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さもゆ
2024-11-14 22:53:09
46261文字
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BF
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【A英】Oh,My God!
※59丁目の高級マンションでの事件。アニメ準拠。英二がモブ(狂信者)に襲われます。
※実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
※チャイナ・ミエヴィルの『クラーケン』という小説に出てくる「エクス=ファッキン=キューズ・ミー」という台詞をアッシュに言わせたかったんです。(クラーケンでは「くそったれなお言葉を返すようですが」と訳されていました)
※他にもクラーケンをそこはかとなくオマージュさせて頂いています。
2019.1.14
2019.1.22
2019.3.2
たまごのお粥pixiv投稿作品
1
2
3
ニューヨークを流れるハドソン川を、毎日かかさず眺めている女がいる。
マンハッタン区付近の、幅広の川。ビル群を背にし、女はいつも、息が凍るほどの寒さでも、水辺ぎりぎりで川を見ていた。
鳥でも船でもなく、ハドソン川だけを見ているのである。彼女を見た人間は彼女が物思いにふけっているか、ぼうっとしているか、ひょっとすると入水自殺でもしようとしているんじゃないかと良からぬ詮索をしかけるだろうが、本人にとってはどれも違った。
言わば、ミサである。神に感謝し、日々を清らかに生きようと決意する儀式。ゴミや塵やヘドロで底が汚れていようとも、ハドソン川は、彼女の、彼女だけの信ずる神であった。
女は今日も恍惚とした、しかし風のない水面のような面持ちで、ハドソン川を眺めている。
なんにでも名前というものがついている。
電子機器の部品一つにも、動物の骨一つにも、その辺りに落ちている屑にも元は名前がある。未だ学者に見つけられていない動植物でさえ、人に見つかった瞬間に呼び名がつくだろう。母親に捨てられた自分にもミドルネームまであるのだ。この世に人が呼べないものなどないような気がしてくる。
そしてこの情報社会、いかに存在を隠そうとも何かしらの痕跡くらい出てくるものだ。
信仰に関わる人間、オカルトマニア、仕事とは無関係の趣味として楽しんでいる大学教授、ネットの掲示板、物知りな老人、誰かの噂
――
ニューヨーク中の
宗教好き
・・・・
に探りを入れれば、本名も知らない相手から情報を得られることができる。アッシュは、その虚構と妄想と茶々と多少の狂気が入り乱れたものから、確かなものを取捨選択していた。
やがて浮き上がってきたのが、何ものにも縛られず自分だけの信仰を持つ者が、このニューヨークに他にもいるということだった。
ストーカーでもマインドコントロールでも自己暗示でもない、自分が覚えた違和感の通り、あれは紛れもなく信者だったのだ。ただのストーカーだったらどんなに良かっただろう。あの男は、アッシュも信じる唯一無二の人を傷つけた。それだけで充分だった。
収集した情報の中からよく上ったのが、とある女性の名前である。川の女。それがあだ名らしい。
アッシュは川の女がよくいるという場所へ向かった。
――
ハドソン川。かなりの部分が渡航可能なその川は、なんてことはない、ただの流れる水の集まりだ。もう随分昔に感じられるが、それでも約一年しか経っていない過去の、命からがら川に飛び込んだ記憶が蘇ってきた。マックスと、伊部と、英二と、ショーター。ああ、あの時の川の味は最悪だった。
ショーター。
彼は、悪魔だ人でなしだの評される自分を、用途はどうあれ初めて天に遣わす天使に似ているとトチ狂ったことを、なんのてらいもなく言ってきた人間だった。親友だった。彼が、今の自分を見たらどう思うだろう。知っているのだ。あいつはただ単純にお節介な、いい奴だから、「天使のお前が守ろうとしてる英二はきっと聖母なんだろう」なんて、快活な笑みを浮かべるに違いないと。なあ、本当に、そう思うか? 俺はお前を殺した。それでもまだ天使だと? そんなわけはない。そんなわけはないのだ。では、英二を守りたい、傍にいたい、いてほしいと思う自分は、一体なんだ?
冷たい風が肌を嬲る。
アッシュは取り留めのない思考から、目に映る景色へと意識を戻した。
川辺に、ブラウンの髪を靡かせる女が立っていた。
――
川の女。
「Hi」
声をかけると、女は振り返る。ブラウンの長い髪に、明るい瞳、中肉中背の、おばさん。自分に声をかけた金髪緑目の若い男が、果たして知り合いだったろうかと訝し気に「ああ、こんにちは」挨拶される。その辺にどこにでもいる人間のようだった。
「不躾で悪いね。あなたは神様を信じている?」
クリスに近い表情と丁寧さで訊けば、女は困惑して眉を顰め言い淀んだ。
「あー、ごめんなさい。私クリスチャンじゃないのよ」
「そうだろうね」
アッシュは女の隣に並び、風でさざめくハドソン川を見つめた。それから、居心地悪そうにしている女に視線をやる。
「あなたの神様、いつも濁ってるけど大丈夫なの?」
女は目を見開いた。
「あなたもなの?」打って変わり、機嫌の良さそうな声は上擦っていた。「あなたも、そうなのね?」同志を見つけたとばかりに顔を綻ばせている。アッシュは首を振った。
「ハマりたてなんだ。自分の神を信じていいってことしか知らない。色々教えて欲しいことがあるんだけど」
男については容易に知りたいことを知れた。男がそういう宗教に入信しているのも事実だった。けれど、いくら調べても明確には出てこないものがあった。
宗教名、創始者、戒律、確かなものは何も出てこなかったのだ。
「あんたたちはどういう集まりなんだ? 名前は?」
目を瞬かせたあと、女は年下の子供に言い聞かせるように(実際年下だが、物の分からない幼子を相手にするような目で見られるのは心外だった)、笑みを作った。
「名前が重要なの?」
「なんだって?」
「大した問題じゃないのよ、ネーミングなんて」
「
……
Unnamed faith
名もなき信仰
が、あんたたちに一番使われてた名前だった。でも正式じゃない」
「そうね。だって名前なんてつけられない。人の数だけ神がいるんだもの」
「でも宗教なんだろう。大勢の人間が、『自分だけの神を愛する』宗教。ばらばらに存在していても集団だ」
「ええ、ええもちろん」
女は何度も頷く。
「それに、決められた信仰から逃げ出してきた人だけが見つけられる、人の口にしか上らない宗教ね」
水底のような目を向けられた。
「名前があることで、返って苦しくなることがあるわ。覚えがない?」
覚えがないかだって?
アッシュはその一瞬、自慢の(別に自慢したいわけではないが専門家曰くIQ200超えらしいので分かりやすく説明するとそういう言い方にしかならない)頭の回転が止まり、ふつりと憤りのようなものを感じた。
今まで自分は散々な呼び方をされてきた。男娼、悪魔、その二つは最も多く呼ばれてきたが、他にも蔑称ならたくさんあった。それでも自分はアッシュ・リンクスとしてギャングになり、その名でボスの立場になったのだ。これは復讐の名だ。それが、苦しくなることはないかって?
