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さもゆ
2024-11-14 22:53:09
46261文字
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【A英】Oh,My God!
※59丁目の高級マンションでの事件。アニメ準拠。英二がモブ(狂信者)に襲われます。
※実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
※チャイナ・ミエヴィルの『クラーケン』という小説に出てくる「エクス=ファッキン=キューズ・ミー」という台詞をアッシュに言わせたかったんです。(クラーケンでは「くそったれなお言葉を返すようですが」と訳されていました)
※他にもクラーケンをそこはかとなくオマージュさせて頂いています。
2019.1.14
2019.1.22
2019.3.2
たまごのお粥pixiv投稿作品
1
2
3
今まさに売女としてホテルの一室を開けようとした時だった。
自分の体で必要な情報を収集するのを手段としてしか思わないようにするには、たとえばスマホをマナーモードにするとか電源を切るとか、とにかく自分の人生に入り込んできた日本人の存在を閉め出しておくのが必要だった。
けれどその時、たまたま切り忘れていたスマホがポケットの中で通知を知らせた。アッシュは目の前の扉を見やり、そして小さく溜め息を吐いてから、スマホを取り出す。
アレックスからだったことに内心どこかほっとして、メッセージを開いた。
送られてきたのは写真だった。
撮影者の人影が覆う、薄汚れた落書きだらけの壁。『右下のあたりを見てくれ』拡大写真もある。
そこには、先日話題に上がった、人を舐め腐ったような態度のあの鳥が描かれていた。その下に文字がある。黒い色だった。
E.O,
you are my God
あなたは私の神様
I will meet you now
今からあなたに会いに行く
『E.Oって』現在進行形で送られてくるメッセージからは緊張が滲み出ているように感じた。背中がすっと冷たくなる。続く言葉を読む前に、アッシュは上着の裾を翻してエレベーターを待つのも惜しいと階段を駆け下りていた。握り締めた端末からマヌケな通知音が鳴った。『英二のイニシャルじゃないか?』
──違ったらいい。ただのイタズラだ。意味ありげな落書きなんてそこら中にいっぱいあるし、どこぞの信徒が書いた終末予定日だって尽く昔の年月日だ。英二のことを指しているわけがない。
まさかそんなわけはないという馬鹿馬鹿しさは、しかし自分の勘がいつだって悪い時に正しく発揮される経験と事実から笑うことなどできなかった。
「ボーンズ!」
ホテルから出たままの勢いで走り続け、タクシーを探す間に電話をかける。
向こうが何か言う前に怒鳴りつけた。
「今日はもういい、英二のとこに行け!」
もし何かあったなら自分が真っ先に駆けつけその何かを対処してやる意気だったし、何もなければ何もないふうを装って軽口を叩くつもりだったが、今や家となっている扉を開け飛び込んできた光景に、すぐ銃へ手が伸びなかったのは自分でも感嘆すべきだと思った。
散らばる悪趣味な薔薇の中、知らない男がこの家の住人を組み伏せている。
――
英二に乗り上げている。アッシュは首を僅かに傾げた。
「
Ex-fucking-cuse me
くそったれなことを訊くようだけど
」
一声かけるくらいには自分は冷静であったし、ここで生死の関わる暴力沙汰を起こせば自分たちにとってとても良くないことを充分承知だったし、英二の黒い瞳がこちらを捉え言い知れない安堵を宿したのも分かっていた。アッシュは冷静だった。
「あんたはうちの英二に何してるんだ?」
冷静に、どうやれば目の前の男を騒ぎにならずに殺せるかを考えていた。
「あ、アッシュ」
英二が自分の名を呼ぶ。その声に込められた様々な感情を察して、全身の毛が逆立つようだった激情が徐々に凪いでいく。殺しちゃ駄目だと言われたのと同等だった。分かってる。
「なあ、あんたは、英二に何してるんだ?」
男が振り向く。
薄青い色をしているくせに暗鬱とした目がこちらを向き、口を開いた。
「彼は俺の神様なんだ。きみは違うだろ? 邪魔しないでくれよ」
「ハッ、なるほど。話が通じないんだな」
頷き、足を振り上げ、男の頭を蹴り飛ばす。
重鈍い音が響き渡り、人形のように壁際まで吹っ飛んだ男がぴくりとも動かなくなったのを確認し、放心している英二の前に跪いた。
「大丈夫か、怪我は」
「あ、ええと、ううん」
倒れ伏した男を気にしているらしい英二の顔を掴んで自分だけに向かせたい衝動を抑えながら、乱れた黒髪に手を伸ばした。
