離れがたい、そういうものだと思っていたのに。
 恋愛未経験、初恋一年生な俺の幻想は見事打ち崩されたわけだが、幸せな太陽のように眩しい笑顔を見せるスミスが現実ならば、こんなファーストキスも悪くない。




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