「ないよ」
いつもさ。口で言った言葉と内心吐き捨てた言葉はどちらも本心だった。しかしそこに疑いを持ってしまったら、自分は、なんのために。一体なんのためにマフィアの犬になり、廃人になった兄を守ろうとして挙句死なせ、劇薬を追うのか、全てが崩れてしまう。アッシュ・リンクス。灰色の山猫。これだけは揺るがせてはならない。
だが、英二は。
あいつは、ファーストネームのアスランを夜明けだと、この忌々しい瞳が綺麗な翡翠色だからミドルネームをジェイドにしたのだと、言ったのだ。夜明けに生まれた自分の幸せを願ったものだと。それは、きっと、嘘だ。母親がそんなことを思ったはずがない。それでもいいと思った。
英二がそう言うなら、アスランもジェイドもカーレンリースも捨てたものではないと思った。でもそれは許されない。兄があのまろい声で呼んでくれたただのアスランには、もう戻れない。
ああ、そうさ、苦しいよ。
名前なんてなければ良かったなどと、思ったって、仕方ないじゃないか。
「私は、あるわ」
女が瞳に水面の輝きを宿し、口の端に笑みを浮かべた。
「昔っから、そうなの。いつも何かしらの名称をつけたがって
……
ひどく、疲れていたわ。信仰とは、全然関係ない話よ。だって、そうでしょう? たとえば、
……
いえ、そうね、名前があることで救われる人も、たくさんいるわね。病名とか」
「ああ」
「でもやっぱり、苦しくなる人たちがいる。神様に対しても、そう。何かを信じていたいのに周りがそうさせてくれない。縛られたくない。自由に、なにかを、愛していたい」
一羽の鳥が川の遠くから羽搏いていった。
「私たちは、そうしてできたの。何を愛してもいい、何を信じてもいい。それはあなたの、あなただけのものよ。名前なんて自分にしかつけられない、もしかしたら、自分でさえつけられないかも」
女が口を閉ざした。
彼女についての情報はこうだ。
川の女。いつもハドソン川を見つめ、大抵の人間には、彼女が毎日神に会いに行っているとは思われない、どこにでもいる人間。
アッシュが調べれば本名も知れた。家族構成も、ちょっとした過去も。彼女は無性愛者、らしい。らしいというのは、自分が今まで完璧なる無性愛の人間に会ったことがないので疑っているのと、悔しいが、彼女の言う通り、他人に対して性欲を抱かないのを無性愛者と呼ぶのならそうかもしれないという、人間の曖昧な性区別のせいだ。なるほど、なんにでも名前をつけたがる、ね。彼女にとっては普通のことを、さも珍しいかのように
『無性愛者』
asexual
と性別をつけられるのは、疲れたりするかもしれない。しかし世の中はそういうことばかりだろう。
だから自由な信仰を、というわけだ。突飛だ。人間の思考はいつだって飛躍できる。
「その自分だけの神様を、他のやつが信じてた場合は?」
アッシュは本題を切り出した。悪いが哲学や倫理学的な問答をするつもりはない。
女は穏やかに首を傾げた。
「あら、いいじゃない。その人にとっても、神だったのね」
「
……
あんた独占欲とかないのか」
「ふふ、ハドソン川はみんなのものだし、それに私は
――
」言いかけていた唇を止め、アッシュを見ていた目を見開くと、神妙に訊いてくる。「独占したいの?」とても勘の宜しいことで。「俺が信じてんのは、生きた人間だ。そいつをあとから自分だけの神だのなんだの言われりゃ、そりゃ独占したくもなる」
「oh」女が嘆いた。「
my Hudson
マイ ハドソン
」
――
ああ、なんていうことでしょう。「生きている人を崇めるのは、大変なことよ」
大変どころか完全にイカレた案件だ。
「私たちは平和を好むわ。逃げてきたんだもの。でも
……
」
「向こうが先に奪い取ろうとしてきたら?」
「戦争ね」
平和を好んでるんじゃなかったのか。「けど、」アッシュは根気強く続きを待つ。「けど?」
「あなたの神が、信徒は一人で充分だって示せば、従うしかないわ。私たちにも暗黙のルールというものがある。神の言うことは絶対よ」
女はちらりと川に目をやった。「物言う神様の場合に限るけど」
それは望めない。大体英二はこの件に関わるのを嫌がっているし、神様だとも思っていないし、まかり間違って協力してくれたとしてもどうやって示すというのだ。
アッシュはがりがりと頭をかき、出かかった溜め息を飲み込む。
「他には?」
「その人は、何か行動を起こした?」
「犯罪レベルにね」
「なら、やることは一つね」
女が大きく頷いた。
「力尽くよ。あなただけのものであることを、納得させる、これしかないわ」
「結局そうなんのか
……
」
「同害報復の原理ね」
「それハンムラビ法典だろ」
しかもその復讐法は結局身分差あってこその不平等な平等さだ。ああ、だが、この言葉は覚えておいた方がいいかもしれない。過剰な暴力は英二のためにならない。「それで、俺は、今から神敵を叩き潰そうとしてるんだけど」「ええ」「これはあんたらのタブーにはならない?」確認しておくべきことだった。アメリカ中にこういう人間がいるのだ。劇薬事情で敵が多い自分にカルト集団まで混じっては堪ったものではないしそうなったら笑うしかない。
「なるほど、それで私に話しにきたの」
「あんたが一番、ここでの古株らしいっていう噂を頼りにね」
「古株? 違うわ、大元の思想を受け継いで、寛容なだけよ」
大元ということは、やはり創始者もいるのだろう。今はどうでもいいことだが。
「で、その寛容さは」
「発揮してあげる。あなたがあなたの神様のために何かを起こしても、私たちは騒がないし、表の人間も気づかないわね」
彼女についての根も葉もない情報がもう一つ。
川の女は『
Unnamed faith
名もなき信仰
』の管理者の一人である。
全くおかしな話だが、自由な集団にも秩序というものを監視し守る人間がいる。その人間の一人に、たった今好きに暴れていいと言われた。無関係の人間への配慮までしてくれるとは、なんと寛容なことだろうか。
「助かるよ」
アッシュでさえ手が出しづらい、中国人ギャングたちのあの独自の規律と血の繋がりを重んじている集団と、五分五分の面倒くささを感じた。何をするにも準備というものは必要なのだ。有り難い。これであいつの信仰を腕尽くで曲げれる。