「気絶してるだけだ」
本当はすぐにでも殺してやりたいけれど。
「助けない方が良かったか?」
「
……
きみって意地悪だ」
睨まれる。起こしたその体は僅かに震えており、アッシュは伸ばした手を下ろして握り締めた。
「悪い。
……
少し、気が立ってる。だってあいつ、お前を、襲ったから」
「ううん、僕もなんか、びっくりしちゃって
……
ほんとに、びっくり仰天て感じ。助けてくれてありがと、ヒーローみたいだったぜ」
そう言って笑う英二は、震えてはいてもこんな状況でなければいつも通りに見えた。
「何があった?」
「ええっと
……
」
英二は先程からしきりに首を触っていた。指の腹や手の甲で擦るように何度も。
そうして気づく。細くはなくともすぐに誰かに折られてしまいそうな首筋に、微かに赤い痕がついているのを。
ガチャリ。背後のドアが開いた。
「えっ、なんで開いて──ボス!」
ボーンズとコングだった。中の惨状を目を白黒しながら見やってから、明らかに犯人であろう男を剣呑な目つきで睨みつけている。
「
……
そいつをドアマンにでも引き渡しといてくれ。不法侵入しようとしてたって」
それが最善だった。
忠実な仲間である二人は答えると、気絶している男を運び出して行った。
あの二人には感謝しなければならない。
もし来なかったら、確実に男を死体にしていた。
これくらいどうということはないし、こんなことで一々参ったりしないほど自分の精神力は日本にいた頃よりずっと強いと思っているのだが、体の方はどうにもまだ怯えているようだった。
いや、違うか。ちらりと前に座るアッシュを見る。
英二はソファに足を乗り上げ、肩からかけていたブランケットに全身包まった。
事のあらましを話している間、彼は身動ぎもせず聞いていたが、その瞳は怒りで激しく色を濃くしていた。
怒られるだろう、と思って、少し身構えているから、体がびくついているのだ。英二は先手を打とうとした。
「あの、アッシュ、さすがに、僕が不注意すぎた」
よく考えれば、そうなのだ。
「ごめん、迷惑かけて。もっと確認するべきだった」
伊部からだと思い込んで自分から情報を与え、挙句部屋に押し入られたのだから。完全に自分の落ち度である。
でも、と言い訳じみたことを胸中唱える。
でも、だって、あんなことになるなんて。
誰が宅配業者を頭のイカれたカルト野郎などと思うだろう。
あんたは俺の神様なんだ。耳の奥で再生された声にぞっとして首を撫でた。
「お前は悪くない」
何かを抑え込んだ声音だった。
「お前は悪くない。
……
確かに、不注意なとこはあるけどな」
「ごめん」
「謝るな」
あの人はなんだったのだろう。
初対面だった。初対面で、英二を神様として盲目的に見ていた。わけが分からない。詰め寄られている最中は混乱と恐怖から逃れることしか頭になかったが、こうしてじっと思い返すと気味の悪さに支配されそうだ。
「笑っちゃうよな。僕を、神様だって。そんな宗教知らなかったや」
笑って言えている自信はなかったが、笑い飛ばしてやりたかった。
アッシュが腰を上げ、隣に座り直すとスマホを差し出してくる。
「何?」
「アレックスが見つけた。だから素っ飛んで来れたんだ」
画面に映っている写真に眉根を寄せる。ノリノリ鳥と、簡単な英文。「E.Oって、僕のこと?」「だろうな」「
……
犯行声明残すなんて馬鹿なやつ」これがなかったら自分は一体どうなっていたことだろう。
「ノリノリくん
……
こんなことに使われて可哀相だな」こちらは本音で、心から同情と悔しさを込めて言うと、隣の気配が幾分か和らいだ気がした。
「ボーンズたちは?」
「調べさせに行ってる」
「落書きを?」
「男のこともな」
「そっか
……
」
会話が途切れ、ブランケットに鼻先を埋めた。
アッシュってば、どうしちゃったんだろう。
てっきり頭ごなしに怒られて、自分はむしろそれを望んでいて反省したらこの件を仕舞い込むつもりでいるのに。普段なら、怒るか、嘆くか、からかうか、何か言ってきそうなものなのに。
アッシュが玄関に散らばった薔薇の花をくしゃくしゃに潰してゴミ箱に入れていた時は、閻魔様もかくやというほどだったし、ソファに座ってじっとしている英二にブランケットを手渡してきた時は、こっちが心配するほど何かに耐えている様子だったのに。
どうして何も言わないのだろう。
やっぱり、彼の目の前で、男に襲われかけるというのが、マズかったのかもしれない。英二はアッシュのいかなるトラウマも呼び起こしたくなかった。
悲しい沈黙がたっぷりと広がった頃、ようやく隣の彼が口を開いた。
「昔、いたんだ」
「
……
何が?」
「俺がまだ、客に対して叶わない抵抗してた頃に」