「形としては、入信したってことになるんだろ。すぐに破門されるだろうけど」
アッシュがニヤリと笑うと、女は大袈裟に肩を竦めて見せた。
「あなたが信じている限り、あなたの神様はずっと神様よ」
それはまた怒られそうなことだ。尚更すぐ破門される。
「良い宗教ライフを」
女がにっこり笑って言った。
今度はアッシュが肩を竦め、「最後に」昔の記憶を呼び起こした。
「俺に、あんたらの宗教論を説いてきた男がいる。顔も覚えてない」
「どこにもいなさそうで、どこにでもいそうな信者が、私たちだもの」
「その男は、最終的に神様はくそったれなもんだって言ってた。どういう意味?」
問いに、女は驚きも悲しみもせず、微笑を浮かべて瞬きする。
「その人は、そう思っても、信じていたのね」
答えると、あとはもう、彼女の神であるハドソン川を眺めるだけだった。
ニューヨークの住宅街にあるそれなりにいい値段のするそれなりの金持ちたちが住まうアパートメントに、オリバーは一人で生活していた。
実家の教会から逃げ出し、それなりの会社に勤め、それなりの(しつこく繰り返すのは本当にその表現がぴったりの、決して狂信者などには見えない男だからだ)人間関係を築いた職場から、そして今日は夕刻に帰ってくる。
スーツのネクタイを緩めながら、茶髪で薄い青目の真面目そうな男がエントランスを抜け、エレベーターに乗り込んでいた。
アッシュは軽い足取りであとに続き、エレベーターの扉が閉まる寸前に靴先を捻じ込む。可哀相に動揺した扉が開かれ、中の男が申し訳なさそうな顔から一変、こちらの姿を確認し瞠目した。
「やあ」
アッシュは笑いかけ、中に乗り込んだ。「お前、」オリバーがアッシュの後ろで閉じようとしている扉を開かせようと、ボタンに手を伸ばす。その手を掴んだ。「話がしたいんだ」「話?」「そう。互いの神についてのね」腕を振り払われる。ひび割れた硝子のような目が不快な怒りを湛えて睨みつけてきた。
「あの子はお前の神じゃない」
扉が閉まった。機動音とともに上昇していく。
「話し合おうぜ」
壁にもたれかかって言った。
「間接キスした仲じゃないか」
「何言って
……
」
顔色を変え、血が滲んできそうなほど歯を食いしばられた。お前とは違って、俺は許されてあの首に触れたよと言ったら絞めにかかってきそうな剣幕だった。だが動こうとしないのは理性的だ。いっそ掴みかかってきたら撃ち殺せるのに。
よもや殺人鬼の自分が交渉で解決しようだなんて。
けれど自分は知っている。この世の争いは、口が利ける人間が意思の齟齬や伝達能力の不足、感情や私欲あるコミュニケーションによって起こることを。そうして起こった物事は、全てが言葉で丸く治まるわけではないのだ。だから、殺すなら、最後の最後じゃないと。
殺しちゃ駄目だと言われている。分かってるさ。でもこいつが、英二を自分だけのものだと思っていると、どうしようもなく腸が煮えくり返る。
エレベーターが停まり、扉が開いた。
腕尽くで、穏便に、こいつを背教させてやる。
妹はどういう思いで良縁のお守りを渡してきたのだろう。
異国で良い縁に巡り会えますように、と九割以上からかいの念をこめているのだろうが、実際兄はこうして一生かかっても縁遠かった大切な人と暮らすようになっている。
こういう時に、人は言うのだろう。
ああ、このお守りって効果があるのね。神様ありがとう。
もし、本当に、八百万おわすうちの一柱でもその公明正大なお力を振るって英二とアッシュを出会わせてくれたのが神様だとしたら、それが、なんだかよく分からない運命などと言葉で片づけられる事象を起こしてくれたのだとしたら、やっぱり、どう足掻いたって神様というやつは──。
ふと気づいた。
アッシュ、
……
きみが正しいんだ、きみが正しいんだよ。
僕が神様だって? ああそうか、なるほど、そういうことか。そういうことなんだ。
英二は自得した。
納得のいく答えを自分で用意し、ぼうっと悲観に暮れるのをやめ、そうして本来の無鉄砲さを取り戻した。
アッシュが出て行って数時間後のことである。こうしちゃいられないと行動に移した。
まずなんとしてでもアッシュに追いつかなければと玄関に飛び出したが、いつの間にか部屋で英二を見守っていたリンクス三人組のうち二人、アレックスとコングに引き留められソファに座らされた。
「は、離して。行かなきゃいけないんだ、見逃してくれ」
「えーじエイジ英二、落ち着け、落ち着け。な?」「ボーンズ」
「そうだぜ英二。茶でも飲もう」「コング」
「アッシュならすぐ帰ってくるって」「アレックス」
三人に宥められ英二はうんと頷いた。
「お茶
……
飲みたいかも」
淹れてきてやる、とアレックスがキッチンに向かう。
英二はソファに沈み込んだ。ボーンズとコングがほっとして傍らに座ろうとしたところで、英二はスプリングのように跳ね上がり脱獄囚さながらに駆けだした。「アレックスぅう!」ボーンズがキッチンに到達した彼の名前を叫び、コングが重力に従ってソファに腰を下ろし、これはもうこちらの勝利に違いないとほくそ笑みかけたが、キッチンからの怒声で急ブレーキをかけざるを得なかった。
「アッシュがどこ行ったか知らねえだろお前は!?」
急停止したところがちょうど廊下へ続く敷居で、「あっ」そうだ知らない。英二は敷居に足先をぶつけすっ転んだ。この国では小柄な部類に入るとはいえ成人男子が盛大に転倒した音は大きく、防音でなければ階下や隣に聞こえていたかもしれなかった。「ぐぬお」足を押さえて体を丸める。痛い。情けない。棒高跳びで怪我したあの時だってこんなに泣きそうにならなかった気がする。
「ばっかお前!」
「ボーンズ。コング。アレックス」
駆け寄ってきた三人の名前を丁寧に呼ぶ。
自分の向こう見ずな悔しさやら情けなさやら痛みやらで滲んできた涙を瞬き押さえ、アッシュの忠実な、しかし英二のことをよく考えてくれている友人たちを見上げた。
「アッシュ、どこに行ったの?」
三人は顔を見合わせる。