アッシュを見た。彼の視線は伏せられていたが、目は鋭く過去を見ていた。
「変な客がさ。服装も顔も覚えてねえけど、神父か牧師かと思ったんだ。そいつは、俺に何もしないで、『きみだけの神様を信じているか』と訊いてきた」
先日の、アッシュにしては突飛な質問をしてきたことが思い返された。
「
……
なんて答えたの?」
「くたばれってね。今も思ってる。そんなもんがいたら、俺はもっと、
……
こうはならないはずだろ?」
「うん
……
」
「ずっと忘れてたんだ。つい最近、夢に見て。他にもこんなことを言ってた。『知らないだけで、きみだけの神様はいる』『私にもいるんだ。私を愛し、救け、傍にいる
――
』
……
もしかしたら、そいつは」
「奥村英二教の開祖様だって?」
アッシュが振り向く。視線がかち合い、二人は同時に噴き出した。けらけら笑い合う。なんだ、奥村英二教って。自分で言っていてあまりのおかしさに臍で茶を沸かせそうだ。奥村英二という人間を神様として崇め奉るくらいなら、ダイオウイカの標本にひれ伏した方が余程厳かだろう。
くつくつとした笑い声が途切れ、二人は押し黙ると、互いに見合した。
「
……
あながち間違いじゃねえかもな」
アッシュの真剣極めた態度に、「まさか」肩を竦めてみせるが喉がひりついて掠れ声しか出なかった。
「あの客が『自分だけの神様』を信仰する宗教を開いてても、おかしくない」
「その宗教に入信して、さっきの奴は僕を神様として思い込んじゃったわけ? 僕はあの男を知らないのに?」
「お前はキリストに
……
ブッダに会ったことがあるか?」
「ないに決まってる」
だから見知らぬ男が自分を信仰しているのが有り得ると?
でもそんなことを言ったら、この世の全てのものが神様になってしまうではないか。
神様、なんて。神社の向こう側にいるか教会の祭壇におられると思われている、実際いるかいないかはどうでもいい、信じて人の心が軽くなるための人間以上の存在のことだと、その程度のあやふやな認識なのに。何かに対して敬虔な信徒ではない自分には理解できない。一方的に知っている生身の人間を己だけの神様だと信じ暴徒に出る行動は、ストーカーとなんら変わらないだろう。むしろストーカーと呼んだ方がカルト絡みじゃない分マシな気さえした。
「あの野郎にとったら、お前は唯一無二の神だったんだろ」
「僕は神様じゃない」
「人の数だけ神がいるって教えなら、日本的なんじゃないのか?」
「僕は神様じゃないって言ってくれよ」
「英二は神様じゃないよ」
アッシュに言わせた言葉に深く頷き、「だからあいつはおかしいんだよ」思いのほか拗ねた口振りになったのを自己嫌悪する。アッシュと自分に隔たりがあるような気がしてならなかった。隣にいる彼があの男の味方とはいかないまでも、少しばかり肩を持っているような、有り得ない感覚を抱いたことに酷く自分が嫌になった。英二は無意識に首を撫でた。アッシュが視線を逸らす。
「それ、」
「ん?」
「首の。
……
大丈夫か」
「全然平気さ」
平気なはずなのだ。
だと言うのに触っていたことに気づき、気まずくなって頬をかく。自分が思っている以上に男にキスマークをつけられたことを気にしているらしい。鏡でも確認したが、それほど目立たない虫刺されみたいなものである。何をそんなに。アッシュの前で気に病むのは、もっと惨いことをされてきた彼の前で被害者面するのは、恥ずべきことだ。
しかし、喉仏に触れ吸いついてきた唇が憎たらしく、それを許してしまった自分が情けなかった。
アッシュの時もそうだ。刑務所で、困惑している間にキスされていた。でも彼の場合は信頼していたから突然の距離感に嫌悪なんて感じるわけなかったし、近づいてくる顔が綺麗過ぎたのも原因だから、男とは比べようもないが。アッシュにされていたらこんなふうに鬱々とした気分にならないだろう。
なるほど、そういうことか。
英二の靄がかった思考がぱちんと晴れた。
「なんかさ、」
膝に頭を乗せ、アッシュを見る。
「ファーストキスはきみだったのに、キスマークがああいう奴だったのが、気に食わないのかも」
「
……
は?」
「うん、きっとそうだ。アッシュだったらなあ、良かったのに」
本当に。
アッシュだったら良かったのにな。
信じられないものでも見るような目を向けられるも、取り消しはしなかった。「お前はゲイなのか?」と引いた顔で言われたら、否定するけど。否定したところで説得力のないことを言い放ったのは薄々分かっている。しょうがないじゃないか、本当に本気でそう思ってるんだから。別に乙女心とか初めては同一人物で統一したい潔癖な質だとか、そういうことじゃなく。
ただただ、同性にキスとかキスマークをされるなら、アッシュじゃないと。
……
アッシュじゃないと?
そう、嫌なのだ。友人だけど。友人なのに。
からかいも何も口にせず黙り込んだアッシュに、閉口させるほど気色の悪いことを言ってしまったのだと申し訳なくなる。謝ろうと最初の一音を言ったところで、「なら、」彼が言った。「俺が、触れても?」
「え?」
「痕だよ。つけてもいいのか?」
緑色の瞳はどこまでも深く、そして何かしらの感情を宿していたが、英二にはそれがなんなのか、ハッキリとは分からなかった。
「ええと、」
ぱちくりと瞬きする。
言われた言葉の意味を考え、理解しようとし、「えっと」意味は分かるが何故その提案をしてきたか動機が知りたかった。
「なんで?」
「俺だって気に食わないんだ」
「な、なにが?」
「お前に、
……
お前が認めてない奴が、キスするのを」
それは、それは一体どういうことだろう。
自分に置き換えて考えてみる。
一も二もなく嫌だ。気に食わない。やめてくれと思う。アッシュが、彼の認めていない人に無体を強いられるのは、嫌だ。ずっと思ってる。
同じことなのだろうか。同じなのかもしれない。自分たちはお互いを大切に思っているから、
……
でも、それじゃあアッシュの気持ちは? 僕の傷心のせいで彼の優しさに甘んじて、彼にとって作業でしかないキスをさせるのか?
「駄目だよ」
それは許してはいけないことだ。
「僕だからって、そういうこと、軽々しく言っちゃ駄目だよ」
「どうして?」
「だって、
……
したいわけじゃないんだろ?」
「英二はされたくない?」
「僕は
……
さっきも言ったけど、きみになら、」
「俺は」
長い指先がすっと伸びてきて、英二の首に触れないギリギリのところで止まる。
「お前を傷つける奴は、どんな相手でも許せない。もっと、早く、気づいてたら。お前にこんな汚い痕がつけられずに済んでた」
許しをこうようだった。
「消してやりたい。他の誰でもない、俺がしたいんだ。
……
お前がいいなら」
成人男性のキスマーク一つで、と思うべきところかもしれない。小さな薄い痕一つで、自分たちはこんなにも思い詰めてしまう。英二は、触れずに伸ばされているアッシュの手を取った。
「僕は、アッシュにしてほしい」
「
……
いいのか?」
「いいよ。きみに、してほしいんだ」
手を握り返される。
空いた手でブランケットを下ろし、隣と向き合うように姿勢を正した。
じっと見つめられ、見つめ返す。身を乗り出すように距離を縮められ、アッシュの顔が首に近づいた。視線を落とすと金の髪が一本一本鮮明に見えた。
首に吐息がかかる。握ったままの手にきゅっと力をこめ、「あ、あの、」上擦った声が意志とは離れたところで飛び出す。「何?」「は、恥ずかしくなってきた」「我慢しろよ」どうやってっ?