アレックスが眉を下げて言った。
「知ってるけど、教えられねえ」
瞬間、英二は三度目の脱獄を図った。
「待て待て待て待てとにかく外に出ようとするのをやめろ」「そうだぜ英二やみくもに出たってどうもなんねえよ」「ここで待ってればいいじゃねえか、な?」這いつくばって進もうとするが三人がかりで抑え込まれる。英二は英語をかなぐり捨てて日本語で喚いた。
「うるせー! 僕は神様なんだぞ!」
「落ち着いたか?」
ゆらゆら湯気の立つマグカップを目の前に置かれる。
鼻に入ってくるコーヒーのにおいを、コーヒーだなあと頭の悪いように思いながら、テーブルに突っ伏した体勢で頷いた。
逃走劇を繰り広げること六回。そろそろ疲れてきて停戦状態に入っていた。三対一なんて卑怯すぎる。
「ありがとう
……
」
マグカップを両手で包む。汗ばむほど悪戦苦闘していたため、今回はもとから暖が取れまくっていた。手持無沙汰にカップを弄り、前に座ったアレックスをちらりと窺う。右にはコング、左にはボーンズ。完全に囲まれていた。
「きみたちはさ」
唇を尖らしマグカップだけに視線を注ぐ。
「調べてたわけだ、色々。アッシュに言われて」
「まあな」
「一介の日本人男子を妄信する、バナナフィッシュとは関係ないふざけた男のことを」
「お前とアッシュに関係があるからな」
「関係ないよ」
僕は関係ないように過ごしたって構わなかったんだ。
「アッシュは勘違いしてるんだよ」
「何を?」
「神様を、何か、素晴らしいもののように勘違いしてる。僕もしてた」
「
……
素晴らしくないのか?」
「素晴らしくないよ」
少なくとも、英二を神様として見立てた場合は。
自分はそれを伝えに行きたい。答えを持っているんだ。アッシュが英二を神だと評すなら、英二はアッシュを信徒と評してやろう。英二の辿り着いた考えを知った上でならば、いくらでも信仰してくれて構わない。鰯の頭も信心から。本来どれほどつまらないものか教えてやらねばならないのだ。
「頼む」
英二は身を起こした。
「アッシュの居場所を教えてくれないか。このちっぽけな宗教戦争に終止符を打てるのは、僕しかいないんだ」
オリバーの言い分はこうである。
奥村英二という日本人を見かけたのはたまたまで、色んな人間ひしめくこの街でたまたま偶然、だからこそ一目見て天啓を受けたと。
黒髪を陽光に晒し、大きな瞳を穏やかに細め、柔らかな声で笑う姿。
全世界に祝福された人だと思った。
理屈や道理じゃなく、己の奥底で眠っていた信仰心を呼び覚まし、抵抗なく信じさせてくれる存在。そんな人間は他にいない。
傍にいたい。
その眼差しを自分に向けて、両手を差し伸べ、聖なるあなたのもと敬虔なる信徒にしてほしい。そうしたら、そうなったならば、どれほど幸福で平和で満たされることだろう。
なのに、ああ、きみときたら。お前ときたら。どうして彼はお前なんかを傍に置いているんだ? 隣を歩き、視線を合わせ、触れ合い、笑い合っている? おかしいじゃないか。あの子は俺の神様なんだ。俺だけの尊い人なんだ。きっと分かってくれているはずだ。これから分かるはずなんだ。俺が唯一の信徒だって。俺だけを愛すべき者だって。なのに、なのに、なのに。
お前はどうして神様の傍にいるんだ?
どうして神様は、お前なんかを選んでいる?
「どうして、ね」
そんなの俺が知りたいくらいだ。
ヘドロのように暗鬱とした粘着く言い分を聞き終え、アッシュは煮える腸とは反対に冷えた頭で考える。
とどのつまりオリバー・クラークは宗教的要素がなければストーカーと同じ。対象に付き纏い願望を無理やり遂げる理由枠に、信仰を当てはめているだけの、頭のおかしな男なのだ。吐き気がする。
男の部屋は至って普通だというのに、向かい合って座りお互いを取り巻くこの異様な空気がむかむかさせる。アッシュは溜め息を音もなく吐き、本当は眉間を撃って生命活動を止めてやりたかったが、一つずつ解していこうと口を開いた。
「あんたは奥村英二を神様として見てる。神様として愛してる。そうだな?」
「ああ」
殺したい。
「けどあんた、英二を襲っただろう。あれはなんだ? あんたは神とファックしたいのか?」
「神的交渉と言ってくれ。しかし、ああ、そうだね。繋がりたいと思ってる」
殺してやりたい。
「神と?」
「別段おかしなことじゃない。イエスにだって愛した女性がいる」
「イエスは神じゃないしマグダラのマリアなら不明瞭すぎる」
「きみは博識だね」
オリバーは時折狂信的な言動を覗かせるが、今は平常に見えた。一人の日本人を崇め住居に不法侵入した男とその日本人と一緒に住み侵入され蹴り飛ばした男の神を巡る話し合い。何一つとしてまともではないのだが。
「きみもそうじゃないのか?」
「何?」
「きみも彼を神様だと思ってる。だから俺のとこに来た。譲りたくないから。きみも、彼を、愛してるんじゃないのか?」
あんたと一緒にするなよ。
愛なもんか。あんたのそのイカレた性的欲求を、愛などと呼んで堪るか。
アッシュはカッと冷えた頭に血が昇るのを感じた。頬の内側を噛み、爪が食い込むほど拳を握り、こういう時真っ先に身体を支配し自分を突き動かさせる激情に耐えた。これがクリスマスカードの天使様を色っぽいと思う子供心だったら、どんなに良かったか。
今回の神は英二で、信徒は自分で、その間に性的なものなど一切ない。見返りも欲求もこの世の醜いもの全て世界の外にある英二が、だから清くて眩しくて何より尊いのに。そんな英二に、アッシュが欲情するなど、ありえない。ありえては、ならない。
そう、だろうか。
本当に、そうだったろうか。
心の僅かな隙間を縫ってやってきた疑心は、瞬く間に広がる。
アッシュは、できることなら、誰もしくは何に請うているか自分でも理解していないが、赦されるなら、英二と一緒にいたいと思っている。傍にいてくれと。そうして彼は彼の意思で自分の傍にいてくれている。それは、いつまでだ?
ずっとなんてものはない。仮に先の見えない、あったとしてもすぐに踏み外し外される未来永劫に続く永遠の道を、彼とともに歩めたとして。
自分は、何かもっと、望んでしまいはしないか?