羞恥をなくす方法を模索するより早く、後頭部に手を差し込まれ頭を上向いた形で固定される。自分から言ったのだから、いくらなんでも怖気づくのは情けなさすぎだ。ええいままよと瞼をぎゅっと閉じた。
痕をつけられたところと全く同じ場所に、かさついて熱を持った唇が、触れた。
カッと体が熱くなる。頸動脈をかき切られたかと錯覚するほど、心臓が急速に鼓動を打ち始め、このまま死ぬかもしれないと思った。
「
……
ぁ」
唇を押しつけられ、軽く吸われた。びくりと強ばった体を宥めるように手の甲を撫でられる。襟足のあたりもくしゃりと混ぜられた。「
……
アッシュ、」唇が離れ、また押しつけられる。今度は少し濡れていた。舐めたのかもしれなかった。
どうしよう、と更にきつく瞼を閉じる。どうしよう。これは、予想以上に、想像以上に、恥ずかしいし、あれな気分になってくる。あれってなんだ。やっぱりアッシュは自分にとってかけがえのない存在なのだ。じゃなかったら、男同士でこんなことして、平気なわけがない。別の意味で平気じゃないけど。アッシュは、
……
アッシュはこんなにドキドキしていないだろう。そうに決まってる。ちくしょう小憎たらしい。
何度も、何度も。本当に消してくれようとしている口づけは、一際強く吸いついたあと、痛みもないままに止まった。
目を開ける。眼前に緑の瞳があった。
「
……
できた?」
「できた」
鏡でも持ってきてやろうか、と腰を上げかけたアッシュの、その離れた手の人差し指を咄嗟に掴んだ。
「
……
何?」
「あ、あの」
手を離し、そのまま自身の首にやり、痕がついているだろう場所に触れる。充分だ、充分だろう。
そもそもキスマークをつけられずとも、アッシュにあの男の上書きのように触れられただけで、満足しているはずなのだ。更に言えばもとは怒られることを予想して、そしてそれを受け入れるはずだったのに、どうしてこうなっているのか。原因は自分である。
「ここ、も」
喉仏を、人差し指で擦る。
「キス、して、ほしい。あいつにされた、から」
我儘が過ぎる。おかしい。彼の優しさと罪悪感を利用してる。
けれど、でも、だって。
意味の無いあらゆる言い訳を心の中で巡らし、それの一節も出てこないため口を閉ざす。反対にアッシュは口を開き、何事かを言おうとした様子だったが、結局何も言わずに座り直した。
そして英二の項に手を回すと、引き寄せて首の出っ張り──喉仏にキスをした。
「やっ」
熱くてぬるぬるする舌で、べろりと、形を確かめるみたいに舐められた。
「あ、あ、アッシュ」
十秒にも満たない行為だったのに、他のどの時よりびっくりして、顔を離したアッシュを視線で追う。アッシュの目は英二の首に向いていた。項にあった手が前に降りてきて、首筋をなぞられる。それからパッと離すと、「すっかり気分いーな」ニヤッと笑った。
「あり、ありが、ありがと」
「ん。鏡いるか?」
「あ、いや、携帯で、いいや」
「
……
なるほど」
テーブルに置きっ放しにしていたスマホのカメラモードを切り替え、確認すると、じわじわ足の爪先から上ってきていた幸福が、胸を満たし頭のテッペンまで上り詰めた。
男によってつけられた小さく薄い痕は、アッシュによって赤くかき消されている。体に纒わりついていた薔薇の芳香も男の視線も声音も、全てが晴れていく。
表情筋がへにゃりと溶けた。
携帯を伏せ、様子を見ていたアッシュに笑いかけた。
「僕もすっかり気分いい。アッシュだけだな」
「
……
なんだそれ」本当にもしかしたら、彼も照れているのかもしれない。
「なんかさ、首のキスマークで死んじゃうことがあるらしいんだけど」
「ああ、血栓と脳梗塞がどうたら
……
」
「そんな死に方するなら、アッシュにつけられたやつじゃないと、嫌だな、僕は」
そりゃ死にたくはないけど。
そういう死に方をするなら、アッシュにして貰ったやつじゃないと、死ぬに死ねない。
「わっ」
アッシュは無造作に英二の髪をくしゃくしゃにした。
「友だちがそんなおマヌケに死ぬの嫌だぜ、オニイチャン」
あ、やっぱり照れてるんだ。
ぐりぐり撫でてくるせいで垂れ下がってきた前髪から覗き見た彼の耳は、ほんのり朱を帯びていた。
かわいいやつ!
自分の顔の熱さを思えばからかえないが、英二は嬉しくなって頬を綻ばせたのだった。
英二が持ち前のお気楽さと寛容さでこの事件を「まあこんなこともあるだろう」と特に深く考えず片付けた一方、アッシュは決して問題を隅に置いたりはしなかった。
彼の手前穏便にしていたが、自分たちの家の扉を開け目にしたあの光景は忘れ難く、そして思い返す度に腸が煮えくり返った。男を自分たちの痕跡も残さず警察に突き出す術を考えたが、それだとあの男は英二のことを神様として信じたままだろう。そんなのは、耐えられない。英二はあいつの神様じゃない。たとえ男の頭の中ではそうであっても、自分にとっては、違う。
英二にとっては、ではなく、アッシュにとっては、と自然に考え至ったのに驚愕し、怯えると同時に酷く納得した。
自分の傍におき、赦されればずっとともにいたいと思い、この人だけは何がなんでも守ろうと思う相手が神様ならば、本当に彼はアッシュにとっての神様なのだ。神様を信じているか? 英二なら信じられる。そうして神様である彼は少なくともあの狂信者より自分を選んで隣にいてくれている。それに気づいた時、幼い頃と夢に出てきた男へ放った台詞を取り消そうと思ったのに加え、やはりあれは「誰か一人でも心許せる者がいれば幸せである」という一般的な素晴らしさを説いているのではないと思った。
自分だけの神様を、他の者が信仰していた場合、何が起こるだろう? どちらかが譲れなければ、起こるのは宗教戦争だ。
アッシュはその日から、BANANA FISH関連のことを進める傍ら、男や男が入信しているかもしれない宗教について徹底的に調べていった。英二には言わなかった。気味が悪いだろう。同居人が自分を信仰し、神敵を倒そうと画策する様は。
Oliver Clark
オリバー・クラーク
。それがあの男の名前だった。26歳、現在は会社員として働いている。犯罪歴も病気もない潔白な身の上で、ニューヨークの表に違和感なく混ざることのできるただのアメリカ人。
だが、少しつつけば、男が何故自分だけの神様を創り上げ強硬に出たのかを察せた。
男は敬虔なキリスト教一家の出だった。父親は小さな教会の牧師をしているが、しかしどうやら現在オリバーは家族とは絶縁状態らしい。
家族に信仰を強制し、自我を失う信徒も少なくはない。オリバーの家族も大方それで、彼はほとほと嫌気がさしたのだろう。そこで何を信仰してもいい宗教があれば、確かに狂信的にもなるかもしれない。いいだろう。勝手にしてくれ。その自由な信仰対象が英二でなければ、気にも留めやしないのだが。
アレックスらリンクスメンバーにも手分けして貰い得た情報で、有力なのがある。
この街には、こういう人間が他にもいる。
英二は、アッシュが自分に隠し事をしながら生活しているのを知っていたし、英二が知っていることを承知な上で彼が隠し事しているということを更に知っていた。それは大体いつものことで、本当は彼の抱えるもの全て知りたいと思ってはいるが、言いたくないことを無理に訊くつもりはなかったのである。
しかし、今回ばかりはそうも言っていられなくなった。
家に集まったリンクスの仲間たちに飛ばす指示の中、たまたま『
Religion
宗教
』という単語を耳にしたのだ。その時は何も言わず気にもせず差し入れのコーヒーを配ったあとすぐ部屋に引っ込んだのだが。
宗教? 水に絵の具を落としたように、一抹の不安が広がった。
その時点であれから
――
配達員カルト事件から
――
五日経っていた。二日過ぎた時点であの時覚えた全ての違和感を見て見ぬふりして過ごした上、自分だけの被害だったから、どれだけあの男がおかしな言い分をしていたとてこれ以上突っ込む気はなく、後々笑い話になるだろうとさえ思っていたのだ。
アッシュは違ったのか? 薄ら寒くなる。
彼は本気であの男の言うことを信じ
・・・・・・・・・・・・・・・・
、
腹を立てたのか
・・・・・・・
?
それで宗教について調べようと? 彼が英二を大事に思っているのを知っている。英二が招いた面倒事であることも。だがドアマンに顔を覚えられたあの男がまたこのマンションに踏み入ることはないだろうし、街に行く時だって一人の時間はない。恐らく、たぶん、あれっきりの事件を、わざわざ調べる必要はあるのだろうか。彼にはもっとやりたい、やりたくなくともやらねばならない劇薬の事情があるというのに?