ゾッとした。今まで考えたことがない領域だった。誰からも純粋無垢な愛を向けられず孤独に、いつかきっと自分が殺した誰かのように命を落とすしそれを受け入れるだろうと諦念し、けれどそれまでは意地汚く英二のために生き残ってみせると考えている自分が、それ以上のことを望むのか? 傍にいてほしいだけじゃ、いられなくなってしまうのではないか。たとえば、最低最悪な、体の、繋がり。首筋にキスをしたのは、その表れなんじゃないのか。
腰に引っ提げていた銃が重々しく感じた。
娼婦で殺人鬼で悪魔。そんなアッシュを一人の人間として接してくれるだけで、満たされているはずなのに。
自分たちの関係は、神と信徒なのか。分からなくなってきた。もっと何か別の、名前があるんじゃないだろうか。
名前がつけられない。ないのだ。恐らく、完全に当てはまる名称が。一番近かったのが、信仰なだけで。
「
……
愛してるよ」
この言葉を使うのをどうか許してほしい。
「けど、あんたのとは、違う」
アッシュはいつかの未来の領域について知らぬフリをした。先のことを考えてはならないと、ある種防衛本能のようなものが働いていた。
今は、今だ。英二に害成す者を打ち負かすのが先決。英二を守るのは自分だ。
「俺はただ、あいつに傍にいてほしい。あんたみたいな歪んだ欲望も持っちゃいない。そして大事なのが、あいつ自身が望んで俺の傍にいるってことだ」
でなければ日本に帰っている。
オリバーは顔を顰めた。約一回り年上の男が、まるで分別のつく立派な大人のように首を傾げた。
「彼はそれで、幸せなのか?」
反応が遅れる。
「こんな情報社会だ。神様の周囲に気を配るのは当然だろ。きみのような人間が傍にいて、彼が幸せになれると、本気で思ってるのか?」
「あんたなら幸せにできるって?」
「きみよりマシな経歴してるだろ?」
そりゃあな。
一級犯罪者の自分と比べたら、誰だってそうさ。
「英二の幸せね
……
」
散々考えて、未だに明確な答えがでない問題。
アッシュは少し笑い出してしまいそうだった。自分たちは明確なものを持っていなさすぎる。名前があることで苦しむこともあれば、ないことでこんなに不安定に、当人にとっては穏やかになれたりもするのだ。
「あいつの幸せは、なんなんだろうな」
アッシュは、自分のために腐った配管で有刺鉄線の上を飛び越えた英二の姿を思い浮かべた。
あいつは、俺と違って、自由に飛べるのにな。
俺と一緒に、地べたで足を揃えようとしてくれている。
「俺は、あいつには、幸せでいてほしいと思ってる。幸せになるべき、なれる人間だと。だって、そうだろ? あんたもあいつが神々しく見えてんだろ」
「もちろんさ」
「俺はたぶん、英二を幸せにはできないよ」
血に濡れた両手でできることは、彼が自分に与えてくれる温かなものとは、かけ離れている。
英二の幸せを考え願い、アッシュのもとから去るよう何度言ったことだろう。
「でも俺は知ってる」
本当にこれでいいのかと、何度も何度も思いはするけれど。
「なんだかよく分かんないけどな、英二は、俺の傍にいないと駄目なんだ。俺があいつの傍にいることが、あいつを心底安心させてる。おかしな、ことだけど」
自惚れだとか思い違いだとか自己中心的だとか。
こんなことを言っても英二のためなら簡単に生にしがみつくのを放れるとか。
じゃあやっぱり、ずっとだなんて未来のことを考えるのは無駄なことなのだとか。
色々あったが、どうしようもない事実らしかった。
「神みたいだよな、益々」
無償の愛と平穏と幸福をもたらしてくれる唯一無二の。
だから、エゴでもいい。俺だけのだと言わせてくれ。
「英二はあんたの神様じゃないよ。あんたじゃ無理なんだ。諦めてくれないか」
オリバーが歯を食いしばる。人間が急激に激昂する様を嫌というほど見てきたアッシュは次に来る行動を予測し、腰に手を伸ばした。言いたいことは言った。アッシュと英二、お互いが他所に気を向けることはないことも伝えた。これで諦めないのなら、もう撃ってしまおう──。
ジリリリリリリ。
殺気のこもった部屋の空気を、不躾に震わすチャイムが鳴り響いた。
「
…………
」
一度目のあと、数秒と置かずにまた鳴り響く。
二人が動きを止めている間、主張激しく何度も響き渡る。「
……
鳴ってるけど」アッシュが停戦の意思を示そうと部屋の扉を指差せば、オリバーは忌々し気にチッと舌打ち出て行った。殺し損なってしまったが、しかしどこか安堵していた。そうだ。殺しちゃいけない。戻ってきたら、奴が頷くまで舌戦に徹しよう。英二のためだ。
ふうと息を吐いていると、何やら玄関の方が騒がしく、足音高らかに廊下を駆けてくる音がした。
アッシュがどんな珍客だと身構えた瞬間、扉がバンと開かれる。
「
……
お邪魔します」
そこには、息せき切った、アッシュとオリバーの信仰対象である、英二がいた。
英二は突き指する勢いでチャイムを押しまくった。
やがて出てきた男があのトチ狂った男で、扉を開ける時には不機嫌だった顔が恍惚で歪んだのを恐ろしく思いながらも、何か言っている男を押しのけ部屋に入った。ずかずか廊下を進み、隙間のある扉を半ば蹴破る。
「
……
お邪魔します」
日本で言う居間にあたる部屋のソファに、アッシュは座っていた。驚愕し、目も口もあんぐり開けて、信じられないものでも見るような態度を英二に向けている。だがさすがの反応速度で、呆然から抜け出した彼は立ち上がり、足を踏み出した。
「英二、おま、なんで」
後ろから足音が迫った。「俺に会いに来てくれたんだね」アッシュがハッとして英二に手を伸ばし、英二が部屋の真ん中に突き入り、男が入口に到着するのは同時で、そうして英二が大声で言う。
「よく聞けよお前ら!」
ぴたっと二人の動きが止まった。
「僕は神様だ、神様の言うことは絶対、反論は認められない!」
ぐるりと男を振り返る。「そうですね!?」忠義深く頷かれた。
すうう、はああ、深呼吸する。今から非常に重大なお告げを、この喉から発する。奴らの世界を崩壊させる一言だ。これが答えだ。
英二はおもむろに両手を二人それぞれに突き出し、甲が見えるように構え拳を作り
――
バネのように中指だけを跳ね上げさせた。
「
……
神様ってやつはな、くそったれなもんなんだよ!!」
叫んだ。
絶叫だった。
この時ばかりは自分が世界の中心であるように胸を張り、活力を漲らせ、訛りが強かろうが下手くそだろうが彼らの言語で託宣した。
「神様は、くそなんだ! きみらは何か勘違いしてる。神様を何か素晴らしいものとして考えてるんだ。弱くて脆くて血反吐を撒き散らしながら必死で生きる人間を、絶大なお力で救いあげて、そのくせみんなを平等に愛し、いつでも傍にあらせられて、あたたかく慈愛に満ちてお優しい、そんな素晴らしい存在だとね!」
深々と溜め息を吐いてやる。やれやれと肩を竦めた。
「そんなわけあるか、ばーか!」
アッシュとオリバーが展開についていけず呆気に取られているのをヘッと鼻で笑ってから、英二は腕組み仁王立つ。よく見ろ。よく考えろ。これがお前らの信じてる神なんだぜ。
「僕の、知ってる、神は。神様は、何もしてくれない。何も助けてくれない。ただ見てるだけだ、ただ見守ってるだけだ、僕のしてほしいことなんかこれっぽっちも叶えてくれない。でも人は弱いから、何かがあった時にはなんでもいいから縋ってしまう。縋りたくなるんだ、そういう時のためにあるんだ、神様って名前は」
英二はアッシュを救いあげてやることができない。
一人孤独に立つ場所から、攫ってやることもできない。
ただ、そこで、傍にいて、見守ることしか。
くそみたいだ。
もし、神様が、英二とアッシュを出会わせてくれたのだとしたら、それこそくそったれだ。もっと物理的に彼を守る術を発揮してほしい。アッシュが何かあった時に呼ぶ名前が英二で、それで彼が真実安らぎを得ることができても、自分には血塗れた生死の関わる戦いから彼を守ることができない。力がない。神様はなんてお辛いんだろう。本当は何もできないのに。
「そして僕は、そのくそみたいな神様以上の、もっとひどい底辺中の底辺、最上級のくそったれ、ただの、日本人の男、奥村英二! 奥村英二だ!」
ダンッ、と地団駄を踏んだ。
「神様は素晴らしくなくて、僕も素晴らしくない。分かった? 分かるだろ? 分からないんだったらもっと証拠を見せてやらあ!」
英二はつかつか歩み寄りソファを飛び越え、剣幕に後退ったアッシュの胸倉を掴み「は、」引き寄せその白く滑らかな頬にぶちゅりと唇を押しつけた。勢いが余り過ぎて頬骨に鼻が激突したしアッシュの綺麗な頬は潰れたしそれはキスというより衝突事故に近かった。
体を離す。距離を取る。しかしアッシュの袖を指が白むほど強く掴みながら、キッとオリバーを睨みつけた。
「この人は、僕のだ! 今までの僕の言動を吟味しそれでも、その上で、まだ僕のことを唯一無二の神様だなんて抜かしやがるんなら、あんたみたいな信徒はお断りだい! アッシュ・リンクス、奥村英二をくそったれな神様だと信じていいのは、このアッシュ・リンクスだけだ! そして!」
バッと掴んでいた袖を投げ放した。
「こんなことをしてもまだ僕を神様だなんて宣うんなら、アッシュ、僕はもうきみを信徒として受け入れるよ! 今まで通りきみを愛し、支え、いつまでも傍にいてやる! それが嫌なら背教するか改宗するかだ、仏教をおすすめする、南無阿弥陀仏、観自在菩薩、唱えてりゃ極楽にいけるんだやったねおめでとうこれほど楽なもんはないよ。何せ、きみの神様は、無能で小うるさくて何もできないくそったれな日本人のクソガキだからな! はははははッ」
ひゅうひゅう虫の息になりながら笑い、喉を酷使したせいでゲホッと噎せる。これほどの長文と小難しいことを捲し立てたことはなくて、なんとか全部言い切ったことにより英二はぷつりと糸の切れた人形のように、突如脱力した。
「え、英二
……
」
アッシュが名前を呼ぶ。きみのそんな顔と声を初めて見聞きしたな。
「
…………
っ」
オリバーがよろめいた。その顔は彼の世界が彼の神によって踏み躙られ崩壊し、何もなくなった(もとから何もないのだが、それに気づくにはあんまりにも唐突すぎたのだろう)無残な世界で感情と仕打ちに耐える顔だった。
「なんで、あんたは俺の、俺だけの
……
」
神様、と紡がれようとしたのを制する。
「僕はアッシュのものだ、アッシュだけのものだ。あなたは違う。あなたが信じた僕は、鰯の頭
……
日本の諺じゃ伝わらないのか、えーっとそうだな、コーラの瓶の蓋だよ。あなたの神様はコーラの瓶の蓋。偶像だよ。オーケーだな?」
英二はなんだかとても疲れていた。とても泣き出したい気分だった。こんなくだらないことで狂ったように喚き散らし、自分の我を押し通したことが情けなく悔しく、早く切り上げてしまいたかった。
「
……
と、いうわけで、これにより、第一回であり二度と来ない終末的宗教戦争を、終戦したことにする。僕は帰る。お邪魔しました」
脱力体勢から走者に切り替え、部屋を飛び出した。嵐のようだった。
アレックスたちはオリバーのアパートメントの前で所在なさげに佇んでいる。
今回の事情はおおよそボスから聞いていたし、彼の同居人に対する慮った秘匿癖を自分たちはきちんと守ろうとしていたが、つい英二をここに連れてきてしまった。
ボスの言いつけを破るだなんて天変地異を起こしているのと同然なため、そのボスではなく英二の頼みを聞くのはそれこそ驚天動地な出来事なのだが、もうここまできたらなるようになれという心意気であった。
尊敬してこの人だけに着いていこうと信頼し崇拝している自分たちのボスが、こいつだけは何に変えても守ろうとしている大切な日本人。
蔑ろになどできないだろう。アッシュにそこまで想われているくせに、アッシュだけではなくアッシュを取り巻くリンクスにも丸ごと親しみを向けてくれている、英二のことを。
「あっ、戻ってきた」
ボーンズが声を上げた。
中で何をしたのか見当もつかないが、きっと恐らく根拠もない、しかし絶対的な『大丈夫』を掲げてきたに違いねえ、さあ俺たちはボスに大人しく叱られようぜ、と三人心同じくしてエントランスに体を向ける。
自分たちの間を突風が吹き抜けた。
青色の風だった。背中に人を舐め腐った態度の鳥がいる、奥村英二という名の風だった。
「え、おい、英二!?」
ぐんぐん遠ざかって行く青色パーカーの後ろ姿に、目を白黒させる。
「おいおいあいつなんで走って、」
その時。
赤色の風が。
赤色よりは金色に目がいく猛然たる暴風が、青色のあとを追いかけて行った。
「
…………
」
アレックス、コング、ボーンズは立ち竦み、お互いに視線を交わす。
「帰ろうぜ」
誰ともなく言った。
うんうん頷き合い、こういうのをああ言うんだな、といつかあの日本人に教えて貰った言葉を思い浮かべた。
サワラヌカミニタタリナシ、だ。
最悪だ。
最低だ。
僕はとことんバカ野郎だ。
「う、うあ、うわあああ」
暗い空の下、横をびゅんびゅん走っていく車に負けじと駆け続ける。
街中を呻きながら疾走していく英二を通行人たちはぎょっとして見送り、そして十数秒後あっと驚く美形が必死の形相で追いかけていく様に更に目を剥いていた。
「エェジィイ! 止まれ!!」
はは、アッシュ、そんな目立つ真似していいのかい? 僕だって止まれるもんなら止まってるよ。
英二は走りたくて走っているわけじゃなかった。でも止まれなかった。マンホールの蓋が開いていたらそこに飛び込みたかったし仏さんが棺桶を明け渡してくれるならそこで眠りたかった。