だから六日目の昼、食事を終えたアッシュが出かける旨を伝えてきた時には、堪らず不安を全面に押し出して訊いていた。
「
……
教会にでも行くんじゃないだろうな」
アッシュはちらりとこちらを見やり、ははんと鼻で笑う。
「なあに、オニイチャン。俺がクリスチャンとでも? 残念なことに今日は日曜日じゃないからな、ミサはないぜ」
「ふざけないでよ。ねえ、アッシュ」
食後のコーヒーを飲んでいる彼は、手元の新聞に目を落としていた。「こっち向いて、僕を見てよ」ばさり、新聞が捲られる。英文を読んでいるのか怪しい伏せられた緑色の目を、窺うように見つめ続けながら、英二は構わず続けた。
「きみさ、なんか、変だったよね。あの男を追い出したあと、なんだか
……
うまく言い表せないけど、何か思うことがあったんだろ? ごめんね、まだ怒ってるんだったら、」
「怒ってねえよ」
目を合わせてもくれないのに?
英二は諦めてそっと目を伏せ、両手で包んだ温いマグカップを心許なく握った。暖は取れそうにない。
「僕に、直接関係ないことを、教える義務は、そりゃないけど」
もし、彼が。あの男に関わろうとするならば。
「僕のために何かしようってんなら、その時は、教えて欲しい。それが危ないこととかなら、尚更」
自分は止めなければならない。
思い過ごしなら万々歳。深読みし過ぎたと謝る。しかし本当にアッシュが自分に黙ってあの男、及び男が属しているかもしれない教団・宗教について行動を起こそうというなら、英二は踏み込めない彼の領域に無理やりにでも介入し制止するつもりだった。
宗教というだけで悪いイメージを持つのは偏見だ。この世の中、目に映らない神を真実純粋に信じ崇め祈り、誰の迷惑にもならない信徒などたくさんいるだろう。それだけじゃなく、バチカンの教皇や日本の天皇がどれだけ尊く、国民にとって神的に在られるか。生きた人間を崇敬するのは何もおかしなことではない。それが英二でなければの話だ。
偶像崇拝にも程がある。英二は神様ではないのだから。それを自分と彼が分かっていれば、充分なのだ。あの男が犯罪行為を重ねるならアッシュに任せるしかないが、ただカルト的な深みを探ろうとしているならばお願いだからやめてほしい。人の心を壊す劇薬がなくても、人は人を操れるということを日本人は記憶として知っている。だから宗教は危ないという偏見を持ってしまう。
「英二」
呼ばれて、アッシュを見る。新聞を広げたまま、その目はしかと英二を捉えていた。
「さっきのは嘘だ。俺はまだ怒ってる」
「
……
もう絶対、容易にドア開けないようにする。誓うから」
「そうじゃない。あいつにだ。
――
オリバー・クラーク」
調べたんだね。英二は驚かなかった。
「
……
どうして怒ってるんだい。僕がきみの立場でも、確かにぶん殴ってやりたくなるけど
……
」
「嫌なんだよ」
「何が?」
「あの野郎がお前を唯一無二の神様だと信じ切ってることが」
どうして。
誰が僕をなんと思っていようと、きみには関係ないじゃないか。きみが思うままの僕なんだから、そんなの、なんだって。
英二はぐっと押し黙った。なんと言えばいいか分からなかった。何を言ってもこれから彼がしようとしている何かの前では無力な気がした。
「
……
僕は、神様じゃ、ないよ」
神様だったら。
絶大で超自然的な御業を気の向くまま使える神だったら、きみをあんな世界でひとりにしなかった。自分は、ちっぽけで、甘ったれで、大事な友だち一人攫って救い出すこともできない、ただの人間で。きみはそれを、誰より分かっているはずなのに。
「英二は、神様だよ」
「
……
冗談はよせよ」
いつもと変わらない真昼のひと時であるかのように、アッシュが新聞を折り畳んで席を立った。「冗談ついでにもう一つ」椅子にかけてある上着を羽織る。
「敵情を知るために一番有効なのは潜入することだ。何より危険は高いけどな。じゃあ、それが宗教だった場合は?」
「待ってよ、何言って
――
」
唇に人差し指を当て、アッシュが言った。
「入信するのさ」
手っ取り早いだろ? 片目を瞑り、そうして彼は部屋を出て行った。
取り残された英二は、さっきまでアッシュが座っていた椅子を茫然自失と見ていることしか、できなかったのである。
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