はちゃめちゃに、やってしまった、と思っていた。
神様はくそったれだ。これに偽りはない。
神様な僕はくそったれだ。これも偽りじゃない。
くそったれな神様を信じるんなら覚悟を持って信じてくれ。神様は昔のきみが
――
幼いアッシュが
――
思った通りの存在なんだ。くたばれと罵られる存在なんだ。こういうようなことを伝えたかった。
伝えられていた、と思う。たぶん。あの男は幻滅していた、それは確かで、それだけは良かったように思う。
しかし、どうして、なぜ、自分は。
アッシュの頬にキスをお見舞いしてしまったんだろう。
自分がくそな神様として示すには行動するしかなくて、するとどうしても信者を一人に絞るしかなく、男がいきなり英二にしでかしてきた行為を『くそったれ』だと思わせる必要があった。だからアッシュの頬にぶちかました。ぶちかましてしまった。
「ううう
……
」
とめどなく目から水が溢れてくる。走っているせいだ。冷たい空気が遠慮なしに目にぶっ刺さってくるからだ。
違う。
だって、しんどい。
分かっていたことだけど、分かりきっていたことだけど、僕はアッシュを助けてあげられないんだ。天上の神様のように、いつでも誰かの心の中にいて、それなのに何もできなくて、何もしてあげられなくて。でも英二もアッシュもお互いが、きっと、ただただ傍にいるだけで満足しているんだ。ああ、神様、神様。
それ以上を望むのは、いけないことなんでしょうか。
アッシュは夢にも見ていないだろう。全てが、終わったら、どうか、ゆっくり、英二と一緒に生きられると。生きたいと、その選択肢を端からないものとして、今だけを英二とともにいたいと思いながら。だってアッシュにとっての神様は、見返りも求めず、彼を純粋に愛し、救い、傍にいる、そんな
……
そんな神様なのだ。そんなふうに見られていたのだ。
だというのに自分はどうだろう。
今だけなんて嫌だ。ずっといられるものだと思っている。もちろん自分の心は全て彼にあげてもいい、けれどできるなら、今のように手が触れ合える距離で、どこか平和なところで一緒に生きられたら。それを、彼が、心から望んでくれたらって。
素晴らしい神様だと思われている僕が、本当はこんなに欲深い思いできみの頬にキスしただなんて、くそったれにも程がある。
恥ずかしい。
腹立たしい。
分かってた。きみに喉へキスさせたことだって、つまりはそういうことだったんだ。
くたばってしまいたい。
じぐざぐに足が動くまま走り、走って、元陸上部の脚力と体力を遺憾なく発揮しながら走り続ける。立ち止まったらこの行き場のない感情が爆発四散して四体が粉々になってしまうに違いなかった。
「
――
英二ィ!」
後ろから大声が迫ってくる。
なんで追いかけてくるんだ。
きみが僕をまだ神様だと信じていようがいなかろうが、どっちみち僕はきみと一緒にいたいから、一緒にいるよ。くそだよね。
お願いだから、今だけ、放っといてくれ。
「ついてくるなよアッシュ、僕は今マグロと一緒なんだッ!」
「俺は、お前に、くたばれなんて思ったことは一度だってない!!」
泳ぎ続けることで酸素を取り込んでいるマグロだったら、この時英二は確実にゆっくりじわじわ酸素不足で死んでいた。
しかし英二は人間なので、走るのをやめたことにより不足していた酸素を取り込み、ぜえはあ言いながら振り向けた。
人の行き交う歩道、少し後ろで髪を乱し肩で息するアッシュが立ち止まり、真っ直ぐ英二を見据えている。こちらの塩辛い水と鼻水と汗でぐちょぐちょの顔を認めるや、「泣くなよ
……
」眉を下げきって情けない顔をした。
「泣いてない」
瞬きを忘れたぼやけた世界を映す目元をぐいと拭う。通行人が好奇の目とひそひそ話を生んでいる。だが互いの意識は互いにしか向いていなかった。
「泣いてないよ」
「ごめん、英二。謝るよ、悪かった。結局、お前を、傷つけた」
「泣くもんか」
「でも俺は、本気で、お前を神のように思ってるんだ。名前をつけるなら、それが一番近くて」
「誰が、こんなことで、泣いたりするもんか」
「あー分かった泣いてない、泣いてないなお前は! 泣いてねえよ!」
「そうだよ」
ぼとぼと水滴を垂らす両目を覆い、苦しい息を整えようとずるずる鼻水を啜る。こんなわけもわからず泣く道理がない。水が止まらない。なんてこった。泣いてる。泣きじゃくっている。自覚した途端かろうじて無事だった部分が完璧に決壊した。
「
……
僕は、神様じゃないと、きみと一緒に、傍に、いられないの?」
ひどい声だった。
人間の言語かも怪しい、これが果物だったら
酢橘
すだち
に分類されるくらい水分量の多い、ひどい音。
「そう、思ったんだよ」
アッシュが言う。
「俺みたいな人間の傍にいてくれるんだ、神様みたいだって思うだろ」
「思わない」
「俺は思ったんだ。
……
おい待て、逃げんな」
「逃げてない
……
」目をぐしぐし擦りながら、踵を返しとぼとぼ歩いて行く。
何を聞かされるのだろう。うんざりだ。言ったはずだ。信仰するかしないかは、アッシュであれば好きにしてくれていい。それでアッシュの精神が安らぐのなら、なんだっていい。
けどこっちにはこっちの我があるし、受け止める余裕を持たせてほしいし、とにかく今は冷静さがいる。
止まったままじゃ、くずおれる自信しかない。
「英二」
彼が追いかけてくる。少しの距離を大きな歩幅で詰められたことが、気配で分かった。
斜め後ろから話しかけてくる。
「聞いてくれ、俺は確かにお前を神みたいに崇められるし、命に代えても守りたい。信仰心に近い」
「
……
うん」
「けど、なあ、お前の言う通り、昔あの野郎が言った通り、俺が最初思ってた通り。神様がくそったれなもんなら」
「うん
……
」
「お前は神じゃないよ。英二は神様じゃない」
ぐず、鼻を啜った。
「なあ、英二、頼むから泣くか止まるか前見て歩くか、どれか一つにしてくれ」
「なんで」
「ぶつかるぞ」
英二は目を覆っていた指の隙間から、行く手を阻んでいたポールを視認し、よろよろ避けた。歩くのも泣くのもやめなかった。
あーくそ、アッシュが困ってぼやき、ヤケクソのように言ってくる。
「もう一つ選択肢があるぜ」
「なに」
「俺に手を引かれて、泣きながら歩くか」
「
…………
」
充分に酸素が送られていない頭で必死に考える。止まるのは、嫌だ。じっとしていることなんてできない。アッシュの話も聞かなければならない。涙が溢れ出ている。視界不良で歩けば被害者になるか加害者になるか。えぐっ、嗚咽が漏れた。
「
……
僕の手、涙と、鼻水で、べたべたなんだけど」
「気にしない」
気にしろよ。なんでだよ。普段のきみなら気にするだろ案外綺麗好きだし。
「握るか?」
「
……
アッシュが、
……
いいなら」
「英二がいいなら握るよ」
「きみは、いつも、そうやって」
「俺は握りたいよ。このまま歩くってなら、両手捕まえて先導してやるけど」
それは嫌だ。
英二は渋々左手を彷徨わせた。骨張った大きな手が、すかさず、割れ物でも扱うかのように包んでくる。べちょっと掌が合わさった。軽く、緩く、前に引っ張られる。英二は右手で顔を覆いながら、周囲確認をアッシュに任せて歩き続けることにした。
「べとべとでしょ、僕の手」
「俺も似たようなもんだ」
「うそつけ」
「ほんとさ。手汗で」
「うそだあ」
「銃持ったら滑って落とすレベルだ」
「うそつくな
……
」
「嘘じゃねえよ」
そんなおかしな話があるもんか。銃を扱えない英二にだって、彼の腕前がどれだけ凄いか知っている。走りながら正確に狙いを定める彼が、取り落とすレベルの手汗など、自分を追いかけてきただけじゃかかないだろう。
握る手に、少し力が加えられた。
「英二。あれが、お前の、考えなんだな?」
「
……
あれが僕の、神様に対する見解だよ」
「はは」
ほとんど吐息のような笑い声だった。
「そうだな
……
俺の傍にいてくれるから神様みたいなんじゃなくて、神だから傍にいるんでもなくて、お前だからだった。大前提があった」
「どういうこと?」
「お前が、ただの日本人の男、奥村英二だから、傍にいてほしいってことだ。簡単で決まりきってて最初からのことを、難しく考え過ぎてたんだ、俺は」
「
……
くそったれな奥村英二だよ」
「違う。神に対する恨みつらみと同じもんを、お前に向けたことはない」
「僕を神聖視するのはやめてくれ。僕を、何か、清いものだと思うのは、間違いだよ。僕は
……
」
「俺はお前に、救われてる」
「なに
……
」
歩みが止まった。
周囲はざわめきで満ちていた。車の走行音が近かった。重たい瞼を開けると、赤い光と信号待ちの人々と、ライトに照らされる金髪が飛び込んでくる。
アッシュは振り返りもせずに、英二の手をしっかり握り込んで言った。
「英二がいることで、俺がどれだけ救われてるか、お前には分かんないだろうな」
ひりひり痛い頬を、当然の如く涙が滑り落ちてく。
「お前が神様だろうがなかろうが、どっちでも良くなった。お前に傍にいて貰わないと困る。お前だからだ、奥村英二だからだ。アッシュ・リンクスは今まで通り、ただの日本人で同居人で仲間で友人で、
……
馬鹿みたいに幸せそうに笑ってる奥村英二の、傍に、いたい。いてほしい。
……
それじゃ駄目か?」
それは、つまり。
何もかもが、元通り、というわけだ。
ふざけきった宗教論争をもとからなかったことにして、英二とアッシュは、一つだけの名称じゃ到底説明しきれない、けれど何より大切な関係を続けていく。
今だけか、ずっとか、誰にも分からない。
アッシュはそれでいいと言ったのだ。アッシュの刹那的な考えと、英二の永久的な考えをそれぞれ抱えて今まで通りにあの部屋で過ごす。奥村英二に傍にいてくれと言うのはそういうことなのだ。一進一退もしていない、現状維持の、変わらない変わりたくない生き方。二人にとっては何ものにも代え難いもの。
「駄目じゃ、ないよ。
……
僕が、馬鹿みたいに、幸せそうに笑ってるのは」
英二は涙を拭った。鼻水を啜り、手を自分から強く握り直して彼の隣に並び立つ。
「きみの、隣に、いるからだ。傍に、いるから
……
幸せなんだ」
たとえば。
この先、繋いだ手が引き離されて、二度と合わさることがなかったとして。
その時自分はどうなるだろう。
隣にいた彼を想い、せめて心だけでも共にいると、しおらしく光から目を逸らすだろうか。傍にいないことを絶望し不幸だと嘆くだろうか。
英二は前を向いたまま、へたくそに笑ってみせた。
「でも、本当は、きみが幸せなら、なんでもいいんだよ」
アッシュも前を向いたまま、微かに笑ったようだった。
信号が青に変わる。ニューヨークの人々に紛れながら、二人並んで歩いて行く。
ああ、神様、神様どうか。
英二は願った。
何かしてあげたくても何もできない、人間の祈りを一身に受けて見守っているだけの、くそったれで可哀相な神様に願った。
神様。願いを叶えてくれるわけじゃないことは知っているんです。それでも、どうか、縋らせてください。
もし、彼が、あなたのことを好いていない彼が、どうしようもなくなってあなたの名を呼んだ時は。神様と口にした時は。
どうかその願いを聞き届けてください。祈りを受け入れてください。
お願いします。お願いします、
……
神様。
「英二」
「なんだい、アッシュ」
「英二はさ、くそったれな神様を、信じてるのか?」
「
……
信じてるよ。くそったれだけど」
「そうか」
「アッシュは? 僕じゃなくて」
「分かってる」
アッシュは言った。
横目でちらりと窺う。
「くたばれとは、もう言えないな」
お前が信じてるもんだからな、と。
複雑さも諍いも遺恨も諦念も垣間見えない、からりとした笑顔を向けられた。
英二も泣き晴らした顔で歯を見せて笑う。今はそれだけで充分だった。
街中のどこかには、偶像崇拝に利用された憐れな鳥の絵があって、それは英二が大好きなノリノリ鳥で、英二は一時神様として信じられていて、アッシュは過激な信徒だったけれど。
この街をゆく者には、全く関係のない話である。
泣き笑いをしている日本人と、仕方ねえなあというふうに笑っているアメリカ人が、どうして手を握って並び歩いているのか、誰も知ることはないだろう。
神様だけが、どこかの外側から、ニューヨークの人々を見ている。
そのうちの二人が、アッシュと英二だった。
それだけの、なんてことない話である。
Oh,My God!
――
神様っていうのは、くそったれなもんなのさ。
きみは知らないだろう?
神様は、もとから何もしてくれやしないんだ。ただ、私を愛し、私とともにいて、私の心をお救いする。
それだけなんだ。助けてはくれない。
病気の家族に薬はあげないし、暴力から守ってはくれないし、代わりに誰かを滅ぼすこともしないだろう。
でも私は知っているんだ。きみは知らないだろうが、きみだけの神様は、きっといる。きみが知らないだけで、いるんだよ。
もしかしたらそれは神じゃないかもしれない。ただ、その存在を知ってしまったら、気づいてしまったら、きみはどれだけの幸福を得ることができるだろう。
私を愛し、ともにいて、お救い下さる私の神様は、私から見てもくそったれだけれど、私はそれで構わないのさ。
神様は、くそったれなもんだからね。
それでも、こんなに愛しいもんなんだ。
なんてこった。
話をしよう。きみは疑っているんだね。
さあ訊くよ。訊くからね。
きみは、きみだけの神様を、信じているか?
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